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行く年の終盤の計画

原節子の訃報が新聞に載っていた。彼女の言明を挙げて、「一度も楽しいと思ったことがない」映画出演からの引退と、彼女の映画を見たものならそんなこと信じられないと書く。大きな目、特徴的な鼻、高いおでこと、この手の「美」をもった女優であるクレタ・ガルボやイングリッド・バークマンにいつも付き纏う「自立」とは違って、その柔らかさが特徴だったとする。その笑みこそが、深い痛みから張り裂けそうな感情までを表現していたとある。

そこで小津作品の「東京物語」と同時に、黒澤の「我が青春に悔いなし」を代表作に挙げる ― もちろん日本の新聞のようにアーノルト・ファンク作品には言及しない。

今回の訃報を受けて、「もののあわれ」と、黒澤作品「夢」に描かれる「ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。」と詠む。

日曜日は予報通り朝から雨勝ちだった。早めに窓を見たが雨音がしていたので再びベットに潜り込んだ。そのあと雨が止んでいたが、地面の濡れ具合を見て、山登りを断念した。三週間続いた皆勤はこれで一先ず切れた。週明けには久しぶりに峠登りコースを走りたい。

そうしたなかでも広場ではアドフェントの催し物があったようだが、寒いので窓から顔を出して確かめることもしなかった。今年の気候は例年とは異なるので、この辺りの風物感も少し違う。

火曜日には週末に発注した換気扇のフィルターなどが届く予定だ。年内大掃除は、クロゼット周りと、油落としを注文したので台所上部、換気扇ぐらいか。オーヴンは丁度一年前に修理して掃除したので、今年は我慢しよう。先日、新たな家具・床磨きで階段や机は大分綺麗になった。ドアーとソファーなども少し手入れが必要だ。



参照:
Tragödie eines Lächelns, Japanische Schauspielerin Setsuko Hara gestorben, Andreas Kilb, FAZ vom 28.11.2015
甘酸っぱい野いちごの風味 2010-09-01 | 文化一般
面白さの醍醐味への見識 2015-11-27 | 文化一般
悪夢の特命潜入員 2005-09-01 | 雑感
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by pfaelzerwein | 2015-11-30 21:10 | | Trackback

索引 2015年11月


ネットでの記録を吟味する 2015-11-30 | 音
ナチスの情報統制術イロハ 2015-11-29 | マスメディア批評
無線マウス二年半の実力 2015-11-28 | 雑感
面白さの醍醐味への見識 2015-11-27 | 文化一般
ナイフエッジ、真実は何処? 2015-11-26 | アウトドーア・環境
再びの水漏れそして初凍結 2015-11-25 | 暦
音楽ジャーナルの高忠実度 2015-11-24 | マスメディア批評
処女雪の山を走り廻る 2015-11-23 | アウトドーア・環境
ヘテロセクシャルな胸声 2015-11-22 | 女
維新への建前と本音の諦観 2015-11-21 | 歴史・時事
仏の宣戦布告への懐疑 2015-11-20 | マスメディア批評 TB0,COM2
任せておいてはいけない 2015-11-19 | 生活
今後の進展を見守りたい 2015-11-18 | 雑感
お目当ての録音をDL 2015-11-17 | テクニック
吹き清められた足元 2015-11-16 | アウトドーア・環境
13日金曜日の情報錯 2015-11-15 | 暦
変遷と過渡期を想う 2015-11-14 | 雑感
覚え書きのその時 2015-11-13 | 雑感
データベース化すべき怪我 2015-11-12 | テクニック
ヒトラー革命と総ミュンヘン 2015-11-11 | 暦
中立エコ試験の一覧表 2015-11-10 | テクニック
シーズン初めの半袖半ズボン 2015-11-09 | アウトドーア・環境
狙って、使い熟す技能 2015-11-08 | テクニック
八秒と長めの露光時間 2015-11-07 | 生活
CO2排出規制破局事態 2015-11-06 | 歴史・時事
室内で効率よい洗濯干し 2015-11-05 | 生活
バイパス道路区間閉鎖中 2015-11-04 | 雑感
書くことの意味は大きい 2015-11-03 | 文化一般
時針が外れた万霊節 2015-11-02 | 暦
ストリーミングいろいろ 2015-11-01 | マスメディア批評

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by pfaelzerwein | 2015-11-30 17:56 | INDEX | Trackback

ネットでの記録を吟味する

ヒトラー誕生日祝祭のフルトヴァングラー指揮第九演奏会ヴィデオを観ていると、日本の外交官風の顔が写っていた。最前列にはナチスの最高幹部が陣取っていて、前の方の席を確保しているアジア人は大日本帝国の在ベルリンの外交官としか考えにくい。まだ若そうなので、戦後に官僚としてもしくは政治家として活躍している筈だ。

あれよあれよという内にクリスマス前のミュンヘン訪問が迫ってきた。資料集めの録音のコピーばかり探していて、楽劇「ジークフリート」の勉強が出来ていない。楽劇「神々の黄昏」へ繋がるそれを把握しておきたいと思っているのである。

バイロイト祝祭劇場の2013年の公演の録音の一部も見つかったが断片しかなかった。それでも三年間の公演での推移はある程度把握できた。それに2013年のローマでの演奏会録音を重ねると、キリル・ペトレンコ指揮の次のような傾向が分かった。

ヴァークナーの管弦楽を楽譜通りに正確に音出しすることで、イタリアでのそれのように突拍子も無い管弦楽バランスで演奏されていて、とてもちぐはぐな印象の傾向が、2013年のバイロイトでも幾らかは起こっているようだ。しかし年を追うごとに完全にはまる様になっていて、2015年には管弦楽のアンサムブルは十分に録音できる水準にまでなっている。

そして、2015年にミュンヘンの劇場で演奏されたときには最後の二つの楽劇においては、通常のオーケストラピットではこれまた飛び出す音響が指摘されていて、もう少し修正されなければいけないという評があった。それは、ある意味真実であり、ある意味これら楽劇がバイロイトの深く屋根のあるピットで演奏されることを前提として作曲されている事実をも考慮しなければいけないということである。作曲家自身は、そうした音響上の指摘に対して、「大丈夫だ」と笑って答えていたのである。

いよいよ12月の「神々の黄昏」再演が気になるところであり、ミュンヘンの劇場がシュトラウスの楽劇と並んでこれらを十八番としているとしても、本当にそこで最後の作品が満足できるバランスで演奏されえるのかどうか。

2014年の録音を聞き、記憶を辿ると第一夜「ヴァルキューレ」が明らかな谷であり、2015年には完全にそれを克服していて、寧ろ山になっていた感すらがあるのを実感する。それに反して2015年は第二夜「ジークフリート」が谷になっていて、特に第一幕は具合が悪い。流石にこれだけの才人でも、舞台の上と奈落の両方を完全に掌握するのが難しいのは、協奏曲演奏の場合と似ているのだろう。

そして第二幕のアルベリヒ役のドーメンの歌のはじまりから徐々に上手く運ぶようになってくる。ドーメンのアルベリヒと三年目のコッホが歌うさすらい人の場面を除くと、明らかに2014年の公演の方が成功している。なるほどジークフリートを歌ったヴィンケは評判が良かったのだが、とても悪かったライアンとは全く違ってあまりにも不感症な歌唱で、第一幕などでは管弦楽団との相乗効果に至っていない。とても反応が鈍く、あまり融通が利かないようで、これまた2014年のウルリッヒの歌ったミーメとは比較にならないミーメの歌唱とともにとても悪い結果になっている。



参照:
音楽ジャーナルの高忠実度 2015-11-24 | マスメディア批評
高みの環境への至福の処 2015-08-15 | 音
ナチスの情報統制術イロハ 2015-11-29 | マスメディア批評
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by pfaelzerwein | 2015-11-29 19:45 | | Trackback

ナチスの情報統制術イロハ

予想以上に面白かった。昨年撮影された、バイエルンとオーストリアの放送協会の共同制作映画「馬の背を分ける真実 ― ルイス・トレンカー」である。ドイツ語には尾根を行き来するという言葉があるが、それに近い意味だ。南ティロルとその独立運動をどうしても意識させる主人公の生まれ故郷やそれらの谷の文化である。

1990年ボルツァーノで97歳の一生を終えるようだが、ハンガリー・オーストリア二重帝国に生まれ、ナチスの下で映画を制作して、終戦後は北イタリアから「物語師」として活躍した人物を通して、ティロルも同時に描かれる。そこで描かれる政治的な視界こそが、馬の背からの風景なのだ。

そのような背景から歴史文化的な映画も制作しているようであるが、ここで描かれる人物像は、レニ・リーフェンシュタールとの出合と関係、そこにアーノルト・ファンク博士も含むゲッペルス宣伝相らとの関係も描かれる。シナリオは、戦後のヴェネツィア映画祭期間中の偽造「エヴァ・ブラウン日記」の売り込みを話の発端にすることで、時を行き来する形のバイオトップと呼ばれる個人の歴史ドラマでしかない。

そこで描かれているのはどこにでもよくいるようないい加減男トレンカーなのだが、当時の反ユダヤ主義やファシズムのイデオロギーからは一線を隔していて、自身の撮る映画の登場人物やスタッフ、それどころかユダヤ人の協力でハリウッド進出も試みるなど、当然のことながらベルリンから睨まれるのである。

その辺りこそが、レ二・リーフェンシュタールの上昇志向の対照として描かれていて、いい加減男の本望である。もちろん適当にその迷路をすり抜けるフットワークの軽さも帰来の人間像として描かれていて ― 同郷のラインホルト・メスナーなどとも共通する生活力でもある ―、そこからエヴァ・ブラウン偽日記事件の真相が描かれる。要するにそうしたことをやらかす人間の典型として描かれているのである。よって、彼自身の作品におけるティロルの独立などを描いた映画においても、それほど精査しなければいけないインテリクチュアルな思考が働いているのではなくて、所詮工業高等学校で学んだ技術屋でしかないことも示されている。

同時に、それはベルリンでのオリムピック映画の制作をトレンカーから譲られたリーフェンシュタールのその仕事ぶりの背景やその思考をそこに映し出す形となっていて、寧ろ観衆の興味はそちらへと向かうかもしれない。しかし、この映画の本当の主役は、年老いた感じで描かれているアーノルト・ファンク博士でもなくて、ゲッベルス博士であろう。

宣伝相ゲッベルスを描いたものは数多くあるが、ここでのその仕事ぶりはとても興味深い。要するにナチの権力闘争の中でも異色の存在として、只の強権の脅しやスカシだけではなくて、各々の世界で活躍する錚々たる著名人を最終的に思いのままに操りプロパガンダの道具とする手練手管を操る人物として描かれている。

なるほど、これを見ると、指揮者フルトヴェングラーがゲッベルス博士に拍手する場面のヴィデオ映像における両者の表情などが理解できるようになるのだ。文化活動の深くまで立ち入りつつ、それを重要な宣伝媒体として国民に影響を及ぼすための高度に専門的な仕事であり、プロレタリア独裁におけるリアリズムイデオロギーの科学的な文化活動とは大きく異なるナチズムイデオロギーの芸術を用いた情報操作活動なのである。

そして、その申し入れを受け入れないファンク博士は、年々隅に追いやられて行くのだが、この映画の最後にテロップとして「1940年にはそうした状況を脱却すべくナチ党員になる試みをした」とあり、更に「晩年は森林保安官として暮らした」とある。こららの事実はどこにも書かれていないが、戦後再びフライブルクに居を移して再出発を目指すが、その映画のプロジェクトには支援者が見つからなかったことから実現せずに、生活に困りながらじり貧の晩年を送っている。

この映画の前に、トレンカー監督の自作となった「山は呼ぶ」を観た。ウィンパーの有名なマッターホルン初登頂を素材にしたドラマである。監督本人にとっても既に演じていた役柄で、英国人ウィンパーに敗れたイタリア人カレルを中心に描いている。監督本人が出演した同名の映画があまりにドラマ化されてしまっていたために制作を思いついたとある ― この背景には当時のファンク博士が歩まなければいけなかったサイレントからトーキーへの劇場仕掛けの映画への傾向があるに違いない。

映画自体は、イタリアにおけるナショナリズムを批判的に描いていて、ウィンパーとの友情を軸においている。この点ではトレンカーはコスモポリタンな考えを持っていて、何よりも南ティロルの環境においてそうした個性が育まれていたことは間違いないようだ ― 決してあのあたりのドイツ語圏の風土がそうしたものとはいえないのだが、一種の生活の知恵というかイデオロギーなどとはあまり違うところでの谷の生活があることを忘れてはならない。

そこで再びゲッベルス博士が気になる。あの当時の第三帝国の情報操作やその遣り口を知れば知るほど、現在の日本で行われている情報統制の方法が ― これに関しては個人的には日本を脱出するときには米国の情報操作として昭和の時代から認識していたが ―、もはやナチスのその域に達してきていることを思い知らされた。そしてそれに今でも気が付かないだろう日本人を沢山知っている。フクシマ禍で完全に騙されたままでいる人々が少なくないことを知っているからで、とても危険な状態にあるのだ。   



参照:
ナイフエッジ、真実は何処? 2015-11-26 | アウトドーア・環境
制御される雪煙の映像 2009-08-24 | アウトドーア・環境
映画監督アーノルド・ファンク 2004-11-23 | 文化一般
維新への建前と本音の諦観 2015-11-21 | 歴史・時事
【映画】 ルイス・トレンカーの伝記映画公開 (月山で2時間もたない男とはつきあうな!)
放送局が権力による違法な介入を蹴飛ばせない理由/砂川浩慶氏(立教大学社会学部准教授) (videonewscom)
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by pfaelzerwein | 2015-11-28 20:32 | マスメディア批評 | Trackback

無線マウス二年半の実力

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無線マウスの電池が無くなった。購入が2013年6月で、二年と半年使用である。同時に使い始めたキーボードの方は冬場はほとんど使わないので、まだまだ使えるだろう。三年まで使えると書いてあるので、まずまずの結果であり、消し忘れも多いので使い勝手としては十分だと思う。新しい乾電池を入れたので先ず先二年ほどは問題ないだろう。

先日キーボードの上にコーヒーを溢した。少々溢したというよりも、その上にカップが倒れたので、流したという方が正しいだろう。これはダメかと思った。

絹の敷布もびっしょりで、直ぐに水で流して、乾かしておいて、キーボードの方は、出来る限り液体が流れ込まない様に、直ぐに裏返して、電池を抜いた。暫く乾かしてから、徐に分解始める。

キーの下はゴムが敷かれているのだが、そこは殆ど濡れていなかった。もしかするとこれならば大丈夫かと思って、きれいに掃除する。キーの周りには液体が表面張力でついているので、これも綿棒などで掃除する。

見た目からすれば、殆ど内部には液体は流れなかったようだ。電池を入れ直すと問題なく動いた。通常のキーボードであるとキータッチなどがおかしくなるのだが、それも無かった。

ロジテックの高級品で、人気もあった製品で、現行品である。コーヒー濡れ防止機構が謳われている。キーボードの印字が消えて来るのは問題視されていて、それは本当でAの文字が消えかけている。最も使う文字で消えても指が行くところだから構わないが。

朝は短く走った。短いときは少なくとも下りはスピードを上げる練習にする。下りが強いと上手に前傾姿勢がとれないが、緩い下りならば上手に走れる。時速15KMでいつでも走れるようになりたいが、時間が掛かるかもしれない。霧がとても濃かった。



参照:
カメムシ型の無線マウス 2013-06-20 | テクニック
ショーツで先ず走ってみる 2013-06-11 | 雑感
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by pfaelzerwein | 2015-11-27 21:10 | 雑感 | Trackback

面白さの醍醐味への見識

アーノルド・ファンクで検索が掛かることがある。今回の原節子逝去とファンク博士が直ぐに結びつかなかった。「侍の娘」が重要な主演作として載っているのには驚いた。勿論そのことは知っていたのだが、伊丹万作が出てもファンクが出るとは思ってはいなかったからだ。ここ地元の生地フランケンタール周辺でもその名は殆ど知られていない。ドイツ山岳協会関係でも殆ど無名である。仕事の関係で調べる必要があったのでその業績を知ることになったが、映画監督としての本当の名作はその極初期の自主制作作品であり、それらが充分に周知されていないからだ。

日本との関係は、戦中の撮影と原節子との繋がりだけではなくて、アールベルクシーシューレのハーネス・シュナイダーとの繋がりもあり、寧ろ社会文化的にはそちらの方が興味深い。要するに戦前の業績なのである。

そして、その後の仕事は、YOUTUBEでも見ることが出来るが、キッチュな作品の監督として知られているに過ぎない。つまりトーキーになってからの監督作品には真面なものがないので、本国でもとても評価が低いのである。しかし、作曲家パウル・ヒンデミットやパウル・デッサウとの仕事を見れば ― 残念ながら一つは不完全なコピーしか存在していない ―、この映画監督アーノルト・ファンクが芸術的に歴史的に第一級の仕事をしていたことが理解される。その後研究資料に注意はして調べてはいるのだが、そのような一次資料の本国での状況から研究論文なども十分ではなく、研究対象としてあまり容易な対象ではないのである。

久しぶりにナーヘのシェーンレバー醸造所の2014年フリューリングスプレッツヘンを開けた。やっと飲み頃になってきた。お便りを読むとそのように書いてある。ラインガウのロベルト・ヴァイル醸造所からも同じようなお便りが入っていて、フローセスゲヴェックスの垂直試飲つまり1999年からの一口感想が載っている。飲み頃の示唆は重要だと試飲の度に何度も何度も繰り返して話題にするので、漸くVDPの会員もグローセスゲヴェックスとは、リースリングとはどういったものかの見解が浸透してきたようだ。喜ばしい限りである。次の段階として、パイロットワインとなる中価格帯と、グローセスゲヴェックスの飲み頃を示唆するような話題へと広がっていけば、両方のワインを上手に販売できるようになる。

さて、飲み頃となったフリューリングスプレッツヘンは、とても強い赤林檎の香りと味が綺麗な酸と見事にバランスしていて、結構後を引きながらチョットした天然の甘みで終わる。そして最初のミネラル感の独特なつるっとした感じが素晴らしい。試飲の時に満足しておきながら、今まで自宅で開けてもそれ程の満足は得られなかったが、これで大満足である。リースリングの面白さの醍醐味はここにある。



参照:
飲み頃を探る試飲談話 2015-09-15 | 試飲百景
見極めたいこの週末 2015-09-25 | ワイン
ナイフエッジ、真実は何処? 2015-11-26 | アウトドーア・環境
制御される雪煙の映像 2009-08-24 | アウトドーア・環境
映画監督アーノルド・ファンク 2004-11-23 | 文化一般
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by pfaelzerwein | 2015-11-26 22:24 | 文化一般 | Trackback

ナイフエッジ、真実は何処?

科学欄の人文を開けると、先日から気になっていた名前ルイス・トレンカーが話題になっている。慌てて手洗いにある新聞の束からメディア欄を探す。そこで話題となっている一週間前にドイツ第一放送で放映された映画「ルイス・トレンカー ― 真実の細い稜線」を急いでダウンロードする。終了時間までにDLを終えれる。

この映画監督で、シナリオライターのルイス・トレンカーは、アーノルト・ファンクの山岳映画の俳優としてもお馴染みで、丁度レニ・リーフェンシュタールと同様にそれがプロフィールとなっている。またその生まれ故郷故にムッソリーニとの関係も強い。そして戦後にエヴァ・ブラウンの日記を偽造して公開しようとしたとして知られている。

本人が監督主演していたことは知らなかったのだが、昨年こうしてトビアス・モレッティー主演で映画化されたことで脚光を浴びたようだ。、その代表作品「山が呼ぶ」を先ずは観てみよう。

ムッソリーニやナチのイデオロギーがそこに見られるかどうかは、先ずは先入観無しに吟味してみればよい。新聞記事をそれから読んで、感想を書いてみたい。



参照:
制御される雪煙の映像 2009-08-24 | アウトドーア・環境
映画監督アーノルド・ファンク 2004-11-23 | 文化一般
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by pfaelzerwein | 2015-11-26 02:23 | アウトドーア・環境 | Trackback

再びの水漏れそして初凍結

階下で水漏れがあったようだ。二年ぶりで、その前の十三年ぶりとは事情が異なる。秋にバルコンを洪水にしての試験が行われて、何事も起こらなかったので、当分は疑惑から解放されたと胸を撫で下ろしていた。

今回も特別に雨や雪が吹き付けるようなことはなく、その雨量も微々たるもので、流れ滴るというものではなかった。積雪があったならば通常は滴らない場所からの滴下もあるかもしれないが、そのようなことにはなっていなかったと思う。風向きの関係で特別な空気の流れがあったことは想像できる。それほど珍しい気候状況であったことも事実だろう。

しかし何よりも台所の窓枠の凝結を見るように、水分がどこかで一気に冷やされて溜まった可能性は否定できない。しかし、水蒸気量が多くて冷やされるのは内側の話であり、その水分が天井とバルコンの間に溜まっていたとは考えにくい。いずれにしてもどこからか水分が集められて下に垂れたのは間違いないのだ。気象状況などのデーターを分析してみるつもりだ。

森の中は水溜りが完全に凍結していた。陽射しがあったのでそれほど冷たくは感じなかったが、沢沿いを奥深くまで入ると、犬連れの婆さんにすれ違った。今日は車が一台しか停まっていなかったので、彼女のものだったのだろう。そう考えて貸し切り状態かと思うと、向こうから二人組の女性が歩いてきた。すれ違って、どのあたりで復路に追い付くかなどを考えていた。するとさらに先に犬連れの爺さんが見えた。これを交して、復路で再びすれ違い、二人連れを追った。暫くすると視界に入り、順調に追い越した。まるで、小学生の流水算のようなものだが、そこから緩い勾配を登るので頑張って走る抜ける。汗を本格的に掻き出して、ラストの直線を駆け抜けたが、時速10KMには再び戻らなかったようだ。流石に最初の婆さんには追い付かず、その車も消えていた。

出かけに門を出る時に、歩行者を優先させると、三人連れのトルコ人の少女だった。この辺りでは、あまり少女を見る機会はないのだが、隣町には礼拝所が建てられており、その数は都市部ほどではなくとも少なからず住んでいる筈だ。それでも面と向かって顔を見る機会は少ない。そして同じような年頃の三人連れが一緒だったので、方向からすると役所に住民票でも定めに行くところだったのだろう。

顔を見合わせた先頭の少女以外の顔はあまり見えなかった。やはり顔を隠すような形になっていたのだろう。先頭の少女は表情も確りしていて、西洋化しており、なんとなくクルド系かなとも感じた。パリの一連の事件などを見ると、結局ライシテがあっても、決して信仰の相対化が進むわけではないことを考えると、絶望的な気持ちにさせられる。



参照:
実験に値するのか大洪水 2015-06-25 | 生活
バルコンからの冬籠り 2014-01-10 | アウトドーア・環境
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by pfaelzerwein | 2015-11-24 23:05 | | Trackback

音楽ジャーナルの高忠実度

ネット検索していた。苦労してDLしたヴィデオファイルよりも高品質そうなものがYOUTUBEで落とせた。ファイルの大きさで2.67GBと1.94GBの差異があったが、しかしAUDIOではAAC44kHz125kbpsに対して48kHz160kbpsと逆転していた。要するに前者の方が画像は美しいが、音は貧弱だとなる。つまりロウファイなのだ。HiFiなオーディオファイルを入手しようとすれば、上の「ルル」新上演公演の私が体験した初日のラディオ中継のそれでなければ話にならないとなる。オーディオ趣味は無くなったが、やはり記録としてその音楽などを評価しようと思えばHiFi(ハイフィデリティー・高忠実度)が求められることになる。

先日DLしたファイルは、2014年バイロイトの祝祭劇場からの中継録音の一部だった。自分自身がそこにいてそのあとも録音を逃していたものだだった。一年前は、まさか、あれほど高音質なものがネットから落とせるとは思っていなかったのでこれは録音していない。当日の記憶を辿るためにそれを探していたのではなく、なぜあれほどに今年六月の時点まで指揮者キリル・ペトレンコが日本で十分に評価されていなかったかの原因を探りたかったからでもある。そこから広く文化的な移植や情報やトレンドの伝わり方が分かるからだ。

満足いかないオーディオクォリティーながらも2014年7月30日のメルケル首相がやってきたその日の楽劇「ジークフリート」の名演を再生してみて、ある程度の結論は出た。更に、2013年の新聞評と2015年のそれを比較して読み、また日本でも毎年ラディオ試聴している人の感想記事や2015年に多く訪れた日本の人の中の感想を読むと、十分に推論可能となった。なぜここまでオーディオファイルの形態について触れなければいけないのか、それは音に対する認知の問題だからである。

先週日曜の朝、ラディオ番組でミュンヘンの音響建築の教授が電話で話していた。世界中で新しいホールを請け負っている専門家だ。概ねの話は馴染みがあるものだったが、意識していなかったのは二十世紀後半の試みとその結果への認識である。

様々な形のホール、たとえば靴箱型、扇形、円形などがこの間沢山作られたが、その結果としてワイン山型に収斂してきたという。但し目的によって様々なので一概には決められないということだ。そこで、バーデン・バーデンの祝祭劇場に関しては、そもそも私立であり、総工費に対する収益性が無視できなかったので、音響を左右する一人当たりの必要な立法面積を確保して且つ構築費を押さえることに苦労したようだ。所謂、鳴り潜めるだけの余裕は無くても響かすことは出来たという。その結果、舞台に近い席では直接音が多く、離れるに従って間接音が多くなる音色となるが、重要なのは視覚との違和感がないことだという。ガラスなどの素材の使い方もヴィ―ンの黄金のホールなどを例にしていた。だから音響計算上の確定した値とは別に聴衆の反応も確かめる必要があるというものだ。

ここにあるように仮説として、音響的な情報量とその認知を上げた訳だが、HiFiに加えて視覚的な情報が欠けているラディオなどの媒体を通して、例えば特定の劇場などの音響空間で起こっていることをどれほど認知できるかへの問いかけでもある。今回二種類の情報量の異なる録音を比較してみて、最低CD基準の情報量が無ければ理解できないこともあるのは確認した。それに気が付くか気が付かないかは、但し情報量の問題だけではなくて、可成り文化的な背景があることでもある。

反対に少なくともそうした差異の認識は、高額な再生装置と試聴環境に使用が前提になるのではなくて、現在の状況からすればPC音響ならば精々真面な音楽ヘッドフォンとヘッドフォンDACさえあれば再生可能となる ― これは自分自身DACを持っていないので確かめていないが、ヘッドフォーンはスタディオモニターの基本でさえある。寧ろ、ここでもジャーナリズムの問題が立ちはだかっている。

特にEムジークと呼ばれる領域において、まるでワイン文化と同じように、日本などでは輸入文化としてそれが紹介されて、そうしたジャーナリズム擬きが横行したことで ― 発信国のジャーナリズムは絶えず商業主義のそれを繕い紗を掛ける必要に迫られている ―、そうしたオタク的な審美眼(耳)が各々の心(脳)を閉ざすこととなり、なにも録音されたものでなくて実際のその音響空間においても肝心な音が耳に届かないということにもなっているようだ。

その耳に届く届かないの相違は、人種や年齢や性別などとは全く関係がなさそうで ― 全くワインの試飲と同じで ― 寧ろ特殊なオタク文化に染まっていない開かれた感覚を持っている人の方が感受性が高く、一種の認知力の問題なのだ。そこに、その人の教養や知識や経験によって、情報が捻じ曲げられて入ってくるものと、それとは反対に所謂Uムジークとしてのエンターティメント市場のように万人に分かりやすいというものも存在するという両面がある。

造形芸術でもなんでも変わらないが、そのような大衆性ととても高い認知性との間を説き解くのはジャーナリズムの仕事であり、そうした作業によって初めて正しい情報の伝達と文化的なトレンドの共有などが可能となる。ジャーナリズムとは、そこで何が起こっているかを正しく認識して、それを分かりやすく伝える作業でしかない。



参照:
お目当ての録音をDL 2015-11-17 | テクニック
耳を疑い、目を見張る 2015-05-27 | 音 
そこが味噌なのですよ! 2015-08-13 | 音
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by pfaelzerwein | 2015-11-23 20:13 | マスメディア批評 | Trackback

処女雪の山を走り廻る

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冬シーズン三週目である。昨晩からの雪は上がって、陽射しが射そうとしていた。冬の寒い朝だ。それでも余裕をもって八時過ぎ準備して、駐車場から走り出したのは八時半過ぎだった。暫く谷を走る。先週までとは違って足元がしっかり定まって、息使いも積極的にコントロール可能だ。調子は悪くはない。但し寒く、前日からの湿気で振る手の親指の先が悴んでくる。十分な摂氏プラスの気温だが冷たい。

色々なことを考えているうちに、多くのチェックポイントを気が付かないぐらいに通過する。最近は嘗ての散歩のように思索しながら走るジョギングテムポが身についてきたおかげだ。その分、記録がなかなか伸びない。

谷間では落ち葉の上に雪が乗っているのに気が付いたが、登るにしたがって林道も轍以外は白くなってきた。頂稜部に入るとハイキング道は真っ白の処女雪となった。下りが面倒そうだと思いながら、頂上を目指すが足元が悪い。

記録よりも五分ぐらい遅いのは仕方がないが、降り始めから積雪で走り難い。滑りやすい訳ではないが当然飛ばせない。それでもしばらく行くと足元も安定してきた。どうも先週の足首の捻挫が完治したようだ。

林道に出ると久しぶりに体のバランスが良かった。手の振りと下腹の閉まり具合などが上手くバランスしている。そのまま頑張って走り続ける。汗も掻いて、最後の最後まで飛ばす意欲も薄れない。下り24分は記録に近い。上りも記録の34分ならば往復58分ペースだった。



参照:
吹き清められた足元 2015-11-16 | アウトドーア・環境
大台を割る時への期待 2015-01-12 | アウトドーア・環境
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by pfaelzerwein | 2015-11-22 21:10 | アウトドーア・環境 | Trackback