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ジョンハーリンルート核心部

車中のラディオは、福島に住んでいるドイツ人英語教師ユルゲン・オバーボイマーのインタヴューだった。母国語ドイツ人であると思ったが英語訛りがあるのでどうした人かなと思っていた。日本人の奥さんも原告団の一人らしい。菅直人が本物の英雄に映ったようだ。今回本が出るということで、三十年の長い滞日生活から福島つまり二人の「幸せの島」の今を語っていた。

その前には四月に行われるアビテューアの音楽の課題となる「魔笛」、バルトークの管弦楽のための協奏曲、ブラームスのピアノ五重奏曲ヘ短調の中からモーツァルトを選んで解説していた。面白かったのは、作曲技法の問題よりも、夜の女王を専制君主の典型としてフランス革命以後の啓蒙家ザラストロに対照させて定義付けしていたことで、その構図からすると作曲家の視座が明確になって良い。バーデン・バーデンで解説にあったモーツァルトの作曲構造のパターン化と合わせて見直すと色々と不可解とされている構造も腑に落ちることが多い。20世紀前半のモーツァルト研究とは大分違ってきているようで、ヘンデルやハイドンマンハイム楽派、イタリアの作曲家の流れの中でその天才性が綺麗に収まるようになってきた。20世紀後半のサウンドの新しさなどが齎したものよりもこうした楽曲解析の流れが楽曲の隅々までの楽譜の読み方を一挙に変えてしまう。目から鱗である。内田光子のモーツァルト演奏がそのピアノの響きと同時にとても落ち着いて万人をうならすようになってきたのもこうしたモーツァルトをめぐる状況が変わって来たからであろう。

1966年にアイガー北壁に開かれたジョンハーリンルートについての記事が再び出ていた。直登ルートを開拓中にそこから滑落したハーリンのその息子と一緒に登ったロベルト・ヤスパーの記事として二回目である。そのルートの核心部でもあるザイルリスの写真が出ている。有名な雪田の蜘蛛の巣といわれる真下にある文字通りザイルの太さの割れ目で、氷が付いているのでアイスクライミングしているが、ミックスとしてはとても難しそうだ。そしてそれ以上に難しいのは頂上直下の岩壁でまだフリー化がされていない。勿論落石などの条件から厳冬期しか登られていないので困難なのだろうが、もともと数の少ないハーケンで突破されていて、常時雪が付いている凹角になっているのだろう。

興味深いのは、もともと別の隊であったドイツ隊がアメリカ隊に合流して、その死を無駄にしないように最後まで協力して頑張っての成果だったわけだが、ドイツからはシュテュツガルトとウルム間の職人たちのグループだったということで、彼らがドナウ周辺の石灰岩のクライミングに慣れていたことが分かる。そういえば先日映画アイガーサンクションで素晴らしい演技をしていたジョージ・ケネディーが亡くなっていた。航空機事故シリーズなど体の割に動く豪快な数々の役柄が印象深かった。

今週二度目に走りは、沢沿い往復である。ショーツ姿で二度目だ。足に違和感はあるものの車が通るような林道のデゴボコでは捻り気味でもそれほど痛みを感じなくなってきた。普通に走れるようになりそうだ。二日前よりも良くなっている。坂道を混ぜた方が治りが早いのかもしれない。膝が室内でも曲がりきらないのでまだ要注意だが、もう一息である。大分体を動かすのが楽になって来た。



参照:
Die Wand der Wände, Bernd Steinle, FAZ vom 22.3.2016
雪よ、山よと彷徨いてしまう 2011-01-08 | 雑感
夢を叶えるプラットホーム 2010-12-22 | アウトドーア・環境
楽天主義に誘惑された 2012-07-12 | 歴史・時事
黄金の十月の美しい残照 2011-10-16 | アウトドーア・環境
世界を雪崩で洗い落とす 2008-10-25 | マスメディア批評
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by pfaelzerwein | 2016-03-31 21:08 | アウトドーア・環境 | Trackback

索引 2016年3月


まだまだインドーアライフ 2016-03-31 | 生活
復活祭の春一番が明けて 2016-03-30 | 暦
陰謀論を憚らない人々 2016-03-29 | 暦
美しい世界のようなもの 2016-03-28 | 音
市場規模縮小が激しい中 2016-03-27 | マスメディア批評  TB0,COM2
原発警備強化の物的根拠 2016-03-26 | ワイン
高額であり得ぬ下手さ加減 2016-03-25 | 文化一般
現代的聴視料の集め方 2016-03-24 | マスメディア批評
知的な解決とは如何に? 2016-03-23 | 音
ベルギーの原発ティハンゲ 2016-03-22 | マスメディア批評
声楽付き楽劇「トリスタン」 2016-03-22 | 音
反知性主義のマス高等教育 2016-03-21 | 歴史・時事
大詰めとなる「トリスタン」 2016-03-20 | 音
復活祭音楽祭ペトレンコ登場 2016-03-19 | 雑感
心地よいだけでは駄目だ 2016-03-18 | 雑感
「トリスタン」のハイライト 2016-03-17 | 音
スレート土壌女史の対決 2016-03-16 | 雑感
芸術的な感興を受ける時 2016-03-15 | 音
国政を予想させる選挙予 想2016-03-14 | 歴史・時事
2015年リースリングの出来 2016-03-13 | ワイン
My Star Singerの経済的効果 2016-03-12 | 雑感
バイロイトの名歌手たち? 2016-03-11 | 音
第二回ユングヴァイン試飲会 2016-03-10 | 試飲百景
仏老朽原発停止への判断 2016-03-09 | アウトドーア・環境
街の代表者を選ぶ選挙 2016-03-08 | 生活
逃げ足の 速いモンサント社 2016-03-07 | BLOG研究
東京の失われた時の響き 2016-03-06 | マスメディア批評
吟味したいその傾向と対策 2016-03-05 | 雑感  TB0,COM2
ギアーチェンジの円滑さ 2016-03-04 | 音
jk, ポストメルケルの中庸 2016-03-03 | 女  TB0,COM2
ハードカジュアルの靴直し 2016-03-02 | 生活
まるでとても可愛い男の子 2016-03-01 | 女

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by pfaelzerwein | 2016-03-31 20:33 | INDEX | Trackback

まだまだインドーアライフ

さていよいよアウトドーアライフと思ったが、強い陽射しの合間にシャワーが続く。亜熱帯にいるようだ。夏タイヤへの交換の予約を早めに設定しておいて本当に良かった。

天候もあるが、いろいろと溜まっている情報も書き留めておかなければ忘れる。モーツァルトの「新曲」についてはサリエリとの友情関係で書いたと思うが、ヘンデルの未知の楽譜もでてきて、発見したトン・コープマンが既知の曲を補う形で録音を済ましている。指揮者コープマンといえば、バッハのマルコス受難曲の再生で有名だが、バッハのマルコス受難曲も既に四五種類の録音が出ているようである。また、ヨハネス受難曲もルネ・ヤコブスが1725年の復活祭版と1724年のニコライ教会版の二種類を同時に録音して話題となっている。それにしても復活祭が終わった後で新聞はこうしたものを記事にしていても誰も見向きもしないのではなかろうか?

先ごろ注文したCDが届いた。今回の落穂ひろいは割高になったが最近の注文の中ではかなり価値がありそうな内容となった。まだ鳴らしていないが「マイスタージンガー」は、ヘラクレスザールとバイエルン放送局の管弦楽団のホームであるステゥディオ1を使っていて、どのように使い分けているのだろうか。あり得るのは合唱が加わるかないかでの選択ではないだろうか。サヴァリッシュ監督の退任の御褒美として本人にとっても生涯で最も高価で大きな制作だったに違いない。その他のプロコフィエフも1990年代のアシュケナージのスイス録音である。デジタルソロ録音は持っていなかったのでそのピアノの音色が楽しみだ。

楽劇「マイスタージンガー」も追々と勉強しておかないといけない。先ずはフェリックス・モットル編集版の総譜をDLした。モットルといえば作曲家ブルックナーの弟子で「指輪」初演などにアシスタントとして関わっている指揮者としても有名だが、「トリスタン」を数多く演奏していて、ミュンヘンで監督としてそれの100回目の指揮中に亡くなっている。その譜面を見るとその指揮ぶりも浮かぶだろうか?少なくとも編曲は有名なようだ。

そもそもヴァークナーの楽劇は長大であることもありそれを具に観察していくには時間が掛かる。それ故に出来るだけ深入りしないでいたのだが、これまた重要な創作なので仕方がない。学べば学ぶほど音楽の勉強にはなるのだが、これまた作曲の課題も作品ごとに変わっているので中々飽きさせないために余計に厄介なのだ。

久しぶりにワークステーションのアップデートを完了させた。XPの方はアップデートが無いので早いが、LINUXは一時間ほど時間が掛かっていた。今年はどれほど使うのか、それともノートブックを上手に併用していくのかは分からない。雑音や電気代のことを考えるとノートブックを使いこなしたいのだが、さてどうなるだろうか。その為には電源アダプターをもう一つ欲しい。アダプターを毎日のように動かすのが億劫だからだ。調べると対応製品が22ユーロであった。日本でも2200円ほどなのでこれで十分だろうか。上手く使えば電気代で取り返せるかもしれない。暖かくなったといっても陽が陰ると肌寒い。この時期にこそノートブックを移動させることが多くなる。早速窓の隙間パッキングゴムと一緒に発注した。



参照:
滑稽な独善と白けの感性 [ 歴史・時事 ] / 2005-03-10
楽のないマルコ受難曲評I(14.1-14.11) [ 暦 ] / 2005-03-22
楽のないマルコ受難曲評II(14.18-14.44) [ 暦 ] / 2005-03-24
楽のないマルコ受難曲評III(14.45-14.72) [ 暦 ] / 2005-03-25
楽のないマルコ受難曲評IV(15.14-15.47) [ 暦 ] / 2005-03-26
ヨハネ受難曲への視点  2014-04-19 | 音
市場規模縮小が激しい中 2016-03-27 | マスメディア批評
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by pfaelzerwein | 2016-03-30 18:30 | 生活 | Trackback

復活祭の春一番が明けて

ギーセンとデュッセルドルフ近郊で二人の逮捕者が出たとあった。ベルギーのテロ攻撃に関連する捜査である。ギーセンは少し遠いがデュセルドルフからならばベルギーと連携するには好都合である。どのような組織がどこにあるのだろうか?

バーデン・バーデンへとフランスから車を進めると町の背後の山の上には雪が残っていた。連邦共和国では雪の多い地域だから当然だろう。夏はザルツブルクカムマーのような湖水地帯も無く物足りないかもしれないが、復活祭時期はアルザス・ロレーヌ地方やアーモンドの咲くプファルツを含めて、まだ雪深いザルツブルクの湿ったところよりも遥かに快適だろう。

今年も最後の週末は日本からのグループが入っていた。音楽的には批判点もあるだろうが、ゲルハルト・リヒター展もブルダ美術館で開かれていて、フィルハーモニカ―の幾つもの音楽会を含めて、芸術的な催し物は十分だったろう。

現時点では、フランス人、ロシア人、スイス人、英米人、日本人などがインターナショナルな雰囲気を作っているが、二年後にはバイエルンや北ドイツなどから観光客が増えるのではないかと思われる。そうなってくると祝祭的雰囲気が一気に高まるのである。まだまだ夏のザルツブルクからすると足りない。

復活祭の催し物に関しては、現在のラトルの率先で子供のためやアカデミーの催し物など同時に開かれているが、次期のペトレンコになるとその辺りは不明である。少なくともオペラ絡みで演出やプロデュースなどでの梃入れが期待される。

個人的にはこれで今年の音楽祭は最後となり、次回は一年後となる。先週末に夏時間となって今週は完全に春らしくなるので、冬篭りから開放される。

ショーツ姿で走ることが出来た。週末に一度走ったので、先週は三回走ったことになる。今週は後二回ほど走れば丁度よい感じだろう。十分に暖かければ足首の様子を見ながら、一度クライミングに出かけたいところだ。昨晩の春一番のような雷雨で森は濡れていた。



参照:
復活祭の春一番が明けて 2016-03-29 | 暦
復活祭音楽祭ペトレンコ登場 2016-03-19 | 雑感
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by pfaelzerwein | 2016-03-29 18:34 | | Trackback

陰謀論を憚らない人々

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復活祭日曜日の朝のラディオは「陰謀論」研究者の話だった。その本質は、「少なくとも欧州における陰謀論には神が存在する」ということで、陰謀論はこうした混沌としたカオスとコミュニケーションの世界で、そこに何らかの「張本人」を創る作業でしかないということだ。それは、言葉を変えると一神教における神ということになる。つまり陰謀論者は救世主を希求する人々となる。

ベートーヴェンの第九交響曲である。お隣に居合わせた戦中世代の御婦人が溢していた。合唱団の声量や管弦楽の音響ゆえに違和感を感じられたようだ。おっしゃる通りですと答えた。この交響曲を初めて体験して些か腹立たしい思いをしたのは初演の時も変わらなかったかもしれない。なるほどサイモン・ラトル指揮のベルリナーフィルハーモニカ―は、指揮者ニキシュの時とも、フルトヴァングラーの時とも、フォン・カラヤンの時とも全く違う。そして第四楽章が管弦楽伴奏つきの合唱曲ではなくて、ここで交響曲として動機をしっかりと奏でていたことは、どの世代でも不十分であったことで、今回の成果であったろう。それは第一楽章での各々の調性の金管があり溢れる音響を奏でて、グスタフ・マーラーの交響曲に比するほどの大音響を響かせていたことにも適応する。

どうしてもマーラーの交響曲を通してしか、その手本となっている交響曲を評価できないのは仕方がないことなのであり、それが現在の大管弦楽団の宿命なのである。しかしドイツではマーラーの交響曲はそれほど人気が無い。一体何を演奏するのだろう?既に書いたように、ベートーヴェンの交響曲が最後にそれらしく響いたのは、一世紀ほど前のことであり、歴史の彼方に消え去ろうとしている。今回もコンサートマスターのスタブラーヴァのセンスの良いポルタメント風のさわりや、パウのフルートや、ファゴットの名技など事欠かなかったが、なにもベートーヴェンの交響曲でなければいけないものなどはなかった。なるほど弦楽器においては各々のセクションが、なにも有名なチェロ陣にだけではなくて ― チェロを見るといつもその奏者の一人の練習を邪魔したことをどうしても思い出してしまうが ―、コントラバスにも、ヴィオラにも、第二ヴァイオリン群にも、その合奏を堪能させてもらえるのはベートーヴェンだったからだろう。なるほどその点においてはフォン・カラヤン時代よりは成功しているだろうが、ルツェルンでの最後のアバド指揮の「エグモント」と比較すると和声の陰影ということで明らかに劣るのである。

サイモン・ラトル監督時代集大成のラストスパートとなっている。そのテムポの設定やアンサムブル芸術などこの指揮者の商標であったものが今こうして披露されている。同時にその管弦楽の整理整頓されたパレットもほぼ見つくした感は免れない。来年以降ロンドン交響楽団へと移るのだが ― 調べると同楽団へともう片足はどっぷりと浸かっている ―、そこではもう少しシャープな音響が希求されるのではなかろうか?

今年のバーデン・バーデンでは、次なる監督であるキリル・ペトレンコを希求する気持ちが膨らんだかもしれない。なるほど第九交響曲の楽譜から遥かに多くの情報を取り出して、弦楽器の和声感を弦楽四重奏のように求心的に響かせて、柔軟で機敏なテムポから正しい歌を紡ぎながら、木管、金管の色彩を対照させ音色のパレットを広げていくに違いない。ベルリナーフィルハモニカ―は、「アバドの良さとラトルの良さを合わせた」とペトレンコへの期待を上手に表現している。しかし、そこに救世主が居るとは真面な人は思わない。当然である。今年の日本ではこの曲がラトル監督最後の演奏になるらしい。我々はもう一度マーラーの六番を経験出来る。

前半に内田光子のピアノで変ホ長調のK482が演奏された。ネット放送されたものよりも上手く行っていたと思うが、聞いた座席ゆえ残念ながら美しく混ざりあった音色は得られなかった。楽器はいつものスタインウェーだったようだが、驚いたことにベッヒシュタインのように響いていた。彼女の弾くシェーンベルクの協奏曲も聞いているが、これだけ落ち着いたこしのある音を出すとは思っていなかった。最近はソロコフの教えを受けてか同じブレンデル派のキット・アームストロングなどもベッヒシュタインを弾いているのだが、内田の弾くスタインウェーならば甲乙点けがたいと思った。

いつものオリエンティーリングは、緩徐楽章におけるピアノと弦と管の各々に対する作曲区分に関しての言及だった。要するに代わり番こに出て、一緒に対抗しながら、また合わせてのロールプレーの管弦楽法での、フルートとファゴットのデュエットや、私であるピアノともう一つの弦楽の私、そして管弦楽の社会や子供じみた木管などである。モーツァルトのピアノ協奏曲の独特の在り方がこうして上手に説明されていた。

モーツァルトの大管弦楽団での演奏も問題となるところであるかもしれないが、現代的なピアノに合わせるならばという合理的な言い訳が第九交響曲のようにここにも成り立つ。これもまた来年には悲愴交響曲の前にハフナー交響曲がペトレンコ指揮で演奏されるのだが、容易に解決される問題ではなかろう。ヴィーナーフィルハーモニカーでも交響曲34番が演奏されるので、まるでザルツブルクのようなプログラムをバーデン・バーデン音楽祭も望んでいることになる。立見の出る満席の会場に前半に二つ空いていた席を見るとどうもマネージャーと内田光子の席のようだった。ちらちらと様子を見ていたが、レクチャーの映像などで観るのとは全く違ってとても柔和な表情で前席のお客さんと会話していたようだった。

世界は複雑である。到底、そこに良かろうが悪かろうが一つの意志が働いているとは捉えられないのが私たちの世界である。そこで、神の輝きを賛歌するにしても精々それはEUの賛歌でしかない。そしてEU本部も狙われるようになってきた。ドイツを含めてEU加盟国の良き市民もそこに感じているのは条件付きの平和でしかない。

「おお、友よ、こんな響きではない。もっと心地よく、声を揃えて、喜びに溢れた。」と、救世主を待ち望んでも仕方がない。まさにそこにあるのは「遠くのアウシュヴィッツ」であって、そこに生じるのは陰謀論でしかあり得ないからだ。1942年のベルリンと同じぐらいに、バーデン・バーデンのとても整頓された「合唱付き」は、紛れもなく今日の空気を反映していただろうか?



参照:
美しい世界のようなもの 2016-03-28 | 音
交響する満載の知的芸術性 2013-04-03 | 音
詐欺の前に凍りつく聴衆 2012-08-19 | 文化一般
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by pfaelzerwein | 2016-03-28 20:48 | | Trackback

美しい世界のようなもの

初めての合唱交響曲体験を前に胸を膨らましている。そもそも楽聖の交響曲を最後に生で聞いたのは40年以上前のことだろうか。もしかすると英雄交響曲ぐらいはなにかの序に聞いているのかもしれないが全く記憶にない。今回以下のメディアを真面目に聞いて、また1826年のショット版並びに手書きファクシミリと比較的新しい楽譜をDLして、少々戸惑い、なるほどと思った。

結論からすると、少なくともこの交響曲は近代の管弦楽演奏の心棒になっていたのだろうと認知して、なぜ演奏されるのは特別な機会に限られるのかという疑問への回答にもなるということである。ショット社と作曲家との関係など今は顧みないが、明らかに歴史と伝統の中で育まれてきた西洋近代音楽がそこにあって、管弦楽団活動にはこうした作品が特別な意味合いを持ち続けていたことが知れる。

そして、その頂点が1942年3月のベルリンでの録音に刻まれているとしか思えない。実は昨年暮れに日本のアマゾンにて丸山真男が吉田秀和と指揮者フルトヴァングラーについて対談しているのを収めている文庫本を見つけて送らせたのだが、先日漸く届いたのだった。そこに触れられている丸山の言及する指揮者とベルリンの聴衆との繋がりや、吉田が「月並みで紋きり」と自嘲しながら書いている「偉くまじめな」ベルリナーフィルハーモニカ―のパリ登場の感想の本質は、まさしくこの録音にまざまざと記録として残っていることを発見するのである。

一般的には戦後のバイロイトでの実況録音がこの曲の決定盤の一つと推されることが多い。しかし、様々な観点からこの戦中の演奏とは比較にならない。数週間後の四月には有名なヒットラー生誕記念のコンサートがあるが、その年初にはベルリンのグリューネヴァルト貨物駅からはユダヤ人が護送されている一方、管弦楽団はまだまだ戦後のバイロイトなどよりも遥かに質が高く、充実している ― そうした意味合いは含まれないが、吉田は体験した晩年の三楽章の演奏解釈は理解できなかったと素直に書いている、さもありなんである。

ソナタ形式の鳴り響くフォームがこれほどに実感されることはないのではなかろうか。恐らく現在の日本以外の指揮者でこの交響曲を最も数多く振っていた指揮者の読みつくした譜面から楽聖の叙述法が綺麗に浮かび上がる。勿論それは動機の圧縮展開や和声進行とテムポなどが有機的に組み合わされることで初めてその全容があからさまになるのだ ― その意味合いを即物主義時代のカール・ベーム博士の指揮と比べるとどちらが正しいかは議論の余地が無い。それ故に一楽章最後のコーダのリタルタンドのオーボエからホルンへの受け渡しなども手に通るように楽聖の思考の飛翔が聞こえるのである。

また二楽章の動機の連環も素晴らしいが、三楽章のアンダンテモデラートのエスプレシーヴォの主題は殆どヴァーグナー風で始まり、二度目に出てくるときにDからGへと転調されていて、そこからさらにアダージョ主題を挟んで12拍子で軽やかなステップは晩年のピアノソナタのようでもあり、やはりそれを超えてその後の音楽に含まれるに間違いない。

後年にはこの指揮者からも聞けないものがここにあるとすれば、丸山が信じるように、決して指揮者の健康とかの問題とは異なる世界がそこにあったとするのは間違いない。勿論、丸山が言うようにナチ政権があのようなものだとはヴァイマール共和国の保守的な知識階級は分からなかったのかもしれないが、少なくともこうした合唱付交響曲が演奏されている数キロも離れていないような貨物駅からユダヤ人が「最終処分」のために輸送されて行ったことは皆知っていたのである ― これは誤魔化してはいけないところで、ユダヤ人亡命者のアドルノが語るような「遠くのアウシュヴィッツ」とは違って、ベルリンの町の中からユダヤ人が一掃されて行ったのは周知の事実であり、その先に何があるかは少なくとも権力に近いところにいた者はある程度の情報は得ていた筈である。誰も身近なベルリン近郊の強制収容所よりも快適なところとは思っていなかっただろう。二月には、ヴェルナー・ハイゼンベルクが「ウランからのエネルギー確保」を講義しており、共産党員は判決後直ぐにブランデンブルクで処刑されている。

丸山は、彼の学問的な立脚点からこうした芸術と社会主義リアリズムの芸術や社会を同距離で同じように捉えている。ヴァイマール共和国文化の仇花は第三帝国のそれであったのと同じく、戦後の東西の文化も同じように左右のイデオロギーの中に存在したというの正しいだろう。

つまり、ここではデカルトからホッブスへの科学的な知性と、この指揮者が恐れていた科学主義への懐疑との認識の混濁などが、ナチの反知性主義の土壌の一つになっていたと丸山の言及を確りと読み取りたい。そこで「1918年の『革命』と33年のナチ『革命』との理念の本質的な違いを象徴的に示して…、つまり単純化して言えば、同じく平等化といっても、文化水準の上昇要求から出た『革命』と、ルサンチマンから発するところの引っ張り下ろす『革命』という風に対照出来るでしょう。」と丸山は言い直しており、そしてこの指揮者が大切にしていた公衆共同体が大衆社会へと移行していたことに気が付いていなかったことを、その免罪符としているかのようだ ― 丸山のフルトヴァングラー擁護は贔屓の引き倒しのようなものではなくて同時代を生きた自らへの語り掛けであったとしても間違いではなかろう。余談ながら今回発見した当時のニュース映像にはヒトラー生誕式典での在ベルリン大日本帝国の外交官が舞台に居座っていて、陸軍大島浩全権大使であると思われ、更に若い外交官を引き連れて第九を聞いていたことになる。

またハイエクの「奴隷への道」を挙げて、ナチの「フライツャイトゲスタールテュング」つまり「余暇の活用」こそが ― 当然ながら時間の認知と再構成こそが作曲構造そのものだ、その自由でない社会の典型として、現在においてはマスメディアの洪水がそれに相当しているとしている。なるほどフルトヴァングラーにはある種の神秘主義への傾倒からそれを反知性主義の一つとして観察できるのだが、丸山の言及によりこの指揮者がベルリンで求めていたものが明白になる。

今回虫干しとして手元にあるメディアを一通り流した。CDは昨年購入したヴィーナーフィルハーモニカ―を最晩年にカール・ベーム博士が振ったもの、LPではフルトヴェングラー指揮の二種類、カール・ベーム指揮のヴィーナーフィルハーモニカー盤、フォン・カラヤン指揮のベルリナーフィルハーモニカ―の最初の全集盤、そして先日エアーチェックしたバーデンバーデンでのサイモン・ラトル指揮のものである。

その中で例えば戦前はフルトヴァングラーと変わらないエロイカの演奏をしているフォンカラヤンは、戦後にはそのアンティをモットーとして演奏していて、そのあまりにもクールでありながらスタイリッシュなそのあり方に、同世代はある種懐かしさと恥ずかしさのようなものを感じるかもしれない。要するに今からするとレニングラードやクリーヴランドなどで行われていた交響楽団活動と同じようにとても極端なイデオロギーの立場を演じていたということになる。その時代を同時代性を以って記憶がある人は、この指揮者がそこで描いている世界は二十世紀後半のビーダーマイヤー風文明の三種の神器の世界観であったと実感出来る筈だ。そこには、もはや楽聖や楽匠が生きた世界から連なる、欧州の伝統的な世界はなかったということである。



参照:
反知性主義のマス高等教育 2016-03-21 | 歴史・時事
ハリボ風「独逸の響き」 2015-07-27 | 文化一般
東京の失われた時の響き 2016-03-06 | マスメディア批評
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by pfaelzerwein | 2016-03-27 17:25 | | Trackback

市場規模縮小が激しい中

四半期末が迫っている。割引の権利を逃さないために恒例のCD落穂拾いをした。前回同様に明らかに割引市場も規模縮小が甚だしい。自分自身、先日急いで「トリスタン」の音素材が欲しいときには交換サイトなどを通じて調達した。人によってはそれで購入に向かわない人が居ても不思議ではない。但し、繰り返しその制作されたメディアを楽しもうと思えばやはりディスクに勝るものはない。なによりも音質が違う。先日DLしたファイルにはCUEコードが付いていないのでCDそのままのインデックスなどはついていないのだが、もしそのままCDを再現したとしてもグラスマスターから焼き付けたCDとCDROMの音質は明らかに違う。だから音響に拘るならばDAC再生か、ディスクを購入するしかないだろう。

もし手頃なDACを入手した時、その時どのように感じるか?それは実際に使ってみなければ分からないが、予想されるのはHiFi装置に接続したりの煩雑さであって、もし全てLAN上で飛ばすならばまた事情は違ってくるかもしれない。

今回急いで発注したのは、五月の新プロダクションのお勉強に備えて楽劇「ニュルンベルクのマイスタージンガー」全曲の制作録音で、最後にミュンヘンの総監督だったヴォルフガンク・サヴァリッシュが当時のアンサムブルで指揮演奏したものだ。この時期の情報には疎かったのでその存在を知らなかったものだ。フォン・カラヤンがドレスデンで録音したものの対抗盤のようであるが、さわりを聞くとなかなか上手に演奏していて、録音も上手く録れている。この指揮者のシュトラウスシリーズはデジタル録音初期前後にEMIに録音されていて、どれもこれも魅力的なものだったが、管弦楽団も放送交響楽団と座付と二種類がある。どうもこの最後の録音が当時の劇場のアンサムブルの質を記録するもののようで、現在の状態と比較するに丁度良いだろう。

もう一つは、アンサムブルセクェンツァのエディションボックスセットで、いつも買いそびれていたような中世物の詰め合わせである。ハインリッヒ・フォン・マイセンの「フラウエンロープ」や、スコラ派のフィリップ・ル・コンシエール、フォリップ・デュヴィリティ、オズヴァルト・フォン・ヴォルケンシュタインなどの曲が収められている10枚組である。14.99ユーロなら資料としても助かる。

あとはフライブルクの昔からのレーベルが出しているシリーズの安売りから、フランドルの多声楽で、ルーヴァン大学で学んだヤコブス・ファート作曲のテデウムを収めた1.99ユーロの一枚である。

これだけでは十分に30ユーロの最低価格を越えなかったので、一枚だけ標準価格の7.99ユーロで、前からウィッシュリストに入っていたプロコフィエフのピアノソナタ三曲を発注する。アシュケナージのピアノが美しいデジタルサウンドで聞けそうである。

〆て、6ユーロの割引を入れて16枚、36.96ユーロと、やや高くついたが、最近はあまり買えるディスクが出てこないので、この内容ならば仕方がないであろうか。



参照:
未知との遭遇の恐怖 2015-10-24 | 雑感
お目当ての録音をDL 2015-11-17 | テクニック
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by pfaelzerwein | 2016-03-26 17:54 | マスメディア批評 | Trackback

原発警備強化の物的根拠

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聖金曜日を前にして緑の木曜日に買い物を済ました。先ずは、溜まっている空き缶のパンドを取り返しに行った。ゴミ袋一杯溜まっていたので、幾らになるか気になっていた。何故ならばレシートを貰ったら直ぐに使い切ってしまいたいからだ。結局12ユーロを超えた。その足で八百屋に行ってから、スーパーに戻った。それ程買うものも無いので不要不急の缶詰類も序に購入した。冷凍フラムクーヘンも安売りになっていたのでレジに並べると16ユーロを超えた。丁度良かった。

昨晩はカレーの残りがあったので、ホウレンソウを入れて、残りの野菜を加えた。朝早く走ったことでもあり体が冷えたので赤ワインを探した。2007年産のクリストマン醸造所のシュペートブルグンダーを開けた。オェルベルクで、丁度季節向けである。2007年産は、2005年、2009年などに比較するとあまり赤ワイン向きの年度とは思われていない。それでも毛皮臭さなど例年にはない特徴と清潔さが気に入っていたので、最高級のイーディックも購入しているのだ。それでも2009年を飲み干す前には弱ってしまうことは分かっていたので開けたのだった。

予想通り、この醸造所の2007年産は素晴らしい。アルコールは13.5%あるのだが、2007年のリースリングにも共通する繊細さも涼しさもありながら、ブラックベリー系の味とその可憐さはブルゴーニュでもあまりない清楚さで、ベリー系がしゃしゃり出ないのが上質なのである。所謂薄旨形なのだが、美味い以上にエレガントなのだ。残念ながら力が無いので飲み頃を続かないだろうからその意味では価値が上がらないのである。要するに飲み頃に消費できればそれはそれでよい。

2013年産ゲリュンペルも空けた。昨年の二月以来で、先日モスバッハ―醸造所のヴァッヘンハイマーブントザントシュタインが黄色くなっていて、気持ちよく熟成していたので、とても期待した。なるほど2013年産の薬草風味に果実風味が膨らんできて、渋みも無く最初の頃の通好みから万人向きになっていた。黄色味もあるが全く丁度良い最初の瓶熟成である。逆にあまりにも慣れ過ぎていて軽やかで、今後どのようになるのかは見当がつかない。それでも、今までの過去のゲリュンペルの歴史の中でも秀逸な印象である。

ベルギーの原発避難関連での続報が新聞に載っている。それによると、既に伝えたように核開発研究所を含む三か所で警備体制がひかれて、犯人のアジトから10時間を超える重要な核防護に関する動画が見つかったということだ。そこには各開発研究所の役員が写っており、原発の日常が紹介されているということだ。フランスの記事では、ISが核関連施設への攻撃を計画しており、それを受けてフランスでは58の核反応器への警備強化がされたとある。昨年11月に逮捕されたモハメッド・バカリの妻の自宅から発見された中には、サラ・アデスラムの触れた自爆装置などが見つかり、本人はそこから先週金曜日に逃亡している。アデスラムはパリの事件の主犯格とされている。



参照:
ヴィンテージ大胆予想 2007-08-27 | ワイン
刺激するための方策 2015-02-14 | 生活
ベルギーの原発ティハンゲ 2016-03-22 | マスメディア批評
ヒトラー革命と総ミュンヘン 2015-11-11 | 暦
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by pfaelzerwein | 2016-03-25 15:30 | ワイン | Trackback

高額であり得ぬ下手さ加減

来年からバーデンバーデンの祝祭劇場の席割が変わる。そして明らかに配席システムのプログラミングに間違いがあったようだ。そこで良い席よりも悪い席で倍近い料金を払う人が出る。具体的に言うとザイテンバルコンの一列目よりも二列目が高価になっている。あり得ないことである。音響も視覚も二列目には利点が無いので、恐らく問題となる筈だ。最初は席を選択できなかったので最優先の席を予約することになったが、今度は席を指定可能になったからにはお好みの席を格安で買えるようになった。

ムーティー指揮のシカゴ交響楽団が22ユーロ、ブロムシュテット指揮のヴィナーフィルハモニカ―が22ユーロ、まるで楽友協会ホールの立見席並の価格だが一列目なら可成り近く、音響も遥かに明確である。いづれ問題になるだろうが、先ずは券を否、良席を抑えておいた。なぜこのようなことになったのかは分からないが、発売前から気が付いていたが連絡はしなかった、なぜならば修正されていると思っていたからである。ムーティー指揮の演奏会も彼の日本デビューの時以来だから40年ぶりぐらいか。指揮者ブロムシュテットは名前だけ知っていてもその音楽を聞いたことが無いが、ネットでベルリンでのブルックナーを聞くと楽天家のようでとても肯定的で明るい。ルツェルン在住のようだ ― 調べると一枚だけ先日購入していたニールセンの交響曲を振った安売りCDが見つかった。

2016年で二席分しか買えない額で五席ほど購入した ― もしこれでコンセルトヘボーのコンサートがあれば世界のトップフォーを100ユーロほどで網羅出来た。配席の変更はよりよい席占有率を目指したのだろうが、さて間違いは来年以降は補正しても結果はどうなるだろうか?格安席が出ることは若い聴衆を呼び込むことには効果的だろうが、ミュンヘンの劇場などを見ると立見席は公演中に卒倒するような爺婆ばかりである。フランクフルトのアルテオパーの35ユーロのキリル・ペトレンコ指揮座付管弦楽団とのチャイコフスキー五番は直ぐに売り切れた。バーデンバーデンデビューも予想以上に高額席から売り切れている。それでも同時に格安席もよく出ているのは通の聴衆のペトレンコへの期待が徐々に高まってきていることでもあるのだろう ― 小澤征爾の四月のプログラム後半だけの指揮がフィルハーモニーで40ユーロするので高過ぎると思ったが、バーデンバーデンでは29ユーロで少なくとも2017年はフィルハーモニーの後ろの席よりは明晰に聞ける席だ。

興味本位でザルツブルクの配券状況を調べた。会員のセット券を中心にしているがバーデンバーデンよりも残券が多い。オペラの最高券は500ユーロにも上っている。これならばミュンヘンの人はゼムパーオパーを訪ねてドレスデンに通う方が安上がりではなかろうか?あとはヴィーンの人が態々シュターツカペレを楽しみにザルツブルクを訪れることになるのだろうか。

今年の「オテロ」上演はたいへん不評で、バイエルン放送局はなにを歌っているのか分かっていない歌手陣だけでなく、芸術監督ティーレマンのアイデアの無い指揮どころか、シュターツカペレの練習したとは思えない下手な演奏は、この高額の価格ではありえないと痛烈に批判している。これを機に軋みが響き出して、契約満期を待つことなく、いつものようにシュターツカペレの指揮者のポストを投げ出す事になるのだろうか。勘が良過ぎるのかいつものFAZのおばさんはバーデンバーデンからベルリンに行って、ザルツブルクの批評は辞退して同僚に任せている。



参照:
Thielemann dirigiert Verdis "Otello" in Salzburg (BR-Klassik)
知的な解決とは如何に? 2016-03-23 | 音
声楽付き楽劇「トリスタン」 2016-03-22 | 音
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by pfaelzerwein | 2016-03-24 15:10 | 文化一般 | Trackback

現代的聴視料の集め方

二カ月ぶりに峠を攻めた。日曜日に初めて坂を走ってから、これならいけると考えたからだ。兎に角完走を目指して走り始めた。遅めのテムポで考え事をしていたら、峠に着いた時もとても楽だった。足も痛みは感じることはなく、違和感と蹴りの足りなさだけである。22分を切っていたので、昨今の標準20分割にはまだまだだが、一昨年辺りはこれぐらいのスピードで走っていたのだった。それからすればこの一年間で走り慣れて、足を故障していても以前のスピードぐらいは熟すようになっているという事だ。

それで下りに掛かると着地するときに痛みを感じる。足を挫かない様に注意しながら走り抜くが、結構つらい。それでも無事に降りてきて37分であるからまあまあだろう。もう一息である。ショーツだけになったら記録が出るぐらいに回復を期待したいのである。計量すると69.7KGと明らかに減量している。これが体の軽さに繋がっているようで、これでもし筋力が落ちていないとするとクライミングを再開した時にとても良い結果が出るだろう。少なくとも体幹は鍛えられている筈だ。

走りながらの考え事は聴視料のことである。問い合わせの通知が来たからである。連邦共和国の公共放送は各々独立した組織で、ARD, ZDF, DeutschlandFunk, DeutscheWelleと海外向け放送までがそこに含まれて、ARDは各地方の放送局が集まった形になっている。そして2013年からは各家庭、各事業所ごとに徴収するようになって、そこでTV受信機があるとかラディオが幾つあるかとかは関係なく徴収することになった。これはデジタルネットメディアの時代には当然で受信機のあるなしなどは全く関係ない。これによってデジタルTVの普及率は下がったかもしれないが、もはやそのようなことも顧みられないほどであろう。この辺りは合衆国や日本などのTV社会でも同じで、大きなトレンドとして誰も若い人たちはTV放送などは相手にしない。但し、車両ごとに徴収することになって、車載ラディオなどはどのような形であり強制的に徴収される。

既にすったもんだの後で個人的にすっきりした形で支払っているが、今回はさらに今まで話題になっていなかったもう一つの法人あてへの問い合わせである。これについては支払わなければいけないかなと最初から思っていたが、少なくとも追徴だけは避けなければいけない。先ずは他の法人と同じように済ましたいのだが、車両の名義などもありそれに関しては支払っても仕方ないかと考えていた。そして車両に関しての申告は既に事業所・住居として支払っているならば一台だけはそこに含ませることが出来るとなっている。先方がどのように判断するかどうかは分からないが、業務目的の使用をしていない限り車両一台分は事業所に含ませることが出来るようだ。車両を個人目的以外に使っているか使っていないかの判断はどこですればよいのかどうか、その辺りが法的にな判断すべきどころだろうか?税制上の優遇があるかどうか、必要経費として落とされているかどうか、その辺りが判断のしどころだろうか?もし聴視料を新たに収めることになればこれはまた必要経費になることは間違いない。

私自身の場合は業界から恩恵を受けているので、必ずしも多重の催促には腹立たしくはないが、なにも恩恵を受けていないと思っている人にはとても腹立たしいことかもしれない。ネットでどうしたものが転がっていようがその制作が公共放送のものであるならば正々堂々とDLして楽しめるのもこの聴視料のお蔭である。充分に支払っている自覚がある。



参照:
反知性主義のマス高等教育 2016-03-21 | 歴史・時事
膿が出来らない限りは 2013-05-17 | 生活
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by pfaelzerwein | 2016-03-23 20:01 | マスメディア批評 | Trackback