<   2018年 01月 ( 31 )   > この月の画像一覧

索引 2018年1月


予定調和ではない破局 2018-01-31 | 文化一般
二流と一流の相違 2018-01-30 | ワイン
今年初の頂上往復 2018-01-29 | 雑感
ご奉仕品特売をあさる 2018-01-28 | 生活
カーネギーホールなど 2018-01-27 | 雑感
むちむち感の深層心理 2018-01-26 | 生活
東京からの土産話し 2018-01-25 | 雑感 TB0,COM2
GeliebtGehasst 2018-01-24 | マスメディア批評
伝達される文化の本質 2018-01-23 | 文化一般
宮廷歌手アニヤ・カムペ 2018-01-22 | 女
熱心なもの好き達 2018-01-21 | 文化一般
再びヴァルキューレ二幕 2018-01-20 | 音
配役変更にも期待 2018-01-19 | 雑感
入場券を追加購入する 2018-01-18 | 生活
習っても出来ないこと 2018-01-17 | マスメディア批評
引けてから一直線 2018-01-16 | 雑感
ポストモダーンの波動 2018-01-15 | 音
ペトレンコが渡す引導 2018-01-14 | 文化一般
Crazy soprano!!! 2018-01-13 | 女
ぼちぼち週末の準備 2018-01-12 | 生活
「ラインの黄金」のお勉強 2018-01-11 | 文化一般
初茹で豚で芯から温まる 2018-01-10 | ワイン
スキー宿をキャンセル 2018-01-09 | 雑感
二種類目のヴィデオ 2018-01-08 | 雑感
様々な角度から再吟味 2018-01-07 | 文化一般
どうも初走りだったようだ 2018-01-06 | 生活
初買いでの野菜の高騰 2018-01-05 | 生活
腐臭と紙一重の芸術 2018-01-04 | 文化一般
はんなりした初夢心地 2018-01-03 | 暦
ジルフェスタ―を祝う 2018-01-02 | 暦
2018年ごみカレンダー 2018-01-01 | 暦

[PR]
by pfaelzerwein | 2018-01-31 21:13 | INDEX | Trackback

予定調和ではない破局

d0127795_1504585.jpg
舞台神聖劇「パルシファル」の美術を担当するゲオルク・バゼリッツの特別展が開かれている。ミュンヘンのピナコテークかどこかに常設展示があると聞いていたが、2月18日まで特別展示がピナコテークデアモデルネであるということで、計画している。それが終わるまでには、この土曜日「ジークフリート」と翌週の「神々の黄昏」の二日しか機会が無い。日曜日の安い日に出かけようかと思うが、17時始まりの楽劇だけでも長く、その前に早く出かけようと思うと20時間近く頑張らなければいけない。

天気さえ良ければ、ゆっくりと往復するだけなのだが、肝心の楽劇に集中力が欠けないようにと思うと、無理は出来ない。土曜日に出かけても交通量も多く、日曜日よりも無駄が出そうなので、楽しみにしている「ジークフリート」が疎かになるのも嫌である。もう少し考えてみようと思う。

承前)その「ジークフリート」二幕へとお勉強を進めると、新たに感動してしまった。つまり一般的にこの幕は様々に分類された指示動機が次から次へと巧妙に組み合わされて、三場がかなりくっきりとコムパクトに収められているように思われるのだが、もしその指示動機と称する分類から更に解体していくとなると、それどころでない音楽的な面白さが浮かび上がってくる。今回は2015年暮れに「神々の黄昏」を見たからかもしれないが、逆戻る感じで、例えばアルベリヒの場面を見ると、とても簡単に何々の動機などと識別していられなくなる。流石に第二夜になると様々な動機と情景などがオーヴァーラップするだけでなく、音楽的な背景へと思いが移る。やはり第二夜「ジークフリート」が四部作「指輪」の芸術的な頂点であると思う。なるほど「神々の黄昏」の序幕をつけた構成とその音楽的な伸展は比較しようがないが、音楽自体が謂わば「ラインの黄金」ではないが何もないところから出でて、入ってくることを考えれば、「神々の黄昏」の予定調和的な流れは音楽的にも然りだと思う。要するにこの「ジークフリート」ほどの創造性を第三夜には感じなくても決しておかしくはないと思う。兎に角、霊感に富んでいるところとその匠さに感動する。正直この残された短時間にそうした高度な音楽把握が上手に出来るかどうか自信が無くなってきたが、新たなヴァークナー認知への道が開けてきたような気もする。それは「パルシファル」への道だろうか?

先日教えて貰ったハムブルクの「フィデリオ」新制作の放送を少し聞いて、レオノーレ序曲の始まりの最初のテーマは古楽器演奏の技も使いながら上手く行っていたなと思ったら、二つ目の主題でこれは駄目だと思った。そのまま一幕だけでは台所に立ってBGMとして流していたが、二幕は切って、「ジークフリート」勉強に移った。本日のフランクフルターアルゲマイネの酷評を読むと、ケント・ナガノ監督がこのまま務まりそうが無いほど大失敗だったようだ。確かにあの序曲を聞けばこの人はもうドイツ音楽を演奏しないといけないドイツでの活動は難しいと思ったので、ある程度正論だと思った。本当にこれがあのケント・ナガノであるかと、新聞も問うているが、背後事情はいろいろあると思う。私個人的には、やはりキリル・ペトレンコのオペラ革命と言うかスーパーオパーへの移行が大きな影響をしていると思う。まともな指揮者ならばそれまでのように交響楽的な管弦楽を奈落で鳴らしているだけでは済まなくなったからである。新聞の筆者は必ずしもその水準をペトレンコ並みに上げている訳ではないと思うが、半拍づつ遅れる歌とか、日常のオペラ劇場では常の事でも流石に名門のハムブルクの初日では許されないようで、この程度なら北ドイツの地方劇場の方がマシと書いている。終演後のブーイングも凄かったようで、カタストロフが管弦楽と指揮者までに及んでいるようなので、ケント・ナガノ危うしである。そもそもナガノのオペラは交響楽的な管弦楽演奏との批判も初めからあったのだが、ここに来てベートーヴェンなどを気が利いた風に演奏しようとして大失敗となった。しかし、ミュンヘンでの今進行している再演「指輪」の初日シリーズのヴィデオを観てもとてもその音楽は受け入れ難く、稚拙でさえある。ペトレンコのような外国人が訛り無しに上手に熟していくのが当然で、それほど鳴らさないでも素晴らしく存在感のある奈落の管弦楽団とのアンサムブルに慣れてしまうと、多くのものが受け入れられなくなる。ヨーナス・カウフマンが評すように「なんでも簡単にちょこちょこと解決してしまう」天才などなかなかいないからだ。

だから私などは初めから言っている。オペラ劇場などは潰してしまえと、同じように二流の交響楽団なんて要らない、そんな贅沢な娯楽なんて出来る筈がない。ネットでの情報が収斂すると、そうした無駄なものは淘汰されていく。どんどんと引導を渡してやれ、肝心なのはそこから新たなものが生成されていくかどうかだけなのだ。



参照:
Dieser „Fidelio“ ist eine Katastrophe, JAN BRACHMANN, FAZ vom 30.1.2018
二流と一流の相違 2018-01-30 | ワイン
ペトレンコが渡す引導 2018-01-14 | 文化一般
引導を渡す線香の刹那 2016-08-08 | 文化一般
[PR]
by pfaelzerwein | 2018-01-31 01:56 | 文化一般 | Trackback

二流と一流の相違

d0127795_2365388.jpg
久しぶりにゲリュムペル2014年を開けた。人によっては2015年に飲み干しているようだが、いよいよその真価が問われる時期になっている。そしてコルクを開けて、黄昏感が漂い、再びペトロ―ル臭への暗示があった。実際に開けた初日はなんとなくヒネタ感じがあった。

そして明くる日に期待せずに試すと断然若返っていて、新鮮な酸が伸びやかだった。再びデキャンタ―に移すのを忘れていた。この程度のPCになるともはやグランクリュワインのように扱ってやらなければ駄目なことを忘れていた。特にブュルックリン・ヴォルフ醸造所の果実味に富んだ作りはそのエキス分満載故に開け方飲み方が難しい。殆どの人が価格の割に不満を持つ原因となっている。実際にここ何本か開けていて自分自身満足したものは少なかった。一つには醸造親方が変わったためかとも思ったが、やはり長持ちに作られていると最初のうちの嗜み方がとても難しくなってきている。

価格も簡単にGC一本100ユーロ超えるようになっていて、ドイツのリースリングの価格を上昇させる機関車役を担っているので ― 勿論品質を引っ張っているという意味でもある、そのような長期間寝かすようなリースリングは特に必要ないのでPCで充分なのだ。これでも通常の年度でも10年後にも楽しめることは殆ど保証されているようなものである ― その割には安く買えるので争奪競争となっている。

お味の方は基本的には果実風味とミネラルの拮抗だが、現時点ではホウランダーのような味が感じられて、ミネラルの砂岩の砂地系の比較的ケイ素の多い感じで、何処かシャムパーニュにも繋がる高級感が嬉しい。最初にあったミルキーな感じは完全に華になっていて、その塊りが無くなっているので、開いていることには間違いない。但しまだ酸がこなれるというほどに丸くなっていないため、経過十年ほどは全く心配が要らずに楽しめる。価値がとても高かった。あと三本以上は残っている筈だ。

水曜日から始まる第二夜「ジークフリート」の主役はシュテファン・フィンケだ。バイロイトでは2015年に歌った。そのプロフィールなどを調べていて、もしかするとどこかで話したことが無いだろうかと思った。自宅はナーへのバートクロイツナッハのようで、恐らくマンハイムで知り合った奥さんの関係だろう。写真を見ると他人の空似かもしれないが、ワインの試飲会でよく見た感じがする。今後気をつけてみよう。そこからライプチッヒに通っているようで、その途上車を走らせながらハンディーフリーの電話でインタヴューに答えている。

バイロイトのジークフリートとしてキリル・ペトレンコの指揮で絶賛されて、そして今面白いことを語っている。

Anfangs hatten wir einige Reibungspunkte. Er forderte mich auf, mein gewohntes Fahrwasser zu verlassen. Ich bin ein Sänger, der sich gerne Zeit nimmt, mit breiter Stimme agiert. Das geht mit Petrenko nicht. Er ist perfektionistisch, detailversessen, das Musizieren ist bei ihm wie Mathematik, alles muss zusammenpassen. Aber das Ergebnis ist ideal. Um so schöner war es bei den ersten Proben in München, es hat sich angefühlt, als hätten wir nie etwas Anderes gemacht, als zusammen den „Siegfried“ aufzuführen. Die Saat ist aufgegangen.

最初は幾つかもめる点がありました。彼は、自分自身の進路から離れろと求めたのです。私は、ゆったりと幅広い声でやろうという歌手ですよ。それがペトレンコとではならんのです。彼は、完璧主義で、細部に拘る人で、彼にとっては音楽をするというのはまるで数学のように全てが統一されていなければいけないのですよ。しかし、結果は理想的です。ミュンヘンの最初のプローベで上手く行けば行くほど、そもそも「ジークフリート」を一緒にやる以外の何物でもなかったのだと言うことになるんですね。種が開芽ということです。

この「自分は違うように歌う歌手だ」という発言はバイロイトの時からインタヴューで答えていて、態々そのように話す意味が納得できなかった。なるほど彼は、1999年から2005年までアダム・フィッシャー監督のマンハイムの劇場にいて粗い歌をつまり典型的な「二流のヴァークナー」を歌っていたことは分かるのだが、その声の威力だけでキャリアーを積んできたらしい。そこで50歳になるここ暫くレッスンを受けていたという。声楽の技術を磨いて無理せずに歌い続けられるようにと言うことだが、漸く一流への道を歩もうとしているかのように思われる。その素養からして、現在のジークフリートの第一人者であり得るのだが ― その他バイロイトに欠かせない歌手となりそうで、実際にその成果を今回披露してくれるのだろうか。確かに2015年の時には緩いところも残っていた。



参照:
スレンダーながら多層的な23歳 2014-10-16 | ワイン
今年初の頂上往復 2018-01-29 | 雑感
高みの環境への至福の処 2015-08-15 | 音
消滅したエポックの継承 2016-10-23 | 文化一般
[PR]
by pfaelzerwein | 2018-01-29 23:09 | ワイン | Trackback

今年初の頂上往復

d0127795_2327279.jpg
頂上を往復してきた。どうも今年初めてらしい。パン屋が休みになって大晦日、それ以降は雨が降って駄目だったようだ。土曜日に買い物に出掛けて峠攻めをしなかったのが幸いした。ゆっくりでも一時間以上走ればいい運動になる。帰りに向こうからおばさんが一人で登ってくると思って近づいて顔を見るとフランケンタールの山岳協会支部でお馴染みのおばさんで、最後に一緒に山スキーに出かけて以来だった。細かなことは忘れたが何日か寝食を共にした仲間なので流石に顔は忘れない。その場で足踏みしながら近況などを聞いて別れた。こちらも日の出と同時に準備したが、お互いにご熱心なことだと思う。

第二夜「ジークフリート」のお勉強を始めた。またもや一週間しかない。一幕を見て、こんなにオタマジャクシが多かったかと驚く。なるほど楽譜のシステムの数だけでなくて、その各声部も違う。例えば前夜祭「ラインの黄金」では繰り返しの斜線が引いてあったり、第一夜「ヴァルキューレ」まで叙唱に寄り添うような声部が、通常のオペラの伴奏のように、通奏低音のように演奏されるだけだったが、もはやこの一幕からしてこれは違う。

「ジークフリート」は、楽匠が「栄養の糧」と称した一幕を持つ「ヴァルキューレ」の後、また作曲途中で「トリスタン」創作で中断してからの後半への大きな量子的跳躍を成し遂げた作品と呼ばれるのだが、やはり音楽的に見て最も興味深い楽劇であることは間違いない。しかし、この一幕での状況は以前に自分が書いたものを読むと、一つはプリングスハイムの初演記に関するもので、一つはミーメの歌のアフフタクトが八分音符か十六分音符かという手書き原稿に準ずる読みなどで、比較的音楽的な言及に限られる。

今度分かったところもある。一幕における旋律線の動きが明らかに「ヴァルキューレ」までとは異なっていることを、「ヴァルキューレ」の特に二幕でのベートーヴェン的な手法による表現の限界を試していたことを通じて、初めて認知した節もある。要するに一般的に言われているような創作の中断など以前から、どんどんと先へと進んでいたことを再確認したということになる。なるほど唐突に無限旋律などが天から降ってきた訳ではなくて、試行錯誤が繰り返されて例えばアルバン・ベルクにおける無限の下行とかような旋律ラインが引かれていて、その劇作家としてのアイデアと共に流石の匠だと思わせる。そもそも前作までなら所謂指示動機と言われるものに従った筆の運びがあったかもしれないが、ここでは寧ろそうした経済的な効率性以上に、聴衆が分かり易いようにそうした動機が組み合わされていると考えても決しておかしくはないだろう。つまり台本上のもしくは劇作上の必然性として「ノーテュング」などの動機が生な形で響くというよりも、その経過の音楽的な経過を追えない聴者にも目印を指示してあげているという方が正しい感じである。そこが既に前夜までとは違っている。あまりにも音符が多いのでもう一度繰り返して一幕を細かく見て行こうかと思ったが、敢えて先ずは二幕へと進もう。(続く

ここからは、クラシックオタク向きの話題であるが、過日教えて貰ったYouTubeのヴィデオを観ての感想である。ラファエル・クーベリックが地元の放送交響楽団指揮者を務めていた頃、その団員を集めての四つの鍵盤のための協奏曲をミュンヘンのあと三人の指揮者をピアニストに迎えての、弾き振りの練習風景映像である。その三人とは先ずはバイエルン州の音楽監督ヴォルフガンク・サヴァリッシュ、フィルハーモニカーの首席指揮者ルドルフ・ケムペ、もう一人はその両方でシェフを務めたフリッツ・リーガーである。リーガーとケムペ二人が1910年生で同じ年齢、あとクーベリックが1914年、サヴァリッシュが1923年生まれである。人間的にも音楽的にも四人の個性が溢れる映像なのだが、先ずクーベリックがやはり音楽名門の御曹司らしくてその振る舞いも、音楽的にも弦楽器奏法をオリエンティーリングしながらの大きな枠組みでの音楽作りもとても懐が深いのである。それだけに後の三人を上手く纏めていて、同じ人が*東京文化会館の響きにマーラーの交響曲の演奏拒否をしたなどが嘘のような人柄にしか思われない。人柄と言えばゲヴァントハウスでオーボエを吹いていたケムペが如何にもオケマンらしく、そのように音楽を作っていたような人らしく一歩引いたところで協調性をとても重んじていて、この人の録音などのジャケットには大きな顔写真は似合わないな思わせた。何処にでもいる円満な人物である。それ以上にこの指揮者に求めても仕方がないような感じである。その意味ではリーガーが丁度ノイエザッハリッヒカイトの音楽家のようで楽譜の読み方もとても硬直したような印象を受けた。その割にはピアノなどがよれよれなので如何にもマンハイムの音楽監督を務めていた地方の音楽劇場出身の典型だと思った。サヴァリッシュのピアノはある意味その域を超えているようだが、なによりも楽譜の読み方が他の三人比べて細かそうで、それなりの説得力があるのだが、プロデューサーでもないのだからやはりクーベリックの音楽も人物もやはり一番大きかったのが良く分かるヴィデオだった。但しそのドイツ語の発音と同じでどことなく締まりが無いのが彼の芸術だったろう。恐らくどの一人も生では聞いたことが無い。

*東京文化会館は日比谷公会堂の間違いだったようだが、そもそも公会堂で交響楽団演奏会をしていたのには更に驚きで、あの文化会館よりも劣悪な演奏会会場があったのだった。


参照:
愛があるかエコの世界観 2014-07-21 | 音
お話にならない東京の文化 2013-02-26 | 文化一般
[PR]
by pfaelzerwein | 2018-01-28 23:31 | 雑感 | Trackback

ご奉仕品特売をあさる

d0127795_2232571.jpg
久しぶりの眩しい太陽を拝めた。走ることよりも、買い物を優先させた。腰にも張りがあり、前日の鱒が腹でもう一つ収まりが悪かったからだ。そしてスーパーで買い忘れた安売り77セントのスパゲティーの細いのを買い足しておきたかった。嘗てはバリラの五分から八分の太さを使っていたが、最近は濃いソースをあまり使わないので細い三分の消費が一番多い。ヌードルスープにも使え、なによりも調理時間が短く燃料が節約可能だ。2011年以前は考えなかったことで、明らかにライフスタイルが変わった。それ以外にもこのところ急騰して手が出なかったスペイン産のキュウリとレタスを双方とも各々99セントで買えた。ご奉仕特売である。因みにビールの安いのは一缶29セントである。生キュウリなどが有り難いと思ったことはないが、1ユーロを超えるとなると手が出なかった。必要なトイレットペーパーなども補給できてよかった。キュウリ二本の価格でネットショッピングした。

恒例のCD落穂拾いである。最近は忙しくて、そして籠り部屋でPCオーディオは手元でNASまで全てコマンド出来るので、CDプレーヤーを動かさない。勿論籠り部屋から出れば身近にプレーヤーもあり、スピーカーも大きくなるので、制作録音の良さは録音芸術として楽しめる。だから前回11月に入手したCDさえ十分に聞いてはおらず、DVDに至っては一枚をコピーしただけであとのSACDは聞いていない。未聴と言うことが全く理解出来なかったのだが、PCオーディオ主体となるとなるほどと思う。

それでも今回はソニーの棚卸で1.99ユーロが大分出たので、馬の録音を中心に購入した。今でもシナ人としては最も信頼置ける音楽家で、王を聞くまではそれは変わらないと思う。同じチェロの名手でもマイスキーほど趣味が悪くない印象がある、勿論マイスキーの技巧には誰も敵わないと思うが ― マイスキーは生で聞いたが馬は知らない。

一つはスターン、ジャレード、アックスと入れたデジタル初期のモーツァルトピアノ五重奏曲二曲である。些か重苦しいかもしれないが、スターンは分かっているが、若馬を聞くのも悪くはない。次にマゼール指揮でドボルジャ―クの協奏曲で、この名曲のディスクはロストロポーヴィッチ、カラヤン盤しか所持していない。最後に、クレメル、カシュカシュアンとのディヴェルティメントである。

同じシリーズから同じ価格でプロテスタントのミハイェル・プロティウス作曲マグニフィカートなどである。それより高い3.99ユーロでアリオンレーベルのルドォヴィーコ・ロンカリのギターのためのカプリッチョなど、もう一つジョヴァンニ・マリオ・タバーチのナポリ楽派のオルガン曲集の二枚。最も高価な4.99ユーロのモンテヴェルディのマドリガーレ第二集はレザールフロリサンが歌ったものだ。指揮はいつものクリスティーではない。

あれぐらいのグループになると看板がいなくても商売が出来るようになる。音楽的にクリスティーは今でも悪くはないと思うが、殆どの古楽演奏で名を売った音楽家が古典派などを始めて、成功している例をあまり知らない。ヤコブスなどはまだ評価が高い方だろうか。誰も期待していないのに、やはり市場が大きいのでどうしても銭の虫が騒ぐのだろうか。残念なことの方が殆どだ。

合わせて21ユーロを終えるところを、今年から一律6ユーロ引きでなくて、5%引きになった割引を使って、七枚組で19.88ユーロとなり、CD一枚当たり2.84ユーロとなった。さて、安いか、高いか?



参照:
Ich war noch nie in Japan. Das ist.. 2017-04-03 | 暦
熟成の可能性を探る 2014-08-12 | ワイン
開かれた陽画の舞踏会 2009-01-23 | 音
[PR]
by pfaelzerwein | 2018-01-27 22:04 | 生活 | Trackback

カーネギーホールなど

d0127795_23424381.jpg
カーネギーホールのサイトを覗いた。初めてみて驚いたのは入場料が欧州よりも安いことだ。なるほど席によっては明らかに経済力の無い人しか座らないような視界の悪い席も少なくなく、予約してあるボックス席との差は大きそうだが、それでも通常の席の高額券が高くない。バーデンバーデンの二十数ユーロは田舎価格と思っていたがニューヨーク価格である。そしては遥かに素晴らしい席だ。

それでも出し物による価格差も明白で、日本の業界のようにピンからキリまでの出場者の各々の価格帯の中で利ザヤを稼ぐような商法がそこにはなさそうである。大西洋横断と太平洋横断では距離が違うが、その演奏者毎の差額によってやはり日本のそれは明瞭会計でないと思う。カーネギーには、ポップスも含めてきっと三流は出ないのだろう。

ラインガウからプログラムが送られてきていた。早速内容とざっと一瞥する。昨年はイゴール・ヨベットがレジデンスアーティストだったので出かけたが、今年はベルリンのフィルハーモニカ―のアルブレヒト・マイヤーと歌手のアネッテ・ダッシュである。なにか日本の興行師のプログラムのようだ。前者をけなすつもりはないが、昨年我がデスクからも歩いて三分以内で二回演奏会をしたが、結局行かなかった。同じフルーティストのパウだったら出かけていたに違いない。オーボエで彼より上手い人も音楽的に優れている人も幾らでもいる。後者は生で聞いたことがあるかどうかは知らないが、フランクフルトの地元の人なので態々ラインガウに滞在する必要もない。それにいろいろと情報を総合するとそれほどの歌手ではないように感じている。昨年と比較すると如何にも安上がりな感じがする。その他の演奏会も日本公演程度のもので全くこれといったものが見つからない。シュヴェツィンゲンも同様だ。嘗てはショルティが振って、リヒテルが弾いてジュリーニが付けて、ヤコブスが歌っていたので、世代交代してもせめてヤンソンスが振って、ソコロフが弾いてハイティンクが付けるぐらいでないと話しにならない。

2018年は場合に拠れば再びザルツブルクに出かけたかもしれなかったのだが、ルツェルンで全てが片付いたので、態々夜中の高速をブッ飛ばす必要が無くなった。夜間の視界システムが付いた車を使えば昔と同じようにオペラなどが引けてから、4時間少しで帰宅出来るだろうが、そのような価値を見つけられなくなって久しい。

ネットを見ると来る第二夜「ジークフリート」のさすらい人の配役が変わっていた。ヴォルフガンク・コッホに代わってリガからエギールス・ジリンスと言う人が入っている。ドイツ語歌唱的には明らかにあまり期待出来なくなった。こうなるとジークフリート役を歌うステファン・フィンケに任せるしかない。キリル・ペトレンコの下で歌うのは2015年以来の二度目となる訳だが、あの驚異的な声だけでなくて音楽的にも更に良くなって最高のジークフリート歌唱が望まれる。経歴を見るとカールスルーヘの後にライプチッヒに行く前にマンハイムで歌っている。ホルスト・シュタイン以降指揮者は兎も角、やはりヴァークナー歌手の登竜門なのだろうか。あのバカ喧しい荒っぽい管弦楽団に負けないようにあの声に鍛えられたのだろうか?

それにしてもコッホはどうしたことか。少なくとも「ラインの黄金」では声も好調ではなかったが出ていて、丁寧に歌っていた。但し得意のベルカント的な輝きはなかった。その点で批判されていたわけだが、十分に技術的には補っていた。但しあの声で輝きが無いとヴォータンの存在感が薄くなるのは当然で、全体の出来に影響したことは間違いない。さすらい人はそこまで重要かどうかの判断もあったのだろうか。そもそもペトレンコ指揮の公演ではどうしようもない歌手の不具合もしばしばあるのでそれなりにつじつま合わせしてあまり大きな問題とはならない。

先日の第一夜「ヴァルキューレ」の録音を何度も鳴らしているが、やはりFlacで録ったものよりもリニア―のPCMが遥かに鮮度の高い音で響く。驚異的な臨場感で、今まで録音した中で最も優れている。弦の細かな動きがどうやってこの音を出しているのかと思うぐらいで、ホルンソロも一日目に特に賞賛を受けていたようだが、どの楽器も聞いたことのないとても配慮した響きを出している。カルショー制作のショルティ盤以上に驚異的な響きで到底劇場実況録音とは思えない。兎に角、鋭いところの音の粒立ちが到底座付き管弦楽団のものではなく、二流の交響楽団では出すのが無理な響きである。因に写真のところがブリュンヒルデの眠りにつく前の一声だが、ヴィヴラートがよく分かる。典型的なニーナ・シュテムメの歌唱であるが、先のオランダの女性歌手のような粗いことにはならずに細かく制御されている。

相対的に音響に関しては、一幕冒頭での入力が落ちていたためにその後は上げていて、二幕以降はそれよりも落としてある。そのお陰で二幕以降はこちらの入力も若干低過ぎた。それゆえに一幕を流しているとカムペの歌も突出しているが、こうして落ち着いて室内で聞いていると胸がパクパクするほど興奮してくる。会場ではそもそも興奮状態なのでそこまでは感じなかったのかもしれない。また近接したマイクが音を捉えているためその迫力が尋常ではない。



参照:
配役変更にも期待 2018-01-19 | 雑感
GeliebtGehasst 2018-01-24 | マスメディア批評
[PR]
by pfaelzerwein | 2018-01-26 23:43 | 雑感 | Trackback

むちむち感の深層心理

そのもの性的な夢を見た。日本のベットで若いそれも十代の女とイチャイチャしているのである。周りの雰囲気は明らかで、久しぶりにそこで寝ている雰囲気を感じた。そこで寝たのは何年前のことか思い出せない記憶だが、印象としては四十数年前の春の感じである。性的な衝動はどうでも良いのだが、深層心理を解きたい。それにしても今自分のベットで寝ていて、そのころのベットのある特定の情景を目の当たりに見て吃驚した。記憶に全く上らなかった情景であり感覚だったから余計である。

フロイトのそれからすると全ては性的なものに結び付けられるとして、直截に性的なものが今度は何を意味するのか。一体あの女は誰なのだ?いやに口元の感覚が残っている。あの視界の距離感とか音の反響感とかの生々しさには驚いた。あのようなものが脳のどこかに残っているとすると、やはり自身の空間意識とか音場感とかの一つの基準になっていることを知るのである。

日本からの土産話でもう一つ理解出来なかったのは、豆腐で作った糸を引いた料理というものである。納豆でないようで、更に今考えると、豆腐の上に片栗かなんかを乗せた揚げ出し豆腐だろうか、今度会ったら写真を出して尋ねてみよう。その他では寿司のシャリの話しになったが、やはり甘いと言うのはよく分かった。そしてワサビが入っていなかったと聞いた。即座に思ったのは、こちらでは別によけてあるように外人向けのアレンジなのだろうか?それなら安上がりな話した。そして昨年の大阪のすし屋で韓国人旅行者に思いっきりワサビを入れて退治するという事件を思い出した。すし屋の職人ごときなら考えそうなことだ ― 日本食料理人がすし職人をバカにしているのに倣う。

もう一つはサンドウイッチでそのパンがもちゃもちゃしている話しもこれは承知である。日本人の食生活と言うのはやはり水稲のもちゃもちゃ、むちむち触感が基本になっているので、パン食でもなんでもそれらが米食に近づくほどポピュラリティーを獲得するということであり、要するに外国文化の日本化の過程がここでもよく表れている。昔の日本人の多数が白米などを食していなかったことを考えれば如何に白米のシャリに近いことが嬉しかったかがよく分かるのである。

個人的にも初めての欧州旅行での特に英国でのサンドウイッチのパンのそれで気が付いたのだが、その前から日本のそれが上顎に引っ付くのが億劫になっていたので直ぐに英国のライムギパンなどの方が有り難くなったのである。当然のことながら、若干スイスのそれは英国のそれに近いが、シュヴァルツヴァルトのブロッツェンなどを食するようになるとその旅の最中から日本のそれどころか英国のそれも無用のものになったのは言うまでもない。勿論どちらが上等でどちらが優れているなんて言うようなことではなくて、まさしく日本のあの気候の中でのそれであり、英国のそれであるのだ。やはり、だからここより少しうらやましいのは南仏のそれかなとも思うのだ。

南仏と言えば、やはり日本植生のその密な森などを見て、松などを感じさせたようで、南仏のそれに近いという話しになった。これは自分自身の体験であり、もし晩年を悠々自適で過ごすというならば南仏が一番気候的に気持ち良い。地面の関東ローム層と関西の花崗岩の違いも感じたようで、関西と関東のファッションの違い大阪のおばちゃんのそれも説明しておいたが、時期が時期だからあまり分からなかったかもしれない。

停まった新宿のホテルは成田からの送迎が無料でそれは素晴らしいと思った。そこには多くのオーズィが泊まっていて、雪観光だなと分かった。シナ人の爆買いの話しはしていなかったがやはり目に付いたらしい。次の機会には、他の飛行場から飛ぶようにしたいと言っていたが、東京自体を観光しようとしても限界があると事前に言っていたことが分かっただろうか。十年住んでいてもある意味足りないようなものでそもそも観光対象の町ではないと思う。ベルリンの方がまだ大分観光向きである。それでも二週間も滞在するなら郊外にすると話した。

そろそろ「ジークフリート」の勉強を始めないといけない。ここまで来ると俄然関心が高まった。どのようになるだろうかという興味よりも、二種類の七番交響曲や「パルシファル」、「マイスタージンガ―」そして「トリスタン」を見据えて更にマーラーの八番が来るので、音楽的興味が尽きなくなってきた。生半可な毎晩やフェスティヴァルのプログラミングどころでない大プロジェクトになっている。それに付き合って準備するだけでも単位が取れそうな勉強量が必要になってくる。



参照:
苦みの余韻の芸術 2017-02-11 | 音
オージーの天狗裁きの朝 2016-12-22 | 生活
[PR]
by pfaelzerwein | 2018-01-25 23:18 | 生活 | Trackback

東京からの土産話し

d0127795_1234848.jpg
昨日東京から戻ってきた人と話した。初めての日本旅行で子供連れだった。新宿の高層ホテルに二週間居た。天気は良かったようだが、それほど眩しくは感じなかったという。但し、最初二日ほどはカルチャーショックがあったようだ。なんだろうと思うと、至る所で聞こえる音だったようで、ホテルの寝室でも救急車のサイレンで目を覚ましたという。異国のことで通常以上に敏感になっているということもあるかもしれないが、そこまで聞こえたというのが少し不思議である。ショックは、それだけでなく横断歩道や自動販売機などでしょっちゅう音を立てる騒音であり、確かに日本は騒がし過ぎる。イルミネーションの話しもあって、未だにクリスマスツリーが出ていると知ってこれは驚いた。

部屋から毎日富士山が見える写真を見せて貰った。東京も高層に住むとそうなのだと初めて知った。明治公園の辺りをうろついて、渋谷や浅草、上野のパンダ、銀座界隈更にお台場辺りもうろついたようだ。写真を見せて貰うと知らない建物ばかりで、名前は知っている新東京タワーぐらいは分かった。古い東京タワーも残っているのを初めて知った。タカノフルーツパーラーなども立ち寄ったらしい。特大イチゴの写真も見せて貰った。

もう一つ驚いたのは、野宿者が多いということだ。なるほど嘗ての高度成長時代も居なくはなかったが、私が欧州を旅行して驚いたのは乞食の多さだった。そうしたベルリンにも住んでいた人がとても目に付くとなると私などが知っている日本ではないと思う。その反面、右の前方角に棒を建てた左ハンドルの高級車がドイツでは目が付かないほど多いと言われると驚く。特にドイツ車となる訳だがそれにレクサスを合わせると可成り裕福な人が多いという印象らしい。これもドイツにおける高級車の比率はそれほど少なくないので、なるほどメルセデスでもSやGなどの比率は東京は多いのかもしれない。それだけ貧富の差が大きいのが日本ということだろうか?そう言えば先日劇場の前で久しぶりに小銭を恵んだのを思い出した。東欧から比較的若い男性だったが、あの手の物乞いにはなぜかこちらも簡単に財布に手が掛かり、出てしまうのである。不思議な相性があるようだ。どうも威圧感が無いのが良いらしい。乞食の威圧感って言うのもなんとなく面白い。

時間内にオンデマンドのファイルを落とした。大変時間が掛かった。一回目には七十数パーセントで落ちてしまっていた。数時間掛かって、更にやり直すと7時間ほど掛かった。もしそれで失敗したら1080Pのダウンロードは時間切れで断念するところだった。生ストリーミングでの録音と録画が先方の放送事故以外は完璧だったので、MP4で9.24GBのHD映像だけが欲しかったのだ。

相変わらず音声はAACで361kb出ていても本格的な視聴には物足りない。そもそも画像自体も4238kbなので知れている。生録は6602kb出ていて、音声は480kbPCAだから、ストリーミングのスピードが出ている時の映像も比較にならないぐらい良い。せめてオンデマンドの音声の質はもう少し上げた方が賢明だと思う。因みに生録の映像は一幕から三幕まで、4GB前後であるつまり合わせて12GBとなる。

映像を観て気が付いたのは、管弦楽のチェロのトップが一日目とは変わっていて、フルートのトップも変わっている。しかしコンツェルトマイスターもその隣の馴染みのない親仁も同じである。年配な感じなので他所から移ってきたのだろうか?完全にメムバーを揃えないでも放送可能な水準までもっていけるというのは立派である。指揮者さえ良ければ、今ユロウスキーが振ってもこれぐらいのアンサムブルはいつでも出来ることになる。これは大した置き土産だ。



参照:
宮廷歌手アニヤ・カムペ 2018-01-22 | 女
それで十分な銅色の施し 2015-09-12 | 生活
[PR]
by pfaelzerwein | 2018-01-25 01:23 | 雑感 | Trackback

GeliebtGehasst

d0127795_03277.jpg
月曜日の夜はミュンヘンの劇場からの中継があった。それ意外にも二種類のコンタクトがあった。一つは「パルシファル」公演予約のキャンセルの申し出の確認の個人的なメールで、もう一つは昨秋日本にも帯同してツイッターでコンタクトのあった広報責任者の名前でのアンケートのお願いだった。オペラフェストの特別販売でのアンケートだった。なるほどこちらもノウハウが蓄積されてきたが、あと四つか多くても五つぐらいの新制作を残すぐらいで、キリル・ペトレンコと同じようにフェードアウトする心算である。しかし劇場はスタッフも充実しているが、SNSなどを使って独自の広報活動を積極的に繰り広げていて天晴だ。ヴィーンのように観光客目当ては夏のフェスティヴァルだけなのだが、同時にこうして常連さん対策も欠かさないのは偉い。

ネット中継は音量が最初あまりに絞ってあって、また二幕で誰かがマイクに息を吹き付ける事故があったが、それ以外は素晴らしいサウンドで放映された。やはり専門のバイエルン放送局の方がドルビーサラウンド対応でステレオには難がありそうだ。そして前回の「三部作」の時にはアジア向きにもライヴを流していたが、誰も見ていなかったのだろう、今回は取り止めになっていて、その分本放送のキャパシティーが上がったようで、ストレスの無いストリーミングが可能になっていた。但しこちらのネット事情でHD1080Pは再生は不可能なので落とした形で、録音を主体に流した。録音はどうも完璧なようで、映像も今回から48000kHzFlac対応にしたので音質は上がった。あとはオンデマンドで高品質映像が落とせれば完璧である。最初の音量がどのように修正されているかも気になる。

次シーズンのプログラムお披露目の話しが出ていて、個人的には先週末にこの夏までのシーズンの予定が立ったところなのだが、既に次シーズンへと関心が向けられている。なにか劇場の広報戦略と言うよりも音楽監督ペトレンコの芸術的思考形態などをどうしてもそこに感じさせる。今回の「指輪」から「パルシファル」への流れと同時にどうしてもベートーヴェンの第七交響曲がそこに繋がってくるのである。

面白いのは、上のアンケートの回答者に抽選で入場券が当たるのだが、2018年9月下旬10月初めに掛けて劇場200年祭「ゲリープト・ゲハスト ― 愛されて、憎まれて」のフェスト週があり、ペトレンコ指揮「マイスタージンガー」再演のあることが分かった。ペトレンコは、ベルリンのフィルハーモニカーと8月末には七番「舞踏の神化」を振る。そして、ロンドンには6月にマーラーの「夜の歌」で登場するので、結局一度参加を断られたプロムスには参加しないから ― BBCのバカバカ! ―、9月はそこまでお休みなのだろう。しかしヴァルターを誰が歌うのか、エーファーには誰が入るのかとても気になるところだ。コッホのザックスは間違いないだろうが、ベックメッサーにアイへが入るかどうかはあの演出では大きい。

更に気になるのはアニヤ・カムペの任命式で、宮廷歌手になるとミュンヘンに現われなくなるという笑い話で、次の「トリスタンとイゾルデ」での彼女の登場は欠かせないと思われるのだが、それは意味深なのである。いずれにしても、「マイスタージンガー」に続いて春に「トリスタン」があるだろうか?「トリスタン」でヴァークナーは打ち止めだとすると、その他三つは一体何が掛かるのか?コンサートの方でプロコフィエフとデュカとシュミットが入っているのが気になる。劇場でリヒャルト・シュトラウスの「エレクトラ」はあるのかどうか、それよりプフィッツナー、ブゾーニやヒンデミットの辺りがあるのか。

ストリームの映像を観ていて、やはりクリンゲンブルクはそのアイデアに関しては別にしても技術的にはとても職人的に程度が高いと思った。金曜日の公演に関して書き忘れていたが、とても小劇場的な音楽とそのセリフならぬ歌の細やかさは、アップにした映像からはあまり伝わらなかったが、左右に分かれたペア―の間を黒子が取り持つなど中々上手い解決法をしていた。劇場では細かな黒子などは殆ど背景に沈んでしまうのだが、ズームするとそれに気が付く。

秋からSWR放送管弦楽団に就任するカラヤン二世の演奏会評がフランクフルターアルゲマイネに載っていた。いつものように疑問しか湧き起こさない状況が報告されている。逐一、散々に叩かれている。 仕事とはいいながら態々シュトッツガルトまで出かけて、無駄な活きない批判をするのもご苦労様だ。ブルックナーの第九で最初からクライマクスを作ってしまうのであとは喧しいだけで、カトリックのこの作曲家のそれがまるでフォイヤ―バッハ風に料理されて、指揮者ご本人は音楽哲学的と自称しているからと嘲笑されている。あれが自称精神的で、今やその意味が変わっているのだろうかと、この新聞を読む各世界のリーダーにこのまやかしものの正体を見せつける。ソニーの広報の資金がどのように交際費として処理されているか知らないが、SWR文化波などは州の重要な文化の泉である。この指揮者が就任しても長持ちする可能性はないと思う。これだけはっきりと書けるということは当日のリーダーハーレの会場の反響にそれほど反してはいないと言うことだろう。放送局自体がその関連で大きなスキャンダルとなりそうである。次はバイロイトで「指輪」指揮か、能力の無い初代監督とは比較にならないぐらいの才能と魂胆があるからこそカラヤンの本当の後継者である。



参照:
金ではない、そこにあるのは 2017-08-23 | 雑感
熱心なもの好き達 2018-01-21 | 文化一般
[PR]
by pfaelzerwein | 2018-01-24 00:04 | マスメディア批評 | Trackback

伝承される文化の本質

d0127795_2216523.jpg
第二夜「ヴァルキューレ」二日目の放映が迫っている。一日目の記憶だけを書き留めておかないと、混同してしまう。細かな音楽的なポインツはメモしたもの以外には楽譜を見て行かないと書けないが、大まかなことだけでも挙げておく。

先ずは、聴衆の反応だが、「ラインの黄金」よりも熱かった。歌手陣も健闘したが、やはり最終的にはキリル・ペトレンコがいつものことながらみな持って行った。しかし細かく観察するとやはり前夜祭とは異なった。端的に言うと前夜祭は管弦楽への熱い反応と指揮者が五分五分の感じだったが、第一夜はやはり指揮者への熱い支持が圧倒的に聞き取れた。つまり、そこまで「演奏出来ましたね」以上にそこまで「やりましたか」と言うような、恐らく新聞紙上などでのそこまでの「必然性への質問への回答」を多くの聴衆が実感したということだろう。私を含む一部の聴衆は最後まで頑張ったので、明らかに控室でシャワーでも浴びようかとしていたニーナ・シュテムメが一人遅れて出て来る有様だった。その夜のスターだったカムペは一緒に直ぐに出てきたのと対照的だったので、その日の出来具合によっての楽屋裏での雰囲気がよく分るシーンだった。

やはり最後は数十人だったが、戻ってくる者も少なくなく、明らかに聴衆側の強い支持が感じられた。タンホイザー二日目よりも知的な支持だったと感じた。オペラ劇場の聴衆でどれほどの人が所謂音楽通かは中々計り難いが、その人達の音楽的な趣味の良さは素晴らしいと思う。その人達にとって、三回目の夏の上演は残っていても、一先ずオペラ劇場での「ヴァルキューレ」上演の到達した演奏実践への支持を聴衆の間でも確認しておく必要はあったと思う。フルトヴェングラーがベートーヴェンの演奏実践に終止符を打ったように、ペトレンコはヴァークナーの「指輪」の演奏実践に終止符を打つと考えていたかもしれない。とは言っても、第二夜「ジークフリート」そして第三夜「神々の黄昏」を通さなければと、私などは思うようになったが ― まさにそのように考えてペトレンコは指揮をしている、これは間違いない ―、恐らく後ろの二つに関しては前の二つほど2015年との差異はないだろうと思っている者も少なくないかもしれない。そもそも私自身もこの夜に賭けていた根拠はそのあたりにも存在する。

同時に夏に上演される「パルシファル」を考えるときに、先に書いたようなつまりクロード・ドビュシーが聞いたヴァークナーの楽劇の音楽的な真価を、その芽吹きをこの第二夜までに見つけたとすれば、これはこれでとても大きな演奏実践の成果と言えるかもしれない。キリル・ペトレンコのプロジェクトは、サイモン・ラトルのとても気の利いたプログラミングとはまたそのスケールの大きさで異なるのを、オペラからコンサートに跨り明らかに2018年はその芸術的比重が半々になっているような時、恐らく殆どが専門的な音楽通はそれを徐々に実感してきていると思う。オペラ上演では2017年がキリル・ペトレンコの頂点であったと思うようになった。

前半二つを終えて、楽匠の音楽歴史上の成果を、その劇作家としての匠と同時に、まさしく「過剰な分析」と言われるほどに示してくれたことに最大限の感謝するしかないのである。それは、一夜の娯楽な熱狂や昔話となる記憶ではなく、私たちの財産そのものである。なるほどその芯にあるのは、もはや録音されたり録画された記録の追体験ではない聴衆や演奏者の肉や血になるつまり伝承されている文化であり、やはりそれが音楽芸術のその芸術文化の本質だと思う。ペトレンコが「ライヴに来てくれ」と言うのは、まさにそうした伝達でしか伝わらない文化でしかなく、メディアの記録とはまた別な口移し的な演奏実践的な伝授を意味しているからだ。ラトルの若者への働きかけやその社会文化活動は知的文化的にも素晴らしかったが、ペトレンコのそれは楽譜の読み込みから始まって途轍もなくスケールが大きい。それをして本当の天才と言うべきだろう。



参照:
ワイン街道浮世床-ミーム談義 2005-05-25 | 文化一般
瞳孔を開いて行間を読む 2006-10-22 | 音
[PR]
by pfaelzerwein | 2018-01-22 22:18 | 文化一般 | Trackback