索引 2007年12月


非連続の鏡の中の逡巡 [ 暦 ] / 2007-12-31 TB0,COM0
強力吸い過ぎにご注意 [ 生活 ] / 2007-12-30 TB0,COM5
降臨の気配に天国作戦 [ 雑感 ] / 2007-12-29 TB0,COM0
芸能人の高額報酬を叱責 [ マスメディア批評 ] / 2007-12-28 TB0,COM0
憶いを凍かして雪見酒 [ 生活 ] / 2007-12-27 TB0,COM0
酒樽一杯、胃袋一杯 [ 料理 ] / 2007-12-26 TB0,COM2
白いクリスマスイヴ風景 [ 暦 ] / 2007-12-25 TB0,COM4
クリスマスメールの下書き [ 暦 ] / 2007-12-24 TB0,COM2
冬至に春の息吹きを想う [ 暦 ] / 2007-12-23 TB0,COM6
語学学習の原点に戻る [ 生活 ] / 2007-12-22 TB0,COM0
形而上の音を奏でる文化 [ マスメディア批評 ] / 2007-12-21 TB1,COM4
躁状態での酸状態吟味 [ 試飲百景 ] / 2007-12-20 TB0,COM2
YOUTUBEで品定めをする [ 音 ] / 2007-12-19 TB0,COM0
ゴーストバスター請負 [ 文化一般 ] / 2007-12-18 TB0,COM0
放射冷却の午後に温まる [ 暦 ] / 2007-12-17 TB0,COM2
肉体に意識を与えるとは [ マスメディア批評 ] / 2007-12-16 TB1,COM5
しなやかな影を放つ聖人 [ 文化一般 ] / 2007-12-15 TB0,COM4
木の実パンで乾杯 [ ワイン ] / 2007-12-14 TB0,COM2
ファウストュス博士」索引 [ 文学・思想 ] / 2007-12-13 TB0,COM0
脱構造の日の丸の紅色 [ マスメディア批評 ] / 2007-12-12 TB0,COM2
スッキリする白いキョゾウ [ マスメディア批評 ] / 2007-12-11 TB0,COM0
待ち焦がれた破局の興奮 [ アウトドーア・環境 ] / 2007-12-10 TB1,COM3
永遠に続く生の苦しみ [ 文学・思想 ] / 2007-12-09 TB0,COM2
限界に近い今日この頃 [ 生活 ] / 2007-12-08 TB0,COM0
新春が楽しみな青林檎 [ ワイン ] / 2007-12-07 TB0,COM2
人命より尊いものは? [ 生活 ] / 2007-12-06 TB0,COM0
初冬に香るリースリング [ ワイン ] / 2007-12-05 TB0,COM2
ど真ん中にいる公平な私 [ 女 ] / 2007-12-04 TB0,COM3
既視感と焦燥感の恍惚 [ 文学・思想 ] / 2007-12-03 TB0,COM4
民族の形而上での征圧 [ 文学・思想 ] / 2007-12-02 TB0,COM0
妻フリッカの急逝とその娘 [ 女 ] / 2007-12-01 TB0,COM0

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# by pfaelzerwein | 2007-12-31 23:59 | INDEX | Trackback

非連続の鏡の中の逡巡

d0127795_1941729.jpg秋に髭剃りを新調したことはここに書いた。その後も何度も充電して、尚且つ洗浄液で洗いながら使用している。二月経過した時点での感想である。剃り味は、幾らか刃が丸くなったのが新品の時分のシャープさは無くなった。それに髭剃りの時間も初めの時点より短く無精になってきた。剃り味が悪くなるとどうしても拘りが失せる。細かなところが面倒になる。それでも、ある程度時間をかけて少し圧力をかければ良く剃れるとは思っている。

しかし、どうも以前使っていた充電池よりも質が悪いような気がして来た。刃の動きが同じだとすれば、以前の物の方が一週間以上も充電が持った。毎週一回は洗浄をする時間はあるので、それ以上保つ必要はないが、せめて一週間は充電無しで動いて欲しい。

なるほど、新製品の発売時から継続して売り込む場合は、生産コストを押さえて行くのは工業家やそのエンジニアーにとっては当然のことである。しかし、充電池は中国か何処からかの買い付けであって、電圧の減衰データーを基にして、使用者に気が付かれないように「余分な能力」を削っていかなければいけない。自動車でも髭剃りでも同じである。その分、同シリーズの欠点も改良されている。

何れにせよ、髭剃り使用時間をあまり長くは懸けたくないのである。するとどうしても剃り残しが出てしまう。そうなると新品を買ったにも拘らずと、日中どうしても不愉快な思いをする。

髭剃りも髪の毛と良く似ていて、その「気になり方」が問題なのである。最近幾つかの記事を読んで、なるほど短すぎても長すぎても放っておいても手間をかけ過ぎても上手くいかないのである。

笑福亭鶴瓶の小ネタに、髭剃りのものがあって、髭を剃ってさらにモミアゲをモミアゲ剃りを当てて、更に剃りだすとその境目が判り難くなって、何処までも剃り込んでしまうと言うお得意の強迫観念ものがある。これも、もみあげの生え際とその延び方の一様でない形状と、自然にして置きたいが、その自然さが何処まで行っても追求できない不思議さがあり、それをモミアゲとして手入れする難しさにこの恐怖心が湧き起るのだ。

その点、髭を剃るのは容易で、何処までもツルツルになるまで剃ればよい。境目はハッキリしている。充電を使い果たさないように、少し圧力をかけながら執拗に剃れば良いのだ。

それにしても洗顔や歯磨き時にはあまり出ない一人喋りが髭剃りによく出るのはなぜか?決して怠慢な態度で鏡を見ている訳ではないのだが、どうしても小言かなんとかが出て来てしまうのである。なるほど歯の汚れとは異なり、髭の成長と言う連続した時の推移が髭剃りによって断行されるからだろうか?

するとどうだろう。区切りが分らないモミアゲこそが、連続性を表象しているのではないだろうか。しかしである。その連続性を何処かで断行しようとするから、ついつい強迫観念に襲われてしまうのである。

暦の上の一年の終りも、これに似ているかも知れない。その区切り自体は冬至のようになんらハッキリした区切りにはならない。しかし、なんとなくここで区切ると言う感じである。だから、カウントダウンなどするのと、モミアゲを何処までも剃り込まずにどこかで任意に線を引いて止めるのと、心理的に似ている。
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# by pfaelzerwein | 2007-12-31 19:06 | | Trackback

強力吸い過ぎにご注意

d0127795_421792.jpg掃除機を新調した。17年ほど使ったフィリップスのクリーナーは、半年ほど前から、部分欠損が始まっていた。開け閉めする蓋のヒンジ部分である。更に二月程前には、頭の小さなノズルも行方不明となった。ゴミと一緒に捨ててしまったのだろうか。

そのような状況から、新調しなければいけないことは覚悟していた。12月に入ってから、ネットで調べると利用者の製品評価のすこぶる良い商品が割安で提供されているのを見つけた。そうなると、どうにも落ち着かない。クリスマス前に売り切れないか、棚卸で在庫がなくなるのではないかと心配になるのである。

しかし、それほど投資した筈もないロイヤルダッチの商品でも、ここまでもてば決して悪くはなかった。千ワットの入力?は充分であり、横長であったので引きずり回しやすかった。ブランドイメージも悪くはなく、当時の超有名メーカーAEGやSIEMENSやMIELEなどと比較しても割安だったのだろう。見た目からして軽めであったのもブランドイメージに相当していて、反面耐久性にはあまり期待していなかった。しかし、交換の吸引袋なども廉く、モデル商品がドイツの大手小売チェーンから売り出されていてお徳であった。4フィルター方式で、排気のエアーも清潔な感じであった。

さて、今回の商品購入では、特に選定ポイントはなかったが、お買い得感のある評判の良い商品を探した。ジーメンスは、富士通ジーメンス以外はパン切り機やあとは見えない部品ぐらいで、この名門ブランドの商品を殆ど使っていない。恐らく、どのような商品も価格的に競合商品に比べて割高なのだろう。ネット評価も製品の仕上げが良いということで、割安商品の割には満足感があることを期待した。

配達された梱包は思いがけず小さくコンパクトに纏まっていた。その原因は、ノズルに繋ぐもっとも長い真っ直ぐなパイプ部分がアルミで出来ていて伸縮するアイデアだと分かった。その機能はネットで読んで知っていたが、現物を見ても良く分からなかった。何よりも通常以上に重くがっしりとしたそのパイプに驚いた。使う人の身長などに合わせた伸縮させる使い勝手は、使っていくと腰への負担などで都合が良いだろうが、それよりもその硬性は、今までの掃除機の印象とは大きく異なり、絨毯の上などでの動きが安定して気持ち良い。

そして何よりも、予想以上に音作りが出来ていて、回転系のジェットエンジンや機内のようなBMWの高級乗用車内の音作りを思わせる。電源でパワーを無段階に変動させれるので、絨毯向きの半分のパワーでかなり落ち着く。最大パワーまで吹かすと流石に音は大きいが、先ず最大パワーは殆ど使わないだろう。どれほど強力かと言えば、最大パワーでは絨毯の上で転がすことが不可能となるぐらいなのだ。

ノズルの先のブラシも掃除し易そうである。パイプの持ち手は握りやすく太くして、突起を刻んであるとあったが、この部分は明らかに大女向きで、ドイツ女性でも小柄な人には太すぎるような感がある。インターナショナルな取扱説明書になっているが、ドイツ語圏以外ではこの点から家庭ユーズでは評判は悪いかもしれない。d0127795_411195.jpg

その反面、先頃失ったノズル二点セットは、蓋の内側に収納出来るようになっていて、失くすことも無く、いつでも使えるようにしたアイデアは大変気が利いている。

暫らく使用してみないと判らないが、不織布のゴミ収納袋はランニングコストを上げそうで、吸引能力が強いだけに直ぐに一杯になりそうな気がする。仕上げは悪くはないが、ヒンジ部分などはやはり注意しないとプラスチックの加水分解や紫外線で壊れ易いかもしれない。二十年もたそうとは思わないが、フランスの製品のように壊れてから本格的に使うような様にはなって欲しくないのである。

重量も見た目の堅牢さほど重くはなく持ち易い。ただ、引っ張ると転び易い傾向はありそうだ。最も複雑で壊れると面倒な部分が、電力調整を兼ねたスイッチ部分であろそうだが、今までは適当にスイッチを足で踏んでいたことを考えると、踏み難くなっているのでかえって長持ちするかも知れない。

取扱説明書を見ていると、人間や動物への使用には不適とあった。レースのカーテン向きにコントロールしたとしても、強力な吸い込み力は膿を吸い出すだけのパワーがあるだろう。

送料・税込みで82ユーロは、希望小売価格の60%割引と書いてある。
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# by pfaelzerwein | 2007-12-30 04:03 | 生活 | Trackback

降臨の気配に天国作戦

チャイルドポルノの大強制捜査がクリスマス二日目に行なわれたようだ。作戦名「ヒンメル」で操作対象となったのが一万二千人とあるから大規模である。バイエルン州だけで一千九百人が対象となった。それとは別に海外七十カ国での容疑者の特定がなされている。

前回はハレを中心に行なわれた作戦であったが今回はベルリンが司令塔であったようだ。そのためかハレの地元の中部ドイツ放送が前情報を流して、直前にデータを消去した容疑者も多かったようである。勿論通常の消去では痕跡からその証明が可能となる場合が多い。

主に手入れされた業者への支払いやネット上での目立ったダウンロードの動きを一年以上も前から内偵していた結果が今回の成果に結びついたようである。クレジットカード会社の支払い伝票の捜査への提出協力も大きい。そればかりかスパムメールを誤ってダウンロードしてしまったならば、警察に届けなければ容疑として扱われると強硬な立場を採っている。

こうした市場がある限りは、最も問題とされる児童への虐待があとを絶たない。また市場がなくとも趣味の世界として虐待や殺人が繰り返される例がこと欠かないのが、こうした性的犯罪の特徴でもある。

この問題には、ゆえに二つの課題があるのだろう。一つは、市場の有る無しに係わらない虐待の犯罪行為の防止、もう一つはそうした性的偏向の社会的な評価であろうか。

前者は、後者の偏向が社会に存在する限り、いかなる量刑をもっても防止は出来ない。だから、こうして大量のコンピューターが没収されて持ち主が刑罰や社会的制裁を受けても同じように再び繰り返される。また後者においては、こうした偏向がどのように評価されるかによって、前者の犯罪に当たらないアニメーションや漫画における同等の表現の規制にも更に踏み込むことになる。そこでは、所謂、エログロの表現は規制されるのが、その効果の如何に関わらず当然だとされる。

そうした規制に対しては一切「表現の自由」を盾にした反論は無意味である。その反面、少年少女や子供のヌーディズムにあまりに不寛容であることは、さらなる文化問題を引き起こすに違いない。しかも、今回もザクゼンアンハルトなどで市長がこの捜査に引っかかり辞任したことのみならず、こうした幅広く掛けられた網が間違えば政治的にも使われかねない危惧をもっている。そしてそこには、ある種プロテスタンティズムの強い意志が見え隠れすることも大変不快である。

事情は若干異なるが、ネットでの音楽交換サイトのユーザーの摘発も日夜数限りなく進んでいる。突然、捜査令状を手に、警察が一般家庭を訪れ、家宅捜査後に該当のコンピューターが押収されて二度と戻って来ないと言われる。その多くの利用者は、戸主と同居しているティーンエイジャーなどで、莫大な罰金はネット回線の契約主である戸主が支払わせられることになっていると言う。その責任能力には法的な議論が存在するようだが、否応無しに弁償を迫れているのが現状のようである。

これらに関連してますます身近にあるのが、新年冒頭からの効力を発揮する携帯電話を含むあらゆる電話通話等の半年間に渡る電信記録の保管法案である。テレコムでは百テラバイトの記録スペースが必要になると言う。EUのガイドラインでは重大犯罪にのみこの記録が捜査に使われ法廷で証拠とされるが、ドイツの法案ではより広範に犯罪捜査に使える。一年後には、ネット利用も全て半年間、その記録が保存されることになる。

しかしそのEUガイドライン自体が不安定なものであり、また実効果にも疑問が持たれる。実際に、外国人などの方が一般の市民よりも様々な携帯電話の番号を保持しており、また不透明な携帯電話同志で通話をする限りなんら事件と無関係に通話がされるのであろう。

どうもこれらの処置は、犯罪防止どころか、重大犯罪に対する訴追立件にもそれほど効果がないようにしか思えない。新聞の紙面の隣の記事に目をやると、「リベラリズムは死んでいる」と見出しが付けられ、ベルリンの大連合政権下で成立した禁煙やら最低賃金、進行中の高額報酬・給与議論のように、一時は元気の良かった自由党が孤立して来ていることが書かれている。いよいよ、テロとの闘争で幕開けした二十一世紀の気配が日常生活に迫ってきているようだ。
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# by pfaelzerwein | 2007-12-29 04:10 | 雑感 | Trackback

芸能人の高額報酬を叱責

連邦共和国の最初の二十年ほどは、「我々は国をもっていなかった。それは民主主義のベールに有益者の政府駅舎が隠れていた。」と1960年代に述べ、1970年代には「労働組合の限られた関心と無関心に、CDUの政治家は多くのアドヴァイスを必要とした」と、カール・シュミットエルンスト・フォルストホッフの往復文書で戦後に交わされた内容である。

そもそも法治国が憲法の土台として存在するのか否かは、公平さを齎す国社会として存在するのかの問いかけとした法学者フォルストホッフが、同じく第三帝国の法的根拠を築いたシュミットと、戦前から最後まで交わした文書を軸とした新刊書籍の新聞評を読む。

門外漢には難しい、国社会の機構や法治国のあり方の議論は、アンゲラ・メルケル現首相の収入格差への議論が、それとはまた異なる形で、大統領に次ぐ連邦共和国第二位の地位の国会議長ノベルト・レンメルトから切り出された議題にも含まれる。

それは、クリスマス前に再びキリスト教民主同盟側からの声として、上場企業重役への報酬や退職金のみならず、スポーツ選手や芸能人への法外な報酬に怒り、それを叱責するものである。これを伝えたのがビルト・ツァイトュングと言う写真大衆紙であり、メディアの元締めであることも忘れてはいけない。

ミュンヘンのクラブがブラジルの少年に払った高額な金は、多くの一家の主が一生掛かっても稼げない額であることを叱る。法的には規制できないことであり、当時者に良識を求めるとしているが、これはそのような問題であろうか?

少し考れば、これはドイツの国内問題ではないと判る。グローバルな市場競争の問題であることぐらいは素人でも推測できる。しかし、スポーツ選手や芸能人に限っても、それがその能力とは全く関係ないところの人気市場で評価されていて、それを食い止めることが出来ないのは、あれだけ世界で罵られた元日本サッカー選手などの法外な収入でも判るのである。それどころか、自転車競技などでの薬品の使用の常習化は、その報酬が「誤り」であることさえ証明している。

そして、上の政治家も「なにも政治家の収入と比べる訳ではないが」と付け加える必要がある。どうしてもそのような興味となるのが、こうした収入の政治議論の難しさなのである。

さらに、国が富みの分配をその税制によって司れるかと言えば、スイスやモナコなどのヤクザ諸国が世界に存在する限り不可能なのである。世界のマネー・ラウンダリングは法規制されているが、移住や居住は自由であり、当然ながら自由な報奨の支払い方法も自由な経済活動の基本である。

多くの人気者や著名人が社会奉仕に私財をつぎ込んでいることは知られているが、寄付金の非課税だけではこうした善意が充分な機構として、社会の不平等感を解消するに至らない。

シュミットが上の文章の中で一度、社会学者フランツ・オッペンハイマーが「重要なドイツ人」として記念切手に採択された節に、あまりにも政治的であると痛烈に批判している。少数民族であるそのユダヤ人こそが、政治的な方法での社会の公平化を乗り越える自由経済の経済的方法を考え、先日なった欧州の往来の自由とTV電話を2023年の社会に予測していて面白い。余談ながら、慶応義塾大学に招聘され東京への脱出を果たしたが、その第三帝国の同盟国ではナチの圧力で講座を持つには至らず、上海経由で米国へ亡命したとある。

そのような事を考えていると戦後公職復帰後ハイデルベルクの正教授を務め、キプロスの総監となったフォルストホッフが、元凶であるマスメディアやジャーナリズムを1967年に批判する言葉に行き当たる。

「19世紀とは異なり、報道機関が、公共の議論において、もはや根本的なアンチテーゼを提示しないで、ただ一つのシステムの中でのヴァレーションを示すのみとなっている」と、報道の可能性を「自己の姿勢を示すだけに限られる」と定義している。

この考え方にあるジャーナリズムの姿勢は、今回シュプリンガーグループの大衆紙がこうした議論を大きく紹介して、税制上の調整無しに社会の不公平感を募るような収入格差が埋められる可能性の無い、国の税制を簡素化する方向にある自由主義市場システムの中では、こうした政治家の発言こそが殆ど無責任にしか響かないことに相当するのである。つまり、それは大衆紙の主要読者である大衆の動員を目指すポピュリズム政治であり、市場の中で自己の立場を築く破廉恥なメディアでしかない。有権者の「人気」取りを命題とする民主主義政治の限界ともなる。

こうした悪循環から逃れる方法は、はたして存在するのか?メルケル首相の提唱する「社会と経済を司る政治の実現」は本当に可能なのか?

フォルストホッフは、作家のユンカーなどと同じく消極的なナチ協力者もしくは節度を持ったナチ批判家としてとしてのアリバイをこれ見よがしに提示する。一方、シュミットがただ単に法律的にナチの基盤を整えたのみならず、強力な反ユダヤ主義者であったことを思い出せば、国社会がなすべきことは大衆のルサンチマンの心情に動かされるものではないことは明白な筈である。



参照:
Eine große Rührung, von Wolfgang Schuller, FAZ vom 24.12.07
Rezension über ein Buch:
"Ernst Forsthoff - Carl Schmitt" Briefwechsel 1926-1974
Hrsg. von Drothe Mußgnug, Reinhard Mußgnug, Angela Reinthal
Alademie Verlag, Berlin, 2007
ケーラー連邦大統領の目 [ マスメディア批評 ] / 2008-01-02
東京でのヒトラーの遣い [ 文化一般 ] / 2007-08-16
キルヒホッフ税制の法則 [ マスメディア批評 ] / 2006-12-24
美しい国は何処に? [ 雑感 ] / 2006-10-01
「現代福祉国家における自律への権利」 (『法の科学』28号掲載) ―
笹沼 弘志 (静大教育学部)
「市民の厚生を見据えるEU、軍需利権へ媚びる日本/リスボン条約の核心」
(『toxandoria の日記、アートと社会』)
格差事情 (文化芸術暴論)
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# by pfaelzerwein | 2007-12-28 01:24 | マスメディア批評 | Trackback

憶いを凍かして雪見酒

d0127795_0175471.jpg昨晩は、夜更かしをした。天気予想通り、湿った大気が入りこんで、温度は上昇して、セントラルヒーターにサーモスタットが掛かり、夜中はあまり暖房が効いてはいなかった。そして、朝になると教会の鐘に天窓を叩く音が重ねられた。霙まじりの大きな湿った雪が降り出した。梢の霜は細り、木々は黒々として来て、すると今度は地面や屋根が雪で白くなった。

古い白黒番組などのシーンをネットに見つけると、その生放送時代の記憶に残っているだけのTV番組などに見入ってしまう。なにも映像が、永六輔の作や演出としてまたは映像技術として面白い訳ではない。子供の頃の記憶はやはり鮮明のようで、そのような番組を観ている自分の状況を曖昧ながら少しづつ思い出してくるのが興味深いのである。

古い自分の写真などを見ていると、写されているときの主観的な心境のようなものが幾らか辿れるときもある。その多くは明文化できない感情のようなものである事も多いかも知れない。

以前は、カメラを写している取り手の視点からそうした感情を辿って見て、その状況を想像してみた。つまり、写真としての映像記録を記憶として読み解いて見たのだが、写されている自分は元来その視点にはなく、被写体としての記憶しかない。つまり、その記憶を記録として脳のどこかにしまいこんであるかどうかに興味がいくようになった。

ここでの記事においても、試飲やその他の記憶は、なんらかの記録によって特定できる時刻と場所などを徐々に思い出して行くことで、それに纏わる自己の感覚的なものを思い出して行くことがある。これは特に試飲と言う一種の感覚的に研ぎ澄まれた記憶が、その状況の具体的な記憶に結びつく例である。

簡単に申せば、印象に残ることは必ず覚えており、漫然と記録されている記憶に対するなんらかの特定が出来ればそれはかなりの程度呼び起せる。その時は、推測や状況の判断よりも、心理的な面に注目すると糸が解れるように記憶が新鮮に蘇ってくる。

しかしこうして記憶を辿るのは、コンピュータのハードディスクの圧縮してあるデータを開くようなもので、役に立つ選別された記録から、強制的にしまいこまれた記録を呼び出すようなものである。だから、開いたものも結局は用が済めば、再び圧縮してしまい込んである必要がある。その場合、新たな関連性などをつけることも出来る反面、必要がないと判断されたものは消去してしまうことも出来るかもしれない。

年末の雪では、アルペンスキーのメッカ、ザンクトアントンからの帰路、二百キロ以上もスケートリンクとなった高速道路を帰ってきたことを何度も思い出し、経験として人にも伝える。家近くまで来て、ヘッドライトが暗くなっていることに気が付き、ほっとしてワイン畑横の道端に停めた車を見て驚いた。車は、滝の落ち口のような五センチ以上の硬い蒼氷の中に包まれていたのであった。

天候と寝不足が祟って頭が重いので、雪見酒と洒落こんだ脳の解凍作業は、これまた楽しい。
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# by pfaelzerwein | 2007-12-27 00:18 | 生活 | Trackback

酒樽一杯、胃袋一杯

d0127795_23173399.jpg
胃袋が破裂しそう?暴飲暴食はしない。しかし、二キロ以上のザウマーゲンをはじめて購入した。小さなものとの差は、その噴門と幽門の存在が大きい。一方に食道が繋がり、また一方の細くなっている方をPars Pyloricaと呼びその弁をPylorusと呼ぶようである。

雄?豚の胃袋とはこれぐらいの大きさなのか。しかし、胃袋一杯にザウマーゲンを食すると、人間も豚のようになる。

さて、お味や食感の方は、味はこの特大の方が茹でてもなかなか味が外へ逃げないようで、水っぽくならない。しかし、皮はいつも以上に分厚く食べ過ぎると消化が悪い。それに合わせて、大根などの消化を助ける物を添えたとしても充分に温野菜を食べると、これまた暴食気味になる。

さて、ワインの方は上等も開いていたが、敢えてリッターヴァインを開ける。現在、二種類の新鮮なこれを変わり番こに試している。すると、その醸造所のコンセプトなどが見えてくるのである。

今開いている方は、A・クリストマン醸造所のリッターヴァインで、アルコール度は11.5度と少し弱めである。そして、さっぱりした柑橘系の味と香りは、清涼飲料水的でさえある。酸の質が良いので酸っぱいとは思わない。そして、杯も進むが、決して水のように飲んでしまうと言うのではない。なぜかと言えば杯を傾けるだけで、口内がさっぱりして、食物をさらにワインで流し込む必要がないからである。ワインを味わえるのである。シーダーに近い感じもある。その意味からこれは良い食中ワインである。

さて、もう一方のリッターヴァインはフォン・ブール醸造所のもので、なによりも12度のアルコールとその香りは素晴らしい。クリストマンのものを飲んでその微かなミネラル風味とこれを比べたが、これも予想に反してミネラル風味が楽しめた。どこの葡萄地所からの収穫を買いつけたかは明かされていないことや、そのミックスは多岐に渡ると思えたからである。それほど美味く味を調えてある。流石に量を均等な質で出さなければいけない大手の醸造所の品質管理とも言える。

しかし、ワインはアルコールであり、ある量を越すとどうしても酔いが廻る。そしてその酔い心地はとても大切な判定基準となる。ここで、高級ワインと呼ぶ物は、飲み過ぎてもアルコールが幾らか体に残る感覚だけで、決して気分の悪くなるようなものではいけない。欧州のワインは天然飲料であり、決して人工的なものであってはいけない。

アイスヴァインに代表されるような甘口ワインはどうしても、保存と安定のために硫化物投下量が辛口に比べ何倍にも跳ね上がる。だから、アルコール度は甘口に比べ遥かに高くとも辛口は悪酔いせずに沢山楽しめる。それでも、ワインレストランなどで飲む廉いワインは、口当たりが良くとも、酔いが直ぐ廻る。そして、飲み過ぎると悪酔いに近くなる。それは発酵を無理に止めたりして味を調えているからだ。だから、最近は三倍もの価格で売られる安物ワインをレストランではグラスで二杯つまり半リッター以上は飲まない。

同価格の上の二種類を比べると、味香り共に好悪は付けがたい。その葡萄の出所が味から分かり易いのはクリストマンのワインであり、味の華やかさではフォン・ブールのワインである。そして、酔い心地は、フォン・ブールの方が遥かに悪い。これをケミカルの混入が多いと一般的には称する。何故そうなるかは、上に既に述べた。アルコール度が高く、まだ酵母臭が残る状態ではある程度は仕方ないのだが、先ず喉の渇き方が違い。そして酔いが上の方に廻る。その覚め方ももう一つスッキリしない。昔から、村醒めとかなんとか言うが、これには個人差があるが、夕食に飲んで、寝る前に完全に醒めているぐらいでもう一度寝酒に試して見たくなるワイン、これが良い酔いなのである。



参照:
肢体がスルッ鼻がプルン [ 料理 ] / 2007-05-16
栗色のザウマーゲン [ 料理 ] / 2006-10-19
桃源郷の豚の胃詰め [ 料理 ] / 2006-01-30
利のある円錐形状 [ 料理 ] / 2006-01-26
典型的なザウマーゲン [ 料理 ] / 2005-12-27
公共堆肥から養分摂取 [ 女 ] / 2005-01-11

女性歯科医のミュンヘンマクシミリアン大学での医学博士号修得の論文は豚の噴門附近の免疫システムと歯茎のそれとの関係を見るもののようである。図示を見るだけで、豚は腹持ちが良さそうである。
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# by pfaelzerwein | 2007-12-26 00:48 | 料理 | Trackback

白いクリスマスイヴ風景

d0127795_1244123.jpgさて、なんとかクリスマスメールを「定刻」通り発送した。あまりご無沙汰しているところには送らないが、少しご無沙汰しているところに発送すると、アドレス不明で二件ほど戻って来た。いくつものアドレスがあって、アドレス帳に古い物が入っていると分からなくなる。改めて新しい方へ送った。しかし、一通は移動していて、ホームページなどを調べないと、本人がどうしているのか分からない。また一通は、留守中で新年まで戻らないと自動的に返事をして来た。これはそのままで問題ない。

ラジオで聞いたのだが、フランスは半ドンではなく平常どおりで、25日の零時からクリスマスのなるとは知らなかった。確かにスキーリゾート地ティーネで過ごした時は、リゾート地故と思っていたが、そのような感じがあった。

d0127795_126145.jpg昨晩考えていたように、写真を撮りに行った。生憎の天候で、あまりまともな写真は撮れなかったが、全部で四十分以上歩けたのは良かった。三十分歩くだけでジョギング効果があると言うのは本当だろう。

初めの十五分ほどは零下の外気の中で、体が動きにくかったが、三十分ほど歩くと体が温まってくる。そうして、歩き終わって家に返ってくると、足に少しの疲れと、運動をした感じが体に残る。

ジョギングして暫らくしたあとの感覚である。急坂でもない限り、歩行では心肺機能は鍛えられないが、運動不足解消とカロリーの消耗には十分である。特に外気が冷えていると空腹感を感じる。喉が渇く。先ずは、これ以上何を求めようか?
d0127795_1275342.jpg
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# by pfaelzerwein | 2007-12-25 01:28 | | Trackback

クリスマスメールの下書き

d0127795_2404824.jpg相変わらずの氷点下である。冷えたまま穏やかなのが珍しい。まさに凍りついた感じである。一日中で陽が幾らか雲の上に指したのは数分ぐらいであろうか。

しかし、霧が晴れた戸外を見つめると、何人も散策している人がいた。樹氷見学に出かけようかと思ったが、見通しが利いて明るくなるのを待っていて、機会を逃した。

d0127795_2443495.jpg英独語でクリスマスメールを出そうと思うが、あまり良いアイデアが浮かばない。また、誰それに出すかに迷っている。今年はなぜか、殆ど買っていないのにワインの醸造所からプレゼントなどを貰い、それは別としてもご無沙汰している人にメールでもしておこうかと言う気が起ってしまった。つまり、型のグリーティングスに一言添えたい気持ちになってしまったので余計にややこしい。

例年ならば、今年のハイライト写真などを添えるのだが、それも今ひとつ思い浮かばない。明朝パンを取りに行くついでに、樹氷の写真でも取れればそれをハイライトとしておこう。

そのようなことを考えながら、下書きなどをしてみる。

Liebe Damen und Herren,

ich wünsche Ihnen

Fröhliche Weihnachten und ein gutes Neues Jahr

aus der gefrorenen Weinstraße
mit freundlichen Grüßen
Ihr
Pfaelzerwein

しかし、それにしてもアルプスの峰のようになった稜線はどうしたものか、雪でもないのでこの辺りでは珍しい風景である。d0127795_2465621.jpg
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# by pfaelzerwein | 2007-12-24 02:47 | | Trackback

冬至に春の息吹きを想う

朝一番に新鮮なパンを取りに行った。予定通りの行動で、そのために早めにベットに入ったようなものだ。月曜日はイヴで午前中だけなので、来週木曜日までの食料を調達しておかなければいけない。特に野菜類は、直前になるとまともなものは残らなくなる。

八百屋で、予算の倍もつぎ込んで様々な野菜や果物を調達した。これで、まあ暫らくは大丈夫だろう。車で向かう途中、外気温は摂氏マイナス6.5度まで下がっていたが、これほど乾燥した冷気は気持ち良い。色々と思い浮かべるのだが、これだけ快適な冷気は初めてである。樹氷もその分神秘的な軽やかさがあって美しい。このまま晴れてくれると嬉しい。

その空気のお蔭でブロートヒェンもサクサクしていて、バターをつけるだけでなにも要らない。買いたての半熟卵一個で二個も食してしまった。久しぶりに美味いブロートヒェンを食して、またして亡くなったマイスターの天候に合わせた匙加減の腕前を思い出す。こうした幸運な冬至である。

ここ暫らく目が疲れることはなかった。何故だろう。物を読む時間が少なかった訳でもないと思うのだが、むしろVIDEOなどは見る機会が多かった。戸外が霜で明るくなっていて室内も明るかったのは事実であるが。

d0127795_2075078.jpg先日、買い物ついでに町の近くのワイン地所をはじめて歩いた。ミヒャエルスカペレと呼ばれるチャペルの丘に小さなグランクリュ地所がある。嘗ては、町からゴンドラが出ていたが今はもう無い。そこに上がると細尾根でへーレンベルクと呼ばれるやはりグランクリュの地所へと繋がっている。

しかし、歩いてみて大変失望した。歩道の脇はゴミだらけで、観光客や土地の年寄りが漫ろ散歩していて、ワイン作りの清潔さとは程遠い。更に、尾根の上の石垣などに火山性の岩が露出しており、いかにも不味そうなのである。

ヘーレンベルクは決して悪いワイン地所ではないが、その程度だと改めて認識した。要は、一般的に少しの丘は土壌的にも興味深い断面をみせるのであり、日照時間の長さも有利に働く。ボルドーのメドックなどの海につき出た半島を例外とすると平地には良い葡萄は育たない。そうした平地の土壌の水捌けなどは歩いていても悲惨なものである。

しかし丘と言っても様々である。ここでも一度触れたが、墓場の下の土壌は人間の骸から湧き出る水が良いカルシウムなどを抽出すかもしれないが、最近は有害な無機物質を特に臨終の患者などは医療のために多く体にしみこませているだろうから、こうした土壌汚染は避けられないかもしれない。やはり、出来る限り水質も保全されている清潔な葡萄畑の方が良いのである。

その点から言っても、一級の地所とそれ以外の地所の差は歴然としていて、一級の地所は資本のある地主が歴代しっかりと所有権を抑え、そうでないところは小作農業者が区画を整理できずに葡萄栽培をしていることが多い。つまり、こうした規模の地所では水質土壌の汚染はどうしても進み易いのである。これは、農業経済的な現実でもある。幸い、ここプファルツはモーゼルのように人跡未踏の危険な斜面にアクロバット宜しく葡萄を栽培する不都合はないので、その経済格差は栽培される葡萄の好悪としてのワインの品質の差としてのみ表れる。

そのような現実から、同じワインの地所を散歩するにしても、第一級のグランクリュの地所とそれ以外の地所を比べると快適さは格段に異なる。これが現実なのである。

d0127795_2091625.jpgルッパーツベルクの地所を散策した。ホーヘブルクと呼ばれる台地から、南へ向かって行くとガイスビュールと呼ばれるブルックリン・ヴォルフの独占地所がある。そのワインは、超一級ではないがルッパーツベルクを代表する質の良い奥行きのあるワインであることには違いない。そこを、より丘上のホーヘブルクから歩いていく。日陰は霜で真っ白である。夏も台地を風が抜けそうである。

その端の南側がリンツェンブッシュと呼ばれる地所となっている。ここでも注目した土壌で、そのワインはおかしな味がする。クリストマン醸造所のために作業中の爺さんに声をかけた。枝払いをしているところで、一本もしくは二本だけ残しておくと来年はそこからまた力強く芽が吹き出てくるのである。
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# by pfaelzerwein | 2007-12-23 00:09 | | Trackback

語学学習の原点に戻る

d0127795_3103621.jpgこの写真をみて懐かしいと思う人が居る筈だ。マンハイムのゲーテ・インスティテュートのロビーである。フランスのアリアンス・フランセーズに当たる、外国人がドイツでなにかをしようと思えば強制的に行かされる連邦共和国外務省管轄の語学学校である。英国のブリティッシュ・カウンシルにもあたる。

私をここへ追い遣ったのは友人の会席で知り合ったおばさんである。彼女が教育者だったか、どうかは覚えていないが、知的階層の女性であったのは間違いない。そのようなことで強制的送り込まれた。当の学校は移転やら何やらで、その後も改装されて元の位置に戻ったとかいたと聞いていたが、殆ど当時と変わっていなかった。本年も催し物などあったがなかなか行けず、偶々近くへ寄った折に覗いて来た。そう言えば当時の教師が校長になっていることを忘れていた。声をかけてみても良かった。まあ、当時の馬鹿振りを改めて確認してもらうようでもあるが。

当時時間があったことも幸いして、我武者羅にドイツ語学習に熱中して短期間にドイツ語をマスターしたと言いたいが、それは真っ赤な偽りである。流石にトラウマにこそなっていないが、情けない想い出に満ち溢れるのみである。まだ当時は、昼からビールを飲むことが健全なドイツ生活の第一歩と考えており、昼飯時には飲んでいたのであった。そうすると宿題を抱えてワイン街道に車で帰宅する頃には、充分に出来上がっているのである。さもなければ帰りにワイン酒場で昼飯を平らげるのである。蔵出のワインを忘れてはいない。

そして気持ち良く昼寝が出来れば、夕方に起きてお勉強が出来る。しかし、直にまたお夕飯ですとなると、フーテンの寅さんのような生活となる。もちろん近くのスーパーで買いつけた安物のワインなどを飲むのである。

一杯飲むと、居睡りした後の喉の渇きが失せ、清涼感と共に杯が進む。これがいけない。一杯が二杯となり、二杯が三杯となる頃には、宿題は明くる日の朝早くにしようとなる。そして、また居眠りをすると、外は真っ暗で、朝かと思うとまだ夜半である。朝起きをしなければならないので、寝酒をまた一杯。

朝は、すっきりしない。ぐずぐずしている内に通学時刻となる。渋滞で遅刻をすると、あれよあれよと言う内に終えていない宿題をあてられて言い淀む。そのような日々を過ごしていては少しも上達しない。

講義に出ていればなんとか語学力が付くと思っていたのが甘かった。多くの同僚は、良く考えればなかなか優秀な人材が多く、皆さんは世界中で活躍している。そうした人材は、こうした勉強態度ではなかったのである。

今こうして当時のことを考えて反省ひとしきりであるが、もう一度その時へ時を戻すとしても、あまり私の勉強態度は変わりようがないことに気が付くのである。情けないかな、虎屋の森川信演ずるおいちゃんではないが、「馬鹿だねー、馬鹿は死ななきゃ治らないとはよく言ったもんだねー」となるのである。

しかし、それはそれなりに色々と考えることもあって、当時「ヒアリングが出来るようになって来ているので、いずれなんとかなるだろう」と励ましてくれた教師など、またあの時にもっと我武者羅に何を勉強していたら、語学力で差異があっただろうかなどと。

語学学習の二つの方法を吟味することが出来る。一つは、もし母国語が一つしかないとすれば、それに拘りそこから外国語を翻訳していく方法と、もう一つは出来る限り母国語の言語に影響されない外国語を身に付けていく方法である。前者は、旅行外国語や初心者から中級者にかけてはその確実性で、自己の知識などを移植しやすい利点が多く、表面上の進歩も早い。また後者は、中級から上級にかけてはこの方法でなければ文章を読むことも出来ないのみならず、速読などに必要な語学力養成には不可欠である。反対にこれは、年嵩を経た学習者には習得がほとんど不可能であり、出来る限り子供の方が良い。これをして、マルチリンガルと呼ぶに相応しい。また、前者の方法では、あるレヴェル以上の語学力の養成は不可能であり、如何に豊富な語彙から言葉を繋げてもその言語の言葉とはならない。一般的に日本人の英語力と呼ばれるものである。

すると、当時から後者の方法を採用して来たつもりであるが、反面日本語の思考に自信がなくなることも多い。最近、川端康成の「雪国」を原語で読んでみようと思い、ここ二月程枕元においても二頁も進まない。いつも停車駅の情景で詰まってしまい、列車はいつまでも発車しない。内容を読み取れない。あれほど読み易かった三島の文がとても面倒になった。慣れの問題かもしれないが。日本語活字の表面上の見難さは、致しかたがないとして、こうして自分の書く駄文を読むよりもアルファベットの方が頭に入り易く、完全に逆転してしまったのは比較的最近のことである。

これが何を意味するかは、現時点では不明であるが、この機会にドイツ語のみならず、ドイツ語との切り替えが今ひとつ落ち着かない英語や、見聞きだけでは一向に明らかな語彙不足から学習効果の上がらないフランス語のものなどの読書量を増やしてみたいと思っている。読みものは充分手元にある。外は一日中霧氷の霧である。夜は長い。

さて結論はこうである。当時もっと我武者羅に勉強しておくべきだった事は、精々発音の基本ぐらいで、あとは一にも二にも文法でしかない。三四がなくて五に文法である。語彙は、当時の勉強ぐらいは知れていて、その吸収量からするとどうせあまり役に立たない。
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# by pfaelzerwein | 2007-12-22 03:10 | 生活 | Trackback

形而上の音を奏でる文化

ベーゼンドルファーのヤマハによる買収問題が紙面を賑せてから暫らく経つ。新聞を読んでもその事情は良く判らないが、その文化的な意味をどう見るかで二つの別個の記事が並列されて補いながらこの事象を間接的に語るように紙面が使われている。

ベーゼンドルファーの歴史などは各々が調べるとしても、創業以来五万フリューゲルの生産規模は大きくはない。フランツ・リストやブゾーニなどの名前と深く結びついているヴィーンの会社である。

その楽器は、コンサートホールや音楽学校などでも見掛けることがあり、またこのピアノの音色を謳い文句としている録音なども数多い。現在の名ピアニストにおいてもアンドラーシュ・シフやクリスチィアン・ジメルマンなどは、こうした楽器をも尊重する。つまり、スタインウェー帝国においてのこうした欧州の「古楽器」の位置付けがここでは扱われる。

しかしドイツにおいては、やはり度重なる敗戦*とナチ化**と非ナチ化の洗礼を受けたベッヒシュタインこそがフリューゲルそのものなのである。フランツ・リストからゴドヴスキーを経由してラフマニノフに引き継がれ、バックハウスからケンプへともしくはアルテューロ・ベネデティー・ミケランジェロが弾くピアノであり、ドビュシーに「ベッヒシュタインのために、ピアノ音楽は創作されるべき」と言わせた楽器である。そこで使われている天然素材の配合や手心のノウハウに対してのスタインウェーの世界制覇が話題となる。

ドイツ出身のニューヨーカーの会社、スタインウェーアンドソンズの採った戦略はリチャード・K・リーバーマンの書に詳しいらしい。その音楽マネージメントを複合した戦略を読むと、アルマ・マーラーの記した作曲家の保養地の仕事場にピアノを売り込みにやってくる姿やそれらを加味したマンの「ファウストュス博士」におけるユダヤ人音楽マネージャーの示す「文化的な意味合い」を、そこに見る事が出来る。これは、この記事が語るピアノの「形而上の文化的意味」そのものなのである。

しかし、もう一つの記事は、その極東からの安物の商品が、それもヤマハなるシリンダーの金きり音が個性もなく発せられる硬い音が、この吸収劇で誰が叩こうがそのフェルトと木の頭で柔らかくだらしなく響くベーセンドルファーのようになろうが、そのままであろうがどちらでも構わないのだと吐き捨てる。

そして、シュタインウェーが奏でる、ルービンシュタインのショパンのホ短調協奏曲を挙げ、もしくはブレンデルのシューベルトのD959ソナタを挙げて、そこにこそ形而上の世界があり、これは王者の姿でしかなく民主主義などへそくらいだと訴える。

この記事の背景を示すかのように、また新たな記事が掲載された。それは、ブッパータールのイバッハが中国からの安物攻勢にまけて店仕舞いするニュースである。つまり、ここにも典型的なシュタインウェー社においても進んだ大衆化つまりジョン・レノンが愛用したZシリーズなどへの移行から、今や中国の下請けや生産無しには成り立たない市場の変化が近代経済の変遷として示される。

それならば、ヤマハにおけるようなヴィーナーフィルハーモニカーの楽器をレプリカするような技術までを含めて、工業製品の歴史としてピアノのミトスを考えていくべきなのではないか?さもなければ、ヤマハなどの緻密な科学技術文化を批判出来ない。中国人ピアニスト、ランランの後ろ手で「トムとジェリー」を弾くのを批判するのは容易だが、ヴィーナーフィルハーモニカーの現在の否定はそれほど容易ではない。それが矛盾であり問題なのである。

そもそもアルフレード・ブレンデルの芸術そのものが、こうした大衆化した大ホールでのスタインウェーの大問題に真剣に対峙したものなのである。そして、スヴェトラフ・リヒテルがヤマハを愛用したこと自体が同じようにミトスとなっているのを忘れてはいけない。

鼻に皺を寄せたドイツ人を、唯一無二のナショナリズムと語ったのは、マンの創作に登場するユダヤ人である。そして、ユダヤ人はコスモポリタンであるから、両民族が協力することで世界が開けると誘惑する。ピアノと言う近代社会とその精神を映し出す工業製品を考えることが決して無駄ではないと思えば、今回のヤマハによる買収行為の一連の関連記事は全く十分ではない。

文化欄を書く者は、形而下と呼ばれる技術的なことも充分に勉強しておくべきで、それをもってはじめて形而上の立場からこれを語る資格がある。現場の人間に、形而上の思考が判るように示さなければいけない。

あるフランクフルトの調律師が、その楽器の事とそれを弾くピアニストのことを語った。ピアニストとその楽器の録音のロマンティックなレパートリーからすれば、これまた活きた形而上の思索などは彼らには存在しないのは、火を見るより明らかなのである。

そうしたところに、トーマス・マンの自己批評が向っていて、それは今でも何ひとつ変わらない。資源も人材もない未だに大工業輸出国ドイツ連邦共和国が生き残るには文化と智恵しかない。だから、文化欄は何は差し置いても重要なはずなのだ。

*第一次世界大戦を受けてベヒシュタインホールは、英国で最も重要な室内楽ホール「ウイグモアーホール」と改名されて今日に至る。
**カール・ベヒシュタインの孫娘は、ゲーリングとヒットラーと親密な関係を結び第三帝国の楽器となる。



参照:
Mal. Bechstein, mal!, Eleonore Büning
Sing, Steinway, sing!, Gerhard Stadelmaier
FAZ vom 13.12.2007
Kann der Ibach kein Ibach bleiben, muss er untergehen,
Von Johannes Schmitz, FAZ vom 18.12.2007
ヤマハがベーゼンドルファーを買収?(弁護士 Barl-Karth)
河島みどり『リヒテルと私』(日々雑録 または 魔法の竪琴)
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# by pfaelzerwein | 2007-12-21 02:23 | マスメディア批評 | Trackback

躁状態での酸状態吟味

d0127795_3413917.jpg陽射しは強くも、風があって寒い。氷点下に至っていないと五度ほど温度が高いので、随分と暖かく感じる。しかし、微風が吹く限り裸にはなれない。

ギメルディンゲンのカペーレンベルクと呼ばれる小高く盛り上がった丘の下に車を停める。そこから、高度差八メートルほど登り、太い稜線を更に高度差三メートルほど登っていく。

反対側に降りていくとそこはマンデルガルテンと呼ばれる地所で、グランクリュの地所ともなっている。1456年以来台帳に載っているメーアシュピンと呼ばれる地所である。丘の斜面と平地のような二箇所があるが、有名な醸造所二件のクリストマンとカトワールは、現在この平野部に横に並んでリースリングを栽培している。d0127795_5183161.jpg

そこから再び小さな丘を越えて車へと戻っていくと、既に四十分ほど過ぎていた。そこから町中へと車を走らせ、いつもの場所に車を停めて呼び鈴を押す。姿を見られていたのが応答もなくドアが開かれる。

先代の奥さんはいつもの調子で躁状態である。最新リストを貰ったからと言うと、「まだ充分にないからね」と答える。「売るものはあるでしょ」と念を押すと、旦那が出てくる。そこで、「グーツヴァインとリッターヴァインもないの?」と訝ると「それはある」と先代。「ここに12月からと書いてありますよ」と正すと、もぞもぞとされる。

それでも、楽しみにしていた当てが外れなかったので、ほっとして試飲をはじめると、リッターヴァインは今ひとつ埃臭い。瓶を見ると半分ぐらい空いているので、時間が経っているようだ。その分、酸味も和らいでいるのだが、競争相手の物とは魅力が薄い。

そこで、「手済みで自己栽培の葡萄で作っていると書いてあるが」と尋ねると「そうそう、全部家の」と言ったかと思うと、「いやフォルストの仲間のとこと、ギメルディンゲンの両方だが、栽培方法も摘み取りも家の方で」とあやふやになる。

「バイオで栽培して、それで手摘みでしょ」とこちらが勝手に決めつけて、「シュティフトに似ているけど、そうでしょ?」ととことん絞る。「まあ、、、、違うけど」。しかし、フォルストにはそこから外れたものは殆どないはずなのだ。

さて、グーツヴァインの方は新たに栓が抜かれた。流石に素晴らしい香りがする。初めから「あまり早く出したくないんだよね」と弁解していたように若干酵母臭がある。それでも今年の三週間の早熟は、こうした年内の楽しみに繋がった。ライタープファードの斜面の間下で、リンツェンブッシュのとなりの地所の葡萄らしい。道理で、ライタープファードのような青林檎系とパイナップル系が混ざっている。それにしても、昨年もものとは大分異なり、繊細である。

「2007年度産は、既に他所の醸造所バッサーマンやブールで試しましたが、酸が良いですね」と、それに口ごもる様子を見て「違いますか?」と追い打ちを掛ける。

「丸みがある」と自己評価するので「酸の種類が違いますよね、良い年ですよね」と言うと、「非常に良い年だ」と答える。

昨年もリッターヴァインは販売されていたのだが、春には売り切れていて知らなかった。「ほらさ、なにもいつも高級なヴァインばかり飲む必要はないから。ザウマーゲンなんかにはこれでプファルツはいいんじゃないの」と言うから、ザウマーゲンの高品質には反論せずに「まあ、これを家で飲んで翌日などの変化を見てスタンダードにするかどうか決めますよ」、そして、「今年は廉くて美味いワインの競争が激しいからね」と価格カルテルに一矢を放っておいた。

どちらも素晴らしいワインである。例年は酸が厳しくマニアにしか受け入れられないこの醸造所のリースリングであるが、2007年産はその酸の質が異なる。林檎酸の比率が異なるのである。

いつものように、ワインを取りに倉庫に行くと、これまた新鮮な顔が迎えてくれて、小春日和の夕刻を迎えるのである。
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# by pfaelzerwein | 2007-12-20 03:42 | 試飲百景 | Trackback

YOUTUBEで品定めをする

日曜日はなぜかYOUTUBEを一日中見てしまった。映像の力も見直すことが出来た。また映像の無力も再確認出来た。

俗に言う音楽VIDEOそれもピアノのものなどを探すとダイジェストでなくソナタ全曲がそのままアップされているのである。TV制作品なら元々公共のものであり仕方ないと思うが、制作作品で市場に出ている物がこうして提供されるのを見ると、ああした制作品がいかにYOUTUBEから料金を徴収してもなかなか採算が取れない状況が窺える。

例えばピアノソロの映像などは必要な者にとってはこうしてVIDEOで見てしまえば用が足りて、それ以上に購入する必要もない。また、音楽愛好家にとっては結局映像は音楽鑑賞には殆ど役立たず音声だけで用足りるので、こうした映像は一度見れば充分で二度と見ないだろう。

しかし、オリヴィエー・メシアンの「アシズの聖フランソワ」初演のカットは素晴らしい。CDは、当時から所持していたのだがその演出が一部とはいえこうしてみらるのは貴重である。映像の存在は予想していたが、それを見たのは初めてである。その音質も映像も決してよくないが大変有意義なもので、当時TVで放送されたものなのだろう。

二幕の大詰めの第六景は、この作曲家のお得意である鳥との対話のシーンでその最後は、会話の出来る聖人の祝福を受けたひっきりなしの鳥の四組に別れたざわめきの合唱と東西南北に飛び去る場面である。

十字架が白く浮かび上がる演出は、ピーター・セラーズ演出、ケント・ナガノ指揮によるザルツブルク二度目の公演とは全く異なったものであり、初演の様子を圧倒的に伝えている。小沢さんの指揮振りも、まさに天与のものとして、このVIDEOとして永遠に記録されるだろう。

それからするとここでも触れたが、オークションでただ二つだけ手に入れることが出来たシェロー演出ブーレーズ指揮の「ニーベルンゲンの指輪」四部作なども、殆ど繰り返して観ることはない。そして、落せなかった「神々の黄昏」をネットで摘み見すると、充分に用は足りて急いで購入する必要がなくなる。当時ラジオ等で批判を聞いていた面や故ギネス・ジョーンズ女史の終景などを見ると購入意欲が薄らいでしまうのだ。
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# by pfaelzerwein | 2007-12-19 02:53 | マスメディア批評 | Trackback

ゴーストバスター請負

美術館などに行くとどうしても新聞を読む時間がない。それでも、取りおいた頁には出来るだけ早めに目を通しておこうと努力する。

10日付けの新聞には、スカラ座でカルロス・クライバー指揮以後初めての新演出「トリスタン」初日の批評が載っていたが、シェロー演出バレンボイム指揮のそれよりも、同じ日に一面となっていたシュトックハウゼンの話題をここで扱った。四千オイロもするチケットに数人の大統領(緑の党のヨシュカ・フィッシャー元外相*を含む)を集めて、毛皮反対者などが玄関前に居並び、共産主義的な演出で上演されたようだ。

むしろそれより目を引いたのは、クリストフ・シュリンゲンジフの南米での活動である。サンパウロとブエノスアイレスをまたにかけて活動していたいようだ。

具体的なアニマトグラフと呼ばれるものは、本人のHPでの北方伝説を扱ったものやパルシファルのバイロイトでの演出で測る以外にはないが、いつものプロジェクターを使ったものなのだろう。何れにせよ、下町の交通の波のなかにゴーストバスターをと狙っていたようだから、その廻り舞台から幾らか想像出来る。

しかしそれに飽きたらず、ブエノスアイレスの工事中のコロン劇場を下見に行ったらしい。カルーソーやクライバー、シュトラウスやニルソン、カラスらの亡霊を払うためにそこでもゴーストバスターを目論んでいるようだ。そこの亡霊は甚だ性質が悪いに違いない。

こうしてゲーテインスティテュートの後援を受けて、世界のゴーストバスターを請け負っているが、東京に派遣されることはないだろう。そこの亡霊は、金で立ち退きも受け入れ、そもそも第二国立劇場は吹き飛ばされないように、初めから耐震構造で防火装置が完備している。



参照:
VIDEO-
サンパウロの「幽霊船」の演出風景。ひざまずき立ち上がるカメラワークが面白い。会場のインタヴューの緑のライティングは監督本人の演出指示とか。

ドイツで行動中にばあさんに瓶で殴られるゴーストバスター。

記事-
Fliegender Holländer im Berufsverkehr, Josef Oehrlein,
FAZ vom 14.12.07
Kennst du das Haus, wo die Juwelen blüh’n?, Julia Spinola,
FAZ vom 10.12.07
伝統という古着と素材の肌触り [ 文化一般 ] / 2004-12-03
デューラーの兎とボイスの兎 [ 文化一般 ] / 2004-12-03
不可逆な一度限りの決断 [ 女 ] / 2006-01-25
*更に振り返って見ると [ 歴史・時事 ] / 2005-10-09
豊かな闇に羽ばたく想像 [ 文化一般 ] / 2006-08-20
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# by pfaelzerwein | 2007-12-18 03:45 | 文化一般 | Trackback

放射冷却の午後に温まる

d0127795_132169.jpg朝からよく冷えた。放射冷却で凍りついた。日差しは結構長い時間射したが、少し翳ると寒い。室内と戸外の温度差は摂氏20度近くとなる。陽が出ている内にと思って、セーターにチョッキを着て、手袋にマフラーで飛び出る。

一時間ほど歩いた。水溜りは融けかけていてもまだ凍っている。穏やかな天気で零下三度までぐらいなのでそれほど寒くはない。歩いている内に先日飲んだワインの区画が気になったので色々と想像を巡らしてみる。同じウンゲホイヤーと呼ばれる地所でも多きなだけに区画によって出来上がるワインの質が異なるからである。

また、廉く手摘みで美味そうな一リッター入り瓶ワインのオファーがあるので、試飲と購入計画などつまらない事を考えながら散歩するのである。

年内に何リッター飲むか、年明けに何が何処の醸造所からオファーになるかなどを考えて、日常消費用のワインの消費を考えるのである。今週買ったワインはどうなるのかが気になる。早まって買い過ぎなかったか?

否、来年一月末までに売りに出される日常消費ワインはそれほど多くはない。つまり、一月分は確保しておくべきなのである。

年末までに二種類を交換しながら楽しんでみよう。昨年は作柄が悪く出来なかった贅沢なのである。新鮮なうちは単純なワインでもなかなか飽きない。年明け早々にまた新しいワインを楽しめば、暫らくはもっとも廉価なワインだけで楽しめる。それらが美味ければなにも古い高価な発砲ワインなどは諦めても良い。2007年は良いヴィンテージであるのだから。要するに昨年と異なり同じ価格でどれを飲んでも美味いのである。

あまり、安物を買い置きしておきたくないのだが、旬はそのときしか味わえない。二月になればどうしても狙いが絞られて来てしまうのだ。だから一月末までの購入計画が必要になる。

寒い戸外から戻って来て、ゆっくりと風呂にでも浸かりと思ったが、先ずは内側から温まるべきと、そろそろまた一本スクリューキャップのリッター瓶を開栓する。自主規制アルコール解禁時刻の6時にはまだ三十分ほどあるが良いだろう。埃臭い匂いが気になるが、ラウゲンブレッツェルにこれまた美味い。今日の献立は、七面鳥のグリルに小ギャベツを付け合わせたものだ。クリスマス用の木の実のパンがまた美味そうだ。外は急に冷えてきた。
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# by pfaelzerwein | 2007-12-17 01:04 | | Trackback

肉体に意識を与えるとは

承前)イーゼンハイムに描かれたあの茨を被った十字架上のイエス像も寝棺のイエス像も幾つか展示されていた。フランクフルトから更に作者の生まれ故郷と推測されているヴュルツブルク方面にマイン河を遡るとアッシャッフェンブルクがある。そこで1525年頃制作された「嘆きの寝像」が興味深かった。依頼者であるマインツ司教ブランデンブルク候アルブレヒトの紋とお棺のスポンサーであるエアバッハのディートリッヒの紋が左右に大きく描かれていて、マリアの手がイーゼンハイムのそれとは異なり抽象化されている。

また受難の1510年以前の図柄は、初めこそは客観的にメシアであることを見届ける隊長がマリアとヨハネらと共に黒い背景を持って描かれているが、約二十年後の大きな杉の木版に描かれたタウバービショップスハイムの祭壇画の像は、もはや黴生した色のイエスと十字架の左右にマリアとヨハネしか存在しない。それは、14世紀終りからの受難・敬虔文書を踏襲していると言う。その背面は、ここカールツルーヘのスタッフによって修復された十字架を担ぐキリスト像であるが、それを写すのは福音書の記者ならず、TVカメラにて克明に写される市中戦争シーンのようである。それを観察する我々は、カウチでポテトチップスを齧りながら観ているのと変わらないのではないか?

その構図や表情などからこの芸術家グリューネヴァルトの位置付けをしていくと面白い。少なくとも、シンメトリーの伝統を覆した構図から、後期ゴシックだルネッサンスだとプレートを掲げた引き出しに、同時代の芸術家と選択整理してしまうよりは、それは価値があるだろう。そしてそれを、受難の恐怖のリアリズムとして現在に至るまでのあらゆる表現技法を体現しているとするか、即物的な表現主義とするかはもはや重要ではない。

同じフランクフルトのヘラーの委託作として、良い比較対象となる大きな手の表情のみが描かれている有名な「ある使徒の手」などを見ればデューラーの意識は何処にあったのか、とても分かり易い。同時に、今回展示されていたその芸術家の制作した若い女の頭部の精妙さが、その極みを越えて如何なるCGよりも3Dな映像となっている習作の技巧が、その意識の存在を描いているのである。それを即物的とは誰も呼ばないだろう。

しかし、グリューネヴァルトにおける職業意識から来るとされる十字架の嵌め込み竿構造への技術的な視点や対象物への関心は、作者の主観がそこに投影されるように意識が向いている。それは具体的には、受難の場面を他の同時代人の絵画に見て行く事によって、その相違が把握できるようになる。これが今回の展示の表の焦点であった。例えば、グリューネヴァルトに影響を与えているアルトドルファー受難風景をみると、そこにはヨハンもマリアも既に居なく、その場にとり残されたマグダレーナの悲哀な後ろ姿が見る者を内省させる。つまり同情の強制とは違う理性的な意識の推移の要求である。その背景に広がるのは中央スイス、ルツェルン近郊の風景のようで、高い空の下で取り残された茫然自失の心理が推測される。反面、磔の骸は、背景の自然に包まれて形象化されてしまっている。

絵画的な構図の分割や焦点を分析するまでもなく意識の在り処を追っていくと、デューラーにおいてはより一層拡がりをみせて、兎のそれにまで意識を廻らす必要が出てくるように、これは近代において充分に注目された。それに対して、そのプロポーションは、グロテスクな強調を避け古典的な美に中に受難像が落ち着いていることを挙げておかなければいけない。それゆえに、このグリューネヴァルトの大胆な受難像は特別な意味を呈している。

反対に、ハンス・バルテュンクもしくは通称グリーエンそれは、グリューネヴァルトの表現法と殆ど変わらない。黒く背景を潰し、茨を被った頭を傾げた昇華されない非常に主観的なイエスの表情を観察者の我々は見せられる事になる。殆ど魔女信仰や黒ミサを思い出させる。

そして、もっともルターに近かった存在としてのルーカス・クラナッハの受難図はとても面白い。つまり、そこに描かれる森や背景は、身近にあるゴルゴタの丘と化し、題材の登場人物とは主観的には無関係かもしれないが、それゆえにその悲嘆をマリアとヨハネのつまり観察者の我々に身近に認知させる。つまり、受難の悲嘆以上に我々の存在している環境つまり世界を意識させることで、その聖書の受難が抽象化されると同時に自然の中に立つ人間の現実世界を具象化させる効果を生む。些か説明がややこしいが、エラスムスやトーマス・モアの肖像画でも有名な子ハンス・ホルバインの受難像は、それに比べて遥かに明確な視点の相違を教えてくれるだろう。それは、十字架の左右に立っていた二人が、イエスと向き合う姿を横から捉えた1516年の作品である。これは、我々観察者と制作者に冷静な第三者の視点を与えて、人間的な調和の取れた感興を与えるのではないだろうか。そしてその背後には自然な市民的な環境が大きく広がっている。

再び、グリューネヴァルトのヘラーの聖壇画の聖人達に目をやれば、作者からずらされた目線は、我々を覗かせる結果となっている。つまり、何処までいっても、その美しい衣装と共に、我々観察者を対峙させることはない。観察者は、その空気を感ずれば良いだけなのである。決して挑んでは来ない。それは、イーゼンハイムの生誕から受難や昇天までの情景にしても変わらない。情動的な影響は、即物的な肉体に、その観察者の主観の視点を与えることで得られるのである。

プロテスタントへの傾向からマインツを追われ、フランクフルトで仕事をして、新教のハレへと赴いたが、一年も経過しない内にこの地上から追われる。何かハレでの短命もこの芸術家の生涯の信条や世界観を反映しているように思われる。(終わり)


d0127795_20453314.jpg追記:上のリンクを検索中に欧州最大級のソフトウェアー会社SAPのあるヴァルドルフのルドルフ・シュタイナー協会による人智学サイトに巡りあった。そこのギャラリーにある画家の名前を列記すると面白い。アルマ・タデマ、ウイリアム・ブレーク、ボッシュ、ボッティチェッリ、デュラクロワ、ドーレ、ジョン・フラクスマン、ヨハン・ハインリッヒ・フッスーリ、ラファエロ、レンブラント、ミレー、フレデリック・レイトン、グスタフ・モロー、フィリップ・オットー・ルンゲ、ジャンアントワーヌ・ワットー、ジャンファン・ヒューサム、そしてターナーやベックリン、ルドンはグリューネヴァルトに並んでどうしても欠かせないようだ。
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# by pfaelzerwein | 2007-12-16 00:00 | マスメディア批評 | Trackback

しなやかな影を放つ聖人

d0127795_0555744.jpgグリューネヴァルトとその時代」と称する展覧会を訪ねた。グリューネヴァルトはその表現主義的などげつさで敬遠していた芸術家であり、有名なイーゼンハイムの聖壇画はコルマーに行けばひっきりなしに訪問者が絶えない有名芸術品である。年間三十万の訪問者数に世俗化以外の何物でもない事実を確認出来るだろう。しかし、何度もその前を通りながら車を停める機会を持たなかった。それはバーゼルの美術館のベックリンなどの名画の場合も変わりなく、そこを訪ねながら鑑賞する機会を今まで作っていない。

しかし今回は、そのコルマーのウンターリンデン美術館とカールツルーヘの美術館の共同プロジェクトとして「史上最大規模のグリューネヴァルトの展覧会」との見出しに躍らされて、先ずは開催一週間以内に訪れた。

アルザスの展示の場合は、その有名な聖壇画の制作行程を知ることが出来るスケッチなどの前作品がルーヴルなどから集められていて、カールツルーヘではグリューネヴァルト時代のライヴァル画家の作品がモティーフや技巧などを軸にして集められた。

グリューネヴァルトの作品だけで19作品の展示数は、現存する作品の四分の一にあたる。他の同時代作品を含めて、160作品ほどが全部で九室ぐらいに別けえられた展示であったが、二時間ほどかけて鑑賞した。

グリューネヴァルトと呼ばれる芸術家のその本名こそは知られているが、同時代のデーュラーなどとは比べられないほど、その情報は限られる。水道関係の技術者をしていた著名な芸術家だったようだ。

しかし、今回の展示会で二百年以上振りに一同に会したという四点の聖壇画は、ヘラー聖壇画と呼ばれフランクフルトの裕福な布巾屋がデューラーなどに依頼したもので、その白黒の画はイーゼンハイムのそれの印象にへきへきする者をも唸らしてくれる今回の目玉となっていた。

その1511年ごろに描かれた四人の聖人は、そのモデルとなった娘達の活き活きした表情を堪能できるのみならず、殉教の聖人達をことのほか素晴らしく描いている。当時のイッセイミヤケの衣装と呼ばれる流行のエレガントな細かな襞の入った裾長のスカートの風合いの描写は超一級の芸術以外の何ものでもない。裾のフリルもが空気を以ってそよそよとそよぐのは、そのスカートに限らず手に持つ細い長い葉やら足元の植物学的な繊細な描写の下草が、淡く影を添える月の光にそやそやとしているのにも見られる。その適当な湿り気の大気は、作者の感興と共に五百年前の香りを届けてくれる。

左下に置かれるフランシスコ会に尽くし清貧で殉教した聖エリザーベート王女は、なにやら物乞いをしているようだ。その上には、聖ローレンティウスが躍動的である。

因みに右上に置かれた聖シリアクスは、医師でありエクソシストとなっており、癲癇の子供を治療する。また、その遺骨がロルッシュからヴォルムスへと移された所縁からかプファルツではワイン農家のパトロンとされているらしい。

カールスルーヘの州立美術館は小さいが、憲法裁判所などに囲まれていて、宮殿の端に位置している。そこへの道筋は、至るところ交通違反カメラが設置されていて、通常の許容範囲の半分ほどの制限の厳しさで、更に路上駐車は一時間のシュートステーしか認めない。それでも充分な駐車場が方々にあるので無理をせずに駐車する。三時間で4.50ユーロは許容範囲である。(続く


追伸:上のリンクの写真では残念ながら実物の感触は伝わらない。



参照:
Grünewald und seine Zeit (Begleitheft)
Das unergründlichste Lächen der Geschichte, Konstanze Crüwell, FAZ
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# by pfaelzerwein | 2007-12-15 00:56 | 文化一般 | Trackback

木の実パンで乾杯

ここ暫らく新鮮な野菜を食していなかった為か体がだるい。ワインやザウワークラウトでは補えないものもあるだろう。

先日は、醸造所フォン・バッサーマン・ヨルダンのヘアゴットザッカーを自宅で吟味する。酵母の味が、すき焼きのすれた匂いのようで、あまり良くない。昨年の2006年度産が一時的にしか良くなく、近過去的にもこの程度である。もともと、この地所は広いだけに区画差もあるようで、全体としては特別な土壌でも地所でもない。しかし、なかなか魅力的なワインを醸造している所も多いので、この名門の区画が特に優れていないことを物語っている。決して悪くはないが、価格に比べて特に良くはない。

そのヘアゴットザッカーの区画が良いのか、素晴らしく醸造しているのが、フォン・ブール醸造所である。2006年も素晴らしかったので2007年度産の発売が待ち遠しい。

その2007年産のフォンブール・キャビネットを試飲購入した。店で試飲した時は、抜栓ご時間が経っていたのかあまりよくなかったが、帰って来て開けるとやはり良かった。2007年産の酸が強く立っていて、酵母の香りを吹き飛ばす。香りや味の傾向は、ヘアゴットザッカーなどに近いが、フォルストのウンゲホイヤーなどが交じっている。想像するにラインヘーレもかなり交じっているような感じもする。

今晩は、クリスマス用のナッツの入ったパンをこれで楽しもう。d0127795_4485836.jpg
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# by pfaelzerwein | 2007-12-14 04:49 | ワイン | Trackback

「ファウストュス博士」索引

否定の中で-モーゼとアロン(1) [ 文学・思想 ] / 2005-05-02
主人公レーファークーンのモデルとなるシェーンベルクの宗教感と否定的弁証について。

トンカツの色の明暗 [ 生活 ] / 2005-07-11
プロテスタンティズムが齎した啓蒙思想とその人格形成における教養小説と誤解するマンの作品の読者。

吐き気を催させる教養と常識 [ 文化一般 ] / 2005-08-18
通俗的な趣味がステレオタイプの教養となる芸術趣味と常識。

言葉の意味と響きの束縛 [ 音 ] / 2006-04-15
テキストを伴う音楽とマンに助言を与えたアイスラーの影響。

在京ポーランド系ユダヤ [ 雑感 ] / 2006-10-08
マンの義父である数学者プリングスハイム家のミュンヘンでの社交界風景。

世にも豊穣な持続と減衰 [ 音 ] / 2006-12-09
速読を通して考える言語の音声機能と音楽教師クレッチマーの語る平均率と純音程。

ファウスト博士の錬金術 [ 音 ] / 2006-12-11
ルネッサンス音楽における思弁的で数学的な宇宙の摂理を説く音楽教師クレッチマー。

自由システム構築の弁証 [ 雑感 ] / 2006-12-16
自由経済システムの構築に寄せて自由な構造主義的システムを考察。

ザーレ河の狭間を辿る [ 文学・思想 ] / 2006-12-25
第11章のハレ市と大学を舞台としてルター派と敬虔派の争いと故ヨハネスラウ前大統領に見る敬虔主義者(メソジスト)の平和主義。

一欠片の幻聴の流れ [ 雑感 ] / 2006-12-28
ラジオの朗読と文節の意味する弁証法的意識の対位法の流れの響き。

明けぬ思惟のエロス [ 文学・思想 ] / 2007-01-01
第二章から、第三章の主人公の父親の記述とクライマックスの再読とシェーンベルクのサンタ・バーバラ校等での「ファウスト博士論争」講義。

川下へと語り継ぐ文芸 [ 文学・思想 ] / 2007-01-21
時系軸をおいたコラージュ風な物語の展開とメーキング・オブ・ファウスト博士への言及。

でも、それ折らないでよ [ 文学・思想 ] / 2007-01-26
ロマン派と象徴・表現主義へのパロディーとしての「魔の山」と「ファウストュス博士」への流れ。

暖冬の末に灯火親しむ [ アウトドーア・環境 ] / 2007-02-18
破局の将来を見る物語における思想的背景への考察。

詩的な問いかけにみる [ 文化一般 ] / 2007-07-09
サイモン・ラトル卿のこの作品への言及。

兄弟の弁証法的反定立 [ マスメディア批評 ] / 2007-08-22
第九交響曲のこの作品における言及を活かした音楽評を読む。

想像し乍ら反芻する響き [ 文学・思想 ] / 2007-10-06
ラジオ放送一回目における感想。

古典派ピアノ演奏の果て [ 音 ] / 2007-10-11
ラジオ放送二回目の内容とブレンデルによるベートーヴェンのソナタ演奏を平行して聞く。

音楽教師の熱狂と分析 [ 文学・思想 ] / 2007-10-12
音楽教師クレッチマーによる後期ソナタの楽曲解析とこの作品における意味合い。

容易にいかない欲張り [ 文学・思想 ] / 2007-10-19
ドイツ文明の運命とその特徴に言及する第十章から始まる第三回放送。

つい魔がさす人生哲学 [ 文学・思想 ] / 2007-10-20
ドイツ語の明快さに潜む魔を描く第三回放送に出場する教師などを通した考察。

純潔は肉体に宿らない [ 文学・思想 ] / 2007-10-28
第四回放送における性的経験への第三回放送での考察の復習とその筋の進行解析。

PAの瞼に残るプァルツ [ 文学・思想 ] / 2007-10-30
ペンシルヴァニア出身のクレッチマーの音楽的故郷エバーバッハの訪問に因んで。

パフォマー心理の文化性 [ 音 ] / 2007-11-04
声の扱い方への見解をヘーゲルの美学などを踏まえて検討。

自由の弁証を呪術に解消 [ 文学・思想 ] / 2007-11-05
二十一章から始まる第五回放送に、無調からセリー音楽への流れに第一次世界大戦の敗戦を平行して見る。

親愛なるキーファー様 [ 文学・思想 ] / 2007-11-09
新発見されたマンの手紙にみる作家のヒューマニズムへの意識の変化。

それは、なぜ難しい? [ 音 ] / 2007-11-10
音楽教師クレッチマーの言う宗教に変わる形而上の芸術の意味を、カンタータの演奏会にて考える。

吹雪から冷気への三十年 [ 暦 ] / 2007-11-11
「悪魔との会話」が描かれる二十五章を聞き、「魔の山」以降の作品の文学価値に思いを馳せる。

呵責・容赦無い保守主義 [ 文学・思想 ] / 2007-11-19
第七回放送で扱われた保守主義とファシズムの意味を検討。

肉体化の究極の言語化 [ 文学・思想 ] / 2007-11-25
三十二章から三十七章が語られた第八回放送における小市民社会とその逸脱の意味の考察。

ほんま、なんてないこった [ アウトドーア・環境 ] / 2007-11-27
作品における方言の使用とその意味を検討。

民族の形而上での征圧 [ 文学・思想 ] / 2007-12-02
容赦ない保守主義者ブライザッハーのモデルゴールトベルクとその思想についての学習。

既視感と焦燥感の恍惚 [ 文学・思想 ] / 2007-12-03
三十八章から四十二章を扱う第九回放送における連続非連続時間と空間の心理効果の言及。

永遠に続く生の苦しみ [ 文学・思想 ] / 2007-12-09
最終回放送の破局構造への考察。
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# by pfaelzerwein | 2007-12-13 03:40 | 文学・思想 | Trackback

脱構造の日の丸の紅色

寝不足である。なぜならば、YOUTUBEで荒川静香の映像を幾つか熱心に観てしまったからである。NBCの映像は、共同映像の反対側からの映像のようだが、全体的な印象は変わらない。何故今頃、急にと思うかもしれないが、トーマス・マン「ファウストゥス博士」、ヘーゲルの美学、グローバル市民社会、シュトックハウゼンの前衛と来ると、これが皆ここに収斂してしまったのである。

荒川静香に関しては、トリノオリンピックの生中継の一部とその前の選考選やその後の写真等でイメージを固めたものでしかない。もちろん世界のスポーツ報道関係者のような定まった印象もない訳である。それでも競技以外の情報などから様々な漠然とした定まらない印象を得ている。

そして何よりも、FAZ新聞に掲載された日の丸から顔を覗かせる表情は鮮烈なものであり、日章旗嫌いの人間にも美的な印象を強く残した素晴らしい写真であった。それを捨ててしまったのは悔やまれるが、あの紅色と高潮して薄っすらと赤味の射した表情は忘れられない。

米NBCの中継者などが示した自然な美的な感動は、俗にある日本趣味やエキゾティズムへの賛歌とは一線を隔している。そのように広範に訴え掛ける美に興味を持った。そして、NHK制作の有名人が「母校を訪ねる番組」のダイジェストなどを観て、その核心が、どうにか重く頭痛気味の思考にも幾らか呑み込めた。

向けられた対象に想像力を一杯に働かして得る個人の個性などよりも、出来る限り抽象的にその現象を捕らえる時、またそれを許すクールさが本人の人格から伺えるとしても、先ほど逝去したシュトックハウゼンの前衛を貫いた人格などと重ね合わせる事が出来るのである。

その基本には、やはり肉体を制御して動かすスポーツが存在して、あのオリンピックの最後の演技などを観ていると、合理的な無駄のない動きが殆ど古臭いような古典の調和をイメージさせる。それを、容易にギリシャ的な美とかオリンピック精神とか評してしまう積りはないが、そこに即物的でありながら精神的な調和を見るのである。

さてこうした即物な精神活動要するに合理的な肉体の動きこそが、そのNHKの番組でモットーとして示されていたそれを司る動機「自分一人のためでなく」と言う意味に深く繋がっている。しかしその番組のダイジャストを観る限り、どうしても月並みで詰まらない社会規範のような道徳心へと流れがちになるのだが、その一方、思慮深い聴視者は執拗に本人の口から強調される「皆からの力」に関心が向ったのではなかろうか。

そしてそれは少し間違うと、精神論的な心霊的なオカルトにしかならないが、それは明らかに「自己と他者との関係における反照」としての知的で覚醒した認知として捉えられることも出来る。誤解を恐れずに言えば、そこにあるのは、プロテスタンティズムの延長にある「一人、空に対峙する」ような、外界からの反照を通して、はじめて自我をそこに定義するような二十世紀の哲学である。

シュトックハウゼンの衣装としての前衛とその「前衛な自我」についての示唆がコメントによって与えられたが、その訃報の新聞評にもあるように、そこで必要となる筈の対峙こそが、魅力とエゴイズムに彩られた子供っぽい世界観としてすりかえられてしまったとすることも出来よう。そこに使われる子供っぽさと言うのは、同僚の作曲家ブーレーズが評するような知的な芸術家に対しての評価としては、どうしても否定的な言葉でしかない。そのように考察を進めていくと、社会における前衛の位置付けも可能となる。

そして、トーマス・マンの作品で語られ、今現在我々読者が関心を持つのは、そこで描写されている独善や隔離された観察であって、まさに前衛によって進められた構造主義的な思考への信仰告白の姿であった。

このように眠い脳で暫し考えを進めていくと、所謂倫理とか規範と言う衣装を脱がしていくと、その核にある如何わしい姿が明らかになるのである。しかし、それらには、覚醒を避けて自己と対峙しない人を安心させてその日までを送らせてくれるモルヒネのような効用が見られる。それは、信仰と呼ばれる如何なるものにありえる。

また、そこではその社会を安易に上から値踏みする誤りが示唆されていて、西洋に限らず外から中央集権的な日本国などを見た場合、あのような自我の確立した誰もが理想とする若いスポーツ選手の精神と肉体が「田舎 ― 表面的に西洋化してすっぽりと意思の流通のグローバリズムの環に組み込まれている都会でないものを指す」から現れた驚愕の声が発せられる。それをして、日本的だ、そのものだと叫ばせる文化的な背景が説明され、ステレオタイプなイメージを越えることではじめて発見される要素となっている。

そしてそのような月並みなイメージから逃れられないのは、なにも月並みな人間のみならず、大遺伝子学者ジェームス・ワトソン博士などでも変わらない。黒人の知能を学術的に蔑んだのは良いが、自らがその黒人の遺伝子情報を予想の1%に反して16%も保持していて期待されたアジア的な情報は9%にしか至らなかった、本人にとっても至極満足の出来る結果となっている。なるほど、新聞の写真は、肌色が黒っぽく、鼻も横に開き気味である。

つまり、これは民族にも言えて、例えば日本と言う社会を自ら説明する言葉や主義などが無用であり、衣装を剥ぎ取ってそこに残るのは「ある理想」でしかない事を語っている。その理想像が上で言及した写真であり、それはどのような上からや外からの主義主張や構造などでは実体化出来なかった肉体を獲得している。

しかし、そのように依存しなければいけないひ弱な社会は、西欧社会にもれっきと存在していて、なにも隣町まで三キロどころか数十メートルもいかないでも、なんらかの教えに従わなければ生きていけない普通の人間が生息して、それらが集まって共同体を形成している。そこでは、どうしても月並みな必要悪の概念が交換される事となる。

話をここまで引っ張ってきたからには、さらにハーバーマスから社会学者ニクラス・ルーマンへと視界を広げ、その思考スケッチのようなメモカードが、このほど遺族と大学の間で話がまとまり、系統的に学術資料として整理されることになったことを余談として書き置く。



参照:
痴漢といふ愛国行為 [ 雑感 ] / 2007-11-26
民族の形而上での征圧 [ 文学・思想 ] / 2007-12-02
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# by pfaelzerwein | 2007-12-12 04:08 | マスメディア批評 | Trackback

スッキリする白いキョゾウ

朝からスッキリしないので、お客様相談室に電話をした。ドイツェテレコムの技術苦情係である。ネットの苦情であるからあまり気分は良くなく、どうしてもそのような声色になってしまうが、対応した若い男性は上手に対応してくれた。結局、その場でサーヴァーサイドを調べてくれて、問題のないことが判り、気になっていたルーターに疑いが廻って来た。余計に気が優れないが、電源を抜いてその場で試すように教示を受け行なった。ここまで来れば、その事情が飲み込めたので、試してみて問題があれば再び電話すると言う事にした。先方は透かさず、明日まで有効な速度の早い他の契約を勧めた。先ずは解決してからと言うことで電話を切った。なるほど、電源プラグを十秒ほど抜くことでメモリーに一杯になった要らぬ情報が消えて、再び順調になった。ここ暫らくコメント欄に多い所では五重にも書き込む誤りのように、ご迷惑をお掛けしましたが、これにて解決した。そして、ルーターの問題はまたまた良い実体験となった。

どうもスッキリしないシュトックハウゼンの訃報の扱いも、本日の紙面で解決した。死亡の連絡自体が正式にメディアに届いたのが初めて金曜日の晩になってからと言う。それをして、家族・近親・取巻きを除いては、その死を公にしない「隔離」と説明している。

ビートルズの「サージェントペッパー」の舞台袖に代表されるようなポップ業界での名声と、現代音楽を象牙の塔から引き出して大衆に訴えかけた酋長としての役割を述べて、その魅力と子供っぽい手に負えない想像力をして、大変なお商売熱心で狂信的な排他性と呼び、本来ならば遠に「お商売」から足を洗っていても良かった筈と評する。だからこそ、歳相応に見えなかったその死は、これからだったのに?と思わせるような驚きを与えたのだとしている。

その遺作の巨大作品「リヒト」にも勿論触れているが、個人的には2001年10月ベルリンでのケント・ナガノ指揮「プンクテ」とその話題の「リヒト」から「土曜日」のピアノ曲もしくは「ルチファーの夢」の演奏会での遭遇と、目に焼きついた巨体の白装束の作曲家の姿を思い出す。演奏会前の講演には遅れてしまったのだが、問題の発言が質問されたかと思うと大変残念である。しかし、それゆえに1981年の作品であった上の曲の既に陳腐となったパファーマンスの古臭さと、あの発言の真意が結びつくことは今後ともないのではないかとは、幾分客観的な視点を獲得出来ている。

そして、この発言に関して再びこの新聞記事に目を移すと、後輩のヴォルフガンク・リームの発言「シュトックハウゼンの習合的な宗教観や世界観が、何れにせよ日常の言語に先ず翻訳される必要があったなら」と、今日に至るまでそして今後とも永遠に議論とはなりようがない該当発言をして、芸術家が暴力的でありえる可能性を考察する。

しかし、そこにある仏教や幼稚な二項対立の ― 天使ルチィファーを取巻く作品に表れる ― 迷惑でエゴイスティックな信心を解析して、例の発言を「悪の力そのものの、そして全てのものの救済を、音響と共に戦った」と友好的に翻訳するが、その発言内容のように彼が謙虚であったことなどは一度もなかったと揶揄している。そして、それに続けて17歳の孤児が学業を終えてメシアンの下で修行して若くして頭角を顕し、ブーレーズ、ノーノと並ぶダルムシュタットの三巨星として、またセリエル音楽の細胞として、その一角を担う場面を紹介する。

同時にそれは、汚く薄汚れた1946年以前の伝統と手を切る姿勢としての一貫性を挙げることで、上記の「プンクテ」などに代表される初期の作品を間接的に批評している。まさにこの部分が、ストラヴィンスキーなどの影響を受けた作品を放棄または呪い、後に自害した先輩のベルント・アロイス・ツィンマーマンなどとの相違を図らずも浮き彫りにしている。

ハンス・ヴェルナー・ヘンツェとの比較で始まる大きな写真と殆ど一面を使った文化欄の記事は、物理的な概念をもった進歩信仰に始まった古い前衛もしくは現代音楽の、白い巨象もしくはドイツの大作曲家の死として伝えている。更にこれに付け加えることはないだろう。関心のある読者は、これでスッキリとしたのではないだろうか?



参照:
Der weiße Elefant der Neuen Musik, Elenore Büning, FAZ vom 10.12.07
善意と悪意と (買ったら全部聴け)
シュトックハウゼン追悼企画、シュトックハウゼン作 (妄想的音楽鑑賞)
シュトックハウゼン 死去 (Ganze Lieben, Ganze Freuden)
Continuum by Rainer Brüninghaus (夕暮れ時の空の色)
異質なものに包摂されること (庭は夏の日ざかり)
音という奇跡 (無精庵徒然草)
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# by pfaelzerwein | 2007-12-11 03:16 | マスメディア批評 | Trackback

待ち焦がれた破局の興奮

原子力発電所の近くの住民に子供の白血病が増えるとの報告が出た。早速ガブリエル環境相は、原子力発電所の環境汚染と健康被害の実態を調査・再検討する方針を打ち出した。

サイエントロジーが漸く禁止となりそうである。ネオナチ団体の禁止もなかなか進まないが、影響範囲が小さく弱い内に禁止することで、虫歯のように根絶してしまうことも重要である。本年開館したベルリン本部には訪れていないトム・クルーズだが、映画撮影の合間にシャルロッテンブルクの教会にはお忍びで通っているという。

戦中世代の戦後西ドイツを代表する作曲家カールハインツ・シュトックハウゼンが死亡したと知った。新聞で大きく報道されることも無く、その訃報には気がつかなかった。晩年の特に「2001年9月11日芸術発言」から、干された傾向がこうした扱いに反映しているかもしれない。

その作風や芸術的価値とその扱いの妥当性についての議論以上に、その問題となった発言を振り返ってみると面白い。ハンブルクの記者会見で、事件直後、彼は語っている。

「あそこで起きた事は、― 今あなたがたは発想を転換しなければいけないのです ― 偉大な芸術であり、それがなされたのです。ある行動をなんでも貫徹することは音楽においてなかなか夢想することが出来ないもので、連中は十年間も狂ったように訓練して一つの演奏会に全てを懸けて死ぬのである。これは、宇宙に存在するものの中で最高級の芸術作品です。想像して御覧なさい、あそこで起きた事を。つまり連中は一つの上演に集中して、一瞬の内に五千人の人々が復活に追い遣られるのです。こんなことは私には出来ません。作曲家としてはお手上げです。想像して御覧なさい。私が一つの作品を創造して、あなた方は驚愕するのみならずその場で死ぬのですよ。死んで復活するのです、なぜならばそれはあまりにも狂っているからです。芸術家の幾人かは、それでも考え得る限界を越えて突き進む可能性を試みているのです。そうして、覚醒して他の世界を開くためにです。」

事件の驚きのなかでの発言としても著名芸術家としてはあまりにも稚拙な表現に違いなく、その後の英文での釈明もその立場からすると全く見当外れである。この芸術家の個性と言えばそれはそれまでだが、ここから少し異なる視点も得る事が出来よう。

つまり、あの事件をお茶の間で観ていて、興奮のあまり手を叩いた善良な市民は世界中に少なくはない筈である。それらはビンラーデンの親派とかイスラム者とは限らず、あのニューヨークの威圧する摩天楼が一瞬の内に瓦礫の山と化す破局は、多くの市民の深層心理において、「未だか未だかと待ち焦がれていたこと」でもあるからだ。そうした、心理をもっとも上手に政治的武器としたのが子ブッシュ政権とその取巻き連中であったことに留意しておけば、その後の世界情勢や今も引き続くテロ対策の全貌を静かに見定めれるのではないだろうか。



参照:
悪夢の特命潜入員 [ 雑感 ] / 2005-09-01
デジャブからカタストロフへ [ アウトドーア・環境 ] / 2005-02-19
核反応炉、操業停止 [ アウトドーア・環境 ] / 2005-05-27
悪は滅びて、善は光り輝く [ 歴史・時事 ] / 2005-09-05
現実的エネルギー政策 [ アウトドーア・環境 ] / 2006-10-18
温暖化への悪の枢軸 [ マスメディア批評 ] / 2006-11-17
不可逆な一度限りの決断 [ 女 ] / 2006-01-25
人命より尊いものは? [ 生活 ] / 2007-12-06
永遠に続く生の苦しみ [ 文学・思想 ] / 2007-12-09
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# by pfaelzerwein | 2007-12-10 01:00 | アウトドーア・環境 | Trackback

永遠に続く生の苦しみ

d0127795_821522.jpgラジオ放送「ファウストュス博士」の最終回である。放送の録音をその後思いのほか時間を掛けて編集整理して、更に原文を捲り、改めて聞いている内に、直後の感想から随分と変わっていった。

それは、あまりにも情動的に一気呵成に破局へと至る描写から、もう一度物語を振り返って、その構造に潜む効果に気がついたからである。端的に表現すると、この作品自体が、アドルノ自身の論文を参照しなければ連想以外には何一つ語らない音楽議論の、その構造を読者に示唆することで、文章による芸術表現としての構造化の試みに立脚しているからである。

一部論文などでは時間による入子構造が論じられているようだが、それは、こうした破局の表現としては、どうしても時間の非連続性の表出が不可避なので、当然の帰着であろう。それは同時に過去から過去を扱う場合、もしくは現在の読者が異なるパースペクティヴでその語り手の言葉を読むとき、突然過去の過去から将来を見る視点と同時に過去から現在、現在から将来への視点が生まれることだけでも言及しておきたい。

その破局の状況は、例えばヴァイマール郊外のブッヘンヴァルト強制収容所の解放と連合軍がそこに市民を招集した史実として述べられる。それを、我々はハリウッドの映画人が一部始終を撮影した映像として観ていてよく知っている。そして語り手は、1945年4月のこととしてこれを語り、「焼かれた肉の死臭を嗅ぎながら知らぬ振りを通した、ヴァイマール・クラシック文化を愛でて、啓蒙された中部ドイツのプロテスタンティズム本流の善良な市民の絶望」として、もしくは千年のドイツの歴史の全否定として、今後とも消し去れない恥として言及する。ドイツ民族は、ユダヤ人に代わって支配されてゲットーに暮らすべきか、それとも将来など一体あるのかと懐疑する。

永遠に続くであろうこうした苦しみが、主人公が最後に愛した五つになる甥っ子エコーの死から主人公の死に至るまでの生きる苦しみに重ねられる。スイス方言を話す天使のような無垢な子供の姿は、書き言葉を越えた話し言葉の世界の、要するに肉体と精神の未分化な姿であるかもしれない。それは、その名が示す音響的な「形而下の物理現象としての認識」の存在である以上に、敗戦に至ってドイツ文化とその言語の野蛮なシステマティックな文法に支配された肥大化を嘆き、金輪際「ドイツ語によって詩を書くことはならない」とする「形而上の文化」への絶望的なアンチテーゼとなっている。

脳炎に苦しむ痛いけな子供がモルヒネによって寝かされている時、悪魔との契約に次から次へと愛する者を失う主人公の仕事部屋を語り手は訪ねる。その罪の責め苦が、主人公を悪魔に呪われた姿にして読者を驚かせる。リンダ・ブレアー主演の映画「エクソシスト」を思い浮かべるに十分なオカルトの情景である。そうした迫真の情景は、作曲家が新作オラトリオ「ファウストの嘆き」発表に際して、郊外の自宅へとミュンヘンの社交界の諸々を招いたガイダンスの会においての決定的な演説へと引き継がれる。

その「悪魔との契約」の公表は、順々に訪問者の途中退席をみながらも、多くの参加者の驚愕の内に、詩的な芸術的な趣と混同されながら進められるが、最後には完全に一同から拒絶されて、騒動の内にピアノの前の作曲家は椅子から転げ落ち意識を失う。そして、その倒れた体を誰よりも真っ先に抱え起こしながら大家のシュヴァイゲシュティル婦人はオーバーバイエルンの方言で叫ぶ。

「あんた達は皆同じ穴の狢だよ。全然分かってないね。都会のあんた達は、分からんかね!永遠の許しをこんなにも請うたんじゃないか。可愛そうな人だよ。許しが妥当かどうかは私には判んない。でもね、人間的に理解することが正しいんじゃないかと思うよ。誰にとってもね」。

後書きとして綴られるのは廃人化して年老いた母親に付き添われる主人公の姿である。ニッチェの晩年をモデルにした、この既にコミュニケーションの取れない竹馬の友である作曲家の様子を見ながら「もしかすると昔のプロテスタンティズムの教えのように肉体を悪魔に捧げることで、苦悩から解放されたいと思っているかもしれない」と語り手はふと思う。この生まれ故郷に戻った友人の姿は、その様子をしみじみと見ながら漏らす語り手の情景描写に、最近も話題となった大掛かりなスイスの安楽死協会の話題を思い出させ、読者を震え上がらせるかも知れない。

出版後六十年間の歳月は長いようでも、こうして繰り返し読まれることで、その内容は今でも決して古びない。そして何時かは、これも古典として広く読まれることになるのであろうか?

トーマス・マンは、1949年フランクフルトのパウリス教会にてゲーテ賞を受け取り次のように語っている。

「人はドイツにいなかったので、なにも知らず経験もしていないと言うかもしれない。どうして、私は居ました。居なかったとは、この作品を読んでから言えることです」


写真:シュヴェチィンゲンに展示されたジェフリー・イサークの作品集「悪魔」より



参照:「ファウストュス博士」索引 [ 文学・思想 ] / 2007-12-09
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# by pfaelzerwein | 2007-12-09 05:46 | 文学・思想 | Trackback

限界に近い今日この頃

d0127795_3203636.jpg相変わらずおかしな空模様だ。すでに一週間ほどになるだろうか。寒気の次にやってきた暖かい低気圧の大気が次から次へとやって来ている。

小雪どころか小雨の絶えない毎日で、地面がいつも湿っている。パリの天候から反日少しの時差がある。今日もプファルツの森から雲が勢い良く流れてくる。

その森の上空から西の空を見ると、49度緯線の先にランスとパリがあり、幾重もの河の流れと、その間に盛り上がる小さな起伏が確認できる。しかし基本的にはドーヴァー海峡へと抜けるような北海へと続いており、大きな衝立は存在しない。

次から次への、束の間の青空を見せながらやってくる雲の流れは、本来ならば相対的な気圧変化の中で、気圧が下がっていることを示し、頭が重くなるような具合の悪い気候状況を意味するが、何処かで一転総体的に上向くのである。それが今回は永遠に下がるような錯覚を起させる。

こうした天候は初めてであり、一体そのあとはどうした天候となるのか気になる。夜中じゅう強く吹く風は、室内の空気を膨張させる内容量を拡げる方向に、低気圧効果があり、何時までもこうした天候が続くのだろう。好い加減に終わって欲しい。

ここ数年は半年毎に悪くなっていたサーヴァーの調子は、一年近く快適であったがbここ一月ほど悪化している。なかなか我慢の限界に至らないのが味噌で、メインテナンスを少なくするシステムに変わっているのだろう。しかし、好調も長く続く反面、不調も長く続き、そこそこに使えてしまうのが苦情を言い難くしている。明日にでもメインテナンスがされるかと期待しながら、騙し騙し使っているのもそろそろ限界に来ているだろうか。

頭が重い、圧が上がる、目がしょぼしょぼする、疲れる、肩がこる、体がだるい。日差しが出て暖かい散歩陽よりかと思えば、一時間も立たずに小雨。突風が吹き本格的な雨かと思えば、再び強い日差し。

床屋に行き、寒さ対策で伸ばし放題にしていた襟元を特に刈り込ませ、精神衛生的にもスッキリする。サンモリッツは雪がないと聞いた。来週早々からまた冷えるようだ。2007産ワインの評価をしておいた。数多くのダイデスハイムの関係者が集まるであろう床屋の割にはあまり情報を持っていなかったので、少しふっておくとフィードバックがあるかも知れない。
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# by pfaelzerwein | 2007-12-08 03:05 | 生活 | Trackback

新春が楽しみな青林檎

d0127795_5471666.jpgルッパーツベルガー・ライタープファードをじっくり賞味する。その青林檎の香りは、殆ど青林檎飴のように強いが、今は未だ完熟していない青臭さがある。そして、今は麹の味が残っている。だから、酸味がそれに包まれて、2006年産にあったような、若過ぎが感じられないのが特徴である。

だからといって、酸が弱いどころか芯があるような強い酸を感じる。林檎酸の含有率の相違であろう。つまり、半年前の2006年産の買いそびれの原因となった薄っぺらい印象が2007年産にはあまりない。また、酸の量自体は充分なようで、成長も期待出来る。新春には青林檎が熟してくれるかもしれない。

また石灰を含む土壌の個性から、口蓋にひろがる味覚の独特の個性を持つが、どこかクリストマン醸造所の変な味のルッパーツベルクのリンツェンブッシュ産の味を思い起させる。街道を挟んでいるとは言っても同じ斜面の上部と下部の違いであることを思い出させる。

昨年と価格は同じであるが、ガラスキャップからスクリューキャップに変わった。しかし内容はより以上のものであり、先ずは遅くとも二年以内に消費してしまうキャビネットであることを考えると、この経済的判断は頷ける。ガラスキャップには見た目以上の価値は無く、立派なスクリューカップの方が名門らしい趣が強い。

上位のカビネットをこれにて再びコルクにして貰うよう、今後とも店先や醸造親方などに働きかけていく所存である。五年しか保たないなら上等のキャビネットは必要なく、早飲みの廉いキャビネットなら二年も保てば十分なのである。それなら廉いスクリューキャップの方が合理的である。決して、ガラスキャップが悪いとは言わないが、適材適所充分に考慮の上使って貰いたい。
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# by pfaelzerwein | 2007-12-07 04:21 | ワイン | Trackback

人命より尊いものは?

今日の西側先進国においては、人の思想や傾向は「テロとの戦い」への見解として表れる。

先日来のテロ対策に犠牲とされるものをどのように読み込むか、非常時の限界を探る知的なお遊びであり内務の政治課題となっている。それを真っ向から批判したのが、カールツルーヘの憲法裁判所のディ・ファビオであったが、その保守的市民社会を基本とする考え方にも現実とのずれがあることを我々も感じている。

マンハイム大学の名誉教授で公共の権利と法哲学の専門家ゲルト・レーレッケがこれに関して興味深い文章を投稿している。その見出しが示すように、法的には必ずしも人命はもっとも重要なものではないと言う法的見解である。

ここで触れた、札付き暴走族が、スパイヤーの町中、静止した警官にフロントグラスを射撃され射殺された事件は記憶に新しい。全国紙では問題とならなかったが、地元では大きな社会的な議論となったことは、死刑廃止の欧州市民を興奮させる出来事であったので想像に足りる。この法的疑問にもこの記事は間接的に回答してくれている。

先ずは、憲法判断による警察権の解釈つまり平時の治安維持の定義である。つまり精神薄弱や酔っ払いをそのまま放って置く事はならない。それは短く時間の定まった拘留に限られる。しかし、公共のための殺害は許可されているのである。そこでバーデン・ヴュルテンベルク州で新たに発効した警察法が語る。

「直接の行為に接して、明らかな非当事者の危険が充分に予想されない場合、銃器の使用が生命の危険を防ぐ唯一の手段であるとはならない。」

銃器使用は、正当防衛と緊急を要する場合のみに許されることを示している。

自称も含めて我々リベラルと呼ばれる市民は、市民の生命や財産が護られない限り国やその他の政体は必要無いと考えている。つまり戦争状態においても、市民に向けられた銃口は戦争犯罪として捉える。しかしここでは大風呂敷を広げずに、問題となっている対テロ対策において、テロリストが原子力発電所に旅客機を乗っ取って向かっている想定で、国防軍はこの旅客機を撃墜出来るか出来ないかの議論に絞って考える。

つまり、数百人足らずの罪の無い乗客と一万人の生死を天秤に掛けることが出来るかどうかのグロテスクな知的遊戯である。この法学者は、連邦法に従えば既に憲法判断が下ったように、撃墜は許可されないと言う。なぜならば、国は人命を防衛の手段に使うことを許されていないからである。たとえ如何なる人命も尊重しなければいけないからである。世界六十億の人命自体に最も重要な価値が置かれる。

そこから、生命の清算や相殺は禁止される。その尊厳が、加算された生命に還元されるに係わらずにである。つまり人の生死に関しては、一人であろうとも千人であろうとも論理的には変わらない。これが回答である。

しかし、非当事者や過失のない者を社会の利益のために犠牲にして良いのか?法治国の名を持って、この回答は得られない。法治国はあらゆる手段を講じて、対策をしなければいけない。そしてそれを自ら諦めることは許されない。

そのためには、法は自らつまり国自体を犠牲に崩壊へと導いても手段を講じなければいけないと言う。しかしである、1992年にハイデルベルクでニコラス・ルーマンが講演したように、「テロリストによる原爆点火を避けるために拷問は可能か?」の問いかけは異なる視点を与える。

法治国においては、拷問の禁止を護るためには広島・長崎以上の犠牲も厭んではいけないとなる。要するに拷問禁止は、人命よりも法治国では重要となる。警察は答える。「時間が無ければ、無垢の生命の犠牲は止むを得ない」。つまり、拷問禁止は殺人よりも重要なのである。それは、なぜか?

殺人は国の権力によっても個人によっても世界中で日常茶飯であるが、拷問は現代では許されないからである。そして、人類学的な更に聖書からの見地から智恵を得る。

淘汰においては、予測可能の条件において種の殺戮が自然で通常の性質として起こる。それは、それほど近親ではないが直接の競争相手である同種に対して、充分な自己の遺伝子情報が、平均を上回り再生されるときに殺戮を生じさせる。

この世は人を堕落させるから不幸だ。堕落は避けられないが、それを起す者は不幸である。もし手か足がお前を堕落させるなら、それを切って捨ててしまいなさい。両手両足がそろったまま永遠の火に投げ込まれるよりは、片手片足で生命を受けるほうがよいのだ。もし目がお前を堕落させるなら、えぐり出して捨ててしまいなさい。両目の目がそろったまま火の地獄に投げ込まれるよりは、片目で生命を受けるほうがよいのだ。(マタイオスによる福音18章)

これをして、遺伝子情報こそが個人の生命よりも重要で、その規格こそが五体の満足よりも優先される。しかしこれは倫理の問題ではなく、生命の固体の重要性を根本から崩している。こうなれば、「生命とは何ぞや」の問いかけは不要となると書いている。要するに、それは科学の自己否定ではないのか?

問いは既に回答されているが、テロとの精神的な対峙は係わらず継続して、原爆テロリストが上の精密な規格を尊重して、「法治国と死」の条件下に行動をするのかどうか。しかし、どちらにせよ、その回答で市民の安全性が高まる訳ではないが、市民はその回答で少なくとも安心することが出来るとしている。



参照:
Das Leben ist der Rechte höchstens nicht,
Gerd Rollecke,
FAZ vom 1.Dezember 2007
死んだ方が良い法秩序 [ 歴史・時事 ] / 2007-11-21
痴漢といふ愛国行為 [ 雑感 ] / 2007-11-26
正当化へのナルシズム [ 歴史・時事 ] / 2007-11-29
民族の形而上での征圧 [ 文学・思想 ] / 2007-12-02
顔のある人命と匿名 [ 歴史・時事 ] / 2007-02-01
デジャブからカタストロフへ [ アウトドーア・環境 ] / 2005-02-19
豚とソクラテス、無知の知 [ マスメディア批評 ] / 2007-08-14
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# by pfaelzerwein | 2007-12-06 02:45 | 生活 | Trackback

初冬に香るリースリング

d0127795_3133227.jpg週末、外は大荒れであった。間違いなく何処かで大きな被害が出ているだろう。この時期に珍しい。これで冬は終りで暖かくなるのだろうか?

そして、醸造所の店先で聞いたように、これだけお湿りがくるとアイスヴァイン用の葡萄も駄目になる。あれだけ一級の土壌で摘み残したには、糖価が充分でなかったとかのそれなりの理由があるのだろうが、ただ試してみるだけのものであったようだ。この地域は、モーゼルやラインガウと異なり気温も高めで、グランクリュワインさえ収穫出来れば、アイスヴァインなどは特に必要ないのだ。トロッケンベーレンアウスレーゼと呼ばれる健康な貴腐葡萄は九月初めに収穫済みであるから、2007年産は全て揃うことになる。

その醸造所フォン・ブールのリッターヴァインを、早速楽しんだ。味が強く快適なワインである事には間違いない。新鮮なうち、未だ数ヶ月間は、このまま楽しめるだろう。ペッパーミント風味まであり、他の醸造所では上のクラスに匹敵するかもしれない。ただ、葡萄は買いつけたもので、色々な樽を混ぜて美味い味に作ってあるようだ。しかし、アルコールが12度もあり、この価格である限りは何の不足もない。そのせいか、美味い割にあまりグラスが進まなかったのも事実で、安上がりのワインそのものである。

それに比べると、QBAグーツヴァインの方は、まだ味が引っ込んでいる。強い酸味の柑橘類の味と、あとに残る苦味が良い調和をしていて、数週間してからまた試してみたいワインである。アルコール11.5度の割には水臭くないのは、未だ開いていない内容が詰まっている証でもあろう。7.7ユーロは、日常消費用には高価過ぎるが、後味も素敵でとても香ばしいワインである。どことなく嘗てのミュラーカトワールの醸造親方シュヴァルツ氏のワインを髣髴させるものがある。

今回はブルグンダー種を試さなかった。それは南ワイン街道産で地元のものではないからだ。確かに一級の区画ばかりを所有していると、そこで土壌の味が出ないピノブランなどを栽培しても価値が無い。持つ者の贅沢な悩みなのである。

これで近々試すキャビネットが楽しみになった。
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# by pfaelzerwein | 2007-12-05 03:13 | ワイン | Trackback

ど真ん中にいる公平な私

d0127795_38015.jpg今頃になってようやく冬タイヤに替えた。10月終わりには氷河スキー場に乗り込んでいた頃と比べると二月近くも遅い。すると雨も上がり一月振りぐらいに、車の日除けが必要なほど日差しが強い。しかし、ゴムが適当に柔らかく乗り心地もよく、夏タイヤより落ち着いた感じが嬉しい。

ハノーヴァーでキリスト教民主同盟の党大会が開かれている。メルケル党首の演説が至る所で流れていたが、ラジオで小耳にしたのは、日本車警戒であった。環境対策で一足先行されいることに、業界ともども大変危機感を募らしているのが分かる。

「アメリカの自動車産業のボスが労働者の百倍も稼ぐ原則に従えば、ドイツのマネージャーにもそれ相応に支払わなければなりません。アメリカについては今触れませんが、日本の自動車産業では、労働者のたった二十倍の報酬しかトヨタの重役連は稼いでいません。それは丁度前首相が、ロシアン天然ガス利権でスイスで稼いでいなければ、現職の時の約二倍もの額なのです。」*

こんな不公平はドイツでは決して認められないが、それだからと言って今後とも社会主義には決して進む事はないと言明している。シュレーダーの似非社会主義の拝金主義をそのグローバリズムのヤクザな経済に重ね合わせ、さらには日本車や日本企業への警戒感を誘う、この女性らしい感覚的に優れた演説である。

つまり、企業はそれ相応の給与を与えなければ充分なトップマネージメントを得られないとする見解を、国のトップの給与とその責任と比べることにより諌めている。これは、退任した副首相ミンターフェーリングの役員給与上限の法的設定に変わる、企業に対する強い社会的圧力である。特に実質的業績を上げていない経営者の退職金は、国民の不審を招き、社会を崩壊させる危険があると強く警告する。そして同時に役員に、「あなたたちの仕事仲間は新聞も読まず計算もろくに出来ないと思っているのですか?」と、その基本的能力のありえない差異を浮き出させ、企業役員諸氏の猛省を促す。

しかし、一般大衆向きに演説したのではないにせよ、あまりに物事を単純に捉え、それを選挙民にイメージさせるポピュリズム政治ではないかと思われる。そして、自党のことを左右に触れない中道のど真ん中としているのは、現在の大連立から次回の単独得票率40%プラスを狙う選挙戦略としては正しい。しかし、中央党などの過去のイメージを伴うキャッチフレーズはどうなのだろう?CDUは、ChristienであってCentrumではない筈だ。

党内には断固とした反対があるにも拘らず行なった最低賃金への決断も、この首相が選挙中に大蔵大臣候補キルヒホッフ教授と掲げていた自由主義からは甚だ遠いが、メルケル女史にとっては「公平」と言う言葉が意味するものはただ一つであり、それは決して振れないものなのであろう。だから自らはど真ん中に立っているに違いない。

*公平に翻訳訂正済み。
写真:マンハイム、ネッカー河畔のルイーゼンパークの真ん中の帝国庭園



参照:
Kapitel 8(Johannes)Luther-Bibel 1984

…… Aber die Schriftgelehrten und Pharisäer brachten eine Frau zu ihm, beim Ehebruch ergriffen, und stellten sie in die Mitte und sprachen zu ihm: Meister, diese Frau ist auf frischer Tat beim Ehebruch ergriffen worden. Mose aber hat uns im Gesetz geboten, solche Frauen zu steinigen. Was sagst du? Das sagten sie aber, ihn zu versuchen, damit sie ihn verklagen könnten. Aber Jesus bückte sich und schrieb mit dem Finger auf die Erde. Als sie nun fortfuhren, ihn zu fragen, richtete er sich auf und sprach zu ihnen: Wer unter euch ohne Sünde ist, der werfe den ersten Stein auf sie. Und er bückte sich wieder und schrieb auf die Erde. Als sie aber das hörten, gingen sie weg, einer nach dem andern, die Ältesten zuerst; und Jesus blieb allein mit der Frau, die in der Mitte stand. Jesus aber richtete sich auf und fragte sie: Wo sind sie, Frau? Hat dich niemand verdammt? Sie antwortete: Niemand, Herr. Und Jesus sprach: So verdamme ich dich auch nicht; geh hin und sündige hinfort nicht mehr.

姦通の女 - ヨハネスによる福音 第八章

前略…そこへ、律法学者たちやファリサイ派の人々が、姦通の現場で捕らえられた女を連れて来て、人々の前に(真ん中に)立たせ、イエススに言った。「先生、この女は姦通しているときに捕まりました。こういう女は石で打ち殺せと、モーシェは律法の中で命じています。さて、どうお考えになりますか」。イエススを試して、訴える口実を得るために、こう言ったのである。イエススはかがみ込み、指で地面に字を書き始めた。しかし、彼らがしつこく問い続けるので、イエススは身を起して、「あなたたちの中で罪を犯したことのない人が、まず、この女に石を投げなさい」と言った。そしてまた、身をかがめて地面に書き続けた。これを聞いた者は、年長者から始まって、一人また一人と、立ち去ってしまい、イエススだけが取り残された。女はその場に(真ん中に)残っていた。…中略…イエススは言った「わたしもお前を罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない」。

Im Reich der Mitte, Berthold Kohler (FAZ)
CDU zieht rote Linie zur SPD (Video, Reuters)
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# by pfaelzerwein | 2007-12-04 03:08 | | Trackback

既視感と焦燥感の恍惚

いよいよ大詰め近づいて来た。第九回ラジオ放送「ファウストゥス博士」は、原作三十八章から四十二章までを扱わう。

ここまでのなにやら音楽や宗教や哲学の難しい話の緊張が一挙に解かれる。堰を切ったようにして流れ出るめくるめく情念の流れは、お涙頂戴の号泣と男泣きの連続かと言えば、流石に違う。さてどこがどう違うのか?

この作品の中でももっともエロティックで叙情的な四十章は、ミュンヘンの背後に広がる最高峰ツーグシュピッツェの屏風の懐に近づき、そして戻ってくる遠足の一日である。どうしてこれほどまでにこの一日の情景は特別なのか、それは物語の登場人物にだけでなく読者にもそれを問い掛ける。

ここから続く章は、ドイツ表現主義のエッセンスを搾り抜き、知的に再構成された文章でしかないが、それはまるで作曲家アルバン・ベルクの代表作「叙情組曲」などの名作群の文章化のようでさえある。

この遠足は、その目的が暈かされて召集されたもので、参加者各位は途上その主催者たる主人公で作曲家アードレアンの胸の内を各々に推測している。お目当ては、パウル・ザッハー指揮で自らのヴァイオリン協奏曲がトーンハレで演奏されたツューリッヒの音楽会で知りあった、フランス語を話しパリで活躍する舞台衣装デザイナーのマリーである。そして既に作曲家と深い仲になっている美男子で若いヴァイオリニスト、ルディーや作曲家の中部ドイツからの友人で陽気で瀟洒な翻訳家のルディガー、そして語り手のツァイトブロム夫妻などである。

列車の旅である。この区間をミュンヘンの中央駅から乗車した経験がある者ならばもしくはこの地域を旅行したことがある者ならば、ここに描かれる幾ばくかの小さな丘を奥の屏風へと近づいて行く感興が判るだろう。それは、未だ雪が凍りついた初春の出来事なのである。

しかし、この列車の進行に伴い潜在的な不安感などが、この一日のパッサカリア主題のように鳴り響くのは、その独特の地理のみならず、誰もが体験している、朝起きして、外気とは比べようもなく暖かい列車内で皆の顔を見ながらの、少し気まずいような、よそよそしいような会話に潜む深い響き故なのである。そう、どこか妙に緊張に神経が立っているあの雰囲気である。

しかも、そこには遠足の発案者であったヴァイオリニストと作曲家に興味を持ちつ持たれつのとても女性らしい若い女が居るのである。それを観察する語り手は、ところ構わず誰にでもスキンシップを取るヴァイオリニストに体を触られてうっとりする作曲家の姿にあの魔性の女との情景を回想させて、このヴィオリニストの肉体を影絵のように映す。

それは、ガルミッシュ・パルテンキルヘンの民俗音楽ロカールでの思いがけず長くなった休憩のエンツィアン・シュナップスやコーヒーの香りとともに、三十八章の企業家ブーリンガーのサロンパーティーでSP盤で響いたワルツなどの通俗名曲の調べと交差されて、より直接で肉体的な趣をそこに添える。

再び戸外へ、スキーヤーのルディガーを除いて、今度は残り六人を乗せた馬橇は、エッタールのルートヴィヒ二世のリンデンホーフ城を目指す。さらに、見学後青空の下、バロック教会へと足を伸ばす。そして、こじんまりとした谷のホテルで夕食を摂ると、こんどは今住まいを見たばかりの王についての評価が、語り手とヴァイオリニストの間で大論争となる。そして、帰りの列車では皆言葉少なく居睡りしながら中央駅へと戻って行く。

この章に続いて、ベルリンが包囲され、ラインの境が破られる時になって回想する語り手は、ヴィーンのコンサートツアーからハンガリーへ同行したヴァイオリニスト、ルディーが、上の遠足の次の週の朝早く作曲家に電話で呼ばれ、恋の使いを頼まれる情景を叙述する。その「薔薇の騎士」への依頼の情景は、つとに情動的で、コッポラ制作映画「MISHIMA」の丸山明宏との別れの情景を思い出させるだろうか。それとも三十九章にて作曲家に恋心を打ち明けられる語り手の記述から四十二章でのルディーの死までは、三島由紀夫の日記「裸体と衣装」や遺作長編第一部「春の雪」の終幕を想像させるだろうか。

「魔の山」の読者は、遠足での橇のシーンに、セッテムブリーニがハンス・カストロプにしっかりと手を合わせる決闘のシーンをだぶらせ、郊外の高揚の絶頂からミュンヘン市内の路上電車トラムの重い振動にパンタグラフの火花に付き添われる破局へと、「ヴェニスに死す」冒頭のような焦燥感や既視感を覚えるかもしれない。

不思議なことに、手元のフィッシャー1997年版文庫本の551ページの最下行の、ベルンでのヴァイオリン協奏曲の1923年の初演は、ラジオでは1924年と読み替えられていたようだ。新しく校訂された箇所であろう。



参照:
明けぬ思惟のエロス [ 文学・思想 ] / 2007-01-01
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# by pfaelzerwein | 2007-12-03 00:00 | 文学・思想 | Trackback