エロスがめらめらと燃える

肉体とエロスは今年のこのブログのテーマでもある。BLOG「TARO'S CAFÉ」で裸とポルノが話題となった。イン河の橋の欄干の男性器をされけ出したキリスト像の設置が物議を醸し出している中、オーストリアのカトリック原理主義者が、春のザルツブルクの裸のモーツァルト像*ペンキ事件に続いて再び抗議行動を起した。事件に関してはカトリックのメディアは関心を持って伝えているが、一先ずその町から遠く離れている我々にはどうでも良い。

興味あるのは、ポルノ反対派と呼ばれる原理主義者の行動原理であり、我々の社会が持つ「裸とポルノ」に対する考え方ではないだろうか。裸の彫刻と聞いて誰もが思い浮かべるのはギリシャ神話の神々の古典の裸像である。そして、それにキリストの腰に捲いた襤褸布を比較するのである。

古典芸術をして、ヘーゲル教授は裸について簡素に的確に語っている。つまり、神々は完璧で隠すものがないのであって、衣服を纏ったり性器を隠すのは人間的なこととしている。そして、ギリシャの美神のヴィーナスなど限られた女性しか充分に肌をさらしていなので、もしギリシャ人がより以上に裸に寛容であったなら美意識は変わっていただろうと大変残念がっている。

なぜならば、精神的な部位と言うのは頭とか手の動きとか仕草を考え、それ以外の部位は動物的で感覚的な必要悪と一般的には考えるからである。つまり、隠されていると言うことは、動物的な感覚が嫌われて、慎み深い人間の精神が動物的な生を恥じていることを示すと語る。要するに、古代においてもパラス像などが余りを肌を曝していないことを挙げ、人間のそのような部位の美は感覚美であって、精神美ではないと断言する。

当然、アダムとイヴの楽園追放の経緯が原罪となることに対応している。キリストがギリシャの神々のような肉体を持っていないことは確かで、罪を背負っていることが大切なのである。

またFKKと呼ばれる肉体賛美や解放がナチズムもしくは唯物主義やマルキズムの文化であるように、一方アニミズムに類似する即物的肉体の商品化と神格化によるフェティシズム**、その中間帯のヴィクトリア期の美学者ラスキンやルイス・キャロルらのペドフィリアや作家オスカー・ワイルドなどの同性愛者の存在、また画家ターナーの変態ぶりなども文化宗教的背景を無視しては考え難い。

反面、性の倒錯は観念的なもしくは目的論的な考察のなかでこそ倒錯と言われるのであって、ヘーゲル教授の説のように肉体はそもそも不死ではないので不完全としても、そしてそれらが浄化されて美が存在するとする精神の普遍性にも疑問が投げ掛けられる。

本日は霧がたち込める万聖節となった。ドイツ語の「ALLERHEILIGEN」は「All Hallow’s Even」つまりケルトのハロウィーンと同じ語彙であると最近はその米国文化の一般化から説明されるようになっている。肉体が朽ちた後のその精神が、蝋燭を添えられて、めらめらと光り輝く。その光を微かに跳ね返す対象こそがエロスへと導かれる。


*モーツァルトの非聖人化は、娯楽映画などよりもこのような方法の方が効果がある。
**資本主義の物神崇拝論としての用例が有名なようだが、寧ろここでは未発達な宗教や世界観によるアニミズムが重要である。



参照:
純潔は肉体に宿らない [ 文学・思想 ] / 2007-10-28
素裸が雄弁に語らないもの [ 文化一般 ] / 2005-04-21
民主主義レギムへの抵抗 [ 文化一般 ] / 2007-08-25
ミニスカートを下から覗く [ 文化一般 ] / 2007-09-17
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# by pfaelzerwein | 2007-11-02 00:00 | | Trackback

逆立ちしても無駄な努力

猪の里では、猪を食さなかったが、フランス人の店でフラムクーヘンを食した。皮が薄く、チーズの旨味が利いている、オリジナルのトッピングであったがなかなか良い食事であった。

食前に試したライメンのリースリングは、土と言うか泥の味とかに樽の腐ったような味のリースリングであった。2004年産のものであったが、これはリースリングかと思わずお運びに聞き返した。それほど酷いもので、ヴュルテンブルクのハイルブロン周辺の悪いものと変わらない。土壌が良く似ている。ライメンには有名なシュペートブルグンダーの作り手があるが、ライメンの土壌の本質は変わらないであろう。

ここではドイツのリースリングは如何にも素晴らしいようなことを語っているが、どうしようもないものも多々あるのである。そのような地域の醸造家は隙間を狙ってトロリンガーなどの赤ワインやその他の品種を栽培している。要するに、醸造家が幾ら努力しようが、逆立ちしようが悪い土壌でリースリングやシュペートブルグンダーを作っても無駄なのである。だから無理をしてラジエター用冷却水の不凍液を入れて偽物の甘口貴腐ワインを醸造して大スキャンダルを起したのも、そこまで割り切れていなかった中途半端な生産地のワイン農家の仕業であったことを忘れてはならない。

そうしてドイツのワインを比較対象に下げて置いて、フランスワインを出すのが、この昔は風呂場であった地下を使う上のホテルレストランのシェフの遣り口だ。流石に最も安い南仏のカントリーワインが予想通り食事を流す感覚で素晴らしかった。

ライメンのリースリングで悪酔い仕掛けるところを強いアルコールで五臓六腑を消毒してくれたこうしたワインに感謝したい。ほろ酔い加減で食後にはフランス製の甘みのある林檎ワインを飲んで、昼間の紅葉した林の風情を肴に食事を満喫した。
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# by pfaelzerwein | 2007-11-01 06:28 | ワイン | Trackback

索引 2007年10月


PAの瞼に残るプァルツ [ 文学・思想 ] / 2007-10-30 TB0,COM3
猪の川から愛をこめて [ 暦 ] / 2007-10-29 TB0,COM4
純潔は肉体に宿らない [ 文学・思想 ] / 2007-10-28 TB0,COM0
案じるような結果となるか [ 生活 ] / 2007-10-27 TB0,COM0
居たたまれない赤味 [ 暦 ] / 2007-10-26 TB0,COM2
環境世界的発展史観 [ 歴史・時事 ] / 2007-10-25 TB0,COM0
もうすぐ、夜明けは近い [ 暦 ] / 2007-10-24 TB0,COM4
古典に取り付く島を求め [ 文学・思想 ] / 2007-10-23 TB0,COM2
馭者のようにほくそ笑む [ 文化一般 ] / 2007-10-22 TB0,COM0
アップ・ダウンされる趣 [ 雑感 ] / 2007-10-21 TB0,COM2
つい魔がさす人生哲学 [ 文学・思想 ] / 2007-10-20 TB0,COM0
容易にいかない欲張り [ 文学・思想 ] / 2007-10-19 TB0,COM0
どうも哲学的な美の選択 [ 文学・思想 ] / 2007-10-18 TB0,COM0
緑茶に想う影響する土地 [ 雑感 ] / 2007-10-17 TB0,COM4
豚の煮汁に滲む滑稽味 [ 生活 ] / 2007-10-16 TB0,COM0
目的と効果の情念の表現 [ 文学・思想 ] / 2007-10-15 TB0,COM0
Vintage:1826,1907,1921,2006 [ 暦 ] / 2007-10-14 TB0,COM0
独精神についての疑問視 [ 音 ] / 2007-10-13 TB0,COM0
音楽教師の熱狂と分析 [ 文学・思想 ] / 2007-10-12 TB0,COM0
古典派ピアノ演奏の果て [ 音 ] / 2007-10-11 TB0,COM0
ワイン三昧 四話2007年 [ ワイン ] / 2007-10-10 TB0,COM4
対人関係の社会計算説 [ 女 ] / 2007-10-09 TB0,COM0
道に迷って思わぬ出会い [ 試飲百景 ] / 2007-10-08 TB0,COM2
健康に前景気に湧く [ 暦 ] / 2007-10-07 TB0,COM0
想像し乍ら反芻する響き [ 文学・思想 ] / 2007-10-06 TB0,COM4
週間を通した習慣つけ [ 生活 ] / 2007-10-05 TB0,COM0
痴呆化と単純化の伝統 [ 文化一般 ] / 2007-10-04 TB1,COM0
生きてる内にもう一度! [ 文化一般 ] / 2007-10-03 TB0,COM2
モスクを模した諧謔 [ 音 ] / 2007-10-02 TB0,COM2
黄金晴れのロココ日和 [ 暦 ] / 2007-10-01 TB0,COM2

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# by pfaelzerwein | 2007-10-31 02:23 | INDEX | Trackback

PAの瞼に残るプファルツ

d0127795_3463427.jpgエバーバッハの町で食事はしたが、見学はしなかった。しかし、先日からひょんなことで、この町とはいくつもの交わりがある。

何よりも、マンの「ファウストュス博士」にて重要な登場人物クレッチマーの故郷の音楽文化を語るのに、この町がプファルツのエバーバッハとして出てくるのである。敢えてクア・プファルツとしていない。もちろんそうなればハイデルベルクもプァルツであろう。

ハイデルベルクのネッカー上流に位置するこの小さな町は、クレッチマーの文化的土台を作る宗教者ヨハン・コンラート・バイセルの生まれ故郷である。因みに、早く新教化したこの町もティリー軍の侵攻後旧教が復権する。バイセルは、貧しい酔っ払いのパン職人家庭の生まれで教育も無く、自ら職人として南ドイツを転々とする内に敬虔派再洗礼派の影響を受けてハイデルベルクへ戻ってくると、宗教活動を始める。それにより逮捕された事から米国へ移住する。南ドイツの三十年戦争以降の分派活動が背景にあるが、新天地で自由な宗教活動が続けられて、清教徒を中心に複雑な米国の文化の基礎が築かれていく。ここではEPHATAと呼ばれるアーミッシュのペンシルヴァニア、ランカスター圏の町が舞台となる。現在も双方に姉妹都市関係がある。

その話は地元で余り聞いたことがなかったが、どうも今もそこのコミュニティーで使われている言葉は古いプファルツ方言のようである。しかし、詳しくみていくとなると、プロテスタント宗教史や言語学や民俗学の専門領域のようなので、余り簡単に触れる事は出来ない様子である。

マンは、米国で出会ったドイツ系の移民に、同じようにハレからの敬虔派の流れと再洗礼派の流れの双方を扱うことになる。その扱われ方についてはなお詳しく見ていかないと分からないが、重要なのはそうした推測の契機を与えて、ツヴィングリやカルバンまでを視野に入れる必要性を読者に示唆することである。それが主旨であろう。

写真は、エバーバッハの町から近い裏山にあるエバーバッハ城である。ヴォルムスの司教に仕えるフォン・エベルバッハ伯によって12世紀に建造され、15世紀には帝国のテリトリー争いの中で潰された。後に宗教者となるバイセルにとってはペンシルヴァニアに移ってからも瞼に残っていた廃墟の姿であろう。


参照:
Pennsylvania Dutch(m's New York cafe)
Kutztown Pennsylvania German Festival(m's New York cafe)
アーミッシュの人々(時空を超えて)
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# by pfaelzerwein | 2007-10-30 03:45 | 文学・思想 | Trackback

猪の川から愛をこめて

d0127795_527565.jpg

エバーバッハ、直訳すると猪の川となるようだ。そのネッカー川沿いの町からオーデンヴァルトの最高峰へと歩いて降りてきた。

なにか日本のマンガ「エロイカより愛をこめて」と言うのからこの町が日本でも有名となり、観光客が思いかけず日本から訪れることで作者の青池保子さんは名誉市民に輝いたと言う。ネットをみると登場者の少佐がフォン・デム・エーベルバッハとあってこの土地の出身なのだろう。それにしてもデムと言う定冠詞が出身地の名前に入っているのには曰くがあるのだろうか?大変珍しい。

残念ながら同行者にはこのマンガについて詳しい者はいなかったが色々とこの町の事などを知るようになった。

秋も深まり夏時間が終わったその日の森歩きは、視界は余り利かなかったもののそれなりに風情を味わった。
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# by pfaelzerwein | 2007-10-29 05:29 | | Trackback

純潔は肉体に宿らない

ラジオ放送「ファウストゥス博士」の第四回放送を聞いた。先週聞き流したハレ大学宗教学教授の講義内容が、主人公のエメラルダとの肉体関係の意味合いを示す伏線となっている。

そのような理由で再び第三回放送に相当する部分を読み直す。しかし、その全体の内的構造を把握するのは、困難なほど各部分が他の部分に強く関連している。ベートーヴェンやシェーンベルクらの作曲を意識した凝った構造で作文している。

しかしながら、シュレップフス博士のプロフィールに関連させて宗教改革と魔女裁判を扱い、そこに善と悪を、悪が存在することで善をクローズアップさせまたその反対を浮き立たせると語る。その構造に、基本となる悪の意識を、中世トーマス・アクィナスの第四の秘蹟、要するに告解の秘蹟としておくと分かり易いだろうか。

つまり、肉体が病気にかかったとき薬がなくては死ぬが、精神においても薬が必要であり、「悔恨は、罪の苦しみであり、それによって罪を犯さない意志となる。」さらに「罪のありのままの認知」が挙げられ「良き行いによる贖罪」となる。

上の教授は、この境界を越える自由を獲得することで、倫理の枠組みを定義することで、その対照がより良く示されるとして、主人公の友人であり語り手は、自らの肉体経験に続いて、主人公アードリアンの経験を語る。

つまり、この男においては、純粋が鎧を被り、純潔があり、知的な自負があり、そして私、語り手に取って神聖な、彼を取巻く大胆な皮肉があると言うのだ。「肉体を持った生命には宿らない純潔」、「精神的自負を恐れない本能」、「拒絶する自然の高慢が彼の細胞を弁済する」とする考えは、罪の意識以外に、苦悩に満ち、憚られるものだから、神の意に則したこの人類への、動物への屈辱が、最も優しく精神的に高まったものとして、愛の没頭に満たされる覚えのある感覚によって履行されるという希望を持つとある。だがしかし、こうした精神は、アードリアンのような本性には余りないと結論する。

この部分だけをこうして読み取ると、弁証法の思考方法が、カントを越えて中世ストア神学に至る流れと宗教改革に因む流れを巧く止揚している様にも見えるが、実際はそうした小さなエピソードが大きな流れとなっていたりする。

そのように雑多ないくつもの主題が散りばめられているかと思えばそれが大きな主題へと合流するような形になっているのは、モンタージュ技法をその出来上がった作品から分析する時に見える光景だろう。本人がモデルとされてその内容に難色を示した作曲家シェーンベルクであるが、それがLAサンタバーバラ校にてこの作品をネタに何度も講座を開いている動機ともなっているかもしれない。

分析的に読めば、繰り返し繰り返し読んでもネタが尽きないが、実際の物語の進み様は、そうした理性的なものではなく、心理的な流れが重視されていて、それも尋常ならざる効果を上げている。そうした心理の山がこうして幾つか築かれていくのも、この作家がある種の抽象音楽の構造をここにも活かしているからだろうか。
 


参照:
■トーマス・マン「ファウストゥス博士」より some of them are old
明けぬ思惟のエロス [ 文学・思想 ] / 2007-01-01
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# by pfaelzerwein | 2007-10-28 01:30 | 文学・思想 | Trackback

案じるような結果となるか

案じていたのだが、とうとう電気髭剃りの網の刃が傷んだ。騙し騙し壊れた物を使っていたので、刃を替えるのは、買い替えを意味していたからだ。だから、皮膚を切ってシェーヴィングローションをつけることになっても、文字通り自分まで騙して知らない振りをここ数日していた。

しかし、フランス製のローションは使い出すと髭剃りよりも高くつく。それに刃が突き刺さって大怪我しそうなのである。仕方なく、面倒だと思っていた、ネットサーチで情報を集めた、

何よりも壊れやすく、ものによっては250ユーロを越える高価で、部品などを含めて売り上げを上げることが、商品の品質よりも重要になっている米国資本ジレットに入った老舗ブラウンには、金輪際一銭も投じる気はしなかったのである。あまりにも壊れ易い。

ネットでの最新製品に対するユーザの思いの篭った製品批評作文がなかなか面白い。「動作音が静かなのが、ただ一つの長所だと思ったら、百回も顎を行ったり来たりさせたのに、それはその筈、髭剃り前と後は何も変わらず」だとか、反対に「スイッチを入れてこんなに驚かされたことはない作動音」とか、「網の目が髭より細いのではないか?」、「以前の商品を愛用していたのに、フィリップスよりも悪くなっている」とか、「ドイツ市場を実験台にして、改良をしているのだ」とか、「直ぐに棚の肥しにして昔のものを再び使っている」とか、評判はすこぶる悪い。

しかしである、この壊れた7000シリーズは比較的評判が良く、壊れた箇所を訴えているものは見つけられなかった。またその洗浄装置やその髭剃りの機能は優れていることを自ら確信しており、問題は廉くて使えるものを探し出すことであった。それは、一般の批評の最たるもので、「なぜ、倍もするような商品が壊れたり、剃れなかったりするのに、衛生品と言うことで返還が出来ない」、「この価格で半額以下の商品よりも充電が効かないとか、機能しないとかどうかしている」との価格に対するルサンティメン的怒りが殆どである。しかし、一度は壊れた洗浄装置であるが、今また修理して作動している事から、それに使える同じシリーズの髭剃り機を探した。再び7000シリーズである。

ネット販売で80ユーロ少々のものを見つけたので、応急的に替え刃を購入して、これを使える格安商品をネットで購入すればそれで良かった。しかし、替え刃どころか髭剃りは売り場から撤退して、スーパーでは売っていなかったので、結局デパートへと出向いた。素材疲労で故障したブラウンの7000シリーズを購入した店である。

そして、そこで見かけたのは、現在使用しているのと殆ど同じ一つ格上の商品が殆ど半額で、他のシリーズの上級品と一緒に棚卸されている状況であった。このデパートは同じシリーズの中級以下の商品を品ぞろいしてそれの上位の格の商品は入れない購入体制であるが、それにも関わらず売れ残っているのである。

上位の商品の良さそうなのは、プラスチックよりもアルミを多用していることであり堅牢性に優れている。しかし、安売りされているのは格下商品であり、乗用車と同じでそうした商品が本当は売れ筋なのだろう。それでもその価格は、洗浄機つきで89ユーロとあり、ネット販売価格と比較しても替え刃の耐久性の良い商品としては格安なのである。そして、現在使っているものと殆ど同じとなれば、故障した場合に直し易い。

今度は何年壊れずに使えるか判らない、しかし今度は構造的な弱点を知っている。前回よりも長く使える可能性は高いだろう。ネットで調べると壊れていたところの部品を注文すると約30ユーロであるのを見つけた。それに壊れた替え刃等を別途購入すると25ユーロ程となる。〆て約55ユーロである。

本体と消耗品の価格を比べたりして何をどのように使うかは難しい。キャノン社のようにインクやトナーで財をなしている世界的企業も多い。

そして何よりも廉く手に入ったので文句も余り出ない。一層のことこの調子で電気剃刀が総値崩れしてくれればと思っている。それにしても同一商品で販売価格が三倍ほどの上下幅があるとはどうしたものか?やはり、どこかおかしい。
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# by pfaelzerwein | 2007-10-27 03:49 | 生活 | Trackback

居たたまれない赤味

d0127795_3341292.jpg一昨日当たりは、熱気味であった。寒くなると散歩も億劫になって回数が減っている。しかし、先週よりも色が濃く黄色から赤みが交じってきた様子を見ると、居ても立ってもいられなくなった。

歩き出すと、夏の夜半よりも体が温まり難く、どうしても距離を歩いてしまう。夏の内は汗を掻きそうになれば戻っているのだが、今ともなれば体が温まるのが丁度その頃で、それから同じだけ離れたところまでやってくると、結局全体で四倍もの時間と距離を歩いてしまっている。

何よりも、今の時期は葡萄は殆ど摘み取り去れていて、耕運機を使って、足元を耕しているかと思うと、枝を切り落として葡萄の古木を抜こうとしている地所もある。昨年は収穫出来ずに、今年もあまり良くない葡萄が実っていたプリミエクリュの地所である。ミクロ気候を考えていたのだが、土地改良してクローンの入れ替えをするのだろう。d0127795_3352161.jpg

また一列だけ残して、アウスレーゼかアイスヴァインを狙っているものもあって、ネットの間から写真撮影する。

同じように綺麗に耕した地所を見ると掘り起こした石が置いてあって、典型的な雑食砂岩が見られるのはフォルスター・エルスターであった。黒く玄武岩が交じっているのが面白い。d0127795_3375020.jpg

今これを書きながら今年の日常消費ワインを飲んでいる。既に間違いなく三ダースは消費している。しかし、驚いたことに、昨日までとは異なり、再び成長しているのである。先ず、今まで一度も感じなかったペトロの匂いが幻か思い、再び確認すると、今度は石油コンビナートに続いて一面のお花畑が広がりそうなのである。

これほど単純なリースリングで、手ごろな価格で、何杯(倍)も楽しませてくれるワインは珍しい。ただ美味いとか不味いとか、好きとか嫌いとかの問題ではないのだ。時間の流れと共に、発見し合いながらお互いに成長して行く、若い恋人達のような関係を、こんなに何処にでもあるような普通のワインともち得る幸せなのだ。そして、別れは必ずやって来るのである。
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# by pfaelzerwein | 2007-10-26 03:40 | | Trackback

環境世界的発展史観

EUの特にドイツはの環境・エネルギー政策は理想主義的で、現実的ではないとするのが、日本国外務省の見解のようだ。川崎二郎代議士は、メルケル首相の英断に感服しながら、ドイツのこの分野での指導的立場を、嘗てのように日本の名人技でもってドイツを真似しなければいけないとして、ベルリン政府の政策を全面的に支援したいとしている。しかし、日本国外務省は、上のような評価をしており、不公平な京都議定書さえ誤りであったとして、「現実政策」へと進み出ていると言う。

理想主義を批判するのは理解出来るのだが、この問題は背水の陣で挑んだ緊急の課題であった訳で、先ず何はさて置きはじめるかはじめないかの問題ではなかったのか?これも、将来とも歴史的に判断が下されるされる問題であり、中国人やインド人や一部の米国人と共にもしくは理想主義者か、どちらかが責任を取らなければいけない。

しかし、こうした「責任ある判断」を端から否定するような思考方法を、日本語のBLOGを見ると、歴史家と自ら名乗るような人物が表明している。そこに、どれほど深遠な歴史観や哲学が存在するかは判らないが、その如何にも中立的で学術的に見せ掛けた態度 ― 唯物論の反転焼き直しなのであるが ― には、全く修正主義者と同じような姿を見るのである。つまり、「歴史はその当時の観察と判断を検証しなければ、その時の判断と行いを正しく評価できない」と言う至極常識的な言明は、現在の観察者つまり語り手の視座を上手く消そうとする魂胆でもあり、歴史的な時間の経過を通した現在立脚しているその結果を都合良く無視している。つまり、どのような判断にも将来の責任を逃れることの出来る口実を作っていて、そうなれば歴史の意味さえ無くなるのである。そして、過去から現在の歴史を直視することなく、再び同じ過ちを繰り返す愚行となる可能性が甚大なのである。余談ながら、先日プーティン大統領が、その非民主的な国内運営を棚に上げて、「核戦争を起した国は一つしかない」と、ブッシュ政権の第三次世界大戦を避けるためのイラン侵攻を否定する言葉には、その歴史の真実がある。

しかし、どのような歴史観が東京の外務省に蔓延しているのだろう?同じような思考方法は、先週報道された、ハンガリー貴族ガスチョン家に嫁入りした当時世界一の工業家ティッセン鉄工所の娘マルギットやティッセンファミリーの罪の追及には、甚だしく当てはまらない。手短に言うと、彼女は、オーストリア国境に近い城を、赤軍が進撃してくる最後の最後まで護ったのだが、地元ナチス関係者へのその最後の慰労パーティーで、城の地下に牢獄されていた二百人もの極度に衰弱したユダヤ人強制労働者を棒などで殴り痛めつけたうえ銃で処刑する余興が催されたと言う事実が、今再び大きな話題となっている。そうした事実と共に、共産党政権下で起訴されて、本人は父親が戦時中に行なったようにスイスで悠々自適の生活を送りながら一味を囲い、逃した事とその後も家族の虐殺への関わりが未だに明白になっていない事を纏めた書籍のドイツ語版がシュプリンガー社からをなかなか出版されない経緯などが新聞に報告されている。

要するに、上のような修正主義者は、こうした事象を見て、その証拠の吟味において議論の余地がないがと見ると、今度はその行為自体の正統性とか当時の社会情勢を主張するようだ。つまりである、それら修正主義者は、「ユダヤ人は滅亡されなければいけない」とした当時の事情を尊重して、その行為をも正当化しようと言うのだろう。

しかし、この記事を扱ったターゲス・シュピーゲルは、マルキストの発展史観をもって、既にハンガリーでかたがついていた事件の「関与のその証拠」に拘るのである。そして、FAZの記事をドイツジャーナリズムの反乱かと揶揄する。そして、これら発展史観の裏返しにこそ修正主義者の思考が存在している事をここに顕著に表わしている。

我々は、何れにせよ、我々の現在からしかその過去を観る事しか出来ないので、自然法信奉者で無くとも、死者や敗者は語る術を何ももたないのを知っている。そして、史的唯物主義でも歴史修正主義でもないところに、最も重要な核心となる世界観があり、それが上の外務省の判断に活かされていないように思われるが仕方ない。なぜならば役人に政治哲学を求めるのは間違いだからである。


参照:
Kyoto war ein Fehler“ Klaus-Dieter Frankenberger, FAZ vom 23.10.07
Die Gastgeberin der Hölle“ David R. L. Litchfield, FAZ vom 18.10.2007
Was wusste Thyssen?“ Tagesspiegel vom 19.10.2007
高みから深淵を覗き込む [ 文学・思想 ] / 2006-03-13
ミニスカートを下から覗く [ 文化一般 ] / 2007-09-17
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# by pfaelzerwein | 2007-10-25 03:12 | 歴史・時事 | Trackback

もうすぐ、夜明けは近い

夜明けが一層遅くなった。七時半でも暗く、電灯を煌々とつけないといけない。もう直ぐ夏時間終了である。

なぜか今年ほどこの時差を感じることはない。夏時間の間は、それほど明るい寝室ではないのだが、明るくなると寝ていられなく、歳のせいかとも思ったりした。しかし今、朝起きが知らぬ内に遅くなり、夜更かしになって来ている。

夏の最盛期に比べると、三時間ほど遅くなっている。就寝時刻は、まだ空が明るい夜十時に寝ることはなかったが、朝は早く、今のように朝が遅くなると、夜一時過ぎまで眠れなくなって来ている。

朝が暗ければ何時までも寝れそうなのである。しかし、普通の時間に戻されると、こちらもまた自然に受動的に標準の生活態度に戻る。

夏時間の実施で、体内時計が狂うとか頻繁な時差調整は寿命を短くするとか言われるが、もし夏時間の調整がなく体内時計にあわして生活しているとなると、日常生活に支障を来すことが予想出来る。

出来る限り体内時計で暮らしたい。
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# by pfaelzerwein | 2007-10-24 02:49 | | Trackback

古典に取り付く島を求めて

d0127795_411634.jpgラインガウのシャルタヴァインを飲んでいる。2006年産は大変酸が強く、パイナップルの皮のような独特の香味となっている。単体としての個性が強い割には、目的の食事用のワインとしての素直さが薄い。果物のような香りはそれなりに素晴らしいが、これを単体で楽しむとなると面白さが必要になる。取り付く島もない。

金曜日に、地元ダイデスハイムの石灰分が多いカルクオッフェンのグランクリュの地所を散歩した。ヘアゴットザッカーから小さな谷を越えて、その谷に落ちるほそく伸ばされたモイズヘーレの地所を十メートルほど登ると石塀の上にカルクオッフェンが広がる。その塀の上からダイデスハイムの町中には一つの斜面が落ちている。そこの横の地面の石が擦られて白く光っていた。

やはりリースリングワインの楽しみは、その特殊性を如何に客観視して味わうかに掛かっており、無難な詰まらないワインには客観を与える特殊性も無く、要するに一般化にも寄与しない。実感が薄いのである。面白味が判らなかったのは、昨日書いた記事をチェックのために読んで、あまりにも言葉足らずと思った部分である。

つまり弱起即ちアウフタクトに、ヘーゲル教授は、モーツァルトのミサ曲などを思い浮かべながら、その同じ作曲家の純器楽曲の清澄さに比べそのテキストの韻に捉えられる欠点を挙げて、音楽の韻を考えている。それは、実はギリシャ・ローマからの古典詩の韻を踏まえていて、同じようにクラッシック音楽におけるアップビート・ダウンビート並びカデンツ構造を考えている。つまり、その文学部門におけるイタリア・フランスのラテン語の歴史的優位に対しての見解でもあったのだ。ギリシャの「ムザエウスの弱起は一般的で、強起はメランコリックで夢想に溢れて沈静している」のを、ゲーテが示していると述べている*。

ここでまた閉口するのは、ヘーゲル教授の真意自体が周知のように、如何せんそうした対になったテーゼとアンチテーゼの止揚から導き出されるので、一様に絶えず反定立が用意されているのがちらつくことである。更に、この思考態度で、楽聖ベートーヴェンの特に後期の作品を眺めていくと、この同じ歳の哲学者が古典詩から導いて来た「形式への見識とその弁証法の思考態度」自体を悉く暴いて行くような反定立の卓越が存在しているのを知ることが出来る。一方、ヘーゲル教授にとって、疾風怒涛芸術はそのままロマン主義に渡されているような様子がある。

楽聖の知識や教養の程度は、ここでも評論家ヨアヒム・カイザーの弁として触れたが、シラーの美学への傾倒などに限らず、同時代人としての革新性は、たとえその直後のロマン主義に与えた影響を取り去っても、20世紀にまで活き延びた秘密でもある。
d0127795_3581736.jpg
参照:
*24. August 1826
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# by pfaelzerwein | 2007-10-23 04:03 | 文学・思想 | Trackback

馭者のようにほくそ笑む

d0127795_0472965.jpg金曜日の紅葉狩りは楽しかった。本日、日曜日は晴天で冷えた昨日とは変わり曇天となったので、晩に散歩が出来るかどうか分からない。だから、晩秋の金曜日の妙趣を思い起しておこう。しかし、春の京の花見を描く谷崎文学のように筆が運ぶ訳ではないので、色々と考えながら歩みを進めるのである。

色である。黄色に染まったその色は、ヘーゲル教授に言わせると、そこに静脈動脈の赤と青色が混ざり、その色が緑に近くなる皮膚の色の親近感を見る。色の三原則を導くよりも、その葉の小さなモザイクのような抽象的なパターンをここに見る。

ヘーゲル教授は様々な文化のパターンにシンボルを見て、実際は仮想である一般性を語り、キリスト教文化圏における特殊性を客観視する。色づいた葡萄の葉を見て、そこからキリストの一生に思いを馳せることのないように、不可逆な客観性がそこに存在する。

車を停めて、一組の中高年夫婦をやり過ごしてから、トランクルームの革靴に履き替えていると、観光客らしいおばさんが声をかけてきて、町の中心にある泊まっているホテルの名前を言い、「少し間違ったかしら」と尋ねる。小さな丘を降りてきた所であり、反対側へ戻るにはそれを越えなければいけないので、「降りて行ってもそれほど遠くはないよ」と教えてあげる。

ワイン産地でない地域からの旅行者で、ワインの試飲買い付けを兼ねてやってきているのだろうか?きっと連れが歩くのを面倒がって、ホテルで少し情報を入れて一人で裏山を歩いてみたのだろう。思い掛けなく道が分岐していたり、小さな丘があって、その間には小さな谷に小川のようなものが通っていて道を失ったのだろう。それでも、一般的な方向感覚は確かで、ワインの山とその作業道が確実に町へと向っている。

どの地所も同じように見えるかと思うと、反対の一角からは他の一角が想像も付かないと思ったに違いない。そこでは、歩く人の主観的な妙趣があり、その人を客観的に見る妙趣がある。分岐路から分岐路へと何気なしに誤って進む面白さと滑稽味がここにあって、それは、道を逆戻りして正しく折り返しても妙趣が無いように不可逆であり、一般性に対する特殊性がそこに存在するのである。

ヘーゲル教授は、デューラーのそれに対してラファエロの版画を反証として挙げて*、また音楽においては、ドイツ音楽の弱起のアウフタクトを特殊性としてイタリアやフランスのそれと区別して**客観性を得ている。

破天荒な「ディアベリの主題による33の変奏曲」は、ベートーヴェンの最後の三大ソナタや「荘厳ミサ」に前後する創作で、ベティーナ・アーニムを通じて知り合ったフランクフルトのブレンターノ家の娘アントニーに向けられている。その二馬力か三馬力の推進力で揺られる馬車に乗せられるような、その弱起は、シンコペーションを掛けられてついついと眠気を誘うかと思うと、急激なリズム変化や不意打ちのはぐらかしを掛けられて吃驚してはたと眼が覚める。それを見る馭者台に陣取る作曲家は振り返りほくそ笑む。そして暫らくすると何もなかったように、強引に飛ばしたり揺らしたりと、殆ど脱輪したかのようなグロテスクな表情さえ見せるのである。ぎょっとして、その馭者の顔に嘗ての即興演奏家の面影を見て、知らぬ間に再び、馬車に揺られながらうとうととするのである。

秋の葡萄の間を巡り、区画を別ける小さな石塀の間に積んだ石段を滑らないように、左足右足と一つ一つ確かめて降りたり、一段飛ばししてみたり、塀の上から飛び降りてみたりと、何の変哲もない道を寄り道しながら昇り降りするようなものなのである。
d0127795_0504366.jpg参照:
考えろ、それから書け [ 音 ] / 2005-12-19  
どうにも哲学的な美の選択 [ 文学・思想 ] / 2007-10-18
*7.Heft
**18.August 1826
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# by pfaelzerwein | 2007-10-22 00:51 | 文化一般 | Trackback

アップ・ダウンされる趣

d0127795_011443.jpg
本日、日本のCD交換サイトが閉鎖を余儀なくされているとのニュースを見かけた。そして昨日から、先日紹介した無料の楽譜ダウンロードサイトIMSLPが二年の活動を経て閉鎖された。楽譜出版社は、スキャンしたのみでアップロードするその内容に黙っているのが不思議だと思っていた。

全く著作権とは関係のない古い楽曲であっても校訂などのコピーライトに属する権利は生じているものは多い。その話題は二年ほど前にどこかのサイトで議論となったのを覚えて居る。

そのような理由で、「ディアベリの主題による33の変奏曲」を調べようと思っていたが、出鼻を挫かれた。しかし、そのお蔭で、ボンのベートーヴェン・ハウスの手書きスケッチや初版楽譜などを観覧、ダウンロードすることが出来た。

つまり、こうしたものは電子化されているのが通常であって、それを公共的に利用出来るのが、ネット時代の文化なのである。だからこそ、ヴォランティアーで便利なサイトを運営するほうにも一理あるのだ。さらに、まともに校訂などをせずに適当に出版している楽譜もあり、そうしたものこそ良い商売になっている可能性もある。

今回もクレームをつけたのがヴィーンのウニファーサル出版社となると、これから著作権が切れる二十世紀の名曲でやっと儲けられる可能性があるかどうかの所で、支障が出ては堪らない事情は察っせられる。しかしこれらの出版社が、著作権が生きている曲を含めて、まだ充分にネットによる販売が熟していないのも大きな問題なのだろう。そして、一度電子化してしまうと、それはどうしたコピー防止装置がついていても、覆水は戻らない。それは、音楽コピーで既に経験済みである。

惜しまれるのは、IMSLPも出版社と販促で協力出来るような体制にあれば良かったのだが、これが言うは易しなのである。出版業界の方が統一出来るようなビジネスモデルが存在しないことは、その直販のダウンロードへの対応がまちまちなことで知れる。著作権絡みの上演権などの収入が重要な立派な音楽出版社などと、著作権の切れたものを適当に印刷して本屋などで販売している業者が同じ業界に存在しているからである。

今後もベートーヴェンやモーツァルト以外にも名曲の楽譜はサーチすればどこかに見つかるものであるから、利用者も購入とその手間を吟味すれば良い。そのようなことで、昨晩の紅葉狩りの趣はいくらか削がれたが仕方ない。
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# by pfaelzerwein | 2007-10-21 00:02 | 雑感 | Trackback

つい魔がさす人生哲学

承前)ここ暫らく精神世界の話題が続いている。私自身、こうした綴りものには縁遠く、下手な歌唱のように、最後まで論旨を追うことが困難なのである。それは、自身でよく観察すると、主観的な影響を受けずに客観的に考察が出来ないためと悟るのである。その内容が様々な感情を表わす言葉で書かれているとなると、その感情を分析する以前に想い浮かべてみなければいけないと言う厄介な次元に追いやられる。言い代えると、文字で浮かんだ感情の表現を認識することが困難なのである。その点、造形芸術や音響芸術の場合は抽象化されていて、それを探り「仮の現実に自己投影」するようにシュミレーションする必要がないから客観的に捉えることが可能となる。

先日のファウストゥス博士において、そうした人間像が描かれるのみならず、ハレ大学での教授陣のポートレート部分にはやはり矛盾に満ちた人間が登場する。それは、大柄でだみ声の教会史の教授である。得意な古ドイツ語を駆使して為される授業は、その無味乾燥な科目に係わらず面白味があり人気がある。そして、偽善者や殻被り者を批判して、「美しいドイツ語で語れ」と主張する。ドイツ語で語れと言うのは今でも「ハッキリ言う」として使われる慣用句であるが、それに「虎穴に入らずんば虎子を得ず」とした人生哲学が重ねられる。

さてこの教授は、神学的には19世紀中期に興ったパウロスの「ローマ人への手紙」や「ローマ書」への批判的解釈、つまりユダヤヘブライのメシア思想に対抗する「原罪論」の解釈から、それまでのアリストテレス流の思考の変更を迫られて、その後は転向者としてシンボル化させた宗教学への道を歩む事になる、そうした学術的態度がこの教授の本来の気質にあったのか、あらゆる独善に背を向け、その独善にパリサイ人の知的形態を見る保守的自由主義者となる。その態度を、スコラ派哲学の権威よりも、覚醒からの自己確信へと至るデカルトに掛けて、神学と哲学の差としてこれを扱う。

その態度は、アンチ形而上的で、倫理的で認識論的として、既成の理想的人物像を懐いたこの預言者は、ハレを本拠とする敬虔主義者の世俗の断絶を忌み嫌うことになる。つまりである、この教授にとっては世俗の健康な喜びや文化を積極的に認めると同時に、それはドイツ的で民族主義的なものに帰着されるとなる。

そして、それは神の啓示信仰や悪魔への信用を阻害する事にはならないとある。モーゼルワインを楽しみながら、ギターを爪弾き、民衆の愛唱歌を歌い、人迷惑も顧みずご機嫌さんに酔う姿は、やはり彼のモットーでもある、ルターの「WEIN, WEIB UND GESANG」の実践であり、魔がさすこともある人生観が示される。そこに滑稽味を感じるか、どうか?

これに引き続き、同じような人生観や人物像も紹介されるが、それがモンタージュ技術を伴って組み合わされる。ゆえにここでは、各々の情念や情感をシュミレーションして行く必要はない。書き手も読み手も、抽象化された多様な構成要素を再構成していけば良いだけなので、文学とは言え、この点でもこの作品は他の芸術の表現方法に近似している。
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# by pfaelzerwein | 2007-10-20 01:52 | 文学・思想 | Trackback

容易にいかない欲張り

昨晩はトーマス・マン作「ファウスト博士」のラジオ放送の三回目であった。初めて、タイマーを使って録音した。と言っても帰宅途中の車のラジオで部分的にはオンタイムで聴いた。

平常使っているPCステーションはステレオになっていないのが、車とは言えその効果に期待したがそれは判らなかった。歌や気勢を挙げる状況は判り良いが、何よりもその宗教学や哲学的内容になると、運転をしながら理解をするのは困難である。一字一句に耳を澄ませないと、言葉が上滑りに流れてしまう。

帰宅後に用事をしながらPCで聞いても、なかなか頭には入らない。その理由は、速読で流して読んでいて、再び読み返さなければ行けないと考えていたところに相当するからである。

なにが、読み直しを必要とさせるかと言えば、それはモンタージュ法による、様々な視点を組み合わせた文脈から要約する事の難しさに尽きる。例えば、アードリアンが学ぶハレ大学の宗教学の教授達の各々の見解と主人公のまた語り手の視点が入り乱れるとなると、通常の思考ではなかなか捉えがたい。

更にそこから、その人物の世俗での信念や生き様までを語られると、仮にただ一人の教授を扱っても観察し甲斐がある訳だが、それが複数に上り、そうしたステレオタイプ化した人物像を広くドイツ人に宛がい、一般化させるとなると大変な試みとなる。それを、後の方では自由主義と言う学生のバンカラに民族として客観化させて民族の主観とし語らせる。

このラジオでは、第十章から始まり、この回のみならず、アードリアン・レーファークーンの物語を、否、ドイツ文明の運命を端的に特徴つける。

「つまり、ドイツ人は二重の平行した軌道に、許されざる思考の組み合わせを所持して、あれやこれやと求め、全てを求めようとする。非定理主義で、大きな人間性における存在を基礎とする勇敢さを強調する人々である。しかしそれがない混ぜになる事で、他方から一方への精神の特性つけに於いて、混乱へと導かれる。自由も高貴さも理想主義も天真爛漫も一つの屋根の下にしているようだ。しかし、これが上手く行く筈がない」と語らせている。

そして、それらの実例がこれに続く。



参照:
想像し乍ら反芻する響き [ 文学・思想 ] / 2007-10-06
古典派ピアノ演奏の果て [ 音 ] / 2007-10-11
音楽教師の熱狂と分析 [ 文学・思想 ] / 2007-10-12
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# by pfaelzerwein | 2007-10-19 04:16 | 文学・思想 | Trackback

どうにも哲学的な美の選択

月曜日の夕刻、いつものように散歩をした。ここ暫らく、出かけるところもあり時間が取れなかった事と気候の変化で体調も優れず億劫になっていたのだ。流石に、葡萄は一房も残って居らず、がらんとした趣であった。葡萄の樹木が全ての活力でお産して、腑抜けのような佇まいなのである。そしてところどころには、圧搾された皮などが根元に捨てられて、酵母とも腐りとも言えない独特な匂いを彼方此方で放っている。

葡萄の葉は日に日に黄色みを増してきていて、それが夕日に照らされる。空は蒼く抜ける半天の何処と無く希薄な空気をかすめて、緩やかに斜面を上下しながら進むと、足元も定まらず夢遊病者のように、一面に跳ね返る色が頭一杯に反映するようになる。

自然を美の基本として捉える場合、カントの哲学では、その対象への主観的な美の抽象への解消と、その対象そのものを区別している事に注目して、哲学者ヘーゲルは、「このカントの批評眼をもった評価は、その点において大変有意義なのであって、そこには一方では目的論での観察があり、目的に適った情況があり、そこで活きるものへの認識に近づいている。それゆえに彼は、自然生成物を観察して、それを本性と呼んだ。それは、我々が有機生成物を観察して、そこに反映された判断、要するに我々が判断するときには、我々は一方ではある種の規範つまり一般性を有していて、他面ではその規範では定まらない特殊性を有しているのである。その特殊性は一般性から切り離されて、その目的は、ある種の決まり、つまり自然の中での自由の目的を含んでいるのである。その目的によって、自然は人間の手によって定められるのである。」と記している。

読者である私は、こうして歩きながら真剣に考えた。一般性から切り離される特殊性で、反映される判断とは?歩みによって上下する引力への覚醒と狭窄した視野に、青い半天が消え去り頭一杯に広がる黄色の世界か?それとも、朽ちた匂いを放つ絞り粕に、収穫前後の差異を重ねた、葡萄の行くへの推論か?

一体、どのワインを開けるべきか?帰ってから飲むのは、何処の地所のどうした土壌の特性をもった、どうした味覚を味わえる、何年のヴィンテージの気候を反映した味のバランスを楽しめる、どこの醸造所による巧みの良さをもったどのワインであるべきか。結局、二日前まで飲んでいたヘアゴットザッカーのキャビネットがどうしても飲みたくて仕方なかった。それは、私の主観を抽象的に美で満たしていたからである。
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# by pfaelzerwein | 2007-10-18 05:46 | 文学・思想 | Trackback

緑茶に想う影響する土地

静岡の緑茶を飲んでいる。五月緑家さんが訪れた折り、面識もないのに空港での購入と搬送をお願いしたものである。それも宇治の老舗のまだ賞味期限の長い商品を特定したのである。

結果、出発空港の関係で、静岡のものを買ってきて頂き、その一部を最近開封して楽しんでいる。静岡の茶所は、新幹線のトンネルからトンネルの間の茶畑を、東海道線から見るぐらいで、あまり知らない。宇治もその辺りを歩いた事もない。しかし、銘を打ってあるものでは圧倒的に宇治のものを良く飲んできた。であるから、静岡の茶も知っているとは言いながら、その違いを今楽しんでいる。

なるほど『色の静岡、香りの宇治、味の狭山』と言うように、特徴があるようだ。その違いは、その厳密な原産地明示の問題を棚上げにしても、やはりミクロ気候によるのではないかと想像できる。想像が膨らむとしたほうが良いであろう。

ワインの場合も同じような気候の影響が大きいが、それに類するような分類は、大まかにその想像力を擽る。

狭山茶は、その味の記憶はあまりないが、北限と言うことで葉が分厚く味が濃いと書いてあると、ドイツワイン好きにはどうしてもアールの酸の強いもしくはモーゼル渓谷の貴腐が生えるまで実らした甘口ワインを思い起こさせる。

宇治の場合は、どうしても霧の多い、山水画のようにまた夏は厳しく寒暖の差が少ない湿り気の多い空気を想像して、その茶の深みとか玉露に代表されるような甘みを想像しがちである。ドイツワインならば、深みといえばラインガウやまた湿気といえばバーデンのカイザーシュテュール周辺の完熟のリースリング、または果実味豊富なプファルツのそれを思い浮かべるかもしれない。

静岡の場合は、何よりも緑っぽい味が特徴のようで、朝晩の寒暖の差が最も大きいような感じもするのである。そして、あの茶畑の斜面や傾斜は印象的である。すると直截なザーレのリースリングや細い渓谷のナーへのそれを思い出す。

そして、ここで気がつくのは、リースリングはお茶と異なり何よりも土壌の性質に味が影響されることであり、赤のピノノワール種と並んで最も土地の影響を受け易い葡萄だと改めて悟るのである。
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# by pfaelzerwein | 2007-10-17 03:47 | 雑感 | Trackback

豚の煮汁に滲む滑稽味

煮た肉とそのスープを取りにいった。常連の親仁さんが、乗ってきて停めてあったのが真っ赤なフェラーリのオープンカーであったようだ。その親仁もタッパを持ってきて同じようなものを買って行ったが、帰りにエンジンをかけるとたっぷりと排ガスを吐き出した。昔のポルシャと音量は変わらなかったが、シリンダーが格段に太いのはその音で分かった。

ポストを覘くとバーデン・バーデンから催し物の案内が入っていた。2009年のプログラムかと思えば、2007年2008年シーズンのプログラムであった。BLOGを通して指揮者クラウディオ・アバドのオペラ公演の事などを知っていたので関心を持って頁を捲る。

しかし、そこに写っている写真の数々の醜さに驚いた。謂わば、芸術家や文化人どころか、まともな市民層の顔が見えないのである。芸能誌の表紙やブルーバード大衆紙を見るようである。そういえば、フランクフルターアルゲマイネ紙も紙面が十日ほど前に四色刷りになったが、その価値は未だに確認出来ていない。出来れば白黒版で定期購読価格を下げて貰いたい。

さて、バーデン・バーデンのプログラムの曲目や出し物などを見て、興味を引いたのは一つ二つであって、それ以外にもそこに最低料金まで表示されているに係わらず、なんら興味を持てないのは重症である。

何が重症なのか?今の時期になっても売れ残る2007年のプログラムの宣伝されているのみならず、そこに殆ど文化的なものが発見されないのが重症なのである。ここ暫らく、ザルツブルク音楽祭にも通っていないが、状況は同じようなものではないのか。

笑わされるのは、そこで観劇した2004年のケント・ナガノ指揮のパルシファル公演の写真である。舞台の穴から出てくるミイラ状のゾンビは一体何なのか。その演出を思い出そうとするが、これほどの馬鹿らしさはすっかり忘れていた。確か、初日には女性首相が臨席していて、減らず口をぺらぺらと開いていたのを思い出す。なんと、程度の低い文化なのか?もう、これ以上は、口を閉じて、ヘーゲル教授に語って貰う。

フィヒテの哲学から生ずる個性の形態である憧れ)を一面では美と呼びます*。美しい精神は、そこに留まりません。そうではなくて、それは、また上手く作用するのです。その「憧れの形態」は、ある状態なのです。つまり、厚かましさであり、虚なのであります。皮肉に満ちた主体は、芸術家そのもので、その生涯は彼の個性の芸術的な表現なのです。その形態の秩序は、芸術の最高の状態と神々しさを表現する 皮 肉 なのであります。しかし「滑稽味」は、皮肉と取り違えられるものではありません。皮肉は、表現されるものの基調であり、人々はそれに本当に含蓄のある興味を持っています。ドレスデンのティークは、嘗てないほど傑出しています。彼は、批評では必ずその皮肉について語り、他の者と等しく、これを使って偉くみせることに長けています。ティークが偉大な作品を批評するときもであります。例えば、彼の「ロメヲとジュリエット」の批評は卓越しています。なぜならば、つまり、彼は一言も皮肉については触れないからであります。……それにここで皮肉について説明するのは容易ではありません。きっと、そこで、皮肉にも魔が注したかもしれません。

バーデン・バーデンにはそこに欠ける教養を育成する文化を必要として発足した、巨大音楽劇場であったが、こうして見ると故アドルノ氏に登場願うまでもなく、姉妹音楽祭と半分半分のふたつ合わせて教養となるように、それを追求すればきっと経済も上手く走るのだ。


*ここで教授はモリエールの「ラヴァーレ」を捩って演じているという。それはローマのコメディー「アウルラーリア」を下敷きにしている。金満家になってもけちで頭の固い親父と消費好きの子供達の話である。
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# by pfaelzerwein | 2007-10-16 03:41 | 生活 | Trackback

目的と効果の情念の表現

1826年ベルリンのフンボルト大学での「美学の講義」を180年先からの聴講生として垣間見ていると面白い。そのヘーゲル教授の講義自体は、1820年の冬の学期に始まっていて、その土台となるのは更に遡る1818年のハイデルベルク大学での夏の学期に、教授が1817年に出版したエンサイクロペディアでの仕事の続きとして纏められたものらしい。

それ故にハイデルベルクでは、芸術哲学と宗教哲学が同じように扱われていて「精神の現象学」がそのもの後者を表わしている。そのような理由からベルリンでも同様の講座が持たれる予定であったが、その講義控えを紛失した事から新たに構築し直したと言う。そして、その影響を得た芸術哲学の構想の発展を見た。

1831年の突然の死に至るまで「美学」の出版は行われなかった訳だが、その理由は最後までその思索の発展状況にあって、1828年には再び講義の全体の構成を変更している。そしてその後、やはり上のエンサイクロペディアの方へと戻っているようだ。

その細かな相違は判らないが、カントの哲学を離れて、その歴史的な推移を織り込んだ芸術哲学が従来から知られているヘーゲルの「美学」とすると、ここで語られているのは、そこでは箇条書きにされるようなものとは「同時代の文化の意味」として内容的に正反対の広がりを見せているらしい。

例えば、前者においてロマンティックへの文芸の流れを、ユークリッドもしくはカーテジアンの古代文化を基礎とする古典に対応させ、そこでは「美」も「醜」も同じように扱う事となる。そして、後者では箇条書きにされる「文化の使命が国から教育へと移る」、その「同時代芸術」の逐一を前者で語っている。

例えば「情念」を見れば、従来の古典的「心情」とは相容れないが、これをしてお悔やみの社会風習を挙げる。さらにその行為によって得られる客観化をフランス語でレーゾンとしているのは啓蒙主義者ヴォルテールを思い浮かべればよいのだろうか?情念の表現と形式にについて語る。

― 目的は明らかなのである。そこで芸術によって情念が呼び起こされ、同時にそれはそれによって浄化されるべきなのである。そして、そのある定まった表現によって浄化が更に必要となれば芸術の目的とされるモラル上の目的が更に呼び起される。情念の表現は、浄化の効果と共にそれ自体へと直接導かれるのだ。 ―

シラーやゲーテのみならず同時代の芸術や哲学が取り上げられて芸術論となっている。そして、熟慮の末に結論を出せなかった教授の美学的考察に、その後の歴史の流れの中での問題がなんと多く含まれていていることに思い当たるであろうか。



参照:
George Wilhelm Friedrich Hegel „Philosophie der Kunst“ 1826/2005
考えろ、それから書け [ 音 ] / 2005-12-19
古典派ピアノ演奏の果て [ 音 ] / 2007-10-11
独精神についての疑問視 [ 音 ] / 2007-10-13
Vintage:1826,1907,1921,2006 [ 暦 ] / 2007-10-14
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# by pfaelzerwein | 2007-10-15 03:24 | 文学・思想 | Trackback

Vintage:1826,1907,1921,2006

この9日は、「僕のおじさん」や「プレータイム」で著名な映画監督ジャック・タチの生誕百周年で、その前後幾つかの作品群が放送されていた。残念ながら、観たかった作品も見損なったが、仕方ない。DVDの時代になるとどうしてもアナログヴィデオで録画するのも億劫になる。

ヘーゲル教授の美学講座は益々面白い。この講義集は昨年になって初めて出版されたものであるので、手にした本が初版本で驚いた。教授の突然の死後1835年に、愛弟子ホートが出版した「美学」のような唐突に繰り広げられる弁証法の独善とは大きく異なるようで、ザッハリッヒな例と直線的な論拠がぞくぞくさせる。その変化には、法哲学上の論争の影響から、自己防衛する必要や教育上の配慮などが挙げられている。具体的には、改めて取り上げるが、その「芸術の終焉」は興味深い。

プフィッツナーの演奏会評を改めて読むと、イスラエル前ベルリン大使なども会場に詰め掛けていて、少ない入場者の中で目立っていたようである。リヒャルト・シュトラウス、カール・オルフ、ヴェルナー・エックなどのナチスドイツ人作曲家の作品のように現在もドイツでは演奏禁止とはなって居ない。勿論、そうなれば、立ち上がらなければいけない。しかし、歴史的に殆ど全ての作曲家ロベルト・シューマン、リヒャルト・ヴァーグナーからハンツ・プフィッツナーまで全てアンチ・セミティストであるのが事実である。シュトラウスの歌劇「カプッリッチョ」は戦後十年ほどは上演禁止となっていたようだ。

先日購入のフォン・ブールのヘアゴットザッカーのキャビネット辛口は素晴らしかった。パッパーミント香りは嘗てのミュラーカトワールの若いビュルガーガルテンを思い出させる。ダイデスハイムのこの地所はダイデスハイムの何処の醸造所も作っているので品質の試金石である。今回のもの以上に高級な質のものは知らない。2006年産のゲオルク・モスバッハーのものは素晴らしかったが、これに比べると糖濃度が高過ぎる。バッサーマン・ヨルダンのものも瓶詰め当初は良かったが今はその見る影もない。前者と1ユーロの価格差、後者と同価格である。まだまだ楽しめそうである。
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# by pfaelzerwein | 2007-10-14 03:52 | | Trackback

独精神についての疑問視

先のドイツ統一の日に演奏されたプフィッツナー作曲「ドイツ精神について」が問題となっている。保守的な作曲家プフィッツナーが1920年代に創作した大カンタータで、アイヘンドルフの詩が作曲されている。

ベルリンのフィルハーモニーで地元放送交響楽団を指揮したのはケント・ナガノの後任インゴ・メッツマッハーである。どちらかと言えば20世紀の交響音楽やオペラを得意にしている指揮者であるが、次のコンサートにもリストのプレリュードを持ってくるなど、その姿勢に疑問符が掲げられている。

ドイツユダヤ協会の批判に対して、「作曲家賛辞のためでも浄化のためではなく、討論のため」と文書により反論しているらしい。しかし、芸術的議論のためになぜこの日にこの曲を選択したのかは、帝国放送局が東欧征伐の日にファンファーレとして流したリストの曲と共に真意が疑われる。また、もしこの日に政治的議論をしようと言うならば、全く異なるプログラムが選ばれた筈である。

このような美学的な話題が続いているが、ゲオルク・ヴィルヘルム・フリードリッヒ・ヘーゲル教授の美学の講座を受け始めた。その中で、主観と客観の問題が様々な芸術の中で議論されている。

創作における作品の創造へのプロセスにおいて、主観的な創造から形を持った客観的な創造までが捉えられる。音楽においてもリズムの定則が、繰り返しとなりそれが認知される時点で主観となり、また部分的パターンが繰り返されることで、その構築の量が示されるのみならず、シンメトリーなどの質が認知される、客観を映し出す、主観となることを語っている。

また、概念の分類から表面的な客観と本質的な主観を映し出す客観を峻別して、創造の過程で主観から客観を生み出すものが天与としている。その論を借りれば、プフィッツナーの作曲にはそれに相当する客観は存在しないように理解している。

新聞に意見を述べる二人の作曲家、ヴァルター・ツィンマーマンは、カイベルト指揮のバンベルク饗の演奏しか知らないがと前置きして、そのテキストの質と共に作曲内容を批判し、一方ディーター・シュネーベルは、プフィッツナーについては全く知らないがラジオで聴いた演奏は詩的で良かったとしている。時間の浪費のようであるが、もう一度手元にあるホルスト・シュタイン指揮のヴィーナーフィルハーモニカーの演奏を聞いてみなければいけない。


参照:
Soll man Hans Pfitzner verbrennen?,
Walter Zimmermann, Dieter Schnebel, FAZ vom 10.10.2007
ズタズタにされた光景 [ 音 ] / 2007-08-10
教義化された聖痕の治癒 [ 文化一般 ] / 2007-03-25
いいや、ト短調だよ! [ 文化一般 ] / 2007-01-28
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# by pfaelzerwein | 2007-10-13 04:39 | | Trackback

音楽教師の熱狂と分析

昨晩は連続ラジオドラマ「ファウストュス博士」の第二回放送を聴いた。主人公が楽器製造の叔父さんのいる町で数学への関心のうちにも室内楽などに接していく事始に始まり、音楽教師クレッチマーのベートーヴェンのソナタに続き同時期の作品ミサ・ソレムニスを含むフーガに関する講釈、そして彼の故郷であるペンシルヴァニアのドイツ移民教会共同体での音楽生活が語られる。

前回からの流れが放送の冒頭に示される。そこでは特に「蝶のエピソード」を挙げて、美しさと醜さの両面を併せ持つ二項対立を物語の骨子としているとして、本編に引き継がれる。

そのルター派の信教に支えながらかつ迷信の残るような中部ドイツの町で、音楽教師が講演を行なう情景と共に、その内容が主観性に満ちたハーモニーと即物的なポリフォニーを対称軸におき、やはり同音異調の構造を上の「蝶」と同じく二律背反を応用する自然として扱っていく。

こうして掻い摘むと、構造主義的な世界観がこの作品の根幹にあって、アドルノのアドヴァイスと共に砂を噛むような読書感のようにとられ、なおそうした表面的な読み取りが、ザッハリッヒな印象を与え兼ねない。しかし、この作品の面白さは全く他の所にある。

つまり、実際はこのラジオ制作で強調されているように、このクレッチマーが登場する場面は、「魔の山」のセッテムブリーニの場面のように滑稽さとユーモアに満ち溢れている。この音楽教師が熱狂して言葉を詰まらせ、どもりながら夢中に解説するのがそのハ短調の最後のピアノソナタなのである。

その内容は、最近は殆ど必ずこの曲の解説に使われているので比較的良く知られている。そこでは、二楽章アリエッタの主題「ディムダダ」つまりドソソが歌詞をつけて歌われる。

„Him-melsblau“ oder:
„Lie-beslied“ oder:
„Leb’-mir wohl“ oder:
„Der-maleinst“ oder:
„Wie-segrund“ -

「青い天空」、または 
「ラヴソング」、または 
「お別れだ」、または、
「いつか他日」、もしくは 
「草の原っぱ」となる。

これが、C音に半音高く変えられたCis音のトレモロを伴ってD-G-Gと鳴らされる時は、つまり次のように変わる。

„O-du Himmelsblau“, oder
„Grü-ner Wiesengrund“,
„Leb’-mir ewig wohl“ -

「ああ、青空」、または
「緑の草原」、
「永遠にお別れだ」と共振するとなる。

この変化を称して「Cis音は、心を揺さぶり、慰めに、哀愁に満ちた、世界の和解の手である。それは、髪や頬を触れる辛くも情に満ちた愛撫のように、間近に覗きこむ最後の深く静かな眼差し」と、この作家はクレッチマーに表現させる。

更に、「それは形を巨大に展開され、擬人化されて祝福される。そしてそれが聴者に別れを告げる、目の前を通り過ぎる心に、永遠の別れを」

„Nun ver-giß der Qual!“ heißt es „Groß war – Gott in uns.“ „Alles – war nur Traum.“ „Bleib -mir hold gesinnt.“

「さあ、苦悩を忘れよう」とは、「偉大な神は我らが内にあった。」「全てはただの夢。」「心から愛していておくれ。」

そして、その講義の後、小さな夜の町の裏道の彼方此方に聴講者の鼻歌 

- „Leb’-mir wohl“ „Leb’-mir ewig wohl“ „Groß war – Gott in uns.“ -

が響き渡るシーンは、上の最も耳に残った美しい眼差しの表現に劣らず、面白い情景で、尚且つなにかを暗示している。



参照:
Thomas Mann: Doktor Faustus (hr2 kultur)
Live-Streaming (hr2 online hören)
International Music Score Library Project
 Category:Composers (IMSLP)
ファウスト博士の錬金術 [ 音 ] / 2006-12-11
明けぬ思惟のエロス [ 文学・思想 ] / 2007-01-01
考えろ、それから書け [ 音 ] / 2005-12-19
古典派ピアノ演奏の果て [ 音 ] / 2007-10-11
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# by pfaelzerwein | 2007-10-12 04:53 | 文学・思想 | Trackback

古典派ピアノ演奏の果て

ベートーヴェンの最後のピアノソナタである。その運命の調性ハ短調は、この作曲家の様々な名曲を呼び起すが、その最後の二楽章アリエッタを分析講義する情景がトーマス・マンの作品「ファウストゥス博士」にある。同じくロスに亡命中の社会学者アドルノの助言を得たその内容は、あまりにも有名である。そこで、音楽教師クレッチマーはピアニーノを弾きながら叫び出す。

ディム・ダダ、このトリルの鎖!、装飾にカデンツァ!聞こえる?ここで、因習を離れた。ここ、言語は美辞麗句を排し、その主観的支配の見かけの美辞麗句は、その見かけから、芸術から排除される。とどのつまりはです、芸術は芸術の見かけから脱するのです。ディム・ダダ…

そのハ短調と同じくして作曲された三部作である変イ長調のピアノソナタをアルフレード・ブレンデルの演奏で聞いた。このピアニストにしては、嘗てない程考え抜かれた、そして十八番のプログラムであった。

ハイドンのハ短調のソナタで始まり同じ調性のモーツァルトで終わる。それに、ベートーヴェンとシューベルトを挟んだと言う。ハイドンの20番のソナタは、手元にある1980年のザルツブルク音楽祭のエアーチェックのそれと比べると、疾風怒濤時代の同じ作品におけるメリハリがより音楽的な差異を示すような表情になっている。ピアニスト本人のこのプログラムへのコンセプトにある「黄昏の情動」や「そのドラマ性と叙情の間の揺れ」に注目していると言う通りの実践である。そして会場の大きさと空席の多さが、さらに残響を長くして、技術的な問題と共に、演奏に滲みを多く添えており、繊細さの表現とはなかなかならない。

続いて演奏されたベートーヴェンの変イ長調は、次のハ短調の作品111番とホ長調の作品109番のソナタに挟まれる形で創作されている。周知のように、三楽章の「フーガのテーマ」や二楽章のスケルツォのシューレージン地方の「滑稽な民謡」や、フーガを呼び起こす「嘆きの歌」などが動機ともども組み合わされて、主観と客観・形而上と形而下の間を動く芸術となっている。そこでも、それらの動機構造を明晰に示すような演奏やその意味を示すショパン弾きによる実践が多いが、ここではよりリスト風の和声の中での流れが重視されて、そうした動機が喩えれば滲み出るような解釈となっている。そうして、ここで最も直裁に示されるのがそこに映し出される「心理」でしかない。

それはこうしたバッハからヘンデルまでのバロック要素を古典派の中に再び取り入れた様式感の中での核となっている。例えば、第九交響曲の導入部のように始まる終楽章で、「嘆きの歌」から「フーガ主題」へ、さらに「嘆きの歌」へと戻り、もう一度「フーガ主題」へと再帰するところを、殆どピアニッシシモにおさえて目覚めさせたのは、この曲の心理的核心を突いていた。

そのような解釈実践から、フーガ主題音列のブルレスク調で始まり、明晰さの内に解放されるドラマを期待する向きには拍子抜きの感のある演奏であったが、それ故にその内的な緊張感と開放度は圧巻で、敢えて言うならばマーラーの大管弦楽に相当するような、意識不明の一瞬から蘇って、慄く動悸を誘う身に覚えのない震えを起こらせるものなのである。

休憩後の後半に演奏されたシューベルトの遺作の即興曲D935からは、ソナタ風な組み合わせとしない明確な意思を持って、名曲の第一番のと第三番のロザムンデの変奏曲が弾かれた。確か、フィリップスに移籍後のレコーディング ― この即興曲はソナタのように四楽章としてLP一面にカッティングされていた ― を以って、シューベルトを盛んに演奏した時代の日本公演でこれを聴いた覚えがある。演奏者は、「愛着のある曲だが、最近は永く演奏していなかった」と述懐している。聞き手にとっても三十年ほど前の印象が強く残っている。そして、当時はそのペダル多用への技術的批判がある一方、シューベルトのソナタを大層立派に演奏してシューベルト・リヴァイバルを起したピアニストが、その楷書を大きく崩して、むしろシューベルトらしくもあり従来のこの作曲家像に近い、幻想風の佇まいへと大きく変化させていて、その夢見心地の世界が、ここに来て初めて、その様式感を伴いつつも、回帰するところとなった印象が強い。

折りしも、同年代のピアニストフリードリッヒ・グルダの二枚目のカセットテープ集CDが発売されて話題となっているが、そのヴィーン訛りの 正 統 派 ピアニストが示した、「モーツァルト遊び」と近いものをここにみる事が出来よう。

当日最後に演奏されたモーツァルトのハ短調のK457 が、そのグルダの非公開テープでは欠落している終楽章が息子パウルによって補充されているように、ブレンデルは、これを「ピアノの大作曲家アマデウスのこれ以上もない美しい曲」として、このプログラムを際立たせて終えた。

シューベルト演奏におけるその意味は、このピアニストが後半生期やり続けていた演奏活動の価値に相当して、それがこうして輪を描くように閉じた感がある。先の初夏のオルドバラでの演奏会もニューヨークタイムスなどで話題となっていたが、ヴィーンの古典派の音楽をこうして大演奏会場で聴衆に問うと言う行為がいよいよ終わりを告げたようである。

こうして会場に集まる聴衆は、古典派の曲を下敷きとした文化行為でも古典から現代を見る芸術的な事件でもクラッシック音楽の興行的な事件でもない、今や個人的な演奏行為を好意をもって集うと言う現象となっている。それは、このピアニストの演奏会が欧州の文化的な出来事であったのは既に過去となったことを示している。

そして、こうした古典的名曲がデジタル録音制作と言う、極限の編集可能な媒体を以って初めて、そこに活き続けると言うカナダの名ピアニスト、グレン・グールドなどが示した芸術観が、ここに新世界に略約半世紀遅れて実証されたのかもしれない。

アンコールに演奏された遺作の即興曲集第二番が、至極個人的なプログラミングの最後を締め括っていたことを改めて付け加えておきたい。



参照:
想像し乍ら反芻する響き [ 文化一般 ] / 2007-10-06
モスクを模した諧謔 [ 音 ] / 2007-10-02
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# by pfaelzerwein | 2007-10-11 05:31 | | Trackback

ワイン三昧 四話'07年

d0127795_213984.jpg名前
フォン・ブール 

場所
ダイデスハイム・ アン・ デア・ ヴァインシュトラーセ

特記
2003年、2004年と醸造責任者や外交担当者が交代、並びにエコワインへと転換を図る。さらに、店頭売り依頼の体制に変わるなど、その醸造所の貸与関係などに加え、独自の経営体制を採用している。そして、2005年よりツ・グッテンベルク家からアーヒム・ニーダーベルガーに貸与契約ごと売却されたようである。つまり、バッサーマン・ヨルダンとフォン・ブールは先祖帰りして同族の醸造所となった。資本家の次ぎの狙いはロバート・ヴァイルだろうか、それとも世界四位規模を誇る発砲ワイン醸造所シュロース・ヴァッヘンハイムだろうか。

履行日時
2007年10月7日

試飲ワイン
2006年ファン・ブール(ダイデスハイム)辛口リースリングQba、
2006年ダイデスハイマー・ヘアゴットザッカー 辛口キャビネット、
2006年フォン・ブール(フォルスト)辛口シュペートレーゼ、

2005年フォルスター・ペッヒシュタイン グローセス・ゲヴェックス、
2006年フォルスター・ペッヒシュタイン グローセス・ゲヴェックス、
2006年フォルスター・ウンゲホイヤー グローセス・ゲヴェックス、
2004年フォルスター・イエーズイテンガルテン グローセス・ゲヴェックス、
2005年フォルスター・イエーズイテンガルテン グローセス・ゲヴェックス、

2006年フォルスター・シュペートレーゼ、
2004年フォルスター・ウンゲホイヤー アウスレーゼ、

2001年フォルスター・ペッヒシュタイン リースリング・ゼクト ブルート、
2005年フォン・ブール ヴァイスブルグンダー・ゼクト エクストラブルート、
2001年フォン・ブール ピノ・ゼクト、ブルート、
1999年フォン・ブール ブラン・デュ・ノワール・ゼクト、ブルート、

全十四種類。

感想
最初のグーツワインはラインヘーレ独特の香味があるが苦味も出ている。ヘアゴットザッカーは、バッサーマンのものよりも風味がある。シュペートレーゼは、酸が適度に効いていて重くならないのが素晴らしい。グランクリュの中では2006年産のペッヒシュタインは土壌の特徴が充分に出ていて秀逸であるが、しかし開きかけの2005年産には若干残糖感がある。さらにウンゲホイヤーになるとそれが強くなるが、好みの問題程度。イエーズイテンガルテンでは、2004年産は酸も強く石油風味が特徴で寿命の長さを想像させる一方、2005年産は酸が弱い反面石油風味にフローラルのボリューム感があって幾らか早飲みであろう。甘口のシュペートレーゼは、砂糖味が全く無く、酸も適当に効いているので食事にも使える。その傾向はアウスレーゼにもあり8.5%のアルコールにして、素晴らしい貴腐ワインである。ゼクトは、ペッヒシュタインのものがその土壌から大変面白く、手間隙掛けてシャンペン風に自家製造しているのが恐れ入る。ヴァイスブルグンダーは極辛で味があまりないが現時点では酵母香が頂けない。

総論
新醸造親方ミヒャエル・ライプレヒトは、ミュラー・カトワールの名親方シュヴァルツ氏の弟子でもあり、実は彼の後継者に推薦された事情もあるように、若いながらもその才能は伺える。地所の個性を出せなかった前任者のものとの品質の差は顕著で、残糖感もなくなっている。苦味などが減ったのは設備投資が、それに貢献しているのか?元来、ドイツ屈指の名地所を保有しており、グランクリュの領域で、どうしてもリードしていかなければいけない醸造所であることを考えれば、この交代やバイオ生産化はワイン愛好者にとっては大変喜ばしい。反面、販売体制やその他の企業機構上の問題は端々に見受けられて、我々を憂慮にさせる。同時に期待は大きく、全体の経営判断の中で、適当な価格で高品質なワインを提供して貰えるのは、資本家にとっては兎も角、我々には喜ばしい。そのものワイン愛好家の狙い目は、軽めだが比較的早飲み出来る手ごろなグランクリュの数々、好みの地所のワイン各種、酸を効かせた貴腐ワインであろう。



参照:
ワイン三昧 四話'06年I [ ワイン ] / 2006-04-03
リースリングに現を抜かす [ ワイン ] / 2006-01-23
役立たずの旧ヨーロッパ [ 雑感 ] / 2007-03-21
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# by pfaelzerwein | 2007-10-10 02:02 | ワイン | Trackback

対人関係の社会計算説

d0127795_9441272.jpg
昨日の試飲百景を書いていて急に試飲を思い立った。朝からベートーヴェンの最後のピアノソナタ三部作を調べていたが、十日前から前からご近所の不在ために預かっている階段に置きっ放しにしてある大きな荷物が気になる。その東独出身の若いブロンド女性宅には、恐らく東独の博士号を持った勤め先が遠い中年男性が同棲して居り、しばしば子連れで訪れる。その女性が犬を連れて散歩するのを、ホ長調の作品109番をざっと見たあとに髭剃り中に見つける。呼びとめようかと思ったが遅かった。

三十分ほど窓辺で書類に目を通し戻ってくるのを待っていたが、一向に姿を見せない。それ以上窓辺にいる用事も終わったので、変イ長調作品110へと目を移す。そしてある程度目星がついた所で昼食とする。

その後も、昨日の記事をアップすると、今年は訪れていない醸造所のことが気になり出した。その理由は、この近辺一体に最も優れた地所を保持する醸造所だけに、今年になって設置された地所名を書きいれた区画を示すポストが散歩するときに大変目立ち、その昔の権勢が急に蘇ったような印象を与えていたからだろう。

そのグランクリュの多くの地所は毎日の散歩道でもある。夕方五時には店仕舞いとあるので、四時過ぎに散歩に歩く靴をトランクに入れて向う。予想に反して、試飲質はひっきりなしに人が尋ねてきて、シーズン終りにしては大変盛況である。適当に混んでいる時を狙って、もし買うものがなくても試飲無しになにかを取ってこようとしていた思惑が外れた。そして略二時間に渡る試飲を終えて、葡萄畑の中に車を止めると既に六時半であった。

そこにも暖かな日曜日の有終を飾る散歩の人々がチラホラと、色づいた景色を飾っていた。結局三十分ほど一回りをして戻ってくると、流石に暮れてきていた。家に戻り、早速ワインを蔵に仕舞い落ち着いて、髭剃り器の洗浄充電などを整えていると、子供連れで犬を連れた彼女と旦那が暗闇に見えて、高い窓から顔を出して声をかけた。

早速、彼女が取りに来たが、重くはない大きな箱を抱えて階下まで持っていくと、恐縮して、「荷物の伝言を見なかったか」と何気無しに尋ねると尚一層、申し訳ないと先週は取りにこれなかったことをまるで日本人のように説明し出した。

そして、階下の玄関まで開けさせて荷物を渡した。ただそれだけのことであるのだが、以前の車の番号や言葉つきから中部ドイツのチューリンゲン南部地方の人であると思っている。そして、なぜかあの地方の人あたりと言うようなものを感じた。旦那の社交下手と言うか、そこに一種の自由社会の人種を恐れているような、管理された共産圏社会出身の人種を見ている。

もしかすると、資本主義社会の我々人種の方が様々な商売がそこここに成り立っていて、管理された人種とは違う独自の社会関係を成立させているのを気がつかずに生活しているだけかもしれない。

写真:秋のランゲンモルゲン
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# by pfaelzerwein | 2007-10-09 09:45 | | Trackback

道に迷って思わぬ出会い

d0127795_7151597.jpgここ十日ほどの間に、十種類ほどの様々なワインを試した。

試飲後購入して、自宅にて栓を抜いて、再び本格的に試したワインがある。その中には、先日ラインガウで試飲してここに記した二本が含まれる。一本は、リッターヴァインであるが廉い格下の醸造所のものに比べて二倍の価格である。当日の試飲会では、初面識のおばさんが盛んに勧めたものである。

確かにその辛口でストレートな味覚は香ばしさと含めて、購入の価値ある日常消費用ワインであるのは確かめられた。しかし、食事にそれを愉しむとなると、やはり魅力が薄い。何よりもミネラル風味はあるが、その味の複雑さがないのが、口を飽きらせる。ここでも何度か主張しているが、ワインの味の繊細さを意識させないかぎり、食事の味の繊細さをも意識させない。つまり、時間差による味の減衰がないことにはやはり良き食事の相伴とはならないのである。その意味から、邪魔をしないというだけでは、この価格では買えない。我々は日頃、もっと 旨 い ものを食しているのだ。

もう一つは、同じ試飲会で高評価をしたファインヘルブと言う辛口でも甘口でもないカテゴリーのものであるが、こちらはその価格に比べて旨味もあり、後口も殆ど甘みが残らないのが確かめられた。食事もパスタ類でも何でもいける感じで、またその旨味を単独で楽しむのにも問題はない。

2006年度産日常消費ワインを買い足すついでに、夏の間に成長したワインを勧めて貰った。ダイデスハイム産のラインヘーレの地所からの辛口リースリングである。その地所の嘗ての印象は、既に記されているが、他の醸造所のものも含めてあまり好みのものでないが、土壌の個性が強かった。そして今回飲むと他のワインと同じようにミネラル風味が前面に押し出てきていて、全体のバランス振りが大きくなっていたので、購入する。食事とこれを楽しむと若干甘みが強く、半辛口領域に近い印象を受ける。なるほど店の女性が勧めた良さを改めて見出す。これはまだ暫らく成長するだろう。その反面、糖価の限界が舌で測れたので、決して甘いものが旨く感じるようになっている訳ではない己の味覚を確かめる。

更にその場で二種類のグランクリュを試飲出来た。一つはダイデスハイムのキーセルベルクで、ここでは今年はこの地所からの他の醸造所のキャビネットを賞賛している。それに比べると、当然のことながら晩摘みなのだが、それだけ土壌のもっている成分の不足を感じさせた。アルコール度が上がり、それなりの酸と濃くがあると、どうしても拮抗する風味や味が欲しくなる。元来その土壌の個性から果実風味に抑制が効いているので、ある種の清涼感か清明さが欲しい。

もう一本は、ウンゲホイヤーであるが、これも他の名門醸造所がこの地所から半額ほどのキャビネットで一本筋の通ったストラディヴァリウスような清澄さを出していることからすると、ヴォリューム感だけでなくそうした強い個性に欠けるのである。両者ともまだ開いていないとしても、その差は顕著であり、最上級ランクのワインに関しては尚一層の成果を期待をしたい。

その足で、名門醸造所を訪ねると、めぼしいものは殆ど売り切れていて、ただダイデスハイム産のヘアゴットザッカーの辛口キャビネットに興味を持った。これは何度も試飲しているが、売れ残っているのである。店先では幾らか林檎香を感じて家に持ち帰り飲んだが、味が無く新鮮ながらかなり疲れた印象を持った。面白くないワインはやはり売れ残る。上記の醸造所のヘアゴットザッカーが、果実風味に溢れ爽やかさがあり、最も早く売りきれてしまったのとは対象的である。

しかし、試飲無しの購入を躊躇して、粘って、探させて試飲出来た唯一つ売れ残っていたグランクリュは、大変素晴らしかった。瓶を開けて暫らく経っているにも拘らず、その開いていないワインから大きな開花を予想させた。あと二年ぐらいとする評価は正しく、その凝縮した細身のホーヘンモルゲンは、そのときには素晴らしいワインとなっているだろう。それが売れ残っていたのは興味深い。

さて買い足したリースリングは、なぜか醸造所から取ってきて一本目を開けると再び魅了されてしまうのである。そのミネラル風味と酸は、夏以後は楽しめないだろうと思っていたのだが、それなりの味の奥行きを見せてくれる。毎日顔を合わせていて日常生活に疲れた異性同士が、旅に出て道に迷い二人がはぐれて、捜し求めているうちにふと向こうからやってくるのを見た瞬間、再びその良さに惚れ込んでしまうようなものだろうか?
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# by pfaelzerwein | 2007-10-08 07:17 | 試飲百景 | Trackback

健康に前景気に湧く

d0127795_4291048.jpg注文したCDや本を手にする前に、それに暫し心を奪われたいと思う気持ちから、忘れないうちにここ一週間ほどの葡萄の事情を記しておく。先週末、つまり九月二十八日時点で、プリミエクリュと称されるような砂地の地所のワインは何時の間にか摘み取られていた。そうした事情は醸造所毎に異なるのだが、傾斜地の上部は残されて、平地部はどうしても風通しが悪く腐り易いことから早めに収穫されていた。その同じ傾斜地においても、そうしたお家の事情で収穫時期が異なる。

また傾斜地には、多くのグランクリュ地所があり、それらは充分な熟成にいたっていないと言う理由から、また比較的低い外気温から腐りが避けられて貴腐が発達する条件を考慮して殆どが摘み取りを待つ状態である。

そうしたグランクリュ地所の中でも、ここ数日で摘み取りが終わった区画も多く、また同じ醸造所の同じ地所においても、敢えて二段階に収穫をすることで、リスクを減らしながら、恐らく二種類の樽を調合する糧としている様子が多く見られる。

赤ワインとなるシュペートブルグンダーなども、未だに摘み取られていないものがあり、それはここでも評価したような飛び切り質の良いピノノワールとなるのである。

地元の2007年産のワインは、量も豊富で質もかなりのレベルに達することが予想されていて、殆ど見込み景気のような経済効果も表れてきているのではないかと思われる。我々愛好家も易い旨いワインが12月ごろから賞味出来るかと思うと口元が緩むのである。



写真:地所ヘアゴットザッカーの鳥除けのお呪いらしきものと地所ウンゲホイヤーの健康な葡萄。

d0127795_4302958.jpg

追記:郵便を朝から待っていたが、昼前には不在者通知を郵便桶に見つける。嘗て同じようなことが土曜日にはあったので、念のために委託所に文句を言いに行く。確かにシャワーを浴びていた可能性があるのであまり言えないが、郵便局の民営化と言えども、結局は不在者通知は以前のままで、配達人は削減され、合理化によりサーヴィスは落ちるのである。エクスプレスなどの特別な料金を払わない限り、まともなサーヴィスを受けられなくなるというのが民営化の真髄である。腹立たしいが、片付け事もあり来週の日程が明白になる。
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# by pfaelzerwein | 2007-10-07 04:26 | | Trackback

想像し乍ら反芻する響き

水曜日からトーマス・マン作「ファウストュス博士」のラジオドラマが始まった。ヘッセンとバイエルンの其々文化放送波とフランクフルトのアンサンブル・モデルンのアカデミーの共同制作である。

十回続きで、原典全文の四割がそのまま読まれる。朗読ではなくラジオ劇となっているので、効果音や音楽、そして作曲家の主人公レーファークーンの唯一の幼馴染の友人でフライジングの神学者ツァイトブロムが語り手となって原作どおりに進む。つまり、直説法で話すところや間接法で語るところを取捨選択して、本人に喋らせたり語り手に語らせたりと、対話や特に悪魔との交渉やその内面劇のモノローグはその配役に工夫しているようだ。

第一回目をネットのストリームで聞いた。九十分番組の中で、やはり自身で読んで印象に残っている「蝶の観察」などのシーンは息飲む思いで聞きこんだ。その他、読み直したく思わせたのは、ライプチッヒ近郊のニッチェの生家をモデルにしていると言われるナウベルクの情景や町並みが目に浮かんで素晴らしかった部分である。

父親の化学実験に歓声を上げる子供たちの声が、イメージしたものよりも甲高かったり、その割に親父の声が老けていたりと意外に思ったところは読み返して情報を収集し直したくなる。

毎週一回の放送で、先は長いが、古フランキッシュなどの言葉遣いが聞けるのも楽しみである。何よりも、自らではイメージ仕切れない百年前の中部ドイツの雰囲気をよりよく伝えて貰えると助かる。物語の進行する、その時代や社会背景が身に沁みて居ないと随分と退屈すると言うか、理解出来ないことが多いからである。

この作品は音楽文化が大きな位置を占めるが、それ自体もそうした背景が前提となって尚且つそれを映し出すことでは、物語の理解とそれほど変わりない。それが記録されている楽譜は、そうした町の広場に面したホールや教会に無造作に置かれているのが、元来のその情景である。

そして、今我々は世界中から、そうした楽譜のコピーをクリック一つで自らのコンピューターにダウンロード出来るようになっている。それを、インクと紙代を投資(特価品購入と同様な額を)すれば従来の楽譜のように使える。

ピアノ曲をその指運びの数字に出来るだけ従って、机の上を叩くだけで、誰の迷惑にもならずそれどころか不味い音を聞いて自らの心を乱されることも無く、古典的な楽曲に触れる事が出来る。管弦楽曲にも「棒振り」と言うジャンルが、YouTubeにもあるが、各々の楽器にもそのようなものがあっても面白い。そして、ヴィーン古典派などの古典曲の 演 奏 や 鑑 賞 行 為 には、今日限られた芸術的な意味合いしかないことであり、こうして気楽に楽しめる事がなによりも素晴らしいのである。

上のラジオ劇場のストリームの録音を試みて失敗した。長尺のダウンロードと記録が出来るフリーソフトを日曜日の再放送に向けて探している。今月の下旬にはそのCDも発売されると言うから、ドイツ語の上級者の好事家には関心あるところだろう。


追記:SDP Downloaderと称するフリーソフトを見つけた。長尺のラジオも録音出来そうである。



参照:
International Music Score Library Project
 Category:Composers (IMSLP)
Thomas Mann: Doktor Faustus (hr2 kultur)
Live-Streaming (hr2 online hören)
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# by pfaelzerwein | 2007-10-06 00:43 | 文学・思想 | Trackback

週間を通した習慣つけ

首筋や背中が凝って困る。理由は新調眼鏡と直ぐに想像つく。町の広報に購入した眼鏡屋から二百メートルほど離れた町の中央の広場にある眼鏡屋の広告が入っていた。

見出しは、独第二放送TV局のスポット「二つ目で更に良く見える」をもじっている。それで大体想像できたが、対抗馬が得意としている境目の無いレンズの向こうを張って、「二つ目の眼鏡を」を盛んに進めている。

その内容は、眼鏡屋協会か何かが共同で広告用に作った文面がつかわれているのだが、「境目のないレンズ眼鏡のように疲れがなくて視野が狭窄しない」とか、スポーツにはスポーツ眼鏡、サングラスに、事務用、運転や旅行中で壊れた場合とか、TPOに合わせとか、徹底的に複数の眼鏡を勧めている。

度が強くなった眼鏡をかけて目が疲れ、更に筋肉痛へと進んだ現在、どうしても気になるのである。そして、一つづつの説明に反論を試みるのである。そして何よりも、複数の眼鏡を使うのはある程度近視が強い者にとってはあまり現実的ではないことへと結論は至る。

目の疲れがあまり取れないならば、来週早々にでもレンズや蔓の角度などを少し調整させようかと思うのだが、慣れるかどうかはこうして一週間ほどして見ないと判らない。

全く異なる話であるが、先月の山旅の途中の雑談の中で、フリークライミングも一週間に一度の練習では、とっても本格的なスポーツクライミングの域には達せないと指摘されて、なるほど楽器の練習のように毎日の繰り返しが習慣にならなければいけないのだなと、今まで何事も毎日続けた事が殆どない不甲斐ない吾身をつくづくと振り返るのである。
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# by pfaelzerwein | 2007-10-05 04:15 | 生活 | Trackback

痴呆化と単純化の伝統

d0127795_421986.jpgこのBLOGでは曲りなりにも文化について考えている。だから、日本の邦楽セッションがやって来てそれに接しての感想も認めておかなければいけない。

邦楽演奏会のプログラムに肥後一郎の名を見つけた。二十年以上前に聴いた管弦楽曲の演奏会のことを思い起こした。通常の現代音楽作品に比べて、その形式以上にその発想の理解しがたい不明瞭さに閉口した記憶があるが、今回の再会で幾らかは過去に遡ってその姿が見えた印象がある。

何よりも現代邦楽の作曲家として、こうした邦楽の演奏会で取り上げられることで、そしてそれらの創作行為が比較対象化されて叙述法が把握されることで、その発想が身近に感じられるような錯覚があるのかもしれない。

現に、ジャズセッションの音の大きさや大道芸の見世物に歓声が湧く一方、そこで鳴らされる響きになにか違うものを感じ取った聴衆がいたことは、充分にその意図が汲み取られたと言っても良いのかもしれない。

ジャズのセッションの進行の要素や伝統的十段に混ぜられて、こうした行為が明快になる背景には、伝統音楽の譜面面や五線譜とは反対から頁を捲る面白さがあるだけでなく、また弦の数が増やされた琴のアンサンブルやその現代的音色音感のための技巧が存在するだけではないのは言うまでもない。

そこには、日本の現在の生活感や世界観のようなものが見受けられる。例えば津軽三味線や沖縄民謡などの音楽や中国楽器のポピュラー化などは聞いてはいるが、そうした実態の一部として、叩きの強い津軽三味線やフルート名人パウ氏のような音の擦れない尺八の音を聞くにつけ、如何にこれらのものの発声が明快になったものかと気が付くのである。

三味線の方には、その津軽三味線の叩きの強さを尋ねた。なぜならばそれは、聴衆がたじろぎ、後退りするほどのもので、モダーンジャズなどに相当するものであったからだ。それを、ある種の音楽的な情念の表現とすると、それは極東アジアの人にしか通じないものだとの見解であった。それに対しては、「そうしたものは、どうして、文化圏を越えている」ものとしておいた。

さて、ここからはそうした文化行為を越えた一般論になるが、発声の良い主張と言うのは、ポピュリズムやステレオタイプな発言となり易い。そこで必要とされるのが駆使されるべきレトリックの妙であり、それを普遍化し洗練した様式なのだ。

そうした修辞法の洗練こそが文化であり、そこにはじめて普遍性が生じると考えられる。先のモーツァルトの「情念」も、もの心つく前から叩きこまれたクラッシックの様式感の中で表現されたものである事を素直に思い浮かべれば良い。その情念そのものを卵を孵すように「自己の妄想の中で膨らます」ような行為が、実は「ある種の発声の良さ」と裏腹にある行為であることは、少し考察すれば誰でも解るのである。

幾らかでも、伝統とか文化に携わる発言をしようとするならば、対象への批判眼から導き出された修辞法が生み出されるべきである。対象への自己投影や近親感からは、痴呆化した不明瞭さか、もしくは反対に形骸化された単純化しか生み出されないからである。

これは、文明を拓くのは、職人的な技巧や学術的な技術では全くなく、文化と言う知性がそれを担うことを指している。
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# by pfaelzerwein | 2007-10-04 04:02 | 文化一般 | Trackback