六リッターのワインの箱

もう一つ心身ともにしゃっきっとしない。それでワインを試飲に行った。丁度入ろうとすると、お婿さんが出てきた。作業着だったので澱引きか何かの合間に事務所に寄っていたのだろう。

「2007年産の売りものがある筈だけど」と訊ねると、

「あんまりないけど少しはあるから」と「XXちゃん宜しく」と、ということでいつもの女の子が相手をした。

先ずは既に所持している価格表を睨んで三種類のワインの試飲と順番を相談する。三種類ともリッター瓶である。

今買える2007年産の最も単純なワインは、リースリングQbAで、新鮮・力強く・口当たり好しとなっている。価格は、4ユーロ90で昨年ではなかなか手に入らなかったお買い得である。

香りは、何処でもあるような単純なものであるが、悪くなく、味も、新鮮さの中に苦味が感じられるが、苦にならない。買い付けた葡萄での醸造としてはなかなかよく出来ている。

二本目は、グーツヴァインで、活き活きとして・力強いとなっている。香りは先のと全く同じである。味は、苦味がミネラル成分に抑えられている印象があるが、前者と大変似ている。価格差は60セント。試飲においてはこの差は殆ど付けがたいものであったが、自らの葡萄を使っている素性が異なる。しかし、双方ともそれほど地域差や土壌差がないことも事実で、この差異をつけるのは厄介である。

そのように思っていると、他の顧客が入ってきて、奥さんはいるかと尋ねる。居ないが、それでも試飲買いつけをする。2006年産ブルグンダーなどを再び所望のようであったが、売り切れなどもあったようだ。あまり関心がないので聞き耳を立ててはいなかった。

なにせ、上の二種類の差が判らないので、こちらは少し心理的に慌てているのだ。そうこうしている内に、ティーンエイジャーの娘を連れたその主婦は、二ダースほど二種類買い付けして、支払い時に、「若奥さんと親しいので」18%のディスカントを受けて、名前を控えさせられていた。

なるほど、家庭で消費するワインをここ一件で殆ど賄っているような印象がある。良く考えればそうしたお得意様が、個人消費のもっとも多いタイプであって、当方のようにそこここへとちびちび試飲して歩くのは特殊なケースなのであろう。

その客に商品を渡す間に、次の一本を開けて注いでくれる。ミュラーテュルガウもしくは最近はリファーナーと呼ばれるお得な白ワイン種である。これのつまらなさは、飽き易い味の強さと単純な香りなのであるが、自然な酸味が利いていてフルーティーである。硬直したような味となっていない。花の咲き乱れたような果実風味と書いてあるのは必ずしも誤りではない。4ユーロ20の価格にも惹かれた。

結局、この三種類を混ぜ合わせて家でゆっくりと試飲することにする。

「充分に違いが分からないから、家で試すね」と言い訳をすると、

「それは分かるわ、落ち着いて試さないとね」と慰めてもらう。

どうも、もう一つピリッとしない試飲などはこうしたものなのである。手にソムリエ学校の案内チラシなどを握って、どうしようというのか、我ながら分からない。
六リッターのワインを買いこんで、〆て29,20ユーロ。我が休肝日が瀕死に面している。

空箱を返そうとすると、「ああ丁度良かった。でもそれでは入らないわ」、

そうリッター瓶ばかり六本もあるのだ。
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# by pfaelzerwein | 2008-01-30 04:25 | 試飲百景 | Trackback

脱思想・脱原発・脱体制

ヘッセン市民は高嶺の見物と洒落ても良いだろう。混迷を極めているが、こうした時に政策の寄り合わせや論議を踏まえて、民主的な方法で政治的な解決を行なえるかどうかが、政治家に問われているのである。

与党のコッホ首相がミュンヘンで起った暴力事件などを挙げて、その問題を外国人の移民を引き合いに社会治安の問題にすり替えてしまったものだから、野党のSPDはそれを非難し易かった。今日でも、反テロ政策や治安維持を盾に、防衛当局として、コッホを支持する声があるからCDUの一部はショイブレ内相と同じで話にならない。

実際、それは問題発言に他ならなかった。しかし、そうした青少年の問題は教育問題であり、それこそは連邦州の管轄にあり、州民は自らの教育システムを規定することが出来る。州内に住む有権者にとっては特に子供がいれば最重要問題なのである。

ドイツの教育システムは、ここでも取り上げているように様々な問題があるが、塾に頼らない全日制の小学校や均一化の総合学校と言われるシステムへの要求とか、またはエリート教育とかの必要性など多々あり、一口に教育の機会均等と叫んでも容易ならざることは断わるまでもない。詳しくこれを語ればやはり自身の意見にしかならない。

元々、SPD社会民主党にとっては、ポスト最低賃金制度が党を挙げての大きな取り組みであるが、コッホの挑発的な発言を否定的イメージ戦略に結びつけた。それに対してCDUは、議席獲得への最低得票率5%ハードル突破を狙う左派党に議席を奪取されないように投票率を上げようと努力したようだが至らなかった。

昨日の開票番組でローカルの様々な争点を見ると、州議会選挙は国政とは異なり地域によって多種多様な争点が存在している事が知れた。最も興味深く思えたのがそのもの身近な生活環境問題である。

一方にはフランクフルト空港の拡張に伴う新滑走路航路下の立ち退きや騒音問題などがあり、一方には国政で決まった原子力発電からの脱皮を柱とする新エネルギー政策がある。片や経済的な成果や貢献を挙げて、片や環境問題とする構図は、二十世紀後半に世界の先進工業国で繰り返された政策論争であり、一方に自由資本主義があり一方に社会主義的な思想の葛藤が続いたのは周知のことである。

しかし、今回の地元の様子を見れば分かるように、煙を上げる石炭発電所の町で市民は、「自らの環境のためなら生活改善を含めて大抵の努力はするが、冷蔵庫を使わない者は居まい」と言うように、もしくは「風力発電は美観や観光資源としての自然の価値を下げる」とする市長の発言に、「少々のことよりも原子力発電を止めることがもっとも優先」とする主婦の声が全てを語っていた。

つまり、議論は多極化して一つの解決方法を目指すことが出来ない世界であり、タブー無き政策の緑の党の伸び悩みとその活動への期待こそがここに全て現れている。

それは、教育の問題として、個人の経済活動を築く政策としての社会のあり方への議論ともなっている。それゆえに、左派党の議会進出は、その支持層の多くが失業者であり、もしくは公務員や労働組合組織員であることを考えれば、上記のような多極化した議論ではすり落ちてしまう問題に光を当てる。謂わば、二十年ほど前ならば極右政治団体が失業者の声を代弁して、「外国人に労働を奪われた」とすればそれで済んだ問題が、今は「グローバル経済の中の民営化で公共従事の機会が失われ、労働者には市場論理の中で教育の機会も与えられてない」と言い換えて、尚且つラフォンテーヌ代表のように外国人排斥をそこに旨く混ぜ合わせれば都合の良い配合になるのである。

その結果、左派党がある程度の議席を獲得して、社会民主党左派が支持を食われ、社会民主党によって緑の党がエネルギー政策を専売特許とは出来ず、FDP自由党が緑の党のアナーキーな市民性を奪えば、CDUキリスト教民主同盟が経済界を牽制して左派党以上に統制を図ろうとするとき、どうしても今のような卍巴のように入り乱れた政局が発生する。

だから、特に州に権限がある政治課題を得票率を鑑みながら最優先に調整して、実行していくことこそが今の政治課題なのである。そして、国民二大政党であるCDUとSPDが其々高齢者と働き盛りの若い世代に支持層が別れてきていることは、少子化や高齢化の進む先進国の今後の政治地図を考察する場合大きな要素になってくると思われる。因みに男性にはCDU・FDPの連立が、女性にはSPD・GRUENENが好まれているらしい。



参照:
ローラント・コッホ負ける [ 生活 ] / 2008-01-28
葡萄の地所の名前 [ ワイン ] / 2006-01-21
ドイツ語単語の履修義務 [ 女 ] / 2007-07-16
一緒に行こうか?ネーナ [ 女 ] / 2007-06-18
中庸な議会制民主主義 [ マスメディア批評 ] / 2007-05-13
煙に捲かれる地方行政 [ 生活 ] / 2006-12-12
日曜の静謐を護る [ 生活 ] / 2006-11-11
麻薬享受の自己責任 [ 生活 ] / 2006-12-08
正書法のフェデラリズム [ 歴史・時事 ] / 2005-07-20
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# by pfaelzerwein | 2008-01-29 04:27 | 歴史・時事 | Trackback

ローランド・コッホ負ける

ヘッセン議会の選挙が行なわれた。予想に反して、与党CDUが伸び悩み、野党SPDが第一党になるばかりか、左派党が議席を獲得しそうである。ヘッセン首相ローランド・コッホの外国人への厳しい態度が選挙民に嫌われた。

戦前から、左派党が議席を獲得すれば、FDPとの連立以外単独では政権担当は不可能と予想されていたが、第三党と躍進したFDPと組んでも過半数に達さないばかりか、SPDの予想外の善戦で、ヴィースバーデン議会での第一党の位置を譲り渡しそうである。まるでベルリンのような状況になった。土曜日にアルテオパーの前で友人のアンゲラ・メルケルが演説したが及ばなかったようだ。


追記:全議席数110中、CDU42、SPD42、FDP11、緑の党9、左派党6の内訳となる。 結局最終的にはCDUが得票率の僅少差で第一党に落ち着きそうだが、首班指名で可能性のあるSPDのアンドレア・イプシランティ女史が連立工作の主導権を握り、成立しなければ暫定的に統治する前任者が議会を解散して、やり直し選挙となるようだ。いずれにしても同日に行なわれたニーダーザクセンの選挙における議会にも左派党が躍進して議席を獲得したように、格差是正を訴える左翼に支持が集まった。



参照:
Wahl.hr-Online.de
脱思想・脱原発・脱体制 [ 歴史・時事 ] / 2008-01-29
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# by pfaelzerwein | 2008-01-28 03:46 | 生活 | Trackback

Change! Yes, we can!

バラック・オバマ候補のサウスカロライナでの予備戦の勝利宣言を観ている。黒人票を予想以上に固めて予想通り大勝したようだ。

しかし、いつも冷静な感じで演説が旨い。市場至上主義で、ブッシュ政権でズタズタにされた米国の感情を癒し、変革によって再び下からの活力を期待する意識は米国の中産階級にも強いのだろう。

ケネディー大統領の娘さんが評するように、オバマ候補はケネディ大統領のそれに近い盛り上がりを見せて来るのだろうか?

兎に角、信じるものは救われる。嘗ては、米国人のスポーツ選手などがオリンピックで見せ付けたような、自尊心からの強い米国像こそはこうした感覚から生まれていたように思うのだが。



参照:
希望へ誘うオバマ候補 [ 雑感 ] / 2008-01-15
トマトの価値(I Only Feel This Way When I'm With You)
オバマ、圧勝 (虹コンのサウダージ日記)
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# by pfaelzerwein | 2008-01-27 12:03 | マスメディア批評 | Trackback

暖かい一月の物価高

厭に一月としては暖かい。二桁に近い外気温である。日差しが強く、五時過ぎても夕刻がなかなか暮れ難くなってきた。このようなことは初めてかもしれない。天気が良いのは嬉しいのだが、やはり体がだれる。

先日来、ここでも紹介した安物スパゲティーが39セントから54セントに高騰した。他の乾麺類も相当に値上がりしているようだ。こうなったからには廉い麺は買わない。個人ボイコットである。少々99セントと高いブイトーニの6番で暫らく楽しめなかった繊細な面類を食べる。すると反対側においてあるシュペツェレが88セントと廉いのに気が付いた。これで良いのだ。

その分、今度は600グラム49セントのお買い得の米を食する。この米は粘り気がなく、一袋125グラム毎になっているので炊き易い。これは、炊飯器を引っ張り出して炊くと様々な料理に使えることが分かった。水気が少なく軽い分、丼飯などに素晴らしく美味い。簡単に二合ぐらいを平らげられる。しかし、どうも米が腹に堪えるという、腹持ちが良いと正反対の感想は消えない。

ジャガイモも今の季節は今一つで、大根なども年末のような美味さは消えて価格も上がっている。どれほどのインフレ率になるだろうか。
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# by pfaelzerwein | 2008-01-27 03:29 | 生活 | Trackback

批判的に叙述する記録?

BLOGを巡っていて、中級ドイツ語文法問題に行き当たった。参考になったかどうかは怪しいが、書き込みさせて頂いた。例文が誤っていたり、大変な誤解が生じかねないとみるとどうしても口を突っ込んでしまう性分なのである。「よく犯人に刺された人を振り返って、そう言えば子供の頃から正義感の人一倍強い子だったから」というようなやっかいな性分である。

内容は未だに定かではないが、文法的に接続法の現在と過去が話題となっている。前者は、直接話法から間接話法に変えると英語では時制の一致があるので複文内では現在とは往々にしてならないが、ドイツ語の場合は時制の一致がないので現在形がとられる。後者の場合は、現在の状況からみて、起らなかったことなどを仮定して因果律などを考えて利用される。

つまり後者は、英語で言えばIFを使ったり使わなかったりする動詞の過去形をあてがう仮定法過去である。つまり、一般的には過去に起っていないことを接続法にする場合が一般的である。しかしここに来て、実はそのIFによる仮定法ではなく、直接話法から間接話法に言い換える、つまりここでは記録者としての第三者のジャーナリスティックな視点が強調される文例の前者の問題と気がついた。

しかし、その部分的に引用された今回の例題は、過去に起った記録を接続法過去に書き換えてあるのでおかしいと思った。その例文である。

― 彼らは、各々に指示した。「一本づつワインを持ってくるように」
― Sie baten jeden Gast, „Bring bitte eine Flasche mit!“

それは、第三者的な批判的な様相を帯びる叙述である接続法を用いて以下のように書き換えられている:

― 彼らは、各々に一本づつワインを持ってくるように指示していただろう。
― Sie hätten jeden Gast gebeten, er solle eine Flasche Wein mitbringen.

この二つは、前者が起った事象を叙述しているのに対して、後者は起っていない事象をなんらかの条件が揃っていたならば事象が起っていた可能性を仮定しているので、事実関係としては正反対の過去の二つの事象を説明している。

一般的にこうした書き換えはありえないので、先ずは前の例題のbatenがウムラウトによってbätenと接続法過去形となる印字間違いと疑った。それとは違うと言うことで勝手に書き換えの後の文章を否定した。

― 彼らは、各々に一本づつワインを持ってくるように指示していなかっただろう。
― Sie hätten jeden Gast nicht gebeten, er solle eine Flasche Wein mitbringen.

これならば、如何なる文節においても二つの文章は同じ事象を異なった視点から叙述することになる。更に後半の文章は、原因となり得るIF文が除かれているので、次のように勝手にIF文章を補った。

― もし、このようなことになるならば。

そう、各々が安物ワインを持ち寄ったから乱闘騒ぎになって、警察が駆けつけてこう呟いたのである。

しかし、どうも例文には前後があって接続法過去で肯定つまり事象を否定しているようだ。また例題の文章は、友人が語ったことを記録者が綴ったもののようだ。

例えば記録者は、現場にいた友人から聞いた内容をここに綴っているとすれば、その友人は上の持ち寄りの指示を聞いてその事実を語ったようだが、記録者はその信憑性に不審を持っているかもしくは批判的に第三者としてその事象を伝える必要が生じる。その場合、友人の証言を自らの言葉として記録する方法は、新聞記事のように間接話法で接続法現在を使用するが、接続法現在が接続法過去によって取り替えられる場合も考えられる。

次のようにな直接話法の場合である。

― 友人は、「彼らは、各々に指示した。『一本づつワインを持ってくるように』」と語った。
― Der Freund sagte: Sie baten jeden Gast, „Bring bitte eine Flasche mit!.“

これを間接話法に纏めると次のようになる。

― 友人は、「彼らは一本づつのワインを持ちよる指示を与えた」と語った。

― Der Freund sagte, sie haben jeden Gast gebeten, er solle eine Flasche Wein mitnehmen.

しかし、これでは英語のように時制の一致がないので、通常の叙述と変わらなくなるから、ここで接続法過去を使うと言うことがこの例題の焦点のようだ。結論:

Der Freund sagte, sie hätten jeden Gast gebeten, er solle eine Flasche Wein mitnehmen.

しかし、これを部分的に初めのように比較すると全く異なる意味にしか聞こえない。このような、現実の叙述と記録もしくはジャーナリズムの手法が全く異なる事象を叙述するのはただの偶然なのだろうか?それともドイツ語特有の問題なのか、分からない。
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# by pfaelzerwein | 2008-01-26 04:12 | BLOG研究 | Trackback

企業活動という恥の労働

背任横領のスキャンダルで揺れたジーメンスの株主総会が開かれた。本社小株主でもないので興味はないが、新聞の文化欄は企業文化について語っている。

端的に言えば、収益を求めるのが会社役員の任務であるが、こうしたスキャンダルは、たとえ市場での競争を勝ち抜くためとはいっても最終的には企業の信用を落とすことになって、企業の収益に結びつかないというのである。

ジーメンスのような伝統的な大会社において、その企業哲学とは裏腹に、多くの分野においては過当競争に切磋しており、マイクロソフトのような寡占に近い商売は出来ないという。

結局、対抗馬から抜きん出て契約をとるためには、賄賂をばらまくという形態になったとしている。その賄賂も1999年以前は必要経費として税制上落とされたのだが、そうした税制がなくなり、十三億ユーロの使途不明金に対し、結局一億七千九百万ユーロの追徴税を含む罰金など合わせて十五億ユーロの支出となったとされる。

そもそもこうした巨大組織においては、一部幹部やCEOが個人的に判断を下せる訳ではなく、労働組合を巻き込んでの不祥事となったのである。

そのような状況を見て、先日のケーラー大統領のエリートへの期待ではないが、如何に巨大企業が形而上の神を擁いていようが、こうした不正行為が最終的にはその企業行為の目的に背くことを各々が自覚しなければいけないと語っている。

国際的な企業において、脱税行為を含む裏金作りやマネーラウンダリングは常識であり、そこから多額の賄賂が支払われている構造があまりにも無感覚な違法行為となって居ることを指している。

それをして、生きるための会社員の仕事は、BLOG「田村伊知朗政治学研究室」で語られた「労働は恥?-ニートの原初風景」における「恥」と、定まった目標の追求である自動化された企業活動として、変わらないのではなかろうか?

実業界での労働がエリートとは関係ない「恥の労働」化しているのは、昨日ダヴォースを訪れた投資家ソロースが本末転倒に語った「市場原理主義の問題」でしかないのだろう。更に、そうした痴呆化した実業界を正しく導くことが出来る政治や政治家が存在しないかぎり、もしくは本物のエリートが存在しないかぎり、世界は巧く機能しないことは当然なのである。
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# by pfaelzerwein | 2008-01-25 04:03 | 雑感 | Trackback

おかしな正月料理の記録

d0127795_33822.jpgなんとなく公開を躊躇っていた写真である。ノイヤースコンツェルトを観ながら食した魚尽くしなのである。三週間の距離をおいてこうして眺めると面白い。

小鉢の魚は「家庭の主婦風若ニシン合え」でドイツの最も有名な魚料理である。ザワークリームを使っていないのでマヨーネーズが分離して美味く乗っていないが、日数を置いてあるので味はよく馴染んでいた。よってリースリングワインにもジャガイモともどもなかなか癖がなくて良かった。89セントほどで二食分の魚の量があるのがなによりも嬉しい。

もう一つのメインは、なんといってもサーモンの燻製とイクラであろう。これも二ユーロほどの安物であるのでそれほど美味い事はない。しかし、後味の臭みもなく楽しめた。

偽物キャヴィアやチーズもたいしたものではなかったが、こうして見ると門松がなくとも小カブの日の出とパイナップルの扇子が面白い。一体いつの間に神道に感化してしまったのかどうか判らないが、おかしな意匠を考えたものである。

さすが自称元新日本食研究家の面目躍如とは誰も言わないだろうと思って、公開を見合わせていたのである。先日のライストルテとあまり変わらないとは思わないのだが、文化の記憶の範疇にあるだろうか?
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# by pfaelzerwein | 2008-01-24 03:04 | 料理 | Trackback

引きちぎられる携帯電話

d0127795_522852.jpgベルリンの連邦政府内での亀裂と成果がよく聞かれる。外務省がフランスに負けずにシリアとの親交を深めている一方、首相府はそれを批判する。ダブルスタンダードの二股外交は、ダライラマや対中国外交だけではない。しかし総じて連合政府は巧く運んで居ると言うのだが、なんとも不思議である。実際、中国との外相会議も近々開かれて関係修復に進んでいる。

先日発表されたノキア社のボッフム工場の閉鎖は、予想以上に携帯電話の汎用技術全般に関する職場を奪うらしい。昨年はフレンツブルクのモトローラの工場が、その前はジーメンス工場が台湾のベンキューに身売りされてから閉鎖されたので、ドイツにはその汎用技術を活かせる工場は無くなることになるからだ。所詮汎用技術のエンジニアーリング自体が、今後は発展途上国にこそ必要になるので、技術者の求人も次から次へと新興国に移る。開発部門は工業先進国に残るかどうかも、IT部門同様に大変微妙な問題となってくるだろう。市場に近い技術やサーヴィスは、移植性が少ないのかもしれないが、こうした汎用技術に関してはなんとも言い難い。

しかし少なくとも、SPD代表ベックやCDUの消費者大臣ゼーホファーがノキア製品のボイコットを訴えるポピュリズム政治は、輸出大国ドイツの基本政策に矛盾している。なるほどフランスの大統領とは違い、ドイツ首相は健康への害を心配してか、二代続いて携帯電話をあまり使用しないなど、ドイツでは携帯電話は外回りの商売を除けばそれほど重要ではない。そして最も携帯電話を利用しているのは回線を保持していない出稼ぎの外国人不法労働者である。

携帯電話などはなくても構わないかもしれないが、こうした政治が全く効を奏さないとは断定的に言い切れるのである。また独テレコムの人員整理が進むと聞いたが、I-Phoneもこのような社会ではその売り上げにあまり期待出来ないように思われる。
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# by pfaelzerwein | 2008-01-23 05:22 | 歴史・時事 | Trackback

塩気の欠けた米国の話

d0127795_3335172.jpg不思議なことではない。独日協会の新年会で、既に通常に生活した期間は生まれ故郷よりもこちらの方が長くなりかけていることに、改めて思い知らされる。

日系米国人が、スライドで映されている日本の映像をみて郷愁はないかと訊ねるので、「エキゾティックでしかない」と答えた。どうも不思議なことに旧ソウル生まれの彼には郷愁があるようだ。

一つには、知っているつもりで知らないことが多すぎるのと、また一つには知らぬ内に時代が変わって仕舞っていることに気が付かない場合もある。知らない明日香などを含む地方の情景や宇治周辺の美術館などの写真を見ても全く分からないのと、箱根や日光や水戸や益子の情景を見てなんとか想像できる状況がが入り混じる。

絵に描かれているのが有名な女性だと見せられて、清少納言が直ぐに出て来ないで、小野妹子などとお馬鹿さんな返答しかできないで失笑を買うのである。そのアジア趣味の人物が創作した米ゴマトルテは、写真の通りの代物である。

中には鱈のマリネーとカボチャが挟まれている。米は好みの別れるスシ米が敢えて避けられて味付けもなくもちゃもちゃとしていた。寿司でも無くサラダでもないので食べ方に困った。醤油をぶっ掛けて、粉山葵をつけるにはしのびなく、批評として、「米を炊く時に薄塩で味を付けろ」とアドヴァイスしておいた。

こうした米の食べ方は、個人の記憶を越えた文化的な記憶の一つと感じたのである。もう一つ面白かったのは、鎌倉の発音を尋ねられて、それは流石に米国流のアクセントはおかしいとバイエルン方言のその質問者に答えておいた。上の日系人に言わせると日本語はフラットに発音するべきだと言うのだが、どうだろう?

上のスライド映写の中にて、大根を干してある歳時記のような風景など多くの興味深く、美しい風景が散りばめられていた。そうした情景を絵葉書的と言うか、観光写真風と言うかは判断が難しい。しかし、有り余る観光資源が日本には存在していて、保護されているのも事実であろう。晴海周辺や隅田川の河口風景なども未知でなかなか面白かった。

東京と言うとそこを絶賛する北ドイツ出身の女性に先日初めてあった。日本の自動車会社から招聘されていた技術者のご主人に付いて最近二年ほど東横線沿線で生活したらしい。特に、渋谷界隈がお目当てのお出かけ先で、浅草や六本木周辺も悪くはないと言っていた。行動範囲の問題もあるのだろうが、時代性もあるのかと考える。それでも、人ゴミ嫌いの当方にとっては、珍しい人もいる者だと言うのが偽らざる印象であった。

東京のような都市がドイツにはないのは周知だが、ロンドンやパリなどは一極集中でそれに近い。しかし、彼女の言うようなカオスと活力と言うことでは、上海の方が遥かに面白いと思うのだがどうだろう。夏はドイツに帰っていて、東京を知らないと言うから最後に納得した。

上の日系米国人が、風花のことを鼻風邪と言った。それがどういうものかは少なくともこちらには分かった。

パン食でも米国とはこれ如何に?
米を食してジャパンと言うが如し。 福田赳夫
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# by pfaelzerwein | 2008-01-22 03:34 | 生活 | Trackback

制限されたカテゴリー

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グーツヴァイン(GUTSWEIN)と言うカテゴリーのドイツワインがある。これは名前の農園を表わすグートが示す通り、高級ワイン団体VDPが独自に基準を設けた醸造所のハウスワインのカテゴリーである。先日の記事でVDP会長が高級ワインへの入門者に進めるカテゴリーである。

一本五ユーロから八ユーロ台が一般的な価格帯である。このカテゴリーへの自主基準は、一ヘクタール当たりのワインの収穫量を75ヘクトリッター以下と定めている。これは最高級のカテゴリーグランクリュもしくはエルステスゲヴェックスが50ヘクトリッターと比較しても二分の三にも至らない収穫制限である。価格は、それらが二十ユーロ以上から六十ユーロ台まであるので、面積あたりの経済率からすれば大変収益率が悪い。

それならば購入者にとってCPが高いかと言えば決してそのようなことはないのである。なぜならば、土壌が違うからである。つまり地所によってはそれほどに経済価値が異なるのである。

もちろんこのカテゴリーには、最上級カテゴリーのような「手摘み」、「伝統的製法」などの細かな制約はないが、上の収穫量制限から大切に醸造して売らないことには経済的収支が合わなくなるのである。

さて、2007年度産のこのカテゴリーでは、フォン・ブールの7.7ユーロのものとA・クリストマンの8ユーロのものを比較試飲した。前者はキャビネットクラスの同カテゴリーのものに比べて飲みやすく快適なリースリングであるが、ミネラル成分が浮かび上がって来ない限り、個性が薄く飽きが来るかもしれない。後者は酸の香りが強くリンツェンブッシュの土壌の個性に極似している。しかし、時間が経つとどうしても残糖感などが出てきて、11度アルコールの弱いワインの欠点が出てくる。前者の上手に醸造されたワインに対して後者は素直に風味よく醸造されているのが特徴である。

総じて、現時点では価格が廉くアルコール11.5度の前者の方が酒飲みには明らかにお買い得で、質は後者が上回っているので同価格なら後者の方が初心者には価値のある参考になるワインである。

しかし、双方ともリッター瓶に比べて、1.6倍ほど高価であり、これを態々買うときにお買い得であるかどうかはあまり重要ではないかもしれない。また、この上のキャビネットクラスのワインと比較するとき、この価格帯のワインの存在価値はやはり薄れる。
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# by pfaelzerwein | 2008-01-21 05:46 | ワイン | Trackback

お手本としてのメディア

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承前)創作過程からその経済を見てきた。バッハ音楽の演奏実践においても、従来言われていたような「有機的で思惟的な構造」こそが、こうした「即物的な創作態度」にこそ相応しく、尚且つバッハの機会音楽としての生産の経済こそが、こうした合理化のなかでこそ可能であった時代背景に根ざしていることを思い起こさせた。

そしてそこから導かれるバッハ音楽の本質こそは、ヨハン・セバスチァン・バッハの家族における先人の情緒豊かな創作などと比べて一段と抽象化されて、プロテスタンティズムの本質に再び回帰しているのが、音楽表現での芸術化の集大成となった結果ではなかろうか。

こうした考え方は、音楽史的な思考であると共に、現実的な実践の中においても意外と容易に導かれるものだったのである。するとバッハの芸術において思惟な創作態度が、作曲家の子沢山の経済に基礎づいていることすら演繹されるのである。そしてそれがプロテスタンティズムの本質に他ならない。

自由意志によるかのようにテキストの採択によって左右される音響は、不安定な管弦楽の響きと相俟って、ルネッサンス音楽における故デーヴィド・マンロウの音楽実践を髣髴させるような狡猾で経済的なバッハ像を鋳造する。そのような実像は、大晦日に新聞で紹介されていた「まるで禅寺出身のようなバッハ像を実践する鈴木の研究」からも生まれているのだろうか?鈴木メソッドでもスズキ自動車でもない、オランダ人コープマンの薫陶を受けたこの日本のバッハを、2005年の中部ドイツアンスバッハでの初お目見えに続いて、我々のフランクフルトの会でもそろそろ一度体験してみたいものである。

最後に再び、ルーカス・クラナッハの絵画における当時の先進国であるオランダ絵画の影響やイタリアのそれを見る事で幾つかの発見があることを付け加えたい。前者においてはその表情や動きからの内省的な感情表現、後者においては特に一コーナーが設けられていた。ラファエロやペルジーノの絵の描写対象とその構図を、「イエスを膝に乗せるマリアと半年違いの赤ん坊のヨハネスが横からあやす姿」を並べて比較していた。そして、その表情と共に1490年の作品の背景が比較的抽象的なイタリアの山並みであるのに対して、1514年のクラナッハのものは御得意のアルプスと山城を遠景に森が描かれている。クラナッハの絵で特徴的なその背景の山や城や町並みである。これらは、余談ながらアルトドルフの絵画においてもアルプス越えの可能性のある描写について既に触れた。

研究者の見解としては、クラナッハもこの時代にイタリア滞在をしているのではないかとの強い推測があるようだ。しかし、問題の背景のアルプスや森や川や山城が、手分けされて、モデュールとして使い回しされていたことに加えて、ヒェロニムスシリーズのライオンなどが鬣の無い長髪のそれらしからぬ風貌をしている事から、デューラーの「ディノザウルス」のように、お手本がどこかに存在していたとするのが専門家の見解のようである。

それと同時に、アルプスの南北を往来する必要は北方人には今以上にあったに違いなく、それらに描かれている山岳風景が意外に、最も往来の激しかったブレンナー峠附近ではなくてより絵画的なスイスの山並みが数多く写されているのも興味深い。クラナッハの旅のスケッチ帳も展示されていたが、確定的な記述はそこには見つからないらしい。

さらに、背景としてもしくはゴルゴタの丘として毎度描かれている森の情景も、平素の環境を好んで用いたとする私見に対して、当時の欧州人の砂漠などへの無知がこうした代替となっているとする説明を聞いたが、それならばやはりアルプスの場合は実地で見聞してスケッチした場合が圧倒的に多いことにはならないか?

余談になるが、今回の展示会のクラナッハの展示室へと進むまでの空間に、多くの所蔵の常設展示の名画を覗くことが出来た。キルヒナー、ノルデ、ムンク、ピカソそれにファイニンガー、モネーやロートレック、ピサロなどは久しぶりに観た。セガンティーニのものは背景の岩峰が特定できなかったがベルゲル山群であった。それらを横目で見ながら行き来して、クラナッハの展示室へと出たり入ったりすると、それらのどれとも異なるメディアとしての機能を持っていることが印象深かった。

それゆえに今回のクラナッハ展においても、学校からの見学を多く受け付けているようで、午後に訪問したので学生はいなかったが年配の団体のバスは幾つか入っていたようである。そして、ガイドによって子供達に「ヴィーナスに寄り添うアモール坊やが蜂に刺されている情景」や「ダイアナに鹿に変えられて自らの犬に襲われるアクタイオン」などが詳しく教育的に語られるのである。

そうした英知が語られるとき、アレゴリーが説明されるとき、その話題は尽きないのである。余談ながら、終了間近、大判の「ヒエルニムスの絵」など数点あるブースに一人取り残された。それほど強い絵ではないのに、到底個人の日常生活空間に飾って置けるような絵ではないことが知れた。そう言えば、首の絵は持ち主によってその部分が塗りつぶされていたようだ。(終り)


写真:マイン河にかかる橋柱に飾られているのは、次ぎに開催されるファン・アイクの絵である。



参照:
北方への旅:デューラー
北方への道 (時空を超えて)
Bachs College, Ellen Kohlhaas, FAZ vom 31.12.07
腹具合で猛毒を制する [ 生活 ] / 2008-01-17
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# by pfaelzerwein | 2008-01-20 00:43 | 雑感 | Trackback

モデュール構成の二百年

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承前)蛇のように開いた目、しゃくれた鼻、厚い唇、小さなおちょぼ口の顔が、華奢で狭い肩、小さな乳房、細いウェスト、長い腿ぼねの肢体に乗るのが、頭である父クラナッハの好みに合わせて11人のスタッフが制作するクラナッハ工房の作品である。

そうして制作された作品は、クラナッハの「蝙蝠の羽を付けた蛇のロゴ」を入れたブランド商品として注文者に引き渡された。我々がその作品を、シリーズとして分類できるのも、その裸体などが掌を上に向けたり下に向けたりと、頭を傾げたり背景を動かしたりと、少しずつ細部を換える事で、唯のコピー以上の価値の作品を納入出来たその制作過程故なのである。

作品数にして同時代のデューラーが百作品を完成させているのに対して、クラナッハ工房は千の作品を供給している。それも、再版のコピーではなくてオリジナル作品としてどの作品も一定の水準を越えているのである。

ルネッサンスの芸術を思い起せば、なにもデューラーがせっせと擦って尚且つその版権を考えた版画ならずとも似たような現象にぶつかるのだろう。特定の注文主や特定の機会を離れた芸術作品としてもしくは独立した芸術家の創作としての認知へのその経済行為がこうした現象を引き起こしている。経済そのものが文化になって来るのである。

その後のバロック時代における音楽芸術なども、独立した作品としての用途と機会芸術としての用途が交差している時代例であろう。クラナッハの展示を後にして、レーマーカテドラルを右に見て、とっぷりと暮れたマイン河に架かる歩道橋を渡り、旧フランクフルトのザクセンハウゼン側から新フランクフルトの旧市街に戻ってくる。車をアルテオパーの方へ移し替え会場に入る。他には催し物が無く珍しいほどひっそりとしていてまるでベルリンのフィルハーモニー周辺のようである。コーヒーを飲みながら時間を潰し、プログラムを態々好みの女性の元へと取りに行き、先ずは今見てきたものを回想しながらメモを取る。

クラナッハの映像表現を初期のプロテスタンティズム芸術とすれば、バッハこそがプロテスタンティズムの音楽表現の頂点を築いたとしても異論はなかろう。その期間二百年にバロック芸術が興り既に終焉を向かえていた。

コンラート・ユングヘーネル指導のカントュス・コェルンの演奏会は、中ホールで素晴らしいバッハ家族を取り巻く声楽曲を堪能して以来、大変楽しみにしている。今回はバッハのカンタータをBWV172、182、21と三曲演奏した。そして今回も最近のバッハ演奏では、最も信頼置ける演奏実践と感じた。

最も分かり易い例がアンコールのカンタータ「心と口と行ないと営みと」BWV147の有名なリフレーンのアーティクレーションに顕著に現われていた。まさにバルターザー合唱団等と基本的には変わらなかったが、ここではその双方の差異を綺麗にア-ティキュレションとして歌い別けていた。そこだけ聞いただけでもこの合唱団の指導と基本姿勢の正しさが確認出来る。

そしてその姿勢は、今回三人のゲストを迎えた正式な五人の声楽メンバーを中心に徹底していて、その姿勢を管弦楽のアーティクレーションが合わせる。BWV182の「天の王よ、よくぞ来ませり」のコラールなどもそこに見事な綾が聞かれた。

要するにアーティクレーションへの拘りは、原曲が使い回しされようが、そこに付けられるテクストによって全く新たに生まれ変わるほどの音楽的な再生を齎し、そこから管弦楽的な部分部分と全体の組み合わせである作曲の妙がここに明かされる。

それは、「鳴りひびけ、汝らの歌声」BWV172での響きの美しさに、管弦楽的な多様性として、また面白い対位法的な究極の表現にも繋がっている。更に、「わが心に憂い多かりき」BWV21をこうして演奏されると、そのハ短調の調性が下げられたピッチゆえ(休憩後とはいえ三曲目なので一曲目のピッチとは当然異なる)のみならず全く違って響くのである。実際この曲は、当時のヨハン・マテーソンと称する音楽理論家から「テクストの退屈な繰り返し、好い加減な間合い」と厳しく批判されていたようで、推測するに先人の時代から躍進している作曲技法こそが槍玉に上がっている感すらある。

特にシンフォニアに続く二曲目の合唱などは、大バッハの家族の先人が実践してきたものを一挙に組み合わせて抽象化してしまっている快さが、そこでは殆ど苦笑しているかのようにすら響くのである。まさにそこにこそバッハの創作の世界があり、モデュールな音楽要素の扱いが、その後の二百年の歴史の中で、再び主観的な表現意欲を持った視点によって誤解釈されて行くのだろう。

これを聞いて思い出すのは、先ほど見て来たばかりのクラナッハ工房での制作過程で触れた作業方法そのものである。例えば習作様の数々で示されているような頭部の画像、体の特徴や背景の風景などは、現在の工業でなくてはならないモデーュル工法と同じく、必要なところに必要な形としてそれを埋め込むことが出来るように描かれている。

こうした絵画における制作過程がどこから生まれたかは興味深いが、こうすることによって、工房における分担作業を各々の得意とする分野に効率よく専念させることが出来て、ブランドマークをつける最低品質が得られやすい。更に、細部の取替えによって、シリーズ化された中で新作品を容易に提供することが出来る利点が生じている。(続く
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# by pfaelzerwein | 2008-01-19 02:36 | 文化一般 | Trackback

改革に釣合う平板な色気

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コミュニケーションにおける人の教養や直感が話題であった。ルターの友人でもある父ルーカス・クラーナッハの展覧会に行った。そこで様々なもの見つけたが、そのなかでも宗教改革の創成期における創作のアレゴリーなどは語り尽くしても語りきれない時代背景を感じさせた。

特に「砂漠の聖ヒロニムス」は有名で、方々で解説される見方が一般的な鑑賞法となっている。そして、こうした鑑賞法と 見 せ ら れ て い る 鑑賞者の視点を鑑みると、やはりどうしても「不釣合いな男と女」シリーズに目が行くのである。

夫婦ものは、ローマでも観光名所となっている「真実の口」の裁定シーンなども含めて、プロテスタントの教条的な表現が明白で、ややもすると平面的で底の浅いクラーナッハの画風と相俟って、鼻について態々見る気を起させない絵にしてしまっているかもしれない。しかし、今回の展示会におけるようなエンターティメントとしてそれが系統立てられて展示される場合、上の絵解きの盛んなアレゴリー表現と共に、鑑賞者の視点や思考が予め充分に考察された創作であることが充分に知れるのである。

この点に関しては、同時代のグリューネヴァルトの展示会における感想として、「ゴルゴタの丘の磔」を創造する様々な同時代の画家の中で既に比較対照した。ここでそれを言い変えると、アレゴリー表現による事象の抽象化と鑑賞者の現実環境の認識の両面が図られている。地面から強く太く生えた木のようなそれは、ドイツ人的な肉体的量感に「力感と衰退」を表現して、「そのなされた救済は、内的に力強く抵抗力を漲らせる」となるのだろう。

スコラ哲学から改革に至った経過における空間把握を「古い信仰」との差異として見る時、もしくはその差異の認知ゆえの認識の拡がりとして捉えることが出来る。ゆえに「古い信仰」からの視点は、例えばここでもマインツ大司教のブランデンブルク伯を聖ヒロニウスとして描いた絵にも同じように視差を存在させている。同じように、聖フランチェスカの絵を挙げておいても良い。

また、有名なルターの画像のなかでも、その妻カタリーナ・フォン・ボーラと並んだ衝立二枚組みのポートレート画は、敢えて庶民のような様相で描かれているようだが、その深みのない絵にやはり即物的な表現としてのメディア利用が意図されている。

旧約聖書のユディート記は架空の読み物と呼ばれているが、ここで描かれる彼女によって切断された克明な進駐軍司令官ホロフェルネスの首の描写もあまり気分は良くないながらも見ものである。その解剖学的に拘るでもなく、グロテスクとは異なる、今や血糊も付いていない太刀とユーディットの冷めた表情と切り取られた首の情けない表情ほどザッハリッヒな表現は少ないであろう。

同様な心理的背景をもったルクレチアとヴィーナスの対になった、二十世紀の画家キルヒナーが気に入り部屋に飾ったと言う、少女の肉体画像においては、「水浴びするニンフ達」シリーズ同様、全く透けた形式だけのベールで隠された女性器までを克明に描きながら、付かず離れずの「解釈不可能な微妙な距離感」をとることになる。それが、「エヴァ像」や「ヴィーナスとミツバチ像」の各々のシリーズになると明らかな教示的な意図をもって、改革精神の表れでもある「僧侶修道女との妻帯」に象徴されるパラダイスからの追放がアレゴリーに具象化されているのである。もちろん、魔女であるダイアナも忘れてはいない。

これらのシリーズを、まるで時間差があるかのように画面を少し替える事で、この世に一つしかない物を注文主に渡す手腕は改めて触れるとするが、古い信仰と改革派の双方から後々まで注文を受け、裕福な好事家の注文主には少女ヌード画像などを提供して、尚且つルター聖書の一グルデン(豚一頭の価格)もする豪華本を大量に売り捌いたことは、商業的な大成功のみならず改革への大きな貢献となっている。

なにやらこのように記述するとまるで売れない学術書を扱いつつ裏商売をするヤクザな出版社のようだが、「シカ狩の情景」などに見られる表現には、既に当時のヴィーンで芽生えていたヒューマニズムと、封建世界への厳しい視線があると言われる。またアトリエを構えたヴィッテンベルク市内では、出版のみならず画剤にも転用する薬品や香料・砂糖・菓子を売る薬局以外に、市議会のラッツケラーに続く第二の規模を持つワイン酒場を出し、自蔵ビールを方々に納入していたと言う。インフレに備えた不動産投資と不動産業で罰金を命じられた以降にも、市長として選出されている事から最後まで市民の信任を受けた名士であったようだ。

宮廷画家としての職業から、ヴィーンで知り合いお抱えとなったヴッテンベルクのフリードリッヒ・デム・ヴァイゼン候の屋敷を辞去して、市中にアトリエを構える。自由な職人芸術家から企業家への出世街道において、徐々に富を得て、プロテスタントの祖でもあるルター博士と親交を結びその信仰に一役をかった状況は、だからそれほど唐突には写らない。そのような歴史的な社会状況が、この画家の作品の背景にあって、現在においても有効に活きているからだ。

アメリカ大陸発見の数年後には、フッガー家はカリブ、東欧、インドに支店を開き莫大な富を掻き集めて、1509年になって初めてコペルニクスが丸く四角い世界像を示し、1517年になってルターの『95ヶ条の論題』が提議されるその状況は、クラナッハがメディアに託した目的と効果を、こうしてグローバリズムの大波の中でネットにおいて、その意味合いを考察吟味する社会状況と殆ど変わりないのである。(続く



参照:腹具合で猛毒を制する [ 生活 ] / 2008-01-17
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# by pfaelzerwein | 2008-01-18 03:21 | マスメディア批評 | Trackback

腹具合で猛毒を制する

d0127795_6483259.jpg昨日はフランクフルトへと往復した。いつもの会に出席するので、少なく無い交通費を有効に活用するために、クラナッハの展示会に行く計画を昨年から練っていた。

クラナッハからバッハへの流れは大変興味深かったが、これはじっくりと改めて考えるとして、いつもながら車上でのラジオ放送の中身に注目した。

それは、昨年韓国語まで含めた数各語に訳された教養実用書「腹具合」の作者でマックス・プランク研究所の教育部門の所長ギゲレンツァー教授のお話であった。奥さんも米国で高名な社会学教授であったが、マックス・プランクの所長のポストを得てドイツへと二人揃ってやってきたと言う。

何よりも興味を持ったのが医療現場における情報の認識問題であった。そこでは、リスク管理の問題として扱われてもいたが、先日から話題となっている保険や医療の問題として捉えるとその議論の重要さが分かるのだ。

生物学をミュンヘンで学んだこともある教授は、乳癌の早期発見検診などの価値を統計学的に分析すると、その検査によって救われる筈の二十五パーセントの延命効果が実は生存率にして0.1%の意味しかないことを、疾病による死亡率以外の要素を挙げてもしくは癌検査陽性における実際の疾病率などを挙げることで論ずる。

ここまでは、先頃書いた個人的な信念めいたものの考え方「医者・薬要らずの信念」とよく似ているが、さらにBLOG「作雨作晴」で「人間と自然」と題して「高度化した医療の恩恵を被るべき人間自身の生命力は、肉体のみならず精神的にもむしろ退化」として書かれていることや、BLOG「雨をかわす踊り」で「異学の禁」と題して「この医師はその種の専門家だった。自分が習ったことを疑いもせずに(この疑いがないのだから「西洋医学」という名もつけるべきではないと思うが)覚えこんで、自分の情報にない事例にはお手上げだったというわけだ。」とより高度な立場で御二方が批判されている見解が、全く異なった視点からの上の教授からの提議に相当しているのである。

つまり教授の考えは、BSEや鳥ウイールス、先頃の英国でのピル騒動もしくはAIDS感染等に反応する社会を見て、現在の社会でのそれらの情報の受け止め方から、どうしても基礎教育においてこうした統計的な把握を身に付けられるようにしなければいけないとしている。

同じ姿勢は、学者における社会性の欠如として、人文科学者よりも自然科学者の方が社会性があり、そうして実証性が頭脳の中での行いではなくて学会などを含む協調作業として存在することを、より一般的な表現で語り表わしている。要するに人間が本来もっとも必要とする直観力をして、それをキーワードとしている。

教授の見解にコメントすれば、毒を毒で制するのはやはり容易ではないが高度に発達した文明の中で文化的に行える唯一の対症に違いない。BSEなどへの過剰反応にしてもそこには工業化された食品供給のビジネスが存在して、避妊ピルにしても、医療全般にしても産業化されて、全ては資本の回収に向けられていることを忘れてはいけない。こうした猛毒を、ほんとうに高度にアカデミックな教育でなくて基礎教育においてもしくは人間の教養や直感と言うソフトにおいて制する事が出来るのかどうか、関連の話題でももう少し考えてみる。
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# by pfaelzerwein | 2008-01-17 06:51 | 生活 | Trackback

魔物が逃げ隠れるところ

ヒラリーと言えばやはり先週亡くなったエドモンド・ヒラリー卿である。決して、大統領候補ヒラリー・クリントン女史ではない。

既にこの訃報は世界中に流されて周知であるが、特にアポロ月着陸のネイル・アームストロング船長の言葉や業績と比較されるとき、改めて第三の極の登頂が二十世紀後半で大きな意味を持ったことが知れるのである。

比較されているのは其々二つの台詞である:

That's one small step for a man, a giant leap for mankind.

We konocked the bastard off.

月旅行は、中国人が計画しているように、近々行なわれて、再びその意味が考察されることがあるかも知れない。この言葉の通り、ワンステップであり意訳すると捨石となるようなものかも知れない。

しかし、エヴェレストは、他の二極以上に、今やヒラリーがザイルを率いた頂上直下のヒラリーステップですら固定ロープが張られ、延べ三千六百八十人が右往左往した。一日の最高記録は、2003年5月22日の百十五人と言うからマッターホルンの最盛期の一日のようである。二十五年後に無酸素で成し遂げたメスナーと揃って、ネパール国王に直訴したが、首を縦に振って答えられた入山制限も未だに実現していない。経済効果には替えられないのである。

神聖な山には、魔物が住むようになったのだろうか?ヒラリーとテンジンがやっつけたものは一体なにだったのか?

二十世紀後半を象徴するのは、極地競争で遅れをとった大英帝国のために成し遂げた一つの「終焉」であったように思われる。

and in the process I found my own voice.

そして今このように、ヒラリー・クリントンがニューハンプシャーの予備戦勝利宣言で語る。そこには、二十世紀の魔物が逃げ隠れしているのではないだろうか?
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# by pfaelzerwein | 2008-01-16 08:59 | 雑感 | Trackback

希望へ誘うオバマ候補

先週は、久しぶりに夜更かしをした日があった。ニュー・ハンプシャーでの米大統領予備戦のCNN放送のカウントダウンに引っかかって、開票まで二時間から最後までTVを付け放してしまったからだ。

画面を見ずに殆ど流して、PCに向い画像処理などをしていたので、ちらちらとしか見ていなかったのだが、ヒラリー・クリントンの勝利演説にしろ、バラック・オバマの敗戦の弁にしても、つまらない印象で、まだ始まったばかりとは言え、日本のそれとあまり変わらないような印象すら持った。

その解説を聞く気にもなれずに、また後で政策などを調べる気もなかったのだが、幾つかの新聞記事の中で、オバマのレトリックを取り上げていて、なるほどと思わせた。原文は、ガーディアン紙に掲載したジョナサン・レーべン記事のようだが、オバマの政治的宗教学となっていて興味を引いた。

明らかにヒラリーとは比較にならない、オバマのいつかの立候補演説においてもその演説の心地よさと高揚感は見事だと思ったが、まさにそれを解析している。この筆者は二人の政策上の相違である健康政策と幼児教育へのオバマの思考に、人々は牽き付けられるのではなくて、そのお説教に希望を与えられ魅了されているのだと論評する。

オバマは、二つの機構に属していて、一つは保守法曹界であり、もう一つは過激な黒人教会であると言う。後者のジェレミア・ライト博士のお説教こそが彼の演説の骨子となっているとしている。つまり、教会では白人人種主義者が、政治では経済的ロビイスト、黒人が、ハード・ウァーキング・アメリカンもしくは健康保険の無いアメリカンと替えられる。

しかし、オバマ自身は、ライトの教会への回帰を、「教会共同体への驚愕と、深い縁に一人取り残されないようにとの判断」として、注意深く無信心と信心の中間に立っているようだ。

また、その政策内容自体が先進工業国民にとっては、お馴染みの問題であって、米国のみならず世界中の国民に同時に語りかけているかのようでさえある。

だから、必ずしも救済がこの世に存在しなくとも、もしくはあの世が存在しなくとも、米国人を、世界を、黒人ならず白人までも、民主党支持者ならずも共和党支持者までをも、幸せへの希望を抱かせるのがオバマ候補の演説のレトリックであるようだ。その反面こうしたお説教にへきへきする支持者も少なくないと言う。

ブッシュ・ジュニアの米政界への最大の貢献は、ヒラリー候補がつまらないメディアイメージを振りまこうが、誰もが前任者よりもマシに見えるようにしたその実績であろうか?
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# by pfaelzerwein | 2008-01-15 03:18 | 雑感 | Trackback

お好味のテュルガウ牛

d0127795_46538.jpg久しぶりに食したチーズの紹介である。チーズは、乳製品がバイオエネルギーの余波か便乗を受けて値上がり気味にあるとしても、常時なにかを食している。しかし、その中からこれは紹介したいと思う新たな出会いは、同じスーパーで買いつけている限り、それほど多くはない。

だから、今回のものは少し味も違ってその気にさせたのだが、その実そこまで感動した訳ではない。通常高価なスイス製のチーズなのであまりあたらないということもあって、今回フランス製と比べてキロ当たり14.90ユーロと変わらなかったのが、これに食指を示させた理由である。

スイス製と言ってもあの臭みのきついアッペンツェーラーなどは、個性を知り過ぎていて不味くはなくても態々買おうとは思わないのだが、今まで知らなかったのが、このアルペン・ティルズィターである。

油脂45%以上のクリーミー感と臭みの無い味付けが気に入り、HPのPDFを読んで合点がいった。その頁ではアルプスのゆったりしたストレスのない牛から絞られた質の良い牛乳を原料に伝統的な小さなチーズ工場で手作りで出来たチーズとなっている。しかしよくみると、生産場所はテュルガウ州とあって、ボーデン湖から丘を上がっていった方のヴァインフェルデンといった場所である。

ボーデン湖を一周したことのある者なら大体このあたりの地形とか雰囲気が分るだろうが、何よりもその地名などからあの有名なミュラー博士の新種葡萄ミュラーテュルガウを思い出すだろう。

その通り、このチーズは、薬草とこのワインが配合されて、四ヶ月から六ヶ月寝かされるのである。こんなチーズを美味いと思わないはずがない。
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# by pfaelzerwein | 2008-01-14 04:07 | 料理 | Trackback

プァルツの真の文化遺産

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なんと穏やかな大気であることよ!我が屋敷を取り囲む甘い果実や覆いかかる栗は、南国の気候の良い証明であるぞ。

ワイン街道に別荘を構えたバイエルン国王ルートヴィッヒ一世の言葉である。プファルツVDP100周年の冊子の頁を捲る。

表紙裏では、現在の代表レープホルツ氏が、巻頭のご挨拶にて、かつてのように王侯貴族のワインリストのみならず高級レストランにもトップワインとして存在したプファルツのワインが、ここしばらくで再び世界的に注目を引いていることを挙げている。

その歴史的土壌を基本にした新たなクラス別けへとブュルックリン・ヴォルフ、A・クリストマン、ケーラー・ルップレヒト、ゲオルク・モスバッハーの四つの醸造所が指導的な役割を果たしたのは、1971年発効のドイツワイン法で、品種やマイクロ気象、土壌を総合する個別地所の性質とその価値を失った事への反動としている。

要するに、本来の意味を為さなくなったシュペートレーゼなどへの糖比重を基本としたドイツワインの法的格付けが、先日記したようなとんでもないアイスヴァインやそれどころか不凍液騒動を引き起こしたと遠因の一つであると言うことであろう。戦後の復興から高度成長期へと大量消費時代に、嘗ての農家がアイスヴァインなどを巧く貿易商を通じて高価に市場に売りつけたと言う時代背景も忘れられないが、現実にそれが甘いドイツワインとして世界での評価を落とす罠になったのは周知の通りである。

1998年のソムリエコンテスト優勝者で2003年にはマスターオブワインに輝いたマルクス・デル・モネゴは、プフェルツァー・ヴァインの多種多様性と同時に、そのグランクリュワインを称えて、その完璧に性格付けされた香りと深みは完熟した葡萄と切り詰められた収穫により齎されてて、世界的に見て憚るべきものではないと断言する。

そうした、地元における革新と伝統こそが、昨年ステファン・クリストマンをVDP会長へと押しやったとインタヴューでご本人自身が語り、ここ数年のプフェルツァー・ヴァインの質の向上への仕事振りを述懐する。

それは1990年代から始まった世代交代と伝統的な個人経営の家督相続が構造的に幸いしたとして、そのお互いの協調が他地域よりも緊密であったことを挙げる。その結果、過去五年間における文字通りの輸出の驀進に、「プファルツの辛口リースリングは、北方のエレガンス、繊細、ミネラル質と南方のボディーと複雑性を兼ね備えた」とされて、米国から始まって北欧、スペインそしてパリのソムリエにも渇望されるようになったと言う。

2010年の独VDPの記念年に向けて、現在行なわれている摘み取り前後と瓶詰め前後の協会による巡回を、外部スタッフによるコーチングシステムへと発展させて行きたいとしている。そのために地元VDPはモデル地域になると考えている。その内容は、ここでも既に論評を加えた。

また興味深いのは、ワイン初心者に何を薦めるかとの問いに、グーツリースリングと呼ばれる一流醸造所の基本ブランドワイン ― つまり法的には格落としのQBAであるが ― と答えて、「一本6ユーロから9ユーロのこれが、偉大なワインへの第一印象となり、願わくば最高級ワインの偉大な味の体験への関心へと繋がれば良い」と語る。

クリストマン会長が「ワイン地所こそが、プファルツのほんものの文化遺産である」とする土壌についても、二ページを割いて説明している。個別には、いつも紹介していること延長にあるのに他ならないので、そこに挙がっている二人の研究者の学術的報告の主旨のみを記す。

一人は、エルンスト・ディーター・シュピース博士で、プファルツ113箇所の土壌を調べ98種の異なる土壌を分類プロファイ化している。そしてもう一人は、ウルリッヒ・フィッシャー教授で、土壌とワインの味の関連を研究している。その結果は、感応テストにより次のように証明された:

ペッヒシュタイン(玄武岩をもった泥地) ― マンゴやブラジルのマラキューヤと桃やアプリコットの果実風味

キーセルベルク(雑食砂岩の骨子) ― ミネラル質で酸が強い

そしてこれら各々と同質な二百キロ離れた土壌においても同様のワインが出来上がることを証明しているようである。

更に概要としての土壌の性格が別途記述されている:

雑食砂岩 ― ミネラル質で緑(草、藁、ダイオウ属スカンポ味)香りと尖った酸
玄武岩 ― 蜂蜜、キャラメル、桃、丸い酸
ロートリーゲンデ層(ペルム前半) ― ハニーメロンとハーブニュアンス

各々、カスターニエンブッシュ、ウンゲホイヤー、イーディックの特徴と重なり、これらの土壌の性格が毎年の気候によって、最終商品の性質に転化する。最後の土壌においては、例えば2004年では加えて花が咲き乱れスモーキーになり、2005年ではスカンポや緑の豆の味が加わるとしている。要するにこれが自然であるとしていて、キャリフォルニアのシャードネーが毎年同じ味である不思議さが喚起される。スローフードとかバイオ食品に興味がなくとも、自然の素材で作られた食品がいつなんどきもスタンダードな同じ味わいを維持する方が全くおかしいという事だけでも言及して筆をおきたい。



参照:
VDP 100 Jahre Spitzenwein in der Pfalz - Highlights 2008
土壌の地質学的考察 [ アウトドーア・環境 ] / 2006-05-09
VDPプファルツへの期待 [ ワイン ] / 2008-01-07
理想主義の市場選抜 [ ワイン ] / 2006-11-23
減反政策と希少価値 [ ワイン ] / 2006-05-18
平均化を避ける意識 [ ワイン ] / 2006-05-08
化け物葡萄の工業発酵 [ ワイン ] / 2005-12-23
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# by pfaelzerwein | 2008-01-13 03:53 | ワイン | Trackback

枝打ち作業の行動様式

ワインの枝落しをまた見学した。天気は良いが、お湿りが少しあり散歩の者は殆ど皆無であった。兎に角、運動不足解消に散歩をしているのだが、これだけ見ものがあるとどうしても予定時間以上歩いてしまい、帰宅する頃には陽が暮れていた。

前々からフランクフルト在住の方のワインのHP「WEINGAU」を知っていたのだが、今回キーワード「ダイデスハイム」の検索で再会して、なるほど剪定へのかなりの拘りと、アマチュアーのワイン愛好家としての基本姿勢とその観察眼が改めて好印象を与えた。逆L字型の這わせ方の記述などなるほどと思わせるのであった。

こちらは、そう言えば昨年の試飲会の見学で詳しく手入れ方法にも言及されていたのだが、まだまだそこまでの関心がなくその内容はよく思い出せない。また春にはその話を質問することになるだろう。

そのような事情で、いたって観察眼も拘りもなく好い加減に散策していても、突如の発見もある。地所ウンゲホイヤーの斜面の最上部に小さい区画があり、酒場でお馴染みの醸造所のその葡萄を見ると、枝を切りながらもそのまま残しているではないか。つまり、剪定だけを終えて、針金を揺らす枝を取り除く作業を後まわしにしているのである。遠く目には、まだ枝落しをしていないように見えるのである。

しかし、これが素人には面白い。その枝落としの過程と選択がそのまま残されているのであるから、何を切り何を残すかの価値基準が見て取れるからである。そうして見ると、昨年に残された枝こそが太く老朽化して役立たずになっているのが一目瞭然である。葡萄は摘みとられた。そして、新たな枝こそが残される。

面白いのは、こうして切断後に枝が枯れて蔓から落としやすくなるのかどうかは判らないが、その横着のように見える作業工程である。想像するに、剪定は目のある者がやり、後の掃除はなにも分からない者にやらせるのだろう。

そのように思ってみていると、マイクロバスが大きな音を立てて上がって来る。暫らくする内に四・五人の男が、エアーのコンプレッサーの騒音の中で枝落としを猛スピードの流れ作業で行なっていた。農協ではなかったが、なるほどこうした行動部隊がもしかすると請負で作業をしているのかもしれない。

先日からの手作業でこつこつと庭師の如く働く枝落とし作業とこうした効率とマスを上位においた方法の差異がどうしても気になるのである。当然の事ながらこうした効率優先はそのワインの醸造コンセプトにも表れているに違いない。

しかし、その作業の差は摘み取りの差ほどに異なるのだろうか?しかし、少なくとも馬に牽かせて土壌を改良するか。トラクターにやらせるかの差よりも大きいとは思われるのである。見学する者にとっての大きな差は、その騒がしさの環境音でしかない。

枝落としの考え方は、再び春に詳しく尋ねるとして、先ずここではその作業態度の相違に注目しておけば良いであろうか。これはなにもワインの質の良し悪しの問題でなくて、環境の中での行動様式として先ずは見ておくべきであろう。



参照:ワインの質は剪定が重要! (ソムリエドイツ特派員便り)
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# by pfaelzerwein | 2008-01-12 02:52 | ワイン | Trackback

医者・薬要らずの信念

BLOG「雑に」のヒサダさんは、痛み止めの薬の商品名からドイツ語の原語を思い起した。

鎮痛剤でアンティ・シュメルツと考えた。その真相は判らないが、この言葉はその接尾に語を付け加えることで、一般的に通じる接頭にアンティを付けた複合語であろう。因みにデューデンとヴァーリックの事典をみると各々ANTIが付く選び抜かれた言葉を取り上げている。

その中で非常に日常的なのは、抗生物質を一般的に指すアンティ・ビオティクムで、薬を飲むかどうかは別にして年一度もこの言葉無しで過ごす人は余程皆近辺が健康に違いない。報道では、アンティ・セミティズム(反ユダヤ人種主義)を年に一度も聞かない人はドイツには住んでいない。アンティ・ファシズムは、それに反してあまり最近は聞かないだろう。女性なら、アンティ・ベビーが付くピルなどの用語を良く使うのかもしれない。難しいことを言う男性ならば、アンティ・テーゼなどは、ギリシャ語やラテン語のそれらの言葉に交えて頻繁に使わないとは限らない。

これ以外で自身が最近使った言葉では、年中休みを取らないイタリア料理店を指してアンティ・クリストである。薬は未だ嘗て目薬以外購入したことはないが、誰かがおいて行った古いアンティ・ビオティカ*などは熱が出たり痛みがあると試し試し投与して、効きが掴めたら思いきって増量気味に投与する。一週間以内には必ず効果が表れる。塩加減と同じで、誰よりも自らが最もその効用を実感出来なければ投与の意味がない。

実は私自身も、数年前の心臓周辺の胸の痛みが、最近は肋骨の下部へと移動して来ている。あまり気分が良くないのであるが、決まって心理的なストレスと共に表れるので、神経性のものかと考えている。先ずありえない突然の心臓の疾患の痛みよりも、大腸等を含めて内臓疾患の可能性はない事もないのだが、これだけ巧い具合に痛みの位置が変わってくるとなると、やはり臓器にはあまり係わりがなさそうである。

明らかな運動不足から血液検査をすると決して良くはないことは充分承知している。検査や医者などに行くと心理的に病気になる事が判っていると言うか、調子が悪くなればどうしても医者に掛からずには居られないのが病気なのである。検査も、内科の診断を基に、ある程度自身で検査対象を選定出来ないようなものは見落とされることが多い筈である。先ずは、自身で観察**するのが重要であるとの信念を持っている。

そう言えば、英国ではそのような運動が政府主導で始まっているとか目にしたが、適正な検査で最終的な医療費を押さえる国民教育以上に、先ずは保険制度などの改正が効果的であろう。


* 古い薬品は、効果があるのか、化学変化で全く異なる毒薬になっているのか、それは調べて見ないと分からない。そもそも早期に効果が表れない薬品投与は、誤りではなかろうか。
** 自己観察している内に、早期発見を見逃して手遅れになるのか、もしくは早期に治療しても価値があるのかなどを考慮しなければいけないだろう。
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# by pfaelzerwein | 2008-01-11 03:24 | BLOG研究 | Trackback

三種三様を吟味する

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2007年産の三つ目のリッターヴァイン、もしくは八種類目のリースリングワインを飲んでいる。

店先で飲んだ際は、喉飴を食べた後なので苦味すら感じて、その後も自宅でもそれに近いものが気になった。反対に、この醸造所の特徴である旨味が嫌味として浮かび上がっていたので否定的な印象を持った。

しかし、いまこうして燻らすと新車の天然レザーのような匂いがなかなか想像を羽ばたかせる。夕食前から少し胸がムカついていよいよ飲み過ぎかとも思ったのだが、このワインの酸もなかなか強く少し胃に沁みるのである。

その酸を感じると、あの苦味はどうしても後ろに追いやられ、むしろ和菓子の旨味のようなものを感じるから不思議である。

先日までの飲み過ぎの原因には、リッターヴァインの割安感に加えて、新鮮なワインの持つ清涼感が大きく寄与していた。その中でもA.クリストマン醸造所のそれは、アルコールが押さえてあって、柑橘系清涼飲料水の様に幾ら飲んでも飲み飽きず、喉も渇かない秀逸さがあって病みつきになったのが理由である。それに比べると、半パーセントアルコール度が高いフォンブール醸造所のそれは、量が押さえられる傾向があった。

それらに比べて、これの特徴は、後味に締まった苦味がある分、時間的な変化が長く味わえるワインである。少なくとも今の時点では、このメンソール系の乗る辛味はそれほど否定的な要素ではない。苦味のあるレヴァーなどには合うのではないかと、試してみたくなった。

葡萄は、買い付けしたものと自己栽培のものを含めて、ダイデスハイム・ルッパーツブルク圏内のぶどうと言うことで、比較的安心して愛着を持って楽しめるものである。上の良さは、仕込みの良さによる特徴であり、反対に苦味にはどうしても逃れられない葡萄の劣化のようなものを感じる。手済みかどうかは確認を取っていないが、種などが交じった苦味かもしれない。それでも清潔感があるのは葡萄が腐敗しにくかった摘み取り時期の気候があるに違いない。

簡単に現時点で纏めると、酸の美味さでクリストマン、飲み甲斐のあるフォン・ブール、味の濃くではこのバッサーマン・ヨルダンとなるだろうか。

因みに価格は、全て一リッター6.50ユーロで揃えてきている。
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# by pfaelzerwein | 2008-01-10 04:19 | ワイン | Trackback

吹っ飛んだ休肝日

朝早くは雨が降り、風も強かった。そのためか、谷筋にあるモイスヘーレの地所はぬかるんでいた。数件の様々な醸造所が、キーセルベルク周辺の地所で枝落し作業をしていた。

何処の醸造所も精々二人ぐらいで作業をしていて、一人で乗用車を停めて作業している者が多い。葡萄の摘み取り時期のように急いで一斉に作業をすることがないので、出稼ぎ者ではなくて殆どが地元の人間のようである。

作業は特別急ぐ必要がないようで、枝を切る音が、蔓を這わせる針金を揺らしながら静かに響いている。協同組合の者はエアー補助式の刈り挟みを使っているようだ。何れにせよ植木屋と同じで良く刃を磨いでいないと意味はなかろう。

温度は高いといっても雨上りには、余程物好きしか歩いていない。先方も静かな作業をしているので、枝落としの間に顔を合わせて会釈することになる。こちらは、勝手にこうして静かに歩いていると、まるで作業状況を確認する検査官のような気持ちになっている。

昨年の春から頻繁にワイン地所を散策しているので、春まで歩くと一年を通して葡萄の成長を見守ることになる。枝落しの時期は済んだところとその前の風景の相違が大きいと、バッサーマン・ヨルダンの店先で新年の挨拶の後、話をした。

区画から区画へと歩くと、枝落しが済んだ左手は厭に風が抜けて清々しく、春の兆しを感じる。しかし道の右側は、まだ終えていなく、空気が淀み雨上がりの湿気が充満しているようである。これで雪が来れば、抵抗の大きい枝落しの済んでいない葡萄はやはりダメージを受け易いだろう。

最も感心に枝落としを早く終えているのはフォルストのモスバッハ醸造所である。その差が直ぐにワインの質に跳ね返るとは思わないが、そうした小まめな畑作業は万事につけよい結果を齎すに違いない。少なくとも2006年にはその恩恵が表れていた様に感じた。

リッターヴァインは、クリスマスに既に購入出来ていたようだが、キャビネットのリッター瓶は二週間先ほどに試せるようだ。キーセルベルクのキャビネットも愉しみである。

外は再び強い風が吹き出した。休肝日も吹っ飛んでしまった。2007年産のOBAリッターヴァインを飲みながら、枝落としを終えていないホーエンモルゲンの写真を眺めている。
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# by pfaelzerwein | 2008-01-09 03:55 | 試飲百景 | Trackback

中国式英語で新春日和

量は超していないが、ここらで休肝日が必要な気がする。クリスマスから備えていたリッターヴァインを次から次へと空けて、ひっきりなしに飲んだ。そろそろメリハリが必要だ。

昨日は陽射しもあり暖かかった。少し新春らしくなるとどうも緊張していた体が緩み、彼方此方とだるい。あまり、なにも手につかない週末を過ごした。

面白い書籍の書評なども準備してあるのだが、なかなか読む気がしない。しかし、新聞を見て笑えたのは、中国式英語(CHINGLISH)とある幾つかの直訳の新語である。

昨年の秋頃に中国のメディアに載って、世界に流されたようだが、先日初めて読んだ。

先ずは、和平时期禁止入内(和平時期禁止入内)をどのように英訳するか?

No entry on peacetime

非常口だと分っただろうか?因みにドイツの表示だと:

AUSGANG - nur im Notfall benutzen !


次ぎのは少し問題のある表示かも知れない。既に中国語が:

变形人厕所

これを英訳すると:

Deformed Man Toilet

ドイツの表示であると:

Behinderten WC


さて食事にするとして、先ずは童子鸡(童子鶏):

Chicken without sexual life

麻婆豆腐は:

beancurd made by a pockmarked woman

それを再び中国語に訳すと「麻子脸妇女做的豆腐」となり、どうも歴史上この愛される四川料理の発案者は、痘痕だらけの女性であったようだ。

夫々に修正されたが、オリンピック本番に期待させてくれるエピソードである。本日は、朝から雨が降ったが、その後は晴れて暖かく、五時過ぎまで外を歩ける新春らしい体の緩む夕刻であった。
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# by pfaelzerwein | 2008-01-08 03:17 | 雑感 | Trackback

VDPプファルツへの期待

2008年は、高級ドイツワイン協会VDPプファルツの百周年が祝われる。多くの催しが、三月のイルミネーションに始まり十一月まで計画されている。

そもそもVDPは、Der Verband Deutscher Prädikats- und Qualitätsweingüter e.V.の略で19世紀に横行した混ぜ物のパンチワインに対して自然な高級ワインを売り物にオークションをした約百年前に創立した組織のようである。

各地域の前身母体は幾らか異なり、VDPとして組織された時期も異なるようだが、今年はモーゼルザールとプファルツが百周年を祝う。双方のジョイント企画もあるが、特にプファルツは、昨年秋VDPの代表に地元のクリストマン氏が選出されたことで、華やかな様相を呈している。

現在、プファルツで26件の醸造所が選考基準を満たしてここに加盟している。この団体に加盟しているからよいワイン醸造所とは言えないが、所謂高級ワインを上手に作るワイン醸造所は全て加盟している。

そもそも、高級ワインのその基準を時代に合わせて決定して行くのがこの団体であり、その歴代団体幹部となる醸造所の発言権が強いことは外部からでも良く知れる。反対に、その基準に不満がある醸造所は脱退して行き、ドイツワインのメインストリームから外れる事となる。

高級ワインとは、一体何を指すかは、何度もここで繰り返しているので、安易な定義はしないが、消費者であり愛好家である我々は、その現在の方針による成果を厳しく審査して、購買を決定して行けばよい。この団体以外のワインが高級と思う者もあれば、高級よりも美味いワインがあると思えばそれを購入すればよいだけである。

ただし、こうした名門が集まった指導的な団体の方針と外れ、独自に主張をして行くことはやはり難しく、ロビー団体でもあるVDPの方針は法制上も尊重されるものである。例えば、EU議会で見送られた、加糖によるアルコール度の水増しの禁止法案などはこうした団体の高品質のワインには殆ど影響がないかも知れないが、一般のモーゼルやアール周辺などのワイン農家にとっては死活の問題であったことも事実であろう。

その意味からもVDP加盟の醸造所はエリート中のエリートであって、ワイン産地の地元でもスーパー買いをする一般消費者にとっては縁遠い存在かも知れない。現時点で、リースリングワインなら最低一本5ユーロは支払わないと買えないからだ。すると、通常のレストランではグラス一杯がこの価格以上になり高くてなかなか飲めない。

さてその品質や哲学は、前任者の不凍液混入スキャンダルで傷ついたドイツワインの名を救済したナーエのカトリックのプリンツ・ツー・ザウル氏に代わって、プロテスタントのクリストマン氏が代表に就任して、それを継続しながらもよりバイオ農業への集中が予想されていることは、ここでも取り上げた。具体的には、今後その最低基準が何処まで底上げされるかにあるかも知れない。

コンセプトでもタクティクスでもないが、これはドイツワインの商品イメージとしての前者でもあり、世界市場を狙った後者でもあるのは断わるまでもない。そうして、アメリカ大陸のコーラワインとの差異を明らかにして行くのが肝要なのである。そのような事情を旨として、戦後の民主主義的なNPO組織は極端に走ることはありえないのだろう。

その歴史を見ていると1971年の法律改正によって、呼称からも「自然」と言う言葉を使えなくなったのはなるほどと思わせる。伝統的な醸造や葡萄作りは存在しても自然などはありえない。その意味からも土壌を活かすグランクリュ制度を、歴史的な地所の土地の強さに従って、2001年からVDPが独自に導入制定している。所謂、エルステス・ゲヴェックスもしくはグローセス・ゲヴェックスとドイツ語圏以外では受け入れれ難い呼び方を使用して、基本的には辛口のリースリングワインを各々のVDP醸造所のフラッグシップとしてリリースされている。

歴史的に食物連鎖に優れ肥沃な土地であり続けたグランクリュの土壌において、耕地面積あたりの収穫を極力押さえたこのカテゴリーのワインは、二年以上経ってから初めてその真価を発揮するリースリングワインであり、抽出される要素が凝縮しているので十年後にも楽しめる商品価値が設定されている。

これは、過去にスキャンダルがあったような高価なアイスヴァインを筆頭とする甘口のどうしようもないワインの国際評価を払拭する方針としての最高級辛口リースリングの格付けであり、これの評価を持って硫化物の多量混入したVDP以外の醸造所からの質の悪いアイスヴァインなどを早く市場から駆逐してもらいたいものである。

写真は、プファルツの記念年のためのカードである。この写真の人物を二桁特定出来る人は業界人であろう。
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追記:懇意の醸造所がこの団体に加盟していないのを発見した。最近は買っていないが規模も比較的大きく名門であってなかなかよいリースリングを醸造している。当然ながら加盟して指導的な立場にいるかと思ったがいなかった。先代を含めてそれほど偏屈の親仁さんにも見えないのだが、一度理由を聞いてみたいものである。しかし、その独自のコンセプトを説明するにはかなりの広報活動が必要になる。謂わばVDPの基準は工業会でのISOみたいなものである。業界団体のガイドラインに乗せるその効用の方が大きいと思うのだが、様々な考え方があるのだろう。確かに、そこのワインは、充分に選ぶ必要があったのも事実である。



参照:
加盟醸造所リスト
VDP-PFALZ
文化的土壌の唯一性 [ マスメディア批評 ] / 2008-01-03
技術信仰における逃げ場 [ 雑感 ] / 2007-11-06
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# by pfaelzerwein | 2008-01-07 01:44 | ワイン | Trackback

天下の場環境の把握

BLOGのある記事を読んで、空間把握の思い出に浸っていた。先日の夢の一部をなしていた想いでもある。

そして急に思い出したのが、初の欧州旅行時に感じた未知の鉛直方向の空間感覚であった。記憶を辿れば、ケンブリッジかロンドンにおける建造物に対するその感覚の覚醒であったかも知れないが、そのあとのイングランドでの短い滞在中にはそれを感じることはなかった。むしろ平面的な拡がりが高速M11を走るときの強い印象であったように覚えている。

その後の行程では、パリへと向ったが、エッフェル塔はおろかノートルダムを見ても全く垂直方向への視角は広がらなかった。そこからスイスへと向いマッター谷を詰めてツェルマットに入ると再び、マッターホルンの姿と共にその感覚は強まり、暗闇の大きな段差を登り、綱をよじ登って、雪の中を降りてくると、再び見上げる頂上はもうそれほどの視覚的な拡がりとしては捉えられなかった覚えがある。

しかし、その後、シュヴァルツヴァルトを越えて、フランクフルトから北欧へ飛び、デンマークから船で東ドイツを通ってベルリンに辿り着いた頃には、既に鉛直方向への意識は失せていた。そこからミュンヘンのドイツ最高峰へとロープウェーの山上駅から散歩をしたときには、再び鉛直方向への意識を強く持った。鉛直と言っても俯角も仰角もあって一概にその空間意識のありどころは探れない。ただ、その後の行程でもその感覚は殆ど得られなかったようだ。

実は、今日は朝から雨が降っていて、これが雪だったら大分感覚的に異なるであろうと想像した。オーバーストドルフの雪に閉ざされた冬景色と空気とその文化的な特徴を想った。先日触れた儒教や国学の意識を辿っていくとどうしても、こうした環境とは無関係ではないことが良く分かるのである。

もっと分りやすく顕著な例がプロテスタント教会の鋭塔であるが、先端恐怖症でなくとも、それに子供の頃から馴染んで居なければ、チューリッヒなどの教会の天を突くそれに注目しないものは居まい。そのような傾向は、ゴシックであろうが、ロマネスクであろうがカソリックの教会からは感じないであろう。アルプス以北で最も重要で大きなスパイヤーのドームにしても、その実際の高さは巨大さに隠されて誰も感じまい。ケルンの有名なドームでさえシルエットの美しさは感じても峻厳さは殆どない。常識的な印象をここに述べるつもりではなく、そうした建築に表れた宗教的な理念以上に、自然環境が人類に与える空間意識がそうした表現として用いられていることに気が付く事が重要と言いたいのである。

そこから推論して行くと、儒教や道教における空間感覚はやはり中国大陸のものであり、プロテスタンティズムがアルプス以北でなした意味合いも、その文化の南との流通の必要と共に非常に納得し易い。実際に、近代のアルプスの発見以前に、既に多くの絵画に背景として登場する垂壁類にはかなりにリアリティーを持ったものが散見される。ここで見つけたマッターホルンもその一つであるが、それ以上にデティールを抽象的に捉えたものも多い。

宗教的な背景としてスコラ派から宗教改革・カルヴァンまでの流れをこうした空間把握と対応させるのは一般的かもしれないが、そうしたアカデミックな創造も他の芸術のように原動力となるインスプレーションに注目すれば、形而下の議論のみならず当然の事ながら形而上の議論にも環境が大きな影響を与えているとすることも出来よう。

聖フランシスコの場合はあまりに有名であるが、トーマス・アキナスやダンテなども高度にまた垂直の壁に挑んでおり、その神学や思想に大きな影響を与えている。つまり、ここで、建築などにおける空間意識も実は環境から起された形而上学的な活動であるとするほうが妥当かも知れないのである。空間感覚は、なにも建築や造形芸術に形而上の意志を通して想像されるばかりではなく音楽や文学などにも直裁に表わされていると考えたほうが妥当である。

すると、「大極」の位置感覚もなんとなく中国大陸を旅行すると解ってくるのではないだろうか。もちろん国学の「天地のまにまに丸く平らか」も当然なのである。そしてここまでこれば、そうした環境がまたその感覚が社会の構造とその実体をなしていることが見えてくるようだ。

そして、そのような外界の影響を取り去ろうとする必然がアカデミズムには本質的に存在して、尚且つそうしたアカデミズムの作為が却ってこうした影響を吸引していることも中世から近世への歴史の中で繰り返されているようである。



参照:
Mountains - An Anthology, Anthony Kenny, 1991 - Introduction
文化的土壌の唯一性 [ マスメディア批評 ] / 2008-01-03
ポスト儒教へ極東の品格 [ マスメディア批評 ] / 2008-01-05
硬い皮膚感覚の世界観 [ 文学・思想 ] / 2007-11-15
名文引用選集の引用評 [ 文学・思想 ] / 2006-04-02
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# by pfaelzerwein | 2008-01-06 05:09 | アウトドーア・環境 | Trackback

ポスト儒教へ極東の品格

先日車中のラジオで、中国の今後のあり方として、儒教の可能性が専門家によって話されていた。しかし、同じ文化波の番組とは言ってもいつもここで扱うような高級な番組ではなくビジネス絡みの内容であった。

要するに、バーデン州にあるジーメンス社の売り払った部品工場を中共の資本が買い取り経営していると言う事象であった。何れにせよ中国の近代化の問題を、新儒教主義を触媒としてなんとか世界の中に取り込もうとする極東専門家?の考え方には驚かされた。

ここでも新儒教主義と呼ばれる日本の朱子学思想分析に関しては触れているが、そうした折衷のものでない純粋な儒教の利点を西洋文化との接点にしようとする試みには聞き耳を欹てたのだった。

同じように年末の新聞で、ここでもお馴染みのジーモンス氏が、北京からその現在の思想的な動きについて伝えている。つまり19世紀に始まった外界との接触がこの三十年においてあり得るべき方向が定まり、本年のオリンピックにおいて頂点に達するとの観方である。

アヘン戦争による列強から受けた屈辱と自己破壊については今更繰り返すことはないが、現在の状況を、「そこから稼ぐ収益よりもグローバリスム自体への懐疑が増大している」とIDの喪失への危機感を報じている。ここでも既に登場した俞可平教授は、「最終的には西洋が覇権を握り、中国の経済や文化的主権を侵すことになりかねない」としている。しかし、1922年に梁漱溟(Liang Shuming)が目指したような近代化とそして世界の中国化の理想が上のラジオ番組で示された道なのである。

つまりこれはシンガポールが行なったような方法であり、新華大学の汪晖(Wang Hui)教授によれば、これは西洋近代を別格視してアジアをそれに近づく古代の前近代と見做すことになると批判する。実際にはアジア貿易あっての西洋の資本主義化と言うのである。それどころか13世紀の宋朝の儒教批判をアジアの近代化の祖とする。勿論これは宋学のつまり朱子学の新儒教主義の起りなのである。

そのような西洋主導の世界観への抵抗と懐疑は赵汀阳教授においては、更に激しく現在の国連は明確な世界ヴィションを持っていないとして、結局はナショナリズムの勃興となるとしている。

それゆえに、「天下」の概念に表わされるように、中国が中国所以である軍事・経済・文化的な中心として存在する必要が考慮される。つまり、周辺国には野蛮な文化があり、天下を修めて「真ん中の帝国」中華が、ヘーゲルが呼ぶ「継続する帝国」となる中華思想である。それは19世紀の列強に曝されるまで、その正統性が儒教のその概念によって証明されていて、途中のモンゴル族による同じ概念での支配を経たことは、その概念がナショナリズムでないことの証明とする。そして、こうした考えこそが世界の秩序でありえることを示唆しているのである。

勿論ジーメンス氏は、上からの支配に下からの民主的な意思が天空にぶら下げられる形で抱合される構造に、独裁者を持つようになるものではないのかと疑問を投げ掛けて、現在の資本主義的共産主義におけるポスト儒教主義が、一つの世界の「天下」のモットーであるかどうかは、ごく一部のエリート学者によってのみ議論されているだけだと指摘する。要するに数限りない厳格な国の規制は、「その中国文化が世界のものとなるかどうかなどは、我関せず」にしてしまっていると結んでいる。

その「天下」とは、宗の新儒教での形而上の「理」が、「気」をもって政治化した状態を指すのだろうか。その朱子学から徂徠学を通して国学への流れをして、日本の近代化への芽吹きをそこにみてとるのは丸山真男である。

「近世日本の思想が単なる 空 間 的 な 持 続 に非ざる所以、換言すればその発展性を最もよく証示すると考えたからである。結局、日本における近代的なるものの持つ二面的性格、即ちその後進性(第一の論点)と、それにも拘らずその非停滞性(第二の論点)」を、各々の論点に従って「儒教思想の自己分解過程を通じての近代意識への成長とする」論旨を、カール・マンハイムの「イデオロギーとユートピア」を参考に浮き彫りにしている。

このように中国文化や後期スコラ派から宗教改革への流れと比較して、朱子学の連続的思惟によって束縛されていた政治、歴史、文学等の諸領域が夫々その鎖を断ち切って、文化上の市民権を得て、政治は「修身斉家の単なる延長」から「安民」へ、歴史は「教訓のかがみ」から「実証」へ、文学は「勧善懲悪」から「物のあわれ」へと、「花から実へ」と固有の価値基準を持ちはじめるときの、その自立性を「分裂の意識」としての近代意識としている。

そして「近代思惟の困難性は果たして前近代的なものへの復帰によって解決されるかという点」を、「市民は再び農奴となりえぬごとく、既に内面的な分裂を経た意識はもはや前近代なそれの素朴な連続を受け入れることは出来ない」と、元来の儒教が持っていた形而上の合理性から天下に正当性をもつ国は聖人の道をもって治め、また事細かに形而下の人生論まで連続する壮大な教えに還る事が出来ないのは、なにも品格がとやかく言われる漢意を排した国学だけではないことを、ここに記しているのではないか。

これを執筆した二十歳台後半の時代を振り返って1974年に丸山は、その課題である「近代の超克」がしきりに論じられて、「先進国が担って来た近代とその世界的規模の優越性が音を立てて崩れ、全く新しい文化にとってかわられる転換点」におけるあらゆる知識人にとって「世界新秩序」の建設が使命であったと述懐している。それは、まさに冒頭にあった考え方の今日の社会背景かのようですらある。

ジーモンス氏が今日見返される歴史上の古代の思想に暴君への危惧を挙げるのと、丸山が全体主義的な社会での「古代信仰と儒教をはじめアジア大陸渡来の 東 洋 精 神 とが渾然と融合して美しい伝統を形成し、それが文化・社会・政治の各々の領域で歴史の風雪に耐えて保持されて来た。したがって、いまやわれわれの祖先の美しい伝統を 近 代 から洗い清めることこそが、 世 界 新 秩 序 の建設に対する日本の貢献でなければならぬ」とする当時の主張に対して書いたこの戦前の論文の意味は良く似ている。そして二人とも、一言も「民主主義」など薬にもしていないのである。



参照:
Alles Barbaren unter dem Himmel, von Mark Siemons, Peking 27.12.2007
丸山真男著「日本政治思想史研究」 - 
近世儒教の発展における徂徠学の特質並にその国学との関連
ミニスカートを下から覗く [ 文化一般 ] / 2007-09-17
ケーラー連邦大統領の目 [ マスメディア批評 ] / 2008-01-02
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# by pfaelzerwein | 2008-01-05 05:05 | マスメディア批評 | Trackback

ユーモアに佇む齧り付き

元旦の午前中に、ノイシュタットのビュルガーガルテンの辛口キャビネット2005年物を飲んだ。予想通り、既に経年変化の熟成が進んでいて、最初の頂点は過ぎ去っていたようだ。更に二年ほど経てば、地所の特徴である薔薇の香りが出てくるかもしれないが、味のバランスはあまり期待出来ない。まあ、もう一本あるが、あまり面白くないと思って、今更無理して開ける必要はない。最低二年ほどは寝かしておいて、僅かな可能性に賭ける。

しかし一般的に加齢による熟成は、決して否定的なものとは限らない。今年のノイヤースコンツェルトを指揮した、あのマリア・カラスの伴奏を多く務めた当時新進気鋭のフランス人指揮者も、今や83歳の経験豊かなマエストロである。そのジョルジュ・プレートルの最近の演奏は、やはりTVで少し垣間見た覚えがあるが、なんと言っても若い頃のイメージが強い。それが、ダイナミック且つ鮮烈な演奏として記憶にあるので、あまりこうした軽い演奏会は期待していなかった。更に初登場とは全く知らなかった。

それが意外にも、チャーミングさを振りまいていた、あの当時と変わらぬ新鮮さと更に幾らかの人間的な老獪さみせる指揮振りを楽しむ事が出来た。この新年の演奏会であれほどにこの管弦楽団特有のあの美しい響きを聞いたことは未だ嘗てない。やはり音が美しくなるのは、オッフェンバックであろうがシュトラウスであろうが、美点でしかなく、その楽譜を補うバランス感覚は立派なものである。

オッフェンバックは、色々な意味で聞かせるのは容易ではないが、こうしてヴィーンでフランス人指揮者が共同作業の成果を示すのを観るのは犬猿の仲の両国の今や仲裁役であるドイツから見ると喜ばしい。

オッフェンバックは、ここでも書いたが、その音楽以上にそれが持っている文化的な背景までを含めてとても興味がある。先日、偶々BLOG「在仏熊猫日記」のひでさんがリヨンの新演出「パリの生活」に出演すると読んで、早速ライヴ放送をネットで聞いた。どちらかと言えば、あまりに立派過ぎる印象があったが、France3で放映されるので時間があれば、じっくり観てみたいと思っている。

しかし、そうした欧州の共通の価値観と趣味や生活感の差は、会場に招待されていた中共からの高官の欠伸や挑むような顔つきにより以上コントラストとして表現されていた。オリンピックを前にしたランランの宣伝ともども大変な身所であった。

一度、BLOG「ドイツ音楽紀行」で話題となった映像と音楽伝達の時間差でバレーシーンを音楽に合わせる問題も、今回は会場のライヴに繋ぐことでより一層手が込んでいた。特に、VIDEOを強調した映像は、そのライヴへ流れ込む場面とのコントラストを強くしていた。数台のカメラを切り替える技術こそがこうした映像をライヴ音楽に合わせるキーポイントのようだ。

中共官僚の前に進み出た踊り子に必死にカメラを向ける典型的な高級お役人さんの姿がとても面白かった。
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# by pfaelzerwein | 2008-01-04 02:25 | 生活 | Trackback

文化的土壌の唯一性

元旦は、ノイヤースコンツェルトを観ながら、ワインを開けた。魚尽くしのつまみでのブランチである。その内容は、あとで述べるとして先ずは忘れない内に、その快い酔いのなかで観た二つのTVプログラムについて記しておく。

ラインホルト・メスナーがアルプスのヴィーンに発する西部から中部までの谷を廻る番組三回目を観ようとスイッチをいれると、地元のワイン街道を紹介する四十五分番組が前番組としてドイツ第一放送で全国的に流された。顔見知りが全部で七人以上、各々の町で登場していて、緊急録画が欠かせなかった。

In de Palz geht de Parre mit de Peif in die Kärsch.

「プファルツでは、プファイフ(煙管)を持って、プファーラー(牧師)が教会へ行くよ」

これを実践する地元方言で説教するオトマール・フィッシャー牧師が紹介されて、その親譲りのワインの農作業風景までが映されていた。城跡リンブルクでは、ケルトの遺跡の発掘風景やまた隣の山城では昔のように再び羊などが放牧され、またヴァハテンブルク城の足元では身障者が完ぺき主義で丹念な仕事をするワイン農業風景が映し出される。

そしてワイン栽培の大きな波であるバイオ農業に絡んで、ブュルックリン・ヴォルフの取り組みなどが紹介される。それに因んで、馬を使った土地改良作業などが映され、効果が出るかどうかはやって見ないと判らないと言う暢気さが、大変な田舎のように見えるから面白い。当然の事ながら土壌が全てであることが当主から語られる。

伝統的競り市を仕切る酒場ヴォイバウワーの親仁さんなどや日本の陶器を参考にした陶磁家やダイデスハイムの芸術家達の登場も断わっておく必要があるが、何よりも注目されたのはワイン畑を仕切る石垣のプロジェクトが、失業対策ともなり企業としてもなりたって来ている事実である。その伝統的な石積みが、バイオ農業のみならず社会事業ともなっている視点は、本命の後番組でラインホルト・メスナーが定義したアルプスの今後にも反映されていた。

メスナーは、「アルプスは、元々敵から逃れ身を護る人々の自然の防御壁として大きな意味を持っていたが、時代は観光と呼ばれる産業として、今度は町の人間を迎えるための観光資本となった」と語る。そして将来を考えると、アルプスの人は、その生活を、劇的な環境変化の中で、頑なに護りながら、如何に生きていけるかと言う疑問である。この登山家でEU議会の議員は、三つ目の選択を挙げる。今まで進められてきたような観光化とその影の観光化されずに滅びて行く村に、従来の山村を維持する第三の道を挙げる。そのためには部落として最低700人の住人が必要と言われる。一例としてハイジの谷で酪農を営む家族の生活の通学などの不便などの問題が語られ、またその高い高度で酪農される飼料の有利さから最上質のチーズ等が生産されることが示され、そこでは今後の可能性が継続の不安と共に模索される。

こうして二つの番組を通じて、グローバル化される世界の中で地域の特性であるものが、その中で生き残るための生活の基礎である産業力を持った経済が、如何に存在し得るかの示唆が与えられた。それは、昨日取り上げた、ドイツ大統領の言う、グローバル化の中での本質的な問いかけと大転換期に置ける問題解決への人類の智恵と可能性の尊重と実証に他ならない。

もう一つ忘れてならなかったのは、元祖ザウマーゲンのお店取材で、僅か5%の油脂と天然素材の香辛料の質に懸ける若旦那の商品説明は、如何にこのBLOGでの適当なお話がグローバル化した世界での生活のあり方と密接に結びついているかを、元旦のワイン街道紹介番組のなかで、証明していた。



参照:
Die Pfalz (SWR) /Dienstag, 1. Januar 2008, 16.10 Uhr im Ersten
Messners Alpen (SWR), 3. Vom Eiger zum Matterhorn /16.55 Uhr im Ersten
ケーラー連邦大統領の目 [ マスメディア批評 ] / 2008-01-02
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# by pfaelzerwein | 2008-01-03 03:56 | マスメディア批評 | Trackback

ケーラー連邦大統領の目

年末年始にかけての想いは人並みにあるが、どうももの心ついてからこのかた、その分断を充分に理解し切れていない。人並にカウントダウンを町の中や花火を皆で見て祝うドンチャン騒ぎを経験しているが、どうしても日付が変わったとしても乗り切れないのは、昔神社の近くに住んでいた時から変わらない。境目がない男なのである。

更に最近は、旧年度ベスト何とかも新聞に載っていても関心がなくなってしまっている。そして、クロニカル風の今年の出来事も全く興味がなくなってしまっている。なぜか判らないが、時間的な区切りがつかなくなって来ているのかもしれない。連続した時間の流れの中での、目印となるマーカーの付け方が異なってきているからだろうか?

それでも2007年度を振り返って、2008年度を見据えるに、年末にインタヴューが掲載された連邦共和国大統領ホルスト・ケーラーの見解は、年頭のTVに流されるメルケル首相のそれよりも遥かに興味が湧く。それは、政治の場からある距離を保ち、更に高次にドイツ連邦の現在の姿を代弁しているからであり、我々市民の新年度の心構えに大きな示唆を与える。

連邦大統領と言ってもその個性も知性も様々であるが、現役のケーラー氏の場合、その国際経済人としての実際家としての経験や判断力には一目置く必要がある。そうしたエリート経済人が共和国の最高権威の大統領としての自覚をもっての発言に耳を貸さない手はない。

その大統領の立場に関して、直接選挙制を模索しているのがこの大統領で、それは究極の民主主義としての任命権を国民が持つ事での強い関わりを考えているようだ。それゆえ、先日の会社役員の給与問題議論に対しても、ポピュリズムと思われる政治家の発言をも肯定的にみている。

それを、大統領に言わせると、国民がつまり社会の大多数を占める中産階級が、こうした微妙な問題にも自ら係わり、身近に考える事で、正しい判断を下せるとする、民主主義の基本に準拠しているからである。

同時に、マネージャーなどの社会のエリート層は、法的に縛られないでも、必ず議論の本質を理解して、自らを律していけると言う信頼性を前提としている。つまり、それは真のエリートであり、大統領自らが属して来て今も属している階層を指している。当然の事ながら自らへの信服と言う自照に達している。

大統領は、「シュヴァービッシュの人間は、貪欲だから満足することは無い」と、アジアの勃興に備えていかにドイツも鬩ぎ合えるかの為の改革を進展させる必要を指す。そして、「その改革が言葉倒れになっていて、国民にはへきへきされているのではないか」との質問に、改革が必要な意図を説明することこそが困難で、そしてその成果が表れるには時間が掛かるので、国民が理解できないかぎり改革も実現しないとして、如何に国民に呼び掛けるべきかを説いている。

その一つが、富の分配機構としての社会が機能しているかどうかの社会格差の大問題である。キルヒホッフ教授やメルツ議員の提唱する「簡素な税制」やその自由主義政策からは遠ざかっているのが連合政権下のCDUではないかとの質問に対して、「民主主義の基本には、国民が基本的な原則を理解することがあり、それを自己のものとして賛意を示す必要がある」として、「複雑な税制や予算機構は、国民の翻意を誘い、自らの支払い投与に対してなに一つ得られないとの思いに達した時、民主主義への信頼は崩れます。簡易な税制・社会機構は、私には民主主義と国の強化に繋がるのです」と述べている。

もう一度、見通しの利く社会とヴァイタリティーが経済にも影響するとするのは、氏が不公平なシステムと見做す教育の不平等に関して、社会の不公平を誰が認知するかの問いに答えて、それは収入の上から下もしくは上から下を見るものではなくて教育の現状をみる時だとした回答である。だから、教育がその安定した民主主義の基盤を築くとして、現在の連邦共和国の労働者層と特に移民家庭における教育の遅れを是正すべきだと強調する。

更なる「自己責任と自由」が富みの分配論議の中であまりにもお座なりにされている現状から、「平等はドイツ人の最も重要な価値か?」と問われ、大統領はSPDのヴィリー・ブラント元首相の言葉「自由は全てではない。しかし自由が無ければ何もならない」を挙げて、各々の才能を羽ばたかせ、自由な想像力を得る社会の活力とする一方、「幸せまで社会事業として組織されるものではない」として、「自由と平等のバランスはいつも拮抗している」とする。そして、それには「最終回答は無く、国際的変動の中での要求と社会の進歩によって形作られるプロセスである」と定義する。

つまり、大統領の意見は、最低生活の収入を自動的に保障するのでは無くて、それは「助成と請求が同時に働く形での政策」を言い、決して最低賃金によって競争力を無くし職場を破壊することではない。それを説明して、国際的にグローバルに通じる労働は労働市場が開かれることによって淘汰されるとする実際家の思考が働く。収入が平均化されることは誰も求めていないとする立場で、現在の国会議論とは若干の温度差が見られる。

具体的には収入や財産の議論は、一方においてはますます膨大な収入を得る層が存在して、その一方多くの中間層においてはややもすると実質的に収入が目減りして来ている問題を挙げる。そして、政治は大多数である中間層のために向けられるとして、ポピュリズムを否定しない姿勢を示す。

大統領が必要とするエリートこそは、こうした公平な教育の実施によって得られて、その収入や財産如何に関わらず才能ある者への機会均等と、同時に金満家には感情移入能力と模範となる行動が求められている。

それは、この大統領の回答に、「市場経済の認知放置をそのまま格差とする議論をエスカレートさせるべきではないが、無視してはいけない」とする基本見解から導かれている。また、自由と安全の議論は、60年代に十二分に議論され、それを乗り越えて来たのが連邦共和国であるとしている。

個別の政策、要するに盛り場での喫煙の禁止、海外投資家への規制、最低基本給の設定、失業保険給与の高齢化、反テロ問題と「米国に置ける自由とのアンバランス」そしてテロリストの基本的人権、子供の基本権と福祉などがコメントされる。

また、自身の出所から追放されたドイツ移民については、「両親は追放されたのではなく、両親がポーランド人を追い出した」と明言する。

グローバリゼーションの中で我々が生き残るためには、問題解決のために自主的な責任と判断能力を重視しなければ、間違いなく道を誤ると考える。

こうして大まかに大統領の考え方をなぞると、その大統領直接選挙へのアイデアや国民政党への警鐘の理由が明らかにされ、無党派層の増大に対する対策と考えているようだ。それは無論、格差社会に置ける中間層の崩壊と民主主義の終焉への危惧に端を発している。ヴァイマール憲章下における破局的な流れを配慮しつつも、現在の連邦共和国の基本教育の内容とその中間層国民への期待・信頼度が高いことと同時にエリート教育とエリート層の意味と意義がこの発言から伺える。



参照:
Zur Freiheit gehört Ungleichheit, FAZ vom 29.12.2007
芸能人の高額報酬を叱責 [ マスメディア批評 ] / 2007-12-28
文化的土壌の唯一性 [ マスメディア批評 ] / 2008-01-03
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# by pfaelzerwein | 2008-01-02 03:37 | マスメディア批評 | Trackback