覗き込んだ世界の裏側

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朝から暗かった。天気予報通りだったが、パン屋に行けなかった。寒いからである。気温はそれほどではないが、走るかと思うと寒くて駄目だと思った。ゾクゾクするというか、芯から冷えるというか、熱があるというほどではなかったが、これは無理してはいけないと思った。早くから起きていたが、ベットに戻って、昼過ぎまで寝た。このようんなことは久しぶりだ。前々夜の徹夜仕事が堪えたのだろうか?

祝杯を挙げた。文鎮化のタブレットが完全復活した。大懸案のMACアドレスも書き加えて、WiFiでも認証可能となった。三時間ほどは掛かったかもしれないが、二種類の可能性を交代に試しているうちにゴールにたどり着いた。アドレスの件は日本語では見かけなかった。恐らく、業界人は自粛しているのだろう。つまり書き換えとなると犯罪であり、とてもグレーゾーンだからだ。要するにデジタル認証などは、広告の排除やウイルスの開発やコピー防止などと同じで猫とネズミのおっかっけこなので、要するにネットビジネスだけでなくてデジタル技術産業などは砂上の楼閣でしかないことを、自ら体験することになった。

今回の大きな成果に、今までは開発者向けの巨大ソフトをDLしないとできなかったことが、小さなMiniADBというので代わることが分かって、開発でなくPCでコマンドを出すだけならばこれで十分なことが分かったことだ。それで初期化から何から全部可能だった。これは大きい、残しおいていつでも対応が可能だ。

MACアドレス書き込みソフトでは、最後の工程で適当なファイルを選ぶところが特に難しかった。今回は二つ、三つのイメージファイルのセットあれやこれやと試したことで、つまり最初から決定版には至らなかったことで初期化まで進んでしまったが、そのお陰でMACアドレスを消去しながらも最後は適当なファイルを他のバッチから選ぶことが可能となった。差し引きゼロで、その分この裏側の構造を学んだことになる。

これに関しては、誰もが疑問に思うのは、世界にただ一つしかない筈の機械固有のMACアドレスがなぜそれほど簡単に消せる領域に記録されているかということだが、これに関してはそれらしい説明がある。つまり固有ということは、一つ一つ記録するとなると大変なので ― 刻印を考えればそれ程大したことはないと思うが - こうした簡単な記録がなされているということらしい。要するに容易に書き換えられるということでしかない。

シナにリンク付きの電子メールを送った。するとそのリンクは見れなくなっていたということだ。そのリンク先は何でもない先日ツイッターしたタイム誌のネットで「サムフランシスコ市長死亡」の記事だった。少なくとも日本の修正主義者以外には全く政治的な問題のない記事である。そしてこうした検閲を目の辺りにすると中共を憎むしかない。やはりまだ日本の報道規制の方が少しはましである。そういえば先月には、北京から寝具を大八車に積んだような帰郷者の写真が新聞に載っていた。そのような開発の進む首都からの貧乏人の追い出しはシナでは報道禁止どころかウェイボウでも消去されているらしい。まるでアベノミクスへの批判報道の様な塩梅である。

これで漸く、日曜日の初日までにユロウスキー指揮「ジャンニスキッキ」をじっくり鑑賞できる時間が出来た。この間まともな料理をする時間が無かったので野菜の消費が少なく、古い野菜が溜まってきた。来週はクリスマス週なので、今週は野菜を買わずに消費してしまう週末となった。



参照:
脱文鎮化への試み 2017-12-14 | テクニック
祝脱文鎮化、興奮の夜 2017-12-16 | テクニック
ルート化の月謝代は如何に? 2014-09-06 | テクニック
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# by pfaelzerwein | 2017-12-17 00:31 | 歴史・時事 | Trackback

祝脱文鎮化、興奮の夜

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明け方まで仕事をしていた。いつ以来の夜鍋だろう。途中日本へ二本の電話を掛けて用を足した。頑張って起きていられたのは、机の上のタブレットのお陰だ。

遂に脱文鎮化を果たした。自らおめでとうと祝したい。一時はうんともすんとも言わない状況にまで陥っていた。しかしそれらの状況を今はすべて掌握している。そして予想通りにMACアドレスを失ってしまった。これは書き加える方法があるようなので試してみる。だから今はWLANをMACアドレス認証無しで出している。来客の時と同じ状態だ。アドレスを書き加えることが出来れば直ぐに元通りに戻せる。そして大勝利である。ANDROIDなんて怖くない。5日の時間が経過した。

件の機種はLENOVOのB8000という、そのプロセッサーからMT6582シリーズの派生とされる。少し以前の所謂中華携帯やタブレット類の多くがこれに属する。だから同じような問題とその傾向と対策をメモしておく価値はあるだろう。

その症状と問題は、同じようなグーグル機にもあるように、電源を入れると精々ブランドのロゴあたりまでしか進まずに、再始動を繰り返すというものだ。だからOSのアンドロイドが開かない。それどころか再起動するので終了が出来ないという悲惨な状態である。先ずはその状態を収めようとして誰もがするように電源抜きを試みるのだが、最終的には分解しないと駄目という風になる。

途中の度重なる試みは省いて、結論的にはSP Flash Toolというのがみそだった。それ以外にはなかった。これと所謂イメージファイルというのを探して準備してタブレットの内部に送り込むだけだった。それ自体は2日前ほど前から始めたのだが、拾ってきたのがロシアのサイトからで、それを信用し過ぎたのがいけなかった。そのイメージを焼き付けることで、少なくとも停止することも可能になり、充電まで可能になった。それでも再稼働のループから抜け出さない。そこで早めにそのソフトを使って、ブートローダー部分を除いた初期化をしたものだから、その時点でMACアドレスの入っているNVRAMの情報を消去してしまったようだ。それから更に初期化などを繰り返したが埒が明かない。それどころかモニターからも光を失った。それでもファイルを再度送り込むことが可能と分かったので、今度は全てを初期化する前にバックアップを取った。しかしどうも遅すぎた。

それでもFastboot getvar allと少なくとも日本語のサイトにはなかったコマンドを見つけた。これによって中身が分かるので、必要なファイルのアドレスや大きさが分かり、バックアップを取れる可能性が出てきたのだった。

そして最後の全初期化の前に、他のイメージファイルの可能性を見つけた。そこに入っているFlash ToolもV5とV3よりも進んでいた。そしてこれのイメージファイルを使うと直ぐにアンドロイドの響きが戻ってきた。やった。しかし心配していたようにMACアドレスが消えていた。これを再びなんとか書き込めれば完璧だ。

どんなアンドロイドの製品もこれで文鎮化を避ける方策が見えてきた。安心して使える。そしてアンドロイドも少なくともウィンドーズぐらいに分かってきた。やっとその禁則の意味合いも分かってきた。残念ながらどうもこの商品はアンロックが出来そうにないので、他のコマンドはあまり役に立たない。

早速、リヴェンジの意味を込めて、再びAdChoiceの無効化を行った。DAAというネット広告団体の元締めが提供しているその無効化のサイトである。大企業陣の広告を請け負っている現在の世界最大ネット企業陣の団体である。



参照:
カロリーだけでなく栄養も 2017-12-12 | 生活
脱文鎮化への試み 2017-12-14 | テクニック
室内で汗拭う週末 2017-12-11 | 生活
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# by pfaelzerwein | 2017-12-15 22:08 | テクニック | Trackback

良いこともある待降節

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悪いこともあれば良いこともある。ツアースキーに関してのプログラムに目が回らずに後回しにしていたら、人数分が埋まってしまった。仕方がない、あとは如何に動機付けを失わずにトレーニングをして、再来年に備えるかである。残念だが僅か一日のスイス行でも動機付けには良かった。残念だ。

そして郵便桶を覗くとルツェルンから厚い封筒が入っていた。指で弄るだけで中身は分かった。発注していた入場券だ。冊子ではない。

自分自身へのクリスマスプレゼントである。希望の安い席なのでそれ程の席ではないが、要は始まり始まりの最初の席を確保したことがなによりもである。

これで、キリル・ペトレンコ指揮べルリナーフィルハーモニカーのルツェルン初日と第二日目を体験できる。初日のリヒャルト・シュトラウスの二曲はそれほど期待していないが、歴代の指揮者が得意としていて、恐らく何人かはルツェルンで指揮しているだろう。そこが聞きどころだろうか?要するにフルトヴェングラ―から三人との比較になる。それでも一番比較対象になるのはサイモン・ラトルとクラウディオ・アバドの演奏だろう。誰よりも深い響きが奏でられるのではなかろうか?するとやはり晩年のフルトヴェングラー指揮との比較になるだろう。

フルトヴェングラーと言えばやはりベートーヴェンなのだが、その七番は台北での練習風景で楽しみになったのだが、イスラエルでの演奏以外はベルリンでの初日を待たなければいけないのだろう。ベルリンで一回、ザルツブルクで一回、そこで三回目の演奏になるのか。

二日目のプログラムは、四月十二日にベルリンで初日のプログラムで、デュカの「ラぺリ」も楽しみで、ワンワンがプロコフィエフの第三を弾く。後半のシュミットはWDRとの録音があるがどれだけの成果が示せるのか?ベルリンで三回、ザルツブルクで一回、都合四回目となると録音可能なほどの出来になるのだろうか。それが楽しみだ。

始まりの最初であるから、いろいろと予想のつかない面もある。ベルリンのフィルハーモニカーのルツェルン公演はツアー公演としては1958年来という。カラヤン指揮の第九だったようだ。つまりフルトヴェングラーはここでは音楽祭管弦楽団を振っていただけなのだろう。ルツェルンの音楽祭自体は何回も出かけているが態々ベルリンのフィルハーモニカ―やヴィーンのそれをそこに聞きに行こうと思ったことはなかった。プログラムとしてもそれほど興味をひくものではなかったからで、月並み感が強く、それならば近場で安くという気持ちが強かったからである。

それで思い出したが、旧ホールの時だったかもしれないが、ヴァルナ―・ヘンツェ向けの招待券を貰おうかと、地元の音楽マネージャーが誘ってくれたことがある。ラトル指揮のべルリナーフィルハーモニカーに招待されるというのだが、断ったのだった。ヘンツェと並んで彼の新作交響曲を聞くということだったが、彼の交響曲には興味がなかったということでしかないだろう。今から考えると、前半で面白い演奏が聞けたかもしれないのだが、ラトル指揮のヘンツェの保守的な交響曲はプロミスでも聞いていたのでもう沢山という気持ちが強かったようだ。

しかしこれで2018年は恐らくベルリンまで態々出かける必要もなくなり、ザルツブルクに出かける必要もなくなった。それらの旅費を考えればもう少し高額の席を申し込んでもよかったのだが、その程度の席の方が入手し易い可能性も高い。

前回出かけたのはクラウディオ・アバド指揮のスキャンダルの2012年で、六年ぶりとなる。新しい会場になってからもう少し行きたいとも思っていたが、これで再び切っ掛けになる。ミュンヘンよりも近いのが何よりもよい。将来的にもバーデンバーデン次第となるが、年間五つぐらいのプログラムはベルリンよりも身近で体験出来るのではないかと考えている。多くても年間二度ほどベルリンに行けば全てのレパートリーを聞けるのではなかろうか?



参照:
原発零でも電気零ではない 2012-05-06 | アウトドーア・環境
詐欺の前に凍りつく聴衆 2012-08-19 | 文化一般
遠隔から取捨選択する 2017-11-09 | 暦
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# by pfaelzerwein | 2017-12-14 22:20 | | Trackback

脱文鎮化への試み

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手が空くとTABLETの脱文鎮化に努力している。間違いなく若干の前進があった。それで元通りになるかどうかは別にして、幾らかは制御出来た。PCからの制御には、ADBとFASTBOOTという小さな二つの指令系統があるのだが、後者が初めて使えるようになった。

所謂システムイメージをRAMにPCから書き込むことが出来た。レノヴオはそれを提供していないのでロシアのフォーラムから落としてきた。問題はなさそうだ。そのRARファイルの中にスマートフォンフラッシュテュールというのが入っていて、それを使うことで上書きすることが可能になった。

どうもプリロードが動いていていればその間に制御可能のようで、書き込む間は端末機も安定していた。それでも分からないので頑張って6分近く指でボタンを抑えていた。無事書き終えて、リブートすると、今までとは違って、アンドロイドロボットは現れなかった。だから電源ボタンを押すことでフォーマットなどのやり直し作業に入らずに、再駆動を繰り返し続けた。その動き方も以前とは変わってきており、更にPC側にも必要なドライヴァーが読み込まれることから作動していることは明らかだった。

但し、画面こそ違ってもLENOVOのロゴの先には進まず、そこでリブートになるのは全く同じだった。しかしそしてなによりも改善されたのは再びリセットとファーストブートの画面が現れるようになったことだろうか。同時にファクトリーモードが以前のマンダリン語が消えてメニューも無くなっていた。要するに上書きされたようだ。よってFASTBOOTコマンドが使えるようになった。

それでもらちが明かなかったので、SMFlashToolでフォーマットを試してみることにした。勿論ブートローダーを消さない形で行ったのだが、それが成功するとTABLETはうんともすんとも言わなくなった。これで万事休すかと思って、PCを見ると裏では何か動いているのだ ― どうもそれがプリローダーと称するBIOSの様なものらしい。それでFlashToolで書き込みを試すとデーターが送られた。そして電源長押しにすると再び起動した。

今度はと期待したがやはりロゴでその先には進まずに再起動してしまう。PCの方にはLENOVOが消えて恐らく字化けしたキリル文字がに代わった。これがどういう意味かは分からないが、MACIDまで消してしまったとは思わないが少し心配だ。それでも元に戻るかどうかは別にしてAndroidへのノウハウは増えてきている。

そこでそもそもADBが使えなかったロックを外すというのを試みることにする。FASTBOOTでFlashing Unlock指令可能だからだ。実際に動くのだが暫くすると、「あまりにリンクが多過ぎる」ということでエラーが出て終了する。二回目は数十分と長持ちしていくのだが、結果は同じである。三度四度と時間が長くなって、今数時間経過している。本当に駆動しているかどうかは分からないが、裾う少し待ってみてもよいかと思っている。ウィンドーズでも上書き規制をざっと掛けて行くと切り替えに大変な時間が掛かる。問題はどこで見切りをつけるかである。兎に角、停止するようにもなって来て、プリローダー部分であろう充電画像も出てきたので、それはそれなりに制御可能になって来て、全く落ちていくという感じではない。



参照:
キットカットにリカヴァリー 2017-09-22 | テクニック
無いとなると想う有難味 2017-10-14 | 雑感
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# by pfaelzerwein | 2017-12-13 23:47 | テクニック | Trackback

年の瀬はロココ劇場へ

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年の瀬にシュヴェツィンゲンのロココ劇場に出かけることにした。春の音楽祭や昔日系のジュン・メルケルがマンハイムで振っていた時に出かけたりしたが、真冬に入るのは初めてかもしれない。その庭も寒い時に出かけた覚えはあまりない。

機会を与えてくれたのは、我がツイッターの9人目のフォローワーであるカウンターテナーのレイ・チェネスだ。カウンターテナーと言えばショル氏などには仕事の関係で挨拶したことがあるが、それ以外ではリサイタルでのルネ・ヤコブスなどが印象に残っている。そのほかバロックオペラでのそれだが、アンドレアス・ショルなどと比較して印象に残る歌手は記憶にない。だからあまり期待していない。

それでも今回出かけようと思ったのは、ポルポーラ作曲「ミトリダーテ」がハイデルベルク市劇場の出し物として演奏されるからである。ハイデルベルクの劇場では瀬戸内寂聴原作、三木稔作曲のオペラ「愛怨」を独日協会関係で出かけたぐらいで、これまた期待しないのだが、ラシーヌの原作となると、芝居を見に行くつもりで出かけても悪くはない。なんといってもポルポーラが作曲した作品なので聞いておきたい。

ポルポーラは、彼のナポリ楽派のファルネリなどとの絡みでも有名だが、なによりもロンドンではヘンデルなどの商売敵であって、調べるとダルムシュタットの楽長として出始めたのは知らなかった。人気のユリア・レジェネーヴァなどもレパートリ-にしているが、オペラの歴史をこの作曲家無しには語れないのではなかろうか。また久しぶりに行くロココ劇場も楽しみだ。そこでスヴェトラノフ・リヒテルを聞いた時も、椅子のギシギシ音が気になったが、もう一度、今の耳でその音響を確認したい。

来週のミュンヘン行きの準備も整えている。ミュンヘンの名門山道具屋シュスターに電話した。スキーを前回の訪問時に預けていたからだ。10月10日の日本からの凱旋コンサートに出掛けた時だ。電話で聞くと、「修理の輪っかの入手に時間が掛かり」ということだったが、直ぐに送るというので、来週取りに行くことにした。どうせクリスマスの買い物もあることだから、早めに出かけて一日掛かりのミュンヘン行にしよう。これで漸く前シーズンに壊れたツアースキー道具が元通りになる。

新聞にエルブフィルハーモニ交響楽団を辞任する指揮者ヘンゲルブロックの話しが短報として載っていた。ヴェルト紙での「曖昧なインターヴュー記事」からの話しである。2019年までを一年早めて辞任したのは、後任者アラン・ギルバートが一週間も経たないうちに発表されたことなどの不愉快な出来事をとぶつくさと語っているらしい。そもそもエンゲルブロック自体が我々の会の公演で育ったような指揮者で、バロックの一部の合唱レパートリーに強みを発揮していて、とってもヴァークナーや通常の大管弦楽団でのレパートリーに強みを発揮するような指揮者ではなかった。それは既にモーツァルトの「レクイエム」でも大した演奏でなかったことから証明されていた。バッハでも名演奏を繰りひろげた印象が無い。だから最初のうちは彼の指揮する定期の券を捨てていた。それでもドイツ語の合唱に強みがあったのだが、バイロイトまで出演するとなって明らかに勘違いしていると思っていた。

そもそもNDRの交響楽団自体がそれほど魅力のある楽団ではないところに、凡庸な指揮者が振っていたのだから上手く行く筈がない。後任者の方が適任かもしれないが、こうした放送交響楽団の首席指揮者の人選などを見ていると如何にも役人的なそれで、シュトッツガルトがとても危ない川を渡るぐらいで、如何にも凡庸な指揮者ばかりが顔を揃えている。SWFのロートなどはまだよい方だった。

そのような人に身近に接して、如何にも好きな芸事で生活しているのは羨ましいと思いながらも、同じ舞台で一方には現人神のような人がいてとなるとどうしても考えてしまう。皆才能に恵まれて、必要な教育を受ける機会があって、更に人並みならぬ努力をしても歴然とした差が存在している世界である。皆同僚とはいいながらその芸術的な評価などからあまりにもの格差は致し方ない。



参照:
ヘテロセクシャルな胸声 2015-11-22 | 女
コン・リピエーノの世界観 2005-12-15 | 音
クリスマスの第一祝日 2012-12-25 | 暦
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# by pfaelzerwein | 2017-12-12 23:50 | 文化一般 | Trackback

カロリーだけでなく栄養も

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雪は止んで、想定通り少し暖かくなった。それでも湿気っていて雨が降って肌寒い。週末に購入しておいたパン屋のシュトレーンを朝食代わりにする。バターが充分に入っていて比重が高いので比較的腹持ちがよい。ナッツ類も入っていてカロリーだけでなく栄養もある。

時間がある限りタブレットを弄っているので、食事などの時間が割かれる。目下の問題点は、前回の脱文鎮化では補助的な意味しかなさなかったPCによる制御であるが、これがなかなか難しい。PC側にドライヴァーをインストールなどした。それでもまだ充分にコマンドが可能となっていない。タブレットは再起動のループになっているものだから、もう少し弄って、電池を使い切った方がよいのかもしれない。時間を掛ける必要がありそうだ。

日曜日の夜は作業片手にベルリンからの放送を聞いた。引退するペレスがピアノを弾いたモーツァルトは大きな崩れはなかったようだが、その後のインタヴューは興味深かった。要するに彼女が語るに「ピアノを舞台の上で弾いていてもちっとも面白くない」というのだ。プロのピアニストとして、技術的破綻がないように一日中ピアノの練習をしているだけなのだろうから、もともとの技術的限界もあり、これ以上弾いていてもなんら希望が持てないということなのだろう。その理由にブラジルでの家族との時間を挙げていたので、要するにプロとしてピアノに向き合って技術を維持するための苦しい時間などは無駄ということらしい。ピアノを弾いているよりも貴重な自分自身の時間を大切にしたいということのようだ。その天分を考えるとそうなるのも分かるような気がする ― アルフレート・ブレンデルもいい時期に辞めたと思う。それでもインタヴューで、「チューリッヒでもう一度弾いて、日本に行って終わりだ」と語っていた。キャリアの最後に日本人の歓迎を受けて、たらふく寿司でも食してというのがこの手の演奏家のお決まりのようになっているようだ。それほど日本人は優しい。

日本で愛されている指揮者ブロムシュテットの演奏とインタヴューそしてナレーションはそれ以上に面白かった。先ず「座って指揮してもそのカリスマ性は変わらない」とナレーションが入るので、流石に東ドイツの名前でベルリンでは出ているのだと確認した。そのように評するのは東ドイツでのほかにはないだろう。更に驚いたのは息絶え絶えのインタヴューで、如何に極東ツアーで全力を使い果たして完全に弱っているのが声からも分かった。あの年齢になると、今日と明日、昨日と今日では随分と健康状態が異なる。

演奏自体は譜読みとその原典版の面白さは確認したが、演奏自体はまるでザールブルッケンの放送交響楽団が弾いている様な響きで、ベルリンのフィルハーモニカーはゲヴァントハウスなどとは違って、ここたった十年ほどの付き合いらしく、その稽古と指揮通りにしか演奏しないので、その指揮の技術的な粗さが見えるような演奏だった。ヴィーンのフィルハーモニカーとの演奏でもなかったことなので、如何にこの指揮者は客演には向かない指揮者だと思った。それも超一流ところに客演するような指揮者で無かったのはその経歴の示す通りだ。特に演奏前に流れた声を思い出すと殆ど気の毒にさえ思った。要するに90歳を超えたこの指揮者に高いアヴェレージを期待する方が間違っているのだろう。



参照:
待降節は四拍子だろうか 2017-12-10 | 生活
神無しに美は存在しない 2017-12-06 | 文学・思想
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# by pfaelzerwein | 2017-12-12 04:57 | 生活 | Trackback

室内で汗拭う週末

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雪に閉ざされた。日の出後は晴れていたが、予定通り降ってきた。明日は暖かくなるようだから一日だけだろう。

先ごろからタブレットのポップアップアドヴァタイジングが問題になっていた。いろいろ試したが改善しなかった。そして漸く対処出来たようである。特別危ないものをDLした訳ではなさそうだが、所謂大手のテレコムなどの全面広告が突然流れ込んで不愉快極まりなかった。そこで解決方法を纏めて置く。これに対処する方法が見つかって、無事に最新のAdChoicesを抑え込むことに成功したかに見えたが、挙動がおかしくなってリセットすることになりそうである。だから結果を待ってからしかないようには踏み込めない。さてどうなるのか?ネットビジネスのグーグル一派のアンドロイドの一部を壊したことになるのだろうか。

早朝4時前に起きた。楽しみにしていた「アインドイツェスレクイエム」の初回放送を見損なったからである。前回まではオンデマンドになっていたが、クレームがついて生だけになったようだ。とても良い放送だけに残念で仕方がない。文句をつけたのは、デンマーク放送かブロムシュテット側でしかない。宗教放送局としては泣く泣くだろうが、デンマーク側だとしたら誤った判断だろう。少なくとも生放送の期間が終わるまでは置いておいても管弦楽団などの宣伝にはなっても何ら被害は出ない筈だ。まあ、この放送を見てしまうとNHKでの実況放送録画を見る人は少なくなるかもしれない。オンデマンドでないと上手く再生できなく、音声だけは聞いていたが、折角ピアノを弾きながらのお話しだっただけに残念だ。

その代わり同じネットの文化放送で、「タンホイザー」制作の裏側を扱った番組が上がっている。カステルッチの「タンホイザー」を体験した人だけでなく、キリル・ペトレンコファンやフォークトファンにも見逃せないだろう。題名が「目に入る弓」となっているが例のおっぱい丸出しのシーンを裏側からというような期待にはそぐわない、しかしペトレンコの未公開のプローベシーンが50秒弱、またフォークトの一言があり、更にカステルッチへのインタヴュー、そしてバッハラーへのインタヴューに重要な情報があった。

それによると、「パルシファル」のあとは「トリスタンとイゾルデ」になっているようだ。1998年のコンヴィチニー演出は、フィリップ・ジョルダンが2015年に振っている。既に時代遅れの演出だろうから新制作になるのは当然かもしれない。疑問は、2019年になるのか、2020年になるのかだろう。バーデンバーデンとの絡みがあるのでとても気になるところである。



参照:
キットカットにリカヴァリー 2017-09-22 | テクニック
電話ケーブルの再敷設 2017-01-17 | テクニック
身震いするほどの武者震い 2017-09-27 | 音
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# by pfaelzerwein | 2017-12-10 23:29 | 生活 | Trackback

待降節は四拍子だろうか

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更に寒かった。積雪の方はなかったが、その分放射冷却で冷えた。就寝時にはヒータ-を切っていたが、薄く入れておくべきだった。零下になるかどうかが指針だろうか。夜中に目を覚ますことはなかったのだが、切ると余計に水音が圧の掛かったようになって良くない。少し流しておく方が静寂性が上がる。いろいろ試してみるべきだが、エネルギーを如何に抑えるかだ。

九時を過ぎても駐車場は零下だった。足元も緩むことなく風も強い。足音が凍てついた地面に鋭い音を立てる。流石にパンツを履いて手袋をした。バンダナは考えたがまだ必要な寒さではなかった。

日曜日は気温は上がっても吹雪が予想されているので、峠攻めで今週の走り締めとする。冷蔵庫よりも冷えていると吸気が難しかった。勿論鼻で対応しなければいけないのだが、鼻の奥がツーンとしてよくない。深くは吸えないので数を増やす。ジョギングテムポなので、呼気4吸気4の八拍子にしてみる。呼気は問題がないが、吸気の最後の四が苦しい。下りもあまり変わらなかったので、やはりテムポが落ち過ぎると吸気が続かないことが分かった。八拍子はアレグロ以上でないと厳しいことが分かった。

走りながら、管楽器の特に木管のことを考えていたのだが、多拍子になるとテムポが遅いと生理的にも厳しくなるのだなと思った。日本人などが六拍子を刻むのが難しいとか言われるが、意外にこうした生理的な原因があるのかしらとか、フレージングなどとは違うことを頭に描いた。今年は走る際に昨年ほど呼吸を意識していなかったが、ニ拍子でもなくてワンサイクルの四拍子をもう少し意識すると上手く行くのかなと思った。ゆっくり走ったので40分近くも意識して呼吸しているといろいろと勉強になる。

来週も放映されるNHKホールでのキリル・ペトレンコ指揮のラディオ放送の録音を流してみると思っていたよりも素晴らしい音が録れていた。ヴィデオを観た時にはそちらの方が鮮度が高いように感じたのは視覚的な錯覚だった可能性が強い。我々の様な人間でもそのような錯覚があるのだから、やはり映像が与える影響は少なくないと思った。

そう思って昨年のマイスタージンガーの初日のラディオ放送を流した。なるほど秋のヴィデオの時からするとザックスのコッホも十分ではなく、ポーグナーもツェッペンフェルトではなく、エーファーもあわわの歌唱でいけないが、アイヒのベックメッサーもカウフマンのヴァルターも魅力的で、銃撃事件さえなければオペラフェストでの映像が残っていたのにと残念である。恐らく五回目ぐらいの公演でカメラリハーサルをしているのではなかろうか?兎に角、貴重な資料が残っていることだけでも喜ばしい。こうしたヴァークナー演奏を聞くともはや大抵の公演の奈落の管弦楽などは聞くに堪えないことになってしまう。

週末は、「アインドイツェスレクイエム」の続きと、ユロウスキ指揮「ジャンニスキッキ」の動画で勉強の予定だ。金曜日は、累計5時間ほどオンラインが不通になった。ルーターが壊れたかと思ったが、そろそろ第二の回線を準備しておかないといざというときにこのようなことになると悲惨だ。日曜日は、ブロムシュテット指揮のブルックナーの実況中継ヤコブ指揮の「コシファントュッテ」などの放送がある。どちらが面白いだろうか?女流ピリスのピアノは内田光子のモーツァルトとは比較にならないのは知っているので興味が無い。

車中のラディオで聞いた、ビゼーの「アルルの女」で有名なフランドルと重ねられる主題がクリスマスソングだと初めて知った。なるほど歌詞から「三博士」なのだが、民謡をビゼーが流用しているだけで、リュリのそれでも思い浮かばなかった。オリジナルは四拍子なのか?



参照:
足風邪をひきそうになった 2017-12-09 | 生活
じわじわ迫ってくる感 2017-12-04 | 生活
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# by pfaelzerwein | 2017-12-09 22:53 | 生活 | Trackback

足風邪をひきそうになった

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風邪をひきそうになった。このシーズン初めてだ。理由は分かっている。裸で外気温が氷点に近いところを走り回っていたからだ。流石に上着はTシャツの上にフリースを着たが、下はショーツで走った。地面が固いと膝や腰にも堪える。それ以上に足腰が冷えた。これは以前はそれほど感じたことがない冷え性だ。暖房の効いた室内で机に座っていても膝から下が冷えた。こうなると足風邪である。二三日は元気が出なかった。

子供は風の子とかの言葉を知っているが、子供の時にも氷点に近いところを裸で走っていたかどうかは記憶がない。パンツを履くとどうしても走り難いのだが、注意しないと駄目なようだ。足風邪で全身の寒さの様な微熱感を感じるようになった。足腰の筋力は強化されている筈なのだが。

新聞の経済欄にEUに非協力的な税務当局のブラックリストに入っている国の名前が挙がっている。スイスだけではなくて、所謂パナマに相当する諸国の名前である。要するに以下の国とおかしな付き合いのある個人や法人は脱税まがいのことをしていると疑って間違いない。

先ずはパナマの中南米から、バルバドス、セント・ルチア、グレナダ、トリニダッドタバゴ、アフリカに移ってナミビア、チュネジア、バーレーン、アラブ首長国連邦、アジアに移ってマカオ、大韓民国、モンゴル、南太平洋ではマーシャル列島、グアム、パラオ、サモア、米領サモアとなっている。

韓国が脱税天国になるとは知らなかった。それどころかモンゴルとなると、日本ではいったいどのような人物がその黒いルートにいるかが想像出来る。明らかに広域暴力団などが入ってそこから彼の国に黒い金が流れているだろう。

切手を購入した。145セントのエルブフィルハーモニーオープンの切手が無くなったから補充したのだが、序に宗教改革500周年も注文した。ルターの顔の切手は頻繁に出ている気がするのだが、75セントのものが欲しかったので購入した。メキシコとの協調発行である。しかし来年になると直ぐに価格が上がって頻繁に必要になる切手の種類も変わる。



参照:
寂しき春の想いなど 2016-04-06 | 雑感
ラズベリーのアップグレード 2017-03-13 | テクニック
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# by pfaelzerwein | 2017-12-08 20:04 | 生活 | Trackback

趣味の悪くない劇場指揮者

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発表間近の次期バイエルン州音楽監督である、話題のユロウスキー指揮の中継録音を聞く。ロンドンフィルのオープニングコンサートの模様だった。既にコンセルトヘボウでの協奏曲の動画を見て分かっていたが、楽譜を片手にブルックナーの第五交響曲を聞いた。

結論からすると故テンシュテットなどが振っていたころよりも管弦楽が大分よくなっていて、流石に指揮技術では頂点にいる人の業だと感心する。その職人的技術で玄人評価が高いだけのことはある。問題はその音楽性である。先日のバイエルン放送協会の番組でも「デモーニッシュなどと言われている」と話しがあったが、その静的であり乍ら聴衆を揺り動かす音楽性に注視した。

基本的には、音楽をよく知っていて、流石に二代目の指揮者だけあって、破綻を来すようなことはしないでも十分効果を上げる実力を擁しているということのようだ。だからSWRに任命される指揮者テオドール・クレンツィスの様な非音楽的で恥さらしなことは全く無く、とても質も高く、それどころか風格すら感じさせる。同じような技能があっても如何に音楽に語らせるかどうかの相違だろう。この二人は年代こそ異なるが、音楽的にはとても良い対照関係になる。

とは言っても、ブルックナーの楽譜にアゴーギクなどをさり気無くしっかりと加えてマニエーレンをしている。それが気づかれないような形で、まるで音楽がそのように動いているかのような風情なのだ。所謂クラシックオタクのコンサートゴアーズには受けるだろうが、幅広くはどうだろうか?少なくとも上のブルックナーの場合は、なるほど素晴らしく鳴っていて、味わい深いのだが、この指揮者の演奏ではこうした名曲が特別な意味を放つことはないだろうと思われる ― 要するに比較対照の聞き比べでの対象の域を出ない。

最も期待されるレパートリーはルイジ・ノーノとかの20世紀の古典になるのだろうから、上の様な構成感などもあまり重要ではないかもしれない。そうした期待されるレパートリーとやや古風な演奏実践からすると、やはりこの人は典型的な劇場指揮者タイプだと感じた。劇場の奈落では、そもそも現実的な対応に迫られることからしても、前任者のキリル・ペトレンコ指揮の様な理想的な様式を追い求めるよりも、寧ろ音楽劇場としての最大限の効果が求められるからである。

その証拠にこの指揮者の協奏曲演奏は、ペトレンコのように合わせものであるよりも、表現の可能性を追及しているところがあり、立場は異なってもイゴール・レヴィットの様な音楽性の指揮者であり、共演を越えた演奏をしている。いい舞台を奈落から支えるのにこれ以上の指揮者はいないのではなかろうか?ソリスツが際立つだろう。早速身近でのコンサートを調べてみるとフランクフルトで三月にロンドンフィルを振って、チャイコフスキープロがあった。ネットで購入すると手数料を10ユーロほど取られて、40ユーロを超えた。これは高過ぎると思った。ノーノプロならば払ったかもしれないが、バーデンバーデンでのヴィーナーフィルハーモニカーやゲヴァントハウスよりはるかに高価だ。マネージメントも興業主も完全なマフィア組織である。そこまでの価値はない ― キリル・ペトレンコ指揮コンセルトヘボウよりも少し安いだけである!。

彼らの経歴から、容易にキリル・ペトレンコは劇場指揮者で、ウラディミール・ユロウスキーはコンサート指揮者と誤解している向きは世界中に少なくないが、少しだけでもその音楽の実践を分析すれば、そうした印象はただの蒙昧でしかないと直ぐに結論が下されて、事実は全く逆さまであることが証明される。

最終決定は、賞与などの交渉を終えてその金額などを入れた予算編成とその州議会での承認が必要となるので、体制が整ったキリスト教社会同盟の政治日程次第と書かれている。序ながら、ベルリンのコーミッシェオパーの監督バリー・コスキーが選から落ちてセルジュ・ドルニー支配人推挙となったのは、コスキーがそもそも軽歌劇の演出家であり ― 反吐が出ると悪態をつかれるほどに -、高尚な音楽劇場には向かないということでしかない。バイロイトは同様なカストルフで成功したのだが、こちらは東独のノスタルジーなどを掛け合わせていて、その方の共感も得ることが出来たが、コスキーの悪趣味に共感する聴衆がいるのだろうか?社会同盟でなくとも少なくともあのような悪趣味は受け入れられまい。バイロイト祝祭の趣味の悪いこと極まりない。



参照:
エポックメーキングなこと 2017-12-02 | 文化一般
ペトレンコにおける演奏実践環境 2017-03-30 | 文化一般
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# by pfaelzerwein | 2017-12-07 21:28 | 文化一般 | Trackback

いつも同じことの繰り返し

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毎年同じころに同じことをしている。昨年9月に購入したNASの容量が一杯になってきた。2TGの容量に倍増したので二三年は大丈夫かと思っていた。その後ストーリミングの動画をコピーするソフトを常用するようになったので、録画が飛躍的に増えて、予想を超える勢いで保存するファイルの容量も増大した。

そこで、ノートブックのHDDを交換したのもその後の11月だった。NASの中にはバックアップが終了した2016年12月までのファイルが入っていた。幸い乍ら壊れたHDDもデータを取り出しだけならまだ使えそうなので、それ以前のファイルのコピーは消去しても構わないと結論した。これで180Gほどの容量が開くので、再びバックアップとしての容量が獲得できるだろう。

同時にHDDに入っていて不要なファイルを消去した。ザルツブルクの「アイーダ」とかバイロイトの「マイスタージンガー」とか、「アンドレアシニエ」などをどんどん消去する。消せなかったのは酷い音楽が流れていた「ティートの寛容」ぐらいだろうか。デジタルコンサートホールのものをNASにアーカイヴに入れてHDDから消し去る。こうしてバックアップすべきファイル容量が削減可能となる。

結局1.8Tの半分以上を消去した。これで、1TのHDDのバックアップは完全に叶いそうだ。ただしHDDの容量自体がそれほど余っていないのでこちらもできる限り早めに整理しておかないとバックアップが済んだところでNASの容量もやはり一杯になる。

序に、NASの外付けHDDもスキャンチェックをしてデフラグを掛けた。一部修正が必要で、更にフラグメーションも7%ほど進んでいた。バックアップが壊れていると用をなさないので、早めに修正しておいてよかった。

タブレットのアンドロイドの方も調子が良い。なによりも改善されたのはパーフェクトヴューワーという画像ソフトで、NASからの呼び出しにストレスがなくなった。その他にもNAS対応のアプリケーションも増えて使いやすくなってきた。二年前とは状況が大分変わってきている。やはりこれは、WLAN内でのコマンド等の端末が主力商品になってきていることと関係していて、ソフトも洗練されて来ているのだろう。音源もタブレットでコマンドを与えておくと、タブレットをダウンさせても音が鳴っているようになった。

NASに必要なファイルを入れておけばPCなどにはファイルを貯めておく必要が無くなり、次期ノートブックなどもHDDからSDDへと移行し易くなってくる。なによりもメカニックなストレージがなくなることで動かしやすくなるのも、ノートブックのドッキングステーション化とは別方向での可能性が高まる。

新聞の文化欄にジェームス・レヴァインの件が触れられている。未成年者へのセクシャルハラスメントだが、三人の一人は17歳のセントポ-ル室内管のベーシストでクリス・ブラウンというらしい。なるほどこのような具体性があると、四月に告訴されたミュンヘン高等音大の校長だったジークフリード・モイザーと殆ど変わらない。パワーハラスメントにもなっている。昨年NYから強制送還されたゲヴァントハウス弦楽四重奏団のシュテファン・アルツベルガーのような単純な婦女暴行とどうしても比較してしまう。新聞にもあるように音楽の世界も芸能界であり、学生として教えを受ける方も、授ける方にも一種の合意があるということになる。何も音楽学生の経験談などを聞いてみる必要もないことだ。その一方で、昨年の写真家のデーヴィト・ハミルトンなどのように自殺へと追い込まれるような大事になるのは、80年代では到底考えられなかったような未成年者保護への意識が厳しくなった世論背景がある。全く好悪の問題ではない。

但し、モイザーやアンスベルガーの数多くの録音を楽しめるかどうかはその罪状や噂とは関係ないだろう。駄目なものは最初から駄目なのだ。因みに個人的には、充分にあるバーンスタインの録音以外にもレヴァイン指揮のも幾つかある。なにも今後ともそれに手が伸びるかどうかは変わらないが、そもそもそれほど有難味を感じているものではなく、最近はほとんど関心がなく元来優秀な管弦楽の演奏録音として興味があったもので、デビュー当時から知っていても生で聞こうと思ったこともない指揮者である。モイザーの録音もご近所のヘルシャーとの録音ぐらいだろう。演奏会もそれを聞いたが、あまり琴線に来なかったこともそうした面の表れともいえる ― その時は健在だった彼の宰相メッテルニッヒのお孫さんと一緒に聞いた。アルスベルガーはその活動からして箸にも棒にも引っかからなかった。要するに演奏実践に全てが表れるというような妄想を持ってはいないが、少なくともまともな音楽をしている人物かどうかが分かるぐらいでないと、聞き耳とは言えないのではなかろうか。音楽愛好家に言うのではなくジャーナリストと称する連中に言いたい。シュターツカペレを指揮したマーラーがどうだったとかいう前に芸術を報じろと、それが仕事である。そうすることで、1980年に逮捕されていたとか、1997年にはミュンヘン政界で話題になっていたとか、ミヒャエル・プレトノフへの言及など要らぬ言い訳を書く手間が省ける。



参照:
つまらない音楽家たち 2016-07-01 | 文化一般
ドナウヴェレという菓子 2016-02-12 | 料理
公共放送の義務と主張 2005-12-24 | マスメディア批評
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# by pfaelzerwein | 2017-12-06 20:42 | マスメディア批評 | Trackback

神無しに美は存在しない

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承前)伝道者ブロムシュテットの第四回目のお話しだ。四楽章がシンメトリーの中間にあたってとても重要で、いつものように全く素晴らしいテクストだと始まる。そしてこの詩編84のダヴィデの置かれていた状況を端緒とする。

1 万軍の主よ、あなたのすまいはいかに麗しいことでしょう。
2 わが魂は絶えいるばかりに主の大庭を慕い、わが心とわが身は生ける神にむかって喜び歌います。
3 すずめがすみかを得、つばめがそのひなをいれる巣を得るように、万軍の主、わが王、わが神よ、あなたの祭壇のかたわらにわがすまいを得させてください。
4 あなたの家に住み、常にあなたをほめたたえる人はさいわいです。

息子のソロモンによって追われて難民となったダヴィデは、エルサレムを想うのだが、そこには戻れない。息子が統治しているからである。「あなたのお住まい」というのだが、そんな神殿などはどこにもない、それどころかテント生活をしているのである。一方息子はその後に立派な神殿を建てたというのだが、しかし彼はそこに神の存在を身近に感じている。象徴的なことなのだが、それはただの美しさではない。

ルターのドイツ語訳の美しさを語る。Wie lieblich sindの母音の響き、Seele verlangt und sehnt sichのsの響き。そして「前庭」とのまさしく神殿への印象を夢見ながら、身近に感じる生き生きとした神こそが喜ばしいのであって、そのような岩石などの建造物では決してないのだ。

そしてブラームスの音化について触れていく。「先ずは美しい音色を聴いて貰ってから話を続けましょう」と四楽章の一回目の放映がされる。

音楽が終わって、先ずは放送局のメディア提供に謝辞を述べてから、「ただ簡単な歌に聞こえるのだが」と前置きして、芸術音楽として詳しく見ていく。これまた山なりの旋律線でと歌い始めて、「ツェバオート」が二回繰り返されるところにやってくる。ツェバオート自体がその大きな存在を意味するだけなのだが、言語での二回繰り返しと音楽は異なって、その繰り返しに意味を持たせることが可能となる。そもそもWie lieblichのテノールは、一拍目から二拍目とスラーが伸ばすように掛けられているように、変化されて歌われており、「もしこれを牧師がそのように伸ばして説教したらおかしんじゃないかと思われるのだが、こうした可能性の組み合わせが音楽表現なのだ」と。

更に良く聞けば、弦楽器が弓で擦るだけでなく、ピチカートで弾いているのは、間違いなくダヴィデの持っていた単純な5弦のハープに違いない。そして「この響きはブラームスらしくなくてダヴィデでしょう」と語る。

そして憧憬へのところの繰り返しつつの高揚が、ハーモニーに伴われての素晴らしい音化になっていて、そして心身共の喜びに至り、活動的になって、そして静まる。ソプラノが「フロイデ」と長く伸ばすと、他の声部はそこに掛け合うように輪が広がっていく。まさに天使が呼応するかのような情景だ。そしてまるで身体に感じるかのような喜びで楽章を閉じる。

「こうした表現し尽くしがたい音楽というものにどうしても神の存在を感じるのではなかろうか?、朽ち行く人類にこうした創造が可能なのか」、同僚のハーノンクールが語ったように、「音楽とは神と臍を繋ぐ緒」だと。

たいへんに高名な神学者がコンサートの後に訪れた時のことだ。ベートーヴェンのピアノ協奏曲とシベリウスの交響曲で宗教的な作品ではなかったのだが、「三十年この方、これほど神を身近に感じたことがなかった」とその神学者が語ったという。また有名な神学者と待降節の集まりで知り合い、本人は全くクラシックには興味が無くてロックファンということだったのだが、伝手で訪れたコンサートでリヒャルト・シュトラウスの交響詩とベートーヴェンの協奏曲などを聞いた。その後病気で入院していた時にベットでヘッドフォンのラディオから流れるべート―ヴェンやブラームスを聞き出して、「今まで聞いていたものはあまりにも日常的で無意味だった、ブラームスなどは神の存在無しにはあり得ない。」と論文を新聞に投稿した。

「こうして宗教的なテキストに作曲された創作があることがとても有り難く、美というのは神の意匠であり、神とは創造主であり、これは再び六楽章で触れますが、「神無しには美は存在しない。こうした気持ちは、例えば美しい自然に感じるときも、例えば美しいアルプスの峰を眺め、美しい音楽を聴き、または美しい絵画を見るときでも同じでしょう。」

神学者パウル・ティリッヒの第一次世界大戦での壮絶な経験をして、「そこの野戦図書館で簡単な本にボッティチェッリなどの挿絵を見て、ベルリンに戻ってきて直ぐに美術館に駆け込んでの絵画がとても重要な神的な体験になった」、それは、聖書ではなく、音楽でもある。



参照:
Wie lieblich sind deine Wohnungen (HappyChannel)
アインドィツェスレクイエム 2017-11-13 | 文化一般
土人に人気の卒寿指揮者 2017-11-07 | 歴史・時事
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# by pfaelzerwein | 2017-12-05 21:21 | 文学・思想 | Trackback

一寸した大人の味

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クーヘンを購入した。いつものパン屋でのものだが、試した記憶がなかったから、売り子に聞いていると、横にいたベッカーマイスターリンが「おいしいよ」と教えてくれたので迷わず購入した。

彼女がパン屋の親方のところに弟子入りしたのはミドルティーン当時で、その頃から知っている。その頃は、手が空いているときに店番に出てきても釣銭は間違え、まともに計算もできないような様子だったので、一度1ユーロ近く損をしてから、相手されるのも億劫だった。

こちらは新たには開発した手作りパン屋であるから、応援して店仕舞いすることのないように必死で応援しなければいけないと思っていたのである。旦那はパン工場に勤めているらしく、当時は健在だった先代が工房を守っていたのだ。

さて、件の彼女であるが、計算の間違えだけでなくて、接客態度などもぎこちなかった。その小太り系プロポーションにも拘らず顔立ちもそれほど悪くはなく、ミドルティーンの丁度ヴァイオリンのアンネ・ゾフィー・ムターがカラヤンと初共演したころの感じで、つっけんどうな感じにも、こちらは閉口していたのである。要するに、応援しているにも拘らず苦手だった。

その後、スーパーでペンキ屋の職人の同年輩のお兄さんと一緒にいたところを挨拶したこともあり、少しは接客態度なども変わってくるかなと思っていた。それでもその後もぶっきらぼうな感じは変わらなかったのだ。

それでも今年ぐらいだろうか、店前で車を当てられたりしてから後、借りてきた代車を見て、「新車?」とか聞くようになった。彼女もやっと大人になったなと思ったのだった。その後もなんとなく、対面の印象がよくなった。

さて肝心のクーヘンは、上にアーモンドが乗っていて香ばしい。四角く、四つ切にして食した。何回かに分けて食せるのも嬉しかった。ワインには甘みが合わなそうだったが、泡物には行けるのではないかと思った。



参照:
気に入るということは 2011-12-21 | 料理
水々金々日々、月曜日 2012-11-12 | 暦
南独のもの北独のこと 2011-11-25 | 料理
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# by pfaelzerwein | 2017-12-04 22:33 | | Trackback

じわじわ迫ってくる感

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雪雲が迫っている。だから土曜日に走り納めしておいたのだ。それでも冷えていたものだからウォーミングアップしても冷えた車の様な足元だったので、腰に違和感が残った。スキーでも体を痛めるのはこの寒さなのだろう。新しいパンツを探しておかなければいけないかもしれない。そのような状態で零下5度の降雪の中で一時間近くの山登りコースを上下するのは体を壊す以外の何物でもなかった。

修理したもの二つ目は車のキーだった。キーのレンズ電池が弱くなって― 1.5二つ直列で2Vを超えるぐらいだった、ガレージに行って開閉ボタンをしても反応しなくなっていた。だから車に乗るたびに、差し込んであるメカニックなキーで鍵を開けて、しばらく乗ると充電されて使えるようになるというものだった。最初の時はバッテリーが上がったかと思って驚いたが、最初だけが問題だった。それでも冷えてくると電圧が上がらずに作動しなくなった。

そもそもキーは予備の二つ目を使っていて、一つ目も電池が弱ったころにあまりにも強く押してプラスティックが割れていたのだった。結局レンズ電池を取り替えずに二つ目を使っていたのだった。電池が当時は探さないと入手し難かったのだが、今はアマゾンで発注して無料で送ってくれる。価格もパナソニック製六個組3.18ユーロならば文句はないだろう。取り替えると新品の時のようにパイロットラムプも点き、使い勝手が全く違った。

承前)初日に向けての稽古風景が流れてきている。プッチーニ「三部作」の楽譜にざっと目を通して、スカラ座での公演動画も一通り流した。「アンジェリカ」はもう少し勉強してみないとわからないが、多段のシステムなどの本質的な意味合いを理解しないと、効果的なリリックな歌唱の土台の音楽的な工夫が分からない。

「ジャンニスキッキ」も線の書法も見えてきた。「ジャンニスキッキ」は音楽的には分かり易かったが、演奏は結構苦労するところもあるのではないだろうか。いつものように事故が起こりそうなところもありそうだ。特に有名な「いとしいパパ」までの重唱への場面が山だと思った。大変よく書きもまれている。

リカルド・シャイ―指揮の本場物のヴィデオは、そうした音楽的な面白味が最後までよく理解し難かった。ヴァレーズ全集録音などでもあれだけの指揮をしているのに、自国のこの作曲家の書法を通常以上には読み込もうとしていないのは不可解だった。デビュー当時からオペラにおいてはクラウディオ・アバドなどに比較すると効果的ながら月並みな表現をしていた指揮者だったが、そうしたところが一貫しているのだろうか?

プッチーニが楽譜に書き込んでいる情報の半分も音化していないだけでなくて、如何にも「おいしそうな表情」も無視するかのような指揮をしている。スカラ座の管弦楽団の稽古やその労務関係の難しさは想像するしかないのだが、そもそもオペラ劇場などはそうしたものでコンサート活動とは全く異なるものだと主張しているかのようだ。名門座付き管弦楽団とそれ以外の相違は何もしないでもある程度の上演が出来ることだと、まるでヴィーンの国立劇場の様な事になっているのだろうか。要するに芸術的、職業的な怠慢でしかない。

そのような訳で、楽譜を見ていなければ、プッチーニがそこに何を書き込んでいてどのような音楽が流れるかは月並みな演奏を聞いていても全く分からなかった。月並みなイタリアオペラの水準が分かったので、グライボーンでユロウスキーが指揮したものを更に探した。「スキッキ」はあっても「アンジェリカ」などは見つからない。まだ若い指揮者に任せたそのような上演だったようだ。結局17日の初日のラディオ放送を待たなければいけないのか。(続く



参照:
次世代への改良点 2017-12-03 | アウトドーア・環境
クリスマス向きのリスト 2017-12-01 | 文化一般
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# by pfaelzerwein | 2017-12-03 18:02 | 生活 | Trackback

次世代への改良点

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この週も幾つかのものを直した。一つ目は、トレールランニングシューズの紐だ。スイスのライケル社を引き継いだマムムート銘柄のもので、一号機から四世代目のものである。モデルチェンジというよりも新しい分野なので進化している各世代を商品モニターのように試している。

最新モデルの特徴である紐の締め具とその構造は初めてのものだったので、やはり不都合が出てきた。材料の耐久力などは一流メーカーであるからある程度は計算している筈なのだが、その見落としをこうして使うことで実感する。どこで見落とすかということで興味深い。

この締め具構造は、通常の靴紐ならば蝶結びとなるところを繋げていて、そこにパイプ状の補強がしてあって、そこを引っ張りながら根元を締め具で締める構造になっている。そうすることで、紐が指で引っ張りやすく、引っ張ったまま締め具でブレーキを掛けれるので締め心地を感じながら適当なところで固定できる特徴となっている。

前世代からすれば明らかに締め心地がよくて、緩めるにも都合がよかった。機能自体は完全に進化していると思ったが、最初から左側が少しパイプの位置がずれている感じがしていたのだが、そのずれた端で紐を傷つけることになっていたのだ。紐の外側が破れて芯が出てきた。その状態で締め上げれば上げるほどパイプの端で芯を痛めることになるので、態々靴底を洗ってから修理した。

紐自体をどうこうすることは出来なかったが、ずれたパイプの位置を正しく真ん中に持ってきて引っ張っても芯が出ているところに当たらないように調整した。最初からそのようにしておけば紐が痛むことはなかった。予定通りささくれた紐のところをテープで巻いてパイプにネジ揉もうとしたが中々容易ではなかった。それでも一度ねじ込んで傷んだ部分を保護してしまえばそこが再び露出することはなさそうだった。

どうしてもそのパイプ自体も撚りが出来ていたりして、やはり一年も使っていると破れたりしそうだった。紐が傷むのはパイプの位置がずれていたからにほかないが、最終的にはこの製品のウィークポイントとなりそうである。もし紐が切れてしまったならば前世代の紐と締め具に取り換えるぐらいしかないのだろう。スイスのメーカーだけに次期世代はこれを改良してくると想定される。

零下2度に近い森の中は流石に寒かった。このシーズン初めてパンツを履いたままの峠攻めとなった。日曜日は降雪と零下5度が予想されているために、合間に走っておきたかったのだ。地面は霜柱とその緩みなどがあって走り難かった。幸い雪がついていることはなかったので、普通にはゆっくりと走れた。着込んで走ったにも拘らず汗だくとならないのは、ペースを落としていることと、その寒さゆえに違いない。樹氷が美しかった。



参照:
待望のランニングシューズ 2017-03-22 | アウトドーア・環境
新製品試着の歯痒い気持ち 2013-04-12 | アウトドーア・環境
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# by pfaelzerwein | 2017-12-02 21:29 | アウトドーア・環境 | Trackback

エポックメーキングなこと

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3SACDと1DVDのセットが配達された。2014年にドナウエッシンゲンで行われたもののライヴ物で、記録的価値しかないもので、四枚組で20ユーロは決してお得ではない。それでも発注から四週間待ち続けたのは、DVDに入っているステーンアンデルセンのピアノ協奏曲を見たいばかりだったからだ。2016年にフライブルクでの再演を経験して、シェーンベルクのピアノ協奏曲それ自体を含めてそれ以降のこのジャンルにおけるエポックメーキングな作品ではないかと感じたからだ。そもそもその期間にまともにこのジャンルで創作されたことがあるのかどうか疑問であった。それはまさしくそのシェーンベルクの作曲にもそれが示唆されていた。

そもそもこの創作自体がフルクサスのまとめの様なマルティメディアの創作なのだが、その冒頭のピアノ破壊の映像やそのサウンドトラックだけの効果には止まらないサムプリングと映像の組み合わせがあり、言うなれば過去数十年間のそれらが統合された形になっている。

残念ながらコンサートを体験してから主催者のSWRのHPを探したが、こちらが見たい場面は見つからなかった。音楽的な核心部に近いところでもあるが、映像的にもユーモアに溢れてまさしくフルクサス的なそれからは最も遠い世界の場面だった。映像技術的には特別難しいことをしているのではないが、そのサウンドトラックの付け方と全体の音楽構成が並々ならぬ才能を思わせるのだ。

先ずはそのDVDをPCに入れるが映像が開かない。仕方がないので所謂リッピングソフトを使う。綺麗に読み取って、HDDにコピーする ― 簡単に読み取れるようにしておかないから余計に皆がこうしたソフトを使うようになる。今時DVDプレーヤーなどを購入する人がいるのだろうか?このDVDが見れない限り2013年の4枚組SACDと同じ価格で2014年のそれを購入する必要はなかったので、無事にコピー出来てよかった。なによりもピアニストの鏡像の様な親爺の顔に再会出来た喜びに満ちた。

しかし演奏も音質も再演には全く敵わない。演奏も再演で慣れていることにもよるのだろうか、その迫力が全くこれでは伝わらず、音の厳しさが全く違う ― これでは激しいトリルと特殊奏法の後でこちらを向く鏡像のピアニストと二度目のベートーヴェンの調べでこちらを向くときとの対照効果が薄れる。それはあのドウナエッシンゲンの会場とその録音の質とフライブルクのコンサートホールでの実演との差でもあろう。なるほど純器楽曲として同じロート指揮SWRバーデンバーデンで再演した微分音調律した四つのピアノためのハースの曲とは異なり、伝統通りのピアノ協奏曲でもあるのだが、殆どが特殊奏法の手袋を嵌めた打鍵かトリルなのだがまさしくピアノという楽器のための協奏曲である。

どうも来年にはミュンヘンの後継者が決定するようで、恐らくウラディミール・ユロウスキーとセルジュ・ドルニーのコンビになりそうだ。指揮者では、パパーノやネルソンズ、メストとの接触はあったようだが、最初のはコヴェントガーデンからの乗り換えにもあまり興味が無さそうで、最も楽団に人気のあったネルゾンズは他と競合となり、メストは人気もあまりなかったようだ。後者のモルティーエ門下のドルニーの方はドレスデンのティーレマンなどとは合わないのは当然で、ユロウスキーとはグライボーンやロンドンフィルでの協調から二人を組合わせでということになりそうだ。

個人的には、CDや録音などでパパーノのオペラ指揮者としての実力は評価してもその指揮のためにミュンヘンまで行くことは全く考えられなかった。ネルソンズはゲヴァントハウスの管弦楽団で先ずは真面なプログラムで演奏を聞いてみないと、そのオペラでの興味は起こらない。メストがミュンヘンで学びながらヴィーンに拘る理由もあまり理解できないのだが、ミュンヘンではやはり難しいと思う。しかしユロウスキーとドロニーの組み合わせでの企画によっては行きたいと思わないでもない。

寧ろ、ペトレンコ音楽監督体制ではどうしても音楽至上となるので、モルティエー体制であったような劇場としての面白しろさまでには至らなかった ― その点からもキリル・ペトレンコは全く劇場指揮者ではなくコンサート指揮者であることは明らかだ。バーデンバーデンでのスーパーオパーに期待したい理由はそこにもある。その点、ユロウスキーの技能的な秀逸さには疑いなく、一見更に地味乍らとんでもない効果を奈落から引き出してくれそうで、音楽劇場として更なる進展が期待できそうだ。恐らく「伝説的指揮者」が築いた土台を継いで、音楽劇場として開花させるのはこの二人しかいないように感じ出した。



参照:
MACHEN DORNY UND JUROWSKI DAS RENNEN?, IM GESPRÄCH MIT BERNHARD NEUHOFF (BR-Klassik)
広島訪問と米日関係のあや 2016-05-16 | 歴史・時事
逆説の音楽的深層構造 2017-10-04 | マスメディア批評
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# by pfaelzerwein | 2017-12-01 19:39 | 文化一般 | Trackback

クリスマス向きのリスト

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降雪の合間に一っ走りした。週末にかけて摂氏零下五度ぐらいまでは予想されている。夜中にもちらついていたようだが、まだ雨交じりである。白くなっているかと思ったら全く雪はなかった。止んだ時に森に出かけて、最も短いコースをカメラを持って走った。下からもボールダーのある山肌には雪がついているのを確認したが、駐車場には残っていなかった。それでも少し高度を上げると雪が残っていた。積み上がられて三か月ほどになる丸太にも雪がついていて、その向こう側の白い山肌の前景になっていた。

新聞に恒例のクリスマスプレゼント向きの今年の文化商品一覧が出た。昔は興味を持っていた。書籍にしろ、マルティメディア商品にしろ、なにか文化的な記事のように感じていたからだ。しかしこの十数年ほどはそのリストをじっくり見ることもなかった。理由は、確かに情報源としては高級新聞の文化欄のリストだからそれなりの価値はあるのだが、年間で云々言っても仕方ないように感じたからだろう。なるほどクリスマスプレゼントとして普段とは異なったものに目を向ける価値はあるだろう、しかしどうもネット情報が増えてきている今日の状況からこうしたプリントメディアで新しいものに出合うという可能性が小さくなってきたと感じるようになった。

さて実際にはどうだろうか?購入しようとは思わないが、二人の選者がリストアップしているペトラ・モルスバッハの「裁判宮」という小説でなかなか面白そうだが、法律用語が飛び出すのでその方に関心がないとまどろっこしいかもしれない。同じようにテオドール・モムセンの「ローマ国法」などは研究者には欠かせないのだろう。政治社会分野では、イヴァン・ブーニンの「逃亡の日々」とロシア革命の日記らしく、最初の一冊以外は一生涯手にすることはないだろう。歴史ものでは新たな「イリアス」クルト・シュタインマンの訳本について複数が触れている。そうした難しいものよりも英語からのマテュー・スウィーニーの詩集「犬と月」が創作俳句のようでウイスキー好き以外にもとなっている。実用本ではペータ―・クラウスの鳥の鳴き声の教則本がある。トーマス・マッチョの「命を絶つ」は自殺の美学などを述べているようだ。

アニメでは、「化物語」全集とか「やかり」とかが挙がっているが、こび山田の児童書、写真集では金子隆一とマンフレート・ハイティンクのユーゲントシュティールとか広重・栄仙の木曽路とかがあるが、高価なものは到底手が出ない。

音楽では、9枚組LPのジョニー・キャッシュのビルボードソング集だ。それほど価値があるものなのか?お馴染みのところでは、二人が触れているゲルハーエルの「ミューラリン」の二度目の録音フィリップ・ヤロウスキーのヘンデル集がある。デーニッシュ弦楽四重奏団のアルバムはよいとしても、DGカラヤン全集を態々触れなければいけない破廉恥な職業環境には呆れる。

結局それほど目ぼしい情報がなかった。雑学的に少しの情報があったぐらいだ。あまり重要でないものには、自らどうしてもフィルターを掛けて行く訳だが、これはと感動するようなことがないのも悲しいことである。その分、ネットではヴィデオなどを含めて日々刺激的な情報も得ていることも間違いない。



参照:
太るのが怖い今日この頃 2017-11-15 | 暦
読者層に合わせた興奮度合い 2011-11-22 | 暦
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# by pfaelzerwein | 2017-11-30 21:07 | 文化一般 | Trackback

索引 2017年11月


大人ではない子供の世界 2017-11-29 | マスメディア批評
MTBを抜き切る 2017-11-28 | アウトドーア・環境
私にとって、それは神だ  2017-11-27 | アウトドーア・環境
週末から年末年始へ 2017-11-26 | 生活
まるで億万長者ゲーム 2017-11-25 | 雑感
DieWalküreI後半の放送 2017-11-24 | マスメディア批評
枯木も山の賑わいとか 2017-11-23 | 生活
ネジを絞められない話 2017-11-22 | 雑感
永遠の歓喜に寄せて 2017-11-21 | 文化一般
'15年シュペートブルグンダ 2017-11-20 | 試飲百景
爺さん殺しの音楽監督 2017-11-19 | 雑感
居心地もいけるかな 2017-11-18 | 生活
ザルツブルク、再び? 2017-11-17 | 文化一般
汲めども汲めども尽きない 2017-11-16 | ワイン
太るのが怖い今日この頃 2017-11-15 | 暦
十年先のペトレンコを読む 2017-11-14 | 文化一般
アインドィツェスレクイエム 2017-11-13 | 文化一般
キリル・ペトレンコの十年 2017-11-12 | 文化一般
キレキレのリースリング 2017-11-11 | ワイン
自分流行語「香辛料」の翁 2017-11-10 | 雑感
遠隔から取捨選択する 2017-11-09 | 暦
とうとう暖房を入れた日 2017-11-08 | 暦
土人に人気の卒寿指揮者 2017-11-07 | 歴史・時事
籠り部屋でのモニター 2017-11-06 | 生活
パリとベルリンからの中継 2017-11-05 | 雑感
離れたモニターを使う準備 2017-11-04 | 生活
細い筆先のエアーポケット 2017-11-03 | 音
人命に軽重無しとは言っても 2017-11-02 | 歴史・時事
はっぱふみふみ 2017-11-01 | 生活

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# by pfaelzerwein | 2017-11-30 01:42 | INDEX | Trackback

大人ではない子供の世界

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プッチーニの三部作第一部の「外套」を見た。なるほど子供の時には関心がなかった筈だ。痴話物で、「道化師」などは分かってもこれは流石に幾らませていても分からなく関心がなかった筈だ。流石にであるが、若い嫁さんをもってという前提となると、また今少し揺すぶるものがある。

イタリア語の「外套」の意味は分からなかったのだが、恐らくこの日本語訳はそれほど決まっていないと感じた。細かくテキストを見ていくともう少し真っ当な訳が浮かぶかもしれない。少なくともその「外套」は嘗て若い嫁さんを温めて、そして最後にはその愛人の死体を隠しているというだけの意味ではなかろう。文学的に二人の関係がタイトルとしてしっかり表れているような和訳でなければいけないと思う ― 歯に衣着せぬの反対の感じになるのか。

音楽的には、最後のドラマティックな殺人シーンよりも丁度中間の浮気シーンが中心だと思った。その前後の流れでが全体の三部作に繋がるのではないかと感じた。更に最初の12拍子や三拍子系が当然のことながらセーヌの流れや舟唄に通じるのは在り来たりだが、その後にヴァルツァーに持ってくるなどの工夫が面白い。更に歌の線とユニゾン楽器などの書法がメロディーの線を重視するとともに、それが歌い易いだけではなくて、厳密に合わせていく必然性を感じる。

ダウンロードしてあったシャイ―指揮のスカラ座の演奏では、あまりにもお手のもののスカラ座の管弦楽団をそこまで厳密に振ろうとしていないようで、明らかに歌に合わせるような指揮をしているようだ。それはそれで本場物の感が強く大変な強い効果を上げているのだが、なにか手持無沙汰な感がするのは、クラウディオ・アバドがあまりプッチーニを得意としていなかったことと似ているような気がする。イタリア人にとってはあまりに日常過ぎてこの作曲家の書法に関心を抱くほどの距離感がないのかもしれない。(続く

ペトレンコ指揮の「子供の不思議な角笛」と「ヴァルキューレ一幕」を無事に鑑賞した。ラディオで聞いていたから改めてとは思うが、前半の「角笛」は四回目のミュンヘンでの本番とは大分異なっていて、動画を見ると上手く行っていない部分が見て取れた。管弦楽団の精度も異なるが、歌手のゲーネの方も流石に合わせてきていたので、上手く運んでいたところもNHKでは全く駄目だった。熱心にマーラーの歌曲を歌っているようだが、どこまで読み込んでいるのか疑問に思われ、この歌手の本領は「ヴォツェック」の様なオペラの狂人の役ではないかと思う。更に、それなりの音質なのだが、カメラアングルが歌手に集中していて重要な音楽的な情報にも欠けていた。資料的な価値はある映像かもしれないが、芸術的にはあまり意味ない映像だった。それに引き換え後半の方はやはり興味深いところが更に前半でも見つかった。NHKのカメラディレクターもマーラーの歌曲よりは「ヴァルキューレ」の方が曲に馴染みがあるのだろう。



参照:
マーラー作プフェルツァー流 2017-10-15 | 音
運命の影に輝くブリキの兵隊 2017-04-11 | 文化一般
DieWalküreI後半の放送 2017-11-24 | マスメディア批評
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# by pfaelzerwein | 2017-11-28 23:58 | マスメディア批評 | Trackback

MTBを抜き切る

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頑張って山登りコースを二週間続けて走った。先週はシーズン最初で心拍計を着けたが、今回は着けずに寒さを予想して ― ライン平野の対岸では降雪中である ―、上着を着けたまま走る準備をした。土曜日は降雨だったので、晴れ間が出来ると皆動き出したようだ。少なくともワイン地所から車で上がるときに三人連れのMTBを抜かした。同じコースを目指すことは想像ついていた。上着を着たまま下のパンツは脱いで柔軟体操をしていると、やってきて、先に上っていった。その後ろ姿からこれはいいペースメーカーになると踏んだ。

あまり早く出発すると並走状態になってこれはこれで負担が大き過ぎると感じて、若干時間をおいて走り出した。案の定最初の長い急坂で後姿を捉えた(0.6km)。その後のカーヴとなると失ったが思いがけづ最後の一人を捉えて、追走するとその彼はおりてMBXを押している(0.8km)。急坂が終わったところであとの二人も待っていたようで、全員の後ろ姿も捉えた(0.9km)。その後緑のベンチで左方向に進むのが分かったので(1.55km)、これは頂上で会うことは確実だった。

その後は見かけなかったので、ハイキング道に入ったのを察した(1.7km)。こちらはひたすら林道を走るので、もしかしたら追いつくかなと思っていたら、林道と交わるところで最後の一人を待っていて、三人が揃ったところを追い抜かした(2.7km)。

それでもその上の頂上領域に至ると傾斜の無いところが続くのでそこで抜かされる準備はしていた。上からは女性一人を含むこれまた三人組が下りてきた(3.2km)。しかし声が後ろから聞こえたのだが、目の前には最後の急坂が出てきて(3.6km)、これは走り抜くしかないと思った。道は譲れない、二通りのコース取りがあるが、抜くなら抜いてみろ。そして頂上に立った。すぐに折り返しても彼らは見つからない。活き絶え絶えに急坂の下り口に行くと、二人が最後の一人を待っていた(3.3km)。二人に挨拶して、三人目には余分に挨拶した。恐らく高級の余分でMTBを購入したのはいいのだが暇潰しにこうして使ってみたといった塩梅だろうか?若い割にはトレーニングが出来ていない様子だった。頂上到着時間は大分悪かったのだが、MTBに勝ったのだった。

ピアニストのイゴール・レヴィットがボン市民の選んだベートーヴェンリンクを獲得した。今年のベートーヴェンフェストのレジデンスピアニストだった。授賞式は来年の春のベートーヴェンハウスでの演奏会でのようだ。贈与理由を「彼は息をもつかせぬピアニストで、人を虜にして魅了してしまう」と提示したのに対して、ご本人はそれに直ぐに以下のように反応したらしい。

「私は音楽を吸引力には出来ません」 ― そこから政治的な責任を導き出すような、啓蒙された市民のベートーヴェン的伝統にあるような。

あれほどの政治的な発言があるこのピアニストだけに、この発言の主旨が余計に強く響く。受賞して直ぐにこのように返せる音楽家がどれほどいるだろうか、天晴だ。



参照:
'15年シュペートブルグンダ 2017-11-20 | 試飲百景
謝謝指揮大師佩特連科! 2017-09-12 | 文化一般
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# by pfaelzerwein | 2017-11-27 19:11 | アウトドーア・環境 | Trackback

「私にとっては、それは神だ」

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承前)ブロムシュテットが語る「アインドイツュスレクイエム」の放送三回目である。先ずはソロが三楽章に突然現れてと語り始める。ラップランド出身の氷に閉ざされたところからやって来た才能のあるバリトンをここで聞けるのは喜ばしいとペータ・マテイを紹介する。そして詩編39を読み上げる。

「主よ、わが終りと、わが日の数のどれほどであるかをわたしに知らせ、わが命のいかにはかないかを知らせてください。
5 見よ、あなたはわたしの日をつかのまとされました。わたしの一生はあなたの前では無にひとしいのです。まことに、すべての人はその盛んな時でも息にすぎません。
6 まことに人は影のように、さまよいます。まことに彼らはむなしい事のために騒ぎまわるのです。彼は積みたくわえるけれども、だれがそれを収めるかを知りません。
7 主よ、今わたしは何を待ち望みましょう。わたしの望みはあなたにあります。

ホルンとピチカートに伴われ、再び三音の運命の動機が現れる。そしてブラームスの上行・下行のメロディー作法を作曲家が過ごしたスイスアルプスの山並みに喩える。その具体的な形状の音化と捉えるのがとても面白い。それがまた内容であるアバンダンな孤独感と結び続けて語られる。

そして自らの人生がまるで束の間のようで何ら意味を持たないかのようだとの諦観を歌い、手の幅ぐらいでしかないと。悲観的なテキストであるが、それが現実だと語るこの指揮者が益々宣教師に見えてくる。まさしく新著の「宣教の音楽」そのものだ。

そしてフーガに至ると、歌謡曲と違うのはただの繰り返しではないと、そこで再び最初のSeligのメロディーが出てくるのだが、しっかりと「苦しみ」で和声が暗くなりと、そして神の御手にとなる。同時に管弦楽はまた別のフーガを演奏していているが、二重フーガでオルゲルプンクトが始まる。

そもそもオルガニストが踏みっぱなしにする、その上で美しく興味深い音楽が繰りひろげられる音楽の基礎低音だが、その音楽的な基音は、宗教的には何かと言えば、神だという。人々は最後の審判においても、それよりは下には落ちない*。人々が築くどんな美しい建造物も科学も詩も絵画も全ては創造主の掌の上でなされるのだ。そうした全ての装飾や美の基礎とは、ブラームスのオルゲルプンクトとは、「私にとっては、それは神そのものだ」と信仰告白をする。

1867年のこのフーガの初演は珍しく大失敗だったが、演奏したティムパニストはそれが大切だと思ってあまりにも強く叩き過ぎたので何もかも駄目になったが、ブレーメンで再演した時は大成功したという。そしてもう一つのフーガの五楽章を含めて全七楽章が初演されたのは1869年のゲヴァントハウスであったと語る。

ブラームスがこうした合唱曲を熟知したのはそもそも若い頃にコーラスを編成して ― 因みに彼の女好きで女性コーラスを編成したのだが、はは、生涯独身を通したけどね ―、パレストリーナやラッソーなどからよく学んだんだと、もう一つのフーガの六楽章は改めてということだ。

この三楽章をNHKでの演奏と比較して、このデンマークでのそれが悪いという人は皆無だと思う。アマチュア―とプロフェッショナルの違いで、ナジという歌手はパパゲーノで聞いているが人気があって忙しすぎるのか合唱団に引っ張られているのかここでは話しにならない。管弦楽団だけは必死に支えているが、よくもこんなキャスティングが今回のツアーになされたものだと思う。

なるほど、二重フーガなどは、ペトレンコ指揮のべルリナーフィルハーモニカーの演奏を待つしかないのだが、ブロムシュテットの様な信仰告白までの確信を持った指揮が可能なのかどうかは疑問である。ただ言えることは、これが正しく正確に表現されることで初めて確信となることは確かなのである。ヴィーンの人たちにブロムシュテットの語るような北欧プロテスタントな生活感情が分かる筈がない。少なくともここ中欧から見ていても、なるほどこの話を聞いて、北の果て出身の歌手の歌を聞いて、その厳しい環境の中での温もりを初めて感じることが可能なので、南欧の浮かれて華美な生活感とは全く異なる心情なのだなと体感することが出来た。とても素晴らしいシリーズである、更に続きが楽しみになった。(続く)


*Luther Der Prediger 3.17 Doch dann dachte ich: Am Ende wird Gott den Schuldigen richten und dem Unschuldigen zum Recht verhelfen. Denn auch dafür hat er eine Zeit vorherbestimmt, so wie für alles auf der Welt.



参照:
Herr, lehre doch mich, Herbert Blomstedt (HappyChannel)
太るのが怖い今日この頃 2017-11-15 | 暦 
アインドィツェスレクイエム 2017-11-13 | 文化一般
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# by pfaelzerwein | 2017-11-26 20:57 | アウトドーア・環境 | Trackback

週末から年末年始へ

週末にはプッチーニの三部作の楽譜に一通り目を通したい。それが終わらないと目算が立たなくなる。先ず何よりも「ジャンニスキッキ」や「修道女アンジェリカ」は子供のころからラディオなどで一部を聞いたことがあるが、もう一つ「イルタバロ」は殆ど印象がなかった。そもそも筋などもはっきり分かっていない。それでも今はヴィデオがネットにあって、ざっと見れば筋も分かり場合によればテロップも下に入っている。だから楽譜に目を通す以上に重要な情報はない。音楽の大きな流れさえ見ておけば細かな歌詞もストーリーも必要なものは自然に頭に入る。

NHK音楽祭とやらでテキストのテロップが出ないとの苦情を多く目にしたが、自分自身が日本で海外公演の引っ越し公演などを経験した時にはテロップなどはなかった。あの当時はヴィデオもアナログだけで、輸入オペラヴィデオを集めている人は特殊で、一般的にはLPを大きな対訳頁を広げながら何回となく聞いたのだった。特にオペラの場合はオートチェンジャーでない限り何度もLPをひっくり返さなければいけないので、それだけの時間と根気をもって、引っ越し公演に通う人たちは今でいうオタクなどとはもう一つ行っている特殊層だった。だから今でもオペラには馴染めないというある年齢層以上の日本の音楽ファンもいて、欧米でのようにコンサートゴアーズよりもより大衆的なオペラファン層というのは存在しなかった。

そのような訳で、日本の聴衆がイタリア語やドイツ語などで歌われるそれを理解していたかなどに疑問を呈した文章すらが音楽雑誌に出ていたのを思い出す。要するに熱心な人たちはそれだけ労力を掛けていたことは間違いない ― むしろ高度な音楽ファンとさえ見做されていた。それを考えると、楽譜に目を通して、細かな情景やら全体像を定着していくことは何でもないことで、劇場にもテロップが用意されていて、聞き取れない言葉でも確認できるのだからまさしく便利になったものである。

そのような事情は何も極東の嘗てはオペラ劇場などがなかった日本だけのことではなくて、ミュンヘンの聴衆でも全く事情が変わって来ていて、昔ならば同じ公演に何度も通って楽曲を馴染んでいうことなくなって来ていると思う。要するに聴衆から最初から高度な要求が突き付けられるようになっているのは間違いがない。

一寸気になって、メシアンの「聖フランシス」の初演の録音を聞いたら、CDを持っているにも拘らず楽団がこんなにひどい演奏をしていたのかと驚いた。パリのオペラ劇場での上演だからあの程度なのかとも思ったが、小澤征爾の良さがよく表れているとしてもあそこまでしか出来なかったのかと思った。後任のヴィーンの音楽監督になるフィリップ・ジョルダン指揮の演奏が酷いなと思うが、それともあまり変わらないとさえ感じた。

また年末年始からはミュンヘンでの最後の「指輪」上演のお勉強もより深くしなければいけないと思うようになって、ドレスデンでの「ヴァルキューレ」の公演の情報が出てきたので見た。初代バイロイト音楽監督が歌手を上手く都合していて、バイロイトへの前哨戦のようにパントラコーヴァが日本でと同じようにジークリンデを歌っている。一寸羨ましいのはツェッペンフェルトのフンディングぐらいだろうか。トレーラーを聞くとこれがまた下手な演奏をしていて、こんなものをネットに出しているのかと笑ってしまうのである。それでも売り切れになっているのは音楽旅行パックなどではゼンパオーパは人気があるからだろうか。



参照:
爺さん殺しの音楽監督 2017-11-19 | 雑感
DieWalküreI後半の放送 2017-11-24 | マスメディア批評
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# by pfaelzerwein | 2017-11-25 23:15 | 生活 | Trackback

まるで億万長者ゲーム

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車両保険の掛け金額が安くなっていた。無事故年数が溜まったからだが、数年前から二年ごとに減るような制度が見直されて、数年に一度ぐらいしか掛け金額が減らなくなっていた。だから強制自賠責保険と車両保険とも5%減額されたのは嬉しかった。

なにがいいかというと、新車を購入した時にどうしても保険金額が大きくなるので、その時もこの5%が大きく活きてくる。現在の車で車両保険に入っていても、壊しても盗難でもほとんど金が貰えない。古い車に車両価値がないからだ。だから少なくとも車両保険は止めてもいいのだが、そこは損得勘定が入る。目的はこの掛け金の減額で、新車を購入したときはそこから続けられる。

勿論新車価値のより低いものを購入するならば車両保険額はそのままでも低くなるのだが、今回5%落ちたことで、ある程度の車両価値があるとなるとこの5%減額が大きいのだ。要するに新車購入時の車両維持費を算段する場合に大きな意味を持つ。喜んでいたのである。来年以降、プラス何百ユーロだ。

冬タイヤに変えた。予想通り乗り心地が良くなった。車も足回りが草臥れてくると、タイヤでのショックの吸収がものをいう。週末からシュヴァルツヴァルトなどでは谷にまで雪が降るようなので、これでベストタイミングと喜んでいた。

冬タイヤも2013年10月に最後のものを安めにアマゾンで入手したのが、最後まで使えて、乗り逃げると思っていた。タイヤだけでまだ使えても車を下取りしてもらうときにそれほど金にならない。だから上手く乗り逃げたいのだ。いつもよりも長く待っていてそろそろと思っていると、いつもの親爺がやってきて、車のあるところまで来てくれという。「何回も空気を入れても抜けてしまうのでおかしいと思った」とそして上げてある車のタイヤを指さす。釘が刺さっていた。そもそもタイヤを預けてあるので、その間に検査済みな筈なのだが、目視で見落としたということになる。これじゃ金を払っている意味があるのかどうか、不安になるのである。

そこで、同じものがあるからとオファーを出すのが155ユーロである。「お宅で買うと高いからな」というと、それほど変わらないというが、あとで調べてみると約40ユーロ安く入手可能だった。それでも改めて夏タイヤを嵌めて、アマゾンに発注してそれを持って再び出かけてとなると時間の無駄も大きい。面倒なので早く遣らせた。これでマイナス40ユーロそれどころか155ユーロだ。

これも全く買う必要のなかった155ユーロなのだが、釘が刺さるのは仕方がないことで、使えるタイヤが駄目になったのは事故を除けば初めてかもしれない。まあ、慰めになるのは2013年に購入した分は前輪についていて、釘が刺さっていた後輪はその前年の五年前に購入したもので溝の深さ6ミリで、それ以上に古いものだった。つまり、年間2ミリほどの消耗で来年の冬には使えなくなる可能性があったものだ。預けて置いて明らかに得すると感じるのは清掃や保存方法などで、消耗が少なくなることである。これで一番溝が浅いのが、右側後輪で、それ以外は殆ど新品に近い感じなのだ。それだけが慰めである。




参照:
DOTでゴムの耐久を確認 2017-08-13 | テクニック
観念は自由、限りなく 2013-11-09 | 文化一般
ぼちぼちと冬の準備 2012-11-03 | 暦
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# by pfaelzerwein | 2017-11-24 22:09 | 雑感 | Trackback

「ヴァルキューレ」一幕後半の放送

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キリル・ペトレンコ指揮「ヴァルキューレ」一幕後半の放送を観た。コンサートのヴィデオは無駄という持論だが、予想以上に興味深かった。先ず何よりもラディオ放送のそれとは、少なくともオンデマンドにおいて、音響が異なっていた。ミキシングが変わっているのかなと思ったぐらいだが、恐らくドルビーサラウンド放送もしているのだろうから、2CHでのそれは変わらないと思う。しかし視覚的な錯覚とは別に明らかに高音も低音も伸びているようで、前に出てくるとともに定位感があって、低弦やティムパニーの迫力などはラディオでは全く分からなかったものだ。全コンサートをしっかりと観たいと思っている。

しかしハイライトでも視覚的に座付き管弦楽団の面子だけでなくて、その表情などがとても面白かった。一番気が付いたのは昨年の欧州ツアーにも乗っていたピッコロの女性の好奇心溢れる視線だ。今回は第三フルートを吹いているのだが、やはり手持無沙汰になると会場の様子を窺っている - 私個人的にもこれを見ていて気になるのは東京の聴衆である。特に音楽が静まってくる時も聞き入るような雰囲気があって、どうしてもどのような顔をして静まり返っているのだろうと気になるのだろう。

クラウス・フォークトが語る「日本人のヴァークナー愛」は舞台裏での話題になっていたことは確かなのだが、それを受けて歌手としても、熱心なファンにもいいところを見せようと、一生懸命に歌っていることがひしひしと伝わってきて、パントラコーヴァ―が絶叫で想定以上の大見えを切ってしまったものだから、ペトレンコが「あれあれ、仕方ないな」となって、それがコンツェルトマイスターリンの表情にも反映されたりしていてとても面白い。

指揮者は暗譜をすることでアイコンタクトを楽員と取れるというのがあるが、チェリビダッケの凝視するようなものとは全く異なるコンタクトがとてもしばしば取られているのを見て、教壇の先生と生徒の様なものだと感じた。特にトュッティ弦楽器などでもコンツェルトマイスターよりも指揮の一撃を見るような俊敏で精妙さがこの演奏の価値を表している。

指揮者本人もこうした形での上演は本望ではなかったであろうが、これだけのタイムレスの歌手とのアンサムブルは舞台ではありえないので、一月の最後の「指輪」での特に「ヴァルキューレ」が益々楽しみになってきた ― そもそもこれのためにツィクルス券を購入した。こうした精妙でリリックな演奏が可能となれば所謂蓋無しの上演での極致を示してくれる可能性がある訳で、それによってようやくこの楽劇を心底楽しめることになる可能性が生じてくる ― アンニャ・カムペのジークリンデの弱音での発声も「マクベス夫人」で実証済みなのでこれまた楽しみである。

この東京公演での「ヴァルキューレ」は、音楽監督が長らく振っておらず、最後に指揮したのは2015年のバイロイトであり、その前の公演では管弦楽団が音を出し過ぎていて評判が悪かったので、また楽団も演奏するのはその秋のシモーネ・ヤングの指揮以来なので、どのような演奏を短時間で纏めてくるのかにとても興味があったのだ。楽団は慣れているとはいいながら少しの練習時間で天晴としか言わざるを得ない ― この練習風景が一番見たかった。

やはり座付き管弦楽団は基本的に舞台の上でオペラを演奏することがないので ― シャンゼリゼ劇場公演やカーネギー公演などを除くと ―、なるほど指揮者が語った「明るい音響だから、いつもよりも明白に演奏してください」の意味を考えさせられるのだ。四週間ほどの演奏旅行で一部の楽員は交代で帰国していたようだが ― 第三オーボエもべルリンフィルでソロで共演した奏者が吹いている ―、疲れも見せずにここまで覚醒して演奏しているのはやはり上手に動機付けが出来ているということなのだろう。

余談であるがヴィデオでこそ感じた印象は、特に女性団員がホテルの美容院かどこかでやってもらっているのだろう、なんとなくその髪の扱い方に東京の美容師のそれが見える。カメラが入るとなるとやはり準備するのだろう。一方まだ熱気の残る東京でお髭を手入れするかと思ったが結局はむさ苦しいままに通したようだ。

それにしても放送のカットなど、少なくともこのヴァルキューレ一幕のハイライトに関しては、最初のマネージャーらしきの口止め風景なども含めて、とてもよく出来ていた。このハイライトだけでもとても貴重な映像となっている。



参照:
思し召しのストリーミング 2017-10-16 | 音
想定を超える大きな反響 2017-10-02 | マスメディア批評
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# by pfaelzerwein | 2017-11-23 21:08 | マスメディア批評 | Trackback

枯木も山の賑わいとか

二日間ほど暖かくなるらしい。最高気温で10度ほど、最低気温からすると20度近く数日間のうちで上昇するので少し荒れるかもしれない。なによりも天気になって、走りに行けた。相変わらずの調子だが、日曜日に山登りをして心拍数を確認したことから、負荷を抑えて走る感覚が身についてきたようだ。更にフォームが安定してきているので、沢沿いの二十数分を比較的楽に走れた。ペースを落としているだけなのだが、朝早くは抑えた方が健康のためだ。

なによりも床屋に行くのが課題だったので間に合うように戻ってきた。シャワーを浴びる時間もなかったので、先ずは店を覗いてみた。知らない顔の女性が二人で、やり手ばあさんは店を投げ出したのかと思った。兎に角、先客もいなかったので直ぐに遣って貰った。比較的若目の女性だ。走ってきたところなのでうなじが濡れていたが、構わないということで始めて貰った。

初めての客の頭なので、いろいろと質問してくる。全体の長さから、うなじの短さなどなどである。サイドに張ってしまうところも念入りに切って、結局前も短くして貰った。刈る方からすると長目は安全なのだが短くしてしまうと伸びるのに時間が掛かるからだという話だった。植木屋でもなんでも同じだが、職人は少しづつ進めるのが基本なのは当然だ。そうこうしているとやり手ばあさんが入ってきた。いい従業員が見つかったようだ。

最初からそれほど短くはしないという、つまりサマーカットではないといったものの、それよりは長めだが充分に刈り上げて貰ったと思う。逆に言うと、あまりにも伸び過ぎていたのだ。前回は調べてみるとどうも8月中旬で、なんと三か月以上伸ばしていたことになる。長い期間だが、理由は何でもない対寒気に備えただけなのだ。通常ならば、うなじがシャツに触れるようになると不愉快になって切ってしまったが、今年はそのお陰で暖を取っていたのだった。流石にみっともないが、やり手ばあさんの手も慣れてきて、それほどひどい状態になっていかったことが大きい。更に運動も、走るときは裸なので、汗は掻いてもそれほど不愉快ではなかった。

しかしこうして刈り上げて貰って、陽射しの下で仕事が出来ると何とも気持ちがよい。彼女にも言ったが、どのような伸び心地になるかは分からないが、楽しみだ。少なくともクリスマス前にミュンヒェンに出かけるころには安定してきていて、早くともその次の「指輪」上演の後に一度行くぐらいだろう。嘗ては一月少し間隔で床屋に出かけていたが、短くすることで大分手間が省けるようになってきた。毛の量が減ったとは思わないのだが、短く刈り込むようにして貰うことで長持ちするようになった。前回はチップを払えなかったので、30%近いチップをそのことを断って付けて20ユーロ払った - いつもこれほど出すと思われると次の時に都合が悪いのだ。

椅子の周りには充分な量の毛が落ちていて、彼女も納得していた。「秋だからね、いや冬だからね。」と言ったが、いい言葉が出なかった。「枯木も山の賑わい」ではないが、適当なドイツ語の言い回しが思い付かなかった。陽射しの下で仕事が少しでも出来ると本当に気持ちがよいと余計に感じた。

これで、金曜日に冬タイヤ、待降節に一直線である。ネットを見ると、二回目の最後の「ヴァルキューレ」上演もすぐに完売したようだ。新制作でもまだ完売までは至っていないプッチーニと比較すると、やはりヴァークナーの力か?



参照:
中々ならない鷹揚自若 2017-08-17 | 生活
教育がナットラン! 2017-05-17 | 女
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# by pfaelzerwein | 2017-11-22 21:06 | 生活 | Trackback

ネジを絞められない話

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オーストリアのインスブルックの谷から手紙が入っていた。町からブルンナー峠へと向かう旧街道筋にある靴屋さんからである。スキー靴の金具が取れたので部品を送ってもらうように手配していたのだが、とても長く掛かった。初めは取り付けに靴を送らなければいけないと持っていたが、レンチでネジ留めするだけで直ることが分かったので、ネジとボルトを送って貰った。

何処にでもあるようなネジだったがマイスターの方でもメーカーに注文したらしい。郵便桶を開けて何かおかしいなと思っていたが、開けてボルトが入っていた。しかしネジが無ければネジが絞められない。そこでメールを送ると、一緒に入れたからもう一度探してくれという。

パジャマに着替えていたが厚いコートを羽織って郵便桶をヘッドラムプで確認したが何も落ちていなかった。よく観察すると宛先の窓のところが破れていた。そんなにうまく外にはみ出すかと思って、中の便箋を見ると二つ穴が開いていて、そこに横にネジを差し込んでいたのが窺がわれた。封筒と合わせると、二つの穴の延長線上が窓の穴の開いているところだった。

なるほどまさかと思うが、そこからネジが外に落ちて紛失したのだった。その写真を早速マイスターの方に送った。現在のマイスターは、前任者の伯父さんの店を継いだのだが、正直職人としてはこうした細かないい加減な仕事は恥ずかしいと思う。本人はどのように思ったかは知らないが、仕事の雑さに通じるような性格を反映していると思う。

紙に挟むのもいかにもプロっぽい感じがするが、せめてテープで固定するかしておけば紛失は避けられた。工房ならば小さなビニール袋に入れるか、少なくともテープぐらいは巻き付けて置くべきだったろう。少なくとも素人の私でも同じものを送るならばもう少し工夫した筈だ。本人はどのように感じたか知らないが、次にはどのようにネジ一つを送ってくるのか?見ものである。



参照:
源流へと戻っていく 2014-12-29 | アウトドーア・環境
少し早めの衣替えの季節 2017-09-16 | 暦
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# by pfaelzerwein | 2017-11-22 03:00 | 雑感 | Trackback

永遠の歓喜に寄せて

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承前)週末に「アインドィツェスレクイエム」の二楽章までをヘルベルト・ブロムシュテットの解説で観た。二楽章では、葬送行進曲が勝利の行進曲になる。ここに来て初めて登場するヴァイオリンの、その音高が雨降りのように上から届き、主題が変形される。弱音付きの響きと、「肉が草になる」無常という同じ教会コラールの変形が響く ― 勿論、雨が降らなければ草は萎れる。

テイムパニーの三連符に注目する。それが上のコラールの大きな盛り上がりに鳴り響く。その交響的歴史と同時に、故郷スェーデンで聞いた反ナチの英国からの放送の思い出が語られる。そのロンドンコーリングのジングルとして、そこにも三連符が使われていて、迫り来るものと同時に開放の響きとして使われていたと追憶される。

そして「Aber」の叫びとともに救済へと勝利の行進へと向かうと、フーガとなる訳だが、その意味合いがこれまた適格に説明される。「フーガを何か複雑なもとと考えるかもしれないが、難しく考える必要はない」と、例えばそれは説教であったり、講演であったり、政治家が語ったりするとき、特に強調したいと思うことをどう表現するか?

「二つの方法があって、一つは声を大きく張り上げてみるとか、もう一つは繰り返すことだ。しかし何度も繰り返すとなると、正気を失ったかなと思われるだろうが、音楽においては物語を綴っていくことができるのだ」と。「それをフーガと称するのだ」と。

そして喜びの感激へと進むのだが、最後に再びティムパニが響いて来るのだが、もはやそこでは脅迫のリズムではなく、永遠に永遠にと引き続く。するとヴァイオリンが天から降りて来て、静かに静かに、それをして音楽芸術にのみなせることで、他の造形芸術などでは不可能な永遠性の表現とする。聞こえるか聞こえないように。それをして、平原に遥かに続く二本の線路を見るように、その二本が平行に続いているのを想像するのと同じだというのだ。それが永遠への想像である。「当然のことながら物理的な弱音の限界はあるのだが、聴衆は音が出ているのか出ていないのかまでを想像する」というのだ。

一楽章の最初は、低弦による永遠性のオルゲルプンクトであると、同時にその変遷を示すとなる。Selige sind, die da Leid tragenの最初のSの濁った響きと第二節の母音での慰めを、ルターの翻訳として評価する。ここは、明らかに今回のヴィーンの合唱団とのツアー公演では、そこの緊張感が充分に構築されていない。なるほど言葉のアーティクレーションの代わりに響きを作る合唱となっている訳だが、その下で管弦楽が出来る限りの仕事をしている。逆行形の主題の上行の喜びへと、ブラームスがあまり使わなかったハープも涙の下行、そして最後の慰めの上行へと、ヘ長調の平安の園へと至る。

このレクイエムの特徴である慰めと平安にも幾らかの不協和音のスパイスが散りばめられていて、甘ったるい危険な蜜のセンチメンタルは混ざっておらず、射影のある深い喜びとしている。その点でも嘗てのゲヴァントハウス管弦楽団とは一味も二味も違う演奏をしているのではなかろうか。その証拠に「我が管弦楽団」と呼ぶデンマークの放送交響楽団はとってもそこまでの演奏をしていない。東京公演の演奏を聞けば聞くほど管弦楽団が全てを支えていることが分かってくる。(続く



参照:
Denn alles Fleisch, es ist wie Gras, Herbert Blomstedt (HappyChannel)
太るのが怖い今日この頃 2017-11-15 | 暦
自分流行語「香辛料」の翁 2017-11-10 | 雑感
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# by pfaelzerwein | 2017-11-20 23:04 | 文化一般 | Trackback

'15年産シュペートブルグンダー

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一週間の締めに山登りコースを走った。週に五回走るのはそれほどなかった。大抵は二回ほどクライミングが入るので、五回走ることは珍しい。山登りコースは冬シーズン初めてで、この冬に何回こなせるか分からないが、先ずは心拍計を着けてペースを落として走ってみた。殆ど160を超えない走りは初めてだったと思う。このペースならば10キロ超えも15キロぐらいまでぐらいは問題ないと思う。それも一つの経験だ。なによりも疲れを残さずに週五回走れたのがよかった。

さて先日IKEAに序に寄ったのは、ハイデルベルクの南の町ライメンのゼーガー醸造所を訪れるためだった。これも送らせることもできたが、情報収集を兼ねてそれを重視した。先々週に電話をしたときに2005年産が販売になっていると確認していたのだが、出遅れている内にDMが来て、プライズリストなどが入っていた。

そこにチラシが入っていて、ドイツ赤ワイン大賞の一位にブラウフレンキッシュが、二位にシュペートブルグンダー「シュペルメン」が入ったと紹介してあった。どのような賞か知らないので、調べてみると、シュペートブルグンダーの一位はワイン街道最北部グリュンシュタットも醸造所マティアス・ガウルが獲得、二位もゼーガー以外のワイン街道北部ご近所の二醸造所と南バーデンの一醸造所である。

個人的に最も興味を引いたのはグローセスゲヴェックスとなっていて、VDPが地所を認証したことになっていることで、嘗てはVDP醸造所でありながらブルゴーニュシステムになっていなかったので、その変化を認めたことだ。木樽を使いながら、果実風味を膨らませ、全くバリック臭を感じさせない、新鮮に開花したブラウフレンキッシュやシュペルマンRの開いたアロマと果実風味は、どのようになしたか謎であるとコメントされている。

その下の所謂テロワーワインはSと称するがこれは樽のタンニンが強く出るタイプで、個人的にはそこまでして飲みたくないというピノノワールである。そしてベースのものは年度によるとタンニンがきつ目で硬い。しかし2015年は十年に一度以上の夏だったので、とても柔らかく、簡単に一本を一人で開けられるようなワインだ。硬いワインの時は、飲み飽きもして、何か不純物があるような感じなのだが、果実がきれいに熟成していたので全くそのような傾向がない。2015年のピノノワールはフランスでもドイツでも同じで、ドイツに関しては十年に一度以上のフランス物に対抗できる年度となった。

それも価格が8.40ユーロなので、フランス物ならば素性の分からないワインなのだが、このゼーガーのワインはハイデルベルガ―セメントの裏山の葡萄で丹念に作られている。これに対抗できるピノはなかなかないと思う。三分の一ほどのボージョレー新種のガメ種とは、全くそのしなやかさや飲みやすさも濃くも深みも違う高品質な食事用ピノノワールである。



参照:
民主主義を叫んだ独裁体制 2016-07-22 | マスメディア批評
価格に注目して貰いたい 2013-10-16 | ワイン
ブルゴーニュらしいピノノワール 2013-08-13 | ワイン
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# by pfaelzerwein | 2017-11-19 22:35 | 試飲百景 | Trackback

爺さん殺しの音楽監督

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そろそろ初日までに一月となった。プッチーニの三部作新制作の情報も少しづつ出てきた。先ずは、ミュンヘンの歌劇場最古参の男性の紹介だ。先ごろ日本で大歓迎を受けた指揮者と同じ90歳の現役で、舞台の背景を埋めるような通行人役が専門の団員である。

齢が語ることはそれだけの説得力がある。若い頃にリヒャルト・シュトラウスの指揮を、その死の数年前に「ローゼンカヴァリエ」の三幕前奏曲で体験しているようだ。そして70年間劇場の聴衆として、ハンス・クナッパーツブッシュやヨゼフ・カイルベルト、エリカ・ケートなどを愛してきて、63歳で務めていた銀行の課長として定年を迎えたことから、憧れの舞台に通行人として応募することになる。それ以降、演出家に重宝されて、シーズンに幾つかの制作に登場しているようだ。ヨーナス・カウフマンとは傍にピッタリ離れずで登場したりしている。

それでも過去の時代を夢想したりすることはないらしい。それは、彼に言わせると、キリル・ペトレンコ指揮の現在のよリもよかったことは嘗て無かったからだそうだ。そして今、「無口な女」に続いて、「三部作」に登場して、手回しオルガンをひいて後ろを音も無く通るらしい。そのヴィリー・ブルンナー爺は、初めて指揮者のところに行き、その登場を音楽に合わせるために総譜に説明を受け取ったというのである ― キリル・ペトレンコからである。それを思い出しただけで鳥肌が立っているブルンナーさんは、長い劇場経験の中で音楽監督が時間を取ってくれることなどと感動しているようだ。

爺さん殺しの音楽監督だと思うが、恐らくこの爺さんが熱心に仕事をしているのは明らかだったのだろう。新演出までの四週間の稽古中に一キロ痩せるという。フィットネスであり、趣味であり、生活だという。演出家女史のところに行っても相手にされず、経験で適当にやってくださいとしか言われなかったのであろう。音楽的にはそれほど厳密ではない演出家なのかもしれない。この情景がどこに出てくるのか?そろそろお勉強をしていかなければいけない。

週末は、先ずは「アインドイツェスレクイエム」の第二回目放送だ。楽譜を見ながらブロムシュテットの解説とともに聞いていこう。プッチーニのお勉強もそろそろ始めるとなると、またあまり時間が無くなってきている。

週間に四回走った。日曜日に山登りが出来れば、先週分のなまけが取り返せる。体重も増加分を再び戻せるかもしれない。動機付けが出来るかどうか?リースリングを冷やして、出来上がりのローストビーフを購入しておいた。これぐらいか?




参照:
Der Dienstälteste, Milena Fritzsche, Süddeutsche Zeitung vom 14.11.2017
キリル・ペトレンコの十年 2017-11-12 | 文化一般
アインドィツェスレクイエム 2017-11-13 | 文化一般
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# by pfaelzerwein | 2017-11-18 22:49 | 雑感 | Trackback

居心地もいけるかな

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久しぶりにIKEAに出かけた。ワインを取りに行く序である。嘗ては最も近い支店で、SAPのある町ヴァ―ルドルフにある支店である。最近はマンハイム支店にしか行かなかったので、十年ぶりぐらいだろうか。駐車場に停めて、店内を一周して来ないと買えないので無駄な時間ばかり掛かり、効率的ではないのだが、ネットで発注すると高めの送料などを取られるので、二品購入してきた。

一つは、籠り部屋の木の椅子に乗せるクッションで、ヘタレてお尻が痛くなってきたので、それを探した。しかし何年も経っているとそのKAUSTUBYと称する椅子自体は販売していても、そのとき買った都合のよいクッションは製造していない。そこでそれに近い寸法のを選ぶのだが、ネットで見つけたものを探す。店頭で見ていると、その椅子にはほかのタイプのクッションが推奨されていて、今まで使っていたものよりも機能が悪そうで話しにならなかった。そこで結局ネットで目星をつけて採寸したものを購入した。問題は、その生成りの生地よりも、その薄さが半分しかないことで、今まで使っているものと重ねて使うしかないと思った。

もう一つは、バスルームの目隠しに使っている窓のロールが破れてきたので、それの代わりになるものを購入した。ネットで目星をつけていたものは白色に関わらず厚過ぎて完全に陽射し除けだった。薄過ぎず、厚過ぎずを探した。幅が少し長くなっているので、付け替えようか短く切って張り替えようかなど暇を見つけて作業しなければいけない。15ユーロだった。

ADMETEと称するクッションの方はIKEAのその椅子への推薦ではなかったので心配したが、実際に重ねて見ると全く同じ形状で完璧だった。それが最も安い商品で9.99ユーロだったのであまり売りたくないのだろう。嘗ては安くて手軽で、ドイツでのIKEAの全盛期は十数年前だったと思う。今も買えるものはあるが以前ほど安いとは思わないようになった。

店頭で見ながら、レジで待ちながら、もはやネットでの購入の方が良いものを買えるという確信は変わらなかった。それゆえにその基本方針を変えてネットでも販売するようになったのだろうが、そのようになればなるほど競争力は落ちてくると思う。

上のようにいつまでも商品を供給できていないとか、生半可に商品を整理していると益々その魅力が薄れていくと思う。すぐに使えなくなるようなものなら買わない方がよい。IKEAの一度目の障壁は、刑務所製造とかいうその商品製造コストの問題で、今はネットでの競争力ということになるのだろうか。



参照:
途上IKEAでのショッピング 2012-12-11 | 生活
珍商品に感想して高鼾 2012-12-17 | 生活
ナヴィで目指すところ 2016-02-06 | 雑感
英国製の高価な買い物 2016-10-03 | 生活
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# by pfaelzerwein | 2017-11-18 00:12 | 生活 | Trackback