居心地もいけるかな

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久しぶりにIKEAに出かけた。ワインを取りに行く序である。嘗ては最も近い支店で、SAPのある町ヴァ―ルドルフにある支店である。最近はマンハイム支店にしか行かなかったので、十年ぶりぐらいだろうか。駐車場に停めて、店内を一周して来ないと買えないので無駄な時間ばかり掛かり、効率的ではないのだが、ネットで発注すると高めの送料などを取られるので、二品購入してきた。

一つは、籠り部屋の木の椅子に乗せるクッションで、ヘタレてお尻が痛くなってきたので、それを探した。しかし何年も経っているとそのKAUSTUBYと称する椅子自体は販売していても、そのとき買った都合のよいクッションは製造していない。そこでそれに近い寸法のを選ぶのだが、ネットで見つけたものを探す。店頭で見ていると、その椅子にはほかのタイプのクッションが推奨されていて、今まで使っていたものよりも機能が悪そうで話しにならなかった。そこで結局ネットで目星をつけて採寸したものを購入した。問題は、その生成りの生地よりも、その薄さが半分しかないことで、今まで使っているものと重ねて使うしかないと思った。

もう一つは、バスルームの目隠しに使っている窓のロールが破れてきたので、それの代わりになるものを購入した。ネットで目星をつけていたものは白色に関わらず厚過ぎて完全に陽射し除けだった。薄過ぎず、厚過ぎずを探した。幅が少し長くなっているので、付け替えようか短く切って張り替えようかなど暇を見つけて作業しなければいけない。15ユーロだった。

ADMETEと称するクッションの方はIKEAのその椅子への推薦ではなかったので心配したが、実際に重ねて見ると全く同じ形状で完璧だった。それが最も安い商品で9.99ユーロだったのであまり売りたくないのだろう。嘗ては安くて手軽で、ドイツでのIKEAの全盛期は十数年前だったと思う。今も買えるものはあるが以前ほど安いとは思わないようになった。

店頭で見ながら、レジで待ちながら、もはやネットでの購入の方が良いものを買えるという確信は変わらなかった。それゆえにその基本方針を変えてネットでも販売するようになったのだろうが、そのようになればなるほど競争力は落ちてくると思う。

上のようにいつまでも商品を供給できていないとか、生半可に商品を整理していると益々その魅力が薄れていくと思う。すぐに使えなくなるようなものなら買わない方がよい。IKEAの一度目の障壁は、刑務所製造とかいうその商品製造コストの問題で、今はネットでの競争力ということになるのだろうか。



参照:
途上IKEAでのショッピング 2012-12-11 | 生活
珍商品に感想して高鼾 2012-12-17 | 生活
ナヴィで目指すところ 2016-02-06 | 雑感
英国製の高価な買い物 2016-10-03 | 生活
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# by pfaelzerwein | 2017-11-18 00:12 | 生活 | Trackback

ザルツブルク、再び?

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歌手のラッセル・トーマスが、ネット活動を、フォロワーを増やす為に、頑張ると書いている。今までは殆ど自身の書き込みをしてこなかったからで、キャリア的にも重要だとなったのだろう。今年の夏のザルツブルクのハイライトは「ティートの寛容」でのピーター・セラーズの演出だったと確信しているが、その中でも絶賛されたフランス人女性歌手や非芸術的な指揮者よりも、もし新生ザルツブルクがあるならば、アフリカ人歌手ゴルダ・シュルツや最も歌唱的に評価の低かったトーマスがその中心だったと確信している。

前者の方は大阪出身の中村絵里や先ごろ日本公演にも同行したハンナ・ミュラーに代わってペトレンコ指揮の最後の「指輪」に登場するが、トーマスの方は先日メトロポリタン初のアフロアメリカンの「ラボエーム」を歌っている。そこで、メトロポリタンで「黒人による黒人のためのキャスティングをやるべき」と書いていて、正直そのような社会状況は欧州にいるとよく分からない。我々からするとアパルトヘイトにしか映らないく、その主旨は想像するしかないのである。少なくとも同じく「寛容」にも出ていたワイヤード・ホワイトが先月ラトル指揮の「女狐」に出ていて、その出演を黒人云々を感じる人などはまれな筈である。

そもそもピーター・セラーズの演出自体は、そうした社会的な環境をも投影しながらの本質的な劇表現へと、その配役などを熟慮しており、各々の表現の可能性をとことん追求したことから、とても力強い演劇性をもたらしていた。その演劇性が劇場空間を取り巻くそのザルツブルクの環境へと広がっていくのはいつものことながら天才的と言わざるを得なかった。そこにこそ、初めてペトレンコの謂わんとする「考えてみる」劇場の娯楽を超えた、芸術的な価値があるのだ。

その中で、ザルツカムマーグートなどでの蛮行をバイエルンの放送局が伝えて、その舞台にそうした環境が反映しても不思議ではないと語ったのがこのトーマスであり、今繰り返しその終幕の終景の歌唱と演技を観ると、フランス人の歌唱などよりも、現地に足を運んでいないながらも、その歌唱とシュルツの終幕のシーンにこの夏のザルツブルクの集約されていたのではないかとの思いに至る。

余談ながら、来年度の夏のプログラムを見たりするのに、ログインしようとしたらパスワードを忘れていた。メールアドレスを入れるとしっかりと戻ってきた。更にパトロンの金額まで書いてあった、驚いた。パトロンを辞めてからしかネット申請はしていない筈だが、個人情報は活きているのかもしれない。しかし上の上演にしても少なくとも音楽的にはもう少しましでなければ、再び遠くザルツブルクまで日帰りするほどの気持ちは湧かない。バーデンバーデンに逸早くそこまでの芸術性を発揮してもらいたいと願わずにはいられない。



参照:
Go home & never come back! 2017-08-24 | 歴史・時事
ピリ辛感が残る最後 2017-08-22 | ワイン
反レーシズム世界の寛容 2017-08-11 | 文化一般
金ではない、そこにあるのは 2017-08-23 | 雑感
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# by pfaelzerwein | 2017-11-16 22:23 | 文化一般 | Trackback

汲めども汲めども尽きない

新聞の経済欄にアマゾンなどでの極東からの商品の脱税行為について書かれていた。アマゾンとオークションのイーベイに対して、税務当局が質問状を出したようだが、回答を得られていないようだ。租税の被害額は三桁ミリオンほどのようだが、放置はしておけないということらしい。

それらしいものは何回か注文したことがある。ケーブルの接合アダブターなどだ。殆ど価値がない2ユーロほどのものなので、関税上は問題なならなくても、売上税にすると塵も積もればの額になるのだろう。

極東とは言ってもメインチャイナが殆どのようで電化製品関係が多いのは御多分に漏れずである。どのように税に転化していくかなどは、将来的な無関税時代を考えるととても興味深い。

月曜日には煮豚にリースリングを開けた。先日持ち帰ったレープホルツ醸造所の「フォムブントザントシュタイン」である。その前に開けた「オェコノミラート」の上位の葡萄で土壌はほとんど同じか早摘みなだけの違いである。

購入時には飴を舐めていてよくわからなかったが、この醸造所のものにしては香りも豊かで、二日目ともなればリンゴや花の香りがあり、若干ハチミツに近付いているかもしれないが、そこまでいかないで留まっている。この時点で黄色系の果実があり、木の香りがあるのだが葡萄の健康状態には心配はなさそうだ。そのような塩梅で二年後には完熟していると思われる。ミネラルも香りが出てくると感じ難くなるのだが、十分に存在感がある。

それにしても2グラムほどの残糖と言い、ドイツの辛口の一つの極を行くリースリングで、味わい深くなっている分、汲めども汲めども尽きないような喜びに出合えるワインである。複雑さは必ずしも小難しさに繋がらない、そうしたリースリングである。



参照:
キレキレのリースリング 2017-11-11 | ワイン
三つの穴を埋めた気持 2016-09-01 | テクニック
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# by pfaelzerwein | 2017-11-16 02:35 | ワイン | Trackback

太るのが怖い今日この頃

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冬タイヤ交換のアポイントメントを月末に取った。これで安心だ、クリスマス前のミュンヘン行きに備えられる。日曜日は初雪となって、少し白くなった。白くなると明くる日に車が出せるかなどと考えて心配になる。本格的な雪にはならなかったが、翌朝の峠攻めの森の端々に少し白いものが残っていた。先週は雨が続いていたので体が動かせずに気分が悪かった。挽回するべく月曜日から走り始めた。週内に四回は走れるだろうか。寒いがまだ凍結するようではなくて、何時かの方が寒かった。それでも湿気があると流石に走り出しても戻ってきても寒い。裸で走っているのも気が狂っているようにしか思われないかもしれないが、汗をびっしょり掻くよりも走りやすいのだ。

兎に角、太るのが怖い。それでも少し走ると73kg台に落ちてきている。そのようなことで運動をしない限りあまり食事もしないことにしている。幸いこの間風邪をひくこともなかったので良かった。運動すればそれだけ供給すればよい。

天候が悪い間、幾つかの放送などをネットで聞いた。どれもこれももう少し繰り返して聞いてみなければ何とも言えない。クリーヴランド管弦楽団のエルプフィルハーモニーでの演奏も本拠地での録音と比較して、録音技術的にはよかったが、その会場がどれほど有利に働いているかはよく分からない。ただしベートーヴェンの弦楽四重奏のチェロパートの低音がさらに軽みをもって響いているのは更に良かった。

宗教局のブラームスの「レクイエム」シリーズもブロムシュテット本人の解説を交えて、ヴィーン訛りとは異なるドイツ語のプロフェッショナルな合唱を聞けるので、楽譜をDLして続きが楽しみになってきた。どうもNHKからの中継放送を聞くとその指揮者本人の解説との齟齬を感じて、違和感がとても強かったので、デンマークでの演奏を真剣に聞いてみる必要が出てきた。

それでもこの指揮者が、日本でと同じように人気のあるライプチッヒなどのローカルを除いて、「ドイツでは、なぜあまり評価されていないか」がよく分かる放送だった。同時に、この人に人気が集まる日本のドイツ音楽需要の一端が見えたようでこれもとても興味深かった。その特殊な趣向が決して悪いとは言わないが、専門家も含めてその自覚がない限り創造的な音楽需要とはならないに違いない。ジャーナリズムの責任である。

面白いのは、NHKホールでの静まり返った終止のところでの異様な拍手が話題になっているが ― あの人は、あのヴィーン訛りのいかさまに腹を立てた意志の強いプロテスタントなのか、それとも音楽が分からない人なのか? ―、パリ公演では皆がそれについて来て指揮者のエゴを許さず皆で潰してしまったようである。バーデンバーデンでのブルックナーの後でも間をもたせた指揮者だが、「レクイエム」とは違って、若干間抜けな感じがしたことも付け加えておこう。こうしたところも日本ほどには誰もそこまでついていけないこの指揮者のエゴなのだろう。

余談だが、NHK放送のロ短調ミサの動画を観ていて気になっていたのは、ソロを務めたゲヴァントハウスのコンサートマスターの顔だ。ベルリンで先日まで第二プルトで弾いていた人と似ていたからだ。調べてみると、今年からゲヴァントハウスに入ったアンドレアス・ブシャッツという人で、昨年までベルリンで「英雄の生涯」のソロも弾いていて、リゲティなども弾いている。バーデンバーデンでは乗っていなかったのでツアー中はオペラを練習しているのだろうか。世界最大の管弦楽団で補強もしっかり出来ているのは当然かもしれない。メムバー表にはその横に禿げ頭のコンラート・ズスケという人の写真が載っていて、あの有名なズスケの息子さんのようである。

先日購入したSONYのCDも流した。折角ドイツのピアニストとして売り出したにもかかわらず、その売り出し方などが稚拙で上手く行かなかったような気がする。なるほどマルティン・シュタットフェルトの最大の強みは欧州人らしくなく指が回ることなのだが、そのまま満州人ランランと勝負しても話しにならないので、やはりプロデュースの問題があったと思う。もう少し上手い方法がある筈だ。



参照:
アインドィツェスレクイエム 2017-11-13 | 文化一般
土人に人気の卒寿指揮者 2017-11-07 | 歴史・時事
細い筆先のエアーポケット 2017-11-03 | 音
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# by pfaelzerwein | 2017-11-15 00:37 | | Trackback

十年先のペトレンコを読む

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承前)キリル・ペトレンコへのインタヴュー、前半では古楽器とモーツァルトの演奏実践について触れられた。この件は、先週掲載された日本での記者会見での質問について触れたノイエズルヒャーツャイテュングにも、ミュンヘンでのただ二つ上手くいかなかった演奏として新演出の「ティトスの寛容」と「ルチア」についての言及があった。その後、ベルリンでハフナー交響曲を振って成功しているので、態々前任者のケント・ナガノとの共通性とするまでもないと思った。それに関しては歴史的な演奏実践として後半で再び繰り返される。

もう一点、見逃せない言及は。テムポに関してと同時代性に関しての「古い録音」への言及だろう。これに関しては、リヒャルト・シュトラウス演奏実践に関して作曲家の録音や同時代の録音をこの天才指揮者も聞いている筈だと書いたことがあるが、後半でこれに関連する方へと質問が進む。


ご自身を昔風の指揮者と考えますか?

確かに、80年代のサウンドフェチの指揮者よりは確かに昔風の音楽家でしょう。どんな音楽家もあまりに立派で鳴り渡る音響を追い求めようとすると、明確な表現を失いがちとなります。しかし今はその傾向は再び反転しているのは長く知られるところで、作品の本質へと迫ろうとしています。それどころか、チャイコフスキーの「悲愴」をノンヴィブラートで弾かせようとする指揮者までいます。全くバカバカしい!もし当時そのようであったならば、作曲家は同時代人から理解されないと感じたことであり、次代の人によってそのように刻まれていた。それは、当時の管弦楽のための音楽ではなく、想像の管弦楽のものだったのですよ。全ての色彩への精神の音楽というものです。

コーミッシェオパーの上演プログラムは、バルトークからモダーンまで至っていますが、座付き管弦楽団というのは専門化するクラシック音楽界という意味で、全く対抗できるのでしょうか?

全くもって。管弦楽というのは、様々な時代の音楽を演奏するものだという見解です。専門楽団と競争しないならそれはもはや必要ないということですよ。勿論それは、敗北しないで、挑戦するという課題です。例えばグルックのオペラでのある箇所で、古楽器がやるよりも更なるダイナミック一撃を、モダーンな楽器の構築的な音響的な可能性を以って可能にしようということです。

これだけの成功したコーミッシェオパーの時代でしたが、一つの初演も五年間で行っていませんね。

認めておかないといけないのは、それよりもモーツェルトでのことについて語る方が重要だということです。勿論新しい音楽へのスペクトラムを投げかけるのは当然です。しかし私がここに来ての、最優先課題は、レパートリー上演の質の向上でありました。そこでは、全くなんでもなく、新しい音楽に向けるというような時間はなかったのです。

ベルリンでは、あなたの管弦楽やフィルハーモニカーへの客演としてコンサート指揮者として登場しました。それでも主にオペラ指揮者と見做されています。それはキャリアーにおいて偶然だったのか、それともオペラは指揮者として背骨に当たるのでしょうか?

実際私のエージェントが、謂わばオペラへ放り込んだって感じですか。学生時代は、寧ろコンサート指揮者だと見てましたし、あんまり歌劇場の音楽監督なんて見ていなかった。八年間は歌劇場の音楽監督で、先ずはマイニンゲン、そしてベルリン、背骨になったとも言える、そしてこれからもまたそのようであり得ます。今モーツァルトの交響曲を指揮すれば、そこにとても多くのオペラを聞き、チャイコフスキーやシュトラウスにおいても変わりないです。これらの作曲家にとっては、オペラは創造の背骨でした。

ベルリンを後にしてからのご計画は、いつベルリンに客演に戻ってこられますか?

先ず何よりも二年間は間隔が欲しい、自身の地平線を広げるためにです。先ず定まったポストには就きません。過去八年間はとても大変でした。毎朝十時に劇場に行って、十時前に自宅に戻ることは殆どなかったです。劇場に食い尽くされた。コンサートには再びベルリンに戻ってきます。しかしここでオペラをやるまでには大分掛かるでしょう。今はこの間に欠けていたものを取り戻して:例えばベートーヴェンとブラームスの交響曲を継続的に研究することです。

つまり、ベルリンではペトレンコの半分も体験できなかったということですね。

そう、あと半分は後追いで配達しますよ。(終わり)


更に重要なキーワードが幾つか出てきた。古楽器、座付き、交響楽団などのあり方で、特に座付き管弦楽団のあり方に関して言及していて、その多様性のあり方を目していて、現在のミュンヘンのそれがどのような方向に進むべきかの指揮者としての視点が読み取れる。同時に逆に推測するとベルリンのフィルハーモニカーが今後どの方向に進むべきかの示唆がここにある。

もう一つは、ミュンヘンの歌劇場の日本公演でも話題になり、また恐らく現在世界最高のクリーヴランド管弦楽団の欧州公演でもはっきりした傾向であり、また反対に指揮者シャイ―の薫陶により管弦楽団として通るようになったゲヴァントハウス管弦楽団のように、嘗てのつまりカラヤン世代の響きは過去のものとなって、それ以前のように管弦楽団が音楽の本質的な表現へと向かうようになったとする私見も、キリル・ペトレンコがここで十年前に裏打ちしていた。またまたノンヴィブラートの指揮者ノーターリンなどを一撃する放言があって、これまた恐ろしい。シュトッツガルトには、政治と金しかなくて、まともなアーティストプロデューサーが存在しない。

もう一つは、あの時点でべ―ト―ヴェンは兎も角、ブラームスにも言及していることだ。これは注目に値する。先月の交響曲四番に続いて、来年はドッペルコンツェルトをカーネギーホールで指揮する。第四番の印象では、通常よりも細かに楽譜を読み解くことで、その形式感や作曲上の狙いを聞きとらせて、絶大な効果を上げる。それだけ十年も掛けて読み込んでいるということだろうが、この指揮者はただブラームスに集中することだけが目的ではない筈なので、そこが次の十年への土台となるということだろう。ベートーヴェンに関しては来年の夏にその研究の結果が聞かれると言うことだ ― 既に台北の練習風景動画でその方向性は予測可能となっている。



参照:
"Unser Publikum weiß, dass es mitdenken soll", Das Gespräch mit Kirill Petrenko führte Jörg Köningsdorf (Der Tagesspiegel)
Nach Tokio! Nach Rom! 2017-09-15 | 音
シャコンヌ主題の表徴 2017-10-13 | 音
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# by pfaelzerwein | 2017-11-13 21:18 | 文化一般 | Trackback

アインドィツェスレクイエム

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ヘルベルト・ブロムシュテットのブラームス「アインドィツェスレクイエム」シリーズ初回の番組を観た。30分番組の八回なので、ルツェルンの自室での本人の解説が半分以上だ。娘さん家族の家のようだが、アップライトのピアノしか置いていなくて、世界の大指揮者になった今としては何か特別に質素に感じる。中産階級としても少なくともフリューゲルは置いてあってもと思うのだが ― その書斎も老人の籠り部屋の広さほどでしかない ―、そこは娘さんの居候の身で仕方がないのだろうか。勿論財産は財団を作れるほどに大分貯めているのだろうが、一流人の仕事部屋にしてはとどうしても思う ― その宗教は清貧を説いているのであろうか。一流指揮者と言われる人でアップライトを使っている人は例えピアノが下手だとしてもそれほどいないと思うのだが、どうだろう ― どうもよく見ると後ろは壁になっていてフリューゲルを置いてあるようで、とんだ勘違いでも笑ってしまう。

そんなことはどうでもよい。やはりこの人の話には味がある。その解説にしても、音楽構造的なものを明らかにしながらいつもの調子でボンボンと歌う。一般の音楽愛好家に分かりやすい話をしているのだが、技術的な話を別にすると指揮台の上でも同じことを語っているに違いないと思った。やはりよく楽譜を読んでいるだけでなく、ここではルターのバイブルのテキストの韻にも、また原曲となる讃美歌も口ずさみながらのサーヴィス満点の解説だ。

この放送の本局はダルムシュタットの山の上にあるようだが、放送時刻が決まっていてもそれ以前にオンデマンドで呼び出せるようになっていて、生以上の映像をMP4で落とせるようになっていてこれがまたとても親切だ。演奏の方はデンマークの放送管弦楽団でゲヴァントハウスとは比較できないようで音響的には物足りなさを感じたが、番組自体は続きがとても楽しみになった ― ゲヴァントハウス管弦楽団の月曜日のNHKホールからの中継も楽しみだ。(続く))

先日発注したCDの中でライヴ録音と知っていて注文したフランクフルトの「パレストリーナ」が思っていた以上に聞き堪えがある。触りで聞いたようにそこの歌劇場の管弦楽団はそれほど良くないが、やはりコーミッシュェオパーとは違う。客演のキリル・ペトレンコの凝縮した響きで粗はあってもなかなか迫力がある。ミュンヘンでの初日の悪い時もそれほど変わらないので生録音のコレクションが一つ増えた感じで楽しめる。3枚組10ユーロしなければ、その豪華ブックレット製作費と考えれば、まあまあだろう。制作のプローベの簡単な動画などを付け加えておけば記録的価値が上がったと思う。



参照:
Selig sind, die da Leid tragen (HappyChannel)
いぶし銀のブルックナー音響 2017-10-31 | 音
自分流行語「香辛料」の翁 2017-11-10 | 雑感
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# by pfaelzerwein | 2017-11-12 18:45 | 文化一般 | Trackback

キリル・ペトレンコの十年

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2007年6月29日のターゲスシュピーゲル紙が面白い。キリル・ペトレンコの残されたインタヴューとして数少ない貴重なものだ。そしてその内容を読むとこの天才指揮者の今の活動の伏線の様なものが読み取れ、過去の十年から先の十年が想定可能となる。勿論相手は天才であるから量子的な跳躍までは我々凡人には予想もつかない。折角であるから忠実に訳しておこう。

ペトレンコさん、丁度コーミッシェオパーが上昇機運にあるというところで去られますが、本来は今こそ、過去五年間のお仕事の実りを摘み取ることも可能だったのではないでしょうか。

私は、辞めるのにこれ以上にまたとない時と思ってます。コーミッシェオパーがベルリンのオペラシーンでそのプロフィールが強化されたので、いい感じで去れるのです。そのプロフィールというのは、スターテアターではない、毎晩指揮者から舞台の裏方さんまでの尽力で出来上がっているという劇場です。最後の数年間は、市の劇場として本質的に求められているものに新たな感覚を注ぎ込めたと思ってます。そして聴衆は、ここに来てただ娯楽をするのではなく、一緒に考えなきゃとなっている。強い反応から拒否までそこでは想定されているのです。

その考えてみようというのは、先ず何よりも演出となって、その限りにおいてはですね、音楽的には別な結果を出すということにはなりませんか?

私のいつもの目標の最上位は、伝統やルーティンによって楽譜に溜まっている埃を取り除くことです。最後の新制作となった「微笑みの国」がとても良い例です。しばしばこの作品はポップ音楽に下げられて、いくつかのカットがなされて、テキストの厚いところでは管弦楽のパートも削られます。そこは、レハールの楽譜ではとても豊かな色彩とユニークなハーモニーがあるところです。それは、しばしばマーラーの、初期シェーンベルクをのも想起させ、宋チョン皇太子の動機は、殆ど「ヴォツェック」のように響きます。ですから、その深層を音化するのです。

演出からの影響を実践するということはありますか?ツェリカート・ビエイトの「(後宮からの)逃走」の激しさは、モーツァルトの響きとして尋常ならない過激さに反映されていたと思いますが。

あれは、寧ろ幸運な例で、上手くいきました。しかしモーツァルトの響きはヴィーンでの学生時代に形作られたもので、理論的にはニコラウス・アーノンクールのを批判的に研究したものです。コーミシェオパーでは、モーツァルトは可能な限り集中的に音楽を言語として扱い、その動機が、舞台上では全く語られていないのにも拘らず、溢していることです。エッジの効いた、透明なモーツァルトの響きにはとても満足で、この後五年間はモーツァルト休止にするつもりです。自身のモーツァルト演奏は恐らくその後は今ほど過激には響かなくなるでしょう。

古楽器の演奏実践は、指揮者キリル・ペトレンコのモーツァルトにとって重要なのか、それとも様式的にとても注意深いとされるのか?

それは本当に私にとっては基本的なことであります。ヴァイルの「マハゴニー」では、`20年代のジャズを聞くのです、昔のジャズです。古い録音で、とても重要な考えに当たります、しかしそれはドグマではありません。「ローゼンカヴァリエ」などは初演当時は今私が振るよりも間違いなく早いテムポで演奏されていました。細部まで明白にしようとして、しばしば遅くなることがあります。それでもきっとそれらの個所を今は再び早く指揮していると思います。自問自答すると、屡それが好ましいと思っているのですね。そのようなこともあって、コーミッシェオパーでは、「イェヌーファ」、「ローゼンカヴァリエ」とか「オイゲンオネーギン」などを何年かに亘って指揮して、そうやって自身の見解を発展させる機会を活かしました。(続く



参照:
インタヴュー、時間の無駄一 2016-07-20 | 文化一般

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# by pfaelzerwein | 2017-11-11 23:18 | 文化一般 | Trackback

キレキレのリースリング

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レープホルツ醸造所にワインを取りに行った。序に内履きを買いに行こうと思ったので、ぐずぐずしていた。醸造所から20分ほど掛かるからだ。距離もあるが、今回は迂回路など自宅から一時間半以上ほど掛かっただろう。その価値があったかどうか。先ずは今使っていて内底が敗れたのと同じものが安売りで出ていた。同じ大きさの43は無かったが、44を19ユーロで購入した。前回よりは20ユーロは安いと思う。他の商品を探してもそれ以上に良さそうなものはない。夏用の内履きサンダルは夏まで使用していたものと同じものはなく、直ぐに傷みそうなものしかなかった。本当は、折角車を走らせたので、買いたかったのだが、価値の無いものを購入しても仕方がないので諦めた。

三種類の雑食砂岩リースリングを試飲して、更に「ロートリーゲンデス」のリースリングを試飲したが。移動の車の中で飴を舐めていたのでよく分からなかった。それでも例年になく辛口仕上がりで、「オェコノミラート」なども売れ残っている。大抵は9月には売り切れているので如何に厳しいリースリングかが知れる。それでも、酸自体も比較的こなれていて、葉緑素の味もあり、ミネラルをも楽しめるのがお買い得だ。流石に上位の「フォムブントザントシュタイン」は広がりがあって、春に試した時と変わらない。何本買おうかと考える。ここ暫くは6本づつ購入していたのでと思うのだが、今年は「オェコノミラート」6本とグローセスゲヴェックス「ガンツホルン」3本を予約してあったので、残り3本にするか6本にするかの判断が必要だった。そして「ガンツホルン」を初めて試すと、やはり塩気と香りがあってこれは瓶熟成が楽しみだと思った。そのためにもパイロットワインとして「フォムブントシュタイン」も6本購入した。

「ロートリンゲス」も綺麗な辛口になっているのだが、この手の土壌になると他所の醸造所のものでもいいなと思った。雑食砂岩のようにキレキレのリースリングではないからだ。これで冬の間も楽しめそうである。春に6本しか購入しなかった埋め合わせとなった。



参照:
とてもちぐはぐな一週間 2012-05-19 | 生活
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# by pfaelzerwein | 2017-11-11 07:02 | ワイン | Trackback

自分流行語「香辛料」の翁

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セヴンスデー・アドヴェンティスト教会の放送が面白い。そもそもこの教会にも管弦楽団の況してや爺さんの指揮者にそれほど興味がないのだが、卒寿の指揮者ブロムシュテットが登場して、音楽や身辺の話をしているのが面白い。日本で人気があり、馴染み深いこの音楽家への興味は、こちらでは先ず何よりも最初にその健康の秘訣への関心ということになり、それは世界のどこでも同じではなかろうか。日本や極東の儒教の教えから導かれる漠然とした気持ちはないかもしれないが、高齢者がこのように生き生きとして楽しそうに話すのを聞くと、少なくとも一体何がそんなに素晴らしいのだろうと関心を引き起こすのは当然だと思う。

二つのヴィデオを観て、芸術に関してはゲヴァントハウスの管弦楽団を称して、お勤めの日曜礼拝での任務が、キリスト者でない楽員の若者にも与える影響を語っていて、音楽に対する真剣なものを皆自然に持ち合わせるようになると言う。そして、「最もゲヴァントハウスの管弦楽団は、音楽に対峙する真摯なものを持っている。」と語る。

これは札幌公演でも感想の中にその舞台での態度などについて触れたものがあって ― 後ろを振り返るのは新ゲヴァントハウスで慣れているからだろうが、そのようなところまで見られているのかと思ったのだが、ブロムシュテットのこの言及はこれに通じるところがあると感じた。我々はどうしてもカトリックにおけるそれとプロテスタントにおけるその態度の差をどうしても先入観念として持っているので、プロテスタント圏のある種のふてふてしさを思い描くのだが、簡単に日曜礼拝の雰囲気と読み替えてもよいだろうか。ごく一般的な日本人が神社参る感覚と寺廻をする感覚の相違の様なものを想像して貰えるとよいかもしれない。恐らく仏教の家庭にとっても、神社のそれの方が国家神道的な権威をどこかに感じているかもしれないということだ。

そしてこの老指揮者は、「コンサートの前にはお祈りなどすることがない」と言っている。番組上その信仰との関係に触れるのは当然で、この教派がどのようなものかはよく分からないが、そのように簡単にあしらって、「自分自身の生活自体が信仰だ」と言うのはとても強いメッセージ性があった。その一方で、番組に配慮して、「お祈りはしますけど」と断っているのが、おかしかった。

もう一つは、ルツェルンの娘さんの多世代家庭の自宅からの風景で、お誕生日のプレゼントの料理本を手に語る場面だ。「ポルシェやピカソの絵画をプレゼントされるよりもこれに価値があるんだ」と言うのがまた面白い。なるほどあの爺さんならばポルシェでぶっ飛ばすぐらいお茶の子さいさいだろう。その朝食が簡単なオートミールの様なものに野イチゴ類の季節のものを混ぜるようだが、スェーデンの暮らしとか本人のルーツを強く感じさせて、これがまた味わい深い ― まるで、終止の音の後で立ち尽くすこの老指揮者が感じている、余韻の様なものだろうか。

そしてそうした贅沢品をして、ブロムシュテットは「それらは人生のただのスパイスにしか過ぎない」と、全く同じようにゲヴァントハウスにおける「19世紀以外のバッロックや近代音楽のレパートリーをスパイスだ」と断言する ― このあたりにこの人が18代首席指揮者をしていた時の管弦楽の冴えない響き感がよく出ている。

月曜日にはNHKホールから「アインドィツェスレクイエム」の中継がある。土曜日からデンマークでの同じ曲の演奏会中継録画が30分づつ放送される。11月の時期がらとても楽しみにしている。まさしく鬱陶しい11月の生活での香辛料だ。



参照:
Selig sind, die da Leid tragen,
Das Gewandhausorchester Leipzig,
Freude statt Luxus, (HopeChannel)
土人に人気の卒寿指揮者 2017-11-07 | 歴史・時事
いぶし銀のブルックナー音響 2017-10-31 | 音 
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# by pfaelzerwein | 2017-11-09 21:06 | 雑感 | Trackback

遠隔から取捨選択する

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ザルツブルク音楽祭2018年の詳細内容が発表された。数日前からハイライトは知らされていたが、これで2018年のベルリンのフィルハーモニカーのオープニングプログラムが分かった。交響詩「ドンファン」と「死と変容」、ベートーヴェンの交響曲七番のようだ ― 七番は台北でお披露目していたので、あとはブラームスが気になるところである。このプログラムで、キリル・ペトレンコはザルツブルクデビューとなるのだろう。どこかの新聞のバカ親仁が「2019年のデビューに向けて古典派を準備しなければいけない」などとデマ情報を流していたものだから、私も騙されていた。いつものように二つ目のプログラムは、四月のベルリンで演奏されるデュカ作曲「ラぺリ」、プロコフィエフ作ピアノ協奏曲三番、シュミットの交響曲4番となる。

こうして二つのプログラムの曲を合わせると多彩な内容となり、殆どこのコンサート指揮者のメインレパートリーの外堀を徐々に埋めてきている。兎に角、ベルリンにまで行かなくても手近なところで、二つのプログラムをよくさらった状態で、本拠地以上のその演奏を体験することが可能となる。こうして徐々にバーデンバーデンでのオペラデビューへと近づいて行っている。

クロームキャストが届いた。早速取り付けてみた。先ず、セットアップとアップデートに10分以上時間が掛かった。同じミュージックを使っているのだが、このような記憶はなかった。どんなデーターをグーグルに送っているのか釈然としなかった。そもそも精々YouTube程度でネットからのストリーミングには使わない。つまり自身のネット内だけの問題なのだが、煩わしい。

それに続いて、キャストをクロームブラウザーから送った。想定以上に上手くいったのは、音声をミュージックに送りながら、画像だけを送ることが可能だったことで、メディア再生にはVLCメディアプレーヤーの音声と映像のズレを調整することで問題なく使える。映像は若干落ち、HD再生となると動きが完璧ではない。

肝心の仕事には使えるのだが、最も具合が悪いのはマウスの動きが悪いことで、まるで昔のマウスを使って仕事をしているようなイライラ感がある。これが解決されない限りメインとしては使い難い。並行して入力しているラズベリーパイの方はマウスは使いやすいのだが、画像の動きにストレスがあり、キャストの方は画像が使えてもマウスが使い難い。一長一短だ。

纏めると、遠隔のドッキングステーションとして使うときもあれば、そのままHDMIで接続して使うことも可能なので、その間で陽射しとか気候や仕事内容によって使い方を変えてもよいと思う。



参照:
とうとう暖房を入れた日 2017-11-08 | 暦
ルツェルンの方が近いか 2017-10-12 | 雑感
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# by pfaelzerwein | 2017-11-08 23:39 | 雑感 | Trackback

とうとう暖房を入れた日

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11月7日月曜日から暖房を入れた。籠り部屋への引っ越しは遅かったが、時期に暖房を入れることになって、例年並みとなった。日曜日は雨が降っていて、寒くて始まった山登りシーズンで頂上まで走りあがるのは論外だった。月曜日に取り戻しを兼ねて峠を攻め、火曜日も時間が出来たので、沢沿いを走った。気温も摂氏五度ぐらいだったが、湿気が堪えて、手が悴んだ。走り出しも寒くて体の動きがおかしかった。とても記録どころではないのは変わりないが、もうじき裸では走られなくなると思った。夏時間になってもますます夜明けが遅くなって寝起きが悪く走りに行くのが大変になってきた。殆どノルマを果たすだけで、30分以上は週に一度しか走らないので体重削減にはあまり役立たない ― 30分走るとやはり違う。だから体重超過でペースを落としていても苦しい。

峠から降りてくると遠くの方に見かけないアジア女性らしい二人組がいた。近づいてくるので挨拶したが、何処の人かわからなかった。散歩している服装で、明らかに駐車場の近くにあるプロテスタント教会の宿泊施設に泊まっているのだと分かった。若干浅黒く見えたのだが、漢人や朝鮮人にはなく目鼻立ちがハッキリしていて、フィリピン人とは違うタイプで、二人とも体格も悪くはなくタイ人ではない。するとヴェトナム人だろうか?シナ人だとすると雲南の人たちか?体格からすると満州人なのだが。意外と知らないタイプの女性がいるものだと思った。向こうさんも、こちらも寒いところを裸で腹出しで背伸びをして、ショーツ姿なので珍しいものを見たと思ったことだろう。しかし一旦自宅に暖房をつけるようになると、ヒートショックを起こしそうで怖い。

モニターアームの箱を片付けようと思って、もう一度説明図を見ていたら、取り付け方法がもう一つあったのが分かった。つまりデスクの板に穴が開いていれば、そこにシャフトを通して、付属金具を取り換えれば、下から締め付けるという方法である。。来春、モニターをもう一つ購入する時に、この方法も考えてみようと思った。態々適当な穴を開けなければいけないが、細い穴をドリルで通すだけだから、強度的にも美的にも問題がないだろう。古いデスクであり、デスクのスペースを有効に使うには、これがよいと思った。もともとは高さ調整の壊れた椅子の為に考量したアームなのだが、椅子の方は健康ジェルクッションを敷いたので問題がなくなっていた。

発注したキャストでの遠隔操作が上手くいったなら、垂らしてあるケーブル類をパイプの下に収めなければいけない。通常のケーブルならば何本か入るだろうがHDMIの太いものは限られる。モニターの裏面に固定するつもりのキャストの電源も、USB端子がついていないので別途取らなければいけない。アームを使うとモニターが宙に浮かぶ感じだから、出来る限り整理したいのだ、さもなければモニターの位置角度が動かし辛い。




参照:
籠り部屋でのモニター 2017-11-06 | 生活
ヴィスコースジェルの座布団 2017-03-18 | テクニック
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# by pfaelzerwein | 2017-11-08 00:41 | | Trackback

土人に人気の卒寿指揮者

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新聞一面の最初の小段にはトラムプの日本到着が第一声が書かれている ― これをドイツ連邦共和国の各界の殆どの指導層は皆一瞥する。正確には治外法権の横田基地での第一声だ。その演説の対象は米軍と日本の自衛隊となっていて、意味が分からなかった。そもそも横田から治外法権で他の軍属や諜報員のようにフリーパスで都内に入る、それだけでも国賓として象徴的に異常なのだが ― その途上のハワイでリメンバーパールハーバーを叫んでいる ―、それ以上に、なぜ自衛隊の最高司令官がトラムプなのか理解できなかった ― そのような暴力装置の自衛隊を憲法に明記するなどはあり得ないだろう。まさしく日米の地位協約というのはそういうことを意味するのだ。日本人の一部は琉球人を土人と嘲笑するが、日本人こそが土人であるということをこのことが示している。

ヘルベルト・ブロムシュテットがトーマスキルヘェでロ短調ミサを指揮した映像を観た。NHKの共同制作で今年6月18日に撮られたものである。NHKがつまらない制作を欧州で繰り広げて貴重な聴視料を浪費していることは知っていたが、これは素晴らしい。バッハ週間の最終日なのでMDRかどこかで流れていたかと思ったが、ライプツィッヒの制作会社のもののようだ。2005年の同じような制作がYOUTUBEに上がっているが、今回は合唱団がドレスデンの室内合唱団となっている。観客も恐らく教会の共同体の人が殆どなのだろう、慣れないミサ曲となると歌詞カードを捲っている。同じ意味でミサ曲となるとドレスデンから合唱団を呼ぶ方が歌い慣れているだけ正しく歌えるのだろう。

HD水準では難しかったので高水準で再生して適当に流していたが、12年前の演奏も比べたくなった。管弦楽団は間違いなくこの間シャイ―の薫陶でよくなっている筈で、小編成ながら、間違いなく若返りしているようで、コンサートマイスターもソリスツも先日のバーデン・バーデンの公演で見覚えのある顔が並んでいる ― さわりを聞いただけで全く別物の管弦楽団になっていた。

日本では有名で人気の指揮者と管弦楽団であるが、先日も書いたように西ドイツでは人気が無い。その理由は、西ドイツでは全く活躍していなくて東ドイツでしか仕事をしていなかったことが大きいのだろう。NDRでも東西統一後に僅か二年だけハムブルクでポストを得ている。名門ゲヴァントハウスの楽団が日本ほどには西ドイツでは人気が無いのと同じで、余所者感覚が強いからだろうか。そもそも我々のフランクフルトの会にもバッハ演奏でゲヴァントハウスの登場は記憶にない。その代わりヴェルサー・メストが美しいロ短調をスイスの現代楽器楽団と演奏した。

そして絶えずキャリアー上でも一流の裾ところで仕事をしていて、若い世代では同じように日本などで活躍しているヤルヴィとか、バーデンの音楽名門家族の御曹司マイスターとかに毛が生えた程度で、コンサート指揮者と歌劇場とのキャリアーは異なるが二流のギュンター・ヴァントとか、ヤノフスキーとかよりは少し上回ったぐらいだろうか ― 父親を知らないとあるヤノフスキーのインタヴューを聞くとなるほどポーランド訛りがない。日本でお馴染みのサヴァリッシュよりも少し落ちるぐらいだろうか。

それゆえにここに来ての活躍と進展は、同じゲヴァントハウスでもシャイ―のお陰で良くなった管弦楽団を振り、ベルリンやヴィーンで指揮することから楽譜を忠実に音化する可能性が増えてきていて、嘗てからのレパートリーにも完成度が高くなっているようだ。それでもそれゆえにもう一つ知名度が高くはないのは、一流管弦楽団との繋がりが限定的で ― 実際私も日本で有名なこの指揮者について詳しく知ったのはバイエルン放送のYouTube映像でここ数年のことだ、広報力が限られるということなのだろう。マーラーの交響曲も新たに再発見して、SWRなどで来年も弑することになっている。新たなレパートリー開発である。

そこに座付きか名門管弦楽団か分からないようなゲヴァントハウスがよくなったのは精々この十年で、その名前ではシュターツカペレドレスデンとは比較にならないということらしい。兎に角、ブロムシュテットが19代指揮者だったころの管弦楽団はそのレパートリーもプログラムもサウンドも売れるようなものではなかったということだろう。 

Mass in B minor BWV 232 (Thomaskirche 2005, Blomstedt) - 1/15
[parts:eNozsjJkhIPUZENDA6Nks9wSo/xcbz+j5LB0JjMTAyZjMwMmAyYEcHBwAAAK/gjm]


参照:
ライプチヒ・バッハ音楽祭2017「ミサ曲 ロ短調」 NHKプレミアムシアター 
新鮮な発見に溢れる卒寿 2017-10-27 | 雑感
いぶし銀のブルックナー音響 2017-10-31 | 音
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# by pfaelzerwein | 2017-11-06 23:24 | 歴史・時事 | Trackback

籠り部屋でのモニタ―

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籠り部屋に移った。冬籠りの始まりだ。モニターをアームに取り付けようとして太すぎるネジを使ったのでボルトの方が中で落ちてしまったようだ。開けて直そうと思ったが時間が掛かりそうなので、二本の太いネジと細いネジで誤魔化して装着した。想定外は縦位置では長すぎて使い難そうだったことで、横位置ではモニター面が前に出るので眼との距離が50㎝ほどになると近過ぎるかなという感じ だ。その他では想定通り、VNCで映した動画はスムーズには動かないので、早速クロームキャストを発注した。一番安いもので送料込み36ユーロした。更にラズベリーパイを接続するHDMIの短いものが欲しかったので1.5mを2.60ユーロで発注した。

もう一つ、真面なモニターで見るとVNCのクローンの画質があまりシャープではない。調整可能かどうかはやってみないといけないが、キャストに切り替えることで画質はよくなるだろう。勿論、ドッキングステーションのノートブックを遠隔でコントロールするにはラズベリーパイが重要だ。そのラズベリーパイをタブレットからVNCで遠隔操作する。タブレットを書き換えたので、VNC接続するのに時間が掛かった。毎年同じ時期に同じようにシステムの再構築・修復に時間を掛けている。記憶が薄れていることもあるが、そもそもダイヤグラムを見ないことには分からないほど複雑なのだ。

今後キャストを接続すると、先ずは階下のノートブックをあげて、そこでキャストに飛ばすか、屋根裏部屋でラズベリーを上げるか、またはタブレットでノートブックを遠隔操作してキャストを飛ばすかのような手順になるだろう。

もう一つ夏の間はドッキングステーションとして二つのモニターを使いこなしてきたが、これからはシングルのモニターで切り替えながら、音を出して仕事ということになる。要するに視覚よりも聴覚となって仕事は捗るかもしれない。

いずれにしても来春には二台目のモニターを買わないと駄目だと思う。ノートブックもそろそろだが、どちらにしてもドッキングステーション化するので、薄型モニターは邪魔にならない。



参照:
離れたモニターを使う準備 2017-11-04 | 生活
ラズベリーのアップグレード 2017-03-13 | テクニック
未来へのルーティン 2016-10-25 | テクニック
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# by pfaelzerwein | 2017-11-05 23:43 | 生活 | Trackback

パリとベルリンからの中継

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無料のデジタルコンサートを一週間分を使い果たした。今回は忙しくて殆ど使えなかったが、先ずはルクセムブルクの公演当日の零時過ぎにアップされたピーター・セラーズ演出の「利口な女狐の物語」を観て、最終日にはライヴで「ペトリューシュカ」1947年版、南鮮のウンスク・チンの初演とラフマニノフの交響曲三番を見た。

最初の曲は来年の復活祭で演奏される曲でこれまた先に聞けて為になった。二曲目の新曲は同じ楽器編成での短い曲との制限ながら中々今日的なサウンドで上手に書けていた。賞も獲っているようで、ブージーアンドフォークス出版契約なので、そうかなとも思うが、今まで聞いた南鮮出身の作曲家として卓越していると感じた。今回の極東ツアーに同行するらしい。

放送の伝送状態はあまりよくなく、何もこちらのネットの規格だけでなくて、どうしても込みそうなラフマニノフなどで落ちたので、供給側の問題だろう。いつものことである。お陰でチン女史の曲は完全に聞けた。ただし映像はよくないので初めからあまり観ていない。

前日にはパリからの中継があって、アンサムブルにはいろいろと感じるところがあった。やはり通常の意味ではベルリンのフィルハーモニカーは巧いのだが、その会場の特質もあってか上手に目立たないように管が合わせることもなく、弦も特徴である強い音が先だって、しなやかな合奏をすることはない。それは前日のパリ管の特徴である管でも弦楽奏法でも同じだった。

どうしてもクリーヴランドやゲヴァントハウスなどの合奏との比較になるのだが、結局はキリル・ペトレンコが振る時のようにもう一つ精妙な合奏をしていかないと管と弦は合わせ難いのかもしれない。そう思って、ラトルが内田に合わせるヴィデオを観た後に ― 内田のモーツァルトは更に普遍的な表現に近づいて来ていて、比較するものが見つからなくなってきたほどだが、ラトルの合わせ方には不満を感じた ―、大分以前にペトレンコがベートーヴェンの三番のピアノ協奏曲を振ったヴィデオを改めて観ると今まで思っていたよりも難しいことをしているのが分かった。やはり協奏曲の合わせ方は、棒が自由自在なので、どんなソリストを相手にも絶妙だと思った。

その後に時間切れまでに見つけたのは、ブロムシュテット指揮のブルックナー八番交響曲だった。残り時間がなさそうなので、先ずは四楽章から流して、その後に三楽章、そして一楽章に二楽章を流した。先ごろの誕生日のヴィデオコラージュにも使われたものだが、もはや無視出来なくなった。

早々に前日に発注したモニターのアームが届いた。先ずは寝室の机に取り付けてみる。気になっていた机への設置は無理があったが、奥においてあるガラス張りの置き机に設置出来た。予想していたよりも足などが大きめで、書き机に設置すると邪魔になるので丁度良かった。先ずは、仮にモニターを設置して、使えるかどうかを試してみよう。予想以上にパイプも太く、足元もしっかりしているので、送り返す必要はなさそうである。



参照:
細い筆先のエアーポケット 2017-11-03 | 音
いぶし銀のブルックナー音響 2017-10-31 | 音
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# by pfaelzerwein | 2017-11-04 23:46 | 雑感 | Trackback

離れたモニターを使う準備

体重増加が気になる。夏の終わりの74kgから75kgへと増える傾向がある。三月からすると6kg増となる。炭水化物の摂取量も増えており、肉類との双方で食事量が増えているのかもしれない。ワインの消費は落ちているがその分ビールと赤ワインが入ってきているので、これは都合が悪い。運動量を上げるのが一番だが、時間からするとこれが結構難しい。生活態度など検討していかないと容易く解決しそうにもない。まだ脂肪がつき始めているという感じではないので、落とすのは時間が掛からないと思うのだが、筋肉を鍛えていくとなると大変である。

日本のネットを見ているとブドウの皮が食せるとか食せないとかあった。こちらで皮を残して食しているのを見たことが殆どないので意外に思った。最近はスーパーでも種無しが増えてきていて、購入するとなるとどうしても種なしで皮がサクサクとした品種が好ましい。皮がぶよぶよしていると食べ難いからで、サクサクと弾けるような皮のものが最も食べやすい。恐らく日本は何らかの障壁を設けていて、そのような品種が流通しないようにしているのだろう。

モニターのアームを発注した。冬籠りの準備の一つである。本来ならばもう一つ新しいモニターを購入すればよいのだが、籠り部屋の机の奥の窓枠は幅が50㎝しかない。つまり現在居間で使っている21.5インチの幅52㎝が入らない。そこで考えたのが、居間の机では使えないアームを取り付けて縦型で使うことだ。縦型での使用は、特にpdfなどの資料を画面に綺麗に収められることで、勿論楽譜などにも都合がよい。アームを使って90度回転させれば訳ないことなのだ。

冬籠りの机で仕事をするときは机を一杯使いながら、奥の縦位置のモニターで資料を見るということになる。その場合も机周りにはラズベリーパイがあり、無線のマウスとキーボードだけだ。その場合通常のネット観覧は問題がないが一寸不便なのは動画再生で、これは綺麗に再生できない。音響はNASなどからクロームキャストオーディオに飛ばして出すだけなので、籠り部屋の伸びているダイナミックスピーカーで問題なく聞ける。もしくは通常のクロームキャストを使うと画像は問題なくなるが、朝一の使用は飛ばす作業が居間の寒いところで必要になる ― 解決策としてタブレットでリモートコントロールしてもよい。両方を併用するとなると、HDMI入力端子が二つ必要になるのか、それとも。その場合動画再生は、今度は前に30㎝ほど引き出せるので、横位置にしてみるということになる。

寧ろ問題は、二台目のモニターを購入するかどうかの試すことにある。ノートブックは居間に置いたままにして籠り部屋で仕事が捗るのか、PCの無い静かな籠り部屋でメディアも再生しながら、不便は生じないか?PCをドッキングステーションとして居間に固定しておくことで問題がなければ、来春にもう一台22インチのモニターを新調することになる。

整理すると同一WiFi内で、離れたPCを使って、遠隔操作で目前のモニターを使って仕事をする方法として、VNCなどの遠隔操作プログラムを使うか、クロームキャストなどで離れたモニターを使うかの二つの方法があり、前者でも後者でもPCから離れたマウスとキーボードが同じように使用可能となる。双方ともに利点も欠点もある。さてどうなることか。



参照:
キャストによるデーター転送 2016-10-08 | 暦
未来へのルーティン 2016-10-25 | テクニック
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# by pfaelzerwein | 2017-11-03 23:47 | 生活 | Trackback

細い筆先のエアーポケット

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ルクセムブルクの聴衆や会場については既に触れた。前日にゲヴァントハウス管弦楽団が想定を遥かに超えるアンサムブルを聞かせてくれた。なるほど二年前の新聞には欧州の四指に含まれていたのも、その切り口によっては賛意を示せるかもしれない。そしてここ二三年評判のクリーヴランドの交響楽団は、一月のシカゴ饗に続いて聞くことになる。それより前に聞いたアメリカの楽団はサロネン指揮のロスのそれかもしれない。

だからシカゴとの比較しか出来ないのだが、クリーヴランドが恐らく現在世界で一番上手い交響楽団であることは皆認めている通りではなかろうか。どうしてもベルリンのそれと比較してしまうのだが、弦楽合奏においては比較にならないほど精妙且つしなやかで、なるほどベルリンのそれも嘗ての様な事はなくなったが、つまりその芸術的な表現力ということではこの斜陽の工業都市の楽団に到底敵わない。そして管楽器も弦のしなかかさに合わせるような音出しが出来ていて、嘗てのショルティー指揮のシカゴ饗のように激しい針金のような弦に突き刺さるような音は出さない。

それは「利口な女狐」のプロローグの数小節で明らかになる。あまり練習の出来ていないであろう先日のベルリンでの演奏と比較してもアンフェアー極まりないが、木管の細かなバッタの音型の正確さと軽やかさで、そしてヴァイオリンとの掛け合いなど、これは異次元のアンサムブルだと思った。YouTubeでも練習風景などが出ていたが、最初から意識が異なるのは予想していたが ― 監督はインタヴューで技術的には準備が整っていて最初の稽古から言うことはないと ―、演奏旅行最終日でもだれることなくさらっと吹いてしまう鮮やかさはとてもプロフェッショナルだと思った。

そしてこの曲全体にとって重要な二拍子系と三拍子系の繋がりがとても絶妙で、ほとんどこの曲の演奏の根幹だと思った ― あの馬鹿正直な指揮も足しになっている筈だ。こうして記憶を辿っていくと直ちに疑惑が湧くのである。なるほどジョージ・セル時代にはスーパーオーケストラだったが、その後のマゼール監督時代はLP等で知っていて、フォン・ドナーニ監督時代もあり、元アドヴァイザーのピエール・ブーレーズの名録音も残っている。しかし、これだけの指揮をしているのは間違いなくヴェルザー・メストなのである。そして、地元の放送局で今でも流されるセル時代の実況録音は少なくともリズム的には硬直していて、現在のように音楽的な高みに全く達していない。

そして現在のこの楽団はリズムも鋭く、明らかにブーレーズの薫陶もあるようで ― この指揮者との最後の制作録音群が示す通り ―、特殊奏法などの鮮やかさもどこの楽団にも引けを取らないようだ。なによりも全てが調和された中で必要な響きが正確に取り出されているようで、なにもエルプフィルハーモニーなど更々必要ない。ゲヴァントハウスの楽団の英国での批評には第二ヴァイオリンに触れたものがあったが、ここでは何も対向型の楽器配置など採用しなくても必要なだけ同等に響く第二ヴァイオリン陣と、合の手を入れるアンサムブルに驚愕した。それはヴァルツァーにおけるそれもそこから四分の二拍子になるところも「お見事」に尽きて、このように演奏してこそと思わせる。流石にこれを聞いて、ヴィーナーヴァルツァー風で弾いてくれという数寄者はいないだろう。そこにトラムペットが乗ってくるのだがこれがまた抑制が効きながらも、どのようにしてこのような軽い響きが出せるのかと思わせる。NDRでのインタヴューでヴェルサー・メストは「我々のオーケストラは、太いピンセルで料理するのではなく細いピンセルで」ととても面白い表現をしている。

そして低弦が出てくるとこれがまた締まりに締まっているのである。なるほど、どの楽器もアメリカ大陸らしい乾き切った響きを奏でる訳だが、それを例えばJBLのスピーカーの様なマイクに乗りやすい響きとしてしまうだけでは ― それも音響芸術ではあるが、その芸術性を充分に語ったことにはならないだろう。この指揮者の演奏はオペラなど何回か聞いていると思うのだが、記憶に残っているのはフランクフルトの我々の会でのロ短調ミサの演奏で、今回と同じ印象で現代楽器演奏としては鮮やかで見事だった。

改めて演奏旅行前の壮行演奏会での録音を聞き返すと明らかにルクセムブルクよりも上手くいっていない部分があり、もしかするとアニメ舞台の関係などもあって演奏に集中出来ていなかったのだろうかとも想像する。今回の演奏は、舞台の上の合唱席の前にせりを作ってそこで動きながら独奏者が歌うような所謂コンツェルタントな形式だったので余計に管弦楽団の技術的には洗練されたのかもしれない。

なるほど軽いフットワークで器用に演奏されるので - 歌手陣も平らなところを適当に動くだけなので音楽的に決して管弦楽団に後れを取るようなことがなかった、所謂座付き管弦楽団のように声に合わせる一方、なるほどこれだけの美音が響くとクリーヴランドのお客さんの中には殆どミュージカル映画を見ているような気持ちの人たちも押し寄せたのだろうと想像した。

とにかく何もかもが鮮やかすぎて、発砲の音にしても全てが効果音ではなく楽音として決まっているために、思わず舞台上を覗き込んでしまうのである。それにしてもあれほど金管が弦楽などと音響的に合わせられるのは聞いたことがないのである。

この音楽監督の正しいてテムポを刻んでの明晰さは、あまりにその風貌や人間性のクールな印象も併せて不人気なのだろうが、例えば二幕のクライマックスをラトル指揮のそれと比較すれば、下手な地元の児童合唱団は差し置いて、どこまでも冷ややかな感じはヤナーチェックの達観した音楽や意思に決してそぐわないことはない。要するにこれは「土着性」というパラメータを美学的にどのように見るかであって、セラーズの演出ではそれが「普遍」と深層において組み替えられていたとなるのだろうか。もちろんそのことと「ディズニー化」は深い関連がある。

寧ろ三幕で明らかになってくる主人公の猟師の世界観はいつの間にか作曲家のそれになっていて、なにかこの指揮者のそれにも触れてきているようで、そこに特別なものに気が付かされた。リヒャルト・シュトラウスの「影の無い女」にも共通する「時代の環境」も描かれている訳だが、それ以上に独創的に六拍子での三連符が組み合わされたり、狩りのホルンが鳴らされて最後の落ちへと向かうのだ。その運びがこのクールな指揮者から示されると本当にエアーポケットに入ったような気持ちになった。

これほど素晴らしい演奏を体験すると、下手な管弦楽では御免だという気持ちになる。いつかバーデンバーデンで素晴らしいスーパーオーパーとして上演されることを楽しみにしていたいと思うようになった - ミュンヘンでは一寸比較にはならない。自己の葬送の音楽として作曲家はその最後の場の曲を望んだというが、確かに尋常ではない諦観がそこにある。

余談だが、あの会場が珍しくて会場の外を取り巻く回廊をぐるぐると一周以上した。緩い上りかと思っていたらいつの間にか下りになっていて、いつの間にか元に戻っていたその不思議さを感じたのだった。休憩を挟まずのこの曲の一時間半少しの時だった。



参照:
夕暮れの私のラインへの旅 2017-09-29 | 試飲百景
新たな簡単な課題を試す 2017-10-21 | アウトドーア・環境
中庸な炊き具合の加減 2014-12-07 | 料理
偉大な統治者と大衆 2005-10-14 | 文化一般
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# by pfaelzerwein | 2017-11-02 20:58 | | Trackback

人命に軽重無しとは言っても

朝早くフランクフルトに電話した。誰もいないので不思議に思ったら、同地は休みでないことに気が付いた。今年は31日が記念で初めて休みだったので、その日が休みは初めてだった。しかし1日以降は例年通りの祝日や休暇なので勘違いした。

昨日からガーディアンをはじめ毎日三十面以上の三面記事が一面しかないFAZまでが世界中にネットで座間の連続殺人事件を速報で伝えていた。確かに一人で二月の短期間で9人の殺害・死体遺棄となると話題性が高いのかもしれない。個人的な犯罪としても興味深いのだが、そのような精神疾患上の問題よりも話題になっているのはSNS上の繋がりや犯行に追いやってしまう日本の社会環境などにどうしても興味が向かうのである。死体遺棄の方法としては東京であった事件の何もかも水洗便所に流してしまう方法さえ追いつかなかったのだろう。

日本のネットでは早くも殺人罪に問えるかどうかという話が流れるぐらいに、自殺志望者が多く自殺幇助の可能性が高い社会であり、死体遺棄の方法だけは発覚するととても派手なのだが、首都圏周辺では車で躯を運んでどこかに放棄するにしてもその監視カメラシステムやら人目を考えると合理的に考えればその処理方法が限られるのは間違いない。その意味からもとても日本社会を反映しているようで、昨年かの安倍首相に手紙を送るような連続殺人犯などと同じく、尋常でない自殺予備軍の数がある現在の自殺王国日本らしい犯罪であり、世界の話題なのだろう。それにしてもカマキリを仕留めようと思っても抵抗にあうのだが、大の大人を九人も返り討ちも恐れずに簡単に仕留める技を磨いているような殺人鬼がいるのも怖いものである。

要するに自殺者が多いような社会は人権や人命が軽視されている社会で、人口が減少傾向にあるのにもかかわらず、中共と反比例するかのようにますますシナ人の人命の軽さに近づいてきているかのようである - 日本の経済力からすると異常な社会なのである。また世界的な傾向として経済格差が広がれば広がるほどにますます人命が軽視されるような傾向になるからこそ人権の尊重が重視される。

先日各国のミリヤーデーラーの数が経済欄に載っていた。ドイツは大企業の各創業者家族の名前があがり、117名に落ちているが、欧州では二位の英国の55名の倍である。世界の8%に相当する。イタリア42名、フランス39名、スイスが35名である。世界で1542名で増加傾向にあり、しかし全額を合わせると17%減少の6ビリオンダラーとなる。アジアには四分の一の635名が住み、合衆国の536名を初めて超えたという。つまりシナの318名とインドの100名を除くとその他217名となる。

1ミリヤードで、1000億円規模であるから、先日の金融資産ミリオネーラー128万人のうちの117名となるだろう。土地などの資産総額で自社株の割合も多かろうが、当然のことながら年収も少なからず十二分に出している筈だ。すると何らかの傷害などの保障額も年収30億円と仮定しても通常の労働者の400倍ほどの価値となる。人命に軽重無しなどとは言っても、民事上400倍以上もの格差がそこに開いていることになるだろうか。そして何よりもその経済力は権力にもなっているので、如何に社会のフェアーネスと人権というものが最優先されるかということの根拠でもある。

とても寒いので裸で森を走る時以上に机に座っていても身体に力が入っているのだろう。ベットの中でも寒さを堪えているようなところがあり、疲れがなかなか取れ難くなっている。今年も昨年は10月15日には籠り部屋に移動している。階下には陽が射さなかったようだ。今年は陽が射す分気温が低く、暖房が欲しくなってきている。このまま籠って暖房無しでは過ごせないのでもう少し陽射しの恩恵を与かりたい。それでも徐々に冬籠りの準備を始めなければいけないだろう。毎晩のように風呂桶に浸かりたくなる寒さだ。



参照:
篭り部屋での最初の夜 2016-10-15 | 生活
ガス抜きの指導をする 2016-10-14 | 生活
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# by pfaelzerwein | 2017-11-01 23:24 | 歴史・時事 | Trackback

はっぱふみふみ

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かなり冷えた。森の中の水溜りを眺めたぐらいだ。凍結はしていなかったが、摂氏2度以下だった。走りの質に関しては全く言及するまでもない。裸になると寒くて頑張って噴かしたのだが駄目だった。それでも峠から降りてくると汗で濡れていた。

GPS時計の充電が初めて完全に切れた。それで時計の時刻まで消えてしまっていた。充電してから戻すと全く異なる時刻が出ていた。GPSをONすると冬時間に正しく戻った。GPS制御は便利だと思いだした。

二月前から使い始めた歯ブラシの替えブラシを初めて購入した。安売りのフォリップスのそれには通常のものしかついていなかったが、今回は同じ価格でミニを購入してみた。ブラシの消耗は激しいかもしれないが、消耗するにつれて力が入るようになっていたので、力を入れないで磨くことが歯茎の炎症に最も大切だと思ったからである。お陰で歯医者に予約を取ろうかというところまで改善されている。いくら頑張って食物を咀嚼しても問題がないのだが、歯磨きがなぜか答えるようなのだ。だからとても大切なのがブラシである。これを使うようになってからさらに調子が良い。

もう一つ同封されていたのが、パッキングの輪っかで試しに隙間に嵌めてみたが、これは付いているゴムを抜いて色が合うように付け替えるもので、隙間云々とは関係ないものだと写真を撮ってから後に理解した。

恒例のCD落穂ひろいも今まで出来なかった。山の中は枯葉で足元が見えないように落葉が積もっているが、CDの方は年々掘り出し物が少なくなってきている。その中でも割安だと思ったのは、シュタットフェルトのバッハ曲集二枚組3.99ユーロである。どうも売れ行きが悪いようで、ドイツ国内でもイゴール・レヴィットのようなピアニストが出てきているので、運指の技術的には優れていても国際舞台では苦戦しているのだろうか。個人的には一緒に食事したこともあり、ヤナーチェックのピアノ曲のことも少し話した記憶があるので、売れていないなら買おうと思った。もう一つはヴァークナーの四手のための編曲集をデュオ・タール・グレオティーゼンが弾いているもので同じようにソニーの安売りである。それ以外になかなか見つからなかったのだがドナウエッシンゲンの2013年と2014年の記録SACDが20ユーロで出ていた。SACD四枚組か三枚組にDVD一枚かで迷ったが、2014年は最後のSWFとロート指揮のそれもフライブルクでも聞いたステーン・アンダーソンのピアノ協奏曲がDVDに入っているのでそれにした。個人的な思い出ではなくて、その創作はなかなか見事だったからだ。ライヴ録音でいくらSACDであっても楽しめないのであるが、ネットで探してもほとんど聞くことが出来なかった、キリル・ペトレンコ指揮フランクフルト歌劇場のオペラ「パレストリーナ」の三枚組を発注した。さわりを聞く限り対して弾けていないようであるが、三枚組10ユーロなら仕方がないかと思った。割引を計算して〆て31ユーロで10枚ならば、まあまあ仕方がないかと思った。ベルリンのデジタルコンサートホールでさえ一週間で9ユーロも支払うことを考えれば高くないということである。



参照:
とっかえ、ひっかえ 2017-08-02 | 生活
39.99ユーロという額 2017-07-30 | 生活
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# by pfaelzerwein | 2017-11-01 01:15 | 生活 | Trackback

索引 2017年10月


いぶし銀のブルックナー音響 2017-10-31 | 音
都合のよいアルコール 2017-10-30 | ワイン
ふらふらする冬時間始まり 2017-10-29 | 暦
新鮮な発見に溢れる卒寿 2017-10-27 | 雑感
腕次第で高くつくかも 2017-10-26 | 料理
広がるリビングからの視界 2017-10-25 | 生活
親しみ易すすぎる名曲 2017-10-24 | 生活
世界に憲法改正へ速報 2017-10-23 | 雑感
「三部作」お勉強の下準備 2017-10-22 | 雑感
新たな簡単な課題を試す 2017-10-21 | アウトドーア・環境
阿呆のメニューを公開 2017-10-20 | 料理
ランランは引退するか? 2017-10-19 | 雑感
黄金の10月に一杯 2017-10-18 | ワイン
針が落ちても聞こえるよう 2017-10-17 | マスメディア批評
思し召しのストリーミング 2017-10-16 | 音
マーラー作プフェルツァー流 2017-10-15 | 音
無いとなると想う有難味 2017-10-14 | 雑感
シャコンヌ主題の表徴 2017-10-13 | 音
ルツェルンの方が近いか 2017-10-12 | 雑感
教養ある世界一の聴衆 2017-10-11 | 文化一般
なによりもの希望 2017-10-10 | 歴史・時事
嘘のベーシックインカム 2017-10-09 | 雑感
ブラームスの交響曲4番  | 音 2017-10-08
BIのユリノミクス? 2017-10-07 | 歴史・時事
カズオ・イシグロで馴染み 2017-10-06 | 雑感
トップニュースは柏崎刈羽 2017-10-05 | 歴史・時事
逆説の音楽的深層構造 2017-10-04 | マスメディア批評
統一の日に為すこと 2017-10-03 | 暦 TB0,COM2
想定を超える大きな反響 |  マスメディア批評
「働けども働けども」の独逸 2017-10-01 | 雑感

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# by pfaelzerwein | 2017-10-31 20:33 | INDEX | Trackback

いぶし銀のブルックナー音響

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承前)初演をしたゲヴァントハウス管弦楽団の奏でたブルックナー作曲交響曲七番ホ長調の響きは正真正銘のブルックナーサウンドなのだろうか。

一楽章の再現部で、第二主題が展開されるとき、木管や他の弦とカノンするヴィオラに魅了されてしまった。これに近い弦楽部を聞いたのはシャイ―指揮のコンセルトヘボーぐらいで、ベルリンのフィルハーモニカ―のように自己主張するまでもなく、しっかりと和声の中声部を支えるだけでなく、これだけしっかりと仕事を果たしているヴィオラ群を聞いたことがない。そしてその合わせ方がまた座付き管弦楽団風なのだが、その響きの鋭さとアンサムブルはヴィーンやドレスデンの座付きとは異なる交響楽団のそれなのだ ― 英ファイナンシャルタイムズ紙などは、この特徴こそはブロムシュテットの後任の前監督シャイ―がなしたものだとしている。

そしてシュターツカペレとの録音とも最も異なっていたのは、デミヌエンドから続くコーダの「アラブラーヴェ」のテムポである。まるでチェリビダッケ指揮のそれのように十二分に落として大きなクライマクスを築いて、もうこれだけで十分と思わせるぐらいだった。

同じようにアダージョ楽章の三拍子モデラートの第二主題の第一ヴァイオリンでの旋律の繰り返しの歌いまわしは今までの録音よりも明白なイントネーションを与えていた。殆ど具体的な意味を持っているかのようで興味を引く部分で更にそれが繰り返されている。

また再現部でのブルックナー特有の第一主題を中心にしたクライマックスへの昇りでも ― やはり当日のガイダンスで、蒸気機関の大きな弾み車が一つ一つと回転を増して行き雪だるま式に巨大な確信へと昇り詰める、これが特徴であるとした ―、ヴィオラが楽章冒頭にも現れた付点四分二桁符八分の動機を管との間でユニゾンで合奏するのだが、これがまた絶妙なのだ。その他の弦とのバランスの良さは指揮者が簡単に作れるものではない管弦楽団の合奏能力でありサウンドである。かつて日本公演などでも「いぶし銀の響き」と称されたが、まさにこのことだったのかもしれない。そして、例の「ヴァークナーの葬送」がテムポを落として奏される。このデミムエンドに続くテムポ設定に関しては楽譜を見ていてもよく分からない。

三楽章のトリオは更に美しく、管と弦が別途に合奏をするのだが、ここでもヴィオラを中心に弦の織りなす綾の美しさは、まさしくこの楽団の弦楽四重奏団のある意味古典的な最上のアンサムブルを弦楽合奏に拡大したように上質なのだ。正直全く想定以上の高度な演奏だった。このような弦楽楽団奏を聞くのはいつ以来のことだろう?

終楽章の第三主題部の練習記号Kからのヴァイオリンの先端でのボーイングとまたヴィオラの同音進行がこれまた効果的でそのあとのトレモロがとても活きてくる。弦楽ばかりについて称賛したが、管楽器も、決してベルリンのそれのように名人技で例えばホルンが楽曲を先導するようなことはなく、そのような輝かしい響きではなく飽く迄も地味で座付き管弦楽団のような響きで以て、しかしとてもコントロールされていて、ヴィーンのチャルメラオボーエや派手な響きを奏でることもない。勿論先日のミュンヒェンでのそれとは全く異なるのはやはりコンサートホールのホームグラウンドの響きがあるからだろう。まさしく嘗てのゲヴァントハウスを東独時代に日本の青木建築が新しく建てた空間で養われた合奏が管と弦の間でも銀糸のように織られていたのだ。

備忘録のようなことばかり脈略のないことを書いたが、再びコンサート前のガイダンスに戻ると、ブルックナーの楽曲構成についてのおさらいとなる。その対位法的な主題と動機の扱い方に関しては改めて目新しいことはなかったが、用語的に各楽章の主題が最初の一分ほどかかる第一主題の反行のみならず韻律上の変形であり、そのデモフォルメであるとの意識を広げた。

更にいつもの解釈であるが、ブルックナーの三つの主題の三位一体の構成感にも思いを巡らす。そこでは既に扱った例えば第三主題などのリズム的にも旋律的にも廻旋する動機の扱いが繰り返される度に、丁度弾み車が螺旋を描いて大きく広がっていく様こそが、産業革命後の蒸気機関による世界秩序の新たな創造という信仰的な信念から導かれ、その典型的な表徴として19世紀の工場の教会を形作った建造物が挙げられる。またあの爆発的な音の束縛からの開放こそは、人力を超えた力の表徴であるということになる ― これは先頃の合衆国からの論文におけるマックス・ヴェーバーから導かれるブルックナーの社会的危険性ともなる。その点を理解するかしないかがブルックナーへの愛好の大きな分水嶺になるというのも面白い見解である。そしてそのような工業との繋がりというよりも、音の開放自体がもはやグスタフ・マーラーには表れないというのもとても興味深いだろう。

そこで最初の命題に戻ってくる。「ブルックナーの響きとは」となり、今まではヴィーナーフィルハーモニカーのそれが本場ものと考えていた。しかし、上のような音楽的特徴をあの楽団が表現出来ているかというととても否定的にならざるを得ない。そもそもその表現力を身に着けていない。その意味からすると、ブロムシュテット指揮のブルックナーは隅々まで納得が行くものであり、その表現をドレスデンのシュターツカペレよりも正確に交響楽的に表現できていたのは、このゲヴァントハウスの管弦楽団である。今までブルックナーの交響曲を何度も生で聞いてきたが、ここ十年ほどでもメータ指揮ヴィーナーフィルハーモニカー第八番、ラトル指揮ベルリナーフィルハーモニカ―第四番、ギーレン指揮SWF第九番、ティーレマン指揮シュターツカペレ第五番、そして五月のヴィーナーフルハーモニカ―第四番など、そしてこれほど充実した交響楽を満喫したことは一度もなかった。

何よりもベルリンでは期待できない音色であり、シュターツカペレでは聞けない交響楽的なアンサムブルと、楽譜を読み込んでいる卒寿の指揮者の実力に他ならなかった。ヘルベルト・ブロムシュテット指揮ゲヴァントハウス管弦楽団の演奏はブルックナールネッサンスに近いと思う。それほど立派なものである。

もしキリル・ペトレンコ指揮からこれ以上の効果を期待しようと思えば、やはりフィルハーモニカ―の音質を充分に深みのある音へと各々の楽器が努力していかないと駄目だと思われる。サイモン・ラトル指揮のブルックナーはとても素晴らしいと思うが、この点で明らかに物足りなかったのであった。(終わり)



参照:
新鮮な発見に溢れる卒寿 2017-10-27 | 雑感
新たなファン層を開拓する齢 2017-05-14 | 音
「大指揮者」の十八番演奏 2014-03-18 | 音
ブルックナーの真価解析 2013-12-17 | 音
反照の音楽ジャーナリズム 2012-02-27 | 音
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# by pfaelzerwein | 2017-10-30 21:13 | | Trackback

都合のよいアルコール

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風雨が強く、眠くて、寒くて、パン屋にも行けなかった。午後になって晴れ上がって余計に寒くなった。そこで金曜日に購入したブルゴーニュを開けることにした。同時に購入した海老と貝を使ってのパエリアに合わせるためにである。

今回は次回のバーデンバーデン訪問まで期間もあり、ドイツの2015年物もまだ入手していないので、三本購入することにした。五月に購入したものは売れ切れていた。流石に良いものはスーパーでも一気に買う人もいるのだろう。そこで先ずは2015年物を探してみた。

アプリカシオンより上のものもいくつか出ていた。マルサネもあったので先ずはこれを18ユーロで一本。それ以外にもオート・コーテ・ド・ニュイのものも12ユーロと安かったので購入した。もう一つはコートドボーニュでこれは2005年もので15ユーロだ。

この中から簡単にアルコールも12.5%と軽く早飲みそうな単純なオート・コーテ・ド・ニュイを開けることにした。開けて味見するとこれが決して悪くはないのである。最初から開いているのである。恐らく2015年の完熟の葡萄のおかげだと思う。

その中でも早摘みだろうからか酸も快く効いていて、この価格帯にありやすそうな鈍重さは全くない。それどころか開いて来るうちに立ってくる黒コショウのようなものがあり、そしてニュイらしいトロピカルフルーツの味わいが軽やかだ。そして舌には石灰的な粉っぽい感じもあってミネラルを感じさせる。

このボージョレ―ヌーヴォーの四倍ほどの価格で買えるブルゴーニュでこれほど楽しめるならば、到底ドイツのそれでは太刀打ちできない。2015年産を直接比較しようと思うが、この軽やかさはドイツのシュペートブルグンダーにはあり得ないと思う。アルコールの12.5というのがここではとても都合が良い。



参照:
シルヴァン・パタイユのマルサネ 2017-08-08 | ワイン
つまった苦味に合わせる 2013-12-18 | 生活
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# by pfaelzerwein | 2017-10-30 02:47 | ワイン | Trackback

ふらふらする冬時間始まり

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ルクセムブルクから帰ってきた。思ったよりもトリアーから車で結構な距離があった。だから二時間では無理で二時間二十分ほど掛かる。但し今回は折からの工事などもあって短いコース取りをしたので片道200㎞に至らなかった。要するに燃料を節約できる。フライブルクに行くのと同じぐらいの感じである。

ネットで調べておいた通りに車を走らせると、左側に貝殻のような建物が見えたので、見当をつけて地下駐車場に車を入れた。生憎それは裏側の共同駐車場だったので一度外に出なければ行けなかったが、駐車料などは比較的割安だった。

一時間ほど早く着いたので会場の周りの美術館の周りを見たり、フィルハーモニーを一周して写真を撮ったりした。目抜きのケネディー通りは街に入るまでは大学や郊外型のショッピングセンターなどがあって、丁度ミュンヘンの新しいホールの界隈のような感じで、殆ど工事中でベルリンか東ドイツのような感じがした。正直金があるのかどうか分からない。

それでも国境を越えてからあまり整備されていない高速道路を随分走ったので、ドイツで例えれば丁度選帝侯の領地ぐらいの大きさだろうか。思ったよりも広いと感じたが、思ったよりも人は少ない感じがした。

大ホールも1300席で丁度中ホールと小ホールを足したぐらいの規模である。ヴィ―スバーデンのクアハウスの大ホールも同じぐらいである。ルートヴィヒスブルクにあるフォールムの大ホールに匹敵する。そこで聞いたサイモン・ラトル指揮バーミンガムの交響楽団のマーラー作曲交響曲10番が今まで一番小さいところで聞いた大管弦楽団だった。同じ大きさのヴィ―スバーデンのクアーハウスでは、ベルリンの放送交響楽団をアシュケナージが振ったショスタコーヴィッチ作曲交響曲4番であろうか。

それらに比較すると、今回は楽器編成も異なったが、アコースティックは前者よりも遥かに明瞭で、後者よりも残響も美しく癖がなかった。シナ人徐教授の音響設計のようだが、少なくともその容量からしてこの程度の編成ではベストではないかと思った。

そこで聞けたものに関しては改めて纏めるとしても、これだけは予め言及しておかないといけないのは、聴衆の質だ。今まで経験した中でも最低クラスだったと思う。何も出入りがあったり飴玉の包装紙の音があったりとかいうよりも、その程度が悪かったという印象だ。それはこうした小公国では人材がいないということで仕方がないのかもしれないが、なるほど今回の作品とその上演からして通向きだということはあっても、その反応の鈍さは致し方がなかった。サクラも入っていないのかもしれないが、もう少し耳のある人が多くてもよいと思った。少なくともその点からやはりももう少し近くのシュトッツガルトやフランクフルトもしくはケルンなどで同じプログラムが演奏されていたならと思わないでもなかった。

兎に角二日続けて音楽会に行くと疲労困憊する。運転距離は350㎞ほどだったのでミュンヘンへの片道ぐらいなのだが、コンサートは疲れるのに二日も続けて更に当日まで予習のお勉強をするような塩梅で厳しかった。夏時間が終わって初日はまだまだ頭がふらふらしていて眠い。



参照:
なんと、やはり生演奏会 2017-10-28 | 文化一般
広がるリビングからの視界 2017-10-25 | 生活
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# by pfaelzerwein | 2017-10-29 23:31 | | Trackback

なんと、やはり生演奏会

パリでの公演「利口な女狐」のヴィデオを観た。ざっと流しただけだが、バレーを上手く使って、動物と人間世界の差が不自然でないような印象を受けた。そしてパリの管弦楽団が素晴らしい音を響かしていて、流石に座付き管弦楽団とは違うなと思わせ、指揮者の譜読みを綺麗に音化していると思う。それだからといって歌を邪魔しているようには聞こえない。それでも一幕の鶏の革命騒ぎのとこらでのアンサムブルは名座付き管弦楽団のようには行っていないようだ。

一幕で更に気が付いたのは二拍子系と三拍子系が上手に組み合わされていて劇的なアクセントを付け加えていることと、そこに三連符、四連符、五連符が散りばめられることで、言葉の抑揚も綺麗に収まっている。そして管弦楽は独奏的に中々難しそうだと改めて感じた。

更に二幕三幕と細かなところを見て行く前に、上の公演の全体の印象は、決定版かといわれると少なくとも演出面でも折角フィナーレで弧を描くように輪廻する筈が、その意図や効果は見当たらない。これは、ヤナーチェックを十八番とした指揮者マッケラスの譜読みにも係わっているのかどうか、より詳しく見ていかないと判断出来ないだろう。

少なくともヴォーカルスコア―を見る限り、チャールズ・マッケラスは楽譜にない何かを根拠として演奏しているところがあり、そこに正当性があるのかないのかを検証しない限り、手放しでは称賛し難い。一度流したぐらいではその根拠は見出せなかった。

土曜日のルクセムブルクでのコンサートには、ベルリンでの公演のヴィデオは間に合わなかった。そもそも演出ものであるから映像と音響の編集に普通以上に手間がかかることは予想できたのだが、生放送では真面に再生可能かどうか心許なかったので、生では観なかったのが間違いだった。年内のお愉しみとしよう。

金曜日のバーデンバーデンでのゲヴァントハウス管弦楽団の公演はネットを見るとがら空きのようである。ほとんど売れていなかった90ユーロの席に滑り込んだ。因みに私が購入したのは19ユーロのサイドのバルコニー席だった。四割りほどの入りで、よほどゲヴァントハウス管弦楽団は西ドイツでは評判が悪いのかなと思った。案の定メンデルスゾーンのヴァイオリニストも、最近話題のカラヤン二世指揮者のお友達のような音楽的に最低の奏者で、メンデルスゾーンでさえ子供のように弾けずに殆ど下手な学生オーケストラの奏者のようだったが、それが調子に乗ってバッハのパルティ―タをアンコールするものだからとても酷かった ― 明らかにサクラが入っていたようだった。それに合わすかのように、楽団はミュンヘンの同僚とは比較にならないほどの下手な合わせで、卒寿のご老体も適当に振っていたので、これはどうしようもないと肝をくくったのだった。ドレスデンやベルリンどころか、到底小編成のNHK交響楽団程度に及ばないと感じたのだが、ブルックナーの大編成になると全く事情は異なった。吃驚仰天した。あのメンデルスゾーンでの分厚いようなリードのオーボエに代表される鈍重な音は一体何だったのか?(続く



参照:
新鮮な発見に溢れる卒寿 2017-10-27 | 雑感
親しみ易すすぎる名曲 2017-10-24 | 生活
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# by pfaelzerwein | 2017-10-28 07:17 | 文化一般 | Trackback

新鮮な発見に溢れる卒寿

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ブルックナーの交響曲七番のお勉強である。ブロムシュテット指揮シュターツカペレの録音を聞くと、二分の二拍子の一楽章第三主題のアクセントのアレグロモデラートの中での躍動感で、いつも田舎の踊りのように聞こえていた主題なのだが、ここではもっと洗練されて軽快に奏される。これをこの楽譜の見た目通りに「組み合わせカムが連なって動いているよう」に印象するのが頓珍漢かどうかはまた改めて考える。

第一、第二主題、そして展開部、再現部、終結、更にラシドの動機などとても重要な働きをしているのは交響曲の構造として当然なのだが、この交響曲における対位法手法からの逆行・反行などの動機のカノンなどを対旋律として浮かび上がらせるではなく正しく配置されるかどうかは、特にこの交響曲の価値を吟味する場合にはどうしても重要な視点に違いない。兎に角、素人感覚では最も簡単で単純に見えるこの一楽章の二拍子をしっかり振れている一流指揮者があまりいないことに気が付いた。

二楽章の主題も昔から風変りと思っていたのだが、四度、五度の跳躍などが四分の四拍子の中でうまく組み合わされて七度の跳躍へと繋がり、例の都会的で装飾的な三拍子の第二主題と組み合わされている。後に第九交響曲へと広がりゆくのが目に見えるほどだ。

三楽章は、一楽章を試みた後に、このトリオのスケッチ、総譜が完成していったという。いつものブルックナーのトリオなのかもしれない。スケルツォのスタッカートのついた動機的な関連や二連桁の動機などがそこに見られる。

結局同じく二拍子の四楽章の第一主題で二楽章での動機や、また第二主題のコラール対旋律に二連桁などがまたまた用意されていて、それが第三主題へと次から次へとネタバレのような推移になっている。そこが、少しいつものブルックナー作曲とは違うという感じがするのかもしれない。しかしその直ぐ後の主要主題を想起させた後の「農民踊り」のような節は今度はトレモロまでを伴って明白になっている。それどころかこれは牧歌的なホルンを鳴らす経過句となっている。この提示部のぐっと圧縮したような構成はそれぞれに絵を描こうとすると殆どコラージュ紛いなのかもしれない。そのあと一気呵成にクライマックスへと辿り着いてしまうので、この曲がコムパクトというような印象を偏に与えているのだろうか。

評価の高いオイゲン・ヨッフム指揮のベルリンでの全集からのこれも聞いた。テムポも早めであるが、充分に音化されていない印象もあった。その他の多くの評価の高いブルックナー指揮の演奏も比較したが、結局この指揮者の制作録音が最も楽譜を反映していた。やはりこの作曲家の交響曲を熱心に勉強する指揮者は殆どいないということなのだろう。もしくは真面な演奏をして録音できるような環境にいる指揮者が殆ど存在しないということらしい。その数少ないギュンター・ヴァント指揮の録音がただただ喧しいだけでコントロールされていないので使い物にならなかったのは大変遺憾だった。

90歳のヘルベルト・ブルムシュテットは、最近ブルックナーを熱心に取り上げており、昨年のバムベルクなどでの出来の悪いものもあるが、管弦楽団が上手ければ楽譜の情報を充分に音化してくれると期待する。さてゲヴァントハウスはどの程度の交響楽団なのだろうか。

未だに楽譜を勉強していて初めて気がつくがあると感動した面持ちで語る指揮者である。なるほど芸術音楽とはそうしたものなのだろうが、その一方で暗譜で指揮するこの老指揮者に一言疑念を呈したくなることもある。一般的に老人になると記憶が薄れる。するとこの暗譜で指揮する指揮者が毎日のように同じように新しい発見をして毎日のように忘れているとしても決しておかしくないであろう。それでも毎日が新鮮な発見に溢れているとすればやはりそれほど素晴らしいことはないだろう。



参照:
Klassiker der Woche: Löm-tödödöm-po-popfff(Tagesanzeiger)
腕次第で高くつくかも 2017-10-26 | 料理
齢を重ねて立ち入る領域 2017-07-01 | 文化一般
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# by pfaelzerwein | 2017-10-26 22:52 | 雑感 | Trackback

腕次第で高くつくかも

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先週末に開けたシュペートブルグンダーの印象を書き留めておこう。クリストマン醸造所のオェールベルク2011年である。購入直後に開けて満足しており、恐らくそれ以上に今回は満足した。風味がより強く出ていて、薬草やら藁などに2011年の果実風味が乗っていて高級感があった。25ユーロ以上出しているので、フランスのピノノワールでも近いものはあるかもしれないが、ドイツの可憐さがフランスのそれよりも品が良いかもしれない。ヴィンテージからして大手を挙げて称賛することはできないが、この程度の年度でこれだけの飲み甲斐があるのは見事だと思う。

食事に牛フィレのシュタインピルツソースを合わせた。いつものように残っていたコーヒークリームを入れたので固まってしまったが、味自体は最も美味いキノコの味がよく出ていて高級感溢れた。高級キノコもバリバリ食そうと思うと高くつくが、ソースにするぐらいの量ならば牛フィレよりは大分安い。

ブルックナー作曲交響曲七番ホ長調のお勉強は続いている。Youtubeにある録音等を聞き比べて適当に比較をして終わらせようと思った。それが益々良い録音を見つけて、楽曲への理解が深まって、簡単に終わりそうになくなった。最初から目星をつけていたブルックナー協会ドイツ支部長だったオイゲン・ヨッフム指揮でも数種類見つかった。EMIから出ているドレスデンのシュターツカペレの演奏が一筋縄ではいかなくなった。それ以前のベルリンでのDG録音を聞いている暇がなくなってしまった。しかし金曜日に聞くブロムシュテット指揮バムベルク響の演奏がお粗末過ぎるのでせめてゲヴァントハウス管弦楽団はそれ以上の演奏をしてくれないことには何をお勉強しているのか分からなくなる。だから私は超一流の指揮者で超一流の管弦楽団の演奏会しか行きたくないのである。全てが無駄になるからである ― シュターツカペレを振ったものが見つかったのでそれを聴くと、ブロムシュテット指揮のブルックナー演奏実践は、ヴィーナーフィルハーモニカ―では到底演奏出来ない程度のものだと徐々に分かってきた。



参照:
原発警備強化の物的根拠 2016-03-26 | ワイン
ブルックナーの真価解析 2013-12-17 | 音
ブルックナー交響楽の真意 2017-05-08 | 音
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# by pfaelzerwein | 2017-10-26 03:15 | 料理 | Trackback

広がるリビングからの視界

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リビングに入ると視界が広がっていた。バルコンの外の木が切られていたからである。去年既に切り込必要を管理者に伝えていたが、今年の夏は、切られないままで、そのお陰もあって幾分は涼しく過ごせたと思う。しかしこれで強風の時も安心して過ごせて、そして何よりも新春になれば部屋の奥まで入って来る陽射しが待ち遠しい。

昨冬はそれで幾らかは燃料費が増えたかもしれないのだ。また夏頃になれば緑が茂るので、涼しさが感じられることだろう。そして春の新たな梢の芽生えが楽しみになる。鳥たちも姿が見えるようになるだろう。遠景のワイン地所もソファーに座りながらでも観察できるので、これも嬉しい。

昨年まではモニターが古かったので反射が激しく、背中から差し込む陽射しで仕事にならなかったが、新しいモニターでその問題は殆んど無くなったと思う。待ち望まれるのは陽射しだけだ。

そんな日常の綾だけでないことが描かれているのが、ヤナーチェックが作曲した漫画が原作のオペラ「利口な女狐の物語」である。一時間半強の短めの作品なのだが、それでも交響曲とは異なって全体の形を見通すにはそれなりの時間が掛かる。

今回はピアノ伴奏のヴォーカルスコアーしかDL出来なかったので、それを使っている。必ずしもスケッチに近い訳ではないが、少なくとも骸骨図は分かり易い。所謂音楽劇場のコレプティトーアと呼ばれるような人達が、歌手や合唱やバレー団の練習の時にピアノで弾く楽譜である。アシスタントの指揮者なども含めてこうした楽譜を扱いなれているとやはり楽曲へのアプロ―チの仕方も変わってくると思う。

最初は第一幕などは比較的単純だと思っていたが、繰り返して見ているうちに分からない動機などが出て来て、徐々に細かなところへと意識が移って来た。そして第二幕の女狐の愛の場面も中々手が込んでいて立派な作品だと気が付きだした。五連符などでチェコ語の語りのアーティキュレーションを整えたり、なんといっても婚礼の場の民族的な素材の効果など主題ととても深く係っていることも理解した。アルザスの作曲家ケックリンなどにも共通するモードの利用も聞き落とせない。

参考にオランダで上演されたオペラ制作のヴィデオを観た。それほどト書きなどに忠実ではないようだが、全体の流れは上手に捉えられていて、人生哲学ドラマになっている。昆虫や動物に対してなのでどうしても擬人的な扱いになるが、あまりに過ぎると想像力が広がらない。特に性器を強調して具象的に扱うとなると、どうしても受け取る側は観念的にしか考えない。如何にもオランダの風土らしいと言えば元も子もないかもしれない。

それ故に第三幕のフィナーレなどは、歌唱もあってリヒャルト・シュトラウスからヴァークナーのようになってしまっている。それなりに見応えはあったと思うが、指揮者の演奏実践と共に少し違うとも感じた。どうしても可成り細やかなところまで音化しないとその芸術性が曖昧になるような気がする。そこでどうしても2009年のミュンヘンでのキリル・ペトレンコ指揮の「イェーヌファ」のトレーラーを流して見たくなった。

また昨年安売りで購入したヤナーチェックを十八番としていたサー・チャールズ・マッケラス指揮の詰め合わせCDで「女狐」組曲を流したが、決定版である筈のヴィーナーフィルハーモニカ―との演奏が全くデリカットの無いものでこれはどうしようもないと思った。せめてロンドンのフィルハーモニカ―ぐらいと録音しておけば歴史的に評価されたのではないかと、残念に思われる。要するに管弦楽団にとっては可成り難しそうだ ― そのように考えていたら凄いヴィデオが出てきた、パリ管をマッケラスが振ったもので、これならばクリーヴランドとの比較対象になるかもしれない。



参照:
ハイナー・ガイスラーの訃報 2017-09-14 | 雑感
新たな簡単な課題を試す 2017-10-21 | アウトドーア・環境
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# by pfaelzerwein | 2017-10-25 02:51 | 生活 | Trackback

親しみ易すすぎる名曲

ブルックナー、メンデルスゾーン、「女狐」と並行してお勉強している。

ブルックナーの交響曲七番には実はそれほど親しみが無い。この曲は、不成功ばかりのこの交響作曲家の作品の中でも、初演、生前から成功を収めていた曲であり、現在でも最もポピュラーな交響曲として演奏回数も多い。その理由は、比較的コムパクトに構成されていることと、やはりなんといってもあの第一楽章の上昇旋律が永久に続くかのように響くことに加えて、第二楽章のヴァクナーヘの葬送のコーダーが書き加えられていることも、1884年ライプツィッヒでのアルテュール・ニキシュ指揮での初演時から注目されたのだろう。

それだからかは分からないが、そのホの調性と共にどうしてもリヒャルト・ヴァークナーの派手やかさのようなものを感じてしまい、更に二楽章第二主題での連桁の処理などの都会的で洗練された印象があるかもしれない。これは、どうしても時代的にユーゲントシュティールというのを憚るにしても、少なくとも髭文字活字的なもう一つ行くとジャポニズムの北斎的な彫塑の印象から免れられない。それらを締める葬送のコーダを入れてとても上手に創作されている。この辺りがポピュラーになる要因であり、ブルックナーファンにはよそよそしさのような印象を与えるのかもしれない。まさしくヴィーンの中央墓地の墓石などを想起させるのだ。

メンデルスゾーンのヴァイオリン協奏曲は名曲中の名曲で、好むと好まざるぬに拘わらずCD等が手元にある。先ずはブラームスの協奏曲のために昨年購入したムター独奏のフォンカラヤン指揮のものである。いつもこの20世紀を代表する指揮者の録音は楽曲勉強の参考にならないのは知っているのだが、協奏曲では更に酷かった。なるほど創作の書法のテクスチャ―までは描き出す必要も無く、「和声上の注意を促すだけでそれ以上に透明性を以って響かすなどは節度が無い」というような言い方も出来るが、この指揮者の手に掛かると全ては指揮者のために響いているようで、聴衆の関心が著作権者へと出来る限り向かないように尽力しているかのようにさえ聞こえる ― たとえ作曲者が小器用に筆を走らせていたとしても、そこに何らかの創造者の環境の反映があるということまでを読み取らなければ楽曲を解釈することにはならない。

これは、そもそもこの指揮者の専門である「名曲」というのは著作権者の手を遠に離れた、唯の意匠や素材でしかないということを立証している。時代性や趣味となどは別にして、やはりこの指揮者の演奏解釈はインチキでしかなく、それどころかベルリンのフィルハーモニカーの鳴りもその精度が想定されるほどには全く高くない。1980年当時のDG録音の評判の悪さと、その主要な管弦楽団の鳴りの悪さも無関係ではないように思った。

そのような使い物にならない録音と、それに引き換え全く期待していなかったネヴィル・マリナー指揮の伴奏でムロ―ヴァが弾いているものが思いがけなく良かった。その楽団にエキストラが入っているためか録音のための本格的な管弦楽団演奏になっていて、更に細かく楽譜を音化しているので、この故人になった指揮者を見直した。明らかにいつものセントマーティンの楽団の演奏とは違っている。

YOUTUBEで今回聞く初演者であるゲヴァントハウス管弦楽団が、ムターに付けているものがあって、クルト・マズーアが明らかにカラヤンの影響を受けた西側の指揮者とは異なる指揮をしている。晩年の公演であろうが、ムターの強度のアゴーギクにも合わせていて、管弦楽団も流石にオペラでもやっているような感じがよく出ている。巨体でも甲高い声を出した連邦共和国大統領候補にも挙がった指揮者だったが、なかなか器用なところもありそうで、なるほど伊達にニューヨークの音楽監督をやっていなかったのだろう。当時よりも管弦楽団も上手になっているとすれば、ブルムシュテット指揮での演奏会が楽しみで、中々合わせものは上手い管弦楽団だと分かった。二年前にはベルリン、アムステルダム、ヴィーンに次いで四番目の管弦楽団とされていたが、しかしこのヴィデオの時期では到底そのような審査対象にもならない。そしてブルムシュテットとシャイーの二人の指揮者の薫陶でそこまでの域にまで達しているとも到底思えないのである。



参照:
正しく共有されない情報 2015-09-08 | 雑感
ユダヤ啓蒙主義者の社会活動 2010-08-25 | 文化一般
小恥ずかしい音楽劇仕分け法 2010-06-06 | 音
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# by pfaelzerwein | 2017-10-24 00:50 | 雑感 | Trackback

世界に憲法改正へ速報

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日本の総選挙開票予想で世界中に速報が飛んでいる。注目点は三分一越の憲法改正に至るかどうかということだ。直ぐには九条は改正されないかもしれないが、緊急事態条項を議論に出すことで、即臨戦態勢に道をつけるかもしれない。兎に角、合衆国の意向に沿う形で、好戦的な一部は日本をそれによってリセットしようとしているようだ。日本に難民が流入するどころではなく、日本から難民が出るようになるかもしれない。

いつものようにパン屋から峠を攻めて帰って来る。半ズボン半袖では肌寒く、足元も濡れていて、更に夜間の降雨と風で落葉が激しく、とても足元も悪かった。夏太り気味で74㎏を超えたままで身体も切れが悪く嘆かわしい。

先週あたりから、公共放送の役割分担による規模の縮小が話題になっている。簡単に言えば第一放送ARDを国内地方向き、第二放送ZDFを全国国際へと分けることで大きく改革する案である。最早大規模のZDFを観ている人は少ないと思うが、なぜかそこが国際網を残すとなると問題になっている巨大化が避けられない。その反対にSWRなどの海外特派などが全廃されるとなると高品質の日本情報などが車中のラディオで聞けなくなる。それでも巨大化したメディアの組織を圧縮していくことは必然だと思う。

席をネットで確保した翌日には郵便桶にミュンヘンからティケットが入っていた。またバーデンバーデンからは2018年リヒャルト・ヴァークナーと表する冊子が入っていた。ハルテロスのヴェーゼンデュンク、復活祭でのパルシファル、ゲルギエフのオランダ人などが、アルザスやシュヴァルツヴァルト、プファルツへのショートジャーニーの旅行パックとともに纏められている。やはり頼れるのはヴァークナー人気であり、稼ぐための鍵なのだろう。

「女狐」のBBCでのアニメと一幕の声楽譜を見た。BBCのものは演奏はケントナガノ指揮のベルリン放送交響楽団だった。演奏は音が悪くて今一つ分からないが、この指揮者のいつものように交響的に鳴り響くというものだ。アニメに関しての描き方は現時点では何とも分からない。一幕のピアノ譜を見る限り、主題に選定も厳選されていて、それだけにどうしても名演奏を繰り広げる必要性も感じた。

二日続けて、パリからとロンドンからのオペラ中継を観聴きした。前者のフランス語版の「ドンカルロ」は興味深かったが、管弦楽がガタガタで続けて聞いていられなかった。日本にもファンがいてヴィーンの音楽監督になるフィリップ・ジョルダンの指揮はバイロイトに続いて二度目だが、いつも同じようだ。それに引き換え翌日に一部聞いたコヴェントガーデンでの「オテロ」はパッパーノという一流オペラ指揮者の仕事として響いていた。



参照:
「三部作」お勉強の下準備 2017-10-22 | 雑感
新たな簡単な課題を試す 2017-10-21 | アウトドーア・環境
現代的聴視料の集め方 2016-03-24 | マスメディア批評
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# by pfaelzerwein | 2017-10-23 03:15 | 雑感 | Trackback

「三部作」お勉強の下準備

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再び急に冷えてきた。それでもまだ暫くは雪の降るようにはならないだろう。遠出のミュンヘン行までに冬タイヤへの交換を準備しておけばよい。次のミュンヘン行はクリスマスの前なので、その前に一滑り行けるかも知れない。今週末のボーデンゼーでの音楽会行きは何度か残券状況を確認して考えた。特にフェルトキルヘでの演奏会と前日の総稽古には興味があった。放送は日曜日のブレゲンツでのものとなる。

なによりも遠く、スキーでザンクトアントン周辺には出掛けても日帰りはあまりしたことが無い。特に夜のコンサートの後で帰宅するとなるとミュンヘンよりも遠く、道も必ずしもそれよりも快適ではない。眠くなりそうな暗闇を走る部分が多く、走り慣れないところもあって厳しいと思ったのが断念の理由である。更に来週も二つの演奏会が並んでいて、車を走らせる距離はしれているが、その準備を週末にしておかないと週明けが厳しくなる。

ミュンヘンのプッチーニ作「三部作」は、ネットであったようにそれほど競争が激しくなかった。それでも新しい配券システムで、見当は付き難かった。初日の残券状況から確実に入券出来ることは分かっていたが、初日よりも安く、放送も無い日なので競争は厳しい反面、平日の発売なのでその分は有利だったかもしれない。

今回から前回使った所謂裏口が使えなくなった。その分ウェイティングルームが綺麗に管理されたことで、不公平も少なくなったと思う。何よりも朝早くから頑張らないでも仕事の片手間に発注出来るのが良い。更に今回は発売時の待ち人数が恐らく300人台と限られていて、前回の「指輪」や「タンホイザー」の800とかいう数字とは大分少なかった。だから一挙には売り切れない。それでもウェイティングルーム入りで割り当てられる番号はランダムなので、予めの予約と同じで悪い番号が当たれば欲しいものが買えない。

この度貰った番号は130番台で、今までの経験から一寸厳しいと思ったが、実際には今までよりも早めにカウントダウンして20分過ぎにならずに入場可能となった。その通り売り切れクラスは出ておらず、39ユーロの席が残券僅かだった。その上と両方狙ってみたが、結局上の64ユーロしか買えなかった。それほど良い席ではないのだが、91ユーロを敢えて購入する気もなかった。立ち見席も好んで買われるのがよく分かった。何回も通う地元の人たちが少なくないのだろう。もし数分後に入室していたら、15ユーロと91ユーロのどちらかになって、自分自身もやはり立見席に落ち着いていたと思う。結局売れ残るのは117ユーロ以上とスコア―席で、経済力があればこれぐらいならば上も買えるので問題ない。映像だけはネット配信に期待してスコア―席を選択する人もいないことは無いだろう。

個人的には、街は込んでいるかもしれないがクリスマス前に買い物も出来るのと、これで少なくとも続けて三回の公演を放送等合わせて聴けるのが良い。第二希望としてはクリスマス直後もあった。もう一回の12月30日も先に申し込んでいたが、今年は土曜日で最終の買い出し日となっていて、買物に不便そうで、観光客が増えてくるような時期でだったのであまり乗る気ではなかった。元旦公演はミュンヘンの店が開いていないことと2日の午前様になるのが嫌だったので最初から希望から外しておいた。最初の抽選に漏れたことで、結果として今回は第一希望の日時と価格の入券が可能となった。兎に角、座る席があるだけでも有り難い。

それにしてもテノールのクラウス・フォークトの「日本人は本当にヴァークナーが好きだと思う」との発言ではないが、プッチーニの発券状況との差がそれなのだろうと思う。丁度こうして忙しければ後で少し高い券が買えるぐらいが一番良い売れ方で、30分も経たないうちに完売というのは需要過剰だと思う。なるほどキリル・ペトレンコ指揮のヴァークナーは従来のその演奏実践よりも遥かにしなやかで、音楽的にその革新性や創意工夫が実感できるのだが、バイロイトに通っている殆んどの人にとってはそんなことはどちらでもよい筈だ。ミュンヘンの公演は歌手も粒よりで、価格的にも魅力があるのだろう。プッチーニの近代性やその表現方法に比べてもそれほど人気があるのは理解に苦しむ。

早速、楽譜をDLして、メディアも落とした。最も基本になりそうなのはシャイー指揮のもので、その他には話題のウラディミール・ユロウスキー指揮の「ジャンニスキッキ」があって、有名な「O mio babbino caro」を流してみた。なるほどネットではクレムペラー風と囁かれているように、独特の緊張の弧を描く歌い口が共通していて、一種のユダヤ人的な持久力が感じられる。へたをするとシャイーのそれがあまりにゆるゆるでと思わせるのだが、やはりそのイタリア語の歌の抒情性などではシャイーに軍配が上がる。シャイーも流石だと思うが、流石に指揮技術の頂点に立つと言われる棒捌きから湧き出る音楽にも感心した。あの独特のゆったり感はとても魅力で、レパートリーによっては途轍もない効果を上げると思う。しかし、新たに加えたアントニオ・パパーノ指揮のを聞くと、オペラ指揮者としては秀逸で、CD制作録音の質を裏切らない。オペラ指揮者でこれほど実力のあった人がいたのかと思わせる。



参照:
ああ、私の愛しいお父さま 2007-01-27 | 雑感
まずまずの成果だろうか 2017-03-26 | 生活
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# by pfaelzerwein | 2017-10-21 19:33 | 雑感 | Trackback

新たな簡単な課題を試す

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天気が良く、暖かいので買い物前にボールダーに出かけた。上部のボールダーに行くと先客がいたのでその横の簡単な場所を試した。簡単でも一発目で容易に熟したのは初めてだった。それほど岩が乾いていて手掛かりもよく効いたのだ。

それほど容易だったので、まだ試していない隣の課題を試してみた。普段は周りにコケが履いていて湿っぽくて気が向かないので本気では試したことが無かったのだ。それでも手持ち無沙汰なので試して見た。上の頭を掴んでからの次が難しく、解決しなかった。それでも困難度は隣と同じぐらいだと認識した。足も小さな靴が熱で伸びるようで上手く立てた。これはもう一つ大きなサイズを買おうと思っているので興味深かった。

クリーヴランド管弦楽団のヴィーン公演が始まった。何よりも二日続けて行われる「利口な女狐の物語」が注目される。2014年から本拠地で話題になっているプロジェクトで、ディズニーのようなアニメとオペラが同調されて流されるマルティメディアオペラ公演である。これも従来のオペラ公演などには興味がない我々にとってはスーパーオーパーもしくはハイブリッドと呼ばれる音楽劇場形態だと思う。その演出をしたのが、来年バイロイトの「ローエングリン」新演出をするユヴァ―ル・シャローンである。それに気が付いたのは二日前である。

先週末この作品はベルリンでピーター・セラーズの演出でコンサート形式で行われたようだが、それも逸早くDLして観たいのだが、残念ながらクリーヴランドでのものは映像は一部しかない。但し音源だけは先日欧州公演のために演奏された壮行演奏会のものをDLした。但し320kMP3の音質なので充分ではない。

2017年欧州ツアーでは、先日パリでのマーラーの六番も中継されたようだが知らなくて聞き逃した。その他ではハムブルクのものが11月に放送されるが、ヤナーチェック作品はヴィーンで二回とルクセムブルクで一回しか演奏されない。そして後者のそれは演奏会形式の上演となっている。それでも密かに期待しているのは、一昨日ULされた映像が通常の演奏会よりは手が込んでいることを感じさせることと、なによりもバルコン席を完全に封鎖して販売していないような形跡があるからだ。どのような形式になるのか期待しているのだ。そうでなくて音楽だけでもベルリンのそれと比較するだけでとても興味津々なのだ。逆に言えばエルブフィルハーモニーで二日続けでこれを取り上げるだけの企画にならなかったのは、当時のチェッチュマン女史が最終判断するのではなくて、結局は企画するのは呼び屋さんで只の貸しホールでしかないということなのだろう。つまり版権まで払うと地元の企業などがスポンサーにならないと儲からないだけなのだ。それ故に音楽芸術は商業主義でははじまらないということである。



参照:
身震いするほどの武者震い 2017-09-27 | 音
夕暮れの私のラインへの旅 2017-09-29 | 試飲百景
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# by pfaelzerwein | 2017-10-20 21:29 | アウトドーア・環境 | Trackback