ストックの石付きを購入

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「メルケル首相は、二重国籍について、その忠心度は変わらないとして理解を示した」というのが、ニュースで流れていた。当然だろう、そもそもそのようなことが問題ではなくて、寧ろ被選挙権や権利について論じていかなければいけない。移民の子供が通う学校が自ずと定まって来てコロニー、ゲットー化が進んでいる地域もあるらしい。それをいえば地域によって社会層が異なることなど、公立学校の問題なので、CDUなどが掲げる本質を外れる問題で、本当にAfDなどの票田を削れるのかどうかとても怪しい。

マンハイムで買い物をした。序にスポーツ店に立ち寄ったからだ。最後のスキーツアーで失ったものはまだ補充できていない。その一つであるストックの皿を探している。アマゾンで発注したものは合わなくて送り返した。使っているのはエーデルリットのハイキング用のストックで伸び縮みする。だから石付きの部分は細い。

店頭で親仁に残っている皿を見せると、これは扱っている皿とは方式が違うから付かないという。しかし石突きを付ければいけるかもしれないと言うので、地下駐車場にストックを取に行った。そして戻ってきて石突きのプラスティックを嵌めると、これならいけるということになった。

つまり送り返したレキ製の石突きを取り付けると、皿もレキのものは全て付くというのだ。10ユーロ足らずのものであるので、早速購入した。皿は、これで夏と冬のシーズンを別けて使えることが分かったので、調べてから選択するということにした。

石突きの重量が片方12グラムで、自身のストックと合わせると240グラムになる。決して軽くはないが、皿は30グラムぐらいだろうか。今まで使っていたものが20グラムなので、やはりできるだけ軽いものが良い。レキのカーボン・ティタンで210グラムぐらいで、通常のもので245グラムぐらいなので、それにどれほど近づけるかである。今まで使っていたのは246グラムとなる。送り返した皿が17.5グラムだった。

夏用の皿を購入しようと探していると、購入した石突きではなく、皿を固定するタイプの製品が見つかった。価格も安く、内径も10㎝から11㎝まで三種類あるので全て試して見ようと思った。勿論重量的に完全に有利になる。その三種類と皿を合わせて発注した。送料込みで15ユーロしない。届くのが楽しみである。ストックのシャフトが225グラムなので、発注した固定プラスティックと皿で20グラム以内に収まれば完璧である。

日曜日は天気が良くなって気温が摂氏20 度に至るらしい。夜はフォアアールベルクからキリル・ペトレンコ指揮マーラー交響曲5番の放送録音前半の放送がある。父親がコンサートマイスターをして地元や音楽学校での地縁が無ければキリル・ペトレンコが指揮することはあり得ないのだが、マーラーのツィクルスだけは最後までやり遂げるということで、義理堅く地域奉仕をしていることになる。プロフェッショナルな交響楽団としての力を見せたということであり、とても興味深い。



参照:
多重国籍の奨めと被選挙権 2017-03-15 | 歴史・時事
フェイクニュースの脅し 2017-04-20 | マスメディア批評
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# by pfaelzerwein | 2017-04-29 20:15 | 生活 | Trackback

天才の白鳥の歌と呼ばれた交響曲

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承前)一週間後に迫った。モーツァルトの交響曲39番変ホ長調K543が演奏されるコンサートである。この曲は天才作曲家の白鳥の歌と呼ばれていても、ト短調やハ長調交響曲に比較して苦手な曲だったのだ。それ故かポケットスコアも所持しておらず、今回初めて楽譜を見た。そしてなぜこの曲が他の名作と異なるかが初めて分かった。

なによりも曲冒頭の重いアダージョの序奏からして、「ドンジョヴァンニ」でもなく、バロック序曲のようなそれが、所謂BGMとしての現在の消費されるモーツァルトとは違和感があるのだ ― それらを称したビーダーマイヤー風とは異なる。恐らくそういうことだろう。それに関しては改めるとしても、謎解きにあたりそうなものが二楽章にもあった。

この二楽章がこのように書き込まれている作品だとは全然気が付かなったのである。フレージングでずらされるアーティクレーションが考えられないような精妙さを形作っているのだが、正直今まで他の交響曲においての弱音器を使っただけの響きほどに、それが充分には聞き取れていなかったのだ。

試しに精妙な合奏と評価の高いジョージ・セル指揮クリーヴランド管弦楽団の演奏を聴いてみた。なるほど精妙極まる演奏で、ベルリンで客演した「最後の四つの歌」の録音で感じたリズムの鈍さは全くなく、正確無比な律動を刻んでいて、トレモロなどは笑わせる。だから時計仕掛けのように響きながらも、リタルタンドなどを時間もってたっぷりとかけていて、表情をたっぷりとつけている。先日のペトレンコ指揮のハフナー交響曲での演奏実践を思い起こした。要するに、視覚的な表情をしっかりと定めて演奏させている。ペトレンコが自身を「モーツァルト指揮者ではない」と自認するならば、このユダヤ人亡命アメリカ人もモーツァルト指揮者ではなかったということになるのだろう。

そこでモーツァルト指揮者カール・ベーム博士の録音となるのだ。先ずはベルリンのフィルハーモニカ―とのハフナーの録音も聴いてみた。嘗てこの全集を聴いていても全く覚えていなかった。管弦楽はあまりにもいつもの弦の奏法を重視するばかりに痩せこけた貧しい響きになることが多く、熱心に弾いているのだが、今回のペトレンコ指揮の演奏と比較するとリズム的にも曖昧さがあって、ついていけていない場面もある。しかし、否それ故により本質的な天才の創作を辿れるような演奏実践がなされているようだ。こうした演奏録音を具に見ていくと、来週演奏するヴィーンの座付き管弦楽団でどこまでこうした表現が可能なのかと訝られるのである。

そしてこの39番交響曲は、指揮者フルトヴェングラーやムラヴィンスキーなど所謂モーツァルト指揮者ではない大指揮者が得意にしていた。それはどういうことだったのか?(続く)



参照:
ペトレンコにおける演奏実践環境 2017-03-30 | 文化一般
ハフナー交響曲を想う 2017-03-28 | 音
九月の四つの最後の響き 2016-09-23 | 音 
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# by pfaelzerwein | 2017-04-28 18:54 | | Trackback

遊園地のようなラムぺ

工事終了したバイパスの新しいラムぺを走った。先日開通式典の様子だったが、結局式典が終了していなくて通れなかったのだ。買い物帰りにワクワクしながら突入した。突入というのは真実で、今までドイツ国内否欧州でこれ程急坂のラムぺは見たこともなかったので、勢いをつけて突入したのだ。それでもそのような経験が少ないので、スピード感が分からない。やはり上に駆け上がって右カーヴとなるとブレーキを掛けなければ怖かった。

最初からこのような誘惑を起こす遊園地のようなラムぺなので初事故は間近だと思う。いずれ制限を付けて更にスピードコントロールカメラが設置されると予想する。冬になれば凍結して坂を上がれずに後ろ向きで落ちて来て衝突事故もあり得ると思う。なぜここまでの急坂になったかは分からない。短くしたことでどれほど建設費が倹約できたのだろうか。土地買収で問題があったのか?兎に角、今後とも話題になると思う。

実際にバイパスのその先の降り口ではスピード出し過ぎでカーヴを曲がれ切れずの事故が続出していて、知り合いも事故った。そして今は制限が30㎞になっている。そこが危険なことは自分でも気が付いていたので、さもありなんだ。そして今度のラムぺも間違いなく要注意カ所である。

ドイツの道路はアウトバーンのカーヴのバンク角などとても高度な計算と建築がなされているが、最初はどこも速度制限を設けていない。そして私たちのようなカミカゼ族が確りと問題を起こして、事後に制限がなされる。私自身一体幾つの速度制限を推進させたことだろう。少なくとも、被害妄想気味にそのように考えている。

しかし上の箇所は、恐らく時速100㎞ではとても曲がり切れないと思う。もし曲がり切れないでカーヴの外側に激突すると、跳ね返されて可成りの事故になるだろう。通常の自動車は乗り越えるようなことにはなっていないが、大型のトラックが高速で坂を攻めてきたとなると、橋桁の下に落ちて大事故になるかもしれない。二輪車ならば人間が飛ばされて下に落下するだろうか?一度写真を撮ってみて確認したいと思わせる。

ハムブルクの音楽監督ケント・ナガノが先二週間のスケジュールをキャンセルしたとあった。評判の良かった「影の無い女」新制作シリーズと、なんとエルブフィルハーモニーでの「千人の交響曲」も含まれている。前者もさることながら、後者を楽しみにして遠くから旅行を企てていた人もあるだろう。代わりにイスラエルの指揮者イムバルが振るようだ。個人的には両方とも出かけるまでの魅力はなかったので、アバド指揮の最後のルツェルンでのプログラム変更の時の気持ちと比較のしようが無い。ハムブルクの歌劇場の写真を見て、更に前任地のミュンヘンでの時の写真を見て仰天した。前者は実年齢よりも歳を取っているように見えるが健康そうだ、しかし後者の血色がとても悪い。緑が強調されてしまうことはよくあり得ることなのだが、少なくともマネージャーは修正させるべきだった。あのように不健康な感じなら人気どころか誤解される。ティルソン・トーマスとかそれを売り物にしているのなら兎も角、プロフェッショナルなスタッフのこのような手落ちが解せない。



参照:
バイパス道路区間閉鎖中 2015-11-04 | 雑感
爪先で荷重可能な喜び 2017-03-29 | アウトドーア・環境
曇天の聖土曜日の騒々しさ 2017-04-16 | 暦
詐欺の前に凍りつく聴衆 2012-08-19 | 文化一般
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# by pfaelzerwein | 2017-04-27 20:44 | 生活 | Trackback

「タンホイザー」パリ版をみる

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承前)シノポリ指揮のパリ版「タンホイザー」を聴き始めた。案の定序曲から第一幕へとバレーが続き、そして二場に加えて、三場になって羊飼いが「Schauen」と歌うと、ドルチェのイングリッシュホルンを一節書き加えてから、オリジナルへと戻る。更に四場で、重唱からアレグロへとタンホイザーが「Zu ihr」と急き込んで歌う前の12小節の管弦楽が書き換えられている。

第二幕になると、「ゼンガークリーク」の重唱からタンホイザーのソロ部分だけを歌わせて他のパートを落としてしまうのはパリ版でなくてもコンヴィチニー指揮盤でも採用されている。寧ろそれに合わせるようにコーダにおいて、パリ版では激しい後奏に書き換えられていてバランスが取られているのが重要である(譜例)。第三幕のフィナーレでは、第二幕同様の重唱マエストーソの前に女声を膨らましている。演奏自体はやはり聞き通すのが苦痛だ。

ドミンゴの歌うドイツ語よりも、ドイツ語圏でも活躍したアグネス・バルツァの歌にはそれ故に余計に失望するしかない。それを言えばシュテューダーの歌唱も彼女が如何に便利屋として売れっ子になっていたかが分かる歌唱内容で、自己管理が出来なかったゆえにキャリアーを終えたことで歌劇場を訴えても話にならない歌唱である。サルミネンなどを含めて核を作る歌手が歌っておらず、ベルリンでの録音よりも悪い合唱団でこれも話しにならない。

作曲家でもある指揮者は流石に楽譜を読み込んでいるようだが、残念ながらシュターツカペレドレスデンのコンサートで聞いた時のように、音符のシステムの中にすべて音が塗りこめられてしまっていて、明晰な音像が浮かび上がらない。同時に音楽的な表情がイタリアオペラのような歌い込みになっていて、ここぞというときに律動感が暈ける。更に意味不明なアゴーギクが使われて、知的な音楽実践であるよりも情感的な表情付けとなっていて全く感心しない。氏の作曲もそうした塗り込めた音色とベルカント的な表情が聴かれるのが特徴である。

こうして第二幕のフィナーレを聞くと、リズム感が鈍かった筈のコンヴィチニー指揮のそれの方が来たるペトレンコ指揮のそれを想像させてくれて興奮させてくれるだけの演奏となっている。要するに原則がはっきりしていてドイツ的な美しさとなっていたが、このシノポリ指揮には全くそれが無い。第三幕ではよって冗長な面が強調されていて、作曲の問題であるかのように響く。バイロイトでの公演後にレコード会社の要請で自信満々で指揮しているのだろうが、アーティキュレーションやリズムの精査などを練習させるだけの企画になっておらず、市場の評判通りに出来の悪い録音制作となっている。

しかしこのおかげで、一番長いパリ版については大体分かった。先ずは第一幕との和声的連関の詳細を調べて、またパリ版のフランス語上演も参考にすればよいだろう。作曲家がその死の直前まで躊躇した理由もじっくりと見ていきたい。基本的にはやはり1860年版が妥当な選択のように思われるのだが、確かに全体のバランスがあまり良くないようにも感じる。まだ時間はある。(続く)



参照:
細身の四年ぶりのジーンズ 2017-04-23 | 生活
今は昔の歴史と共に死す 2010-03-22 | 雑感
Ich war noch nie in Japan. Das ist.. 2017-04-03 | 暦
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# by pfaelzerwein | 2017-04-26 22:39 | | Trackback

力尽きそうになる石切り場

久しぶりの石切り場である。最近ザイルを組んでいる地質学の二メートルのパートナーからのお誘いだ。職探し中なので自宅にいるので天気が良くなるとお誘いが掛かる。寒い合間に気温が上がることは分かっていたが、お誘いが無ければ買い物の序にボールダーに出かけたかどうか疑問だった。早朝には零下になるとなると、午後に摂氏16度を超えたとしても躊躇する。怪我はしたくない。

時間的に余裕がなかったので、南ファルツの奇岩地帯に出かけるのは断念して、15時30分に石切り場で待ち合わせた。週初めに関わらず流石に比較的多くの人が来ていた。

最初はスタンダードな「マボウディック」六級下から始める。折角だから初めてのパートナーにオンサイトで登ってもらう。自分自身は一度吹っ飛んだところでやはり苦労した。左側に抜けると吹っ飛ぶ可能性が強く、右側のカンテを掴んで失敗する方が良いようだ。以前は勢いで簡単に登っていたが、あの当時の動きはない、それ以上に安定した登りを目指しているからだ。その点上背があるにしてもパートナーの登り方は落ち着いていて好ましい。

二本目は、これまたスタンダードの凹角「テュルガンツ」六級下で、取り付きが厄介だ。走行しているうちに弁護士のトーマスがやってきて久しぶりの挨拶をした。「フィットか?」と尋ねてくれたのは、肩の故障を色々見聞きしていたからだ。彼はミュンヘンの大学で学んだものだからそれなりの経験があり、余計にその故障の酷さを知っているようだ。因みにミュラーカトワール醸造所の顧客でもある。

三本目は、その隣の六級上のベルクヴェルクである。最高の困難度の最初のハーケンから上を掴むところは、流石に二メートルを生かして上を何とか掴んでいた。多くの人は飛び上がるところだ。そしてその上に立ち上がるのに苦労していた。これは逆に大きいのが邪魔していたかもしれない。私はいつものようにザイルの張力を使うことで上を掴んだ。そして今までは苦労したことのない立ち上がりで少し難儀した。これも以前のような動きをあまりしなくなっているからだろう。

四本目は、「テラピーツェントルム」六級上をリクエストで登った。これまた両足を思いっきり突っ張っるのだから、長身が有利なのだ。最も私が嫌なルートの一つだが、その中間位足を置く方法で誤魔化した。それでも何とかなるという印象を得たので、苦手意識はこれで消えるだろうか。それでも上部で足場を見落として苦しんだ。

五本目は、「ウタウンズィヒトバー」六級下で、最上部のツッパリでのミニオーバーハング越が嫌なところである。足を滑らせると怖い。そこはいつもよりも安定して立てたので、どうも柔軟性が良くなって、突っ張る足が以前よりも安定してきているようだ。それでも乗り換えてからの最後の一手で力尽きそうになった。



参照:
北壁登攀の準備? 2017-02-18 | アウトドーア・環境
オンドラ、東京オリムピック否定? 2017-04-07 | アウトドーア・環境 
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# by pfaelzerwein | 2017-04-25 18:33 | アウトドーア・環境 | Trackback

美学的に難しい話し

引き続き寒気が居座っている。それどころか週の中半にかけてアルプス圏は大雪になるそうだ。ワイン街道に住んでいてよかったと思う。五月になろうかというのに冬タイヤが離せないなどとはシュヴァルツヴァルト周辺でも住みにくい。

だから、朝起きも辛く、ランニングの方もパンツを履いたままのジョギングペースから抜け出せない。胃腸の調子が完璧ではないのも寒さによる縮こまりが原因しているのだろう。暑いのは嫌だが、典型的な四月の天候でストレスが溜まっている。手足先なども冷えて、まだまだ靴下も必要だ。我慢して暖房を入れないとあとで頭痛がしている。

承前)週末に「タンホイザー」ドレスデン版を流した。そのEMI盤の演奏に関しては改めて付け加えることもなく、正直苦痛になるところも少なくはなかった。それでもその後の補筆やら死の直前まで気にしていた作曲家の逡巡のようなものをそのまま感じられたような気にさせるのである。もしかするとコンヴィチニー指揮のあの鈍いリズム感や演奏実践への配慮などが極一般的なドイツ音楽演奏環境の史実なのかもしれない ― 如何にフルトヴェングラー指揮の芸術が孤高だったかが分かり、本人がSWFで語っていた「指揮の才能があったから」が響き渡る。調べてみると、パリでの補筆で創作のロマンティックな不均衡なようなものに手入れされているようで、ベルリオーズが献呈された譜面に赤線を入れたり、また当時のシューマンの批評、更にどうしようもなかったメンデルスゾーン指揮のゲヴァントハウスでの序曲演奏などに、「タンホイザー」の問題点が歴史的に傍証されている。

そもそもヴァークナーの初期中期のロマンティシェオパーに関心のない者にとって、「タンホイザー」が今ミュンヘンで上演される価値が分からなかったのだが、パリ版での楽劇「トリスタン」の直接的な音楽的影響以上に、ドレスデン版を扱うことで、そこへ向かう衝動のような流れがあからさまになるのではなかろうか?引き続き、パリ版とされるドミンゴがタンホイザーを歌っているシノポリ指揮の録音を聴いてみる。

版に関しても背後事情を調べると、かなり複雑でとても興味深い。これはどうも、先日探していたブライトコップ人民公社のハース版のミニチュアスコアがCD棚に見つかったブルックナー交響曲4番の版以上に、美学的に難しい話しのようだ。

ヴォルフガンク・ヴァークナー博士の書いたものによると、1985年にこの作品をバイロイトでリヴァイヴァルさせるにあたって、指揮者シノポリとドレスデン版を採用することに合意して、要するに1861年のパリ版の前の一幕冒頭のバレーを除いた1860年版を選択したということになるようだ ― 因みにコジマはバイロイト初演にあたって1875年のヴィーン版に1867年のミュンヘン版を混ぜたことになる。するとロンドンでのドミンゴが歌う1988年録音盤は1861年版採用ということになるのだろうか?(続く



参照:
細身の四年ぶりのジーンズ 2017-04-23 | 生活
Ich war noch nie in Japan. Das ist.. 2017-04-03 | 暦
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# by pfaelzerwein | 2017-04-24 19:18 | 文化一般 | Trackback

時間と共に熟成するとは?

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先日購入したブルゴーニュのサントネー2009年を開けた。色は思っていたよりも濃い目で、タンニンも効いていたが、時間と共に酸化して丸くなって来る。それでも土地柄か、ボーニュのように長持ちしそうなワインである。20ユーロ以下の価格帯からすれば、2009年のシュペートブルグンダーは最早入手困難なので、質的にはそれほどアドヴァンテージもなかったが、寝かしたものの購入価格として安かった。そもそもこの程度のワインにタンニンが効いていても八年ぐらいで熟成の結果はこの程度だ、初めから分かっている。

来月の新演出の練習風景写真などが出て来て焦りだした。あと一月を切った。この週末は1960年の「タンホイザー」全曲録音を聴いている。このように録音を楽譜に目をやりながら厳しい耳で聴くと、殆んどの場合は演奏上の問題しか聞こえてこない。今回もドレスデン版でなければシノポリ指揮のものなども聞いてみようかと思ったが、一方それも気の毒にも思った。

グリュムマーやホップなど名歌手を中心に若手のフィッシャーディースカウやヴンダーリッヒを採用した豪華キャストのEMI録音である。音響もベルリンの座付き管弦楽団の素晴らしい音響と思ってじっくり聞き始めた。そしてのっけから、高名な指揮者コンヴィチニーの鈍いリズム感に呆れた。こうしたオペラ指揮者にありがちに、歌うのがヴンダーリッヒやフィッシャーディースカウとなるとそれに合わせる形で管弦楽としっかりしたリズムを刻むことになる。そこで問題になっているのがグリュムマーで、持ち役のアーティキュレーションにも留意して音程もとっているのだが、充分に楽譜を読めていないものだから指揮者共々とても鈍い音楽になってしまっているからである。

先日のザルツブルクでのティーレマン指揮「ヴァルキューレ」でも、ハムブルクでのケントナガノ指揮「影の無い女」でも同じだが、こうした歌劇場の指揮者などは楽譜を読み込んで、それをしっかりと歌手に歌わせることが出来ないと音楽にならないのである。それをさせるためには管弦楽を完全に掌握していないと話しにならない。戦前は各々の役柄を数え切れないほど歌いこんだ歌手が存在して、それも作曲家の弟子などの薫陶を受けた歌手などがいたのだろう。そうした世界であったのだ、しかし現在のオペラ指揮者が経験を幾ら身に着けても楽譜が読み込めていなければ芸術的な質は一向に向上しない。先日も音楽家に「ミュンヘンに通っている」と話したときに、チューリッヒの歌劇場は何だけどバーゼルとなると出かける気がしないというのは当然だと思う。音楽に興味があると歌芝居劇場などには出かけられなくなるのは当然なのである。

新聞にラインガウの音楽祭のチラシが折り込みになっていた。中を見ると、レディデンスピアニストとしてイゴール・レヴィットの名があった。馴染みはないが、六月六日にミュンヘンからコンサートの生中継があり、今秋東京で繰り返す同じプログラムでラフマニノフを弾き、その前に台北でべートヴェンで共演するピアニストとして見た名前だ。勿論その名前からユダヤ系ロシア人で指揮者キリル・ペトレンコと同じなのであまり興味を抱かなかった。しかし調べてみると、劇場で働いていたピアニストの母親はハイリッヒ・ノイハウスの孫弟子だとある。そして何よりもフレデリック・レジェスキーの曲をCDアルバムに吹き込んでいる。それどころか他のコンサートは売り切れていても、何と作曲家とのデュオコンサ-トは売れ残っていた。このポーランド系ユダヤ人の作曲家とは間接的な付き合いもあり、これはどうしても聞き逃せないと思ってティケットを予約した。正直どの程度のピアニストなのかは分からないが、そのレパートリーなどを見ると、前回ペトレンコ指揮管弦楽団と共演したカナダのアムラン並みに期待できるのかもしれない。



参照:
腰が痛くて熟睡できず 2017-01-07 | 生活
反知性主義のマス高等教育 2016-03-21 | 歴史・時事
石灰が効いた引き分け試合 2014-08-10 | ワイン
漸く時差ボケから解放される 2017-04-08 | 暦
Ich war noch nie in Japan. Das ist.. 2017-04-03 | 暦
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# by pfaelzerwein | 2017-04-23 19:38 | 文化一般 | Trackback

細身の四年ぶりのジーンズ

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ジーンズを発注した。前回のものは四年前の購買になる。まだ痛んでいないと言われる。それでも流石にオペラの立ち見などに履いていくのは憚られる。良さそうなものをウィッシュリストに入れてからでも半年ぐらいになる。その時よりも3%安くなったので手を出した。サイズが無くなれば一貫の終わりで、今普段着に下している33インチのものから二段階下の31インチなので、長さも含めて、あまり数が出ない。寧ろ売れ残るサイズであり、定価からすれば大分安く、前回の出費86ユーロよりも大分お得になる。色合いは前回ほど好ましくはないが、なによりも新しく、細身で形は改善されるのではないかと期待している。

大きめのジーンズならば、内股の生地通しの摩擦で股ズレもしないので、痛み難いのは分かっている。現在使用中の32インチでも全く傷みが無く、更に腹回りがずる感じがするぐらいで、間違いなく更に小さめの方が都合が良い。先ずは足を通してみなければ分からないが、太ももなどがすっきりとするのではないかと思う。幅でとると、同じ長さでも長目でなくなると思われる。しかしこればかりは更に長目が履ける訳ではない。

五月のミュンヘンは初日シリーズなのでジーンズは履かない予定だが、新しいシャツもあるので気候が良くなってお出かけやデートなどになるとやはり古くさいといけない。更にだらだらしたジーンズは更に暑苦しい感じで良くない。

前日に発注したものが届いた。色は予想よりも濃い目だが、緑がかっているようで、今普段着にしている33インチのものとは違うようだ。冬は暖かそうな感じがするが夏はどうだろうか?上着も若干合わせ難いかもしれない。まあ、送料込み63ユーロなら文句は言えまい。

何よりも違うのは、太ももが絞られて、確りと包まれスリムになっていることで、腹回り以上に効果があるだろう。腹回りはもう一つ下の30インチでも履けるのではないかと思わせる。嘗て無理をして履いていた時とはまだまだ大分余裕があるが、あの当時は脂肪が多かったのでまた意味が違うのかもしれない。走り込んでこれ以上細くなると今度はスーツなどのズボンに困ることになる。目的は脂肪を落とすだけなのでこれ以上細くする必要はない。なによりも太ももなどはこのリーヴァイスのオリジナルフィットでパンパンなのでこれ以下は履けても直ぐに股ズレが起きそうだ。



昨晩、「タンホイザー」新演出の写真が掲載された。注目は、ヴォルフラム役のゲルハーエルに充てられた楽譜がドレスデン版ということで、テクストのあるところはあまり差が無いのかもしれないが、そこにパリ版が付け合わされるということで、管弦楽のパート譜にも付け加えられることになるのだろうか?週末は、ドレスデン版としてネットにあるコンヴィチニー指揮の豪華キャストの録音で調べてみよう。この指揮者は、ゲヴァントハウス交響楽団とのベートーヴェン交響曲全集などで有名だが、障りを流してみるとなかなか良さそうでレファレンス版として充分に使えそうである。



参照:
足を通してみてドキドキ 2013-03-12 | アウトドーア・環境
三年振り新調のジーンズ 2006-12-29 | 生活
ジーンズの裾の綻び 2008-10-29 | 生活
締まりの良いストレートな買物 2009-12-22 | 雑感
伸びる仏印ジーンズを購入 2015-04-09 | 生活
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# by pfaelzerwein | 2017-04-22 17:45 | 生活 | Trackback

なにか目安にしたいもの

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ランニングコースの沢沿いは霜が降りていた。駐車場の車も霜取りの痕があった。沢の流れも叢が凍っていたようにも見えた。しかし車の外気温計は摂氏四度である。今年の記録的に暖かい二月の天候のようだ。それでも異なるのは明るさで、春の太陽だった。だから手袋が欲しいほどではなかった。まるで日本の太平洋側の二月に走っているように錯覚した。日本の冬はやはり温かい。相変わらずジョギングテムポの25分30秒で往復した。それでも髪が汗で濡れて寒さに耐えれるような体になった。

居間に暖房を入れた。今シーズン初めてである。冬篭りしていた間は消してあったからで、前日に寝室に暖房を入れて就寝してそれはそれで熟睡できなかったので、階下に暖房を入れてその温もりを一日中利用することでこの数日の寒気を乗り切ろうと作戦変更した。厳冬期ならば風呂場がヒートショックで怖いのでそこに暖房を利かすだけなのだが、春となると東日が入って更にお湯の温もりでそこは暖かい。しかし居間は陽が入っても広いのであくまで充分に温まらない。恐らく南からの陽射しが高くなって奥には入らないのだろう。それに合わせるようにして、暖房を利かすことで最も効果的になるだろうか。

陽射しが差し込まなくなったので夕刻、階段上のサンルームで休もうと思った。そこにもソファーが置いてあるので寝転べるのだが、陽射しが当たらない。窓枠の下においてあった寝椅子はバルコンに移動してある。そこでキャムプ用の椅子をそこにおいてマガジンを開けた。調べ物の目的は違ったのだが、興味深い情報を得た。いつものFAZで御馴染みの音楽評論家女史がバーデン・バーデンのそれに書いてあるものだ。

パリで演奏旅行中のミュンヘンの座付き管弦楽団の稽古を見学していてsehr gutと褒めていたのは知っていたが、そこでの指揮者ペトレンコの発言を書き起こしている。

"Ja, das war gestern sehr gut, sehr gut, ich bin glücklich, danke.
Aber wir könnten, Buchstabe H Takt 5, bitte die Klarinetten..."

「そう、昨日は(ボンでのチャイコフスキー五番の演奏は)とても素晴らしかった、とても素晴らしかった、幸せで、どうもありがとう。
それでも練習記号H五小節目から、クラリネット(重奏)は…」

Stringendoの記号が付いて、アゴーキクが効かされるところであろう。やくざ刈りの一番のおじさんとブロンドのおねえさんの二番が上手く合っていなかったのかもしれない。つまり三度からオクターヴへと重要なクラリネット重奏が響かないことになって、音の凝縮度が変わってしまうのだろう。なるほどこの辺りはボンの公演の記憶では若干バタバタしていた感じであったのを記憶している。

指揮者キリル・ペトレンコは、指揮台の楽譜をいつも熱心に捲っている。モーツァルトの交響曲でも小まめに捲る。故岩城宏之の文章ではないが多くの指揮者は目線を離したくないのと、権威の為にも暗譜するというようなことのようだが、どうもこの天才指揮者の場合は楽譜で演奏上の問題点を確認して記憶の目安にしているようだ。それならば我々でもチェックしておかないと忘れるのと同じで、鉛筆があるかないかだけで、それこそ岩城のように視覚的に記憶しておけば練習記号とも記憶に残しておける。



参照:
Glückliche Erscheinung, Eleonore Büning (MAGAZIN 2017/1 Festspielhaus Baden-Baden)
管弦楽演奏のエッセンス 2016-09-14 | 音
九月の四つの最後の響き 2016-09-23 | 音
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# by pfaelzerwein | 2017-04-21 19:59 | 雑感 | Trackback

入場者二万五千人、占有率93%

バーデンバーデンとザルツブルクでの復活祭が終わり、各々がその成果が発表されている。先ず前者は25000人の入場者を迎え占有率93%、後者は24000人、95.5%と、どうしても二者が比較される。後者の会員とその歴史から比較すれば、五年目の前者が健闘していることも分かる。後者の大ホールが2179席に対して前者が2500席である。来年は、今度は前者が「パルシファル」で、後者が「トスカ」となるので、その占有率の差が縮まるのだろう。

今年前者で公演された「トスカ」のヴィデオを観た。恐らく、初日などよりも質は高くなっているようだが、基本的な批判点はこの公演でも変わらない。演出や歌手に関しては批評を超えてそれに付け加えることはそれほどないが、演出に関してはバーデンバーデンでの公演の質を体現しているようでこれまた具合が悪い。ベルリンとの協議のやり方は分からないのだが、現監督のオペラ界での人脈から考えるとこの程度のものしかできないのも理解できる。これも次期監督に期待が集まるところで、少なくとも歌手に関してはレヴィン事務所が出て来るので全く質が変わるだろう。しかし最大の問題点は、現監督のオペラ指揮やその在り方で、これは今更なんだかんだ批判してもはじまらない。それがプッチーニとなると、より歌手を充分に歌わせることが出来ないとなると、たとえ立派な管弦楽を清潔にコントロールしてもはじまらないのである ― 改めて次期監督が2011年にフランクフルトで同曲公演の音を聞くと、下手さが目立つ管弦楽であってもその歌の運びなど、プッチーニの演奏に関してもこの二人のオペラ公演での実力における雲泥の差が際立つ。来年は、「五年間の功労に盛大なお別れ公演」として「パルシファル」が公演されるが、演出にも金を欠けるようだから、ある程度は期待できる。何よりも音楽的にも通常のオペラ指揮者にとっても難物なので、ある程度はアドヴァンテージを付加できるのではなかろうか?

ハムブルクでのリヒャルト・シュトラウス作曲「影の無い女」新制作への新聞批評が載っている。これまたフランクフルトの「トスカ」と同じくアンドレアス・クリンゲンブルク演出らしいが、ケント・ナガノ指揮の管弦楽団が賞賛されている。あの楽劇で管弦楽団が主役になるというのはやはり問題が大きいかもしれない。以前のフォン・ドホナーニ指揮の演奏でもそれほど目立つことはなかったので、やはりナガノは交響楽的に鳴らしていることは障りを聞いても分かる。同時に最初期から変わらぬように鳴らし過ぎという批判もあるがそれなのになぜか交響楽団ではもう一つ成功していないのが、如何にもオペラ指揮者らしいところだろうか。一流二流とか様々あっても、ティーレマンなどの指揮者にも通じるものがある。

先日公演のあったキリル・ペトレンコ指揮で父親がコンサートマイスターを務めていたフォアアールベルクの交響楽団の演奏会がラディオで聞けるようだ。それもブレゲンツの会場からではなく、モンタフォンの会場の録音が、月末30日日曜日と翌週に分けて放送されるようで、今秋都民劇場で座付き管弦楽団で演奏されるマーラーの交響曲五番とマーラーの歌曲である。ローカル番組の枠組みなので一回のコンサートが二回に分けられるのは、まるで嘗て大阪のABCが大フィルの演奏会をAMで放送していた時のようである。



参照:
REICHLICH ÜBERFRACHTET (BR-KLASSIK)
Ein Klangmagier, der sein Wort hält (Vorarlberger Nachrichten)
需要供給が定めるその価値 2017-04-19 | 生活
竹取物語の近代的な読解 2014-12-31 | 文化一般
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# by pfaelzerwein | 2017-04-20 21:42 | 文化一般 | Trackback

フェイクニュースの脅し

朝七時半のアポントメントだった。タイヤ交換である。だから車中で七時のニュースを聞いた。トップニュースは北朝鮮問題でのフェイクニュースである。空母が北朝鮮向かうと大統領までが語って、北朝鮮に圧力を掛けたのに、実際には反対方向のインド洋へと向かっていたことが知られていたというのである。要するに口だけの脅しだったとなるが、この件に関しては内部での情報の混乱として処理されるらしい。子ブッシュや金正恩などの一貫した政治姿勢とは異なり、このように未熟大統領トラムプの方が一貫性が無いので危ないというのが解説だった。

折からの戻り寒気で、霙も降り、冬タイヤが欲しいと思ったが、それでも夏タイヤの走り心地は抜群だった。地面が温まっているので、気温は摂氏四度であり、週末にかけて早朝は零下になるというが、出かける予定もないので来週になればまた暖かくなるだろう。途上買物も済ませて、九時にはデスクに付いた。

朝のラディオでもう一つ興味深かったのは、今回の国民投票に参加したトルコ人のドイツ人化の問題が危ぶまれていたことに対して、政治信条や民主主義的意識とドイツ化の問題は別けるべきだとする意見だった。つまりドイツでもAfDなどを支持するとんでもない非民主主義的な連中が多く、それはトルコ人でも同じだというのだ。二重国籍が二百三十万人といわれ、彼らが必ずしも非民主主義的な人達ではないという背景も話されていた。

流石に寝室も冷えて来て、布団に包まって寝るのであまり熟睡していない。上掛けを準備するか、暖房を薄く入れるかなど考えるが、陽射しがあると直ぐに暖かかくなるので、完全に切ったままにしてある。



参照:
Alternative facts 2017-02-04 | 歴史・時事
多重国籍の奨めと被選挙権  2017-03-15 | 歴史・時事
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# by pfaelzerwein | 2017-04-19 17:40 | マスメディア批評 | Trackback

需要供給が定めるその価値

早い春開けから、初めての本格的な冷え込みである。霙のところも多く、霜が降りたり、凍結の心配もあるようだ。走る手が冷たくなった。パンツも脱げないので、真面なスピードも出ない。復活はまだまだ遠い。

そろそろと思って二年になろうかとする2014年雑食砂岩リースリングを開けた。まだまだミネラルを楽しめるほどに開いていなかった。酸が出て、それらしい味筋が楽しめただけで、あと数か月は掛かると思う。2014年産も2015年ほどではないが均衡がかなり強い。レープホルツ醸造所からのお知らせもまだであるが、2016年産は大いに期待できる。

音曲自主規制の関係もあって、流さなければいけないものが溜まっている。先日も数枚のCDをお土産で貰ったので、通してとまでは言えないでも、目ぼしい歴史的な音源などにも耳を通さなければいけない。それに最後に注文した安売りCDも殆んど音出ししていない。

更に復活祭プレゼントでデジタルコンサートの「マタイ受難曲」がダウンロード出来たので一部は流したが、ピーター・セラーズ演出の全体の構図までは確認していない。またバーデン・バーデンからのARTEの中継二種類とSWR2の中継をダウンロード並びにコピーした。これもドヴォルジャークのヴァイオリン協奏曲は何回か流しているが、「トスカ」の方は映像も観なければいけない。仕事でこうした視聴の数を熟さなければいけない人を想うと気が重い。

その点、ザルツブルクの「ヴァルキューレ」は、じっくりと思っていたが二幕、三幕と進むうちにその必要が無いことが明白になって、アーカィヴにはしておいても、じっくり見直す価値が無いことが分かった。なるほどドレスデンのスュターツカペレは慣れたもので、昨年の批判もあるのか、個々が充分にさらっているようで、質は高いが、ティーレマン指揮は節操が無い。第一幕の所謂作曲家が認める俗受けを狙った音楽では裏をかくようにして、テムポを落としてダイナミックスも微妙につけて成功していた。しかし問題は第二幕の長い叙唱に関連する。そこでは気が付かなかったが第三幕のフィナーレなどでそもそもの動機とは異なった節回しで演奏させたりと、恐らくフルトヴェングラー指揮の録音などを模倣しているのだろうが ― 祝祭の公式HPに現芸術監督が沢山のLPを背にカラヤン指揮のLPの解説書を見る写真が掲載されている、適当な変容でこれだけの芸術作品の骨子が完全に崩壊してしまうことをこの劇場指揮者は理解していないようである。フルトヴェングラーの一貫したソナタ形式における有機性の意味付けなどの論文も書いていない者が高度な芸術を模倣しても大衆演劇にしかならない。それにしてもザイフェルトが、その若々しい歌声や姿に、少々鈍い音楽ならば充分についていけるのを示し、ハルテロスとの兄妹の組み合わせも素晴らしく、とてもツェッペンフェルトの芝居も好都合で、ブリュンヒルデ役のカムぺもとても健闘しているが、芝居を作る歌唱を披露するまでの主導権は誰にもない。それによって、情景情景のより合わせのようなまさしくオペラガラの詰め合わせのような、全く音楽的な創作意思を感じさせない、夢のような舞台となっている。そして何よりもシュターツカペレの美しさは格別で、これまた瞬間瞬間に魅了するような全く芸術とは関係のないオペラ上演となってしまっている。全ての責任は指揮者にあることは言うまでもない。ということで、オペラファンやヴァークナー愛好家のようにエンターティメントとしてこのヴィデオを楽しめるのだが、音楽芸術的な価値は皆無である。



参照:
創作の時をなぞる面白み 2015-08-11 | 音
私の栄養となる聴き所 2014-07-14 | 音
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# by pfaelzerwein | 2017-04-18 21:33 | 文化一般 | Trackback

明るく昇っていく太陽

先週も三回走った。最後の峠攻めはゆっくり上がった分早く下りれて33分28秒で帳尻を合わせた。このところの不調は四旬節の食事が絶食まではいかなくても肉食が普段より減っているのでもう一つ意気が上がらなかったこともあるのかと思う。菜食でも先日のクライミングのパートナーでありツアースキーのリーダーのように二メートルの巨漢の元気な人がいるが、どうも私の場合は血圧が上がるようでなければ駄目なようだ。

失われたとされていた楽譜が確認されたという。グスタフ・マーラー作曲「亡き子を偲ぶ歌」のピアノ版で、管弦楽版として知られているものだ。「今しがた、太陽が明るく昇っていく」という第一曲で、残りの四曲とは異なって、ピアノ版が失われていたものである。道理でフィッシャーディースカウの全集に含まれていない訳だ。当時のアルマと作曲家が通っていたヴィーンの音楽サロンを催していたコンラート家の娘さんがミュンヘンへと移ったことで、見つかった楽譜もその時に搬送されたとされる。そのノートから、1901年から1904年に作曲されたこの第三曲、第四曲と同時期の作曲とされる ― 第六交響曲に関連して、アルマによって縁起でもないと言われていたリュッケルト詩に付けた曲集である。

承前)三月のペトレンコ指揮のコンサートをベルリンで体験して、それを称して「猛獣ショー」と書いている東京の人がいるようだ。その旨はなんとなく分かる。つまり、ベルリンのフィルハーモニカ―に戦後付き纏っていた高度成長からのイメージが被るからである ― 当時は合衆国のビッグファイヴもレニングラードもどこも同じようなものだった。そこの入団試験を受けたかどうかは知らないが、現在ミラノのスカラ座で弾いている二代目の団員がフィルハーモニカ―を称して語ったことを思い起こさせた。つまり彼に言わせると「そのアンサムブルの在り方や雰囲気が特殊で」と、所謂我々がイメージする戦後の西ドイツのあの雰囲気がアバド時代でもあまり変わらないとした見解であった。どこの交響楽団も、座付き管弦楽団とは当然異なるが、所謂ドイツの合理主義的なものに、これまた根源的な闘争心のようなものが加味された雰囲気である。そうした雰囲気が先入観念を形成しているのだろう。

しかし現実には、先日のバーデン・バーデンでも「冷たい音楽」と評されていることに関してその仲間の音楽家に話すと、モーツァルトの演奏のあとで即座に「楽員は充分に温まっている」と反応があったぐらいである。つまり誰が見ても分かるように、それどころかベルリン初日には緊張した楽員が上手く乗れなかったことを評して「とても人間的だ」という批評もあった位で、思い込みと現実の間には大きな隔たりがある。

芸術的な見解としては、先日のインタヴューで「音楽することと楽曲演奏実践の関係が議論」となっていた訳だが、現監督のそして同時にフィルハーモニカ―の弱点としてもこの問題が立ち覇だかっていて、前者の責任としては正しいテムポを絶えず与えたとしても、それを状況に合わせて、更に音楽作りをしていくということに関してつまり恐らく指揮のテクニックであり、その音楽的才能に弱みがあるということになるのだろう。この問題は、この指揮者のデビュー当時から我々のような熱心なファンは分かっていたのであり、それは将来とも変わら無いと指摘されていた。それでも演奏実践の完成度やそのプログラミングなどを含めて彼以上の才能が居なかったのも事実であろう。そこで、まさしくそこが自由自在の次期監督が選出された訳で ― 一例としてバイロイトでの楽劇「ジークフリート」当該箇所での歌いこみを挙げれば充分である ―、その棒に付いていくことが求婚した側として至上命令なのである。それによって、戦前戦中を引き摺る反作用としての戦後のクールなイメージから抜け出て、例えばフルトヴェングラー時代以前の恐らくニキシュ時代の新生交響楽団の一夜一夜完結するイヴェントであるようなコンサートが出来るようにという目標が設定される ― 例えばペトレンコ指揮コンサートのプログラムは、古典的なプログラム構成で、休憩前に協奏曲などを入れて、力の入れ加減を調整していて、演奏上の注意力などが失せないようになっている。それだけに120%も求められる高い目標が設定されている。「猛獣ショー」とは勿論カラヤンサーカスから観念連想する言葉であるが、実際には甚だしく的外れな言葉であろうことは、この事情からまたその目指すものからも明白であろう。



鼓動を感じるネオロココ趣味 2017-04-10 | 音
運命の影に輝くブリキの兵隊 2017-04-11 | 文化一般
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# by pfaelzerwein | 2017-04-17 22:19 | 文化一般 | Trackback

殆んど卑猥な復活祭卵の巣

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朝からパンを買いに行って、一っ走りしてきた。峠への上りはブルックナーの交響曲四番を頭でさらっていた。それでもまだ四楽章を勉強していないので紛らわしいが、最後のコーダまでなんとなく動機の連結は描けた。交響曲とはこのように作曲していくのだと体感できるような気がした。

なにはさておき四楽章までさらって、時間があれば録音を流して、夕方のバーデンバーデンでのコンサートのネット再放送までに、ザルツブルクの楽劇「ヴァルキューレ」を少し観てみたい。障りだけは聞いたが、指揮者のティーレマンは、テムポを抑え、音量を抑えてマニエーレの極致を行っているようで、これは楽譜を見ながら聞かないと適格な批評にならないと思った。無駄になるかもしれないが、歌手陣も大変健闘しているようで、先ずは観なければ話しにならないと思った。

聖週間は昨週末からの疲れもあって、音曲自主規制としたので、打って変わっての一日中音響漬けは厳しいかもしれないが、砂漠に溢す水のように体に染みていくかもしれない。それでもやはり楽譜を見ながらヴィデオ鑑賞なんて苦痛でしかなく、楽譜も無しに音楽ヴィデオなどを二時間どころか短い一曲も気を散らさずに観ていることなど出来ない。それでもああしたものが売れる市場があるのだから、多くの人は余程気が長くて我慢強いのだと思う。

これを書き乍ら、「ヴァルキューレ」を流しているが、子供の時から乍ら族なのでそれは堪えない。しかし、何か独特の節回しの音楽が流れると気になって仕方が無くなる。独特のアーティキュレーションの根拠はどこにあるのだろうと気になると楽譜を開けてみないといけなくなるから、やはり乍らでは流す価値はあまりない。まるでミュージカルか何かのようで、まるでテムポやリズムが定まらないと気持ち悪い。これを専門家を称する人達は拍を数えているのかどうか、極限の殆んど卑猥なアゴーギクと呼んでいるようだ。まあ、多くの専門家の絶賛を受けた公演であるから最後まで観よう。

パン屋で取って来た復活祭の卵の巣である。一度、写真を上げたことがあるが、毎年のお飾りのようなものなので仕方が無い。勿論、復活祭のウサギと言われるようなものは卵を産む訳がないのだが、ウサギは多産の象徴であることには変わりない。



参照:
満ちる生まれ変わる喜びの日 2010-04-06 | 暦
聖金曜日のブルックナー素読 2017-04-15 | 暦
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# by pfaelzerwein | 2017-04-16 22:54 | | Trackback

曇天の聖土曜日の騒々しさ

聖土曜日は朝早くから買い物客が押し寄せた。例年の如く、厚い雲が覆う聖土曜曜日の天候だが、復活祭で火曜日まで休みになるからだ。先ずはパン屋で並び、八百屋に行くのに遠めのところで駐車した。おばさんが牛蒡を渡すのを忘れていたので帰宅後電話した。帰りにはバイパスが地元の南インターチェンジまで開いていて、いつも使うところはラムぺが殆んど出来上がっているので、旧道の混雑は解消されて、もう一息で工事以前よりも更に静かになるだろうことを確認出来てよかった。

立ち寄った肉屋では青胡椒入りミニザウマーゲンを購入した。残っているマウルタッシェと合わせてこれで火曜日まで暮らせるだろう。一食は米があり、一食はジャガイモがある。復活祭初日はパン屋も開いているので、リースリングを一本開ければ充分だ。

途上のラディオは予定されている復活祭の平和行進の予定などをニュースとして伝えていた。ラムシュタインの沖縄と並ぶ世界最大の海外米軍基地へと向けてシリアへの攻撃などへの抗議行動を行うという。その行動の規模は知らないが毎年のことだろうからある程度は分かっていることであり、こうして朝のニュースとして伝えることは中立の公共放送としては公平なのだと思う。

そこで、トラムプ大統領が北朝鮮を朝鮮半島の非核化に向けて交渉の場に引き出そうとしている挑発の報道は、丁度冷戦時代の戦略核構想を想起させるが、あの当時の西ドイツの報道はどうだったのかなどと思わせた。当時は右左両翼の政治勢力と報道姿勢などがはっきりあったわけだが今はどこの国も異なっている次元ではやはり質の良い冷静な報道などが必要とされるのだろう。先日、米中の両首脳は今回の件で協議したことだろうから、ある一定の効果は計算できているのだろうか?

北朝鮮と謂えば、先日シュネーベルガーのお弟子さんと話したときに、金正恩とも平壌で会う可能性はあったと語っていたが、それは冗談ではないと分かった。逆に会っていなかったのだろうと分かった。それほどスイスでの滞在は後継者となる本人にとってはあまり表に出したくない事だったのだろうと推測する。スイスの全方位永久中立政策ゆえになせる業だろうか。

南朝鮮と謂えば、ベルリンの尹伊桑の家構想に韓国政府が経済的援助を惜しんで暗礁に乗り上げているという話しを聞いた。貧しい国でもなく、サムスンなどの大企業は連邦共和国において大きな利益を上げているのであるから、ソニーが首都にセンターを作った様に、韓国を代表する作曲家であり、政治的にもとても世界の注目を集めた人物であるから構想に財源を出すべきである。勿論彼を迫害して、死刑判決を与えたのは先頃弾劾された朴の父親の朴正煕大統領であり、あまりに北朝鮮と近かったことからその援助が難しかったのは理解可能だが、この時点で方針が変わらないのだろうか。その政治信条以上に、朝鮮民族にとっては重要な芸術家であることは間違いなく、金大中と並んで時代の証人であったことも間違いない。韓国人も慰安婦像などに市民の募金を集めるならば、尹伊桑の家構想に資金を集める方が将来的にも価値があり、民族の誇りとやらに繋がるのは間違いない。



参照:
聖土曜日から復活祭にかけて 2013-04-01 | 暦
ポストモダンの貸借対照表 2005-09-02 | 歴史・時事
詭弁と倹約 2005-02-18 | 料理
日本人妻たち対慰安婦たち 2017-03-16 | 女
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# by pfaelzerwein | 2017-04-15 19:24 | | Trackback

聖金曜日のブルックナー素読

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オバマ前大統領が五月にベルリンを訪問するという。プロテスタントの教会大会に出席してメルケル首相と面談して、その足でメディア賞授与にバーデンバーデンを訪れるらしい。子ブッシュとは異なりその世界的影響力は健在のようだ。

ラディオは、電気代が上がることを伝えていた。理由は連邦共和国が進める電気自動車の充電機の設置のために新規投資が必要だからのようである。既にアウトバーンの脇のマクドナルドなどでも見かけるが、充電時間を考えると本当に実用的なのかどうか分からない。少なくとも、自宅では今後とも更に節電する方向で最後の微量電流までを抑えて行くことになりそうだ。今年になって殆んどワークステーションを点けていないので既にこれまた期待できる。

ランニングのスピードが出ない。理由は分からない。気温摂氏六度もあれば十一度もある。それほど変わらない。どこがどう悪いわけではなく、絶食をしている訳でもないが、もう一つである。先週、週末の疲れが残っているのだろう。コンサートに行くだけでも結構厳しい。十代の時の年間百何十回かの記録が一度だけあるが、二時間近く集中しているだけでも疲れるのである。それが三日に一度ほどとなると堪らない。あの頃は好奇心の方が強かったのだろうが、それでも厳しかったのを覚えている。

2015年から再びフランクフルトの演奏会とバーデンバーデン以外にミュンヘンのオペラに通いだしたが、フランクフルトは定期を止めた。それでも今年、来年の計画を立てると、そこにこれまた極力減らしているスキーと山を加えるとダブルブッキングの可能性が高い。今は泊まりで仕事に出かけることもなくなっているので幸いだが、そのようなものがあると仕事先からオペラやスキーということになってしまうのだ。

忙しく動き回っているとやはりじっくりと色々な勉強ができなくなる。音楽のお勉強だけに限ってもあの忙しくしていた時の時間に追われてのそれと今ではやはり大分異なり、深く勉強出来る。ブルックナーの交響曲四番の「素読」を第一楽章から始めた。最初の版も写譜屋さんの筆ではなくて直筆譜だった。古楽の場合などは苦手なのだが、これはシステムがはっきりしているので、なによりも書き込みが分かり易くて余り苦にならなかった ― 余談ながら、通常の文章とは違って、音楽の記号は速読に適していて、視覚的に文字とは違ってそれは瞬間的に捉えられるからである。寧ろ、動機の扱いなどを見るとその勢いとか書き込みに流れが見えて分かり易い印象である。同時に後年の成功と攻撃から対位法の大家のような印象があるが、この交響曲をこうしてみると可成り隙間だらけでそれほど密に書かれてはおらず、精々その辺りの学校の先生という感じである。実際にオルガン弾きとしてと同時に、ヴィーン大で講座を持つとなっているが、現在もどこにでもいるような普通の音大の講師程度ではないだろうか。流石に第一版は冗長なところがあって改定の必要に迫られただけでなく、今は誰も使わない楽譜であるというのは感じられた。少なくとも動機の扱い方においてということである。まだよく分からないので先に進もう。



参照:
復活祭音楽祭のあとで 2017-04-13 | 生活
夏タイヤについてのファクト 2017-02-24 | 雑感
インタヴュー、時間の無駄四 2016-08-03 | 音
魂をえぐる天国的響きに 2016-06-13 | 雑感
東京の失われた時の響き 2016-03-06 | マスメディア批評
予定調和的表象への観照 2015-09-29 | 音
ブルックナーの真価解析 2013-12-17 | 音
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# by pfaelzerwein | 2017-04-14 19:47 | | Trackback

フランスのチーズとワイン

バーデンバーデンへの途上でワインを二本購入した。一本はブルゴーニュだが、もう一本は白ワイン代わりにロゼを購入した。いつもはプロヴァンスの安く軽いものを購入するが、魚などに合わしたいので探してみた。あまり飲んだことのない、フランスで最も高価なと呼ばれるタヴェルを購入した。他のロゼの倍ぐらいの5ユーロぐらいだったが、アルコールが14%とと高いのには気が付かなかった。二度ほど滞在したニームとアヴィニョンの間だが、現地ではあまり飲まなかった。高価だったからだろうか。

サケのパイに合わせて、悲愴交響曲から帰宅後に開けた。何よりも甘みが口に広がるので、最近はフランスのワインの甘みに閉口するかと思ったら、苦みが急に広がって来てまるで仁丹のようだった。あの石灰土壌でこれだけ苦みが走るのは高アルコールでしかありえないだろう。魚の焼いた苦みとか貝の苦みとかには合いそうだ。それにしても可成り強引なワインである。あの辺りから地中海にかけてのフランスワインは、繊細とか柔らかみとかとは正反対のワインを何とか石灰岩のカルシウム丸みのようなテロワーで飲ませるものが殆んどである。兎に角ロゼの割には赤のような色をしていた。暑い2015年産ということで、ドイツにおいても繊細さを求めるのが間違っており、フランスでもそれは同じだろう。

スーパーでは直前にドイツの親仁達がエビを買いさらってしまったので、烏賊を買った。自宅で初めて掃除した。そして一回はゲソを使ってイカスミスパゲティーにした。これは、味も色合いも丁度良かったのだが、腹がごろごろした。下痢をしたわけではないので毒性はなかったのだろうが、翌日も腸が疲れた感じは残った。もう一回はトマトを入れずにスパゲティーにした。こちらの方も若干腹にもたれたが、イカスミほどではなかった。兎に角、魚介類の料理は処理するだけでも指が臭くなり、臭いが気になる。普段あまり弄っていないからだろう。

次にバーデンバーデンに行くときも何を買おうかと思うが、今回何よりも良かったのはサヴォア地方の山チーズなど二種類だ。期限も19日までで、5ユーロぐらいで塊を二つ購入できた。地元のドイツのスーパーでは到底無理な量で、更にドイツやオランダのチーズ文化とフランスのそれでは差があり過ぎる。

なるほどスーパーワインも安くて様々なワインがあるが、それ以上にチーズはお買い得だ。そしていつものようにフリゼーを購入した。価格は安くはないがあれほど新鮮で大きなものはドイツではなかなか買えない。



参照:
破局に通じる原発銀座の道 2012-04-11 | 文化一般
原発銀座で息を吸えるその幸福 2011-04-26 | アウトドーア・環境
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# by pfaelzerwein | 2017-04-13 21:02 | ワイン | Trackback

復活祭音楽祭のあとで

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次のコンサートとオペラに向けてのお勉強準備である。オペラの方は、もう一つドレスデン版と、パリ版と楽譜を両方を用意して、欠けるのはドレスデン版でのメディアマテリアルだけだ。コンサートの方は、ブルックナー交響曲4番とモーツァルト交響曲39番である。前者は1878*90年版ということなので、一番長い1874年版とその第二版の手書きのファクシミリをダウンロードした。当初は交響曲34番になっていたのが変更になっている後者も、紙のものを購入したものがあったと思ったが見つからないので、これもついでにダウンロードする。

これで漸く、ロシア音楽を終えて、ヴァークナーとブルックナーで独墺に戻り、その時代背景も二十年も違わない二曲を同時にお勉強すると余波効果があるかもしれない。特に前者のドレスデン版と1860年以降の影響が顕著なパリ版から取捨選択されるということで、当然のことながら「トリスタン」以降の影響がみられるようだ。聖週間は極力音曲を避けて楽譜を眺めることにしてみたい。二つの版の違いから後年の影響が分かるようならばたいしたものだが、さてどうなるか。

ヴィーナーフィルハーモニカ―のどさまわり公演が増えて入りが芳しくないようだ。だからより有名な変ホ長調の交響曲に替えられたとは思わないが、管弦楽団としての評価は平素の演奏水準からすると致し方ないかもしれない。それはベルリンでも同じで、ラトルの指揮で80%の演奏でも水準に達していると言っても、ドイツの地方管弦楽団の水準が場合によっては東京のそれよりも劣ることからすれば話しにならない。そのようなことではアメリカのビックスリーには敵わないから、次期監督の下では120%が求められているというのは正しい見解だろう。

ザルツブルクでの「ヴァルキューレ」公演が新聞で絶賛されている。昨年は惨憺たる「オテロ」上演だったが、今年はティーレマンファンのおばさんがバーデン・バーデンの「トスカ」が終わってから駆けつけている。確かに歌手陣も充実しているようで、慣れている楽曲だけに管弦楽もそれほど問題が無いのは予想できるところだ。それどころかこうしたセミコンツェルタントなやり方で充分とすると、そもそも歌劇場なんて最早要らない。すると座付き管弦楽団も解散である。要は、音楽劇場が如何に現代社会の劇場として機能するかであり、娯楽ではない音楽劇場の在り方が問わなければ何も書いたことにはならない。この高級紙の水準に満たない歌芝居感想記である。

承前)先日の悲愴交響曲で書き加えておかなければいけないのは、四分の五拍子のヴァルツャーに関する解説で、有名な弦楽セレナードと異なるのは、一二がナポリ風の若しくは南イタリア風にと、五拍子のロシア音楽と組合されているということだ。これを意識すると更にまたこの交響曲の全体の構図が分かり易くなる ― 更にそうした楽曲解析を超えて作曲家の創作意思まで考えていくと切りが無い作業となる。キリル・ペトレンコの演奏の特徴は、あのムラヴィンスキーでも充分に示せていなかったこうした創作の妙や機微に気付かせてくれることであり、如何に楽譜などから創作に可能な限り忠実に演奏していくことがその楽曲を深く知ることへの唯一の方法でしかないことを教えてくれることだ ― 要するに演奏芸術の手練手管の話ではないのである。同時にそうした演奏解釈への信頼感があってこそ、管弦楽団も楽曲に忠実に全力で奉仕することへの動機づけとなるのである。私自身にとって二度目の悲愴交響曲の実演体験だっただけでなく、キリル・ペトレンコ指揮の演奏が何時も同じように唯一無二の体験であるのは、そうした楽曲創作を具に音化しているからに他ならない。(続く



参照:
鼓動を感じるネオロココ趣味 2017-04-10 | 音
価値のあるなしを吟味する 2017-04-05 | ワイン
Ich war noch nie in Japan. Das ist.. 2017-04-03 | 暦
高額であり得ぬ下手さ加減 2016-03-25 | 文化一般
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# by pfaelzerwein | 2017-04-12 22:15 | 生活 | Trackback

今日か明日かの衣替え

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衣替えの季節である。毎年四月が目安になっている。半年もつという虫除けを購入して納めると十月までは効果があることになる。そのような計算である。今年もスーパーでぶら下げる紙を10枚購入した。箪笥にこれを吊るせば先ずは大丈夫だ ― 更に昨年から使いさしの蚊取り線香がそこに入っている。寝室の箪笥だが、臭い等でそれほど問題になったことはない。天井が高く、風通しが良いからだろう。

毛の衣料などは、水洗いすべきかどうかなども考えるのだが、虫除けさえしておけば使えなくなることはないので、出来る限り致命的になりかねない水洗いは後回しにする。そろそろ余所行きから自宅での衣料に下すというときに洗ってみるというようなことが多い。以前はドライクリーニングもしばしば使っていたが、価格やらその効果にはあまり期待しなくなった。

兎に角、明日寝室を掃除する前に、箪笥の中の冬物を整理して、衣替えして、紙を吊るして行こう。来週には夏タイヤになり、これで復活祭と同時に一先ず本格的な夏支度となる。

パン屋から森に入って、朝早かったので八時のニュースを車の中で聞いていた。三つ目のニュースとして、アムネスティインターナショナルの人が電話で日本を批判していた。新聞のフランクフルターアルゲマイネ紙と並ぶ独自の特派員を東京に置く独有数の知日・親日メディアSWRの朝のニュースである。それによると、死刑執行は中共の数と日本の扱いが大問題なのだという。つまり合衆国でも執行までに猶予日時があるのに、日本では当日一時間前に突然やってくるというやり方への批判である。死刑囚は、毎日今日かどうかと拷問状態に置かれているというのである。これが重要な人権侵害とされるところである。なるほどまるで日隠の世界だ。

日隠はそうした覚悟を説いているのだが、死刑囚がそのような貴い精神状態に至れるとは思わない ― そもそも二割にも満たない武士階級のそれらをその他もに強要したのが帝国軍事教育で、とんでもない結果になったのは歴史の知るところだ。拷問であるとの批判が恐らく正しく、死刑制度を継続させたいならば死刑囚の健康を第一に考えていかないと、拷問として更に批判が強まっていくと思われる。

このニュースの数分前には、今日の一言として、聖週間の意味つまり神は生贄を求めず、自らの犠牲でもって人々を救うという、人を裁かずの話が流れていたので、このニュースを聞いた教養のある人々への語りかけは強かったに違いない。



参照:
衣替えの季節 2006-04-22 | 生活
日本社会の文化的後進性 2013-02-21 | マスメディア批評
同じ穴の狢が議論をすると 2010-08-27 | マスメディア批評
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# by pfaelzerwein | 2017-04-11 19:47 | | Trackback

運命の影に輝くブリキの兵隊

承前)グスタフ・マーラーの最高傑作交響曲六番の冒頭はブルックナー作曲第一交響曲の行進曲の引用である。それゆえにポストモダーンの時代にマーラーの交響曲は最も人気が出たとするのは正しいだろう。そして、その引用が謡曲にも及んでいるのは、丁度途上のラディオでフランス人音楽家がバーデン・バーデンの放送局で話していた中世の音楽からルネッサンス音楽への特徴と繋がる。そうしたメタシムフォニーとしての第六交響曲では、一楽章の第二主題のコラールからその展開の鐘の音や遠くの山城、鳥の囀りやカウベルに交じってきらきらと彩光を放つと、その音達に注目したのがダリウス・シマンスキーのオリエンティーリングだった。それは、例えば12世紀に流行ったバイエルンの金箔の聖画に表れるように、丁度クリムトの画風と並行している。そこまでは周知の事実として、その意味合いが考察される。それは、このマーラーの交響曲の場合の所謂悲劇的な運命が大きければ大きいほどその投げかける大きな影に、丁度幼児期に退行するように、光り輝く子供部屋の世界に引き戻されるというものだ。それが、ブリキの兵隊であったり、お城の王子の世界であったりとするということで、この幼児の世界つまりきらきらと光り輝く所謂砂糖菓子のような風景が音響になるということである。

今回のバーデン・バーデンのコンサートは、前夜の悲愴交響曲そしてこの六番と、まるで音楽監督サイモン・ラトルのプロデュ―サーとしての手腕を見せたような構成になっている。前日のオリエンティーリングも19世紀の時代背景、つまりロココの18世紀にはなかった職業選択の自由などに代表される市民社会の勃興が背景にあって、それ故のネオロココ趣味だった。それがまたドイツ語圏のビーダーマイヤーとは異なるフランス趣味の美学の中でのチャイコフスキーの創作であり、勿論そこには18世紀にはなかった悲哀つまり自己実現とその挫折というようなものが人々の人生観に強く影を落としているということになり、そもそもチャイコフスキーの悲愴におけるような主題はそれ以前には存在しなかったとなる。これらをして、一波絡げにまるでドイツロマンティシズムの傍系の民族主義の影響のように取り扱ったのが可笑しいと気が付かせる視線が東欧の人から提供されることはとても幸福なことではないだろうか。

指揮者としてのサイモン・ラトルは、残念ながらフィルハーモニカ―との関係において離婚直前の夫婦のように不幸だった。前日と二日続けて訪れた人を何人かは見かけたが、前日とは異なり楽員の意気はとても低かったと皆気が付いたのではなかろうか。直前まで練習をしていたようだが、一楽章などは、そのままザルツブルクに行っても大丈夫かと思う程、箍が緩んでいたが、最終的にはホルンのシュテファン・ドールが引っ張ってある程度の水準を維持した。管弦楽団の鳴りとして、二日間を比較すれば、どこがどう違うかは明らかだったのではなかろうか?前夜に下りていた楽員が中心となっていて、編成も楽曲も異なるとしても、その響きの充実度の相違は決して演奏者の意気だけの問題ではなかった。要するに、楽譜の音符をどのように一つ一つ拾っていくかに関わっているようだ。

それでも、三楽章の「亡くした愛娘のよちよち歩きの動機」がコーダではあれほど痛切な悲しみとして響くとは今まで知らなかった ― これを看過できる人などいるものか。それだけではないが、このスケルツォを三楽章とする版の内容的な根拠はこれだけでも充分に示されている。これが二楽章に置かれて三楽章アンダンテに繋がるのとでは、このスケルツォ意味が、繋がるのがアンダンテかフィナーレでこれだけ異なり、二楽章とされることで、聞き落とされるものは余りにも大きい。それは動機的連関や動機的処理だけでは説明不可のものではないか?当日のプログラムには、この議論に関して開かれたままの記述があり、結局それを受け止める時代の美意識に拠るのではないかと思う。恐らく、キリル・ペトレンコも二楽章をアンダンテとすると思う。(続く



参照:
もう一つの第六交響曲 2017-04-01 | 音
二十世紀を代表する交響曲 2015-03-24 | 音
多感な若い才女を娶ると 2005-08-22 | 女
第六交響曲 第三楽章 2005-08-21 | 音
お花畑に響くカウベル 2005-06-23 | 音
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# by pfaelzerwein | 2017-04-10 19:25 | 文化一般 | Trackback

鼓動を感じるネオロココ趣味

承前)高揚感の中で目覚めた。このままでは血圧が上がっていけない。早速パン屋に出かけ、峠まで走って下りてきた。準備体操をして走り出すと、悲愴交響曲のファゴットが鳴り響く。何時も馴染みのダニエル・ダミアーノの素晴らしい響きである。そして先日指摘した力任せのヴィオラ陣の力を抜いた運弓の音の深みが広がる。謂わば硬いワインではなく、こなれた熟成したワインの深みである。正直、ここまで抜けてしまうと、これはどうなるだろうかと思ったのだった。そしてアレグロノントロッポへのリテヌートからの主題の提示がとてもうまく運び、そのあとの聞いたことのない盛り上がりが、第二主題へと流れていく、美しさが際立つ。そしてクラリネットの郷愁を呼ぶ歌声からアタック厳しく展開部へ、そして警句的な金管の鋭いパルス ― 第五交響曲のボン公演でのそれを思い出した。テムポ運びもしなやかにそしてコラール。

同行の仕事仲間のヴァイオリニストがその合奏ぶりにいたく感心していた二楽章の五拍子のヴァルツァーが響き出す。当日のオリエンティールングで取り上げられた、サロンの笑い声の第二動機部を殆んど人の声のように奏する弦楽合奏。これ程実体感のある擬音をリヒャルト・シュトラウスは書けているだろうか?そしてトリオ主題の動機連結。

カーヴを超えて走り続けるが、なぜかどうしても三楽章のマーチの主題が出てこない。視覚的に楽譜を頭の中で捲ろうとするのだが、なぜかヴァルツァーの一二三、一二の一二から再び第一楽章の展開部へと巻き戻ししてしまうのである。先日までは走り出すと流れてきたあのマーチはどこに行った。八分の十二拍子がマーチになることもタランテラでの細かな音型もある程度頭に浮かぶ、それでも無理してでも歩調を整えないとあのマーチが出てこない。そして一楽章の主題に、その一二の刻みから漸くマーチ主題に入れた。何と鋭い刻みだろう。そしてクライマックスへと、会場の聴衆の心拍数を上げ、血圧を上げさせる ― あのボンでの公演を再び彷彿させる追い込みだ。最後には、ペトレンコ指揮「悲愴交響曲」としての二度目の正直が三度目になるか、つまり拍手が鳴るのか鳴らないかが気になって更に心臓がどきどきしてきたのだった。そして二回目に成功した時のように両腕を広げたまま心臓の鼓動に耳を澄まさせる ― 会場では嗚咽のような溜息が漏れ聞こえる。

その心臓の鼓動の響きに、そのままから振り下ろされる指揮棒で、まるで心の真空地帯に吸い込まれるように第一主題が紡がれるのである、そして第二主題へと慰めへと、しかしまだまだ鼓動は収まらない。生きているのだ。当然のことながら、葬送のトロンボーンが鳴ろうともそれを私たちは耳にしている実態がある。だから死のピチカートで終わるとは限らない。この交響曲は、そうしたキリル・ペトレンコに言わせれば、典型的な白鳥の歌ということになる。

峠から下りには、四楽章の主題が流れて胸をうった。心臓の鼓動が中々収まらないが、無理して急ぐ必要はない。嘗て、吉田秀和が「魔笛」の音楽を称して悲しいのか何かわからないが涙が流れると書いたが ― ああ、彼の小林の道頓堀のモーツァルトの焼き直しだ ―、まさしく当日のオリエンティーリングにあったようにこの曲は19世紀におけるネオロココ趣味のそれもフランス文化の影響を受けた美学に立脚した創作であり、敢えて言えばこの終楽章のラメントーソもそうした美学に裏打ちされている。要するに19世紀の自然主義的なブルックナーなどの交響曲とは世界が違うということになる。峠から下りて来て34分35秒、勿論全曲短縮版であった、そして心の汗で全身がびっしょりになっていた。これをカタリシスというのが正しいのか、それとも。(続く



参照:
あれやこれやと昂る気分 2017-04-09 | 雑感
漸く時差ボケから解放される 2017-04-08 | 暦
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# by pfaelzerwein | 2017-04-09 19:35 | | Trackback

あれやこれやと昂る気分

とても気分が昂っている。私事もあるのかもしれないが、土曜日のキリル・ペトレンコのバーデン・バーデンデビューがここまで気分を昂らせるとは思わなかった。自分が演奏する訳でもなく、なんら理由はないのだが、いつものように分析的に冷静に居れるのかどうか心配になる。昨秋の座付き管弦楽の演奏会は今回の予行の心算でボンまで行ったのだが、その結果は想定以上で、今回もネットで既に確認したとしても本格的な管弦楽団とのコンサートは初めてなのだ。どのようなコンサート指揮をするかは完全に分かっていてもとても期待が高まる。

前日に買い物も済ましておこうと車に乗ると、フィルハーモニカ―のクヌート・ヴェーバーというチェリストが話をしていた。初日の「トスカ」の前に放送局に来て、それから谷を散歩をして、着替えてから会場入りするという。歩いてスタディオからクーアハウスの方へ、ホテルへと戻ったのだろうか?あのヨハネス・ブラームスのように。とてもいい天気で、爽やかだ。

翌日はペトレンコとの演奏会で、ベルリンでの五年ぶりのコンサートは練習からとてもうまくいき ― 私の言うように「将来への方向性を定める」という言葉を使っていた ―、また少しだけ今回も合わせてから本番だという ― つまり同一メンバーが乗る条件だろうか。当然の如くミュンヘンから前乗りすると思っていたが、練習は何時ものように開演前まで続くのだろう。トスカ初日を覗かないと歌劇の場合の音響はあまり分からないだろうが、登場は来年はないので、まだ時間があるということだろう。

悲愴交響曲の練習でもペトレンコは、三楽章の後で拍手のファールが無かったのは今まで一度しかなかったと。そして23日に初めて二度目を経験したということだ。確かに体で聴衆に示唆するだけの静止をして、そこから終楽章へと流れた。これも経験の積み重ねということになるのだろうか?さて、祝祭劇場ではどうなるだろう。

ベルリンでは聴衆の期待に圧倒されそうになったとヴェーバーも語ったが、バーデン・バーデンでも我々のように将来のスーパーオペラの本拠地としての始まりへと寧ろこちら側が胸がはち切れそうになってしまっている。YOUTUBEなどにはバーデン・バーデンで期待しているという書き込みもあり、そのような人達もいるのだ。



参照:
ペトレンコにおける演奏実践環境 2017-03-30 | 文化一般
ギリギリの悲愴交響曲 2017-04-06 | 音
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# by pfaelzerwein | 2017-04-08 16:31 | 雑感 | Trackback

漸く時差ボケから解放される

木曜日の走りは疲れが残っていた。早く走れるとは思っていなかったが、走るうちに攻める気持ちが出て来ていたので、ひょっとすると真面な数字が出るかもしれないと期待していた。しかし結果は、25分30秒往復とジョギングテムポで、往路に12分も掛かっていれば致し方が無い。やはり初速が早くなければ比較的平らなコースでは記録は難しそうだ。

足の筋肉の疲れなども少々のストレッチングでは治らない。肩の柔軟を丁寧にしたが、関節のそれと筋肉痛はやはり異なる。目下の課題は、乳酸の溜まらないような運動とその回復を如何に早くするかで、今までの疲れによる運動能力の低下を是正していかないとあまり使い物にならないと考えている。

久しぶりに熟睡した。どうも夏時間に入ってから昨夜までは夜中の三時前に目が覚める傾向があったからだ。要するに11夜は夜中に目が覚めた。時差ボケが続いていたことになる。今まであまり意識していなかったが、それぐらいかかるのは普通かもしれない。それでも僅か1時間ほどの時差は寧ろそれに気が付く方が難しいのかもしれない。その意味では良く身体で意識できたと思う。気持ちが良い。

ミュンヘンの劇場の極東ツアーの日程をみると、なかなか上手に出来ている。勿論東京にソウルと台北を付け加えたわけだが、少なくとも日本公演初日の一週間前以上に台北に入っている。つまり時差が殆んど抜ける頃から東京公演が始まるのである。これはなかなかよく考えられた日程だ。面白いのは台北ではベートーヴェンプロが演奏されて、ペトレンコ指揮ではイスラエルフィルぐらいでしかなかったのではなかろうか?熱心な日本のファンはこれに出かけるのも面白いかもしれない。交響曲七番は直接クライバー指揮との比較が可能だろう。

Ludwig van Beethoven 
Klavierkonzert Nr. 3 c-Moll op. 37 
Symphonie Nr. 7 A-Dur op. 92
Leitung Kirill Petrenko 
Klavier Igor Levit
National Concert Hall, Taipeh 
So, 10.09.17 
npac-ntch.org/en 
T +886 2 3393 9888
veranstaltet durch die Konzertgesellschaft der Musikalischen Akademie e.V

昨夜、YouTubeへリンクを貼ろうと思うと、そこのGOOマークがあるのに気が付いた。貼れることは分かっていたが、リンクするのが早いと思っていたので今まで貼っていなかった。しかしこの方法ならリンクよりも手軽だ。そしてクリックするだけで簡単に観れて、サムネイルの写真がるのも悪くはない。そこで、遡って劇場関係のものを貼った。今後も沢山貼れるかと思う。

自分で撮ってアップロードしているものはないが、目下の課題のボールダーの動画などもアップされているので使えるものは沢山ある。短い時間で印象を得るにはやはり文章よりも動画が早くてわかりやすいのは当然だろう。しかし、テュイッターなどと同じで、短い文章や印象で納得できるものは構築的、高度な理解には至らない。その意味では、如何にTV文化などというのは20世紀後半文化の仇花だったかというのがよく分かるだろう。



参照:
Ich war noch nie in Japan. Das ist.. 2017-04-03 | 暦
ペトレンコにおける演奏実践環境 2017-03-30 | 文化一般
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# by pfaelzerwein | 2017-04-07 19:17 | | Trackback

オンドラ、東京オリムピック否定?

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久しぶりに南プファルツの岩山を登った。前回は肩を痛めている時だったと思う。気温は摂氏20度には満たないまでも陽射しもあってアウトドア―に快適な条件だった。肩を痛める心配も少なく、それでいながら比較的乾いていて。陽が陰ると寒くなるような天候だった。寝不足だったが、簡単なスタンダードルートとトップロープで何回か登ったことのある六級上を初めてリードした。パートナーはその岩場は初めてだったのが、ベルクヴェークという私が肩を痛めている時に時間を掛けて登って顰蹙を買ったルートを試した。難易度は六級しかないのだが、全てフレンズで支点をとっていかないといけないので、結局我慢出来ずに降りてきた。そのために二本目も私がリードして、三本目は上部を彼が登った。降りて来て、スタンダードのフォアバウという五級のルートを彼がリードした。14時半過ぎに待ち合わせして、帰宅したのは20時過ぎだった。シーズン始めとしては肩も傷めずある程度の挑戦が出来たのでよかった。但し傷だらけになった腕や手以外にも腕や足も可成り筋肉痛である。ボールダーリングでは、足が使い切れていないことは当然だとしても、腰から背中まで堪えた。

先日購入のDMMのピヴォットは優れものだった。下降器としてもコントロールが思いのままで強すぎたり弱すぎたりもせずに、思うように走らすことが出来る。計算つくされた構造になっている。また所謂ガイド機能の後続者確保時もザイル入れや設置などとても扱い易く、横に書いてある図示もとても役立つ。写真を写す時に手を開放する時もとても使い易い。当然のことながら下降のザイルを挟むときも今までよりも大分手に落ち着くので手を滑らす危険性が少なくなっている。但し金属加工でザイルの表面を擦るのか表面が今まで以上に色素を手の方に落としているような感じがした。

新聞のスポーツ欄にチェコ人のアダム・オンドラが大きな庇を登っている写真が載っている。東京オリムピックで正式種目として初金メダルを獲るべき人物としてその競技方法に異議を唱えているという話しだ。だから出るかどうか熟慮が必要という。現在まではボールダーリングとリードクライミングが複合された競技として行われていて、その実力だけでなく新ルート開拓などでも第一人者も26歳という年齢で金メダルへの最後のチャンスだというのである。但し東京でされようとしているのはそこにスピードクライミングというのが加わり、要するに今までのクライミングの実力とは関係ない競技が加わるというのである。これは詳しく知らないでもよく分かることで、自分自身もアルパインクライミングにおいても結局リードクライミングとボールダーリングを合わせたトレーニング方法が最も効果的であり、それに基礎体力などを育成することで成果が出ると確信しているからである。つまりそれ以外のものは従来のアルピニズムとは関係のない観るためのつまりTVメディア向きのショー化された競技となる可能性が強いということであろう。もう少し考えると、怪我の質もさらに悪くなるのではないかと思う。そもそもクライミングの筋力自体は充分に敏捷的であって、静的なそれではないからである。それ以上にどのような動が必要なのであろうか。疑問である。八月にこの種目によってはじめての世界大会がインスブルックで開かれるという。その結果が注目される。



参照:
右足の脹脛の攣りに思う 2015-04-25 | アウトドーア・環境
技術的な断層を登る 2014-06-07 | アウトドーア・環境
割れ目登攀の煩わしさ 2014-06-08 | アウトドーア・環境
購入したDMM社PIVOT 2017-04-02 | アウトドーア・環境
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# by pfaelzerwein | 2017-04-06 20:05 | アウトドーア・環境 | Trackback

ギリギリの悲愴交響曲

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承前)悲愴交響曲である。予想以上に難しかった。動機の扱い方と曲の構成との関係から運弓指示などのアーティキュレーションなどが係っているからだろう。この曲に関しては、土曜日の本番で体験してから改めて纏めたいと思うが、23日の演奏から分かったことだけでもメモしておかなければいけないだろう。先ずはテムポだが、メトロノームで数えてはいないが、第二楽章のヴァルツァーなどを聞くと、もう少し第一楽章と第三楽章を早く出来るのではないかと思った。

なるほどベルリンのフィルハーモニカ―は、第一楽章主題のヴィオラでの提示などでとても力強い響きで奏でていて、これは断然の特徴であろう。特にこの交響曲においてファゴットやクラリネットの低音部と弦楽、管と弦の掛け合いなどがとても重要な要素となっているから尚更だ。

現在のロシアの交響楽団でも木管や金管の機能的な問題は甚だ多いが、ムラヴィンスキー指揮のレニングラード管弦楽団の演奏などを聞くと芸術以前の響きとなっていて、ヴィーナーフィルハーモニカ―のオーボエを笑える程度ではない。要するにハイカルチュア―の音楽芸術としては楽器が鳴っておらず、今やどこの軍楽隊でもこれよりはマシなのではないだろうかと思わせる。

流石にフィルハーモニカ―の管も健闘していて、座付き管弦楽団とは異なりとても機能的であるが、その響きには嘗てのように特別な響きが無い。しかしながら弦との掛け合いやそのバランスという意味では、今回の演奏で大きな課題が突き付けられた形となっている ― 恐らく、次期監督の狙いとしては早めにこうした課題を明確にすることで、2019年までに底上げできるような指標を示す意図もあったのだろうか?賢明なフィルハーモニカ―であるから、指針さえ示されれば自らが改革していくことが可能ということなのだろう。だから今回の練習は鉄のカーテンの裏側で行われたというのも理解できる。それ故に22日は奏者の緊張のためにフィルハーモニカ―らしからぬアンサムブルの出来だったと想像可能だ。

第三楽章のスケルツォにしても主兵の管弦楽団ならばと思うところは少なくなく ― キリル・ペトレンコは客演としてここでも可成り安全運転をしている、しかし何よりも第一楽章の展開部が数年後にはどのように響くべきかは今回の演奏でよく分かった。週末も同じようなメムバーが乗るとすれば学習効果は出ないこともないかもしれない。とても楽しみである。勿論会場のアコーステックも異なるので、基本テムポに影響する。(続く

フィルハーモニカ―は、今秋東京公演をするというが、次回は少なくとも2021年まではないだろう。そしてペトレンコ音楽監督の日本でのオペラ公演も今回が最初で最後になるかもしれない。あり得るとすれば、バーデン・バーデン祝祭劇場が力をつけて引っ越し公演という場合ではなかろうか。まだまだ三万円ぐらいの席が入手出来るとなると都民が羨ましい。フローリアン・フォークトはダブルキャストとなっていて、最後のコンサートに掛けて訪日するようで、嘗ての初日云々というようなシリーズとはなっていないようだ。中二日、三日? ― ネット情報はダブルキャストが消されてしまっている、理由は分からないが、東京から苦情が入ったのだろうか?私なら歌手などどちらでもよいと言いたい。声が強ければ、スケデュールさえ調整すれば全部歌えるのだろう。



参照:
Tchaikovsky: Symphony No. 6 "Pathétique" / Petrenko · Berliner Philharmoniker YouTube
Ich war noch nie in Japan. Das ist.. 2017-04-03 | 暦
もう一つの第六交響曲 2017-04-01 | 音
ハフナー交響曲を想う 2017-03-28 | 音
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# by pfaelzerwein | 2017-04-05 17:25 | | Trackback

価値のあるなしを吟味する

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サヴィニー・レー・ボーヌを開けた。一月にバーデン・バーデンへの途上で購入した2014年物である。一口で言うと甘い、果実風味というよりも甘みを感じた。だから口当たりがよくて飲み過ぎて明くる日に残った。決して悪いものではない筈だが、ミネラル風味どころではなかった。価格からしてもクリストマンの2014年物にかなり劣っている。クリストマンのギメルディンゲンの方が雑食砂岩のミネラルもあり、また涼しいテロワーの表出もはっきりしていた。それにしても甘みがこれほどあると高級感も何もいない。そもそもブルゴーニュのミネラルは単純なのでその意味からすると、雑食砂岩や花崗岩は本格的辛口のピノノワールとして長所があると思う。やはりブルゴーニュでも特別なテロワーでなければ駄目なようだ。

アーモンドの花は完全に散った。今年ほど咲いたアーモンドを暇も無く、嵐に見舞われることもなくこんなに早く散って葉アーモンドになって仕舞うことはなかった。気象の特徴なのだろう、この影響がどのようにワインに表れるか、表れない筈はないであろうが、また開花していなければ影響は限られるのか?それとも?

月曜日にはミュンヘンで新制作「タンホイザー」の稽古が始まったという。歌手と合わせることからだろうが、パリ版とドレスデン版の折衷の楽譜とはどれぐらい異なるのだろう。ドレスデン版は既にダウンロードしてあり、パリ版の上演ヴィデオは保存したので、音を聞けばその取捨選択は分かるようになるだろう。

最近はネットのストリーム放送を時間があれば簡単にコピーしておく。特にオペラ公演のものは役立つことも少なくない。ミュンヘンからでは先日の「アンドレア・シェニエ」も録画した。ヨーナス・カウフマンとヘルテロスのものだった。しかしオペラ作品でもコンサートの画像と同じように中々じっくりと見る暇などが無くて、よほど勉強のためになるものでないと必要が無くなる。要するに自宅でホームシアターさながらに楽しむという時間も興味もないのである。

それでも、先日ベルリンで上演されたピーター・セラーズ演出の「ルグランマ―カーブル」は時間が出来ればじっくりと観てみたい。その他リゲティ作曲ヴァイオリン協奏曲、そしてブーレーズを追悼してのリームの作品、これらは価値のある動画である。ざっと見てシーズンに幾つかのコンサートから幾つかの曲目の演奏録画がアーカイヴに値するものだろう。



参照:
ブルゴーニュ吟味への投資 2013-10-05 | ワイン
大分マシの今日この頃 2013-03-05 | ワイン
子供錠剤の甘味料に注意 2013-03-01 | 生活
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# by pfaelzerwein | 2017-04-04 21:32 | ワイン | Trackback

FFmpeg出力でハイレゾ

雨が降りそうだった。その前に走り終えるつもりで出かけたが、結局まとまっては降らなかった。金曜日の疲れが残っていて、軽く流して峠まで上がって下りてきた。20分40秒で峠、下りて来て33分5秒は、この冬の走り具合だが、足元が異なるので気分は大分違った。一週間で三回の走りと2回のボールダリングで運動量は十分だった。怪我無く、それだけで良しとしよう。陽射しが無くて肌寒かったが、摂氏11度だったので戻って来た時は汗びっしょりになっていた。

先日ルートを開いたKingoRootの動作の不安定は直らなかった。そのうちにアンドロイドの方が消去するかと尋ねてきたので一先ず消去した。もう少し安定してくれれば使いたいときに使えたと思うと残念である。ルート化していなくてもそれほど不便ではないので、このまま暫く使おう。どうしても必要な時にまたルート化すればよい。問題はメモリーが一杯になってきている様子で、PCでと同じようにそろそろ限界に来ているのかなという印象もある。現在使用しているRAMが1024MB、CPU1GBなので、倍ぐらいの性能は欲しい。

モニターへとHDMIで繋いでPCオーディオを鳴らしている。籠もり部屋からドッキングステーションのノートブックをデスクへと下してきたからだ。そして大きなモニターで総譜を映し乍ら音楽お勉強する。そして音を流すとハイサムプリングへとアップサムプリングしている筈なのに、なぜか録音と同じ48kHzしか出ていない。Realtekの調整は間違っていない。192kHz出力に上げてある。そこで気が付いた。キャストに出す以前にHDMIに繋いでいるからそれに合わせた仕様つまり48kHzでキャスティングすることになるようだ。

そこでHDMIを外して内部スピーカーへと送る信号をキャスティングするようにすると96kHzに上がった。つまりクロームキャストに192kHzで入力している。それならば問題なく楽譜や映像を観乍らハイレゾリューションサウンドが鳴らせる。その時点で出力段はFFmpegになっていて、スピーカー出力もオフにしてある。これならば問題なくLINUXでもハイレゾリューション出力が可能だと思われる。ということはRealtekに依存しないでもアップサムプリングが可能になって、クロームブロウザーの出力も上げることが出来るのではなかろうか?

録音したドイチュラントラディオの音が俄然よくなる。それに比較してデジタルコンサートの方にあまり差が出ないのは、入力自体がスピーカーに近いどころでその時点でアップサムプリングしているからだろう。つまり、そもそも流れている音質は艶消しのような味気ない音のようなのだが、ノートブックの回路によるものなのかラディオ放送のネット配信システムの特徴なのかは分からない。



参照:
一皮剥けるキャストオーディオ 2016-10-21 | テクニック
アンドロイドのルートを再開 2017-03-31 | テクニック
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# by pfaelzerwein | 2017-04-04 02:55 | テクニック | Trackback

Ich war noch nie in Japan. Das ist für mich..

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ミュンヘンからのネット中継を観た。新シーズンのプログラムお披露目である。12月にプッチーニの三部作、2018年6月に「パルシファル」となる。前者は想定内だったが、後者は想定外だった。まだまだ時間を掛けると思ったが、やはり後のことを考えると早めにやってしまう方が良いとなったのだろうか? ― ブラームスを取り上げるのも同様で、明らかに将来のレパートリー構築から逆算していて、この曲の影響として印象派や初期シェーンベルクに言及した。カウフマンやシュテェムメ、コッホの豪華キャストとなるとまたまた券を確保するのに苦労しそうである。個人的にはプッチーニの方が楽しみだが、バーデン・バーデンで3月末に一度、そして6月となると、もはや8月にバイロイトに出かける価値もなくなってしまう。

日本旅行、ロンドン、ニューヨーク公演についても言及があったが、初めての日本への期待も語られていて、そのプログラム内容よりも旅行という感じだ。

(Was würden Sie zum Akademiekonzert sagen wollen?) (アカデミーコンサートに関して何かおっしゃりたいことは?)

Ich würde als das Wichtigste gerne erwähnen, dass nicht nur in Hinblick auf die zwei Premieren, ist das für mich, eine Spielzeit mit vielen anderen Premieren, nämlich, ich freue mich sehr darauf nach Japan... 「私にとっては、ただ二つのオペラ新制作に止まらない、初めての重要なことが盛り沢山のシーズンであります。言えば、つまり、とても楽しみにしている日本への旅行です。」

Ich war noch nie in Japan. Das ist für mich irgendwie ein Aufbruch in die neue Welt. 日本は未知の国で、新世界への旅立ちといった感じです。

東京では、「タンホイザー」の三回のオペラ公演に加えて、「ヴァルキューレ」第一幕マーラーの作品などを二回のコンサートで指揮する ― これの台湾韓国公演もあるようだ。「ヴァルキューレ」は、ミュンヘンでは指輪四部作の第一夜として、ベルリンでつまりバーデン・バーデンで上演するまでの最後の機会として、コッホのヴォータンとシュテェㇺメのブリュンヒルデで再演され、そこで新たな面を見せたいと言われると、これまた幾つかは行きたい気持ちにさせる。

早速、恒例のCD落穂拾いをした。今回は先ず先月から気が付いていたクリスティー指揮のヘンデル作曲「ベルサザール」に食指が動いた。この曲はピノック指揮のものを所持しているが、三枚組10ユーロしないとなると手をつけずにはいられなかったのである。もう一つはアルティメス四重奏団のベートーヴェン全集の一つが二枚組でこれも9.99ユーロで出ていたので発注した。中々よいのは各々三期の曲が組み込まれていて、マーケティング的にも気が利いていることだ。その他は、ウィッシュリストに入っていたフィラデルフィルをムーティーが振ったもので、一月に聞いたシカゴとの演奏からより豊満な響きでも聞いてみたくなった。もう一つ超高級管弦楽団クリーヴランドでブラームスのヴァイオリンをツェートマイルが弾いたもので、フォンドホナーニが付けているのでこれも発注した。先に購入したムター演奏のカラヤン盤が何時ものようにその管弦楽団が余りに良くなかったので、ソリストだけでなくクリーブランドの管弦楽団に期待したい気持ちもある。それで値引き最低額30ユーロを超えているが、ロバート・クラフト指揮のヴェーベルン集が2ユーロしなかったので発注した。探しても探しても購入する価値の見つからなかったナクソス盤をこれで初めて購入することになる。



参照:
まずまずの成果だろうか 2017-03-26 | 生活
消滅したエポックの継承 2016-10-23 | 文化一般
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# by pfaelzerwein | 2017-04-02 19:39 | | Trackback

購入したDMM社PIVOT

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夕方ボルダーに出かけた。気温は高いが週末にかけて湿度も上がって来た。身体が動きやすくなっているので、少しでもこの条件を見逃すことはないだろう。買物を済まして、その足で向かうと、二輪車などは多かったが、ハイキング客などはまだ見かけない。不思議なものである。

車も停まっていなかったので、先ずは前々回に手も足も出なかったトラヴァース課題のアレックスに向かった。その前に真新しいチュークがついているアクセルシュヴァイスを試みようとしたが到底駄目だった。先ずはその横の目的の課題を試していると、若い兄さんが降りてきた。チョークの主だったようで、水曜日に試したというから、私が奥の課題をやっていた時にいた車の主だったようだ。各々、黙々と課題に向かい合っていて、ちらちらと覗くとアクセルシュヴァイスの上ののエッジにまで手を伸ばしながら断念した。そこで話しとなった。刺青をいれたお兄さんだが、中々引き締まっていても愛嬌のある顔立ちをしていて、黙々とやっている姿や喋り口調がとても真面だった。

結局自分自身も切り切りには課題が通るのだが続けて出来ないというような話をした。大分課題が通るようになったが、湿気の為に水曜日よりも条件が悪いというのはお兄さんのいう通りだった。繋がりの一カ所で力を使い過ぎてよくない。彼に言わせると手掛かりの入れ替えで解決するというのだが、なかなか難しく苦手だという。彼の中堅の実力でそういうなら、私が簡単に出来なくても仕方がない。それでも長い時間靴を履いていても、爪先を押し付けられるようになったのはとても助かる。この靴をもう一つ、次は半サイズ大きめを購入しても良いなと感じた。それでも結構登れそうだ。同じところを今年最初に試したときに比較すると大分数を試したが体の調子はその時ほどにダメージが無い。

懸案のアクセルシュヴァイスの登り方をお兄さんに教えてもらった。自分自身の最後の詰めはやはりその足場からでは右手が次の手掛かりに届かない。やはり違う方法を考えなければ駄目で、彼らが使わない途中の足場を使うしかないだろう。そして彼が言うには、その時の手掛かりの更新が最も難しいというから私が苦労しているのは当然だろう。そのあと、右の手掛かりをとってから右足を膝の上に上げるのも高いので厳しいという。つまり私が途中の足場に立って、右手が取れれば左の足場の位置次第では上手くその上の立てる筈だ。まだ身体の芯が定まらない感じがあるのでこの先の見通しは余りたたない。

確保・下降器を注文した。昨年九月にアルゴイの岩壁から愛用していたブラックダイヤモンド社のATCガイドを落としてしまったからだ。終了点近くの尾根に近いところだったので最後の日の最後の確保に近かった。手でもて弄んで踊って下に落としてしまったのだが、ザイルを入れる穴が小さく入れにくいことや時間が掛かったりする、そのようになる可能性は何度も思っていたので ― 実際フランスでパートナーのものを落としたこともあった、何時かはとは思っていたが気の緩みと思い、よい反省材料だった。そこで同じものを再購入する気はなかった。最もヒット商品であるATCに対抗する商品は各社から出ていて、選択の為にネットで色々と読んだ。結果、重量も88gに対して72gと軽く、大振り乍ら、好ましいDMM社製からのピヴォットを試してみることにしたのである。価格は、チャイナ製に対してウェールズ製と五割高であるが、送料とも33ユーロならば文句はない。色は三色あるが、人気のブルーは高所では寒そうなので、赤にした。

手にとるとATCよりもしっくりときてとてもおさまりが良い。またジョーカーの9ミリ強のザイルを入れてみても滑りが良い。これならもたつく心配はあまりない。あとは懸垂下降や後続の確保などで実際に試してみないと分からないが、以前のものと比較して欠点などはあまり考えられない。第一印象はすこぶる良い。



参照:
収支決算をしてみる 2016-09-08 | 生活
収容所送りとなる人たち 2011-04-04 | 雑感
保湿状態などで変わる出来 2014-09-10 | 暦
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# by pfaelzerwein | 2017-04-01 23:24 | アウトドーア・環境 | Trackback

もう一つの第六交響曲

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もう一つの第六交響曲のお勉強を始めた。グスタフ・マーラーの悲劇的と呼ばれる交響曲である。バーデン・バーデンでは、キリル・ペトレンコ指揮の悲愴交響曲の翌日、サイモン・ラトル指揮で演奏される。この曲は、ベートーヴェンやシューベルト、チャイコフスキーなどと並んで第六番とされるものだろう。交響曲作家グスタフ・マーラーの最も完成された作曲としてもこの一曲は欠かせない。そのような訳で、他の六番に比較すると実演でも何度も体験している。

そこでデジタルコンサートから、2011年にラトル指揮で演奏されたものをダウンロードした。二楽章に緩徐楽章を演奏していて、最新の楽譜を使っているようだ。そのためか手元にあるオイレンブルク社のポケットスコア―にはないことがなされている。特にリタルタンドの指定などは早めにかけるにしてもその必然性などはよく分からない。この指揮者が準備して演奏している限り、何らかの示唆が新版にはあるのだろう。

全体の印象としては、テムポの設定が全く今までと異なる。そうして初めて、この二楽章と三楽章の入れ替えが違和感なく合理的に響くのは確かなようだ。この版の演奏では、ミヒャエル・ギーレン指揮SWF放送管弦楽団のザルツブルクでの演奏が一部では評価が高かったが、このベルリンでの演奏を聴くととても比較できないと思った。何よりも、校訂楽譜にどのような指示があるかは知らないが、そのテムポ配分が素晴らしく、ギーレン指揮のそれとは大分印象が異なる。それでも、共通しているのは、今までは早めのテムポで音響として鳴らされていた密に書き込まれている部分が、遅めのテムポで演奏されることで対位法的な枠組みの中での音程通しの引力・斥力を感じさせるところだろう。そのような力感覚はこの曲の有名な一楽章の第二主題などにも感じられていた訳で、シェーンベルクの初期作品での無重力感に繋がっていたことは皆認識していた。しかしこうして演奏されることで、嘗てのベートーヴェン的な動機の作曲技法以上に、なぜ新ヴィーン楽派にこの曲が直接の影響を与えたかがより実感されるようになった。

そしてラトルは、この曲の前にアルバン・ベルク作曲三つの作品を演奏しており、遅めのテムポのこの交響曲とベルクの曲で正味二時間に迫ろうというコンサートになっている。流石にバーデン・バーデンでは一曲上演となっているが、この2011年の演奏会はラトル監督時代の代表的な演奏会だったに違いない。まだ一週間ほど時間があるのでもう少し調べてみたいが、この交響曲の二楽章三楽章とその演奏形態などがどこでどのように変遷してきたのかなどもとても興味あることとなった。少なくとも、このラトル指揮の演奏実践は、細かなアゴーギクの必然性を除いては、とても説得力がある。

そこでどうしても思い出すのが、2014年12月に予定されたこの交響曲の演奏会をズル休みしたキリル・ペトレンコのことである。一体どの版で演奏するつもりだったのだろうか?こうした演奏を目の辺りにすると、違和感どころか中々以前の版には戻れない。しかし同時に、一客演指揮者として、決定的な楽曲解釈を演奏実践として示すのは決して容易ではなかったであろうと想像するのである。



参照:
デジタル演奏会の品定め 2016-09-21 | マスメディア批評
二十世紀を代表する交響曲 2015-03-24 | 音
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# by pfaelzerwein | 2017-03-31 22:01 | | Trackback