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需要供給が定めるその価値

早い春開けから、初めての本格的な冷え込みである。霙のところも多く、霜が降りたり、凍結の心配もあるようだ。走る手が冷たくなった。パンツも脱げないので、真面なスピードも出ない。復活はまだまだ遠い。

そろそろと思って二年になろうかとする2014年雑食砂岩リースリングを開けた。まだまだミネラルを楽しめるほどに開いていなかった。酸が出て、それらしい味筋が楽しめただけで、あと数か月は掛かると思う。2014年産も2015年ほどではないが均衡がかなり強い。レープホルツ醸造所からのお知らせもまだであるが、2016年産は大いに期待できる。

音曲自主規制の関係もあって、流さなければいけないものが溜まっている。先日も数枚のCDをお土産で貰ったので、通してとまでは言えないでも、目ぼしい歴史的な音源などにも耳を通さなければいけない。それに最後に注文した安売りCDも殆んど音出ししていない。

更に復活祭プレゼントでデジタルコンサートの「マタイ受難曲」がダウンロード出来たので一部は流したが、ピーター・セラーズ演出の全体の構図までは確認していない。またバーデン・バーデンからのARTEの中継二種類とSWR2の中継をダウンロード並びにコピーした。これもドヴォルジャークのヴァイオリン協奏曲は何回か流しているが、「トスカ」の方は映像も観なければいけない。仕事でこうした視聴の数を熟さなければいけない人を想うと気が重い。

その点、ザルツブルクの「ヴァルキューレ」は、じっくりと思っていたが二幕、三幕と進むうちにその必要が無いことが明白になって、アーカィヴにはしておいても、じっくり見直す価値が無いことが分かった。なるほどドレスデンのスュターツカペレは慣れたもので、昨年の批判もあるのか、個々が充分にさらっているようで、質は高いが、ティーレマン指揮は節操が無い。第一幕の所謂作曲家が認める俗受けを狙った音楽では裏をかくようにして、テムポを落としてダイナミックスも微妙につけて成功していた。しかし問題は第二幕の長い叙唱に関連する。そこでは気が付かなかったが第三幕のフィナーレなどでそもそもの動機とは異なった節回しで演奏させたりと、恐らくフルトヴェングラー指揮の録音などを模倣しているのだろうが ― 祝祭の公式HPに現芸術監督が沢山のLPを背にカラヤン指揮のLPの解説書を見る写真が掲載されている、適当な変容でこれだけの芸術作品の骨子が完全に崩壊してしまうことをこの劇場指揮者は理解していないようである。フルトヴェングラーの一貫したソナタ形式における有機性の意味付けなどの論文も書いていない者が高度な芸術を模倣しても大衆演劇にしかならない。それにしてもザイフェルトが、その若々しい歌声や姿に、少々鈍い音楽ならば充分についていけるのを示し、ハルテロスとの兄妹の組み合わせも素晴らしく、とてもツェッペンフェルトの芝居も好都合で、ブリュンヒルデ役のカムぺもとても健闘しているが、芝居を作る歌唱を披露するまでの主導権は誰にもない。それによって、情景情景のより合わせのようなまさしくオペラガラの詰め合わせのような、全く音楽的な創作意思を感じさせない、夢のような舞台となっている。そして何よりもシュターツカペレの美しさは格別で、これまた瞬間瞬間に魅了するような全く芸術とは関係のないオペラ上演となってしまっている。全ての責任は指揮者にあることは言うまでもない。ということで、オペラファンやヴァークナー愛好家のようにエンターティメントとしてこのヴィデオを楽しめるのだが、音楽芸術的な価値は皆無である。



参照:
創作の時をなぞる面白み 2015-08-11 | 音
私の栄養となる聴き所 2014-07-14 | 音
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by pfaelzerwein | 2017-04-18 21:33 | 文化一般 | Trackback