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三段論法で評価する

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竹で木を継いだような歪な構成で上演されたのがピーター・セラーズ演出のアンティオペラ「ルグランマカーブル」らしい。その一度目の挑戦であったザルツブルクの初日はグロテスクのみがサロネン指揮によって強調されていたことで、作曲家リゲティの怒りをかったのを目の辺りに見た ― それ以降全集録音は取り止めになって、この指揮者の欧州大陸での活動は限られることになったのが事実だろう。だから演出家にとっては不幸にも大きな称賛を浴びるまではいかなかった。しかし今回はサイモン・ラトル指揮の演奏会形式でヴァイオリン協奏曲などが歪に挟まれたことなどと、何よりもフィルハーモニカ―が中々の熱演をしたようで、より抽象化されたそれが大変上手くいったようだ ― 核廃棄物などが意匠として使われているようだが、原子力マフィアだけでなくアンティ原子力マフィアが扱われているようでとても興味津々である。ベルリン以外でも公演があったが北ドイツに限られて態々出向くほどでは無かったので、デジタルコンサートでの映像が楽しみである。

チャイコフスキーの悲愴交響曲のお勉強を始めた。先ずは参考資料として三種類の録音を流した。小澤征爾指揮ボストン交響楽団、フルトヴェングラー指揮ベルリナーフィルハーモニカ―、ムラヴィンスキー指揮レニングラードフィルハーモニー管弦楽団の演奏など代表的な録音である。一番楽譜に忠実に丁寧に情報を取り出して演奏しているのはフルトヴェングラーの1938年のSP録音原盤だった。傷はあっても演奏技術的にもサウンド的にも、恐らく歴代この交響楽団が残した制作録音の代表的なものではないか。第一楽章などは本場ものとは違っていることは分かっていても交響曲芸術としてとても優れたものだ。しかしその他の楽章ではどうしてもブラームス作曲などのように聞こえてしまって明らかにリズムの譜読みが間違っていることが分かる。ムラヴィンスキーの演奏はその点は間違いなくても、三楽章のスケルツォなどは流しているところもあってリズムが弛緩するところもあり、旅先のヴィーンでの恐らく一発勝負の録音だから仕方ないのかもしれない。また弦の合奏などは超絶技巧なのだが木管楽器などの音色や合わせ方などは当時の流派らしく、またプロレタリアートの簡易な音楽になってしまっている。それでもダウンボーでの弱起から最初のテーマの全体的な意味付けが明晰になって、流石に当時最もこの交響曲を指揮していたであろう巨匠の実力が示されている。小澤の演奏は期待していたほどに細部や対・内旋律などが浮かび上がらなくて、軽やかさどころかとんとん拍子の浪花節になっていて失望した。当時日本で言われていたようなニュートラルな演奏解釈などでは決してなく、ツルツルテンテンの管弦楽演奏になっていて、伝えられるところの一音一音、一点一画もゆるがせにせずのトウサイ先生流とは全く異なるということだろうか。

フルトヴェングラーの超名録音で思い出したが、丸山眞男の愛読書が宇野功芳著「フルトヴェングラーの名盤」とは気がつかなかった。考えてみれば当然の帰結なのかもしれないが、あの二人が全く結びつかなかったのである。これだけを考慮しても、吉田秀和よりも宇野功芳の方が褒賞に値するのは言うまでもない。「丸山眞男音楽の対話」に載っている手書きのメモを見るとこれ程熱心に宇野の文章を読んでいる人物こそが日本を代表する学者なのである。

ネットを見ているとミュンヘンの座付き管弦楽団が17席も募集していた。世代交代もあるのだろうが、管楽器などを中心に先ずはキリル・ペトレンコの下でオペラをやって、力がある人はベルリンのフィルハーモニカ―にでも行こうと思う人がいてもおかしくはないと考えたのだろうか。少なくとも今ならば可成り優秀な若い応募者が集まると考えたのかもしれない。少なくともあと数年はまだまだ上手くなる管弦楽団であるから楽しみである。



参照:
魂をえぐる天国的響きに 2016-06-13 | 雑感
耐え忍ぶ愛の陶酔の時 2014-04-21 | 音
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by pfaelzerwein | 2017-02-27 19:38 | 文化一般 | Trackback