小技ばかり長けても駄目

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新聞にパルテンキルヘンの話が載っている。そこにブラームスの友人で「パルシファル」の初演者であるヘルマン・レヴィが祀られていた。当然のことながらナチによって破壊されて、その亡骸をミュンヘンのユダヤ人墓地に移す計画が浮上していた。ブラームスの一番を初演したカールツルーへなどと同じように戦後に名誉市民として記念しようとしたようだが、忘れ去られた存在になっていたことから、様々な経過を辿って、今回整備の上に式典が開かれる。そこにミュンヘンの後任者の一人であるキリル・ペトレンコが国立管弦楽団を連れてコンサートを開くという話題である。

場所はガルミッシュパルテンキルヘンのコンサート会場でしかないだろう。三月の「パルシファル」公演前ぐらいに出かけて、「パルシファル」から数曲を演奏するのだろうか。それとも「マイスタージンガー」から数曲を合わせて演奏するのだろうか。

夜中に録音をしながら寝室ではうっすらと音が流れていた。ボストンからの中継である。気が付いたのはブルックナーの九番になってからであるが、あまり冴えない感じだった。終了時刻を待ってトイレに立つ序でに先ずは電源を下ろしに階下に行った。予定通り二時間半を録音しておけば欠けることなく最後まで録音できる。生放送時の注意である。

起床後に録音を鳴らしてみた。最初も比較的正確に始まっていた。ワンのインタヴューに続いてざっと流してみて、思ったよりもシューマンの協奏曲がよかった。それもワンのピアノにホロヴィッツとか恐らく知らないがワッツとかのアメリカのピアニズムの伝統を聞く。だからボストンでアルゲリッチの代わりに飛び入りしてスターダムに上がった女流であるが、その手本を完全に超えていると思った。アルゲリッチの協奏曲もギーレン指揮のチャイコフスキーをフライブルクの音大で聞いたことがあるが、ワンのように立派なピアノは弾かない。ワンは昨年の夏にルツェルンでプロコフィエフの三番を聞いて、アンコールが付いただけだったが、プロコフィエフよりもシューマンの方がよいかもしれない。なるほど今後メインストリームのレパートリーが増えてくるのだろうが準備期間さえ十分にとれば直ぐに天下をとってしまいそうな勢いである。

ネルソンズ指揮のボストン響もテムポ設定など従前に打ち合わせて上手に付けていて見事だと思うが、一方で物足りなさもある。それは後半のブルックナーでより明白になる。一言で言えばもたもたしている演奏で、いまどき求められていない演奏だ。この指揮者はゲヴァントハウスでもバスの量感や流し方に留意して、全体のバランスをとる意識をしている。恐らく自身が管弦楽団でトラムペットを吹いていたのでそれとのバランスをとる十分な量感が欠かせないのだろう。それは構わないのだが、放送などでも顕著になるのは若干ブヨブヨさせてしまっていることで、キリル・ペトレンコなどが奈落においてさえも徹底的に音価を守って締めてくるのとは正反対である。

残念ながらボストン響はベルリンのフィルハーモニカーとは異なって徹底的に押しつけがましくバスに上乗せしてくる弦が無い。ベルリンでそれを推し進めていくとカラヤンサウンドに近づいてくる。ペトレンコの場合はアンチカラヤンが先に有って締めてくるようにとられないのは、全てにおいて締めて来ているからで、一つ筋が通っている。それによって新生フィルハーモニカーでは徹底的に引き締まったバスが高弦に負けないほどの鋼のような低音を響かすことになっている。現時点ではそれに相応するだけのハーモニーを木管や金管が築けていない。

ネルソンズ指揮のこうしたブルックナー演奏ではどうしてもエピソード的なものをことさら強調する形でしか表現できずに、他の楽曲に比べても殊更感が鼻につく。特に楽員のソリスト的な音楽性を尊重しようとすればするほどチグハグ感が高まる。前夜のハーディング指揮にも共通するが、特にブルックナーでは小器用な指揮が徒になるようだ。クナッパーツブッシュまでを出す必要はないが、ブロムシュテットでもラトルでもそんな小器用な指揮はしない。ティーレマン指揮でもブルックナー演奏が全然よくないのは出来もしないのに要らないことをやってくるからである。まるで宇野功芳のようになってしまった。

ここまで言ったなら序でに吉田秀和調で、お相撲のお話しにしよう。ネルゾンズにはそのゲヴァントハウス管弦楽団とともに期待しているが、上のような演奏実践で正しく関脇なら許されるとったりとか足取りの業に似ていることをするのである。なるほどその番付で金星をとるには必要かもしれないが、あまり感心される技ではない。大関昇進を望むならばぐっと我慢して凌ぐことも必要である。客演指揮の数を落としても結局メディア産業の録音プロジェクトに乗せられると、つまらない小技ばかりに長けて綱を掴めなくなる典型である。



参照:
待ったを掛ける俳諧 2019-02-17 | 音
意地悪ラビと間抜けドイツ人 2017-07-27 | 文化一般


# by pfaelzerwein | 2019-02-17 22:18 | 文化一般 | Trackback

待ったを掛ける俳諧

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楽劇「サロメ」の券が届いた。思ったよりも早く送ってきた。業務はどんどんと進んでいるのだろう。「サロメ」単独は殆ど出てしまったのかもしれないが、他の券と兼ね合せ注文はまだこれからだろう。早速公式交換サイトに「サロメ」が出ていた。売りも二枚組の私と同じ日の平土間の同じクラスが出ていた。第一希望で当たった人なのだろう。それ以外にも日にちを変えたい人は敗者復活で欲しい日が入らなかったのだろう。反対に求めている人もいるがまだ本格的ではないかもしれない。最終結果が出たらもう少し盛んになると思う。発売日初日に並んだ人で立見席から乗り換える人がいると思ったが、意外に安いものが出ていない。理由は分からない。

夜中にカーネギーホールライヴを録音しておいた。ハーディングという指揮者は、私にとってはなによりもペトレンコの試験ズル休みの代わりに入ってマーラーの六番を振った男で、子供の時にラトルとグリッペンを指揮した男で、パリ管を振りながらエアバスの操縦をしていたという男である。だから今回その指揮した演奏の放送を初めてまじめに聞いた。前回はパリ管の式典の時で映像ストリーミングで、ガラコンサートのようなものだったので、もう一つ真相が分からなかった。

今頃興味を持ったのはつい先日フランソワ・サヴィエル・ロートが指揮したプログラムを同じコンセルトヘボー管弦楽団を振ってのニューヨーク公演からの中継ということが最も大きな要素だった。ロート氏の方はその実力をある程度把握していて、弱点も分かっているつもりだが、それと比較して合奏精度が上がることなどは十分に予想できた。

前半は敢えて今触れないでおこう。ピアニストの悪口にばかり話が進みそうで、その舞台袖でのインタヴューもその陰気な声を聞いているだけでも滅入る。出来る限り無視した方が健康に良い厄病神のような雰囲気だ。

後半の「英雄の生涯」は予想通りに見通しが良くてとても上手にコントロールされて、ここここと掴み出すように歌われる。これは分かり易くて受けるだろうと思う反面、その分かり易さの行くへが気になるのもこの作曲家の作品だ。最も知られている例ではショルティーがこれでもかこれでもかと指揮すればするほどその音楽の底が見えてきてしまい、その技術的な価値が徒労に終わるように聞こえるという評価である。それゆえにこのハーディングは音楽的な良さを出そうと工夫しているのは分かるのだが、それが楽句による表現の濃淡を作り、全体としてそれだけの作品という感じがどうしてもする。なるほど嘗てのマゼール指揮ほどにはあざとくなく分析的な良さを感じるのだが、そこから先に進まない。ある意味その音楽の作り方に問題を感じる。

後任探しを続けている名門コンセルトヘボー管弦楽団で、最有力候補の指揮者とみられているが、ヤンソンスのような強引なドライヴもなく若々しさもあって推しはあっても、今まで決定しないのもそうした事情があるに違いない。少なくとも私が当事者ならば本人の才能のことも今後のキャリアのことも考えるとどうしても慎重になると思う。

するとあれでは甘いなと思っていたロート指揮の演奏のその良さが強調されることになった。なるほどハーディング指揮のようには明晰に鳴らないが、中々その歌い運びもよく、三連符やら六連符の扱いも上手で、細かなところを強調することなく鳴らしている。そして細々とまるで「影の無い女」などの鳴りが聞こえ、渋み満載な俳諧がとりわけ素晴らしい。ペトレンコの「ばらの騎士」もとても苦みがあってよかったが、四月のトリノに続いて来シーズンにでもベルリンでこれだけの指揮をできるかどうか?聞き返してみるとこのコンセルトヘボーでのロート指揮のコンサートは近年では取り分け優れたものではなかったろうかと思った。当日会場にいた親爺も言葉足らずにでもコメントしていて、指揮者もそれに返していたぐらいだったのも分かった。放送でも全体以上に個別の拍手の強さが激しく、最近なかったような可成りの熱さを感じたのには間違いなかった。この二つのコンサートを比較すれば、ハーディング推薦に待ったを掛けて、もう少しロート氏に振らせてみたくなるのは当然の判断だと思う。

ニューヨークではルーマニア人がコンサートマスターだったが、本拠地は違う人だったと思う。こちらの方がよかった。ルーマニア人も楽団のストラドの古いのを弾いているといったが、全く活きていなかった。指揮のせいとは言わないが、コンサートマスターはとても大切だ。



参照:
こまめなSNS生活 2019-02-12 | SNS・BLOG研究
リツイートされた影響 2018-05-14 | SNS・BLOG研究


# by pfaelzerwein | 2019-02-17 01:27 | | Trackback

テキサス親爺の来訪

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バーデンバーデンから最新のマガジンが届いた。復活祭の情報が主になっている。一番ページ数が多いのは「オテロ」のデズデモーナを歌うヨンツェヴァで数時間のインタヴューフォトセッションをベルリンでこなしている。バーデンバーデンではグノーのマルガリータで喝采を浴びたようだ。更にメータとムーティの二人の指揮者について、またベルリナーフィルハーモニカーのメーリンというヴァイオリニストについてのインタヴュー記事が載っている。それらを後にして最も先に読んだのは、演出家のロバート・ウィルソンのインタヴュー記事である。既にバーデンバーデンへと飛んできて舞台を調整している。

メータに関しては一月にアメリカでキャンセルしていたので、来週のフィレンツェでの出番まで心配である。するとその次にどうしても気になるのは「オテロ」の演出である。ウィルソン演出は今まで何度か経験しているが満足したことが無い。だからその語るところが気になって仕方がない。先ず知らなかったのはテキサスの親爺であって、その演出はハムバーガのトッピングのようにアメリカ的かと聞かれて、アジア的だと話し出す。それも日本的なようだ。全く気が付かなかった。演出家として14年目にして初めて日本を訪問して、能を鑑賞してから変わったという。もともと建築を学んでいて、幸運なことに建築と光から授業が始まったのが全てだったという。これを読むまでは絵画専攻かと思っていた。

そして能に最も影響されたのが、なんでもない話に殆ど内容と言葉と音楽にシンクロしない動きを知って、その現代性に打たれた。その動きの独立性に、そしてその深い情感に打たれたという。その後のウィルソンの演出は、自ら語るように音楽と芝居、美術と動きの間の緊張関係を活かした演出となる。なるほど光に関しては、その舞台を描く手段としての光の当て方であるとすれば、ウィルソンで有名な色彩的な舞台を思い浮かべれる。しかし、そこまでの緊張やシンクロ関係を壊した面白さは今まで感じたことが無い。記憶に残るのはその動きとアンバランスなジェシー・ノーマンのクマのようなステップだけだ。あれはシェーンベルクの「期待」だったが、なにか舞台を揺すっての「気迫」のようなものしか感じなかった。

演出に関してはミュンヘンのものが良く出来ていたので、それを超えるのは難しいと思う。やはりこの人の演出は美術的でどれだけ細やかな仕事をしてくるのか懐疑的だ。歌手もアンサムブルとして整わないだろうから、メータの指揮とベルリナーフィルハーモニカーの表現力に頼るのみである。恐らく少なくとも一晩はペトレンコも見に来るだろうが、どこまで纏めてこれるだろうか。

今回のマガジンでは一番売れていないシェーンベルクの晩のことには詳しく触れずに、オペラから売って行こうという戦略のようだ。次の直前の案内に広報されるのだろう。勿論その時は2020年のペトレンコ指揮のオペラが扱われている。



参照:
興業師からのご挨拶 2018-12-21 | 文化一般
一流の催し物の周辺 2019-02-10 | SNS・BLOG研究


# by pfaelzerwein | 2019-02-16 07:28 | 文化一般 | Trackback

「ミサソレムニス」な気持ち

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「ミサソレムニス」の総譜を見た。独唱四つに四声の合唱にオルガンが当然の如く入っていて、絶望的な気持ちになる。一週間もない。オペラに慣れたものだから、それに比べればと思っていたら、どうもそうはいかない。そもそもオペラで合唱が出てくる場所は限られ、四重唱以上もそんなに出てこない。精々二つのフィナーレぐらいを押さえておけばよい。器楽のシステムは古典だからそこそこだけれど、例えば「マイスタージンガー」と比較しても、必ずしも容易にはいかない。楽曲が三幕ものに比べると短いのだけが救いである。訓練を積んだ者ならば、一つのシステムを見れば後は対位法的に補えるのかもしれないが、また合唱で自身のパートだけを通すならば楽かもしれないが、いちいち全ての四声部も目を通すとなると一苦労だ。

救いは、所詮ミサの典礼と歌詞の構造なので、そこにどのように音を付けているかさえ把握すれば良いことだろう。そして音資材を探してみた。手元にはバーンスタイン指揮のコンセルトヘボーでのライヴ録音があるが、あまり参考にならないのは分かっている ― ブロムシュテットはそれを称して、それでも故人の自然で天性のアプローチだと評価していた。YouTubeで調べてみると、嘗ての名録音クレムペラー指揮とかカラヤン指揮とかベーム指揮は並んでいるのだが、どうもこれもあまり参考にならないと思って、ドイツの歌手のものをとサヴァリッシュ指揮などを見ると全曲は無い。ディヴス指揮とかガーディナー指揮とか、どれも一度聴いてみようと思わせない。

更に探してみると素晴らしいロ短調ミサを指揮するヘルヴェッヘ指揮のものがあったので、流してみた。この指揮者独特のスイングなどはあるが概ねいい演奏で、これは使えると思った。古楽出身の指揮者だけに綺麗に各声部が浮かび上がり、合唱や独唱は当然のこと、管弦楽でも比較的成功している。和声的にも欠けるものが無いのはそのバッハの演奏で御馴染である。それはいいのだが、実はもっと面倒なのは、勿論和声的な繋がりとしても先日の「フィデリオ」と同じ書き方をしているところに気が付いてしまった。これは面倒だ。行ったり来たりしないといけないからである。

なぜこの時期にキリル・ペトレンコが「フィデリオ」に続いて「ミサソレムニス」そして「第九」を指揮することにしたかは本人にとっては明白なことなのかもしれないが、こちらはとても大変なことになる。そもそも「フィデリオ」上演でこれはというところが幾つかあって、その答えが既にここで出されることになる。それも我々のような凡人が、行ったり来たりしながらここここというだけでとても面倒な作業である。しかしとどのつまり楽聖の意思を間違いなく取れればいいわけなのだが、ペトレンコは言葉でヒントを与えてくれないので、こちら側が自ら学ぶしかない。

そのほか、上の録音で改めて気が付いたのは、独唱、合唱と管弦楽のフーガなど、とてもではないが簡単に演奏できないということで、演奏実践上とても可能性があると気が付いた。楽聖の交響曲に関しては今更なにか改めてという気がしないが、こうした複雑な音楽ではまだまだなされていないものを感じた。要するにペトレンコ指揮に大変な期待が高まるのだが、恐らく今回は中継放送が無いように先ずはここで劇場の合唱団と一緒にとなり、最終的な形はベルリンで改めてとなるのだろう。

実際に調べて見ると、この二つの作品番号の123と72ほどには、創作年月が開いていないことが分かる。最終版のフィデリオ序曲が作曲されてから数年のうちに構想に入っているようだ。その年月日よりも途中で作曲された交響曲の数がとてもその距離を大きく感じさせるが、あまりにも完成した交響曲とこうした声楽の入った曲との関係は強くないかもしれない。なるほど中期の弦楽四重奏曲などには親近性も見られるが、寧ろ今回第九まで進むと見えてくるのは後期の四重奏曲ではないかと想像する。

余談だが、ブロムシュテットのインタヴュ―に晩年のトスカニーニの練習風景に裏口から忍び込んでロージェの中に隠れてとの話しもあったが、ボストンで有名なクーセヴィツッキーが譜面から音楽を読み取れない指揮者だったとあった。ピアノで弾かしてそれで理解するという話しだった。まるでバイロイト音楽祭の初代音楽監督みたいではないか。それは学究的な仕事が伴うので、大体頭の悪そうな音楽家は皆それに近いのではなかろうか。



参照:
ブロムシュテットの天命 2019-02-14 | 文化一般
MeToo指揮者に捧げる歌 2019-02-03 | 文化一般


# by pfaelzerwein | 2019-02-15 04:16 | | Trackback

ブロムシュテットの天命

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またもやブロムシュテット講話に嵌ってしまった。切っ掛けは、一昨年のシーズンにおける「アインドイツェスレクイエム」の自身の投稿への観覧歴があったので、それを見返して、その動画のリンクを探ったところからである。当然ながら今は切れている。それどころか連続放送の途中からクレームが入ったのか、最後まで番組放送も見れなかった。理由は不明だが、オンデマンド放送を止めたのはダルムシュタットの宗教法人の決断だった。だからその続きは見れていないが、同時期つまり2012年当時に収録した映像が出てきた。こちらも様々な会場からの映像が使われているが ― なんとゲルハーハーが練習で歌う画像まで見れる、なぜかDL可能なのだ。ゲルハーハー自身は典型的なミュンヘン人で子供合唱団から出てきた人だからカトリックで、この番組のプロテスタントな宗教とは直接関係無い筈だ。

そうした宗教的なレッテル付けや感覚を超越するところまで伝道するのがこのブロムシュテットの講話である。インタヴュー番組が二つあって、全部で四部に分かれていて、合わせて一時間半を超えている。結局全部一挙に見てしまった。それでも伝記的な三部作よりも別途のインタヴューが音楽的な内容として一番面白かった。それ以外では、フルトヴェングラーがヴィーナーフィルハーモニカーとブルックナーの五番を振りにストックホルムに来た時の逸話が興味深い。

青年音楽家ヘルベルトは感動して、フルトヴェングラーを遠くからでも一目見たいと楽屋口で待っていた。するとフルトヴェングラーが体を震わせて出てきて、癇癪を起して「ストックホルムではブルックナーはもう二度と振らない」と怒っているというのだ。つまり、多くの聴衆は、ああブルックナーかと、まあまあという気持ちで予習もなく聞いていて、それをフルトヴェングラーが怒っていたと理解したらしい。15歳からブルックナーに何気なく熱を入れていた音楽家は「もっともっとスエーデンでブルックナー」をと思って、実際に指揮するようになってから半世紀を経て、楽員が「こんな音楽を奏でられる幸せ」とその価値に感動するまでになったという。

フルトヴェングラーが、ベルリンの聴衆を捨てて他所で指揮をしても仕方がないと、ナチ第三帝国に留まったことはファンなら誰でも知っている。しかしその真意を量りかぬところもあって、読み替えれば、ナチのイデオロギーであった「アーリア人種の優位性」と同意義にもとれる。そしてこのブロムシュテットの証言はその疑惑への一つの回答を与えてくれると思う。

更にブロムシュテットご本人のブルックナー像も語られる。この点で注意したいのは、話者はプロテスタントであって、ブルックナーはカトリックという大きな文化土壌の差があることで、実際にその演奏実践からそれほど違和感はないが、話しぶりからすると本来の全てを包み込む大らかさからより核心へと向かって切り取られている感は否めなかった。

ブルックナーのフィナーレで典型的なその音響が鳴り終わってから「魂が飛翔していく感じとその余韻」は、この指揮者の演奏会での特徴となっていて、なぜか日本ではそこが特別な意味を持つようになっている。私などからすると、あの指揮棒を置いてからの長さはプロテスタントの信仰告白を超えたドグマに相当するものと感じて、どうしても邪魔したくなるのだ。ドイツでは一般的にあのやり方は大きな違和感を以って待ちきれないものと捉えられる。しかし日本ではそれが恐らく都合よく曲解されていることぐらいは、新教徒ブロムシュテットならよく分かっているだろう。しかし絶対そのようには語らない。それが指揮者ブロムシュテットの「天命」だからである。

氏の経歴の中で一時期新しい音楽に従事していて、とはいってもヒンデミットなどのようだが、マルケヴィッチをザルツブルクに学びに行くなどしたのだが、「現代音楽の多様な様式を扱うことで沢山学べるが、古典はそう簡単にはいかない」というのは全く正しい。指揮などを技術的に克服出来る出来ない事とは別に、そうした古典を解釈するというのは正しく氏が言うように聖書を読み解くのと変わらない。難しいのは「古典には基準」というのがあるということだ。「英雄」の新しい批判版と楽友協会の古いアーカイヴなどを比較して葬送行進曲の楽譜の「アクセントかデイミニエンドか」の相違をいつものように歌って説明している。そうした学術的な準備が欠かせないのは当然で、これに関しても正論であり、私が言うのもおかしいが、「超一流の技術(や知識)を持つ者が必ずしも一流の音楽家ではない」ということをよく表している。

もう一人カラヤンらしき人物が話しに登場して、自己の成りを評価させてそれでよしとする姿勢を、もうそこから「なにも挑戦しなくなったところで終わりだ」と厳しく捨て去る。それもここでは啓蒙思想的な今日より明日の進歩を超えて、「新教であろうと旧教であろうと、イスラムであろうと、原理派ユダヤ教であろうと」ともう一つ上の告白をする。そして休息日を金曜日の夜から日曜日としていて、これこそが恵みなのだと、それは創世記の通りの「信心」ではなくて「真実」であると信仰告白をする。まさしく氏のセヴェンデーズの宗派の教えの核心だろう。私はここまで突っ込んだ発言に強く心を打たれた。信仰はどうでもよいのだが、来週に迫った「ミサソレムニス」を心して準備しなければいけないと肝に銘じた。



参照:
アインドィツェスレクイエム 2017-11-13 | 文化一般
ヘーゲル的対立と止揚 2018-09-11 | 文化一般


# by pfaelzerwein | 2019-02-13 23:48 | 文化一般 | Trackback

胡散臭さを振り払う

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靴紐を直した靴で走った。締りが強過ぎて厳しかったが走っているうちに緩んできたようだ。それでもハードテューニングには遠い。応急処置には変わらない。週明けからまた冷えて、喉ががらがらしてきた。先週の散髪も堪える。それでも陽射しがあったので苦しみながらもぼちぼちと走ってきた。運動をしなければ熱が出ていたかもしれないが、久しぶりに汗を十分に掻いた。それだけで満足だ。

明け方悪い夢を見た。気になっているここ数か月音沙汰の無い女性のことだ。病で倒れてどうなっているかとても心配しているのだが、夢では何処からかその消息を知って、連絡をすると第二子を出産して他所の街で暮らしているということだった。勿論私はそのような思いがけない無礼に落胆するのだが、なによりも健康だと知って、恨み交じりに泣き笑いするのである ― まるで藤山寛美の泣き笑いの松竹新喜劇である。恨み節も収まらずワンワンと泣きながら幕が閉まって、目が覚めた。未明から色々と忙しがったので二度寝も叶わずパン屋に出かけたのだった。

ベルリンの放送交響団が日本公演に出かける。最も由緒のある放送交響楽団だが我々西側の人間は壁の向こうのことであまり馴染みがなく、壁が崩壊してからも何となく胡散臭かった。更に先ごろまではポーランド人かドイツ人か東側の人間か何かわからないようなヤノウスキー爺さんが監督をしていて更に胡散臭くなっていた。そしてそれ以上に胡散臭いウラディーミル・ユロフスキーというユダヤ系ロシア人二世指揮者が監督になった。しかしこの指揮者はミュンヘンのペトレンコの後任に決まっていて、とても感心が高まった。またこの人の楽団のスポンサーにNABU野鳥の会がなるようにバードウォッチングばかりしていそうな人物なのだ。その人が「アルペンシンフォニー」について語り指揮するのだから、たとえ平地のベルリンの人でも興味を持つだろう。またその説明がいい。夜明けから日没までのそれを人生の始まりと終わりだとこの指揮者は理解して、描かれる登山シーンはアレゴリーだと言い切る。勿論風呂場のリヒャルト・シュトラウス演奏になる訳がない。来週の金曜日の放送が楽しみになった。通の音楽ファンは、ミュンヘンの放送管弦楽団などを聴いている暇はないのである。そして前半にはNABUが委嘱したらしい鳥の囀りの音楽が演奏される。二日後の日曜日には日本ツアーの練習を兼ねて諏訪内晶子のソロでブラームスが前半に演奏されるようだ。それは仕方ないとしてもプログラムとしての値打ちは大分下がる、更に日本公演では旅費を節約するのは仕方がないがアルプス交響曲は取り払われ惨憺たるプログラムが並んでいる。

フランスからの二日続けての放送は価値があった。日曜日は「オテロ」全曲、月曜日はベルリンでの「フィルハーモニカーシーズンオープニングコンサート」で、双方とも録音録画等を所持している。だからその内容は重々知っている。それどころか実演を含めて何種類もの演奏を知っている。それでも生中継以降初めて聴く放送であった。価値があったのは、前者の生録音のストリーミング放送に入っていた雑音が無いことと、後者のラディオ生放送録音を音飛びさせてしまったからで、改めて聴いて録音する価値があった。

先ず前者は、生放送時よりも、いつものように音響上のバランスが整っていてとても安心して聞けた。要するに音響的な新鮮感よりも音楽的な結実にゆっくりと耳を傾けられた。更に生放送ではオンタイムで休憩が入るが、殆ど続けざまで放送されたことで、とてもコムパクトであり、出来上がり感が気持ちよかった。毎度のことであるがペトレンコ指揮の初日は緊張などもあり管弦楽団が上手に演奏できないことが多く、いつも物足りなさも感じるのだが、年数が経って聴き直すとその完成度の高さに驚くことが殆どである。それ程日間隔があいていないが、11月末の初日のその程度の高さを改めて確認することになった。そして疑心暗鬼だったフランスからのストリーミングも僅かな音抜けの中断はあったが、概ね高品質で音量を上げると可成りの音場を感じることだが出来た。

後者のコンサートの方も、アナウンス通りに、最初の「ドンジュアン」からして聴きごたえがある。後の演奏からすると始まりはとても不安定で上手く行っていなかったが、手元にある生中継録音の音飛びが無いので落ち着いて評価可能となった。そしてその録音自体は、生中継のバランスからするとどうもミキシングが変えられているようで、遥かに興味深い音が聞ける。この日の演奏はデジタルコンサートホールで映像が見れるのだが、やはりこのラディオ放送のミキシングは大変完成度が高い。恐らく、DCHのアーカイヴは生放送時のオーディオを必要な所だけ編集してあるのだろうが、こちらはバランスが異なるように感じる。



参照:
放送管弦楽団あれこれ 2019-02-09 | 雑感
花火を打ち上げる奴 2019-01-01 | 暦


# by pfaelzerwein | 2019-02-12 23:10 | 文化一般 | Trackback

こまめなSNS生活

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バイエルンの放送局で放送された「ヴァルキューレ」の批評が出ている。そもそもラトルがなぜこの曲を振りたがるか分からないと、皆と同じことを言う。実際に散らかし放題で、管弦楽ばかりに拘って、歌はやらせ放題だと批判される。我々サイモン・ラトルファンからすると今更と思い、放送管弦楽団がこのようなプロジェクトに公共料金を払う意味が問われる ― それどころか映像も放映され、「指輪」プロジェクトは新ホールに持ち越されるというから恐ろしい。

一幕や三幕のハイライトに差し掛かると前のめりになり、こうしたコンサート形式の上演に、交響楽団に求められる精度に至ることが無く、お手本のペトレンコ指揮座付管弦楽団に及ばないとされる。歌手陣においても二幕で僅かしか歌わないクールマンのそれ比するだけのものはなかったとされる。

管弦楽団の楽器群がその行先を失っているのが、そのアインザッツ同様に総奏でも聞かれたたとされる。そこまで書くならば、なぜこの交響楽団がこうなっているかについて少なくとも示唆すべきだ。この書き手の名前は憶えがあるが、突込みが足りない。

客演ということはあるが、ラトルの指揮は当然のことながらしっかりしている。歌手が途方に暮れて歌い難くとも、管弦楽団はアンサムブルがしっかりしていればベルリンのフィルハーモニカーとまではいわないまでもそこそこの演奏が出来て当然なのである。

昨年引いた新しいネット回線が止められている。それどころか違う回線の電話も閉鎖されている。原因は、全て独テレコムにあって、どうも新回線の銀行引き落としが出来ていなかったようだ。警告書が届いて初めて気が付いた。だから先週の木曜日頃に引き落としの同意書をボンの本局に送ったが、処理できていないのだろう。いつものことながら請求書とその回線閉鎖で顧客の善良な市民を怒らす。それしか回線がないならば困るが、ラディオ放送ぐらいは古い回線でも録音できると思うので構わない。順番待ちまでしてテレフォンセンターで苦情するつもりもない。先ずは様子を見よう。そもそも関係の無い電話回線を止めて、問題の回線を活かしていることがおかしい。使い勝手が悪いのは新回線に合わせたNASストレージにしているからそれを使うにはいちいち切り替えなければなにも記録できないことだ。

日曜日はオランダからの放送があった。それを紹介して、特にそこでのコンセルトヘボーでの「英雄の生涯」は期待していた。なぜかというと、日本でも活躍していた指揮のロート氏は元手兵だったSWF放送管弦楽団で全集を録音していて、その紹介に放送で語っていたからだ。それによると「カラヤンやティーレマン指揮の湯船の鼻歌は間違いだ」という意見で、それは間違いなく正しい。それでもあのコンセルトヘボーでどれほどSWFのようなシャープな演奏が可能かどうかが疑問で、聞いてみたかった。それでも前半のエマールの「皇帝」などちっとも聴きたくもないものがあって、適当に考えていたら、またまた指揮者のロート氏が登場した。放送は一月末の録音なので恐らく本日ケルンでの演奏会もあってケルン近郊の自宅にいたのだと思う。前回「ディゾルターテン」でいいねを貰った時も同じような状況だった。この人も私の呟きファンではないかと思うぐらいだ。フライブルクに住んでいたぐらいだからプファルツにも一定の印象を持っている人かもしれない。

そこまでは普通で、更にリツイートしてくれたお蔭で、情報が不完全で更なるスレッドを開けないと分からなかったのだろう、フランスのおばさんが「今日か?何時?」と尋ねてきた。放っておいてもよいのだが、ロート氏本人にも質問していることになって、こちらも言いだしっぺなので、急いで14時と答えておいた。暫くすると恐らくそのコンサートに出かけていたオランダの親爺が14時15分だと正確な時刻を書き添えた。調べて分かっていたが、いつもその放送を聴いているのではないので餅は餅屋の情報で助かった。

演奏は案の定「皇帝」はあまり聴く価値もないばかりか、良くもこのピアニストをインレジデンス演奏家に選んだなと、この楽団の人選などはいったいどういう組織でやっているのだろうと改めて思った。お待ちかねの「英雄の生涯」は中々面白かった。やはりああいう風に演奏することで楽劇と交響詩との間にある創作過程の端々を知ることが可能となる。

それなりに満足していると、先ほどのオランダ親爺がグレートコンサートと書き込みをしてきた。いいねだけは二つ付けておいたが、暫くしてからロート氏がそれまでリツィートしていた。結構熱心にSNS活動をしている人だと分かる。コンセルトヘボーも後任探しがまだ決定していないのだろうから、客演する人は皆色気を持つのは当然だろう。少なくとも打診ぐらいは受けたいと思うのが人の常だ。当然地元で熱烈に応援してくれる人は力になる。一時のメディア戦略によるマスの時代がこの業界では異例で、コツコツとどぶ板選挙のような活動をするのが大切である。



参照:
広島訪問と米日関係のあや 2016-05-16 | 歴史・時事


# by pfaelzerwein | 2019-02-12 00:00 | SNS・BLOG研究 | Trackback

大当たり二等170ユーロ!

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当選!発注していた楽劇「サロメ」の配券があった。思ったより良い席である。但し公演日はカメラの入る日で、高品質な録画は自分では出来なくなる。それ以上にまたカメラに映りそうな席だ。ある意味ペトレンコ体制では常連さんに間違いないので、昨年の記念公演に次いでカメラに入れてしまえというような感じさえする。衣装だけ考えておかなければいけない。それ以上に広場がパブリックヴューイングで閉鎖になので駐車などがどうなるのか、また新しいことを覚えさせられる。出し物が一幕ものなのでそれほど面倒なことはないだろうが、最後の拍手も早めに切り上げになり私の助力も必要なくなる。

座席のクラスは、第一希望の上位クラスになったが、今までコンサートで一度座ってもオペラでは座ったことの無い場所である。その距離感や角度は分かっているので全く心配は要らない。コンサートの時よりも中央の王のロージュに近く、完全に奈落も監視できるので、音響も悪くはなく、かなりいい席だ。なにもマルリス・ペーターセンの裸体は見たくはないが、文字通り身を投げ出しての舞台は近いだけに鬼気迫るのではなかろうか。

価格は安くなり170ユーロと、第一希望の高価な初日185ユーロよりは15ユーロも安くなった。つまり敗者復活配券になったということだろう。それでも第二希望が当たったとも出来る。やはり、安いクラスはより厳しくなり、何でもいいという人には上のクラスを配券するのは当然だろう。ひょっとすると上の差額で駐車料金が相殺になるだろうか。一幕ものの「サロメ」の価格としては許容範囲内だろう。懸案のヴィデオは恐らくオンデマンドのMP4で構わないが、録音だけ可能かどうか技術的に研究してみよう。

これで、初日の放送を聴いて、使用楽譜に関しても研究可能となる。正直なところ「サロメ」は今更の感のある出し物で、万が一外れることも考えたのだが、行くことになれば筋が通る。先ずは、この20日に「ミサソレムニス」を歌うペーターセンとブルンズは、夏に「第九」でもクールマンと揃って出場する。また、五月の千人の交響曲には「第九」のヨウンがクラウディア・マーンケと並んで歌う。嘗てのカラヤン時代のようにいつも同じようなトップ歌手が出るわけではないが、徐々に事務所の関係からも同じような人が重なって出るようになっている。道理で歌手にもお馴染みが増えてきた。一部はミュンヘンとは関係なくベルリンの体制でも引き継がれるだろう。

土曜日に峠を攻めようと足拵えをしていたら、靴紐が切れた。普通の紐ならば交換すればおしまいだが、これはループ状のものが使われていて、くっつけないと使えない。早速洗浄して室内で観察すると、紐だけでなくて、その通し場所も切れていた。靴自体は二年前の三月に購入していて、その商品一号から使っているシリーズとしてはが最も長く使えた。昨年はアルプス行はならなかったが、前年は二回はアルプスでも使っているので充分だろう。次の後継商品を選択するのに時間が掛かるので、先ずは紐を結んでループの場所を動かして、留め紐を糸で縫って瞬間接着剤で固めた。上手く行けばもう一月ぐらいは平素のトレーニングに使えるかもしれない。そこの踵の分厚いところに数センチのねじがねじ込まれていた。いつの間に踏んだのだろう。街中で履くことは無いので不思議に思っている。そこにも接着剤を流し込んだ。



参照:
待望のランニングシューズ 2017-03-22 | アウトドーア・環境
次世代への改良点 2017-12-03 | アウトドーア・環境


# by pfaelzerwein | 2019-02-11 03:50 | 生活 | Trackback

一流の催し物の周辺

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日本からの呟きを見ていたら消去されていた。理由は法律に抵触するのでドイツでアカウントが消去されたというものだ。内容はそれ程のものではなかったと思うが、アカウント名からしてクライズライターと恐らくナチか東独の社会統一党でしか使われない言葉を名乗っており、そのアイコンを見るとなんと総統らしき写真が載っている。勿論ドイツ国内では禁止どころか訴追されかねないが、更に怖いのはユダヤ人組織である。日本でも有名になったヴィーゼンタールセンターなどを筆頭にそれこそモサドまでが世界中に網を張っている。マンの「ファウストュス博士」の人物像ではないが呵責容赦ない追求である ― 私のような横着な人間でも確認したが敢えて写真の部分は消す。そんなものを晒しても誰も喜ばない。

そもそもその手の連中が何を呟こうが無知を曝け出しているようなもので耳を傾けるに値しないのだが、無知が無知を呼ぶような構造がSNSの世界で、ホワイトハウスからの呟きが最もその頂点にいるかと思うと殆ど正夢だろうかと頬を抓らなければいけない。それにしてもそもそもああしたカウント名を付けて何を主張したいのだろうか?タブー破りの面白さなのか、ちっとも面白くないのである。とても趣味が悪く幼稚なだけである。誰も見たくはない。要するに黒いコートを羽織った露出狂のオヤジと変わらない。

特に芸術、更に音楽関連などになるとユダヤ系の人の活躍無しには一流の催し物は成り立たない。何が言いたいかと言えば、無関係であるからなどと言えるのは余程の鎖国された島国の人か孤立している人なのだが、そういう人種に限ってこうした無配慮な言動が目立つのである。所謂スピナーと呼ばれる人種だろうか。

先日車中のラディオで、シナのドイツ企業買占めの話しが出ていた。ドイツ工業協会理事の声明だと思ったが、同時に本国の景気の鈍化からそもそも買占め数が減ってきているというのである。恐らくその方が正しいのだろうが、そもそも生産拠点や貿易の問題ではなく、技術への興味から盛んな買占めに走っていた訳だから、技術さえ移転してしまえばあとはお払い箱である。そうしたことから寧ろ社会的にはシナへのアレルギーはまだ今後広がるのではなかろうか。

先日のヴァイオリニストのカプサンではないが反応が思わぬところから来ると、どうしようかなと思っているストリーミングプログラムも紹介した責任で聴かなければと思うことが少なくない。メトからの中継は、「青髭」と「イランタ」を組み合わせたプログラムで、最初に後者を未知のソニア・ヨンツェヴァの歌で聴きたかった。四月には一月のメトに続いてバーデンバーデンでデズデモーナを歌うからだ。そもそもMeTooガッティ指揮だから券を購入していなかったが、メータ指揮で歌うことになり興味津々だ。それもチャイコフスキーのオペラとなると嘗て大屋政子プロデュースで食中り状態のロシアオペラをこの辺りで正常に戻したいのだ。メトデビューの指揮者は先ごろまでペトレンコの後々任としてコーミッシェオパーで振っていたナナーシという名のある人だ。勿論この二作品の組み合わせと後半の「青髭」をフィンレーが歌うとなっては外せない生中継である。そのように紹介したら本番前にフィンレーがいいねをしてきた。もう殆ど私の呟きのファンではないかと思わせる。番組は風邪気味とアナウンスのあったヨンツェヴァなどで無事始まって、それを聴いて録音する価値はあったと喜んでいると、休憩時間にそのフィンレーとイディト役のドイツ人のデノーケという歌手が出てきていた。

私などはメトからの中継もNHKで殆ど聞いたことが無く、今のようなこのライヴ感覚は夢のようにしか思えない。それだけでなく実際にインターアクティヴな関係が築かれるとすれば、考え方を変えなければ話しにならなくなってきている。なるほど日本などの地理的にも島国にいることからすればニューヨークは一寸異なるのかもしれないが、ここからすれば海の向こう側で時差六時間はそれほど遠くはない。

そして「青髭」の管弦楽が良く鳴っていて、指揮者の実力もあるのかもしれないが驚くほどである。なるほど監督のネゼサガンが振ればこれぐらいはと思うが、これだけ座付楽団が鳴らせるところは無いと思った。やはり監督が言うようにメトが世界一の座付で、フラデルフィアは世界一の管弦楽団というのもそれほど間違ってはいない。そしてお待ちかねのフィンレーの歌はハンガリー語のニュアンスは評価できないがとても良かった。所謂銭をとれる歌手で、まだまだキャリアーも相当するギャラも上るかもしれない。そして相手役も全然悪くはなかった。この辺りがメトの実力でそれが次から次への演目でそれぐらいの歌手が続いている。ロンドンのコヴェントガーデン劇場とは違うのは当たり前かもしれないが、これがオペラの殿堂だ。



参照:
「ナチは出て行け」の呟き 2019-02-07 | マスメディア批評
Go home & never come back! 2017-08-24 | 歴史・時事


# by pfaelzerwein | 2019-02-10 21:59 | SNS・BLOG研究 | Trackback

放送管弦楽団あれこれ

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エマニュエル・パウの演奏でピンチャーの協奏曲を聴いた。丁度その時に同じくライヴでミュンヘンから「ヴァルキューレ」が二幕後の休憩に入った。とても良い演奏で、尺八みたいな音までを息漏れなしに出していた。一体あう云う音をどのように出せるのかと思うが、この曲の初演者で時間が経っているためか演奏としてこなれていて、これでもかというほどの音の段階を付けていた。楽譜に書き込まれているという以上に作曲家との意思疎通があるのかもしれない。あれだけの細やかな表現となると楽譜に書き込んでも限界があるように思え、そもそも簡単に真似できない。このような曲がコンクールの課題曲にもなるのだろう。勿論お手本はパウの演奏以外にない。作曲家にとっては彼が演奏してくれるだけでその楽曲の芸術的価値が上がる。あまりフレンドリーでない風采の指揮者兼作曲家だが、管弦楽も良く書けていて、一度聴いただけだが、様式としては20世紀のモダーンを出ないが、立派なものだ。更に名の知らない指揮者とベルリンの老舗放送管弦楽団が素晴らしいかった。

そして、再び三幕でミュンヘンに戻った。指揮のサイモン・ラトルファンとしては彼がどんな指揮をして、こうした楽劇では何が出来ないかを良く知っているつもりだ。たとえそれが交響楽団でのコンサート形式であっても基本は変わらない。その放送交響楽団は冒頭からゴリゴリと弾いてきて、流石に角も立っていると思っていたが、直に高弦などが美音で奏しだす。そこにチューバなどが出たり入ったりの多いアンサムブルで、この楽団のシェフの顔が浮かぶ。なるほどあのヘラクレスザールは大きな編成には向いていないのかもしれないが、超一流と比較してはいけないがクリーヴランドの楽団だったら綺麗にサウンドチェクだけで合わせてくるだろう。

歌手陣もそもそも口元の閉まらないヴェストブロックには期待しないが、指揮者があまり細かに指導出来ない分自覚して押さえて歌っていた。しかし何といっても二幕のフリッカを歌ったクールマンは見事だった。そのインタヴューも途中で流れていたが、キャンセルした「フォレと組んでペトレンコ指揮で歌ったので」と話していた。そのMeTooのグスタフ・クーンヘの対応も厳しく呟いていたが、中々切れが良い。ラトルもインタヴューで彼女の「反応の良さ」を特別に語っていた。なるほど年末の「こうもり」における歌でも分かったが、彼女自身に言わせると「フリッカが最も好きな役」となるのを歌で証明していた。大したもので、夏には第九で生を聞ける。

それにしてもラトルは、上手に語る。自身がドイツ語がそこまでできない分、古いドイツ語も気にならないので、丁度良い距離が取れていいと話す。この辺りは本当にドイツ向きで、ベルリンでの生活も「移民をやらしてもらっている」とベルリン子の子供たちのと父親と母親の間を取って丁度そこがよいのだと、上の話しの前振りにしていた。ネゼセガンも天才的だが、この人も本当に頭が良い。

そして放送管弦楽団で経験がない分、カルテブランシュで始められるのでピアノといえばピアノを出してもらえると喜んでいた。宜しい、その点は認めるが、そしてその指揮に関して分かっている分、この放送交響楽団の実力が如実に出た。やはりヤンソンス指揮になって、はっきり発音が出来るようになった分、出せない音が増えた。弦の先ほどの甘い音でも、これまた超一流と比較しては気の毒だが、フィラデルフィアなどであればあのような単純な音は出さない。なるほど放送管弦楽団の使命としてマイク乗りし易いことは当然であるが、ややもすると第二管弦楽団のポピュラー放送管弦楽団に近づいてしまう。オペレッタの演奏ならばそれで良いが、楽劇では流石にその差が顕著になる。

そのように考えれば、指揮者の実力もあるのだが、同じ放送交響楽団でもベルリンの老舗は立派に鳴っている。ユロウスキーの下では明らかにベルリンの方が上ではないかと感じた。それ以前に「ヴァルキューレ」に関してはペトレンコ指揮の座付管弦楽団の演奏の方がはるかに厳しい演奏をしていた。これは慣れとか慣れていないとか指揮者の腕とはまた異なるアンサムブルの問題である。ミュンヘンの放送管弦楽団がオスロの交響楽団やバムベルクの交響楽団程度ではいけない。

手元の記念切手のエルプフィルハーモニーとゲヴァントハウスの二種類が手薄になって来たので、各々シートで再注文した。特にエルプの方は145セントなので高額となり、最後の一枚を残すべきかどうか考えたぐらいなのだが、実際に会場を見ると自身の記念切手になってしまって、まだまだ使用する心算で購入した。ゲヴァントハウスの方もその管弦楽団がここ暫く更に脚光を浴びそうなのでどんどん使う心算だ。



参照:
エルブフィルハーモニ訪問 2019-01-11 | 文化一般
花火を打ち上げる奴 2019-01-01 | 暦


# by pfaelzerwein | 2019-02-09 23:58 | 雑感 | Trackback

頭の悪そうな出で立ち

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散髪に出かけた。9時始まりでなくて8時半だったので、先客がいて追い返された。一時間後の約束で出かけると他の客が入っていた。更にそのオヤジと手を止めてやりて婆が話しているので、そこにあったプファルツの雑誌を捲っていた。中々いい線をついている雑誌で写真も印刷も綺麗で、地元民は喜んで隈なこになってそこから情報を取ると思う。私もザウマーゲン世界大会の記事に釘付けになった。

前回は11月だろうと話したが、実際にそうでオテロ上演訪問に時間をおいて出かけた。本来ならば1月のチューリッヒ訪問の後と思っていたが、寒さが厳しく伸びに伸びた。バリカンを思い切って入れたことで、あまり邪魔にならなくなった効果もある。そして寒さが緩んだところで、何とか済ました。これで次回は春の声を聞いてからだ。

これで、ミサソレムニスのお勉強に集中できる。その前に幾つかの生中継などを聞かないといけない。週末は先ずはベルリンからパウのソロでのピンチャーの協奏曲である。作曲家としても指揮者としてもあまりいい感じはないが、ベーレンライター社が紹介の呟きに早速反応していたので、そこから出版しているのだろう。パウファンはいてもピンチャー関連とは全く予想しなかった。同時刻にミュンヘンから「ヴァルキューレ」中継も流れているが、ラトル指揮ならば「ジークフリート」の方に期待したい。中々あの楽譜をコンサート指揮者が指揮するのは難しいと思う。

先日シカゴからの放送を紹介してそこで協奏曲を弾いたヴァイオリンのカプソンからいいねがあったのも意外だった。名前は知っている演奏家だが、あまり知らないのでプロフィールを見ると偶然ながら友人とこの演奏家は同僚かも知れないと分かった。必要ならば直接にフィードバックも可能なのでタイマー録音したのだが、残念ながら無音で失敗した。指揮もビュシュコフである意味シカゴに本当に必要な指揮者かもしれないとも思った。

メールが入っていたので何かと思うと、ロンドン交響楽団YouTube中継のリマインダーだった。それも既に放送が流れだしてから入った。録音録画をしておいた。この手のものではイスラエルからのものは知っているが他所の交響楽団がどうなのかも興味だった。形式は垂れ流しで同じだが休憩にあまり表情の良くないおばさんがしきりに話していた。楽員なのかどうか知らないがそこまで頑張らずに、ソリスツなどにインタヴューでもすればよいのにと思った ― 後で見ると冒頭に付け足していた。客席も満席ではなく、それほど湧いていなかった。

指揮者はエリオット・ガードナーで嘗てモンテヴェルディ楽団を指揮しているときは興味津々な活動をしていたがその後はバッハなどを振らせても全く精彩がなかった。今回も態々楽員を立たせてシューマンなどを演奏させていて、これは今流行りのギリシャ人カラヤン二世の物まねかと思った。勿論起立して演奏させるのはなにも珍しくもなく、特にバロック音楽では昔からやられていたが、こうした比較的古い交響楽団にロマン派の音楽をこのように演奏させる意味が皆目解らなかった。あれはやはり楽員のお通じや健康を考えたものなのだろうか。要するに演奏実践上では不利な面ばかりが聞こえて、利点は全く感じなかった。バロック音楽ならば上体の触れが大きくなって、それが本来の音楽的なグロテスクに結びつくことはあっても、シューマンの演奏で何を奏でようとしたのか?何かその指揮の鈍さと相まって、カラヤン二世ならば流石にこうはならないだろうと、まるで年寄りが若者を引き立てるようなショーでしかなかった。最後には楽屋からパインビーアを持って出てくるなど、明らかに頭の悪そうなことをしていた。

この老舗交響楽団は英国で屈指の実力を誇る筈であり、サイモン・ラトルが指揮者になって高額券で売られる様になった。しかしこうしたコンサート中継を見ているとただただ荒っぽくて、決して歴史的な奏法云々の話しではなく、また共演のヴァイオリンのファウストの演奏も全く冴えなかった。アンコールの「真夏の夜の夢」ぐらいがまだ面白かったぐらいだ。一度コンサートに行こうと思っているのでとても不安になった。それはベルリンのフィルハーモニカーならあれだけ不細工なことにはならない - でも新体制へまだまだで、これからである。それでも次の中継は、ハイティンク指揮のブルックナーなので、中継の様子も分かったので楽しみにしよう。

土曜日から日曜日にかけてはボストンからの中継である。リサ・バティシュヴィリのシマノフスキーもいいが、コープランドなど面白いプログラムで、やはりネルソンズにはライプチッヒでもこうしたプログラムで勝負して欲しい。



参照:
無色透明な音の世界 2018-11-10 | 音
音楽劇場の社会的な意味 2019-01-28 | 文化一般


# by pfaelzerwein | 2019-02-08 23:28 | 生活 | Trackback

「ナチは出て行け」の呟き

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先週気になる記事が出ていた。流行り言葉「Natzis raus」が見出しになっている。第一面横の所謂社説コラムなので目を引く。この言葉が意味するものは誰にも明らかで、所謂外国人排斥のパロール「Ausländer raus」つまり「外国人出て行け」と叫ぶレイシストのそれを裏返したものだ。新聞によるとその言葉が公共文化波ドィチュラントクルテューアの呟きとして書かれているらしい。要するに社会的に少なくともネット上は認知された表現となる。

新聞は同じ状況として「右翼」というのはもはや健全な保守派を指すのではなくて同時に「極右」を指すようになっていると状況を説明する。つまりネット住民にとっては最初のパロールを以って「私はそこに属することの無い真っ当な人間」であると主張することと同意義らしい。編集者は、ラディオ局の呟きは、そもそもネットにおける荒らし右翼に対して、「ナチは出て行け」となっていると説明する。

一体どこに、ポーランドかフランスかデンマークかベルギーかオーストリアへと追い払うのかという疑問は別にして、そもそものナチにおける外国人を人種的に差別した暴力的排斥は刑に問われて、rausではなくrein、即ち追放でなく拘束による治安だと書く。つまりネット上での匿名のそれはナチの方法ではなく、身を隠しているのでそれではないとしている。

寧ろ問題点は軽々にナチ呼ばわりすることで喜ぶのは正々堂々と出てくる本物のネオナチであり、政治的には右翼が悪いとされるのも例えばキリスト教社会主義の民主主義的な価値観の欠落に起因するとしていて、要するに「右翼も極右変わらず」悪くされるその背景について説明する。

否定されるナチ自体が他の意見を封殺するそのやり方の方が、過去への評価の問題以上に悪いとする。当然のことながら思想の自由とそれを担保する憲法の解釈への議論、そうした現在世界中で顕著な動きが大まかに示唆される。ここまで読めばどうもこれは呟き問題でもあり言語表現の問題でもあるように思う。

この高級紙は第二の勢力である政党AfDに対して厳しくその実態を暴き、糾弾し続けているが、ここではとても慎重にそれらに対するカウンターの在り方を諌めている。ネットでは音楽家ではイゴール・レヴィットなどが最も激しくそのカウンターとして活動しているが、それ以上にやはり監視することによる牽制も重要だ。

連邦共和国の音楽家では何人かはこの新聞紙上でも注目に値するその言動が問われた。最も有名なのは指揮者クリスティアン・ティーレマンだ。この指揮者に関しては、その演奏会は一度行けば十分だったが、最も長くウォチャーを続けていて、キリル・ペトレンコなんかよりも長いお付き合いである。そのような切っ掛けになる新聞記事があったのは、同じ指揮者インゴ・メッツマッハーである。これは20世紀の音楽も得意にしていてアンサムブルモデルなども指揮していたので、誰もがリベラルな音楽家として疑わない。ベルリンの演奏会で、プフィッツナーとこともあろうにリストの前奏曲を前後のコンサートで取り上げて十分な釈明が出来ていないというものだった。その方の組織ではリストアップされているに違いない。その他過去の人では歌手エッダ・モーザーなども明らかにこの範疇に入る先導者である。

そのティーレマン指揮の演奏会には人が入らなくなった。エルブフィルハーモニーでは当日まで前売り券が出ていた。戻り券かどうかは分からないが、ラトル指揮ロンドン交響楽団などではそうした余剰券がそもそも存在せずありえない。そして同じ興行師プロアルテが扱っていて、なんと驚くことに224ユーロも徴収している。同じ時期にベルリナーフィルハーモニカーをネゼセガンが指揮してもまともに興行すれば180ユーロほどしか請求されない。興業師の儲けが如何ほどかは直ぐに算出可能だ。「広告費や手間などを掛けなければ君たちの演奏会など誰も来ないよ」と、彼らに言わせたらこうなる。つまり売れ残るのは当然かもしれないが、それでもラトルの指揮や知名度にはそれなりの価値があるのだろう。

エルブフィルハーモニーも一巡二巡したので、通常の売れ方の近づいてきている。偶然にもティーレマン登場の後はNDR管弦楽団を振ってメッツマッハーが出る。NDRは「ユダヤの小さなグノーム如きで、アルベリヒのようだ」と、ペトレンコを散々侮辱したが、なにかハムブルク周辺にはその手の根が蔓延っているのだろうか。街の印象では昔からそのような感じはないのだが、南と比較して根暗で開放的な感じは薄く、丁度大阪のおっさんが笑いながら反対の方向に指して道を教える雰囲気に近い。シュピーゲル社の本拠地でもあるSPDの牙城だが、長期低落傾向の左派の虚飾のようなものをそこに感じる ― まさしくそれがAfDを育んだ。



参照:
ドレスデンの先導者 2018-08-29 | 歴史・時事
ふれなければいけない話題 2015-06-29 | マスメディア批評


# by pfaelzerwein | 2019-02-07 22:24 | マスメディア批評 | Trackback

省エネ電気使用通信簿

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昨年度の省エネ電気使用通知簿が来た。その結果から何を学ぶか?先ず結論からすると○である。前年度が1845kWh なのに対して1707kWhで押さえている。恐らくここに住むになるようになってから最も電気消費量が少ないに違いない。それも二十年前からすれば半分以下ぐらいか。これが何を意味するか。

なにが前年比で変化したかを見ると、消費が増えた方ではミニノートブックを常時駆動させ、同時にUSB-DACの駆動時間も伸びた。留守録する時などは点けっぱなしになることもある。だから増加は覚悟していたがこれだけ減少したのには驚いた。しかしそれも最後の四半期だけなので要素としては限定的だ。更に六月からはルーターが二機になったのでこれも増え、更に最後の四半期はNASストレージがほぼ常時稼働になった。その他の増加分は殆ど無いと思う。

一方減少したのは、掃除を手伝う人が病気になってからアイロンが飛躍的に減った。洗濯の回数もシーツなどのそれが減った分若干落ちたかもしれない。これだけで1000kW以上も減少させられるならばその使用量を今後監視しなければいけない。同時に掃除機の使用も減ったので、これらの電化製品の使用量が上に当たるのだろう。だから差引を考えれば、減少分が各々の機器の電気容量差で数十倍以上なので、それが年間使用量で三分の一減少したとすれば増加分は完全に呑み込んでしまったことになる。逆に増加分はそれ程大きくはないので、やはり減少を今後とも工夫していかないといけない。次に購入の洗濯機は省エネを進めるかもしかない。

全体として標準な数値に近づいてきているので、仕事場としてもまたオーディオ機器も付けっぱなしで使っていることからすれば大変優秀だ。あれだけの消費をしていた私が、連邦共和国の始末な社会で標準に近づいてきているのは驚異的だ。夜も必要な照明は灯されており、早寝をしている訳でも全くない。オーヴンも週に二回ぐらいは使っている。冷蔵庫も四半世紀ほど使っている。全く省エネ製品ではない。省エネ製品は二つのモニターとPC類ぐらいか。ああそうか、そのPCのHDDをSSD化したことで、増えたNASストレージの電力消費を大分相殺しているかもしれない。NASは、常時点灯していても、HDDのように頻繁に動かない。意外に環境に優しいかもしれない。

一月以上遅くなったが、あまり誰も内田光子の数えの古希のお祝いを呟かない、だからそのクリスマス前の新聞記事を紹介しておこう。自分も忙しく特別なファンでもないので中々目が通せなかった。ルクセムブルクのリサイタルなども券が余っていて気になっている。近ければ行くが、それも何か面白いプログラムなら出かけるが内田のシューベルトには遠過ぎる。レヴィットのリサイタルでも一時間を超えて出かける気はしない。前回はルジュェスキーとのジョイントだから出かけた。内田の協奏曲はシェーンベルクやモーツァルトも聴いた。

新聞はそのピアノは、人の耳を澄ませて今までに経験したことの無い聴体験に導くものだとしている。そして正確なリズムは、小さな減速やメトロノーム上の加速において、とても強い表現力とするもので、その明白さを評価する。こうした音楽家は、「内面的な音が貧しくなるほど大きな音を立てる」ということを知って、こうした静かな音を奏でる音楽となるとしている。

モーツァルトへの志向はフィリップス社が推したもので、同時にシューベルトは取り上げていたがとあり、同時にショパンとドビュッシが挙がっている。ヴィーンでのピアノの先生がシェーンベルクとヴェベルンの弟子であるリヒャルト・ホイザーと書いてある。どこかで名前を見たような気がするが思い出せない。個人的にはシューベルトはブレンデルがあったので関心を持たなかったが、モーツァルトは内田に匹敵する演奏はあまり思い浮かばない。ショパンのチャンスがある様だったら今頃内田の録音を買い込んでいたと想像する。



参照:
Nicht nur Schmeichelei, Ein Wienerin aus Japan, Clemens Haustein, FAZ vom 20.12.2018
フクシマ前消費の半分へ 2017-01-29 | アウトドーア・環境
尽きそうな節電の可能性 2018-02-08 | 生活


# by pfaelzerwein | 2019-02-06 21:15 | アウトドーア・環境 | Trackback

「キリルと高度に一致」

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パン屋から出てくると地元の公安局の人が話しかけてきた。店の前の歩道には乗り上げるなということで、やはり地元の人から苦情が出たのだろう。道路を狭めて駐車するということになる。それ以上に放射冷却の通り、バイオウェザーの影響で15分ほどの乗車時間に五回ほど事故が起こりそうになった。どれも皆が意気っていて不注意と陽射しの強さに集中力が無くなっている状態だった。さぞかし今日は事故多発しているに違いない。このような日は運転しないに限る。皆が狂っているので避けようがない。

バーデンバーデンの新支配人スタムパへのインタヴュー記事がバーデンの新聞に出ている。そろそろ徐々に語り始めないとプログラム発表になってしまう。幾つかの点で興味ある発言をしている。先ず個人的な音楽の繋がりとしてベートーヴェンのLPに言及していて、リヒテルにクルト・ザンデリンクが付けた三番ハ短調の協奏曲だ。これだけではなんら意味はなさないが、偶然にもランランが弾いて初共演のペトレンコが振る予定だった曲だ。偶然かもしれないが、更に重要な発言をしている。

「演奏者を含む芸術家との対話に尽くしていて、私たちはバーデンバーデンではベルリナーフィルハーモニカーと協調が大変幸運だ。オペラ界からの人とペトレンコがフィルハーモニカーを率いることになる。内容的に何をするかについてはキリルと私の間で高度な一致を見ている」と話す。

これはどのように読もうが可成り立ち入った言い方をしている。先ず呼び捨てしていることからも当然ながら今までの準備期間で二ケタ回は会談若しくは打ち合わせをしているということだろう。もう一つ注目したいのは、オペラ界からの人がフィルハーモニカーにも影響を及ぼすような言い方だ。勿論演出家である訳だろうが、そこまで立ち入る演出家って誰だろう?クリーゲンブルクならばそこまでは前に出ない。管弦楽にまで影響を与えそうな演出家は?確かに論外としてもミュンヘンの「フィデリオ」の演出も可成り音楽に影響を与えるものだ。そして歌手からのフィードバックも受けているような話しぶりとすると、私が知る限りクラウス・グートぐらいしか思い浮かばない。彼の演出は、表面上は穏やかそうだが、実際は音楽的にもかなり影響するだろう。

しかし質問は、「歴史的上演若しくはレジーテアター、名作オペラそれとも新作?」で、それには直接答えずに上のように反応している。勿論芸術家には作曲家や作詞家も含まれるが、そこに演出家らしきが入るとなると全く答えにならない。初めからリームの新作などということは今までのこの復活祭からしてありえないので、レジーテアターの方へ傾倒するということだろう。そこで昨年のペトレンコのインタヴューを思い出そう。

そこでペトレンコは演出に合わせた演奏にも言及していて、可能性があるならば自身で何時かやってみたい気持ちがあることも語っていた。謂わば既にプロジェクトが動いていて大物演出家と対話があったとみるのが自然ではなかろうか?スタムパの方は今シーズンから浪人をしていて実際には、今までコンタクトの薄かったオペラ界の人材とコンタクトを取り始めていた筈だ。

その次の質問「ドルトムントの聴衆はバーデンバーデンとは違う訳で、考えを転換させなければいけないか?」に、「ここの方が多様性が拡大して、どのように聴衆に語り掛けるべきかが問われている」として「どのプログラムで」と答える。「その遺伝子が助けになり、音楽家を引き寄せるように聴衆をも引き寄せるバーデンバーデン。」となる。

もうここまで聞けば、前任者とは知的程度も全く異なるのは分かるのだが、実際にどのような判断を下してくるかは分からない。そもそも前任者は同じ知能程度の指揮者に推されるような支配人だったが金儲けは上手かった。だからそのゲルギーエフの貢献はここでも評価していて、これも私と同じだ。

もしここに示唆されているベートーヴェンの「フィデリオ」を入れてみると、グート演出なら丁度いい具合に新しく尚且つ名作を上演出来る。気になるのは、ミュンヘンが今シーズンの「フィデリオ」最終公演として、先があるかのように書き加えたことで、そうなると誰が指揮しても主役二人はミュンヘンに留まることになる。復活祭には三年前にバーデンバーデンでも歌ったようにマルリス・ペーターセンのレオノーレはどうだろうか?可成り画期的な上演になる。さてどうなるか?



参照:
Interview mit Benedikt Stampa: Exklusiv, ja. Elitär, nein!, Badische Neueste Nachrichten vom 4.2.2019
都市文化を再考する 2019-02-05 | 文化一般
邪魔になるZDFクルー 2018-11-07 | 文化一般
 

# by pfaelzerwein | 2019-02-05 23:43 | 文化一般 | Trackback

都市文化を再考する

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ミュンヘンからの帰路は早かった。街を出るのに再び遠回りした。ナヴィに打ち込んでおかないと駄目だ。それが無ければ久しぶりに三時間を割ったと思う。途中飯を頬張ったりお茶を入れたり、室内灯を点けて走行車線をゆっくり走り、コップを助手席の奥から拾うのに苦労したり、セーターを着たりでくつろぎ走行だったが、なぜか平均速度は110㎞を超えていた。嘗てザルツブルクからの帰りに時速140㎞を出して500㎞を四時間以内で帰宅したことがあった。しかし最近は交通量が違って夜中でもあまり飛ばせない。しかし久しぶりの土曜日の夜はトラックがない分空いている。冬タイヤの制限があってもしばらくは時速210㎞で巡航を何回か出来た。それでも燃費もそれほど落ちなかった。やはり空いているのが一番で、そして省エネ走法をここ暫くミュンヘン往復で練習してきたので、新車を買えばもっと早く走れる筈だ。先数キロの道路状況と制限速度を予め情報入力して、ハイテクハイビームを加え、新しい眼鏡を買えば間違いなく帰宅が早くなる。

なによりも今回は零時過ぎ頃の降雪が予想されて、それも二三時間予想よりも遅れたことから、無風の乾いた中を快走した。それでも予定通りチューリッヒの方に向かっていたら大変なことになっていたかもしれない。ルイージが降りてくれたお蔭である。35フランぐらいの寄付はどうでもよい。イタリア人指揮者は、亡きアバドを含めて、今後ともあまり信用しないようにしたい。お勉強代である。その点ムーティは結構堅いなと思う。

今回はカーテンコールに最後までいたので車を出したのは21時20分前だった。バイバイの後でももう一度引き出し、回数も多く「タンホイザー」に次いで長かった。昨年の冬の「指輪」はお誕生日式典があったので長かったが、繰り返しの数は少なく、今回は「タンホイザー」の時よりも残った人が多かった。特に淡白な平土間席も多く、その時点で後の回数は、会場の係りの人と同様に、略予想が付いた。結構頑張っていたのはバルコンの上あたりで、通常はあまり数がないが、おばさんが固まっていたのでカウフマンファンかとも思ったがそうでもなかったようで、ご本人の視線もあまりそちらには向いていなかったようだ。天井桟敷は数人の根暗の若目の男性や結構年配の女性も粘っていた。出し物の「フィデリオ」も新制作の初日シリーズではないので客層も少し違ったかなと思った。初日シリーズに比べて少なくともペトレンコ指揮のそれにはあまり慣れていない人もいるようで、あれだけ出てくるのを知らなかったような人が戻っても来ていた。

斜め後ろには27日の券を公式サイトで買って貰って、更にバレーの券まで買い上げて貰ったおばさんがいた。休憩中に若い女性と話していた時に捕まえて再会の挨拶をした。妹さんが券を使って感動していたということで、「初日からまた練ってきていてよかった」と話した。バレーも本当に喜んでいた。88ユーロの席を20ユーロならば、それは価値があっただろう。一寸した「テアターゲマインデ」である。流石にミュンヘンは、詰まらないところで声を上げる爺さんもいれば、やはりその層が分厚い。当日も娘さんを連れた親子連れもいて、新制作シリーズとは異なる普段着の聴衆も多かった。

マフラーを取りに行った通用口の窓口でも確か劇場で見たようなおばさんがいた。東欧系の人の様だったが楽師さんの関係かで券を取りに来ていたようだがすんなりと行かないようだった。あれだけの層が厚くて人数がいても何となく見かけたような人が増えてきた。これも平素の再演だからだろうか。マンハイムなどの雰囲気を知っていると本当に羨ましく思う。中からは舞台でも挨拶するアーティストマネージャーの女性も出てきた。あれが都市文化だ。世界に誇るだけでなくて、その文化都市の中での芸術的な営みが違う。バッハラー支配人が語るように、「そのもの」を求めて訪れる聴衆の文化共同体である。

会場係のオヤジさんが、この人ともなにかを話した覚えがあるのだが思い出せない、車いすの婆さんの場所を確保するために特別に動いていたが、「ヨーナス・カウフマンを聴きに来ましたか」と婆さんに話しかけて、「僕も聴いたけど、良かったよ」と語るのだ。ああいう人が結構詳しいのだ。そして初日シリーズには王家もやってくる。劇場の前にはプロの物乞いも時々機嫌よさそうに話しかけてくる。

近代劇場文化も都市文化の一つであり、恐らく食文化などもそうだろう。以前は高級コンディトライやデリカテッセェンなども消費文化の一つでしかないと思っていたが、少し違う面も見えてきた。いつものようにダルマイーアでトルテを購入しようとしていると、いかにも外国人労働者風の痩躯の中年男性と八歳ぐらいの娘がガラス越しにトルテを眺めていた。どれにしようかと選んでいるのだ ― それがまたあの有名なユダヤ人収容所映画La vita è bellaの主役のお父さん似なのだ。その外見だけでなにか心打たれるのだが、どうぞ先にと待とうとすると、「先にどうぞ」とこちらに譲る。娘にゆっくりと選ばせたいのだ。そしてこちらの勘定が済む頃にもう一人の店員が対応するのを見ていた。なぜか「ナッツがそのまま入っているのか」に拘っていた。店員は「クリームですよ」と答えた。なぜかなと思って様子を窺がっているとそのロベルト・ベニーニと再び眼が合った。「やっぱりほら歯に、分かりますよ」と想像して話しかけた。こちらはそうなるともう空想が止まらない。大きなトルテもそれほど高くはないが、それでも家族で一食を賄えるほどの価格になり、晴れの日感は間違いなくある。きっと娘の誕生日か何かにおばあちゃんが訪ねてきていて、その婆さんが入れ歯をしているのだなとまで考えてしまった。こういう光景が街角で違和感なく普通に見られるのも大都市だからで、マンハイムにはない。観光客ばかりの街でもない。こうしたものも含めて都市文化であると理解するまでにそれほど時間は掛からなかった。



参照:
MeToo指揮者に捧げる歌 2019-02-03 | 文化一般
ハムブルクの夜の事 2019-01-30 | 女


# by pfaelzerwein | 2019-02-04 23:54 | 文化一般 | Trackback

MeToo指揮者に捧げる歌

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ペトレンコ指揮「フィデリオ」再演は書き尽くせない。もし私が楽曲を暗譜していたら、一冊本を書けていただろう。初日と最終日は全く異なっていた。乗っている奏者の相違も明らかで、特にオーボエの山賊兄などには心配したが、どうして見事にこなしていた。そして一幕に関しては軍配は最終日に上がった。二幕は冒頭に詰まらない演出に残念にもヤジが飛んで緩んでしまったので迷惑至極だった。カウフマンの折角の歌唱も初日とは比較にならない普通の出来だった。PAの轟音とともに舞台装置が動く間に我慢できない爺さんがいて声を上げた ― 丁度クリーゲンブルク演出「ヴァルキューレ」三幕前のような塩梅だ ―、上から見ていたのでよく分かったがグリーンラムプが点くと振り始めるようになっていて、タイミングが非常に悪かった。カウフマンファンは爺さんに賠償を求めるべきぐらいである。だから最後のフィナーレのプレストモルトで限界まで加速しても効果が薄れた。あれは幕開きから最後までを一挙にもっていかないといけない。何度も言及しているが掛け声とか何とかは余程タイミングが合わないと間が抜けたものになり、特に音楽の場合は致命傷になる ― コンサートの最後の音の余韻とか言っているような程度ではお話しにならない世界である。

しかしそうしたテムピの配置だけでなくリズム的なアクセントなど、初日には出来ていなかったことを山積みしてきていた。キリル・ペトレンコは新制作初日やマイクが入ると決めてくるが、オフ録の時は色々なことを試してくる。それがオペラの場合は、外的な事故とか歌手の不調とかと不可抗力として、その職人的な技量を示しているかに見えるが、再演のベートーヴェンに関しては明らかに初日には出来ていないことを可能な限り出してきた。冒頭に書いたように、逐一指摘すべきことは沢山あるだろう。しかし録音がないと難しい。

そこで先ず留意すべきはその楽器配置である。殆どこのところ原理主義かのように伝統的独対抗配置を取ってきたのが、ここに来て通常配置を採用している。勿論その楽譜からの判断であり、冒頭のレオノーレ三番のコーダのカノンからして抜群の効果が上がる。対抗配置にする価値よりも音響的にも合わせ易く合理的ということなのだろう。そのことは初日におけるアンサムブルにも表れていて、課題と対策が様々に試みられているということでしかないだろう。

それゆえに特筆しなければいけないのは一幕における見事な音楽運びだ。フルトヴェングラーの「レオノーレ三番」を往路の車中で聴いた。その指揮は殆ど狂ったようなクライマックスとなっていたが、懲りずに聴いたベーム指揮の第一幕の大雑把には代えられない。私が言いたかったのは、勿論フルトヴェングラーのテムピやアゴーギクがペトレンコ指揮に似ているというのでは全く無いが、楽聖の音楽の本質的な要素としてのその音楽構造と楽譜の読み方そして演奏実践における共通項である。それが顕著になったのは一幕で、恐らく最終日の一つのハイライトだったレオノーレのレチタティヴとアリアで、ホルンの妙技も特筆されるべきだが、カムペがあれほどオペラティックに歌えたのもその指揮運び以外の何ものでもなかった。カムペの名唱でもあり、バイエルンの音楽監督として記録として先ず「影の無い女」を挙げられるのに対し私はここのこれだけで超一流のオペラ指揮者としてのペトレンコを記念しておきたい。

カムペ自身が語っていたようにあまりにも器楽的に書かれているために、オペラ的な歌謡表現がままならず、恐らく今までこれほどまでに上手く行った演奏は無かったのではなかろうか?名録音もあるが、トスカニーニにしろ、マーラーにしても、歴代の名指揮者もこれを解決するのはとても難しかったと思う。私がどんなに「ペトレンコはオペラ指揮者でない」と強調しても、こうして歴史に残ってしまう。そのような指揮であり、ここでの試みと成果が、ベートーヴェンの演奏として夏まで繋がっていくと確信する。なにもフルトヴェングラーが楽聖の交響曲を狙い撃ちにして自らの音楽演奏実践の素材にしたのではないということだ。

カムペの昨年一月の「ヴァルキューレ」と並べられるような歌だけでもって、このオペラがそしてこの再演が精彩を帯びてきたわけではなかった。先ず冒頭からヤキーノがマルツェリーナに襲い掛かる場面はもはや初日シリーズ指揮のMeToo指揮者ガッティを思い起こさずには観ておられず、ミュラーの歌に迫真性を加えた。彼女にとってもとても大きなステップアップになりそうな歌唱だった。これだけで私などはスケベ心をくすぐられ、舞台にワクワクしだした。

札束を入れたアタッシュケースを持った立ち振る舞いのロッコを歌うグロイスベックのアリアにも感動させられるなど状況は一転する。そして、ドンピサロとのデュエットなどややもするとお決まりの流れが急に劇の中で意味を持ち始める。そして歌詞にも細かく音楽が付けられていると同時に、既に触れたようにレオノーレのアリアが二幕でのフロレスタンのアリアに対照するように綺麗におかれているような大きな音楽構造も明らかにされてくる。器楽的なオペラであるそうした側面が、初めてオペラとしての表現、つまり手の込んだミクロの音楽構造表現として開花するときにこそ明らかになってくるマクロの音楽構造である。(続く)



参照:


# by pfaelzerwein | 2019-02-03 21:48 | 文化一般 | Trackback

疲れを残さない足跡

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足に雪の疲れが残っていた。大したことはないが一寸した張りが動機付けになる。もう一息と峠を攻めてきた。積雪量が増えていて、確実に10センチほどの積雪となっていた。上から降りてくる車がのろのろしていると思えば先日の犬を探していた小屋のオヤジだった。こちらが通り抜けるのを待っていた。余程下りのブレーキに自信がないのだろう。挨拶して通り過ぎる。歩幅が歩行程にしか伸びない。雪の上で踏み込むよりも轍の堅めのところが楽だった。

喉にも違和感を感じたりしたので慎重だが、これで先週からのノルマに短い一本が足りないだけで来週を迎えれる。要するに短い一本ぐらいは天候さえよければ幾らでも余分に走れる。今晩も足に疲れが残るかもしれないので湯船で温めて就寝しよう。

今日中に燃料を満タンにする。価格は前回ほどで入れられるだろう。まだ少し残っているので、平均すればまあまあだ。エンジンオイルも少し足しておこう。窓洗浄の水も少し足しておこう。次までは少し時間が空くので、先ずは何とか無事に往復したい。

色々と日程などを考えているうちに、早々と2020年のカレンダーを印字した。既にいくつかの日程が書き込まれた。この夏のミュンヘンのオペラの配券作業が始まった。順番に開けていくことは分かっているが、「サロメ」初日に売り切れが出た。二日目から四日目までも変わらない筈だが、まだ作業をしていないということか?同時に「オテロ」も二日とも「マイスタージンガー」は一日のみ売り切れになっている。一般的に初日シリーズの翌年の今回の「オテロ」は人気が高い。双方ともヨーナス・カウフマンという売れっ子が出ることでは変わりないが、その相違は再演の数によるかもしれない。更に昨秋にカウフマン無しで三回公演があったので、その分人気は落ちる。

それでもどのようにこうした売り切れの差が出るのか?一つには初日の場合はプレス席などの非売席も少なくなくその需要も読めているということかもしれない。順々に開けて行って、残っているという他の日も順々に売り切れになるのか、それとも本気でまだ購買希望者を募っているのかはよく分からない。少なくとも、売れ行きは読める筈なのだが、券の種類によって出方が変わるのかもしれない。

数学的に自動で配券してしまうことも可能で、どのように作業をしていくかも、数学的に作業効率を計算できる。弊害になるのは、アナログでの注文でそれを一度デジタル化しないといけないことである。また第一希望第二希望をどのように活かしていくか?若しくは、付随のコメントをどのように活かすのか?アルゴリズムの作成と同じように作業が進んでいる筈だ。

明日のお勉強に久しぶりにレオノーレ三番の楽譜を開けてみた。ペトレンコ指揮の演奏は大変興味深く、管と弦のバランスだけでなく、フルートとオボーエ、ファゴットの関係も金管との関係もとても興味深かった。幾つかYouTube音源で確かめてみる。期待していたメスト指揮のヴィーナーフィルハーモニカーの2015年の演奏はよくない、そもそもこの組み合わせは相性が悪いようで、ベーム指揮のそれとは比較にならない。これは演奏様式とかではなくて、座付管弦楽団がまともに演奏していない。その他、フルトヴェングラーなどもう少し聞いて確かめてみたいと思う。あの下らない演出のお蔭でこの曲を堪能できるのだけが幸いだ。

フルトヴェングラーの演奏を聞くとその正確な譜読みとその指揮に感心する。先に前回の旅で書いていなかったことを記しておく。記憶が錯綜するのも嫌なのと最終公演の後では最初から説明したり後出しのようになるかもしれないので、道中に聞いた録音に絡めて書いておこう。ドナーニ指揮の録音を準備したことは書いたが、結局それが退屈でベーム指揮の方へと移った。そして胸が騒ぐのを感じた。しかし当日の公演では全く異なる演奏となっていて、予想通りドナーニ指揮に近かった。しかしフルトヴェングラーの演奏を聞くと、寧ろこの演奏の方に音楽的な近親性があって、ベームの指揮演奏が、まさしくこの演出でそのドグマティックなものが批判されているそのものナチのイデオロギーに近いかことを改めて確認する。そして今回の演奏の細部とそうして管を軽妙に浮かした演奏法こそが戦後世代のドナーニなどがなせなかった演奏様式で、バレンボイムもこれを羨ましく思うだろう。そしてそのような演出に合した今回の再演だったのだ。この幕開きの最初のセリフからレオノーレ三番の序曲が文字通り今回の再演公演の全てを物語っている。恐らく、ペトレンコ指揮でこの座付管弦楽が最も立派に音楽芸術的に演奏した序曲だった。



参照:
残り二新制作作品のみ 2019-02-01 | 雑感


# by pfaelzerwein | 2019-02-02 01:29 | | Trackback

残り二新制作作品のみ

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昨日の雪がさらに増えた。もうこうなると無視して走るしかない。気温は低く安定しているのでサクサクとクラストしていてそれほど走り難くはなかった。沢沿いを走っただけなので高低差はあまりない。だからそれほど足元の不自由はなかったのだが、ゆっくり走行しても通常以上のエネルギーは使った。汗も掻いた。土曜日までにもう一走りしたい。

ミュンヘンも金曜日から土曜日に掛けて危険な状態になるようだが事故が起きるなら先に起きてしまうだろう。夕方までにすべてが解決されていればよい。但し雨量があるので、雪になるとやはり積もる。何よりも有難くないのは帰宅のアウトバーンでのホワイトアウトである。

土曜日の準備にレオノーレ三番の楽譜を落とした。序曲にフィデリオ序曲しか準備していなかったからだ。手元にある楽譜と比べてみる。どこまで初日の記憶を呼び起こせるか。

18時始まりで初日より一時間早いので、帰宅は一時間以上早く、道路状況さえよければ12時半前には帰宅可能な筈だ。但し出来れば一時間前からのガイダンス、マフラーを取りに行くのと、更に週末の買い出しミュンヘンで済ませるとなると、駐車場には16時前には入れたい。つまり、11時には出発しないと危ないかもしれない。

六月の新制作「サロメ」の券を発注した。籤引きになるのでどうなるかは分からない。今回は、もともとタイトルロールを歌うマルリス・ペーターセンの希望で取り上げられて、僅か四回しか上演されない。短い作品であり、新たな透明性の高いオーケストレーションの版を使うというのだが、どこまでキリル・ペトレンコが指揮する価値があるかも若干疑わしい。言えることは、この楽劇がミュンヘンの歌劇場の十八番で、鼻歌交じりに演奏される程度のものであるということだ。だから、通常は六回公演なのを四回にして手短に済ませる効果もある。初日の放送と三日目のストリーミングである程度分かるというものだが、やはり生でも聞いてみたくもある。少なくとも下位の座席を一日掛けて並んで購入するほどの価値はないと思う。

籤引きの当否が決まるとミュンヘンでの来シーズンのプログラム紹介があり、バーデンバーデンからの情報が徐々に出てきて、ベルリンの新監督就任の恐らくお披露目を兼ねたプログラム発表があり、バーデンバーデンでのスーパーオペラが話題に上ると一挙に話題がミュンヘンから他所へと移る。

2020年4月初中旬がバーデンバーデン祝祭となる。そこで初めてペトレンコがスーパーオパーを指揮する。その頃、カウフマンが「トリスタン」をボストン響と歌う。つまり、そこまでは本公演がなく、早くてもオペルンフェストで新制作初日若しくは2020年秋になってからとなる ― 2020年5月11日、13日のアムステルダムでのマーラーフェストツアーが既に発表済み。2020年秋に2019年秋に続いて、演奏旅行に帯同しないということがあるだろうか?2019年ジルフェスタ―公演は休めないとして、2020年ヴァルトビューネがどうなるか?2021年はもうオペルンフェストしか指揮しない。それも再演だけだろう。

2020年オペルンフェストの「トリスタン」、その前にバーデンバーデン、ヴァルトビューネは二年続けて代役。すると、全ての日程はここ二三か月中に全て発表される。バーデンバーデンは「フィデリオ」ならばあまり準備期間は掛からない。演出家は?

しかし「サロメ」初日シリーズが四日しかない意味は?一つは他の指揮者による再演が次のシーズンの冒頭にある場合だろうか。若しくは2021年のオペルンフェストに再演となる。そこで、「トリスタン」再演と二本立てとなる。勿論2021年ヴァルトビューネでの指揮でベルリンは夏休みに入る、その後である ― その前5月16日のライプチッヒでのマーラフェスト参加などは発表済みだ。因みにバーデンバーデンは4月初めとなる。

そうなると、2019年秋の新制作はなにだ。手兵の日本公演をメータの手に授けてまでの新制作準備とは。現在までの新制作は、(「イエヌーファ」)、「ティート」、「ディゾルダーテン」、「影の無い女」、「ルチア」、「ルル」、「サウスポール」、「マイスタージンガー」、「レディーマクベス」、「タンホイザー」、「三部作」、「パルシファル」、「オテロ」、「サロメ」となって、順番からするとロシアものだ。そして「トリスタン」で終結。「サロメ」をミュンヘンのアンサムブルの集大成と語っているのも示唆している。



参照:
PTSD帰還士官のDV 2018-12-03 | 文化一般
飛ぶ鳥跡を濁さずの美 2019-01-25 | 音


# by pfaelzerwein | 2019-02-01 07:43 | 雑感 | Trackback

索引 2019年1月

ジーンズを返品する訳 2019-01-31 | 生活
ハムブルクの夜の事 2019-01-30 | 女
州立歌劇場でアニメ鑑賞 2019-01-29 | 文化一般
音楽劇場の社会的な意味 2019-01-28 | 文化一般
ミュージカル指揮の意味 2019-01-27 | マスメディア批評
週末に考えること 2019-01-26 | マスメディア批評
飛ぶ鳥跡を濁さずの美 2019-01-25 | 音
ベーシックな生活信条 2019-01-23 | 生活
覚醒させられるところ 2019-01-22 | 文化一般
音楽芸術の啓蒙思想 2019-01-21 | 文化一般
問われる継続性の有無 2019-01-20 | 文化一般
移り行く明日への残像 2019-01-19 | 文化一般
玄人らしい嫌らしい人 2019-01-18 | 音
独に拘るシューボックス 2019-01-17 | 文化一般
そこに滲む業界の常識 2019-01-16 | 雑感
リューネブルガーハイデへ 2019-01-15 | アウトドーア・環境
意表を突かれた気持ち 2019-01-13 | 音
歌劇とはこうしたもの 2019-01-12 | 文化一般
エルブフィルハーモニ訪問 2019-01-11 | 文化一般
お見事な司会進行 2019-01-10 | 文化一般
ルクセムブルクへ一走り 2019-01-07 | 生活
売り時にオファーした 2019-01-05 | 生活
マグナカルタの民主主義 2019-01-04 | 歴史・時事
貧相なエンタメを嘆く 2019-01-03 | マスメディア批評 CM9
ヴァルツァーの躍動感 2019-01-02 | 文化一般
花火を打ち上げる奴 2019-01-01 | 暦

# by pfaelzerwein | 2019-01-31 23:03 | INDEX | Trackback

ジーンズを返品する訳

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暫く寝かせていたジーンズを送り返すことにした。理由は色合いだ。少なくとも私のモニターで見た色と現物では差がある。私などは色合いの細かなところに無頓着な人間だが、最近は気になることが増えてきた。今回のジーンズも現在のものがそれ以前のものと異なって濃いブルーだったので夏に使い難いことに気が付いた。冬場は寒さは無いのだがそれでも軽さがあった方がよいことが多い。そこで適当な色を購入したのだが、前回のものとほとんど変わらなかった。

勿論返品にはその理由を敢えて書いてあげた。商業的にも今後の大きな参考になる筈だ。そもそも私が購入してから数ユーロも安くしているのも許せなかった。現行のもののように最安値で購入していたならばまだ諦めがつく。今回発注したのは1%ウレタン入りだったのでその手触りを見れたのは価値があった。やはり出来る限り純綿を選びたいと感じた。

朝目覚めると、部屋の中が明るい、寝坊したのかと思うと、雪が乗っていた。夜中に寝つきが悪かったのも気圧が変動したからだろう。即パン屋は断念だ、毎日走る心算で早起きの予定だったので、二度寝になった。さて明日は取り返せるか?

そろそろ週末の準備だ。先日劇場で忘れたマフラーは見つかっているようなのでフィデリオ最終日公演前に取りに行く。また新しい事務室に出入りするようになる。またまた劇場の中の様子に詳しくなる。

部屋着にしているシャツの襟元が破れてきた。洗濯をしてもしないでも結果はあまり変わらないらしい。一度洗濯してもう一度着れるかどうかぐらいだろうか?次に下ろすシャツは決まっている。二年ほど前に卸してから年初めのハムブルクまで着た。合わせるのが難しいストライプだったので十年ほど前に安く入手したが、袖を通すまでに熟成した。それだけ外出着に使うとは思っていなかったが、一度目立つとその次もと思って結構使えた。普段着に卸してまた二シーズンぐらいは使えるか。

月末である。クレディットカードの一つが落とせなかったので一時封鎖とあった。またスパムメールかと思ったら本当だった。買い物の時に間違ってそのカードを使ってしまっていたことを忘れていた。週末使う予定だったが、他のでも使えるように準備しておこう。

今夜中に纏めて準備しておかなければいけないものもある。散髪も断念して、先ずは体調を崩さないようにこの週も乗り越えたい。



参照:
新しいシモンのパンツ 2017-08-30 | アウトドーア・環境


# by pfaelzerwein | 2019-01-31 00:06 | 生活 | Trackback

ハムブルクの夜の事

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久しぶりに峠まで走って下りてきた。先週末に為せなかったから日にちが開いた。開くと不安になる。寒さが緩んだが、それでも山道は薄く白いものが残ったままだ。峠に近づくと雪の上を走った。それでも気温が摂氏二度まで程で低い方で安定しているため凍っていないのがよかった。ゆっくりしか走れなかったが、下りてきたら汗を掻いていた。先ずはそれでよい。週末土曜日は外出でまた走れなくなるので、その分まで走ろうと思えば毎日休みなく走ることになる。無理をする必要はないが、気持ちが上向くかどうかだけである。

先日注文したジーンズと靴ベラをようやく開けた。一週間ほどおいていた。開けてみるとネットの写真よりも青かった。返品しようかどうか考えている。中々ネットの写真と実際の色が合わない。もう一度陽の下で見てから判断しよう。

靴ベラは今までは航空会社のおまけについていたプラスティックを使っていたが、先日無理に捻じ曲げて折ってしまった。家には金物の長いものを置いてあるが車に一つ置いておかないと不便なことが多い。そのために購入した。こちらは思ったよりも大振りだったが使いやすそうだ。

先日ミュンヘンの帰りには、行きに見当をつけていた道路の名前をナヴィに入れると行きと帰りを同じ経路で街を出入りできた。具体的にはアウトバーン八号から旧市街への経路である。旧市街へは、道標もあり、問題ないのだが、帰りはいつも迂回をさせられる傾向にある。過去から何十回と旧市街に出入りしているが今回のように全く問題なく脱出出来たのははじめてだ。その道路名もヴェルディシュトラーセでピッピングシュトラーセとの交差点を目指せばそのようにナヴィが導いてくれた。まだ何回も往復しないといけないので少しでも短絡出来るのは嬉しい。

ハムブルクの夜の事を書き忘れていた。劇場に入る前から気にしていたのは食事のことだ。初日はエルプフィルハーモニーのホテル内で済ませた。二日目の劇場は、街中なのだが、引けるのが遅い。これはこれでと探してもいたが、実際に下見をしてみると適当なところが見つからなかった。そこで劇場の案内のお姉さんに聞いてみた。というのはプログラムにイタリア料理が宣伝してあってその名もフォアデアオパーとかだったので、いいのかなと思ったからだ。そして聞いてみると、イタリアならば他にも横の筋を入って行けばあるよと教えてくれた。実際に探してみると中々開いているところがなかったのだが、駐車場の方に近いところにあった。

何を食したかはなぜかもう覚えていないが、そんなに悪いものではなかった。きっとサラダ類だったと思う。ビールを飲んだ覚えがある。記憶が不鮮明になるほど飲んだわけではないが、なによりも印象に残ったのは隣の机の若い女性だったからだ。それでもオペラ公演のことを忘れていないのはメモをしていたからに他ならない。しかし帰りには僅かなアルコールゆえかホテルへの道を間違って二十分ほど余分に走ったかもしれない。

何がそんなに興奮させたかというと、隣のテーブルでこちら側を向いて座っている彼女には直ぐに気が向いた。向かい側にこちら側に背を向けて座っている女性と喋っていたのはロシア語だとは分かるのだが、ウクライナ語との差は分からない。サンクトペテルスブルクのロシア女性とは暫く一緒に行動していたことがあるので何となく感じが分かり、またウクライナ女性も現に口説いているので、なんとなくその感じの違いを推測する。

そんなことでちらちらと彼女の表情を見ていたら、彼女がこちらのことを顎で指して、背中を向けている女性に伝える。一寸こちらを向いてというのがあって、更に耳を澄ませているとドイツ男性はという愚痴になってきた。そうだろうなと思って聞いていたら、店の者に「上に行くから」と言い出した。これは余程嫌われたかなと思って、凝りもせずに「上の方が気持ちいいかな」と立ちかける彼女に声を掛けたら、「どう、あなたもいらしゃいよ」と誘われた。

そう来るとは思ってなかったので「イヤー、それはありがとう」と重い腰を上げなかった。正直上の雰囲気も分からないので躊躇した。そして階段を上っていく彼女のお足もとを下から見るとなんとあの寒いのにミニスカートなのだ。これは気が付かなかった。最初からおみ足に気が付いていたら自制心無しに着いていくところだった。なにもチャラチャラした女性ではなく、ウクライナ女性に比較的あるような一寸知的な表情のある女性だった。横に掛けてあった彼女のコートも極真っ当な感じの学生のような装いだった。そして上階も出がけに見ると、彼女が階段の上でこちらに背を向けているのは、なんでもない健康なスペースだった。急に僅かなアルコールが回ったのを感じて店を出た。



参照:
歌劇とはこうしたもの 2019-01-12 | 文化一般


# by pfaelzerwein | 2019-01-30 04:05 | | Trackback

州立歌劇場でアニメ鑑賞

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オペラ劇場嫌いが、切っ掛けで、なぜかオペラ劇場に通う。車中のラディオが夜八時からイタリア人指揮者故ジョゼッペ・シノポリのシュトッツガルトでのアーカイヴを流すと広報していた。1996年頃だからドレスデンに行く前に頻繁にSDRの管弦楽団を振っていたようだ。その時の録音である。後に同地のリーダーハーレでシュツターツカペレを指揮してマーラーの六番を振ったのを聴いたので、その前の演奏だ。三番の交響曲が放送される。そのサイトを地元放送局のSWR2に探していたら、目についたのが、カールツルーへの劇場での新制作「エレクトラ」初日の大好評だ。

「エレクトラ」で、なるほど音を聞くとはっきりしたメリハリのある音が鳴っている。指揮者は小沢の弟子筋の英国人のジャスティン・ブラウンという人でもう既に10年も音楽監督を務めている。余程次の就職先がないのかどうかは知らないが、確かに座付楽団にしてはしゃっきと鳴ってるようにも聞こえる。指揮の技術はそこそこあるのだろう。東京の現音楽監督大野氏が振っていた時にも聞きに行ったことがあるが、当時よりもメリハリがあっても、良く聞くと大雑把な感じがしていて、総合的にはそれほど変わっていないとも思う。アングロサクソン系のノットとかあのあたりの指揮者の特徴にも似ているのだろうか。謂わば東京の国立劇場とどっこいどっこいの劇場だと思うがどうだろう?

そしてガラ公演の日として同じ制作でカスリーン・フォスターがヴィースバーデンから客演するらしい。もう一人は何とアグネス・バルツァである。まだ歌っていたとは知らなかった。その意味からエディト・グルベローバまだ陽が当たるところで活躍しているだけ ― あまりにお呼びが掛からないとミュンヘンに苦情していたぐらい黙っていない ―、流石に二人の間には差がある。何か写真もブロンドに染めていて昔の面影がない。これ以上触れると侮辱になりそうだから書かないが、音程のだら下がりの歌手や昔の名前の人に余分に金を出す人がいるのだろうか?これならば市立劇場のマンハイムの方がいざとなると大物が来る。と思って見ると4月7日にはカムペが「フィデリオ」を歌うらしい。価格を見ると42から103ユーロである。交通費入れてもその金額を出すぐらいならミュンヘンに行くべきだろう。勿論宿泊費までの差額は出ない。それでもA級州立歌劇場程度とは付き合っていられない。ハムブルクは流石に違った。そしてミュンヘンの243ユーロというのは自由市場価格として正しいのだろう。

しかしカールツルーへのバーディシェシュターツオパーの方は、なんと二年前にヴィーンでしか上映されなかったユヴァ―ル・シャローンのアニメを使った「賢い女狐」を上演している。ルクセムブルクまで二時間かけて行ってクリーヴランド管弦楽団でそれのアニメ無しのコンサート形式を聴いたのだが、アニメが心残りとなっていた。反面、ラトル指揮のベルリンのフィルハーモニーカー演奏とは比較にならないような上質の演奏を聴いたので、今更三流の音楽は「お耳汚し」になるだけだ。救いはドイツ語上演なのでニュアンスも大分変わり、不愉快になることはないと思う。日程などを見ていると、行けそうな日があって、調整卓の横で10ユーロの席に出かけることにした。なんといっても五十分でドアーツードアーで観れると思っていなかったアニメを体験できる。ノイズキャンセルで耳栓をしてみるわけにもいかないが、この価格なら少なくとも映画に行くつもりでと思って券を買っておいた。屋根の下で、視覚さえよければ文句がない。どれほどのワイド画面を体験可能か?音は隣で卓の空冷ファンが回っているぐらいが丁度よい。と言いながら音楽監督の腕も現在の管弦楽の程度もしかと見極めてくる。昨年のマンハイムよりもいいかどうか?

20時になって放送を聞こうと準備していたら、アメリカの放送局からティーレマン指揮のドイツェオパーベルリンでシュトラウスの前奏曲が流れてきた。芋のごった煮のような音を出していて強弱をつけたり何かしているようなのだがガタガタになっている。座付管弦楽団だからという程度ではない。あの程度の指揮者が「影の無い女」を振ったら何が何だか分からなくなるだろう。放送局も節操のないことをする。と思ってシノポリ指揮の放送管弦楽団を聞いていたら、二重リズムどころか初めからはっきりしない。最後までそのような感じでよくあれで最後まで演奏できたと思う。同じホールでのシュターツカペレドレスデンの第六も総奏になると濁っていて、あれは楽団の限界だと思っていたが、やはり指揮者の技術的な問題だったと理解した。それにしてもひどい演奏をしていたもので、昨年のボストンでネルソンズが指揮したものとは月と鼈だ。この二十年近くで指揮の世界に何が起こったか知らないが、二十年ほど前には室内楽の感覚では決して管弦楽の演奏精度を吟味できなかったが、今は超一流クラスの指揮者が超一流管弦楽団を振れば全く精度が違ってきている。



参照:
音楽劇場の社会的な意味 2019-01-28 | 文化一般
オペラとはこうしたもの 2018-11-12 | 文化一般


# by pfaelzerwein | 2019-01-29 21:26 | 文化一般 | Trackback

音楽劇場の社会的な意味

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#好きなオペラ10選の呟きを見ていて面白いと思った。交響曲とかなんとかだとお遊びでしかないのだが、劇場ものとなると関心が広がる。最初はその意味が解らなかったのだが自身で選んで更にそのリストを見ていると気が付くことがあった。あまり恣意的ではなく気ままにリストアップしていくのに、やはり劇場でその作品に満足したという条件を付けるととても容易に選択可能となった。これが決定的条件だったと自身のリストを見た後で気が付いた。

この手のリストを見ていて、その選択根拠とか趣向とかを推測するのが身についてしまっているのだが、その撰者固有のものであったり、それを取り巻く社会的な志向であったりもする。それがまた面白いところである。しかし劇場作品以外の音楽作品の場合はどうしてもその知識や思考が反映するだけで、あまり全人格的もしくは社会環境までを感じさせない。まさしくそこが劇場作品の本質である。

オペラ劇場嫌いを自認する自身のリストを見て、直接は関係ないが選択の前提となるその作品の劇場体験が複数であろうとも、その体験を思い起こしていくと、面白いことに気が付いた。意外にもそれら作品の劇場体験の裏にオペラ指揮の下手なサイモン・ラトル指揮公演が複数にも上る。ラモーの「レボレアーデ」にしても、彼が復興初演者のガーディナーに習ってきた成果だった。そして聴体験として「パルシファル」でさえ、ブーレーズ、ペトレンコと別け合っているというから、これは凄いと思う。今でも盛んにオペラを振りたがっており、今更止めればいいのにと思うのだが、何か小さな室内歌劇団でも任してみたいと思わせる。思い浮かぶ公演の指揮者にクラウディオ・アバドも挙がり、ピエール・ブーレーズと並んでキリル・ペトレンコぐらいだから、如何にペトレンコが劇場指揮者で無いかが分かる。

演出家ではペーター・シュタインとか、意外にムスバッハーが入っていたり、文句しかつけないロバート・ウィルソンが入っていたりするのが不思議だ。それらは全てザルツブルク時代にジェラール・モルティエ支配人が設定したものだった。そしてリストアップした作品の内容を思うと、全くザルツブルク上演とは関係なしに共通点も見つかる。というか、オペラの勃興から恐らく終焉までの歴史の中で音楽劇場のその社会的な意味をそこに見る。詳しくはそれこそモルティエ氏の遺稿集を開きながら纏めたいと思うが、まさしく公的資金を投入する音楽劇場の意味をそこに見出す。やはりあの故人の情熱は特筆すべきものだった。そして当時のハイダー博士勢力に連帯して対抗した自負もある。そして彼の継承者であるであるミュンヘンの後任支配人ドルニーに期待したい。

余談ながら後任音楽監督のユロウスキーのコンサートのティケットを一枚購入しておいた。年末ベルリンに行かなければ先に聞いておく。不都合なのは、一部音楽祭の日程は出ているが、楽団のツアー日程などはまだ発表されていないことで、割高の切符は買い難い。近辺で更に安く同じものをより条件が良い場所で聞ける可能性が高いからだ。30ユーロ近い料金はベルリンの放送交響楽団には高過ぎる。同じ場所でゲヴァントハウスがブルックナーの八番で更に数ユーロ高いので、こちらは一先ず断念した。入場料金だけなら、交通費は全く異なるとしても、ルツェルンと変わらない。1400席未満としても視界が効かないのに高くはないか?

クリーヴランドの「トリスタン」の放送の紹介をしたら、知らない人からコメントが入って、「フロリダのナポリに向かっていて、マーラーの二番を歌って、帰りにこれを聞くんだ」と書いてあってリツイートしてくれた。彼がクリーヴランド合唱団の一員であり、楽団がマイアミツアーに出かけていて、数時間後のコンサートがそのような場所であることが分かるまで、ネットリサーチしなければ分からなかった。その前にいつものように楽団からメンションがあったのは分かったが、一体あの楽団関係者には何か基本ガイドラインがあって、効果的にSNSを使うコンセプトが存在しているかのようだ。合唱団からも入った。そして今回も声楽の人で、器楽の人に比較して練習時間を長くできないので、ソリスツに限らず合唱団までネット活動が盛んなのだろうと思った。ピアニストで盛んなイゴール・レヴィットなどは特殊なのだと思う。

お蔭で私も録音してじっくり聞くことになった。昨年放送の節はシュテムメの声を生で聞いた後だったのであのコンサート舞台などにも抵抗があって熱心に聞かなかったが、改めて聞いてみるとなかなかいい演奏をしている。合唱団員も自身が歌っていなくても名歌手の歌唱となると熱心に聞くのだなと思った。日曜日に午後から就寝まで奇しくもフロリダの現場の空気を感じていた。



参照:
音楽劇場のあれこれ 2018-03-08 | 女
ミュージカル指揮の意味 2019-01-27 | マスメディア批評




# by pfaelzerwein | 2019-01-28 23:33 | 文化一般 | Trackback

ミュージカル指揮の意味

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ミュンヘンのオパーフェストの日程を見ていた。今回は二回野外での公開ものがある。いつものオペラと野外コンサートの二本立てということで、来年はペトレンコ指揮の最後の年でどうなるのかとも思った。それよりも発表されたプログラムが示唆するものの方が興味ある。

先ず歌手は、ゴルダ・シュルツとトーマス・ハムプソンが新たに挙がっていて、曲目もガーシュインとブロードウェーミュージカルとなっている。つまりガーシュイン以外にも何かを振るということだ。コルンゴールトかも知れないしほかの何かかもしれない、不案内なので分からない。そして、上の二人を採用したのも気が利いている。私のツイッター仲間ではないか。

そして本当の関心所は違うところにある。恐らくヴァルトビューネは来年もまだ登場しないと思うが、今年のジルフェスタ―コンツェルトはミュージカルプログラムになってこの二人の登場もあり得るかもしれない。そうなれば私もベルリンまで出かける必要はなくなるが、さてどうなるのか。今迄の経験から四月の発表で、コロムブスの卵のように「何だそんなことだったのか」とそれほど捻りがないことが殆どだったので、そのまま行くかもしれない。

「フィデリオ」にもう一つ新聞評が出た。殆ど異常な再演への関心の高さである。短いながらも南ドイツ新聞が報じている。面白いと思ったのは出だしで、「僅かばかりの音で、彼は本当の指揮者だと分かった。強打、そして奈落から湧き起る弦楽の音で、舞台の一人の女の孤独を感じさせた」とまるで日本で活躍のライターが書いているようなそのものの書き様である。なるほど何が起こっているかを報じるジャーナリスト的な視線も感じられるが同時に、吉田秀和から小林秀雄へと遡れるような私小説系のコラムである。名前を見るとヘンリック・オェルディンクとなっていて日本人でも女性でもなかった。若い人かもしれない。NZZやFAZでは考えられない書きようであるが面白いと思った。続いて「クレッシェンドが男装へと着替える女性を下打ちして」と描写を試みる。

しかし次の段落からは、「この再演が容易なものではなくて、ガッティ指揮の時は音楽的に評価できるものでなく、今回も長いレオノーレ三番の序曲からプラスティック板の迷路に佇む主役の女性に付き添い演出の嫌味に翻弄されなければいけなかった」と音楽監督キリル・ペトレンコの最初のフィデリオに期待させられたとしている。「直ぐに緊張感を作り、音色とダイナミックスへの賢いセンスでもって、彼がどんなに音色の魔術師であるかを証明した」と絶賛する。

更に「ペトレンコの強みは、楽員との信頼関係でもあり、二幕の弦楽四重奏132のアダージョで泣かせてくれて、バカバカしく駕籠に入って演奏していることも直に忘れさせてくれた」とこれまた故大木正興が書いているのかと思ってしまった。歌手の成果にも一寸触れて、最終的にはペトレンコが持って行ったと御馴染の締め方をしている。恐らくこの書き手は音楽ジャーナリストではなく普通の社会記者みたいな人かもしれない。所謂音楽オタクかもしれない。恐らく私が今まで見かけた中でドイツ語で音楽に書いてあるものの中で最も日本のそれに近いものだった。一度ご本人に会ってみたいぐらいに興味深い。広大ぐらいに留学して修士でも取っているのだろうか?

またまたフィンレー氏のいいねが付いていた。ジュリアードでのセミナー中継を紹介したからだが、中々マメで偉いと思う。オックスフォードに留学していた筈で、流石にSNSの使い方やその意味をよく分かっている証拠である。私個人としては現在オペラ劇場関係の話題を扱うことが多いのでどうしても偏るのだが、本来ならば声楽部門とはそれほど関係がなかったのでとても不思議に思う。

兎に角、自身のサポーターのような人を10人ぐらいつけていれば、利害関係なしで無料で広報してくれるのだから、こんないいことはない。そもそもキリル・ペトレンコがメディアの支援を受けずにつまり芸術的に不利になりかねない関係を断つことが可能になったのもSNSのお蔭であることは賢い者は皆認識している。更にそこに公共的な資財を利用出来るようになればもはや商業的な援助は全く必要が無くなる。

ARTEでゲヴァントハウスのブルックナーの七番が放送されるが、既にオンデマンドになっている。放送されるものはもう少し質が高いのかどうか?少なくともMP4自体はサウンドが126kBitしか出ていない。あまり音源としては使えない。



参照:
LadyBird、天道虫の歌 2018-07-01 | 女
そこに滲む業界の常識 2019-01-16 | 雑感


# by pfaelzerwein | 2019-01-27 23:36 | マスメディア批評 | Trackback

週末に考えること

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この週末は幾つか片付けないといけないことがある。先ずは来週末のミュンヘンからチューリッヒを繋ぐ途上のホテルをキャンセルすること、若しくは天候などを見て判断すること。また木曜日に劇場の食堂で忘れたマフラーの紛失を届けておくこと、また「ミサソレムニス」への準備を開始することなどである。また来週頭に会計士に依頼するメールなども整えておくこと。三月は余裕が出来るが、そこまでは流してしまわないと駄目だ。

金曜日に朝寝して森を走ったが、帰宅の車中のラディオがペトレンコのアシスタントを務めていて、今度シュトッツガルトにデビューする女流指揮者のインタヴューを流していた。「サウスポール」世界初演でアシスタントを務めていたというから、現在グラーツの監督をしているリニヴの後任のフランス人ジャコーである。女流ばかりになるのだが、コンサート活動もしていて、丁度現代の音楽もクラングフォーフムで振り慣れているらしく、世界初演には役に立つ助手だったのだろう。大体どの程度のアシスタントが選ばれたかは、彼女らのその後の経歴を見ればよく分かる。どこかで見た顔だと思えば昨年の座付管弦楽団のカーネギーホール初公演の時にも同行していて、プレプログラムなどを振っていた。

ペトレンコのアシスタントは、「全てが音楽に向けられていて、どこが良いのか駄目なのか、殆ど授業のような感じで、今でもその教えに感謝している」と話す。もともとトロンボーン奏者として楽団でも吹いていたようで、28歳の若さにしては経験豊富な感じである。力があれば直ぐにコンサート会場でも馴染みの顔になるかもしれない。

「フィデリオ」再演の批評が二種類出ている。再演としては話題だ。一つはDPAの通信社で流されたもので誰が書いているか分からない。内容は短く、簡潔としても報告を超えていて批評をしているのでなぜ匿名扱いのなるのだろう。もう一つは地元紙であり、その名前にも記憶がある。

このあまりにも厳密に行う指揮者が初めて指揮をするとなれば、十二分に考慮したと考えられるわけだが、それもこの特別な多面的な作品「フィデリオ」となればとなる。となると、この再演に当たって、特に性格的に特別でなく作品に向かうとすれば少し驚きとなるとして、レオノーレ三番が序曲におかれた導入においても、過剰に重く深刻になることなく軽妙さを失わずに、無重力なヴィヴァ―ツェと、彼のいつもの流れの早いテムポを保ったとなる。

絶えず弦を張りつめながら、管楽器の音色が輝き、「フィデリオ」のオペラ的な開始に見合う。しかしそれがこの作品の傷でもあり、喜劇的なその導入からの管弦楽の力強い叫びへと、ペトレンコの仮借なさはこの作品において限定的なあり方とされる。

また穴掘り強制の希望の無い場面からフィナーレへと暴力的にとげとげしく解放されるのではなく、ペトレンコの帰来の音楽性によって無理なく繋ぎ合わされたとしつつも、この断面が平坦化されたとも書く。

若いペアーの魅力的なミュラーとパワーを誉め、グロイスボックのベルカントのその総唱でも低音が浮かび立つほどの声はロッコ役には期待されないほどとして、ナズミの信頼置ける以上の歌と評価する。そして、カウフマンがセンセーショナルな声のコントロールで無からの不信の叫びへと歌い上げたとした。そうした最高度の歌で、パートナーのカムペの歌を望まざらず難しくして、声自体が高い領域で厳しそうなのを、賢明なフレージングと表現力豊かなセリフで部分的にのみ対抗するに至ったと書く。

コッホの不安定な低音でドンピッツァロを疲れた事務職にしてと、この再演の落ち着かない暗い要素を、声楽的にも管弦楽的にも軽くしたように思えたと、ジャーナリスト的な報告としている。恐らく当晩の公演からその満足度六点中五点を含めて、批評できることはざっとしているかと思う。詳しくは各々の読者に問うか、若しくは何回か続けて聞いてからで、早々に結論じみたことをいうというのは早急で、これぐらいが正しい纏め方だろうと思う。



参照:
やはりライヴに来て 2018-12-11 | 音


# by pfaelzerwein | 2019-01-27 00:21 | マスメディア批評 | Trackback

飛ぶ鳥跡を濁さずの美

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名伯楽が皆あれほど苦労する楽曲をいとも簡単に指揮してしまうペトレンコには改めて驚かされる。最終日を待って感想を纏めたいと思うが、ペトレンコのべ-ト―ヴェン解釈は基本的には変わらない。羽の生えたような軽妙さに木管楽器などの名人芸も要求されていて、中々やっていたと思う。ホルンもデングラーの横にヴィオティーが並んで四管体制の管楽器がとてもよく吹けていて、ホルンもオーボエも流石に二人ともベルリナーフィルハーモニカーで若しくは助っ人で吹いただけのことはある。座付楽団であれほど吹けていたオーボエはザルツブルクでもどこでも聞いたことが無い ― 後で写真を見て「ハフナー」と「悲愴」のためにベルリンに呼んだグヴァンツェルダッチェだと確認した。もしフィルハーモニカーで演奏したら弦の圧も異なるがそれに対抗する管も強力で、あの軽さを要求されるという超技巧を要求されることが分かった。座付管弦楽団が絶妙に演奏すればするほど私はそこにフィルハーモニカーの課題を聞く。フィルハーモニカーがこの公演を聞いたなら同じだと思う。コントラバス四本の同じ編成でバーデンバーデンで演奏したらと思うと、ルツェルンの感覚からそのダイナミックスに鳥肌が立つ。先ずは四月にランランとの二番の協奏曲でじっくり聞かして貰おう。

そしてヨーナス・カウフマンへの拍手はいつものように控えめだ。しかしその歌唱は彼の活動領域やその人気市場の広さとは裏腹にとても通向きである。そもそも彼の名前が私の目に入ったのはYouTubeで偶然見たマネ劇場での「ファウストの業罰」の名唱と名演技であって、本当はそうした分野こそが独断場だと思う。歌劇的であるよりも器楽的であり且つ名演技となる。声の質とか何かは評価すべきところが違うと思う。詳しくは、もう一度細かく確認したいと思うが、拍手を見れば分かるように、ゲルハーハーのように舞台で大向こう受けしない、そのような技能である。

止む無きことから終演後に再び再会した他の芝居劇場の演出家の奥さんのおばさんが、「演出どうだった」と口火を切った。彼女に言わせると、「ここはモダーン過ぎてあまりにもというのが多い」となるが、明らかにこのビエイトの演出もポストモダーン風でもはや些か色褪せてしまっている。感心する人はもう殆どいないと思う。その演出についてあまり深入りはしたくはないが、それも改めて観てからとなる。「演出は感心しないが、音楽は良かったよ」と答えると、どっこい「カウフマンどうだった」と来た。

そこで「難しい二幕一場を上手にこなしていた」と答えたが、一面メディアの話題の矛先であり、一面可成り業界的な関心事であることも事実であろう。実際の音楽的なハイライトはフィナーレ前のデュエットで、カウフマン自身が「女性に有利で男性に不利な作曲になっている」というその通りのクライマックスだった。この点で実際に相手役のカムペに喝采が集まるのは当然で、それに値するだけの歌と演技と、この数年で更に緩んだ下着姿を披露した ― しかし同年輩の同僚では出来る人はあまりいないだろうという自負もあるのだろう、また実際に若い姿態で魅せてもあれに代わって歌える人がどれぐらいいるのだろうか。そのようにペトレンコが個人的な繋がりを超えてカウフマンやカムペにテコ入れするにはそれなりの意味がある。

上のおばさん、つまり教会のお写真を送って貰ったおばさんも「それでももう直ぐいなくなってしまう」とペトレンコが辞めてしまう事を嘆いていた。「バーデンバーデン」に来てくださいよとミュンヘンの人と話す度に宣伝をする私設大使の私であるが、まさしくフェードアウトの準備は着々と進んでおり、ミュンヘンでの監督時代の頂点は過ぎて、そこに「飛ぶ鳥跡を濁さず」の美意識と逆算の見事さを見る。

管弦楽に関して前記したように、一つ一つの演奏実践の奥に、フィルハーモニカーとの未来形もしくは彼らへのとても大きな課題を指し示す形となって、まさしく私たちの時代の管弦楽演奏の可能性の有無がとても楽天的な気分の中で問われている。



参照:
ベーシックな生活信条 2019-01-23 | 生活


# by pfaelzerwein | 2019-01-25 21:39 | | Trackback

こうなるとペトレンコ頼り

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安い燃料代が期待できそうだ。夕方の買い物の時に満タンにしよう。雪がついていて肌寒い。陽射しがあった時の放射冷却よりも湿気があるのか寒く感じる。それ以上に血圧のためかもう一つ気分が優れない。手足も冷える。燃料は、一年ぶりぐらいに、125セントで入れれた。一時と比べるとミュンヘン往復で10ユーロほど安い。プログラムを買ってコーヒーが飲める。今回のように再演でプログラムが要らないと、軽食しても何とかなるかもしれない。

幾つか片づけることがある。先ずは三人の女性の携帯電話番号をしっかりメモして、必要ならば自身の携帯にも幾らか金を入れとかないと使えなくなる可能性がある。調べると20ユーロを超えていたので今回は大丈夫だろう。

あとは道中の録音を新たに準備した。YouTubeの様々な演奏で二幕一場の'Gott! welch Dunkel hier!'を比較してみた。楽譜を分析しようと思って、先ずは道中のお供にベーム指揮では駄目だと分かったので探しているうちに聞き比べになってしまった。歴史的に評価の高いクレムペラー指揮のジョンヴィッカースやフルトヴェングラー指揮とかショルティ指揮とか様々な名歌手のも聞き比べたがまともに振れている指揮者がいなくて驚いた。カウフマンの歌につけたメストがましな方だったが、最後におかしなことになって振り切れていなかった。難しさは声の器楽的な扱いをどうしても歌にするためにそれに器楽を合わすか、若しくは大きなアゴーギクとテムピ設定で誤魔化しているものが殆どだ。特に痛かったのはフルトヴェングラーが戦後にザルツブルクで振ったもので、死の直前の耳が聞こえない状態のものかと思ったら1948年のものでどんな楽譜を使っているのだと思った。フルトヴェングラーのオペラは出来不出来があるが、ベートーヴェンはいつものそれが歌と合わなくなっている。制作録音は所持しているがそんなに酷い記憶はない。しかし今更聞き直そうとは思わないのはとても細かな仕事をしないと解決しないことが多いからだ。意外に良かったのがボータが歌った小澤征爾の指揮である。なるほどリズム的な癖が出るが、それでも細かなことを手兵の座付管弦楽団にさせていて、ペトレンコと同じようにそれが天才的な指揮であることの証明を記録している。解釈だ何とか言っている次元の話ではない。

そこで意外に上手にクルストフォンドナーニが指揮していたと思った先日聞いたCDをラッピングした。聞き返すと件のところも恐らく歴史上一番成功している様にとても細かで丁寧な指揮をしている。しかしクレッシェンドが同時にアッチェランドになるアゴーギクの扱いは同じで最後はごちゃごちゃとなる。余程実演で繰り返し練習したようで、ヴィーンの座付管弦楽団が上手に弾いている。しかしリズムの難しいところに来ると振り切れていない。しかしなぜこんなに二線級の歌手ばかりで制作録音がなされたのか、たとえ劇場の新制作がこの歌手陣であったとしても、謎である。

もうこうなるとキリル・ペトレンコに振ってもらわないとこの楽曲はまともに演奏が出来ないと思う。こんなに難しいことになっているとは全く気が付かなかった。同じように難しいのはハムマークラヴィーアソナタとか後期の楽曲にもあるが、ある意味単純な技術的な難しさを超えたものだ。勿論攻略法がはっきりしていないことには歌手が歌えない。そもそも私はカウフマンファンでもなんでもないのだが、今までの関係からペトレンコ指揮でこの課題を解決できるのはこの歌手しかいないと確信している。最終日にも再訪するので初日はここだけにでも耳を傾けたい。そこが上手く行けば、私は最後まで拍手し続けなければいけない。また帰りが遅くなるが仕方がない。

午前11頃に初日の最後の放出があった。なんと王のロージェの一列目が四つ出た。王家が来ないということで、再演の場合は普通だが、同じ高価な243ユーロを出すなら価値があるだろう。しかし、この制作に対しての価格が法外であり、とても一人で出かけてあそこに座る気はしなかった。三ランク目の183ユーロまで出ていたが、半分ほどは一時間以内に捌けていて、一列目共々後まで残っていた。正直私の21ユーロと243ユーロで肝心のところがどれだけ違って聞こえるかは大変疑問で、視覚と艶やかな感じが異なるだけだ。不思議なことに全く手が出そうにならなかった。



参照:
覚醒させられるところ 2019-01-22 | 文化一般
習っても出来ないこと 2018-01-17 | マスメディア批評



# by pfaelzerwein | 2019-01-24 04:16 | | Trackback

ベーシックな生活信条

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「フィデリオ」再演初日が近づいている。準備をしなければいけない。今回は多くの人がそうしたように、四日間の日程の中でいい券が入る日を予備として手を付けた。私などは最終日にまさかあんな席が入ると思っていなかったから、二日目を捨てることになった。初めての公式交換サイトでのオファーをした。そしてその二週間ほど前の経験が直ぐに役に立った。

自身の券を売るにも面倒だと思って顔見知りの劇場のカウンターのオヤジに話していたのだが、一年前に初日買い出しを奨められたように、交換サイト参入にも後押しされた。第三者同士のことで責任がないからと言ってもよくも簡単にとも思った。そして試してみたのだった。

そして今回は不測のことから不要になった他人の切符を捌くことになった。交換サイトでは修羅場にならないように値崩れしないように額面でしか売ってはいけない。つまりオファーはそこでは出せない。安くしないと難しいと感じたのは昨年のクリスマスから出されていた同じ列の平土間のオファーが消えていないからだ。最高額券が必ずしも捌けない訳ではないが、いくつかの条件があって、例えば初日とか最終日の同じ席ならばもう少し捌けたと思う。その次に二席並びも捌けた。理由はハッキリしていて、一人で高額席に出向く人は、全く関心の無い人かよほど関心のある人で、後者はあらゆる手段を駆使してその程度の席は入手している。今回は前者の人にまで伝わらなかった。本当は幾らでも27日の日曜日にミュンヘンに日本からの出張者はいた筈で、見本市や学会の状況は分からないが三ケタに上ると思う。日曜日の夜は出張者にとってはフリーも多い。

そこで様々な方法を考えた。一番確実な一つは交換サイトで券を探している人である。生憎高額券一枚を求めている人は皆無で、二枚は複数いた。理由はハッキリしていて、今回は再演であり、その演出もそれほど評判が良くないからだ。私自身243ユーロはどうしたのだろうと思った。オールスターキャストは認めるとしても誰が欠けるか分かったものではない、音楽監督の肩に重荷が掛かる。自信のほどをのぞかしているとなると、これまたこちらも武者震いである。

さて件の券は結局年金生活者の人の手に行った。なぜ彼が143ユーロと中途半端な座席を求めていたのか。年金生活者だから金がないよというような前提にしては高額であり、少なくとも私にとっては高過ぎる。要するに私よりも金持ちだ。それでもこちらの243ユーロとは100ユーロの差額がある。143ユーロの上は183ユーロである。それどころか下の102ユーロでもよいと書いてある。到底成立しない価格差だ。だからこちらの適当な価格で出してみた。文面も若干ざっくばらんだが、受け渡しなどにも言及しておいた。出してからあの額なら結構いい買い物だと思った。そして自分も、十日ほど待つだけなら、今度やってみたいと思ったぐらいだ。疑心暗鬼でそのニックネームもなにか騙しでよほどの交換のプロかとも思った。だから、価格交渉には乗らないぐらいのつもりだったが、反対にプロなら一度会ってみてその人物像によって色々と手解きを受けてみたいとも思った。場合によっては値引きしてもよいぐらいにも思った。

しかし現実は違って、親爺が昼前に回答して来たメールには婆さんの写真までついていた。そして、「私は身体が不自由だから嫁さんに取りに行かす、お見知りおきを」と書いてあるのだ。なにも婆さんの写真などは見たくはなかったが、仕方がないので開けると、背景は教会なのである。笑ってしまった。彼、彼女らの生活信条というか、少なくとも他人に「私たちはこういう人ですよ」と語っている。彼らの信条告白だ。なにもそれに付け加える言葉が出ない、少なくとも私の住んでいる地域ではありえない風情だ。これがバイエルンの片田舎でなくて、都市部の恐らく電車で簡単に劇場を行き来できるところに住んでいる人たちだろう。

こういう人たちがあのミュンヘンの劇場のベースになっている人たちで、その芝居からオペラからいつも最新のモードやハイブローな思考にも触れているのだとも分かった。これこそが生涯教育の公的劇場の使命なのだ。その割に、上の二組とも私のように一時間も早く出かけてガイダンスを受けに行くという人でもなさそうなのだ。私もその価値があったのは一度のみで、あまり良くはないと思っているのだが、これまた只で何か参考になるものがあるとなるとどうしても貪欲になってしまうのである。彼らからみると「これまたなんと熱心な真面目な人だ」と思われているに違いない。

謎解きを忘れていた。彼が143ユーロを求めていたのは、足が不自由だから平土間に座れるそれが最低の価格だったのだ。しかしその席の割り当て48席が四つの車椅子席の間にあるだけだ。殆ど可能性はなかったと思う。それが前から四列目に思いがけずに座れる。上階にもエレヴェーターはあるのだが、座席までには階段がある。こうした需要があるとは考えたこともなかった。



参照:
覚醒させられるところ 2019-01-22 | 文化一般
ドレスデンの先導者 2018-08-29 | 歴史・時事



# by pfaelzerwein | 2019-01-23 02:34 | 生活 | Trackback

覚醒させられるところ

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承前)何回目になるのだろうか、ミュンヘン詣では。今回ほど昂ぶりを感じたことはない。不思議なほどである。今までも色々と期待に胸を膨らませたり、道中でも本当に数時間後に体験するのだろかと不思議な気持ちになることはあったが、今回のような昂ぶりは無かった。

その音楽からベートーヴェンの内声がそれも赤裸々なものが聞こえてたじろぐ、そもそも中期の楽聖の音楽には珍しいことである。小澤征爾ではないがオペラにはとても捨てきれない音楽があってというのは、ここではこれほど楽聖を身近に感じる音楽がないということになる。

しかし冷静に考えれば、オペラにおける表現という、特にこの作品への批判に還ることになる。二幕の一場のフォロレスタンのアリアからしてもはやオペラ表現ではない。ヴァークナーでさえもこんなものは書いていない。これほどの心理をどのように表現して舞台にのせるか。既に触れたようにその心理をどのように解釈するか?意外なことに啓蒙思想とこの「フィデリオ」に関する論文は簡単に見つからない。ヴィーンでの公演での批評にその視点からのものがあったぐらいだ。

二場でロッコとレオノーレが地下に下りて来るときも二人の歌は殆ど違う世界に居る。アリアともデュエットとも謂いかねるもので、楽聖の主観と舞台における客観的な視点というものが交差する。因みに、手元にあったフォンドナーニ指揮のDECCAの録音を聞くと、中々細やかなニュアンスに富んでいてベーム指揮で声楽と管弦楽の出入りが多いところがとてもいいバランスで鳴っている。勿論この両者のバランスは言い換えると主観と客観ともなる。要するにこちら側の視点がどこにあるかということだ。それが顕著になるのは、フロレスタンを加えた三重唱であり、悪代官ドンピッツァロが登場してからの活劇、そして四場の「水戸黄門の印籠」が五場の再会した夫婦のデュエットを通して勧善懲悪のフィナーレへと流れ込む。

芝居的にはここら辺りでガラッと趣が変わってくるのだが、このことをMeToo指揮者のガッティが新制作に際して上手に語っている。そしてそのことが今回の再演舞台の演出のコンセプトとなっている。それによると一幕の各々はフィックスイデーに凝り固まった抜け道のない迷路であり、二幕になって徐々に解きほどかれていくという筋道である。例えば今回もフロレスタンを歌うヨーナス・カウフマンは、一場のそれが殆ど幻覚なのかどうか分からないと語る。そしてレオノーレ役のカムペが、「器楽的に書かれていて、彼!がどこまで声を考えていたのかどうか」というようにまさしく楽聖のその凝り固まり方がこの創作だ。

私の昂ぶりというのはそこにあって、交響曲や四重奏曲、器楽曲では感じない、とてもベートーヴェン的な固執そこからの解放というのがこの演出ということにもなる。しかしそのヴィデオなどではとんでもなく下らない演出制作で、あれだけの歌手を集め乍おぼろげな記憶によれば全く成功しなかった制作だと思う。その指揮がとてつもなく悪い。そして今回は全く異なる音楽になる。更に推測すると前半の固執はとんでもないところまで行きかねない。しかしあの舞台の動きを見ると自ずとそれにも限界があると思う。そして二幕の最初からカウフマンの歌は当時とは全く異なる歌唱になると確信する。カムペの歌においてもそうで、迷宮から解き放たれるとは何か?そのように考えるとこの演出でも創作の本質的な音楽に迫れると信じている。

まさしく私の昂ぶりというのが、迷宮入りしそうな脳にあり、殆ど「杉良さんから目線を貰った」、「私のために愛の指揮をしている」というような境地に至るもので、実際ルクセムブルク、ハムブルクと回ってそのペトレンコの指揮振りを見て、更にこの一連のべ-ト―ヴェンへの視座、更に今後メンデルスゾーンを取り上げるという姿勢に、思い込み以上の固定観念に囚われるだけの状況がある。

音楽的にどこまで詰めて来れるかは分からない。しかし、意外にこの演出が邪魔にならない可能性もある。理由は言及したように、「イデオロギー化へのアンチテーゼ」となっていることゆえにキリル・ペトレンコの演奏実践に安定した枠組みを与える可能性もあるからだ。昨年日本で議論となったカタリーナ演出はアンチイデオロギー若しくは「啓蒙の弁証法」を受けた左翼イデオロギー演出への「いちゃもんつけ」のポストモダーン的ポピュリズムで、つまりただの無批判的アレルギー反応でしかなかった。そうした白痴演出と今回再演される演出との差は如何に?



参照:



# by pfaelzerwein | 2019-01-22 02:04 | 文化一般 | Trackback

音楽芸術の啓蒙思想

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ニューヨークからの「ペレアスとメリザンド」を一部聞いた。その限りとても良かった。何よりも音色が美しく尚且つ明晰さがあった。そして幕間に流されたネゼセガンの解説が音響例示付の示唆に富んだ内容で、「パルシファル」の引用やヴァークナーの影響と拒絶など、この時点で完全に手本とするバーンスタインを超えていると思う。この指揮者は、キリル・ペトレンコが語り尽くさないことでのその先を敢えて残して置くのに対して、全てを明晰に語ることでの価値の意味を見つけたかにさえ思える。とてもクレヴァーな判断だと思う。改めて全幕を聞き直さないといけない。再演の限られた時間であそこまでもっていく実力は掛け替えがない。

「フィデリオ」の一幕を通した。参考音資料にベーム指揮の映画を使っていたが趣向を変えてバーンスタイン指揮のヴィデオを聞いてみた。序曲からして迫力があるのだが、どのような高度な判断でそのような表現になっているのか殆ど分からないことが多い。要するに音楽を学ぶための資料にはなりにくい。そこでオペラ映画に戻るが、これまた最初のホルンのドルツェからして和音の暗喩なのか何かよく分からない。それ以上に座付の管弦楽団がそれ以上の表現能力を持ち合わせていないということでしかないだろう。

ベームがミュンヘンの座付管弦楽団を叱責するリハーサルヴィデオが残っているので、ついついそれを思い出すが、ここではお構いなしで進んでいる。一つにはヴィデオ制作なので適当に処理している可能性が強く、モーツァルト作品制作でも共通している。当時の光学録音などでの配慮がピアニッシモの演奏にも底上げ感があるのがヴェテランレコーディングアーティストのノウハウである。現実には更に細かな表現をしていた筈なのだが、ここではいい加減だ。

一幕フィナーレもリズム的な変化がどうも上手く振れていないようだ。ここはペトレンコに期待される。同じように四重唱は今回聞かせどころだと思う。ミュラー、カムペ、パワー、コッホが扱かれるところだろう。

同時に管弦楽団は序曲から細やかに和声の綾を付けて拘るところだ。ダイナミックスも細やかに付けていかないといけないとなると大変だ。ベーム指揮でも大きな枠組みの中で若しくは楽想によってテムポ設定がなされている。ノイエザッハリッヒカイトの代表的な音楽家であるが、実際はそうした計算でなっている。

一場の若い二人のデュエットから二場のマルツェリーネのアリアが初めて面白いと感じた。当時の三十過ぎのおっさんの音楽として聞くととても興味深い感情が赤裸々に歌われていて、こちらはタジタジする。そして四重唱へと続く。そのあとロッコのアリアからレオノーレ、マルチェリーネを交えての三楽章が挟まってマーチへと繋がる。

ベートーヴェンの書法が「魔笛」などを思わすところもあり、同時にそれ以前のバロックオペラの伝統を継承するとこともあるようだが、例えばベームの指揮では明らかに歌を立てることで管弦楽団が伴奏となったり、出たり入ったりの感じが否めない。それを克服するのは、声楽を器楽的に正しく歌わせることと同時に管弦楽のニュアンスを歌に寄り添わせることになると思うのだが、何かそこがこの作曲の演奏実践の難しいところのように思う。

よってピッツァロとロッコのデュオそれに続くレオノーレのアリアなども様式と音楽内容の葛藤のようなものも感じたが、もう少し調べないと分からない。如何にも啓蒙思想的な心情などや俳諧のようなものも表現としての面白さか。更に丁寧な音楽表現が要求されている。(続く



参照:
少しだけでも良い明日に! 2018-09-16 | 文化一般
マグナカルタの民主主義 2019-01-04 | 歴史・時事


# by pfaelzerwein | 2019-01-21 04:26 | 文化一般 | Trackback