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思索の向かうところ

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ベートーヴェンの創作過程を思っていた。いつの間にかルツェルンでのガイダンスの感動が戻って来た。なにに感動したかも思い出してきた。8月28日19時30分始まりの演奏会の丁度一時間前から開かれたスザンヌ・シュテール女史の話しの内容だ。フェスティヴァルのテーマは権力だったので、プログラムにあるような社会学的な見地からの啓蒙思想の悪用だったかと思ったが、全く異なっていた。

既に触れたように子供の時から知っている聴覚の障害から第九の初演で指揮をしていて終わって拍手が一斉に湧いていても気が付かなかったというような話しがステレオタイプに染みついていて致し方が無いのだが、そのことを誰に充てたのか失念したが手紙の文章として手短に読み上げた。それで本会場の十分の一にも満たないような聴者が皆感動した。

どこに焦点があったかと言うと、聴覚障害で人とコミュニケーションを取るために大部残されたノートを使っていて、自身の発言は話せるので書かれていないような状況だった。そして益々内面へと創作の創造の世界が広がって行き、最終的には大変憂慮される創作者を取り巻く社会から環境から閉ざされ閉ざす形で創作が進んで行ったという事にある。一神教的な世界観を超えて、宇宙の果へと連なるような理想への恣意である ー まさしく心より出でてと言うのは、偽りの無い信条で、想いが通ずる。その意識が伸びて行く方向へと言葉が導く。そのことに皆が感動したのだった。

のちほどこの話しを纏めてみると、丁度指揮者のキリル・ペトレンコが楽団の前で話した内容と同じ方向へと意識を向かわせる内容だったのだ。実践を通したカント的美が問われる ー この間詳しく一連の公式ヴィデオを追ってきた人は、ここで指揮者が春から語り、そのブレーンの博士によって解説されていた悦び、ルル組曲への視座がここから発していて、指揮者の言葉の裏付けをそこに見出すだろう。そのインタヴューをシュテ―ル女史が予め知っていたのかどうかは分からないが、ベルリンの初日の演奏を聴いた耳には、この話しが妙にその演奏内容に通じていることを無意識に感じておかしな気持ちになったのだった。

こうした所謂「深い話し」は ― 嘗て日本の大木正興と言うベートーヴェンを得意にしていた音楽評論家が言うと「フカーイ」のだ ―、ボンのベートーヴェンフェストの監督ニケ・ヴァークナー博士のお得意の価値判断でもある。そして初日のその基調講演の報告が新聞文化欄に出ていた。そしてその内容が全く楽聖のそうした精神活動ではなく、以前ヴァイマールでやっていた彼女のお爺さんリストの話しになって仕舞うと批判されている。要するに楽聖についてその創作世界に付いて語っていなかったというのだ。

それは、なにもベートーヴェンだけでベートーヴェンを語る必要もないという事では矛盾しないのかもしれないが、全ては話し手の先入観念と独自の価値観でしか語られていないとあった。恐らく最早このヴァークナー家の人について語る必要もないのではなかろうか。座席占有率が新作演奏会でもないのに七割にしか届かない現実は、その会場難の問題があるにしても、少なくとも有名人演奏家を集めないというだけの興業上の問題ではない。

ペトレンコ指揮カウフマン登場のコルンコールト作「死の街」初日の一般発売が始まった。既に配券されていたので何となく十五分過ぎたぐらいに販売状況を見て驚いた。ベルリンへの就任が決まって以降の今までは音楽監督が振る新制作初日シリーズは、その時点では800超えくらいのウェイティング番号しか得られなかったが、400番超えを貰って、忘れてから一時間ほど経過した11時10分過ぎにもまだまだ配券されたものよりお得な券が買えた ― 「オテロ」までは30分以内で買えなければ完全に売り切れとなっていた。なるほど売り方を少し変えて、抽選外れの人に優先的に配券されるシステムに変わっている。しかしであるが、この珍しい曲の人気の無さである程度の低調ぶりは想定していたが、またシステムの変化があってもカウフマン人気でのこの出方は想定を遥かに下回っていた。正常化は喜ばしい。



参照:
adagio molto e cantabile 2019-09-06 | 音
「平和を」の心は如何に? 2019-02-22 | 女
# by pfaelzerwein | 2019-09-19 00:29 | 文学・思想 | Trackback

卒業宣言をする価値

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ザルツブルク州の結論が出た。現音楽監督はあと三回の復活祭登場のみとなった。2022年に希望していて、新支配人と争っていた演目は手切れの土産として「ローエングリン」が叶った。しかし実際にその公演が実現するかどうかは疑わしい。

舞台はザルツァッハからエルベ河畔へと移った。来年四月エープリールフールの元祖バイロイト音楽監督の誕生日までに辞表を出すとか書いてあるが、ティーレマンは辞表を出すなど一言も発言していない。要するに依願辞職の要請をメディア辞令で出して、この先は分からない。

そもそも契約当事者はザルツブルク州とザクセン州であると書いてある。するとこのメディア辞令に反応するのはザクセン州でしかない。ザクセン州は2023年以降も留まりたい意向を出している。つまり、ザクセン州の当事者であるシュターツカペレドレスデンとその指揮者ティーレマンの間で来年四月までに決着を出す必要がある。

バイエルン放送協会は、第一報でティーレマン自体がドレスデンのゼムパーオパーで新制作を殆ど振ることも無く、喜んでツアーに出てシュターツカペレを振りたいとしても欧州以外への演奏旅行は骨が折れるとして控えたいとしていると伝えている。そもそも欧州ではティーレマン指揮シュターツカペレは殆ど客が入らない。二千人近い大ホールでの演奏会は不可能となっている。よって、オペラ公演を中心とした復活祭上演も80%の座席占有率とはならなかった。

故に万が一シュターツカペレが首を据え替えても余程の人でなければ、例えばネルソンズ指揮ゲヴァントハウス管弦楽団よりも魅力があって、容易に集客とはならない。思い当たるのは指揮者ヴェルサーメストぐらいではなかろうか?勿論ドレスデンでも活躍しなければいけない。

だからバイエルン放送局は、元祖音楽監督はバイロイトに専任して、そこでもう少し活躍すればよいとしている。

要は、今後の焦点はザクセン州の反応と指揮者との攻防となる。管弦楽母体のシュターツカペレ自体の中にも様々な反応はあるだろうが、そろそろ指揮者との間でごたごたしそうな塩梅だ。こちらも首を据え替えてしまうならばエープリールフールまでにザルツブルクと新たに延長の契約を締結しなければいけない。少なくともザルツブルク側は様々な管弦楽団でと言っているが、実際問題として復活祭中に幾つかの催し物を複数の団体と毎年纏めるので容易では無かろう。

今回の騒動の第一次の勝利者は現バイエルン国立歌劇場支配人のニコラス・バッハラーである。そして勝利宣言、「巨人同士の闘争なんてなかったよ、そもそも巨人などではなく、争ったことなんてなかった。」。

録音しておいた先日引退したハイティンク指揮のブルックナーを流している。丁度一年前にチューリッヒで聞いた同曲の演奏からすると大分酷い指揮になっているようだ。あの時はそれ程慣れていないトーンハーレの楽団であったが、大雑把であっても崩れるところはなかった。その十日ほど前にルツェルンで聴いたマーラーの九番はそれよりも悪かったがコンセルトヘボー管弦楽団が崩れることは無かった。

既に昨年の春ごろから転倒続出で引退は見えていた。少なくとも自宅のある地元のホールに於いてマーラーの惜別の交響曲を最後として振りたいと卒業宣言していたので地元の皆はこの指揮者とのお別れをしたのであった。そしてやはり引退発表するようになってから余計に気持ちが折れてしまったのだろう。



参照:
限り無しに恨み尽くす 2019-09-03 | 女
プログラミングの決定権 2019-08-22 | マスメディア批評
# by pfaelzerwein | 2019-09-18 01:51 | マスメディア批評 | Trackback

歴史に残るようなこと

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「フィデリオ」の話題が出ていた。正確には「レオノーレ」の版の話しなのだが、気になってアンデアヴィーンのサイトを覗くと「フィデリオ」を歌う筈だったペーターセンの名前が無くなっていた。てっきり復活祭前に練習で歌うのかと思ったが計画が変わったのだろうか。小さな劇場でヴィーナージムフォニカーの演奏なら練習になりそうだったが、兎に角取り止めている。

キリル・ペトレンコ指揮で3F企画即ちFreude,Freiheit,Friedenの全てを体験しているが、一番厄介なのは二つ目の「フィデリオ」上演だと思っている。創作自体の難しさで演奏の難しさだと思う。ベートーヴェン年の最大の話題と成果の一つになると確信している。

新聞にロシアの演出家キリル・セレブニコフが旅行自由になったとあった。まだドイツへとは来ていないようだが、先ずは熱心に支援していたシュトッツガルトを訪れるのではなかろうか。どのような演出をするのかは知らないが注目である。

それ以上に重要なのはアイウェイウェイがドイツから英国に出国したことで、詳しくは知らないが、香港問題とも関係するのだろうか?ドイツでは子供のアイドルの様なトップスターだっただけに不思議に思った。

文化欄に作曲家ショスタコーヴィッチの伝記を書いたポーランドの作曲家クリストフ・マイヤーの一節がドイツ語訳されて紹介されている。最後に作曲家を訪問したのは1974年春の様で、それを最後に一年後の夏に訃報を聞いたというものだ。

未出版の楽譜を見せての中に弦楽四重奏曲14番と歌曲ツィクルスが入っていて、後者は筆者の作と全く異なっているとショスタコーヴィッチが説明したと言う。そしてそこに描かれているのが長年働いていた女中さんでアンナ・アヒマトーヴァと言う人らしい。その訪問の際もコニャックのナポレオンの大瓶を出して、ナッツ類を提供して、そこで暫く座っていたらしい。既に録音もしてあってテープを回したようだが、演奏が悪かったらしい。

またマーラーの話しになって、どれもこれも好きなのだが、第一から三楽章を第六からフィナーレを弾いて上げたという。そして作曲家は言う。死ぬ前に30分の時間があれば、大地の歌から告別と10番を聴きたいと。まるでクラオタの様な作曲家だったようだ。

そしてお土産のLPを見つけて、トスカニーニ指揮の一番と七番は既に聴いていてよくないと、しかしもう一枚のロジェストヴィンスキー指揮ストラヴィンスキー「マヴラ」はいいと評価していた。机の上にはコニャックで、自身もソヴィエトの代議士で当日も礼儀のいい兵士の訪問を受けて、内務大臣に電話したというから、この作曲家の晩年の生活ぶりがよく分かる。

右腕はお湯を掛けられても感覚が無く、まともに動かなくて、左手を機械仕掛けのように動かして、益々視力が落ちて新しい眼鏡枠に分厚いグラスを入れていたようだ。



参照:
電光石火の笑いの意味 2016-12-13 | 女
TVドラマのような視点 2019-07-24 | 文化一般
# by pfaelzerwein | 2019-09-17 02:39 | 文化一般 | Trackback

フクシマ禍から蜂の巣へ

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承前)ルツェルンでの演奏会評が次のように始まっていた。一楽章が終わって、一人の男が「分からないけど、そんなに良くないと思うな」と言う声が平土間に響いたというのだ。つまりそれほど正確に合っていた訳ではない合奏を称していったとなる。そうした緊迫感が、蜂の巣をつついたような興奮へと変わったとノイエズルヒャー新聞は報じていた。

正直なところ平土間の雰囲気はなんとも分からない。通常とは異なる聴衆が押しかけていたことは、メインスポンサーがアムコとやらの地元の世界的な人材派遣業者が仕切っていたことから想像に難くない。目の届く範囲でも前半のルル組曲へのあまりにも冷淡な反応は驚くばかりだった。

三楽章の稀なる名演からアタックで四楽章へとスリリングに突き進み。様々な回想がされることで、若しくは三楽章までのベートーヴェンからマーラーへの九番の変容またはブルックナーへの影響を垣間見たところで、件の合唱付きへと進む。

ここ数年ベルリンではミュンヘンの後任監督のユロスキー指揮で嘗てのミヒャエル・ギーレンによる門タージュのアイデアを踏襲して「ヴァルシャワの生き残り」がそこで挟まれたりと演奏されることで、新たにその意味するところが問われていた。今回は「ルル組曲」そして翌日のヴァイオリン協奏曲へと繋がれる。再度、クラスティング博士のオリエティーリング映像と指揮者キリル・ペトレンコのインタヴューを初めて観る。新たな情報はないのだが、第九の創作過程に関して、二人が手分けして語っていることがよく分かった。プログラム作りに於いてこの二人の間での対話があったことがよく分かる。

改めて、この合唱付きの四楽章が先ず有りきだとそのスケッチからこの指揮者は断定している。それも歌の部分からで器楽によるレチタティーヴは後に書き加えられたとあり、全体の叙述法としてもそこから演繹的に前の三楽章へと創作が進められているとなろう。そしてルツェルンでガイダンスであったシラーのオード自体は酒飲み歌でありながら、出版直後のボン時代に言及があって音化が試みられているとぺトレンコは語る。しかしである、他の3Fとされる「フィデリオ」から「ミサソレムニス」へと長い時間のスパンの中で創作が形となって来た。交響曲ツィクルスの不必要性の根拠でもある。

その背景の社会情勢として、フランス革命の完成以前からナポレオンへの失望、メッテルニッヒ政権その秘密警察組織へと現在の世界情勢と楽聖の失望を重ねる。キリル・ペトレンコは、練習の時に珍しく演説したようで、楽聖の聴覚・視覚障害は肉体的なものだけではなく、外部世界から自閉するような創作の内面世界だったと語ったようである。一楽章から三楽章へと具体的にカタストロフであるフクシマ・チェルノブイリ禍からアウシュヴィッツを経た失楽園へと、全ては終楽章の為に準備されている。

当然のことながら通常は待ち構えられる歌唱部分の違和感が、なんら抵抗なく演奏されるようなテムポ配分がなされている訳で、そのことによってのみでこの演奏実践の成功が記されることになる。ルツェルンでの個人的な印象は、少しおかしな聴衆の反応を除けば、目的としていた終演後のスタンディングオヴェーションの遅れもよく分かった。理由は至極簡単で、指揮者が手を下ろして終わりを宣言するそぶりを中々出さずにいたからだ。確かにブレゲンツでの千人の交響曲においても直ぐに聴衆の方に向き直ることは無いのだが、ベルリン初日でも遅れていたので不思議に思っていたのである。

演奏会としては二日目の前半がクライマックスであったことは皆が認めるところだが、一日目の最後のスタンディングオヴェーションはそれなりの意味がある。欧州においては通常の演奏の是非ではスタンディングにならないという事である。それほど米国のようにプロテスタント的な意識は強くない。主張に賛同を示すという行いは、まさにこの曲の演奏実践とその趣旨に対して行われるものだ。私のようにその真意を少なくとも今冬から探っているような人間は極稀であって、3Fプロジェクトを把握しているのは音楽ジャーナリストでもそれほど多くはない。しかし殆どに人が立ち上がった。これだけで成功ではなかろうか。

そして10月3日のドイツ統一の日にバイエルン放送局で初日の演奏が再放送される。クラスティング博士がガイダンスで演奏前の収録で話していた通りになっている。ノイエズルヒャー新聞が勇気という事でもあり、同時に前述したようなシェーンベルク~アルバン・ベルク~グスタフ・マーラー~チャイコフスキー~ルートヴィッヒ・ファン・ベートーヴェンへと大管弦楽音楽を網羅しているのだが、それに関しては敢えて無視しているかのように触れていない。寧ろ、あまりにもの具体的な第一楽章や三楽章をマーラー風と切って欲しかった ― 後任バイエルン音楽監督ユロスキーのマーラー編曲演奏の異なった表現方法であった。(終わり)



参照:
ペトレンコの「フクシマ禍」 2015-12-21 | 音
ドンドンガタガタ足踏み 2019-03-10 | ワイン
3F - 喜び、自由、平和 2019-04-30 | 文化一般
# by pfaelzerwein | 2019-09-15 22:26 | 文化一般 | Trackback

熟成させる時間が必要

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時間のあるうちにデジタルコンサートホールの無料券の年内分を使わなければいけない。候補に挙がるのは、年末のジルフェスタ―コンツェルトだが、これはARTEで出る筈なので使う必要もないだろう。その前はズビン・メータ指揮の二回に亘る日本公演の練習演奏会だ。11月2日土曜日と8日金曜日なので、両方ともライヴで観れる筈だ。あと二回分の一つは期限が無い筈なので来年に取って置く。もう一つは年内でないと使えない可能性があるので、予備に使いたい。そうなると11月2日まではお預けとなる。ミュンヘンのコルンコールト「死の街」初日が18日なので、何とか時間はあるだろうか。

夏の予定を全てキャンセルしたヴァイオリンのリサ・バティシュヴィリの故郷からの生中継を観た。健康上の理由となっていたので、恐らく二児の母?としては妊娠と言うことは無いと思ったが、腕の調子など心配していた。秋の日本公演でも弾くチャイコフスキーを演奏した。元々はプロコフィエフが予定されていて、結局は音楽祭でもそれを弾くことはならなかった。チャイコフスキーが二年ほど前から始めた新しいレパートリーであったので事故でもあったかと思ったのだ。

健康そうで問題はなさそうだったが、なんとなく舞台から遠ざかっている印象はあったが、カデンツなど昨年よりも細かなことをしていて、弾き慣れてきたのだろうと感じた。同時に故郷での演奏と言うこともあるのだろうかエモーションも細やかさと同時により強く出ていて、よりコントロールされながらも東欧風の趣があった。ピッチも丁度いい感じで楽器も良く鳴っていた。

少なくとも日本旅行へは準備という事でも完璧ではないだろうか。親しいネゼセガン指揮のフィラデルフィア管弦楽団と大名演をしてくれることは間違いないだろう。それにしても夏場はなにがあったのだろう?

そう言えば、このヴァルビエールと称する本場でが乗っていなかった二番フルートはミュンヘンの座付の二番の人で、ルツェルンでもプラチナブロンドの第一ヴァイオリンの人が入っていたようだ。嘗ては気が付かなかったのだろうが、公務員待遇でも稼ぎに出かけるには、それなりの武者修行的な意欲もある証拠だろうか。

先日来仕入れてきた30本以上のワインを漸く蔵に入れた。薄っすら汗を掻いた。下ろすと同時に棚に寝かせるので、場所を開けるのに苦労する。可成りいい加減な並べ方をしていて、本当ならば新しいものを下の方に入れて行きたいが、出来るだけ安全上重心は下に置きたい。入れ替えも容易でないので、どうしても新しいものが上に並ぶ。

新しく運び込んだもので二年以内に空ける予定のワインは九本が限度だろうか。つまりまた溜まる。一番溜まる要因は2015年産を大切にしまい込んであるからで、飲み頃を一年分我慢したからだ。つまりそれが開けられるようになると頻繁にいいワインを開けられるようになる。

後ろ表に入れてあるので押し込んだ拍子に反対側のグランクリュワインが床に落ちた。40ユーロ以上のヴィルアムスヘーレと称するナーヘの高級リースリングである。それも2014年なので惜しくて開けれないリースリングである。30センチ近く下に落ちた。幸い割れなかったが罅が入っているといつか割れると思うと早く手を付けなければとも思う。十年ほどは寝かしたいワインなので次の機会を考えようと思う。



参照:
Wブッキングの逡巡 2018-12-07 | 生活
再び求道的な感じ 2019-09-08 | 女
# by pfaelzerwein | 2019-09-15 03:06 | 雑感 | Trackback

ここに定着する印象

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今頃になってルツェルンのコンサート評などを読み返す。昨年のように生中継も無かったので、番組での批評家のお喋りも無く、自分自身もその前のゲヴァントハウスから盛り沢山だったので若干混乱していて、あまり人の言うことが耳に入らなかったからだ。

しかし二日目8月29日の録音が放送されたことで、少し気持ちが落ち着いた。嫌が応でも印象を定着させなければいけなくなったからだ。序でに3月のベルリンでの放送録音を流す。DCHでの放映もあったので、マイクを通して三回、生で三回もフィルハーモニカーとの五番を聴いた。その内ベルリンでの三回とボンでの座付管弦楽団のホルンは同じデングラーで、今回比べても明らかにドールよりも上手い。確かに弱音をドールも頑張って吹いているが、二楽章を上手にこなしたのは復活祭の一日目だけだ。余りにもアヴェレージが低い。デングラーはミュンヘンの奈落でも安定していて、やはりベルリンに欲しいソリストである。フィラデルフィア管弦楽団のようにシェーンベルクはドール、チャイコフスキーはデングラーが吹くような体制を取るべきではないか。またフィルハーモニーの分析的でクールな音響はそれはそれでとても魅力なのだが、視覚や楽譜などがあればそれを補うことは可能である。そうなると最初の喰い付き程には音楽的魅力が薄い。

そしてなによりも、前半のシェーンベルクに於いての二日間で残した最も強い印象は、その録音にも新聞評にも記録されることになった。ノイエズルヒャー新聞にはミヨーのアンコールでは無くて、もう一度協奏曲を演奏して欲しかったぐらいだとある。現実的ではない希望にしてもその気持ちはこうして録音を聴くことで同じ気持ちになる。

シェーンベルクが終わって拍手が始まるまでのコパチンスカヤの不安そうな顔が印象的だった。前回に復活祭で演奏した時はお互いに見える位置で明らかに気の無い拍手をした私である。だからその気持ちがよく分かった。録音を聴くとやはり色々と変えてきていた。詳しくはじっくりとベルリンでの録音や録画と比較してみたい。次回の再放送までまだ一週間近くある。

20時からライプチッヒのゲヴァントハウスからの生中継がある。映像のストリーミングもあるので、シューマンフェストという事でこれまた愉しみである。さてどの程度の演奏をしてくることか。



参照:
ルツェルンでの視界 2019-09-04 | アウトドーア・環境
コンツェルトマイスター 2019-09-01 | 音
# by pfaelzerwein | 2019-09-14 01:59 | | Trackback

アルコールも欲しくなる

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週末のワイン試飲会の事を纏めていない。これといった大きなことは無くはなかったが、ワインとはあまり関係ない。どうもそれが影響しているらしい。ナーヘでは、何時もの様に試飲会の前に、デンノッフ醸造所で発注していたリースリングを回収した。

春の試飲会で2018年の酸の弱さとか力強さで、余り複雑なGCは発注せずに、その下の二種類のGCを購入した。最後の火山岩質のフェルツェンベルクは2013年以来だ。早く開いている時しか買い難く、それほど複雑さは無くても違う味筋のミネラルなので二年もすれば楽しめるだろう。もう一つのデルヒェンは早めに楽しめるバランスの良いリースリングである。一本41ユーロをどう見るか?片方は36ユーロ。三本づつにもう三本既に六本以上楽しんだトーンシーファーリースリングを日常用に買い足した。

更に谷奥に入って俗物ゲーテの愛したモンツィンゲンのシェーンレーバー醸造所で、グローセスゲヴェックスを試飲。古い年度の試飲が良かった。2018年産が2009年産に似ているという事で、ハレンベルク(ハルガンツ)、フリューリングスプレッツヒェンGC、ハレンベルクGCで、今回はハレンベルクが開いていた。二年前ぐらいは反対だった。シュペートレーゼも甘口乍ら、糖が徐々に落ちてきていて、チーズなどには使えそうだった。結局発注していたのは違っていてと言うのは既に書いた。しかし2016年産のリースリングのゼクトがきりっとしていたので三本所望した。

翌日の南ワイン街道のレープホルツ醸造所では、結局買い足しの三本の御用達リースリングのオェコノミラートとその上のクラスのフォンブントザントシュタイン、そして発注していた最上級のガンツホルン三本でかたを付けた。例年通りだが若干クラスを下の方へと比重を下げた。同じ超辛口でも2018年産はそれ程魅力が無かったからだ。

さて、一本は味見で開けた。次はどれを開けるか?自宅で開けていないで既に飲み頃の様な開けれるものはない。オェコノミラートでお茶を濁しておこうか?なぜならばトンシーファーの方はまだこれから年内は瓶熟成しそうだからだ。何か疲れて、軽く飲んで、リースリングでパリ風の棒々鶏でも食したくなった。ジャガイモが無いから米で誤魔化すか。レモンとニンニクを強めに効かせると合うだろうか。

最近はワインの消費は落としている。健康と経済的な一石二鳥を狙っているのだが、購入する数は減らず、高価な方へと寝かすワインへとスライドしているので、金額は明らかに増えている。その分在庫は増えていて、ついつい平素から高級リースリングへと手が出そうになる。価格も一軒当たり数百ユーロ支払うことになり、合わせると年間千ユーロを軽く超えるようになった。

稀に高額席を購入して音楽会や劇場に行くような額を一件に一回で支払い、それなりに交通費も掛かっている。やはりかなりの贅沢であることがこれでも分かる。

それでも昨晩の放送の様な演奏会中継録音を流すと芯から堪えるのでアルコールも欲しくなる。緊張が勝つシェーンベルクなどは出来るだけ流すようにしているが、それでも楽譜を見たりすると、誰かさんではないが発狂しそうになる。あまりにも見事な処理に声を何度も上げる。心臓麻痺になる婆さんに同情する。やはりシェーンベルクの音楽は図抜けて強烈である。あれほど美しい音楽なのでそれゆえに訴えが増強される。チュイコフスキーの方が意外に楽譜が必要になった。視覚的な情報がかなり強かったと思われる。放送ではそれ程の粒立ちが無い。来週のスイスからの放送を比較してみたい。



参照:
2018年産最初の試飲会 2019-05-05 | 試飲百景
眠れなくなる射幸心 2019-06-06 | 試飲百景
分かるようになる話 2019-06-02 | 試飲百景
# by pfaelzerwein | 2019-09-13 04:13 | 試飲百景 | Trackback

クラウドに上げるデータ

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クラウドにデータを上げた。公共性のあるものをデポしておこうと思った。公開する訳ではないが、個人情報的なものでない限りとてもいい使い方だと気が付いた。独テレコムの無料で付いて来るものは25GBしかないので限られる。二回線合わせても50GBにしかならない。それでも再入手が難しく、貴重な録音録画を上げておこう。音楽データとしては40時間、映像とすれば10時間にも満たないが、既にペトレンコ指揮の幾つかの演奏記録は歴史的になっていると認識した。

先ず外せないのはルツェルンでの演奏記録からで、次に貴重なブレゲンツでの「千人の交響曲」だろうか。コンサートでは、DWが収録しているであろうボンでの公演、ベルリンでのオープニング二回ぐらいが貴重だろうか。オペラは、初日の録音はなかなか見つからないが、録画の方は「マクベス夫人」と「ヴァルキューレ」を除くと音質は別にしてある程度のものはネットでも見つかる。

月曜日のコンサートの批評が老舗新聞ノイエズルヒャー新聞に出ている。アブラームセンに関しては歌手のハニンガンの歌唱の秀逸について、メシアンに関しては流れるような指揮について、なんともみすぼらしい批評である。色々と感想があるのだろうが公に書くほどの準備をしていなかったという事だろう。独語圏の一二を争う高級新聞の文化欄がこの程度だから知れている。だからあの指揮と管弦楽で通ってしまうのだ。想定通りだ。

結局火曜日の早朝に就寝して、火曜日一日は疲れて、眠かった。水曜日になって初めて森を走れた。洗濯屋にシャツを二枚出した。来年まで着ないシャツである。夜も寒くなって来たので、寝間着もそろそろ長袖が必要になる。

新聞の文化欄に短報があった。フランクフルトのアルテオパーの支配人が来年秋シーズンから変わるようだ。今までいたステファン・パウリ―はヴィーンの楽友協会の支配人になり後任マルクス・ファインはフランクフルト出身で、以前ベルリナーフィルハーモニカーの芸術アドヴァイザーだったというから、これでまたフィルハーモニカーとの関係が出来た。ペトレンコを隔年でぐらいは呼べるのではなかろうか。地理的に、ギリギリバーデン・バーデンの地域独占権を逃れられると思う。移動時間一時間半ぐらいだから一部しか訪問客は重ならない。丁度ここワイン街道が中間ぐらいだからである。どちらもそれほど近くはないが、遠くはない、個人的にはとても都合がよい。

金曜日に取ってきたリースリングを何日かに分けて愉しんだ。新しいセグメントで独高級ワイン協会のクラス別けではPCにあたる。GCのヘレンベルクの上部の斜面である。だから酸もある。現在はまだ格付け申請中なので、ニーダーベルクを名乗れずにNBと記載されている。初年度の貴重な製品である。どうも春に試飲して気に入ったようで半ダースも予約してあって、驚いた。試飲しておらず購入してから再び試飲した。まだまだ若いが、青スレートの構築性と果実風味がハルガンツなどよりも上品で価格だけの価値がある。



参照:
次元が異なる名演奏 2019-08-18 | マスメディア批評
宇宙の力の葛藤 2019-05-20 | 音
# by pfaelzerwein | 2019-09-12 05:22 | ワイン | Trackback

管弦楽練習の立ち合い

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前夜は22時過ぎにはベットに入った。疲れていたからだが、朝五時ごろに目が覚めた。二十数時間後に帰宅しないのに不利だっと思った。明け方初めて指揮者キリル・ペトレンコの夢を見た。どこかで出会うのだが、声を掛けて自己紹介しようとすると、知っているよと言うようなことだった。なにも不思議な夢ではなかったが、覚醒してから一体ルツェルンなどには来ないのは分かっているのだが、なぜだろうと思った。

予定通り14時前に無人の国境を超えた。そこから高速に乗って、ベルン方面へと向かう。手っ取り早く現金を出して、音楽勉強とピクニックをしなければいけない。湖の近くの休憩所で車を停めようと思ったら秋まで閉鎖されていた。仕方が無いので湖の街に下りて、過ぎ近くの木陰を求めた。高台に出ると村のスポーツ施設の駐車場に木陰が出来ていた。山にもすぐに入れるところだ。

村は高台にあって湖へと絶景が開いていた。後で調べると前回ピクニックした場所の対岸に当たる。南向きなので夏は暑いかもしれないが、秋は気持ちが良いだろう。ピクニックをして早速音出ししながら楽譜を一通り捲る。眼を通すのは二回目なので、巻頭の文章を読まないでも曲の核心や構成は分かるようになる。同じプログラムのベルリン公演でのプログラムのPDFも持ってきたので、それにも目を通す。

こうした時に助かるのがノイズキャンセリングのイヤフォーンで道路脇の駐車場でも集中して音楽を聴ける。嘗ては本当に森の中でしか不可能だった作業が、状況によっては高速道路の脇でも可能となった。こうしたことの銘々の積み重ねが、人々の営みの積み重ねが二十世紀の古典の演奏の水準を上げて行くことになる。つまりレパートリーとして核となって行くことになる。その中でどのような作品が残っていくかは分からないが、少なくとも楽譜によってその創作意図が明確で、各々の演奏媒体に課題を与えるような作品は、定着していくように思われる。

水曜日は先ずバイエルンの放送局で8月29日の演奏会中継が放送される。恐らく最も難曲であるシェーンベルク作曲ヴァイオリン協奏曲作品36の歴史的な演奏が流される。初演者を除くと録音だけでも幾つかの試みが残っているが、そのどれもを凌駕して、復活祭で同じ演奏を聴いた時にもミヒャエル・ギーレン指揮のミヒャエル・バレンボイム独奏の名演を超えることは無かった。しかし漸くある水準の演奏が成し遂げられた。

ある水準とは月曜日に管弦楽練習の立ち合いを終えた作曲家のハンス・アブラームセンの言葉を借りればその定義が出来よう。つまり細かなところを修正して、創作意図を伝えることが出来るかどうかに尽きるのである。作曲のシェーンベルクは半世紀前に亡くなっていて、その示唆を直接受けることはできないが、数多くの研究と文献もあり、その意図を正しく音化することは全く不可能ではないのである。



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ラトルファンの嘆き 2019-09-10 | 音
彼方の閃光を目指して 
# by pfaelzerwein | 2019-09-11 04:07 | | Trackback

ラトルファンの嘆き

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夜中一時過ぎに帰宅した。最後のスタンドに入ったが寝ることなく、直ぐに帰宅を急いだ。車庫出しが二十二時の二分程前だったので、所要時間三時間十分ほどだろうか。往路は小さな国境通過路で、十四時前で偶々誰も居なかった。帰路はバーゼルを通過したが三四人組がコントロールしていたが、一礼で済んだ。先月のスイス人によるフランクフルト中央駅での事件以来コントロールするようになっている。

さて音楽的な成果はどうだろうか。サイモン・ラトル指揮ロンドン交響楽団は初めてだった。少なくとも演奏に関しては、40年以上ファンとして通い続けたこの指揮者のコンサートやオペラの中でワーストの出来だった。ベルリナーフィルハーモニカーとのベートヴェンの第七交響曲と双璧だった。何よりもメシアンの解釈には期待していたが、とてもではないがカムブレランの様には楽譜も読み込んでおらず、リズムの処理もお粗末だった。本人としては管弦楽団の力量として言い訳を用意しているのだろうが、少なくとも辞任に際してフィルハーモニカーよりもラトルを支持していた私のようなものには通らない。

サー・ラトルは明らかに都落ちをした。ロンドンの交響楽団の技術程度はドイツの放送交響楽団程度である。マイクを通しては気が付かなかったが弦楽陣は下手である。コンサートマスターから後ろまで各々皆水準に達していない。管楽器陣は大編成の為にエキストラがたくさん入っていたとしても、例えばオーボエのコッホ嬢でも、音合わせは安定していたのであれと思わせたのだが、マイヤーの後釜に座るほどの力はなかった。フルートの首席も一人祝福されたが、到底パユと比較する訳にはいかない。金管はコントロールも効かないのでブラスバンドの様で、たとえベルリナーフィルハーモニカーが何だかんだと言っても、それはとても音楽的に制御されている。

ロンドン交響楽団の芸術的な価値は、アメリカのビッグファイヴの中からの指折りの楽団とフィルハーモニカーの三分の一ぐらいだ。実際に今回の演奏会はジーメンス財団の特別演奏会ツアーだが三分の一以下で個人的には30フランしか払っていない。彼らのコンサートに超一流と同等の入場料を払うのは全てラトルの知名度に払うと考えてよいだろう。

アブラームセンの「(オルフェ―リアの)レットミ―テルユー」の再演でのバーバラ・ハニンガムの歌の技巧に対応できない管弦楽とは一体どういう事だろうか。なるほどコンサート前のリハーサルに手間取って作曲家がガイダンスに現れるのが遅れた。サウンドチェックの心算が音楽的に重要な技術的な修正へと追い込まれたのはよく分かる。会場の音響を使い切れるだけの楽団では無いからだ。

本当のラトルファンが、ロンドンでの活躍で期待するのはベルリンでは出来なかったコンサートでありそこでの音楽表現である。しかし今回のを聴くと、メシアンなどは振るかどうかは別にして、ペトレンコ指揮ベルリナーフィルハーモニカーで演奏されると全てが塗り替えられてしまう。まるでラトル指揮の演奏はペトレンコ指揮によって塗り替えられるために存在するかのような趣になって来た。



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彼方の閃光を目指して 2019-09-09 | 生活
初心に帰る爽快さ 2018-09-09 | 文化一般
# by pfaelzerwein | 2019-09-10 19:57 | | Trackback

彼方の閃光を目指して

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月曜日の準備をしている。楽譜は準備していたが、手元にあるCD「彼方の閃光」を流した。以前からどうなのだろうかと思っていたが楽譜を見ると、駄目なことがハッキリした。チョン指揮のパリの座付楽団であるが、演奏技術以前に指揮も冴えなく、読みも明らかにおかしい。特にテムポの選定は理解できないものがあった。それによって全体の印象が一晩のコンサートで最後に向かって盛り上がるような設定と言うような場違いを感じた。

何曲初演をしていて作曲家と協調をどの程度しているのかは知らないが、とてもではないが肉声が伝わらない。大らかにやれば何か伝わるというものでもないと思う。ネットでカンブレラン指揮のSWFの録音があったので道中はそれに切り替えたい。同じプログラムのベルリンでの内容は冊子をpdfで落とせたので目を通しておく。

車のエンジンオイルもバイロイト以降消費した分を足して、燃料も土曜日の帰りに満タンにした。そこから25㎞ほど走ったが、まだ満タンに近い。往復700㎞行かない予定なので通常は給油無しで問題が無く帰宅可能となる。前回はバーゼル経由だったが今回は横から抜ける心算だ。前回も同じ月曜日だったが今回は一時間ほど遅くなるが、工事とか交通量で問題の少なそうな小さな国境の橋を渡る。検問はどちらが引っかかりやすいかは分からないが、それ以外の利便性を考える。距離として片道6㎞ほど伸びる。通常は渋滞の可能性が低い方がつまり交通量の少ない方が早い。春から数えると一回毎に国境通貨場所を変える。通常はチュ-リッヒへの近道であるが、ルツェルンにも遠回りにならないことを今回初めて確認した。

スイスフランは手元に無くなっているので再び換金の必要がある。30フランで充分だろうか?18時頃に入車ならば駐車料11フラン、プログラム、飲み物、それで事足りる。何時もの様に最低のピクニックの準備はする。11時過ぎに出ればよいので、昼食兼夜食となる。飲み物は二リットルか。葡萄若干と往路ののど飴、帰路分は会場で調達する。

終演予定時刻は21時45分なので、帰宅予定は1時30分を目指したい。往復は疲れるが、ゆっくり時間を掛けて走って、途中給油無く、一時間ほど湖の脇で楽譜を見れれば寛げる。以前は早く走る事しか眼中になかったが、リラックスしてゆっくりと走り、休憩する効用も知るに至った。なによりも巡航運転を心がけると燃費が良くなる。

衣裳も涼しくなったので考えものだが、前回と同じで済ましておこう。幸い現地も月曜日は天気が回復して暖かくなりそうだ。ゆっくりとドライヴをしてピクニックをするには全く文句のつけようがない。前回湖の周りをほぼ一周したので土地勘も大分ついた。問題は時間がどれだけ余るかだ。

そこで思い出したのがルツェルンの特別な駅前の交通規制で、以前は使っていた一本手前の道を入っていくと駐車場に入れない。一度は強引にUターンして戻ってきて、二度目は隙を窺って強引に公共自動車帯に乗り行ったが、いつかは恐ろしい罰金を取られる。しかし順当に入ると大回りして渋滞する。何とかならないかと思う。



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中央スイス周辺を展望 2019-08-30 | アウトドーア・環境
走馬灯のような時間 2018-09-06 | 生活
# by pfaelzerwein | 2019-09-08 23:55 | 生活 | Trackback

再び求道的な感じ

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ブカレストからの中継を二日続けて聴いた。二日目はカメラが入っていて生ストリーミングに司会までついていた。お目当てはユリア・フィッシャーのブラームスである。ユロスキーの協奏曲の合わせ方はペトレンコのように「鳴くなら鳴けよホトトギス」では無くて、「鳴くように鳴きましょうホトトギス」ととても食い込む。あれだけ食い込んで今までやってきているのが大したものだと思うが、一寸類稀な技能ではないかと思う。歌手に対してもそうならばテムピさえ定まればどのようにでも合わせて音楽を作れるという事になりそうだ。

勿論フィッシャーもそれに応える以上の名演で、この女流がここまで来たのに驚いた。ペトレンコとはドッペルコンツェルトだったから、そこまでは自分の音楽も出来ていなかったと思うが、ユロスキーがあそこまで合わせて盛り上げて呉れれば大喜びだったのは当然だ。貰った花束もオーボエの女性に渡したのはそれだけディアローグをしていたという事で、そもそも指揮者がそれだけ合わせていなければ奏者がそこまで合せられない。

フィッシャーもお産後にダイエットしたのか、痩せて若々しい顔になって、求道的な感じが再び出てきている。楽器はグゥダニーニであるがこれまた昔クレメルが弾いていたようなのとはまた違い状態がいいのか驚くほど鳴る。アルテオパーでバッハリサイタルを聴いた時にはこれほど鳴っていなかった。恐らく今この曲を弾かせたら一番巧いのではなかろうか。



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若手女教授の老人へのマカーブル 2010-03-19 | 音
女手で披露する音楽文化 2013-05-18 | 女
# by pfaelzerwein | 2019-09-08 05:04 | | Trackback

玄人が足元を見ると

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靴を買ってきた。選ぶのに予想外に時間が掛かって一時間以上いたので殆ど不審者になっていた。帰宅後に足が冷たいので見ると完全に穴が開いていたので、玄人がみると酷いものを履いているなとも思われていただろう。それでも何とか買えてよかった。後継のブーツを買う心算だったが、同じメーカーにも他所のメーカーにも良さそうなものが、つまりシックなものが無く、普通のシューズとなった。

結局地元のメーカーのシリーズの中から一番いいものを選ぶことになった。靴のサイズは固定して、少々ヴォリューム感が無くても無理に足を押し込むことになるので形は崩れるだろうが、最初から良くないものよりは良いだろう。物でないだけに更に爪先は細くなったが、歩き易く、直ぐには崩れてしまわないことを願っている。形がもう一つのものや色が奇抜なものは安売りで20ユーロほど安かったが、グリーンはまだしも爪先が紫はジーンズに合わせ難くなる。そもそも裾の中に入れるとブーツも普通の靴も同じにしか見えない。足入れは少し良くなるが、タイトなので靴ベラは必要だ。歩くだけでなく、車も運転し易そうなので先ずはこれで良し。金額110ユーロは微妙なところである。

歩くことが目的ではないので、オペラの立ち見や、日頃の買い物などジーンズを履くところはこれ一足で済ませてしまうので、現行だったものが六年持ったので、四年ぐらいは使いたい。要するに外国旅行に出かける時もスーパーに出かける時もこの靴を使うのである。同時に部屋履きのスリッパも展示品しかサイズが無かったので安売りで30ユーロで購入した。冬場の一シーズン半ぐらいしかこちらは持たない。

靴屋に行く国道が往路は通れたが、復路は閉鎖になっていた。アウトバーン化が進められている国道だが、何をしているのかはよく分からなかった。少なくとも途中の醸造所に行く降り口は閉鎖になっていたので、靴のレットアウトセンターからの復路と、醸造所から自宅への帰り道を頭に描いていた。クライミングに通っている場所なので土地勘はあるが、迂回路の指定の仕方によっては混雑しているだろうなと思ったからだ。実際に靴屋からは途中まではいつもよりも交通量は多かったが狭い道を結構飛ばせた。最後は上手く醸造所の街へと抜ける街道へと逃れて交通量が減った。しかし狭い旧ワイン街道を走ることには違いが無かった。

土地勘が無ければ不安になるような細い街路を通り、いらいらするだろうが、流石慣れていると距離感が掴めるので慌てずに走れた。醸造所から自宅へも旧街道を通る方が距離が短く、直ぐにハムバッハ―城なども見えてきて気持ちが良い。昔はくねくねとして嫌だと思った道だが、最近はバイパスが完備して交通量が減って走りやすくなっているぐらいなのは、丁度ワイン街道が自宅の市街地を抜けるのと同じである。



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茶色のファッション靴 2013-06-25 | 生活
雑食砂岩で新しい靴を試す 2012-05-14 | アウトドーア・環境
# by pfaelzerwein | 2019-09-08 03:44 | 雑感 | Trackback

adagio molto e cantabile

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承前)第九についてプログラムに高名なヴァークナー研究家のフォス氏が独語解説を受け持っている。また公演前のガイダンスではシュテール女史が味のある解説をしていた。多くの人が感動したようだが、個人的にはまた独自なことに感じ入ってしまっていたかもしれない。なんといってもベルリンでの初日の演奏もあまりにもセンシビリティーに富むもので、楽聖の「心から出でて心へ入る」の「ミサソレムニス」に付けた言葉が浮かぶしかなかったからだ。

二月にミュンヘンで「ミサソレムニス」を体験していたので、その作曲背景も楽聖の考えていたことはとてもすんなりと理解可能なのだが、その時代背景やその環境に関しては勉強不足もありどうしても隔靴掻痒の感がある。古典芸術を愉しむということの意味は多少の差があれどそいうことではなかろうか。

ガイダンスの話しは、それこそ子供の頃に読んだような伝記に載っている聴障害が1818年には完全に来ていてというところから、その手紙などを紹介していたと記憶するが、「ミサソレムニス」に於ける状況つまり「フィデリオ」を含んで全ての交響曲を全て抱合してしまうような時間的なスパンを考えることで、更に第九における作曲状況をそこに繋ぐことが可能となる。まさしく楽聖の世界観であり、その聴世界へと少しづつ近づけることが出来たと思う。

ルツェルンでの公演では第三楽章を皆が絶賛するように、ベルリンやどうもザルツブルクでは無し得なかった深みへと大きく踏み出していた。その会場の音響が大きな後押しをしたことは間違いなく、たとえ本格的な録音が存在しなくとも全ての人に今後とも大きな影響を及ぼすに違いないと思われた。

最後のシーズンを迎えたコンツェルトマイスターのスタブラーヴァが二人目で弾いていて、その後ブカレストでインタヴューとしてその三楽章と後期の四重奏団との関連について、最早メロディーではない語り合いとしての音楽について、楽聖の内声について語っている。そしてEsホルンによる追想も演奏後に特別に賞賛されただけの価値があった。

ベルリンでの演奏ではペトレンコの指揮するアダージョモルトエカンターヴィレの踊りが余りにも軽みを以ってややもすると軽薄な感じさえ与えて、最も疑問とされたところであると同時に最も改善される可能性のあったと見越したところだが、ルツェルンの音響ではどこまでも優しい低弦の支えと対旋律がデイアローグすることで、比較するものは正しく後期の作品群でもその調性を超えて例えば同時代の30番のピアノソナタの飛翔を思い浮かべるしかなかった。軽やかな歩みを以って雲上の散策となる。そこの表現は恐らく嘗て今までなされたことの豊かさだったのだが、全ては基調として準備されていたことになる。兎に角、一楽章のあまりにも具体性を持った音楽は、「ミサソレムニス」のコーダの戦争シーンにも劣らず迫真に満ちているだけでなく、二楽章に於いても独伝統的配置でのフモーアに溢れる楽想があり、三楽章のパラダイス寸景へと踏み込む。

三楽章の所謂後期の作風のアンダンテ動機そしてテムポIで戻って来ての16分音符の刻みが、その舞いが主なベルリンでの批判点が、これが精度を上げて右の第二ヴァイオリンの上に第一ヴァイオリンが乗って、またはヴィオラが呼応して、クラリネットが絡んで、Es管のホルンが楽譜通りに、第一ヴァイオリンが32分音符の刻みが音価を保ってと想像して欲しい。確かにベルリンでは浮ついてしまっているのはその精度が全てを語っている。

ベルリンでの録音を聞けば拍の掘りとかいう以前にどうしても走りかけているのは致し方ないかもしれない。それが回数を重ねることで音価とリズムが揃い精度が上がるだけでその音楽の表情が悉く活きてくる。音楽演奏実践とはそういうことをいうのであって、如何にルーティンでなく新鮮な気持ちで正確に合せて演奏するということが難しいかということに過ぎない。ここはとても好例だと思う。ルツェルンではこの楽章の演奏がどれほど素晴らしかったかがこれで想像できるかと思う。なにもキリル・ペトレンコでなくても、幾らでもやることはあるのだ。それによって少しでも楽聖の心の中に入って行けるのである。合わせるということは、四重奏曲のようにというのは、そのことでしかない。(続く



参照:
歓喜へ歌への対照と構成 2019-08-24 | 音
飛ぶ鳥跡を濁さずの美 2019-01-25 | 音
「平和を」の心は如何に? 2019-02-22 | 女
# by pfaelzerwein | 2019-09-06 16:22 | | Trackback

ブカレストからの生中継

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ブカレストでのエネスコ音楽祭生中継を聞いた。時差が中欧とは一時間あることは今回知ったが、それでも23時過ぎまで演奏していたのだろうか。音質は、少なくともイタリアのraiによるスカラ座中継よりは普通だったが、盛んにクリップさせる。収録に慣れていないのだろうか。更に会場の雰囲気が分かり難いので、舞台以外は可成りオフになっている感じがする。それでも残響は分かった。

仕事をしながら離れながらだったが、リヒャルト・シュトラウス作曲「影の無い女」全曲のコンサート形式演奏会生中継で印象は得た。まず最初の音からしてアタックも弱く引き締まりが無い。ベルリンでの演奏などは前任者ヤノスキーの傾倒を受けて高度なとかあるが、どうもベルリンには前任者への信心があるようだ。あの最初の和音だけで明らかにミュンヘンのペトレンコ指揮とは比較できないばかりか、ナガノ指揮のハムブルクの座付の方が鋭いかもしれない。

そこからすればユロスキーがペトレンコの後任としてミュンヘンで振ってもそれほど上等な音とはならないと予想する。なるほど楽団がネルソンズ程ユロスキーを欲しなかった要因は何となく見えてきた。少なくともコンサート指揮者としては頂点にまでは至らない人だと認識した。

しかしである、この問題の多い作品をコンサートでここまでドラマティックにそして心を揺さぶらせる指揮をするのには改めて魂消た。ペトレンコ指揮演奏の場合は楽譜を確認しようとさせるが、この指揮者の場合は楽譜を見るまでも無く、その核になる部分を拡大鏡で拡大して光を当てるような指揮振りが分かる。しかしそれでいて全体の中での部分が綺麗に収まるのはこの指揮者の稀有の特技で、それは管弦楽曲を振っても全く分からないように次の部分へと綺麗に受け渡される。

こういうのを聞かされると、支配人が確りしてプロジェクトコンセプトが立派ならば如何ほどの劇場的効果が得られるだろうかと胸が一杯になる。ペトレンコ時代には得られなかった本当の劇場的な感動が体験できるかと思うと今から感動してしまう。

述べたようにコンサート指揮者としては頂点に出る人とは思わないが、音楽劇場指揮者としてはその才能からすればピカイチではないだろうか。パパーノも確かに悪くはないと思うが、その音楽的な作りの輝きはとても比較にならないほど素晴らしい。バーデンバーデンやザルツブルクは次を見るならばネルソンズよりもこのユロスキーに話しを付けておくべきだろう。

これでまたミュンヘン通いが続きそうな塩梅になって来た。一方でペトレンコがベルリンだけの定期演奏プログラムでは古典やロマン派の恵まれない曲の実験をするというのであるから、余程の曲でない限り態々出かける必要はないだろう。そもそも年に14回を超えるようなプログラミングは必要ないとされているので、少なくとも前任者ラトルの時のように頻繁に指揮台に君臨するという事はなさそうである。2020/2021年シーズンにおいても2022年6月にはミュンヘンのオパーフェストを最後に振るとなれば、実質九カ月未満しかベルリンでは振らない。2020年11月は東海岸でのお披露目なのだろうか。記者会見風景を改めて観ると2020年8月のオープニングツアーは、スークとバレンボイムとの協奏曲が第二プロでまず間違いないだろう。第一プロは「千人」だろうが、「ミサソレムニス」をどこに入れてくるのだろうか?



参照:
オーケストラがやって来た 2019-03-12 | マスメディア批評
一級のオペラ指揮者の仕事 2019-01-14 | 音
# by pfaelzerwein | 2019-09-05 19:34 | | Trackback

ルツェルンでの視界

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涼しくなってジーンズを履いていたが、また脱いだ。明日からは冷えるので再び厚着になる。マンハイムに行って結局往復100㎞走った。理由はラインに掛かる橋の二つの一つが一方閉鎖されていて、混雑して遠回りをしたからだ。次の橋はアウトバーン六号だがそこへのアプローチも街の中を長く走るのでラッシュアワー時には混む。そこで次の橋を目指した。実際にはスパイーヤに抜ける橋なのだが、これも閉鎖されていたようで、一番手っ取り早くホッケンハイムリンクがあるところまでアウトバーンで南下してスパイヤーの所で別の橋を渡って戻って来た。それでもホッケンハイムの所で渋滞していた。更に南のカールツルーへも工事中で週末は完全に閉鎖される。州が違う以上に橋を壊してしまうと直ぐに第一次世界大戦後のようにフランスに帰属してしまう。若しくはバイエルン王国の飛び地になって仕舞う。これだけ自然境界がハッキリしていれば食文化も言葉も全く異なってもおかしくはない。

先週のルツェルンの話しで書き忘れていたことがあった。中継ラディオで、指揮者ヒュルサのインタヴューから、会場の音響についての事だ。兎に角素晴らしい音響という事だが、具体的には舞台の上でも会場でも同じように響くという。舞台は立ったことが無いので分からないがマイクで捉えている音はあの残響の感じと透明感なので差がないものと思う。そして色彩も手伝って明るいのもよいとしている。指揮者自身古いホールが好きだというので、つまりシューボックス型と言う意味になるが、やはり近代的なホールは異なるとしていて、勿論その長所を評価している。つまり彼の言う通り欧州で相当するホールは二つしか存在しない。

今回初めて2.Balkonのそれも四列目だったが与えられたのだが、一年前のランク下の3.Balkonよりは間違いなく良かった。ゲヴァントハウス管弦楽団はその3.Balkonの二列目だったので、昨年の四列目の視界に入る庇は全くなかったが、音響は殆ど変わらなかった。なるほど最前列とかは視界も効いて、より本天井からの跳ね返りもあるだろうが、少なくとも2.Balkonで確認した残響はそこでは確認できなかった。来週の月曜日は1.Balkonのサイドに座るので、これで大体ホールの一通りの特徴が分かるようになると思う。

少なくとも大編成の場合は平土間で視界が良く効くところは限られそうで、それは態々見に行った時に戸口のおばさんにまで「大編成では前の方はあんまりよくないわよ、そりゃーバルコンの方がいいわよ」と言われてしまった。その通り、視界の効き方は多くのことを語っているので、同様の意味から1.Balkonは若干俯瞰し難い角度になる。勿論月曜日と同じように最前列は悪くはないだろうが、最高級価格になって、その価値が保証されるのは当然でしかない。大阪人の言う、高くて旨いのは当たり前なのだ。来年以降のことは月曜日以後に考えるが、少なくとも価格比からすれば今年割り与えられた座席には満足している。駐車場の4時間超えての15フランもミュンヘンの事を考えれば半額だ。

昨年と異なって三泊しただけで、昼間の室内楽と友人の前座コンサートに出かけ、結構盛り沢山となっていた。アカデミー講師やレジデンス作曲家など仲間が多かったのも良かった。もう一泊位しても良いぐらいかなと思うが、来年の日程が決まらないと何とも言えない。同じ宿が取れれば文句なしで、やはり重要である。

やはり通わないと分からないものも少なくなく。ミュンヘンでも同じであるがこちらの要領も良くなり、無駄も減り、都合よく物事を進められるのが良い。ザルツブルクも一時同じように通っていたのだが、そこまでは中々居心地が良くならなかったのはネットで手頃な宿が簡単に見つけられなかったことが大きいかもしれない。

今晩はエネスコフェスティヴァルからの中継があるので楽しみだ。ミュンヘンの後任音楽監督ユロスキー指揮「影の無い女」を先日のベルリンに続いて演奏会形式で演奏する。この曲で少なくともリヒャルト・シュトラウスのその指揮振りを窺え、更にオペラでの指揮をある程度想像できるかもしれない。



参照:
歴史的独楽器配置の箱 2018-09-05 | 文化一般
無料前座演奏会の光景 2019-08-28 | 音
ルツェルンの最初の夜 2019-08-27 | 暦
# by pfaelzerwein | 2019-09-04 23:44 | アウトドーア・環境 | Trackback

限り無しに恨み尽くす

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マンハイムへの途上、車中のラディオが面白い話をしていた。アウシュヴィッツの生き残りで、イングリッシュ室内合奏団の創始者の一人の女性の話しである。アニタ・レスター・ウォルフィッシュと言う女性で、昨年ドイツ連邦議会で講演をしたようである。裕福なブレスラウのユダヤ人家庭に生まれ育ち、17歳でアウシュヴィッツへと送られる。趣味と教養として習っていたチェロを弾けたことから、収容所の少女楽団に採用されて命拾いをしたという。そのお蔭で、一日中演奏をさせられたというが ― ヨーゼフ・メンゲルの前でも演奏したと語る ―、 英国軍によって解放されるまで生き延びた。

ドイツの地は踏まないという強い恨みを持ち続けていたが、最後まで恨み続けることで自分自身を潰すと考えて、講演に至ったようだが、そこで語ったことの一部として、「最早今日、アンティセミティズムは問題ではない、問題であるのは今欧州での難民に発した直面した問題である。」語った。

この考え方を肝に銘ずるべきだ。要するにAfDの様な連中がアンティセミティズムを口にしなければ逮捕されない一方、その仲間であるPEGIDAなどがあからさまに反イスラムのアピールをしている事こそが同じだけの問題であると、ホロコーストの当事者が語る以上、無視できないのである。

そこでアジテート演説をするような元祖バイロイト音楽祭音楽監督のような輩をとことん叩き潰さなければいけないのはそれ故に当然の良心的な市民の義務なのである。そうした背景無しには、所謂まともな機関のまともな官僚などがティーレマンを結果的に排除するような方向へと動くのは当然の事であり、こうした事情を知らずには我々がなぜあそこまで元祖を追いつめるかが理解できないだろう。

なにもモサドのように執拗に追いかける訳ではなく、またザルツブルク州の責任者が「我々はティーレマンを排斥しようとはしていない。」という言葉に表れるように、そのもの「自ら去ね」と形を変えて発言しているのでしかないのである。それを敢行するために天敵のように現ミュンヘン歌劇場支配人のバッハラーを復活祭支配人に指名したのであり、それをしても即座に辞任しなかったティーレマンは最後まで後手に回ることになる。

来年からバイロイトで「指輪」を演出するヴァレンティン・シュヴァルツが「トュ―ランドット」を演出して初日が開いた。新聞評によると未完のままの上演でお客さんに戸惑いがあったようだ。ダルムシュタットはなぜか質が高いので、歌手や演奏は良かったようだ。

キャストやスタッフを見ると知った顔が出て来た。二月にミュンヘンで「ミサソレムニス」の合唱を担当していた指揮者がダルムシュタットに移っている。それを知ると明らかに左遷のようにしか思えない ― 合唱のバランスが悪かった。日本で問題になった「タンホイザー」もこの人だった。来年は千人の交響曲もあるので、現在の主任が責任を持つのだろう。とても重要である。



参照:
Die Holocaust-Überlebende Anita Lasker-Wallfisch erhält Deutschen Nationalpreis, SWR2
真夏の朝の騒がしさ 2019-07-26 | アウトドーア・環境
新支配人選出の政治 2018-11-13 | マスメディア批評
# by pfaelzerwein | 2019-09-03 22:05 | | Trackback

逸早くする次の準備

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「彼方の曙光」の準備を始める。オリヴィエ・メシアンの最後の作品である。来週の月曜日のルツェルンで演奏がある。とても楽しみな演奏会である。手元には嘗てザルツブルクの音楽祭でプレゼントされたCDがあるが、それほど熱心には聴いていない。準備のために調べると全曲のフルスコアがネットにあった。少なくとも二度と聴くことがあるかどうか分からない曲の高価な楽譜を注文することも無く、なければそれで終わりだ。しかしこうして手が届くとなると便利なようにコピーを試みた。日曜日の晩はこれに時間を費やした。

所謂内職と呼ばれるという作業でpdf製本までしたが、先ずはPNGファイルで事足りる。よくも300ページに及ぶ手仕事をするなと我ながら暇人だなと思うが、決して無駄な時間が流れただけでもない。少なくともページ数を確認してモニター画面を切り取って並べて行くだけでも何かが分かる。楽譜ずらのスケールや特殊な進行や扱い、更に大まかな管弦楽法などなによりも全体の大きな流れとまるで通して聴いたような気になる。少なくとも会場でのプログラムの見出しよりも分かるのだ。

そもそも我々の様に初見でこうした曲を簡単に音に出せるような人間でない限り、時間を掛けてアナリーゼするのとこうしてざっと目を通すのと差はそれほど大きくないのだ。何よりも大曲の場合は大まかに流れをつかめる方がとても為になる。少なくとも最低のオリエンテーションとなった。さらにCDの音を出しながらも細かく見て行くことになる。とても楽しみである。

同時に今週の予定をざっと洗った。気を付けないといけないのは週末に出かけるワイン試飲会とグローセズゲヴェックス解禁に伴って発注したものを回収してこないといけないことだ。注文していながら開けれないので試飲させてもらうのが大切になる。下位のワインで出来は概ね分かっているのだが、寝かすとなるとビフォア―・アフターを押さえていないとお話しにならない。

先ずは金曜日夕刻にナーヘに行って、翌土曜日は南プファルツに出かけて、まず先に更に山奥に入ってシューズマーケットで新しい普段の靴を探す。その帰りに醸造所に行って試飲する。その日程と時刻を確かめた。

新聞によると、ザルツブルクの復活祭人事からの問題が早くも大詰めに至ったようだ。最初に来年から支配人になるバッハラーが22年以降の音楽監督ティーレマンのプログラムを蹴って、それによってプランが乗り上げたとある。そしてティーレマンが再びザルツブルク州当局に書面でプラン実行の了承を求めた。それに対して九月になって初めて9月17日になって理事会で論議される。しかし、ドレスデン側はティーレマン抜きでも来年以降の契約を延長したいと声明した。つまり、シュターツカペレドレスデンの指揮者は辞任に追い込まれる。同時にザルツブルク州はティーレマン込みの希望だとしていて、明らかに音楽監督の上に敵のバッハラー支配人を据えた判断と矛盾している。

さらに書いてあるのが、バッハラーのアイデアにはゲヴァントハウス管弦楽団の登場を目しているとあり、それならば必ずしもシュターツカペレは必要ではない。可成りガラガラポンの態勢になってきているが、それならば余計にシュターツカペレには新しい魅力的な顔が必要になる。ヴェルサーメストがそこに入ることがあるのかどうか?ネルソンズ指揮ゲヴァントハウスに匹敵する顔はそれ以外には思いつかない。



参照:
プログラミングの決定権 2019-08-22 | マスメディア批評
電話回線契約破棄の旨 2019-03-26 | 雑感
# by pfaelzerwein | 2019-09-02 22:34 | 雑感 | Trackback

コンツェルトマイスター

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承前)ベルリナーフィルハーモニカーのコンツェルトマイスターは各々個性もその技量も異なる。今回は樫本とスタブラーヴァの二人でオープニングツアーをこなした。前者はペトレンコのお気入りの日本人で、後者は最後のシーズンを迎えているポーランド人である。ペトレンコが発言したように世界中からやって来ている各々のオリジンをその音楽性を、フィルハーモニカーの核となるレパートリーと共に土台にしていきたいと、自らが遠くシベリア生まれであると付け加えた。

必ずしも人種やその文化が各々のコンツェルトマイスターの音楽性を左右する訳ではないが、樫本が同業者には高く評価されても通常の音楽業界ではそれ程は評価されないのにはやはりその音楽的な特徴もあるだろう。同じようにスタブラーヴァの弦に物足りなさも感じたり、逆に艶っぽさと強い弦を感じることもあるのも特徴である。そして初日には前者が、二日目には後者がリードした。しかしその個性だけでなくて、それは楽曲に合わせてきていた。

つまり初日には制約されたヴィヴラートを樫本が、二日目には分厚目のスタブラーヴァが請け負った。それに関しては復活祭では、シェーンベルクの管弦楽には線の明晰さが欠けていた ― しかし特筆すべきは、復活祭では感られなかったシステム間の繋がりなどと同時に対抗配置の音響的な秀逸としばしばユーモアも体験できた。これはとても勉強になる貴重な体験だった。

またソロのコパンチスカヤのヴァイオリンも下手であった。楽器が全く鳴っていなかった。しかし今回は会場の音響に助けられるばかりか、楽団と共に表現がより幅広く大きくなっていた。そして音量感と音色が前日とは全く異なった。確かにスタブラーヴァは前任者ラトル時代の20世紀モダーンなレパートリーでなくてはならないコンツェルトマイスターだった。そして今回も後半にチャイコフスキーをもリードした。当然のことながら初日の後半の第九とこの第五ではヴィヴラートが変わってくる。

これが既に試し弾きのコントラバスにも徹底されていたのだろう。これが大きな相違だった。これによって何が得られたかと言うと、初日から二日目へと大きなダイナミックスの変化であり、その音楽のよりどころとなるバスの響きだった。つまり最終に掛けて音量も増していく、尻上がりの状態を、決して少なくない核となる二晩通う人たちに感じられるようにもなっている。昨年はフランツ・シュミットの交響曲四番の前の「ラペリ」にハイライトがあった。

二日目のプログラムが決まった時点では私達には知らされていない初日のオープニングのプログラムと同時に総合プログラミングされていたという事であり、決して思い付きでこのような演奏と演奏形態がなされているという事ではないのである。そしてそれによってシェーンベルクの世紀的な名演がなされた。

なるほどチャイコフスキーの交響曲五番の終楽章はベルリンの三日間は全て把握できていないが、今回初めて「涅槃」へと近づいた。それでもと言うかフィルハーモニカーはどこまでも喰い付いて来る。マイクが入っているとなると尚更だろう。ジャーナリストが好んで使う表現を借りれば鞭が入った。ゲネラルパウゼ前の最終コーナーである。現在のペトレンコと楽団の関係においては限界まで行ったと思う。今までで一番多く生演奏を聞いた管弦楽団はベルリナーフィルハーモニカーだと思うが、今までは二番目に多かったヴィーナーフィルハーモニカーの方をいつも愛しく思っていた。しかし今回初めてそれが変わった。

その反面、二楽章や三楽章は復活祭演奏の二回の一日目ほどの精妙さと表現の多彩さには至らなかった。二日目の演奏には今回一楽章は至っていたと思うが、若干分厚く響き過ぎた感があって、若干スラブ色が強く出ていた。そうした大フィナーレへの準備は、繰り返すが、初日から周到に進んでいたのだった。(続く



参照:
芸術の多彩なニュアンス 2019-04-15 | 文化一般
次元が異なる名演奏 2019-04-15 | 文化一般
# by pfaelzerwein | 2019-09-01 19:24 | | Trackback

索引 2019年8月


分かり易い筈の蟹の横歩き 2019-08-31 | 音
中央スイス周辺を展望 2019-08-30 | アウトドーア・環境
藁の匂い漂う村にて 2019-08-29 | 料理
無料前座演奏会の光景 2019-08-28 | 音
ルツェルンの最初の夜 2019-08-27 | 暦
三本足プラグは必携 2019-08-26 | 生活
お前はアホかの今は昔 2019-08-25 | マスメディア批評
歓喜へ歌への対照と構成 2019-08-24 | 音
ダブルヘッダーの予定 2019-08-23 | マスメディア批評
プログラミングの決定権 2019-08-22 | マスメディア批評
ブランデンブルク門を臨む 2019-08-21 | 歴史・時事
予備の電球を探す作業 2019-08-20 | 生活
指揮科教授のバイロイト 2019-08-19 | 音
次元が異なる名演奏 2019-08-18 | マスメディア批評
聴衆の一体感を再確認 2019-08-17 | マスメディア批評
アホをギャラリーする 2019-08-17 | 文化一般
近くて遠いバイロイト 2019-08-16 | 雑感
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Kawaiiからは遠い運命 2019-08-11 | 歴史・時事
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今は昔と感じること 2019-08-06 | 雑感
嫌いなMP3の報復 2019-08-05 | テクニック
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励起させられた覚え 2019-08-02 | 音
初代改め元祖の方がよさげ 2019-08-01 | マスメディア批評

# by pfaelzerwein | 2019-09-01 01:28 | INDEX | Trackback

「一聴瞭然」の蟹の横歩き

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ルツェルンでのコンサート評も出た。まだ最後のブカレストでの〆は分からない。ザルツブルクでの批評もざっと読んだ。様々な批評や印象を総合すると、同じような反応が初日の「ルル組曲」で起きていて、その分第九で喝采となっている。

ザルツブルクとルツェルンの聴衆を比較する心算は無かったのだが、日本からの旅行者がルツェルンのそれが冷たいとしていたので少し想像してみた。同じことは批評の中にもあり、ザルツブルクの聴衆は「パユやらマイヤーとかオッテンサムマー、ドールなどを初めて生で聞く人が多くそれだけで感動する」としている。これはある意味正しいだろう。実際私自身がパトロンをしていた時にもザルツブルクではオペラだけで、大管弦楽団コンサートは祝祭劇場では一度招待で出かけただけだった。要するに少し聴衆が異なるという事だろう。そもそもヴィーンの人がザルツブルクで態々コンサートを訪れる必要も無く、ミュンヘンのホールの無いコンサート難民が主となっていると思う。

だからあのルツェルンの人材派遣業者が招待したような場違いな人が沢山いた初日のルツェルンの晩と事情は変わってもその質はさして変わらない。それでも「組曲」が受けなかったというのにはまた別の理由がある。

同時に第九に関しては軒並み高級新聞等もそれを批評するのに苦心していて、バイエルン放送局のライポルト氏が正直に「(第九終了後の)その観客の反応には驚いた」つまりもう少し古楽器風の演奏をして欲しかったからだと言うように話している。また他のオーストリアの新聞は「三楽章は、木管楽器も休み、気持ちよく過ぎてしまう」と明らかにルツェルンでの演奏の様には行かなかったことを示すと同時に四楽章が合唱ソリスツとともに素晴らしかったことを伝えている。特に独唱陣がデクレッシェンドできる制御を賞賛している。

そうした初日に比較して二日目のシェーンベルクがハイライトだったとライポルト氏。この曲がなぜより容易な筈の「組曲」に比して大成功したかは、人によればコパチンスカヤの演奏を挙げるがそれはそれ程正しくないのはバーデンバーデンで同一プログラムを聞いて知っているからだ。但し管弦楽団があの時よりも更に上手に付けていたのは、ルツェルンを聞けば明らかだった ― 11日のラディオ放送で確認可能である。しかし実際にはルツェルンの近代的なシューボックス型のホールの音響によって格段に表現の可能性が広がったのも明らかなのである。

これがどれほどこの楽曲の本質を知るために重要だったかは体験すれば「一聴瞭然」であり、疑いの余地が無い事実である。そして僅かの残響の音の尾に次の拍の音を綺麗に重ねるつまり縦横に繋がるという事でしかないが、いかに正確に拍から拍へと移していくかの必要性が知れる。所謂点描的な扱い若しくは音色旋律的な扱いが12音楽法での管弦楽技法で重要になる。その意味からもベルリナーフィルハーモニカーの管楽器陣は見事に一言に尽きる。勿論弦楽陣の対位法の歌わせ方や反行などの表現は息を飲むばかりで、とてもではないがここまでの表現意欲はフィラデルフィア管弦楽団にはない。彼のゲヴァントハウス管弦楽団の内声の様にではなく、重要な線として出てくるところの合わせ方はここの積極的なヴィオラ陣の魅力でもある。

またもや昨年と同じように二日目の始めから大名演を繰り広げたのを思い浮かべ、またコンツェルトマイスターの相違について囁かれたのを、朝の森の中を走り乍考えた。そして水曜日から気になっていたコントラバスなどの試し弾きの音からして昨年とは異なっていたことのその不思議に一つの仮説が浮かび上がった。

具体的には昨年よりは格上の座席で尚且つ初日と二日目は若干席が横に五つほどずれたのだが、二日目には昨年と同じような響きが戻ってきた事への不思議の原因である。この仮説は、同時に「組曲」の「カニの前後上下」への動きの鮮やかさの方が遥かに誰にでも分かる筈なのだが、あまりにも理解されなかった不可思議の回答にもなっている。そしてその仮説がいよいよ確からしくなってくる。(続く



参照:
十二音の対位法の映像化 2013-12-20 | 音
次元が異なる名演奏 019-08-18 | マスメディア批評
# by pfaelzerwein | 2019-08-31 22:53 | | Trackback

中央スイス周辺を展望

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病的に眠い。帰宅は写真撮影さえされていなければ無事出来た。いつもバーデンバーデンからフランスに入って、プファルツに入るとほっとするのか眠くなる。最後のアウトバーンのスタンドの所で車を停めた。直ぐにぐっすりと眠りに入ったが、眼を覚ますと十分も経っていなかった。すっきりした。ルツェルンの会場kklの駐車場から出たのが21時45分ぐらいで予定よりも早かった。午前様も2時過ぎを予想していたが、1時過ぎの帰宅が可能となっていた。結果は1時20分ぐらいだった。眠気覚ましは会場においてある無料のリッコラーとハーブティーだけだった。

朝から宿で荷造り、無料のコーヒーを下に取りに行き、水をヴォルヴィックのペットボトルに汲みに行く。結局前夜はレストランで食事できなかったので、手元にあるパンの残りと干し肉、チーズなどで冷えたビール二缶と残りのリースリングで平らげた。朝食抜きで10時のチェックアウトを目指す。朝一番でゆっくりと時間を掛けたのでストレスなく終えた。

そこから駐車場で無料Wifiを使うが、陽射しが出ると暑くなってきた。この周辺は兎に角森が無い中央スイスの谷部の特徴が出ている。それで結局森の木陰を求めてのドライヴとなった。前々夜に試したワイン所を目指した。しかし失敗だった。結局湖の周りを一周して森を見つけて狭い道を走って、林道入り口に車を停めた。そこでコープで購入したサラダ類を食した。ひと眠りしてから、シェーンベルクのヴァイオリン協奏曲の楽譜に眼を通した。

結論として来年もこの宿を狙う。だから周辺を走ったのは今後の参考になる。方向を変えると動植物保護区域になっていて、次回はそこを試してみたい。しかし今回の細い道も車が一時間に一台ほどしか通らなかった。地元民しか通らないので、停めてたところにも夫婦連れがジープで来て一時間ほどして帰ってくるとシュタインピルツなどを集めていたので見せて貰った。

そして現在位置を確認すると宿と直ぐ近くまで戻って来ていることに気が付いた。湖を一周して片方の丘陵地帯の裏側に当たるからだ。それなら細い道をそちら側へと抜ければ、あとは道も良く知っている。時間を計ってkklへと向かえれることが知れた。途中帰宅の準備として燃料を30リットルほど加えておいた。公演終了後直ぐに帰宅の準備が整ったのだった。序でにもう一度朝出たホテルの駐車じょぷまで戻り、Wifiを使わさせて貰った。来年ももっといい思いをさせて貰いたいと思う。因みに宿代は三泊で226フランであるから、とてもお得だった。



参照: 
来夏の宿を予約する 2018-10-30 | 雑感
藁の匂い漂う村にて 2019-08-29 | 料理
# by pfaelzerwein | 2019-08-30 23:19 | アウトドーア・環境 | Trackback

三本足プラグは必携

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旅行の準備である。ホテルの自動チェックインのシステムを調べておいた。やはり誰かいる方が手っ取り早い。あとは道筋であるが高速からルツェルン手前10㎞ほどの所で下りて10㎞ほど地道を往復することになる。コンサート会場から車で30分ほどであるが、通勤の渋滞を避けないと酷い目にあう。

まず最初の日の夕飯が気になるところだが、21時半に終わるので、手頃なところでさっと済ましたいところだ。昨年は欲張って難民になって仕舞った。ホテル周辺もまだ事情が分からず22時過ぎになると厳しそうだ。駐車料金は四時間分払うか七時間分払うかだ。車庫入れは17時半が目標だ。すると四時間は厳しい。

いっそうの事、アイスボックスは火曜日の朝までは効くので、夜食を持参してホテルで片づけるのもいいかもしれない。いつものピクニックに加えて、冷えたワインと夜食にするためにジャガイモサラダを作り、ヴィーナーでも持ち込むか?すると予定していた湯沸し器に加えて卵茹で器を持参するのも方法かもしれない。365Wなので全く問題はない。寧ろ湯沸し器はヘアードライヤーよりも大きいので昼間にでも試しておくべきか。そこで必携品はスイス向きの三本足アダプターだ。序でにスイッチ付き三又を持って行こう。

すると朝食用に紅茶のティーバックとハーブティーを少々、翌日にスーパーでアイスや食材など適当に買う。エンメンタールの裾になるのでチーズはいいのが入るだろう。パン屋は地元の人に聞いてみないとどこが手作りか分からない。ナイフは車に収めてあるヴィクトリノックス、それ以外にボールを持って行くと野菜を洗ってサラダに出来るかもしれない。アルミフォイルとキッチンペーパー、紙の皿、フォークとナイフ以上。

お泊りセットに、タブレット以外にPCを持って行くかどうかがカギだが、滞在期間中に重要な生中継が無いならば要らない。そこでルツェルンのプログラムを見ていたら、友人が出るコンサートがあったので出かけることにした。メールを送ったらそれならという事になった。リサイタルでもないのでどういう反応をするかなと思っていたので、それはそれで楽しみだ。

今回は早めに燃料を二回に別けて入れた。一回は満タンで森まで走って損をしたが、許容範囲だ。リットル1.349で43リットル入れた。58ユーロと前回の40ユーロで、満タンで往復できる可能性は強い。向こうでどれぐらい走るかによる。山の上に行くとか湖畔を走るかすれば給油が必要だ。会場とホテルの間は五回ほど余分に走る。つまり50㎞余分に走るならばなんとかなるか、合わせて770㎞であるから、一度現地で給油しなければいけないだろう。



参照:
来夏の宿を予約する 2018-10-30 | 雑感
厚切り咬筋と薄切り肝臓 2005-12-01 | 料理
# by pfaelzerwein | 2019-08-26 02:18 | 生活 | Trackback

お前はアホかの今は昔

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暑くなりそうなので早めに走り終えた。車中の放送が昨晩のベルリンのフィルハーモニーでの報告をするところだった。待ってはいれなかったので、車を離れて森へと入った。その内容はまだアップされていないが、それほどの批評ではないと想像する。どうも毎年初日は政治家やらドイツェバンク関係の招待が多くて聴衆の質も高くはないようだ ― 今年はG7でメルケル首相は来ていなかったらしいが、バーデンバーデンのパトロン代表の元副首相ショイブレ博士が居たらしいので少しは我々の為になるかもしれない。

そのような塩梅だから首都には芸術を理解できない下らない輩も多く、ジャーナリストもそのような話題を書いて糊代としている。何処の首都でも結局は取巻きは多くとも一流人は比率からしすればそんなにいない。終演後にレセプションが開かれて、そこの話しで、ペトレンコ自身が「前任者サイモン・ラトルの就任コンサートの会場に居た」とあったらしい。勿論「その時に17年後に継ぐなんて言ったらお前はアホか」とされたただろうと引用されている。

その範疇ながらも少しだけ面白い表現を見かけた。rbbの記事だがペトレンコの指揮姿をして江南スタイルとまで書いたものが出てきた。なんでもいいが、そこまでしてポピュラリティーを目指す必要があるのかなと疑問に思うところである。

昨晩の録音録画は一先ず順調に行ったようだ。しかしラディオの方や雑音が第九の後半で聞こえるようになる。原因は不明であるが、中々ストリーミングの難しいところだ。そもそも中継を聴き始めたのが実際の中継が終わってからであるから確か二楽章だったと思う。結構時間を掛けてARDのどの曲から受信しようかと調べた。ホーム局で品質の良いSWR2はHPの衣替えでよさそうなリンクが消えてしまった。以前はAACでも出しているので嫌いなMP3を録音する必要もない。しかしどうも容量が小さくなって使い難くなった。探すとWDR3が最も容量が多そうでそれを試した。音質自体は悪くはない。以前はここもMP3で320kbps出ていたようだが、どうもそこまではなさそうだ。

さて生中継のDCHの方は映像こそ光量も落としてあってそれほどでは無かったが、配信も比較的安定していた。最後の拍手時に小停電になったようで音が途切れたが、画像は終止順調に流れ、音質も満足のいくものだった。映像はアーカイヴになれば充分な品質であり、とやかく言うまでもない。

さて今晩はどうなるか?rbbは公共放送局なので容量は大丈夫だと思うがどうなるだろうか。天気も最高気温摂氏29度で20時には24度まで下がる晴天だ。ブランデンブルク前でのオープンエアーの第九生中継へと否が応でも期待が高まる ― オンデマンド提供中

芸術監督ティーレマン問題は、SWRの報道によると、バッハラーが例の「ローエングリン」や「エレクトラ」案を拒絶したとある。それならばもうこれでティーレマンは辞任するか、それとも「魔弾の射手」か「オランダ人」を受け入れるかしかないのだろう。恐らくこれでティーレマンが辞職、スュターツカペレドレスデンはザルツブルク復活祭で指揮をする指揮者を探すとなる。



参照:
歓喜へ歌への対照と構成 2019-08-24 | 音
ダブルヘッダ 2019-08-23 | マスメディア批評
# by pfaelzerwein | 2019-08-24 23:20 | マスメディア批評 | Trackback

歓喜へ歌への対照と構成

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一日中血圧上がりっぱなしだった。しかし無事乗り越えた。なんと言っても合唱付き楽章に尽きる。なるほど一楽章の弦楽器の柔軟性は樫本の業であり、四楽章でもフレージングの弓の扱いが聞いているだけで確かで、あの月並みなメロディーが新鮮に意味を持って聞こえた。何よりもそれによって自然なアゴーギクのダイナミックスへと大きな弓使いを、それゆえに切れば切るほど律動感が発生する。樫本がマイスターを務めることは分かっていたが、二番にスタブラーヴァを入れたのは意外だった。なるほど最後のオープニングコンサートであるから、特にベルクが入っていたのでぜひ入って貰ったのは分かるが、もう一つのプログラムのシェーンベルク・チャイコフスキーと掛け持ちになる。

二楽章はもう一度聴き直さないといけないが、基本的には拍を合わせる事での凝縮感が、頭を合わせたフルトヴェングラーなどと同じで、見事だった。三楽章の弦などはもう少し繰り返すとよくなるだろう。フルトヴェングラーの場合は、その和声のヴェクトルを重視する訳だが、ペトレンコの場合はそうした圧縮無しに正しい音を合せることと自由自在に歌わせることが出来ることから、同様の効果が生じている。

木管楽器陣のアンサムブルも復活祭の延長で見事になっていて、金管との合せも更に改良されていて、フィラデルフィアとまではいかないでも、もう一息である。それにしてもベルリナーフィルハーモニカーの弦の強い線の歌はこの曲には無くてはならないと思う。昼間の放送でもフルトヴェングラ―の戦前の録音との比較が流されたが、明らかにそこへと戻っている。

ルル組曲は、全く全曲演奏とは異なった。何よりもテムピを押さえているので完璧に演奏させられていて、システム間の出入りが、あるがままで、稀に見る演奏となっていた。しかしこれこそ繰り返さないとまだまだ本領発揮とならないだろう。しかしこの精度での上演は不可能で、組曲は別と考えるべきだろう。曲説明は先日ミュンヘンで挨拶したクラースティンク博士が担当していたが、そのドラマテュルギ―とは少し違うと思う。その話しの終わりに組曲を交響曲として更に歌曲付きの交響曲からマーラー、そして第九と繋ぐのは一寸違わないか。キリル・ペトレンコのブレーンでもあるので間違ったことは話していないと思うが、さてどうだろう。ペーターセンの歌も到底舞台の上では無理な精度で、初登場で十二分にその実力を示したと思う。

合唱付きにおいても「ミサソレムニス」同様に見事な歌で、それどころか映像を見ていると、合唱に合わせて口ずさんでしまっている。表情の豊かな人だから考えていることがそのまま出てとても面白い。兎に角、器楽的にも歌える人で、中々比較できる歌手はいないと改めて思った。ペーターセンに見つめられていたバスのユンも準備万端で最高の歌唱を聞かせたのではなかろうか。ブレゲンツでの「千人の交響曲」ではそこまで立派な歌では無かった。

23時過ぎの批評にもあったように、二楽章がそのもの戦争シーンだとするのも、例えばブルックナーの蒸気機関のカムとの対照でもあり、当然四楽章と対照となっている。まさしくクラーシュティンク博士が述べていなかったドラマテュルギ―であり、一楽章冒頭のフォルテと共にとても強い対照の構成を示したことになる。ペトレンコ自身による解説では、英雄交響曲を逆転させた形で、英雄を奪い逆行させたのがこの一楽章となる。その意味で四楽章が大成功しているのだが、通常の演奏ではその対照が疎かにされている。まさしくミュンヘンのミサソレムニスの演奏からそのような明白な対照と構成が示されると予測していたところである。

総じてフィルハーモニーの聴衆は、ブレゲンツの千人の交響曲の時の様に本当のスタンディングオベーションまでには至って無かった。様々な理由は考えられるが、マーラーとベートーヴェンではやはり古典の曲はより古典的な教養も必要という事ではなかろうか。

これでブランデンブルク門でのオープンエアーでの第九に関してはなんら心配もいらない。それにしてもこれほど明白に歌詞が歌われたことは無いのではなかろうか、初めてその言葉が聞き取れた。放送合唱団も想像していたよりも遥かに良かった。



参照:
オペラが引けて風呂と酒 2019-07-11 | 歴史・時事
次元が異なる名演奏 2019-08-18 | マスメディア批評
宇宙の力の葛藤 2019-05-20 | 音
# by pfaelzerwein | 2019-08-24 06:38 | | Trackback

ダブルヘッダーの予定

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アマゾンから今日中に発送のお知らせが無ければ、土曜日には配送は難しい。チキンレースである。なれば発注をキャンセルしてやる。今時在庫があって一週間先にしか配達しないというなら潰れてしまえ。幾らでも代わりの良心的な業者は存在する。向こうの罠に掛からないように発注状況も見ない様にしている。それにしてもあれ程までに会員にさせたいのには罠がある。上顧客に対してああした態度を取ることが許されない。

ミュンヘンから早速ティケットが届いた。日程が決まったので気になっていた他の日程を再びチェックした。ミュンヘンでの前後のゲルハーハーの歌う「ヴォツェック」とフォークトの歌う「ローエングリン」は、「死の街」で配券された入場料の高価さ183ユーロに、断念した。これ以上劇場に献金する必要も無く、宿代までを入れると大変なことになる。ストリーミングで無料で見るのが一番お得だ。月曜日19時始まり22時終了ならば、何とか日帰りで安全に帰宅できるだろう。

そこで気になっていた12月の日程が空いた。フランクフルトのオペラである。もう行かないと六月に言っていた舌も乾かぬ間であるが、マルヴィッツ指揮のCDの出来に彼女が新シーズンに二回振る新制作の一つに出かけたくなった。もう一つのバリコスキー演出の「サロメ」は来年の日程に拘わらず殆ど売れてしまっているが、暮れと年明けのフォーレ作曲「ペネロープ」は比較的良い席が空いていた。しかし問題は殆どミュンヘンの日程と重なっていて、そちら如何でダブルブッキングになりそうだった。だから買い控えていた。そして改めて見て行くと、ダブルブッキングになる筈の同じフランクフルトのアルテオパーでロンドンフィルハーモニーが指揮者ユロスキーとの最後の欧州ツアーの12月15日は15時30分に始まって、18時頃に終了することが分かった。つまり一度フランクフルトへと車を走らせれば両方行けたことに気が付いた。東京の音楽ファンがよく書いているダブルヘッダーと言うやつで、フランクフルトでは初めてだ。

終了時刻から開演時刻まで一時間を切っており、車で移動して距離的には数分だが駐車場の出し入れで20分以上考えておかないと駄目である。地下鉄も歩くのも11分ほどで、自転車だけが車よりも早い。さてどうしたものか?

いよいよベルリンでの祝祭的演奏会が迫った。ここでもう一度その中継の体制をもう一度まとめておこう。あまりにも様々な情報が出ていて混乱している向きがいるようだからだ。

先ず、23日(金)19時からフィルハーモニーでお披露目演奏会が開かれる。それに先立ってデジタルコンサートホールでは18時半前から中継が始まる。更に20時過ぎから独公共放送網ARDの各局ラディオで時差生中継が始まる。前者は有料、後者は無料で双方ともネットで流される。

翌24日(土)20時16分過ぎから、ブランデンブルク門の仮舞台でオープンエアーが中継される。20時からDCHで、又時刻通りにrbbTVが中継を始める。前者も後者も無料でネットでストリーミングとして放映される。

過密と過剰による転送障害なども予想される。23日のDCHも限界ではないかと思われる。どこまで流れるか期待したい。放送の方は九局ほどに分散されるのでこちらは問題が無いであろう。しかし曲によってネット配信の質が異なる。

24日に関しては、両ストリーミングに分散されるので、どちらが有利かは何とも言えない。rbbの方は公共放送なので前者の私立のものとはサーヴァーの容量が全く異なる筈だからだ。また後者は昨年お経験からすると生中継直後にオンデマンド化されるので比較的容易に観れる。音声48kHz,192Bits出ていたので、生中継は可成り音質も良いのではないかと予想される。



参照:
ブランデンブルク門を臨む 2019-08-21 | 歴史・時事
聴衆の一体感を再確認 2019-08-17 | マスメディア批評
# by pfaelzerwein | 2019-08-23 01:58 | マスメディア批評 | Trackback

プログラミングの決定権

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ザルツブルクの復活祭芸術監督ティーレマンがザルツブルク州に書面を出した。その内容が火曜日に地元紙で公開された。7月29日付けの書面である。

先ず、2022年以降の全体のプログラミングの決定権は、支配人に就任するバッハラーではなく、芸術監督にのみあることを明白にして、保証することを求めている。具体的には、「ローエングリン」をべチャラ、ジャクリーン・ウェグナーにエルザ、パンクラトーヴァにオルトルート歌わせるとするもので、2023年はカタリーナ・ヴァークナー演出の「エレクトラ」でパンクラトーヴァを使うという構想である。つまり今の時点で主要歌手と契約してしまわないと機会を逃すという事である。ざっと見る限り対抗馬のバーデンバーデンでは不要な陣容である。そもそもこれはバイロイトでの陣容ではないか。

それに対してバッハラーは、地元紙によると、ロマンティックオペラに限定してウェーバー「魔弾の射手」とか「タンホイザー」とか「オランダ人」を提案しているようだ。それに対して、例のジャーナリストのテイール氏などは「イタリアからのお客さんにはドイツ語台詞のものは拙い」とか書いている。つまり、今年の「マイスタージンガー」などの様に受けるものは受けるが駄目な演目は駄目だと。私などは、どこまで本気か知らないが、その器量にあった作品をやらせて最高の力を発揮させるのがプロデュースだと思うので、その提案は確かだと感じた。

そしてティーレマンは書く、芸術的な責任をもっている指揮者のプログラミングに対して外からちょっかいを掛けさすなどは以ての外だと続ける。

そこでいつもの根拠のない話が繰り返される。つまり「ペトレンコと一緒にべルリナーフィルハーモニカーがザルツブルクに戻る」という事で、それも不思議なことにいつも同じように「バーデンバーデンでは手に余るようになる」という予測が繰り返される。それどころか、「バーデンバーデンではフィルハーモニカーがギブよりもテークしているからだ」とおかしな根拠となる。勿論バーデン・バーデンは最初から喜んでこの条件を受け入れている。要するに、フィルハーモニカーは、合意したプログラムを最高度の音楽的な水準で示すために準備して、オペラ上演に日程を割くという事でしかなく、祝祭劇場がお膳立てを整える。つまりフィルハーモニカーにとってはザルツブルクに戻る必要などは全くないのであり、この契約条件は前任者ラトルの口からも発せられていて、悪い条件提示しか出来ないザルツブルク側が発する根拠とはなりえない。それどころかティール氏も、ザルツブルクはカラヤン時代にはベルリン市からの助成が出ていたが、それが無くなったために公的な援助を受けられなくなったとある。出て行くだけの要因はあった。

兎に角、9月17日にザルツブルク州の臨時総会が開かれるので、そこでこの問題について議論されるとしている。

余談ながら、指揮者のネルソンズのボストンでの契約が2022年に終わるとあった。そこで契約延長しない可能性は強いと思われる。ボストンはロート氏などを既に試している。もう一人の大物指揮者のヴェルサー・メストと共に去就が注目される。



参照:
新支配人選出の政治 2018-11-13 | マスメディア批評
敵はバイロイトにあり 2018-11-14 | 文化一般
# by pfaelzerwein | 2019-08-22 04:38 | マスメディア批評 | Trackback

ブランデンブルク門を臨む

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ベルリンで月曜日から練習が始まった。キリル・ペトレンコ指揮就任演奏会の練習である。その状況は今日明日にでも放映されると思うが、今回は二日目のブランデンブルク門での大イヴェントにも注目が集まる。

火曜日のベルリナーフィルハーモニカ―の支配人ツェッチマン女史の会見では、その準備に二年間も費やしたとあったようだ。NDRの楽団担当だったツェッチマンにとっては、今回放映パートナーのrbb支配人シュレジンガー女史は謂わば同僚だったようで、二年前から相談していたという。この間乗り越えて解決しなければいけなかった事項は35件に及んで、警察、消防など主に安全対策などの面からのお役所仕事の様である。だから当初から「新指揮者ペトレンコのお披露目の為には大規模な催しとしたい」と語っていた。曲目に関しては千人の交響曲ぐらいかなと思っていたが、第九だったのである。しかしそれもブランデンブルク門でとなるとオープンエアーでも通常とは異なる。

当日は三万五千人の聴衆が詰めかけると見込まれ、更に晴天が予想されている。全ての人が無料で、A3サイズ以下ののみの大きさの持ち込みと必要な手荷物検査の上、18時から場所取りが出来るようだ。しかし、その大きさから折りたたみ椅子などは持ち込めないので、演奏が始まる20時16分までは立ち通しとなるらしい。これは当夜のrbbTVで晩の「ターゲスシャウ」が終わって、rbbが「ブランデンブルク門へ」とアナウンスすることを以って始まるからのようだ。会場へはペットボルトなどは許されてもビンは持ち込めないので、そこの売店で補給するようになっている。様々な情報を総合すると、地元放送局などでも応募募集しているようにVIP席は設けられていて、門のところに若干座席を作るのだろう。

二人の支配人が窓から門を覗く写真を見るとアドロンホテルのその向きの部屋は皆観覧席となりそうだ。さて肝心の音響は、勿論PA無しには放送もPVも不可能であるが、rbbが責任を以って執り行う。60人体制で、60本以上のマイクをぶら下げて、11台のカメラが投入される。昨年のベルリナーシュロースの中庭での中継からすれば、勿論今回の方が遥かに条件は厳しいが、大いに期待できる。これで分かるように、例えば先月のミュンヘンでのアメリカンプロの節は弦楽器にミニマイクが付けられたが、今回は正攻法な集音となるようだ。施設する総ケーブル長は五キロメートルにも及ぶらしい。

そうした中で態々アルバン・ベルク作曲「ルル」組曲から演奏されるというのが俄かに信じられないのだが、これはなにも歌うマルリス・ペーターセンが得意としたルルの役の歌を歌わせるためだけに選曲されたものではないだろう。その心は、未完・補完版オペラ「ルル」を纏めた組曲の構成にあると見る。期待は膨らむばかりである。こちらまでが武者震いをする。

ベルリンの壁が崩壊して30周年。あの時、指揮者ペトレンコはシベリアの故郷の小さな町に居たのだろう。ツェッチマン女史はアビテュアーに合格して丁度アメリカに居たらしい。そしてそこでニューヨークタイムズのインタヴューを偶々受けたという。私も報道で冷ややかに見ていただけでベルリンには敢えて近寄らなかった。あの時のバーンスタイン指揮のそれとは今度は何もかもが違う。

もう一つ、この計画でキリル・ペトレンコが支配人に尋ねたようだ。「国立図書館に入れるかな」と、そしてそこに手書きの総譜の一つがあって、そのコピーも備に調べたという。その結果が出るかどうかは聞いてみないと分からないと報じている。ツェッチマン支配人は、自らのキャリアーにおいて最もやりがいの仕事の一つと語る。さて何もかも成功へと導かれるか?

ミュンヘンからコルンゴールト作曲「死の街」新制作初日の当選の知らせを受けた。最高金額公演なので他の公演日に比べて同じ席でも40から66ユーロも高い。何か特別にお土産がある訳でもないが、しかと見届けたい、音楽監督としては最後から二つ目の初日である。もうあとは初日だけ行ってもいいぐらいだ。



参照:
イヴェントの準備をする 2019-05-16 | マスメディア批評
聴衆の一体感を再確認 2019-08-17 | マスメディア批評
# by pfaelzerwein | 2019-08-21 23:06 | 歴史・時事 | Trackback

予備の電球を探す作業

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ルツェルン滞在の準備である。車の車幅灯、前の左側が切れている。全く走るには問題が無いが、そこは国境を超えるので、直しておかないと停止させられると面倒だ。少しでもその不安要素を無くして置かないと話しにならない。近所でも買えるだろうが、早めに確かめておかないと発注するようになると間に合わない。それよりも以前にネット発注した節に電球を二つ購入した覚えがある。それが使えれば完了だ。

先ずは電球が切れているのかどうかを確認する。流石に車も廃車間近になると大抵の所は自分で弄っているので、問題なく電球にアプローチ出来た。取り外してみるとなんともなっていない。ハイビーム灯だと直に気が付いて、その下の電球を引っ張り出すと切れていた。

しかしその電球の予備がどこにあるか?先ずは車のダッシュボードを探してみた。探しているうちに包んであってもそんなところでは壊してしまうので、きっと違う場所に違いないと気が付いた。そして頭の中で思い描くと、仕事机の封書箱に違いないと思った。ビニールのプチプチで送ってきたそのままに入れたことを微かに思い出した。その箱をひっくり返してみると案の定出てきた。一球はそれを注文した時に使った。恐らく反対側の車幅灯なのだろう。

早速、ガレージに戻って試した。なぜならば他のものを急いでアマゾンに発注したいからで、旅行に間に合わせたいものばかりである。すると何もなかったように点灯した。これで修理は終わりだ。序でにエンジンオイルをチェックする。下に落ちている訳ではないが、徐々にエンジンオイルの消費が激しくなってきた。最後に購入したのが4月で、その後一リットルを消費したことになる。燃えてしまった分も大分あるのだろう。廃車まで繋ぐだけだ、九月には一度点検させる。

発注したものの中に二種類の接着剤が含まれている。一つは木工プラスティック用で、厨房辺りを宇個し直しておかないといかない、もう一つは靴底の接着用で、これも靴を買いに行く時間が無いからだ。応急処置で普段履きを部屋用靴と共に持っていく心算である。街をふら付くことも無いと思うが、今回は一日余裕の日がある。出来れば山の上に上がりたいが時間などがもう一つ分からない。

序でにキャノンのプリンターの三色色物インキを発注した。黒と交互に購入していたが、如何も最後に購入したのは2017年6月のようで二年以上購入していない。固まってはいないのかもしれないが、全く使えなくなると面倒なので購入しておく。

通常ならば木曜日に届く筈なのだが、一つだけ時間が掛かるとして一週間もかかるような嘘情報を流して来る。本当にそうならばキャンセルする。これほどのお得意さんでも会員にしようと圧力を掛けてくる。24日までに届かないなら要らない。アマゾンがその気ならこちらも他所で買ってやる。

ルツェルンと言えば、ハイティンクが最後のコンサートでヴィーナーフィルハーモニカーを振る。個人的には昨年二回も聴いたので、あまり関心は無いのだが、それでも売り切れていた残券が出るとなると興味を引く。150フランの券が出た。直ぐ売れたようだが、半分の価格なら冷やかしに買っていたかもしれない。



参照:
週末の片づけもの 2019-08-10 | 生活
許容範囲だろうか 2018-12-13 | 文化一般
# by pfaelzerwein | 2019-08-20 23:30 | 生活 | Trackback

指揮科教授のバイロイト

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2019年バイロイト音楽祭のプログラムをぱらぱらと見る。150頁近くあるが三か国語なので内容は薄い。肝心の演出に関しては関心零なので、指揮者ブシュコフのインタヴューを読む。中々興味深い。要するに彼の指揮した演奏を彷彿させる受け応えをしているからだ。取り分け重要なのはテムポに関しての質問とその指針について指揮科教授らしい答えを示している。

先ず、実演を聞いた私の印象は、拍をそれほど数えてはいないが、ブーレーズよりもペトレンコよりも遅いという事だった。ここで記されている数字は、全曲ブーレーズ、ペトレンコ、其々3時間38分、3時間50分に対して、4時間14分で、大体予想した通りだった。因みにトスカニーニが4時間42分で、序でにラトル指揮がコンサートで3時間39分で、私の印象からすると復活祭上演ではもう少し長くかかっていただろう。

要するにブュシュコフ指揮は明らかに遅い。しかし原典、つまり前盛期の初めごろまで祝祭劇場使っていた楽譜を参考にすると、その後は段々と遅くなってきたと言明する。それがクナーパッツブッシュ指揮やトスカニーニ指揮の演奏だったのだろう。指揮のシュトラウスが「私が早くではなくて、皆が遅くなったのだよ」と語っているという。同時に楽譜の細かなところに注目して冒頭の一弓の四拍、もしくは最初の五小節に亘るフレーズに注目する。若しくはどの言葉が正しく発せられるかによって、それを基準として全体のテムポが定まっていると、正しいテムポはどこを基準とするかの教育者らしい発言となる。勿論、その時の歌手の歌に合わせて変動するものでありということで、メトロノームなテムポがどこにあるかということになる。

同時にダイナミックスへの言及になって、ポコフォルテがフォルテがピュウピアノがどこに掛かっているかをつぶさに判断して、更にどの楽器がメロディーラインをそれを音程の高低によって出し方が変わり、同時に歌手の声が浮かび上がるように配慮するという。何か手の内を明かしているようなお話しなのだが、こうした具体的な話を読むと流石に教鞭をとる人だなととても感心する。

そうした舞台の上とのやり取りと出し入れで、音楽を作っていくのがよく分かる演奏であった。そしてその面白さは転生して行く音楽にあって、小節内でも起こる変容に言及する。自身のメモを読むと、最初のアンフォルタスの出だし後の管弦楽の受け渡しなどとても見事であって、放送で是非確かめたいところが幾つかあった。

そして、この指揮者が最初にパルシファルを祝祭劇場で経験した逸話が、全く私が言及していることに相当する。前から三列目に座っていたようで2004年の私よりも前かもしれないが、つまり最初の音が出る前から振動を感じてどこからともなく始まるというのだ。私が言及した箱鳴りにも相当していて、前記したようにこの舞台神聖劇へのスタンスは祝祭劇場での体験がどこに行っても付き纏い、それに限りなく近づけようとしたとある。それはある意味ラトルが、バーデンバーデン祝祭劇場の親切な音環境にバイロイトを意識しながら指揮したことともあまり変わらない。

恐らくこの指揮者はこの二十年でブーレーズ、ペトレンコと並ぶ名指揮者だとは思うが、結果は両幕中間部ミステリウムでの舞台に合わせた外しなど、あれ程クールで早いペトレンコ指揮に比べても効果が出ていなかった。余りにも配慮した演出の責任かそれとも教師然としたこの音楽家の限界か。逆に同じテムポでも深く掘れるかほれないかなどよっては楽団がどれぐらいの力量かなどで全く効果が変わる。如何にベルリナーフィルハーモニカー級の楽団がこの作品には必要か?(続く)



参照:
アホをギャラリーする 2019-08-17 | 文化一般
舞台神聖劇の恍惚 2018-03-25 | 音
# by pfaelzerwein | 2019-08-19 21:36 | | Trackback