殆どマニアの様な生活

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歯医者に行ってから初めて走った。明け方結構冷えたので窓を開けている分小用に立ったり、決して深い睡眠とは至っていない。だから朝も陽がのぼるまではなかなか醒めない。結局沢沿いを走るころには陽が昇っていた。それでも16.5度とそれほど気温は上がらない。覚醒しないところで頑張って走るしかないのだ。なにも無理をする必要はないのだが、色々な意味で正常化に戻すにはこれが一番早道である。汗を結構掻いて戻って来た。ワイン街道もそれほど気温が上がっていなかった。何とかこれで仕事も手に付くようになるだろう。

デュカ作曲「ラぺリのためのファンファーレ」、なんてことはないブラスのファンファーレなのだが、ベルリナーフィルハモニカ―は私と同じように泣きべそ掻くかもしれない。フィラデルフィアの管弦楽団がオルガンの響きを出すほどには出来ないとしても、リズムを正確に吹くことで音程を求められると可成り手ごわいのではなかろうか。技術以前にどのように合わせて来るのかが問われる。キリル・ペトレンコ指揮のプログラムはどれもこれも大管弦楽団への課題練習曲のような趣で、結局ついていけない奏者も現われるに違いない。

もう一つの「死と変容」も以前からの感じていたそのサウンドの印象よりも演奏実践の可能性がとても高い曲だと分かった。先ずはしっかり鳴るかどうかというような大管弦楽団の問題もあるが、ホルンの低音や管弦楽法上の可能性と同時に楽劇で発揮する表現の可能性も示されていて、ペトレンコ指揮では一筋縄で行かぬことが分かった。特に弱音からテュッティーでは「悲愴」での鳴り以上に厳格な鳴りが要求されそうで、その間はオーボエの一節の表現が、精妙なリズムで演奏されるとなると、中々厄介だろう。少なくともサイモン・ラトル指揮での演奏のように単純には全く行かない。四回目のルツェルンでもどこまでの精度に持ってこれるだろうか?

BBC4の映像を観る方法を探したが上手く行かない。それは諦めておいて有料の二週間お試しのサイトに入った。数の割にはこれといったものは見つからなかったが、急いでコピーしておこうと思ったのは幾つかある。特に存在を知らなかったようなユニテル制作映像が幾つかあった。コピー防止でネットには出ていないからだろう。その中でも先ず注目したのはアルテュール・ル-ビンシュタインのブラームスの一番協奏曲で、これは五月に勉強していたものだ。但し録音ではイスラエルの管弦楽団の下手なのに晩年のよれよれした演奏でしかなかったが、アムステルダムではそれほど年代は変わらないと思うがしっかりしている。そしてその時に比較対象となったアシュケナージのピアノに付けていたハイティンクの出だしの動機の六拍子を諫めたが、ここでは立派に演奏している。ピアニストの関係としか思えないのだが、決してそれがアシュケナージの奏法と揃っていた訳ではない。恐らく二人の相性が悪かったという事になるのだろう。そしてここではブラームスの直接の指示を参考としたルービンシュタインのそれにしっかりと寄り添っている。

想像するにハイティンクも自己顕示欲が強く出ていた時代もあって、様々な意味で若い時の素直な指揮とは異なって無理して大指揮者面をしていた時期があったのではなかろうか。勿論最終的にもムーティなどと比較すると下のランクであることは間違いないのだろうが、壮年期には謙虚には受け入れられなかったのだろうか。いつの間にかまだ聴いたことの無い指揮者ハイティンクのマニアになってしまったようだ。肝心のルービンシュタインの演奏はブラームスとショパンのスケルツォがあるが、流石に衰えはあるが、音楽解釈としてホロヴィッツなどよりも現代でも通じる謙虚さがある。伝統を受け継ぐ者の演奏に熱心に耳を傾ける若きハイティンクとその姿勢こそ見上げたものである。



参照:
創作などは理解不能 2018-05-10 | 文化一般


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# by pfaelzerwein | 2018-08-17 23:50 | 生活 | Trackback

ポンコツよれよれ引退?

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血圧が上がったようだ。診療椅子に座って踏ん張ったので腰も具合が悪い。抜歯への道が無ければ意気が上がったのだろうが、透過している筈のレントゲンすら焼けて暑苦しく感じる。心理的な影響が大きい。そこに夜中のメールで仕事をすると最悪だ。朝一番に走れなかった。

しかし親知らずの抜歯が2013年だったから、二年後の2015年に軟骨を噛んでレントゲン、それと今回のを比較した。そして炎症領域が広がってきていて死亡宣告となった。それも二本もである。しかしそれでも2013年以降今が一番調子が良い。心理的には2014年頃が一番良かったかもしれないが、調子は今が一番良いのだ。如何に歯科の治療でさえ完全に治すのが難しいかが分る。だから私は医者に掛からないのである。なるほど先先に手を打っておけばこのようにならなかったともいえるが、結果はそれほど変わらないのではないか?

ガンの治療においても議論されるところだが、不治の病なら猶更、歯科でもこのようなものであるから病気の種類によっては、そもそもQOLが優先されるべきであろう。特にガンの場合もなにも気が付かずに健康に感じていたならばそれに越したことが無い訳なのだが、やはり少なからぬ影響は感じるものなのだろう。しかしそれ以上に心理的な病宣告の方が大きいような気もする。

ルツェルンまで二週間を切った。これのお勉強を片付けて行くことで落ち着きたい。先ずはDLしていなかった「死と変容」と「ラぺリのためのファンファーレ」を落とす。これで二日間の楽譜はフランツシュミット四番のフルスコア―以外揃った。キリル・ペトレンコが二日間のコンサートを通して聞かせるのはザルツブルクが初めてで、それにこのルツェルンが続く。恐らく客演しかしていなかった交響楽団でこうした表現方法は取れていないので初めて世に問うのではないかと思う。この辺りも全体像を観ながら一曲一曲も洗っていかなければいけない。更にズームアウトすると、「マーラー交響曲七番」、「マイスタージンガー」が外枠となっていて、その間に「指輪」や「パルシファル」が嵌め込まれている。残り時間を考えるとそろそろ泣きべそをかくようになる。

ザルツブルクからのマティネー中継を聞いた。ムーティ指揮のヴィーナーフィルハーモニカーの演奏だ。予想通りポンコツ楽団ぶりを披露していた。指揮者が悪いのか楽団にやる気が無いのかは分らない。それにしてもこのコムビには馴染みがあるだけに、その指揮の鈍重さには驚くばかりだ。嘗てはこの楽団のリズム感の中で活き活きとした音楽を奏でていた。やはり年齢的なものだろうか、そしてシカゴでは常任という事でそこがカヴァーされて隠されているのが分かった。シカゴでの同じシューマンの四番も全くよくなかったが、この二番演奏の終わりに「ブラヴォー」の声を出すのはサクラ以外にはファンクラブしかありえない。バーデンバーデンの「オテロ」を断った理由はこれだったかもしれない。「レクイエム」の指揮が心配になって来た。後半のシューベルトも聞くと、完全によれよれになっているので、よほど体調が悪かったのかもしれない。このままなら引退も近いのではなかろうか。もしそういうことになったならば、ペトレンコに一部歌手を替えて「ミサソレムニス」を振って頂きたい。それにしても「オテロ」はどうなるのか?ムーティもそろそろランランと同じように招き猫になって来ているのかもしれない。今もっともギャラの高い指揮者であろうから、儲けは其れであまり出ない筈だが、売り切れていなかったというだけで関係者皆ショックだったのかもしれない。

さて金曜日からの放送予定表を作っておかないと分からなくなる。先ずは、ルツェルンから20時15分にオープニングコンサートの後半のYouTube中継開始である。そして土曜日2時からボストンからの中継でショスターコーヴィッチの交響曲四番。翌土曜日の19時30分からは「ポッペアの戴冠」となる。最後のは本年ザルツブルクでの音楽祭の頂点と言われていて、予想通り程度の高い演奏がなされているようだ。大劇場でアーノンクール指揮でこの作品を体験した時はまだもう一つ分っていなかったかもしれない。今回はベルギーのバレー団の露出もあって、その作品に相当するだけのエロがあるので、お試しで映像も20日に試してみようかとも思っている。それにしても初日に現われる女性はメイ首相ではないか。欧州人気取りで何とも厚かましい。

日本のNHKは上手く行かなかったと言われる「スペードの女王」の映像制作に公共料金を費やしているが、そもそもある程度結果も予想出来ていた。その映像化で興味深いのは昨年度の評判の悪かった「ヴォツェック」が商品化されていることだ。放送も中止されたぐらいだからよほど指揮者のユロウスキーがダメ出ししたのかと思ったら、製品化である。よほどの修正が必要だったのか、恐らくその辺りの事情があるのだろう。



参照:
満期ご奉公御免まで 2018-08-03 | 雑感
針が落ちても聞こえるよう 2017-10-17 | マスメディア批評


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# by pfaelzerwein | 2018-08-16 22:53 | マスメディア批評 | Trackback

あまりにも忍びない

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歯医者に行った。清掃は全く問題なく少しだけ痛い思いをしたが三年ぶりとしては天晴だった。但し歯石で炎症を起こしていたという事で、定期的に来いと言われた。磨き方も真っ直ぐではなく歯茎からブラシを斜めにする感じでやれと言われる。人が変わって若返ったのは嬉しい。しかし肝心の炎症の方はレントゲン結果で隣にも広がっていて悪くなっているという評価だった。確かに黒い部分が広がっている。

歯医者からすると、売上の上がるインプラント治療には早めに二本抜いて一年掛けて完了させたいので、急かされる。対案として四つ被せるブリッジで、これならば二ヵ月で治療完了となる。いずれにしても時間が無い現在、計画も経たないので、年始位に考えるという事にする。双方とも、価格は除いても長短有りそうで、やはり治療過剰のようなことはしたくはない。勿論二者選択可能なのは良いことであるので、ある程度早期の判断は必要となりそうだが、結局現時点で痛くも無く好転しているかに見える歯を抜くのは忍びない。そしておいておけばやはり炎症から痛みが出て来るというのならば、そこまで待つのも自然だ。自身注意しておいて、問題個所の歯がぐらつくとか出血とか、または右の鼻に影響が出て来るとかの様子を見るのが良いかと思った。問題を抱えたままなので嫌だが、もう少し時間稼ぎするのも悪くはない。そもそもインプラント治療は全く容易ではなさそうだ。先ずは掛けた歯の尖っているところを研いで貰った。

FAZが保養地パルムに出かけて報告している。そこの祝祭管は一月に既に欧州ツアーを建国百周年記念として行っていて、来年四月には日本旅行も計画されているらしい。そして既に書いたように、ナショナリズムが表に出されているのは間違いないようだが、プログラムなどが当地からの西ノ海沿岸の国々を代表しているようで、隣り合わせのロシアとの繋がりも管弦楽団として存在している。その最たる歴史として、主催者のパーヴォ・ヤルヴィが10歳の時に保養中のショスタコーヴィッチと出会ったというのもここの看板なのだろう。

音楽に関しては、先ず会場が千人規模で小さいことから室内楽的に広げて行っても飽満するほどで、ロンドンで披露したその通りだ。水曜日はエリプフィルハーモニー公演であるが、これも何れ批評が出るだろう。本拠地ではレオンスカヤが力強い演奏をしたようだが、コーダーでのフルートからの終わりにその民族的なものが示されたとしている。まあ、我々からするとライプチッヒに学んだグリーグの音楽として違和感もあるのだが、彼らの感覚からするとああなるのか?正直ノルウェーの感覚からは大分遠いと感じる。

楽団自体は、コンサートマスターとしてパリ管のフィリップ・アイシェ、ブレーメンからマテュー・ハントのクラリネット、フランクフルトからホセ・ルイス・ガルシアのオーボエなど各地のソロ奏者が核になっていると個人の特定こそは出来なかったが全てプロムで聞き取れた通りだ。

ルツェルンからメールが入っていた。指揮者交代のお知らせで、私が残券を購入してから丸4日経過していた。断り書きを考えていたのか、様子見をしていたのかは分らないが、ハイティンク指揮のマーラーの九番の紹介が踏み込んだ文章で驚いた。

ベルナルト・ハイティンクは、約三十年間華麗なコンセルトヘボー管弦楽団のシェフとして君臨して、特にマーラーの交響曲で注目を集めました。そして九十歳になる今、引き寄せられる第九番をもう一度ルツェルンでご披露します:自ら完成した最後の交響曲。若きアルバン・ベルクは、熱狂して敬愛した作曲家の作曲した最も素晴らしい作品と見做していました。別れのへ悲哀の調べは、同時にもう一つのよりよい世界へと開かれているかに響きます。マーラー自身そのスケッチに「ああ、青春の日々、過ぎ去った時、ああ愛、書き込んで、通り過ぎたもの」との叫びを記しています。そして、「さようなら、さようなら」と二回繰り返す。ベルナルト・ハイティンクは、ルツェルンのこの夕べを長年のマーラーの音楽の総決算と致します。昨年ロンドンでこの曲を指揮した際、ガーディアン紙は「この作品に、これほどまでに愛情を持って労わりつつ、あまりにもの人間性に導かれた指揮者に並ぶ者はいまいと」と認証していました。

ここまで踏み込んだ売り文句は初めて見るが、売ろうとして思い付きで書いたというよりも思い入れが凄い。スイスに宇野功芳は知らないが、それに近い。音楽祭と指揮者の関係からするとまんざらこの煽り文句のようなものも必ずしも遠からずということなのだろう ― 当面マーラーは指揮しないのだろうか。勿論熱心に券を求める我々のような者は大なり小なり同じような感慨を抱いているのである。



参照:
組み込まれる経済プラン 2018-08-15 | 文化一般
呪術から抜けられずに 2018-08-12 | 文化一般


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# by pfaelzerwein | 2018-08-15 22:50 | 生活 | Trackback

組み込まれる経済プラン

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森の中の気温はそこそこだった。陽射しもあったので汗を掻いた。再び夏日和というが、一番都合がいいのは、猿股Tシャツで風も入れながら室内で仕事をして、夕方は遅くならないうちにバルコンでアペリティーフに続いて食事という感じだろうか。山道を走ると深い溝が出来ていた。豪雨が降ったようだが、直線距離で数キロの我が家ではなかった雨量のようだ。足の置き場に困って走り難かった。

帰りに開いているだろう洗濯屋に寄った。しばらく休んでいたので、前の奥さんは16枚ものシャツを渡していた。「出来るだけ早くないと着るものに困る」と希望日について答えていたので、「それはそうだろう」と思わず口が出た。人によって数は異なるだろうが、二週間ほどでの数としても多く、そもそもそれだけの数を持っているのが凄いと思った。色とりどりで、暑い季節にしても毎日着替えているのだと分かった。この夏休みの時期でも外回りかよほど暑い職場で働いていたのだろう。奥さんの雰囲気からすれば45歳過ぎの人だと思う。

ロイヤル・アルバートホールからの放送を聞いた。エストニアの祝祭管弦楽団公演だった。先日まで地元でやって来た仕上がりのお披露目らしい。寄せ集めで若い人も入っているというが、核になる奏者はブレーメンやそこらからの助っ人のようで腕のある奏者も入っているようだ。だからあれっと思うような巧さもあるが、やはりテュッティーで鳴り切らない。最近は未知の東京の管弦楽団の評判をそこに重ねてしまうのだが、その絶賛を差し引いてこの程度は可能か可能でないかと想像してみる。

先日YouTubeでの都饗での感想は、マーラーの交響曲になるとモーツァルトでは感じなかったやはり全体の鳴りが問題になってくる。一番致命的なのは管弦楽全体が大きな息を付けないことで、これは指揮者の技量にもよるかもしれないが、常任でないギルバートほどの経験があればそれを直すにはどれぐらいのどのような関係でないと駄目かが分っている筈だ。管弦楽団の実力という事になるのだろう。恐らく具体的には和音を下から積み重ねるところでのバスラインがしっかり刻んでいるかどうかで、そこに管楽器や中声部がどのように絡んでくるかでサウンドが出来るのだろうか。

そうしたサウンド以前に一体として全奏が上手く鳴らないとグスタフ・マーラーの交響曲などは幾ら演奏しても無駄である。その意味から上の祝祭管弦楽団がテュッティーで鳴り切らないのは当然で、それを補うようにしてピアニッシモの最弱音で聴衆を魅了するような戦略だった ― 皆一様に日本で指揮するとお勉強するらしい。それは大当たりして、ピアノのアンコールを含めて三曲もアンコール弾かれる大成功のコンサートとなっていた。

そもそもルツェルンなどのその水準は期待出来ないので、恐らく商業的には既に出来上がっていると認識しても間違いない。それを軸にして如何に世界の注目を集めて、地元経済に貢献する音楽祭の核になる準備は出来上がっているのだろう。アルヴォ・ペルトの曲はあれで致し方が無いが世界中に支持者もあるので、音楽祭の顔なのだろう。グリークやシベリウスなどの親近性を売りにしたいようだった。要するに民族主義的なアピールも基本方針のようだ。しかしそれはここでは売り要素になるが、指揮者本人には世界市場では邪魔になるに違いない。要するにイヴァン・フィッシャー程度のキャリアならそれでよいのだが、民族性が強く出るようになるとその上には行けない。

ハイティンク指揮のコンサートのティケットがまだまだ動いていない。なるほど安い席は20席以上が残り三席だけになったが、全体の動き方は気が付くほどではない。如何にガッティ指揮では売れていなかったか。そもそもグスタフ・マーラーの交響曲をコンセルトへボー管弦楽団が演奏するとなるとスイスでは飛ぶように売れるのだが、如何にMeToo指揮者への期待が薄かったかを如実に表している。そして突然の交代で御大が出て来て、恐らくこの管弦楽団では最も期待されるプログラムとなったのだが、気が付いていない人の方が多いのかも知れない。なるほど我々のように首切り発表からその後の進展を楽しみにしているような人間は特殊だろう。二週間先のワン、ペトレンコの方は掃けるだろうが、三週間先のこちらは難しいかもしれない。折角だったら満席になって欲しいと思う。

座ったことは無いが、舞台後ろの席は結構高い位置にあるのにも拘らず価格が上位なので、音響的にはましなのだろう。それでもコンセルトヘボーやベルリンのフィルハーモニーのように壁がなかったりではないので、何処までの臨場感があるものだろうか。音響と言えばエルブフィルハーモニーの音響の批判を読んだ。一杯になっても響き過ぎて、演奏者も落ち着いて聞けないようだから、やはり放送で気が付いた音響上の欠陥が存在する。何処でもやるように建築資材が落ち着く二三年してから修正しないと駄目のようだ。修正の休みまで経済プランには組み込まれている筈だが。



参照:
濃くなる縦波の密度 2018-08-14 | 音
これからの大きな期待 2018-06-20 | マスメディア批評


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# by pfaelzerwein | 2018-08-14 23:23 | 文化一般 | Trackback

濃くなる縦波の密度

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寒くなった。車内温度を19度に設定しているのでヒーターが効くが、雷雨が予想されて、生冷たい風が吹くと肌寒い。久しぶりの厚めのTシャツを取り出した。一月以上薄いTシャツなどしか着れなかったからだ。ジーンズに履き替えて、猿股を洗濯とする。湿気が50%ほどあるので快適ではなく、夏の疲れが出て来る。ここ暫く居眠りがちな時間が少なくなかった。洗濯ものが乾きにくいかもしれないが、まだ気温が摂氏20度を超えるので大丈夫だろう。

歯医者に出かける前に身体状況もメモしておこう。気候の影響もあるかもしれないが、左上歯茎の炎症が収まってくると、右の鼻の奥もより大人しくなった気がする。要するに殆ど分らないぐらいになっているのだが、時々違和感もある。歯茎から炎症が無くなると鼻も完治するのかもしれない。全身に与える影響も少なからずあると思うので期待したい。

その他では、右足の親指の付け根が痛くて歩けないぐらいになったが、駄目かと思って走ってみると治った。そして椅子に座っていると同じように痛くなった。左手の指先が痺れるのも机の高さまで左手を上げて体を捩じっていると痺れる。どうも座業の弊害のようでもある。

ルツェルンの準備の為に先ずは古いべルリナーフィルハーモニカーの録音を聞く。SPのCD化されたもので、DGの古い録音が集められたものだ。1927年から1943年前の録音が並べられている。私達にとっては実際に体験したことの無いサウンドで、当時一体どのように鳴っていたのかの貴重な資料となっている。一緒に収められているクライバーのシュターツカペレなどの豊穣のサウンドと比べると如何にも骨皮のような印象を得るが、その傾向は今でも座付き楽団と交響楽団と差異であり、しばらく聞きこむと如何にシュターツカペレとはいいながらリズムを刻むとジンタになってしまうのだ。これは致し方ない。現在もその傾向は全く変わらない。

ニキシュ指揮の録音は有名だがあまり分らなかった。想定以上に良かったのは1924年録音のブルーノ・ヴァルター指揮の「フィンガルの洞窟」で、録音の制約に拘わらず明確なアーティキュレーションでダイナミックスも正確に付けている。その読みの明確さが意外にキリル・ペトレンコにも共通する。勿論バッハにも影響されている古典的なメンデルスゾーンであるから低声部の発音も歯切れが良い。クナッパーツブッシュ指揮の「ヴァルキューレの騎行」が1928年録音である。やはりこの人の指揮は劇場向きな印象で、それほど上手く行っていない。

さてフルトヴェングラー指揮は1935年録音で「魔弾の射手」序曲で流石に低声部から中声部へとコントロールしている。そして1942年録音のフォン・カラヤン指揮「ツィゴイナー男爵」と比較できるようになっている。驚くのは客演でも完全にカラヤン節が聴かれ、問題の低音のにじみを上手く使っている。そして気が付くのはまさしくそうしたサウンドこそは座付き管弦楽団の妙を機能化したものだという事だ。まだ完全に完成していないからそれが分かったのだ。名録音と誉れ高いフィルハーモニアでの一連の録音では全く消されてしまっている過去の軌跡ではなかろうか。

勿論私たちが今キリル・ペトレンコ指揮のベルリナーフィルハーモニカーのサウンドとして期待しているのは、交響楽団としての立派な響きであり、メローな座付きサウンドではない。引き続きフルトヴェングラーのSP録音から運命交響曲を聴いていきたい。七番交響曲の響きがどのようなものであるべきかの示唆がそこにあるかもしれない。兎に角、フルトヴェングラーのそれは拍の頭のアインザッツから次への落とし方が本懐であって、そうした音の密度の縦波が和音のグラデーションとして鳴ることをして和声の機能としていたので、カラヤンのようなずらしは無かった。ペトレンコが振るとその精度が三倍にも四倍にもなる為に演奏精度もそれ以上に高くなる。一度の本番では中々到達不可能な領域である。

今時大管弦楽団のベートーヴェンが本質的な関心を持って演奏されるとは思わなかった。少なくとも戦前の新生交響楽団の名声を取り戻すだけの成果は期待はしたい。それ程バーデンバーデンでのラトル指揮のそれは無意味な演奏行為だった。フランツ・シュミット4番交響曲の晩は大分掃けたがそれでもまだ余っている。四月とは比較にならないほどの名演が体験出来るのに惜しい。



参照:
冷や汗を掻いて避暑 2018-08-07 | 生活


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# by pfaelzerwein | 2018-08-14 02:56 | | Trackback

「小さなライン、大きなワイン」

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森の中は清々しかった。ディスプレーが不調なので自信は無いが、摂氏10度であってもおかしくは無い。だからとても走り易かった。陽射しがあっても涼しいという事はやはりその気温だと思う。しかし街道筋に戻ってくると17度に戻っていた。

前夜のザルツブルクからの中継はおぞましかった。今年から「再びザルツブルクへ」と検討した時もこの「サロメ」の上演は気になっていたのだが、このポンコツ座付き管弦楽団には呆れた。つい先日あれほどまでの演奏をコンサートで繰り広げ、ネルソンスよりも大物のヴェリサーメスト指揮でこんなにポンコツな演奏をするなんて想像もつかなかった。いつもの誤魔化し演奏術だけでは事足りず、これならば楽譜に小節線もなにも要らないと思った。指揮者のメストもあれほどまでの演奏をクリーヴランドで披露しておきながら恥ずかしくないのかなと思った。なるほど一部の遅いテムポなどは効果を出していたが、お話しにならなかった。これならば彼が指揮するコンサートもあまり期待できない。ネルソンスとの指揮の技術の差はあったとしてもこれは無いと思うほど、この楽団とのずぶずぶの関係を感じた。

カステルッチの演出もMeTooを意識した演出のようだ。少なくとも自身も気をつけている感じで、あまりこれからの歌手にも誰にも無理はさせられないと考えたのだろうか?露出度はタンホイザーに及ばなかった。兎に角、物足りなかった。演奏と合わせてこれならばもし出掛けていたとしたらブーイングものだった。短い劇であり、休憩も無いのならもう少し集中力の高い公演にして貰いたいものだ。つくづくザルツブルクくんだりまで出かけていないでよかったと思った。

嘗てザルツブルクでのフィルハーモニカーの出番が過密過ぎて、他の楽団と分け合った時代があった。今は再びフィルハーモニカー公演が増えて、その質が変わってきているのは想像出来る。恐らくヴィーンでの上演程度までその上演の質が落ちてきているのだろう ― ベームやホルスト・シュタイン指揮の「アリアドネ」はこんな程度では無く、マゼール指揮程度にも到底及ばない。夏季休暇の間にこれだけ仕事をしているというのが尋常ではない。本年も月末のべルリナーフィルハーモニカー公演待ちという声が強いが、結局ザルツブルクはじり貧になっている印象である。

この乾いた暑い夏の葡萄についての記事が出ている。ことわざ「小さなライン、大きなワイン」がキーワードだ。水量が下がって河幅が狭くなり、ワインが立派に実るという事だ。そして、単純なワインや所謂ノイヤーヴァインなどの本格的なワインではないものの、急いで造って飲み干すものとして需要も高まり、早く摘み取ってしまえるのだ。それに対してリースリングなどは、出来るだけ葡萄を置いておいて一番良いのは十月に入ってから乾いた日が続いて朝晩が冷えるときに摘み取れるものが経験上最も素晴らしいリースリングとなる。

しかし今回は7月30日に糖比重が25度となり記録となった。あの暑い2003年を三日早く記録して、2011年の記録を打ち破ったようだ。つまり、そこから葡萄が熟していくと酸が分解して熟成へと近づく。リースリングは遅いとしても月末には熟成領域に至るであろう。問題はたとえ朝晩の冷えるといっても10月程度まで冷えるかどうかである。それほど冷えないと難しいだろう。もはや2003年は忘れられ、その次に来る2007年、2011年もあまり価値が無くなっていると書かれている。私個人的にはその双方の瓶熟成の可能性を特に前者を期待している。

そして皆が期待するような赤ワインは、来年の試飲で失望するのではないかとしている。つまりシュペートブルグンダーはあまりにも力強くなって、繊細さが無くなるというものだ。これも造り方によるのではないかと思う。



参照:
知らなかったなどとは 2018-08-08 | マスメディア批評
冷や汗を掻いて避暑 2018-08-07 | 生活


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# by pfaelzerwein | 2018-08-12 23:23 | 雑感 | Trackback

呪術から抜けられずに

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歯医者の予約を取った。前回は2015年のようで軟骨を齧って歯がぐらついたのでセメンのブリッジで固めた。そこの炎症が続いていたが、歯の一部が欠けたのが四月だ。その後炎症は好転していったが、漸く歯がしっかりしてきた。この機会を逃せない。レントゲンを掛けて要らないが、これで抜くとは言い出さないだろう。少なくとも好転していることは間違いないから、クリーニングに耐えられるぐらいならば、整形的手当てをして貰えると思う。少なくともそれで暫くは問題が無い筈だ。

スター指揮者をペテン師にしてしまった。関心を持っていても、恨みは無いので、客観的な評価をしている心算だ。だから客観事実次第で直ぐに評価を変えても全く苦にならない。しかしソニーのアーティスツ選択は不愉快だ。昔ビジネスモデルを使いながらエンターティメント領域での方法をそのまま転用することは構わないが、どうも選択するプロデューサがその世界の人であるような趣だ。そもそもビジネスモデルが使い物にならないうえに、能力の無い人間がプロジェクトしているとなると悪でしかない。

同じように客観的に判断するとヴェテラン指揮者ベルナルト・ハイティンクの録音などには苦情するしかなかったが、兎に角、生でその指揮した音楽を体験しないと分からない効果もあるだろう。特に和声の移り変わりのようなところで特別な効果を発揮すると予想している。そもそもコンセルトヘボーの名物は、弦楽器間のその受け渡しなので、上手く行けばと今からぞくぞくする。だから九月が楽しみなのだ。それでもアムステルダムまで行って期待外れとなると恨み節も出ようが、ルツェルンならば他の仕事も組み合わせれる。

MeTooガッティの代役に、二つの出し物から一つを、老マエストロが受け持つことになった。期待通りだったが、もしかするとブルックナーの指揮かとも考えた、結局マーラーの最晩年の第九交響曲となった。五月にコンセルトヘボーで返礼中に倒れたことから最終日はキャンセルされたので、アムステルダムでは雪辱となるのだろう。作曲家の晩年の心臓の鼓動が表現されたような曲想に自分の体験が重なるのだろうか。

幸運にも、もともと七番交響曲が組まれたプログラムのルツェルンでの売れ行きは芳しくなく、下から二ランク目の二列目も余っていた。それで手を打とうかと思ったら金券30フラン分があったので、もう一つ上を狙ってみた。150が120フランになる。サイドバルコンで一度試してみたかったが、あまりにも舞台横だったので止めた。本当にハイティンクが振るかどうかも少し気になった。それならば七番交響曲の方が月末の「マイスタージンガー」の勉強に合わせてよかった。結局80フランを50フランで購入した。これならば捨ててもよく、どんなにハイティンクの指揮が悪くても文句をつけるだけの価値もある。

それどころか月後半にはハイティンク指揮のブルックナーの交響曲を聞くことになっている。調べてはいないが、この老マエストロもブロムシュテットと同じようにルツェルン在住だと思うので。体力気力充分の指揮を披露して貰いたい。その指揮からマーラーよりもブルックナーの方が向いていると推測したが、双方とも聞けば楽団こそ違え最終的な判断が出来よう。マーラーの演奏の前には、ラトル指揮の「グルッペン」も無料でついてくるというおまけがあるので無駄にはならない。ラトルが尊敬する指揮者の演奏会だから間違いなく会場に現れるだろう。

ハイティンクの解釈は知らないが、個人的にはクック版の十番ほどこの交響曲は生で体験していない。理由はバーンスタイン指揮の呪術から逃れられずに来たからである。十番はシャイ―指揮コンセルトヘボーをここで、またラトル指揮バーミンガムでも体験しているが、九番はそれ以外に記憶が無い。

これで、九月末までに勉強する楽曲のリストが完成する。

シュトラウス:「ドンファン」、「死と変容」
ベートーヴェン:第七交響曲イ長調

デュカ:「ラぺリ」、「ファンファーレ」
プロコフィエフ:ピアノ協奏曲ハ長調
フランツ・シュミット:第四交響曲ハ長調

マーラー:交響曲九番

モーツァルト:ピアノ協奏曲K482
ブルックナー:交響曲七番

ヴァークナー:「マイスタージンガー」

十年以上前からするとこのリストのポピュラーさに驚くばかりだが、少なくとも二十年前よりは月並みでないものが体験できることになっている。涼しくなったので本腰を入れよう。

中継放送予定を一望する。先ず、ペトレンコ指揮のベートーヴェンプロは、初日フィルハーモニー、二日目シュロースは映像共々、三日目は中継録音、五日目はプロムスで、四日目は生で体験するので、追っかけをしないでも全てを聴ける。シュミットのプログラムは、ルツェルンが映像とも、そしてプロムスとなる。さてどれほどの脚光を浴びる演奏会ツアーになるだろうか。ここまで公共の支援があるので商業的なメディアと一線を隔すことが可能となっている。



参照:


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# by pfaelzerwein | 2018-08-11 21:14 | 文化一般 | Trackback

ペテン師野郎の指揮

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夕方前から雨が降った。気温の差だけでもその風の強さは推測出来よう。前日までは38度とかの高温が続いていたが、流石に久しぶりのお湿りで空気が冷えた。翌朝の森の中は気温摂氏11度超えだった。室内に居ても羽織るものが必要だったり、寒くなった。猿股からジーンズに履き替えた。

2018年プロム36コンサート中継を聞いた。繰り返して聞くのは面倒なので初めから楽譜も用意していた。一曲目は「夏の風」と思っていたら作品10の有名な小曲だ。ヴェ―ベルンのこの曲は京都で小澤征爾指揮のボストン饗でも聞いていて、その後もブーレーズ指揮などで比較的生で接している。録音も全集の旧録音が馴染みだが、最近はクラフト指揮の新全集CDがいつもデッキの上に乗っている。様々な楽器に取り継がれる音色旋律とまでも行かない鳴らない曲であるので、生での経験が印象に強い。小澤氏は二回同じ曲を繰り返したが、ここではマーラーのアダージョに続くという企画になっていた。

エサペッカ・サロネンと称する指揮者は作曲家でもあるという触れ込みで市場に乗っていたので最初から聴いていたが、今回音を聞くまで四十年間過大評価をし続けていた。それどころか日本では大喝采を受けていたので、とても期待していた。数年前に出されたシェーンベルクの協奏曲の伴奏が棒にも箸にも引っ掛からぬ劣悪なものだったにしても期待していたのだった。その理由にはバーデンバーデンの新監督がこの指揮者とのプロジェクトで成功していることもあった。

そしてヴェ―ベルンの最初の小節からして失望した。流石にミニュチュアーな創作であるから最初の拍からしてまともに音を出さないことには話しにならない。つまり一つの音符ごとにしっかりとした拍を出さないと意味をなさない。細かな指定一つも疎かに出来ないのは当然のことながら基本拍からして明白に打たれていないならばそれはオカルトでしかない。嘗てヴィーナーフィルハーモニカーが新ヴィーン楽派を録音し始めたころのその拍子感は独特だったが、それはそれなりに一貫したシステムなのでそれとは比較のしようがない。小澤の指揮がとんとん拍子や浪花節であろうがそれはそこの拍子感が面白かったのでもあり、コンサート空間に魅力ある生気を与えていたのは間違いない。この指揮者のそれも杓子定規なその見た目からするといかにも正確に打拍しているように誤魔化されるのだが、次のマーラーのアダージョなどで、そのいい加減さが明らかとなる。

対位法的な線を主に置く、MeTooのレヴァイン指揮でも敢えて言えばラサール四重奏団などの演奏などにも似ているのだが、その拍節が揃わないことと当然あるべき響きが定まらなく殆ど偶然のような響きしか出ないのがこの指揮者の管弦楽ではないだろうか。それでもそれが美しいと思っても、管弦楽団自体が正しい律動を刻まないことではダルな音響にしかならない。それに相当するかのように管弦楽団が下手なのだ。どうしてあそこまで日本で好評だったのか理解に苦しむ。偶々、アラン・ギルバート指揮の都饗の一番三楽章からフィナーレまでを観たが、その水準はフィルハーモニア管とならば甲乙はあるがそれほど変わらないというのが正直な感想だ ― こちらの批評は改めよう。

兎に角、アダージョでよれよれとしていて、この指揮者はテムポを維持する基本的な技能があるのかどうかが疑われ、それを誤魔化すかのように不可思議なアゴーギクが掛かるかと思うと、サウンド修正の段となる。楽譜を読み込むのとは違って、丁度ポップスのトラックダウンをするディレクターのようにつまみを捻って試してみて「うん、気が利いたサウンド」とか「パンチの効いた一発」とかいう感じで鳴らそうとするのだが、残念ながらこの管弦楽団はロスフィルでもなく況してやシカゴシンフォニーでもない、するとお粗末な音程で何やらの雑音を奏でる。音楽のフォームが壊れて、響く爆発音はただのポストモダーンサウンドだ。恐らくその野卑なのが一部のファン層に受けるのだろう。結構、しかしそれは創作とは何も関係が無い。

今でも如実に目に浮かぶのが、「グランマカーブル」公演後のリゲティの不機嫌な顔で、私は当時演奏スタイルや解釈が気に食わないから腹を立て、この指揮者をリゲティプロジェクトから追放したのだと思っていた。しかしこうして聞いてみると作曲家が腹を立てていたのは、この指揮者のペテン師紛いの指揮活動だと分かった。そして一部の録音を受け持った指揮者ノットがトンでもない「ロンターノ」をベルリンで録音するという如何にもソニーらしい制作が完成したのだった。

自己弁護すればこの指揮者の演奏は十代の時から眉唾ものだと気が付いていたが、その後も何回か実演を経験していて、お恥ずかしいことにバーデンバーデンに迎え入れようとしていた。ゲルギーエフ指揮も絶対出掛けないが、そもそもクラスが一つ以上違う。二流と三流の相違は職業の基礎があるかどうかだろう。



参照:
三段論法で評価する 2017-02-28 | 文化一般


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# by pfaelzerwein | 2018-08-10 23:28 | 文化一般 | Trackback

歴史的年度になりそうだ

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散髪屋に行った。早めに行ったつもりが既に二人ほど先客がいた。九時ではなく早めに開けたのだろう。それでも直ぐに空いている椅子を勧められて、隣の美容師さんが手が空くのを待っていると、背後のおばさん美容師がやって来た。「決まった切り方がありますの」と聞くから、隣の姉さんに助け船を出して貰いたかったほどだ。一番そのお姉さんが気に入っていて、信用している。それでも前回切って貰った他の人のも素晴らしかった。素晴らしいのはそれほど形が崩れずに、この暑い期間を伸び放題で過ごせた実績があるからだ。髪が薄くなったのだろうかと思うぐらい、うなじも寝ずに上手く風通しが悪くはならなかった。

最初の頃は街道沿いの店に行っていて、おばあちゃんが戦中からこてを使てやっているような美容院だったので、息子は完全な散髪屋タイプだった。だから繁盛していたころには若い美容師さんが居てもそれほどの腕は無かった。おばあちゃんが刈ると如何にも昔風だった。その点今の店はマダムは腕が無くても、採用する美容師さんたちは皆最新の技術を持っている。そのようで、比較的誰がやっても考えながら形を作る。

今回のおばさんは、横にバリカンを大胆に入れた。この髪型では初めてなので、鏡を見て驚いたが、直に伸びてしまうから形がいつも問題になる。但し伸びても上手く伸びて呉れれば嬉しい。確かに若い女性でもサイドにバリカンを深く入れているのは見るが、どうなることだろう。兎に角前回は最後までよかった、さもなくばこの二週間の床屋の休み中に鬱陶しさで発狂していただろう。そして短くするとやはり気持ちいいい。それでも思ったほど全身が冷える訳でもなく、頭も冷却までは行かない。それにしてもおばちゃん可成り思いっきりやったと思う。

雷雨を待っている。そしてお隣のラインヘッセン地方では月曜日からワインの摘み取りが始まったという。土地柄ブルグンダー種であることは間違いないが、記録的な速さで数週間早い。リースリングも八月中の摘み取りがあるだろう。ここで雹に遭うのは得策でないとすれば、酸が分解したところで安物のリースリングは摘み取れれるだろう。質も悪くは無いのは朝晩の冷えで明らかだ。さて高級リースリングがどうなるかだけである。

8月25日のベルリナーシュロ-スでの野外演奏会がrbbで中継される。時差ライヴ放送である。rbbはローカル局なのでそれほど観ている人は居ないが、ネット配信されているので、楽しみである。rbbは山本太郎参議院が原発取材で訪れた番組をオンデマンドで観た覚えがあるが、ライヴ放送を日本から見るのは難しいかもしれない。当日はドイツアルパイン協会会員在籍二十五周年の会への出席の返事を保留していた。しかしこれで、もしこれにラディオ中継放送が入っても、夜9時30分に帰宅していれば、録画も時差があるので問題ないと分かった。この演奏会は前日のフィルハーモニカーでの初日よりも歴史的な価値を持つと思う。そもそも初日にはあまりいい演奏はしない。ペトレンコ指揮の管弦楽の常である。だから初日よりもこの二日目、それよりもザルツブルク、ザルツブルクよりも四回目のルツェルン、そしてプロムスなのだが、これは音響上何とも言えない。

しかし先日聞いたドイツェスレクイエムなどの中継放送の音響は決して悪くは無かった。会場よりも放送の方が良いのかもしれない。私は指揮者に向かってしか聞いていないので判断はつかない。そして木曜日の「ワルキューレ一幕」である。聴き所は、フィルハーモニア交響楽団の演奏の質とミュンヘンの座付きとの比較、その間でサロネンとペトレンコの指揮の相違はなになのかを明確に聞き分けることである。サロネンは四十年間の間に少なくとも三回は聞いていて、前回は二十年前だった。放送等でも殆ど聞くことは無いのはヤンソンスと同じように、聞く前から分かっているからである。しかしバーデンバーデンの新支配人とサロネンは幾つかのプロジェクトを成功させていることから、今後は春のペトレンコ、夏のゲルギーエフと並んで、サロネンが秋か冬に活躍すると予想している。だから一度改めてその腕前を評価してみたい。そもそも今回のプログラムでも、マーラー10番アダージョ、「夏風の中で」と並べてあまりにも名曲演奏会になっていてひねりが無い。だからコンサートに行く機会も無かった。MeTooガッティのプログラミングとさして変わらないのである。

ニューヨークタイムズにミュンヘンとバイロイトを掛け持ちして感想を書いている。一流新聞と思って期待して読むと失望した。そもそも企画自体が味噌くそ一緒にするグロテスクなもので、ヴァークナーで括るだけの流石にニューヨークでしか通用しないものだろう。やはり音楽芸術的には後進国だ。なにか「指輪」に関して読んでいるとまるで後半の作品はよほど管弦楽が支離滅裂になるか、それこそゴタ煮の轟音しか出さないものとしか理解していないようだ。楽譜などはほとんど見ていないに違いない。「オランダ人」から「パルシファル」まで同じような音楽として聞ける人の耳を検査してみたい。どうもこの手の人はロマンティックなレガート過剰の演奏を期待しているようだ。



参照:
創作などは理解不能 2018-05-10 | 文化一般
Fuck you, everybody! 2011-12-06 | マスメディア批評


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# by pfaelzerwein | 2018-08-09 22:21 | | Trackback

噴水の水音に涼む

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暑い夜をやり過ごした。明け方おかしな夢を見ていた。北欧のどこかの立派な首都らしき旧市街の中心部でしけこんでいるのだ。劇場で出合った女性のようで、その近くに住んでいる。引けてから同伴帰宅となった。食事などを済まして、それならば「うちに泊まる」という事でいそいそとついていく。それほど魅力的でぴちぴちした女性ではなかったが、ちょっといいところがあったのだ。住まいは古い大きな家の屋根裏の広いスペースで、どうも共同生活しているらしく、他のカップルなどにも挨拶をする。

部屋に招き入れられるや早々、大きなダブルマグナム以上の瓶にシャンパーニュが入っていて、それを移して飲むようになっていた。尿瓶を印象させた。先ずはお国のそれを試してみたいなと喉を鳴らしているうちに、そろそろ就寝時間だという事で、大きな部屋の床の上に布団が並んでいるような丁度山小屋のラーガーのようなところでという事になって、彼女はシャワーを浴びて来るというのだ。こちらは、先のシャンパーニュが気になっているので、グラスはどこに行ったのかと聞こうと思ったが、流石にここは要らぬ欲は出さないようにと我慢した。手持無沙汰なので窓から向かい側の劇場のライトアップを見て涼んでいると、夜更けにも拘わらず轟音を立てて市電が走って来た。

その市電が凄いのだ。その特徴はブレーキを掛けないことで極力エネルギー消費を抑えて、自然に優しいという首都名物になっている公共交通機関である。そして、劇場のある広場の方に下りて行く坂が急坂なのだ。急坂の途中で大きな川を渡る橋を越えている。そしてその迫力がジェットコースターどころではないのは殆ど機関車のような二連連結の重量ある列車なのである。軽量化しなくても慣性を生かすという事らしい。その振動というか轟音が途轍もない。そうこうしているうちに彼女が布団に入って来て、添い寝するかというところで目が醒めた。

夢診断する以前にこのストーリーのネタ元を考えると、記憶の深いところで残っている雑多な印象を繋ぎ合わせたものでしかなく、その女性の顔だけは分からないのだが、更に最近見た映像に過去の共産圏のあの重そうでその地響きの轟音などそのまま材料ともなっている。場所は比較的ドイツ語が使えたことから旧東プロイセンだと思う。十年ほど前に見た原発施設に乗り込む諜報員ものもカザフスタンかどこかで最終的にはトロッコのようなモノレールに乗って逃走するというものだった。よほどその方に潜在的な何かがあるようなのだが、解釈すれば文字通り「レールに乗った」キャリアーという事にもなるのかもしれない。夢判断的に解釈するとそうなのだろう。

その他の女性口説きの関係は、いわば「男たちの悪巧み」のようなもので誰と話した訳でもないが、ちらちらと先日来考えていた口説き術に準拠している。それでもワイン系のものに喉を鳴らしているのもいかにも飲み意地としか思えない。潜在意識に関連するレールが例えばロンドンのテューブのようなものでなく、地上若しくは空中というのも面白い。若干空飛ぶ系の夢想にも近いのだろうが、レールに乗っていてちっとも飛躍しない。それでも坂を下りてくるそれは殆ど離陸しそうな勢いだが、当然のことながら、有り得るのは脱線だけである。寧ろ怖いと思ったのは、考えてみればわかるように、ブレーキの無い列車が路面電車としてとんでもないスピードを出していることである。そこが恐怖だった。以前は空中遊泳ものだけでなくて飛行機ものもあったのにどうしたことだろうか。それにしてもまだまだご気楽な空想をしていて我ながら呆れる。

涼もうとしたのも予定ならば就寝前に雨が降って、もう少し涼しくなる筈だったが、風だけが強くて温度が下がらなかったからだ。目が醒めると気持ち良かったのは寝室にも小さく響く、広場の噴水の音だった。これも今年最後の涼しげさかと思いヴィデオと写真を撮っておいた。風が強いのと、明け方になるとちょこちょこと車が通るようになって静けさが少なくなってきた。上のような旧市街中心部の話しになるのも、まさしく自身の環境を反映していて、離れて一軒家であると庭で造らないと難しい。ワイン祭りの迷惑の反面、こうした公共の恩恵を受けれるのが嬉しい。明日は散髪屋再開だ。朝一番乗りできるかな?今年最後のサマーカットである。

雨降りが予報されてそれまでに走ったが、結局全く降らなかった。これは少し痛い。明日は是非お湿りが欲しい。雨量は限られているようだろうが、全くないよりはマシだ。



参照:
悪夢の特命潜入員 2005-09-01 | 雑感
オージーの天狗裁きの朝 2016-12-22 | 生活


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# by pfaelzerwein | 2018-08-08 23:49 | アウトドーア・環境 | Trackback

知らなかったなどとは

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暑さの山となりそうだ。早朝の約束があって、前夜の睡眠も足りていないので、走らなかった。30%を超える湿気もあり、予想される雷雨が待たれるところである。それによって早朝の22度まで気温は下がり続ける予報である。その後は、最高気温30度程度で、最低気温は金曜日には16度、最高気温も25度となる。来週は完全な秋ではなかろうか。流石に暑くなったためか、あまり見かけない蝶が寝室の窓際の壁に張り付いていた。そう言えば今年は乾燥しているから室内で蚊を見かけたのは一度限りだった。

ルツェルン行の準備もそろそろ始めよう。宿は再確認するがやはり予約してあるものが一番なようで乗り換えるならば同じホテルでキャンセル無しの5ユーロ引きだ。どうしても考えるのは二泊した方が良いかどうかだが、ホテルで前夜の興奮を夜食の飲み食いで冷まして、朝食を摂ってからも11時ごろまで粘って、その後の過ごし方に注意すればよい。車をあまり走らせないでゆっくりしたい。どうせ帰宅は午前様となる。

音楽祭の新聞評などを見る。例年よりも関心があるのはザルツブルクの音楽祭だ。一旦は、今世紀に入って初めての再訪を検討した位だからである。昨年のピーター・セラーズの「ティトゥス」の印象も強かったからである。今年は、後半にクリスティー指揮などのバロックを残しているようだが、それにしてもなぜ今頃モンテヴェルディなのか分からない。恐らくザルツブルクでの売券の確実な出し物という事が優先されたのだろう。ざっと見た感じではやはり「ザロメ」の話題性が高いようだ。土曜日に放映なようで楽しみだ。カステルッチ演出の露出度にも期待するが、それよりもサロメ役の新人がとても評判で一日で大スターになったとされている。残念ながらライヴではなさそうなので、カメラアングル上のハプニングなども期待出来ない。だからオンデマンドを落としても映像に関してはそれほど変わらないであろう。ヴィーナーフィルハーモニカーをヴェルサーメストがどこまで振れているかも注目したい。

先日のクリーヴランドからの「トリスタン」は前夜に留守録までしておきながら忘れていて最後の三幕は始めが切れた。それでも最初の30分ほどは大した歌声もないので、ニーナ・シュテムメの愛の死だけは堪能した。メスト指揮のクリーヴランドの演奏は最初の驚きが最後まで劇的感動には結びつかないのは、バーデン・バーデンでのラトル指揮ともそれほど変わらない。それにしてもあのこの操り人形指揮に似つかわしくなくとても歌い口が巧い。余談だが、アンドリウス・ネルソンスが「復活交響曲」のメロドラマ形式に言及していて、多忙な割にはポイントをしっかり押さえているのは流石だと思った。

最も真剣に読んだのは、イゴール・レヴィットの演奏会評で、「ハムマークラヴィーアソナタ」へのリサイタル構成の全体が素晴らしかったらしい。放送はなさそうなので残念だが、ソロリサイタルは比較的身近で機会があるので、留意しておきたい。前回のラゼェスキーとのヴィースバーデンでのレートナイトも悪くは無かったが、ポピュラー曲のプログラムも一度早めに聞いておきたい。

八月に入ってからの初日では「スペードの女王」の評が出ていたが、これもヤンソンス指揮であるから、その出来はそれ以下でもそれ以上でもないことは初めから分かっている。「知らなかったなどとはいってほしくない」と謂わざるを得ない批判が出ている。一体ヤンソンス指揮に何を期待していたのだろうか?ヴィ―ナーフィルハーモニカーではなくて、主兵のミュンヘンの放饗だったらとかも無意味で、そもそもオスロの交響楽団以上のどんな楽団を振っても結果は変わらないから、コンセルトヘボウには役不足だと評されたのである。それもオスロの当時から分る人は判断していた。玄人筋で今頃まだそんなことを本気で書く人が居るのは驚きに堪えない。

演出のノイフェルスが「サウスポール」での共演で満足したからか、ペトレンコ指揮「悲壮交響曲」の印象をもとに演出に当たったとされるが、これもヤンソンスにとっては面白く無かっただろうなのは当然である。それで結局記事は、月末にべルリナーフィルハーモニカーと訪れるキリル・ペトレンコが救世主という副見出しになっている。否が応にこの記事を目にするヤンソンスの気持ちは知れよう。何処かとっちゃん坊やのような風情のヴェテラン指揮者が不機嫌になって、じわじわと嫉妬心のようなものが喉に込み上げてくる来る暑い八月である。



参照:
Diese zwei Hände sind ein ganzes Orchester, JÜRGEN KESTING, FAZ vom 6.8.2018
寛容の海を泳ぐ人々 2017-07-31 | マスメディア批評
上野での本番などの様子 2017-09-20 | 文化一般


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# by pfaelzerwein | 2018-08-07 23:06 | マスメディア批評 | Trackback

冷や汗を掻いて避暑

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スタンドに燃料を入れに行く。予めネットで最寄りの安い価格を調べる。私が最近出掛けるチーパーワンは決まった時間帯に安売りする。その前の他所のスタンドの価格を見ておくと所定の時間帯になった時の推定価格が予想可能である。148から始まったが、他所が144ほどを付けている。上手く行けばその価格以下、少なくともその価格までは先ず間違いない。その時間帯が近づくと期待通り145まで下がった。そこからSHELLの自動車クラブ割引で更に1セント下がる。つまり144で購入となるので、急いでいることでもあり欲張らずに出掛ける。先ずはガス欠で動くかどうかドキドキした。幸い何事も無くスタンドに辿り着いて、給油口の横に停めた。再度価格を確認する。これで手をを打つしかないと思って、給油ノズルを取ろうとすると、更に2セント下がって、143になっていた。これで思い残すことは無い。結局142で20リットル給油した。どれだけ得したことだろうか。前日からこれを楽しみにガス欠の危険を冒して引っ張っていたのだ。メータの不調は変わらず、残り0が出続けていた。もしガス欠となると救援を呼ぶか、暑い中をガソリンが入ったポリタンを持って数キロ行軍であった。冷や汗を掻いたのだった。

ザルツブルク音楽祭のコンサート中継録画を観た。失望させ呉れ続けているアンドリウス・ネルソンス指揮のヴィーナーフィルハーモニカーの演奏で、マーラーの交響曲二番が演奏された。手元が空いていたので、もしやと思って録画していた。そのまさかで、この管弦楽団がこれほどまともに演奏するのを初めて聴いた。この楽団の演奏はオペラ、演奏会双方とも覚えきれないほど聴いている。カラヤン指揮とバーンスタイン指揮は生で体験していないが、ベーム博士指揮の時以上にまともに演奏するのを観聴きしたためしがない。それがこのマティネーの演奏会だった。

同じ場所で同じように「復活交響曲」体験したのはマゼール指揮のゲネプロであった。違いは明らかでその指揮の精度でしかない。マゼールも指揮台を降りて拍の振り方を研究していたが、その程度の精度では全くないようだ。なるほどミュンヘンの座付き楽団が感激して乞うて迎えたがった筈だ。キリル・ペトレンコの原則主義とは大分違って、この指揮者はありの侭を上手く受け入れて、客演でもとんでもない成果を披露する。楽譜の読みも、腰を曲げて頁を捲りながら凝視するかのように結構見ているとは思うのだが、ペトレンコの様には拘らない。これは利点でもあり欠点でもあるのだろうが、少なくともこの楽団を指揮することに関しては今までこれほどの成果を出す人を知らない。ベーム博士のように叱る必要も権威も必要ないのだ。技術と信頼関係だけだろうか。

しかしそれが音楽的な表現として効果があったかどうかは、会場の冷静な反応で測るしかないが、フィルハーモニカーは手応えがあったと思う。サロネン指揮も悪くは無かったようで、放送があればぜひ聞いてみたくなったが、その技術程度からしても音楽性からしてもそれほど期待しない。どんなに指揮者が良くとも11月定期のペトレンコ指揮にも全く期待できないようなドサ周り管弦楽団だけに驚いた。ヴィデオは永久保存ものだ。時間を見て細かな問題点を洗いたい。

取り分け見事だったのは、ヴァルツャーにおけるフィルハーモニカーの香り立つ響きで、これに類するのはメータ―指揮のDecca制作録音しか知らない。ここだけでも指揮者冥利に尽きるだろう。ゲヴァントハウスを振ろうが、ボストンだろうが、ベルリンだろうが、これは得られない。もう一つは終楽章のダイナミックスの付け方で、この指揮者の総譜の読みの確かさと、適格な音化の腕前にほかならない。とても楽団の合奏を活かしながら、その楽団の音響を脳裏に描けるのはこの指揮者の最大の強みだろう。それ故にミュンヘンには興味が無かったとしても致し方が無い。

ここからは妄想となるが、恐らくこの人以上にこの名門楽団を指揮出来る者は存在しないと思われるが、本人は若い男のように色々な楽団を試しながらの伴侶探しのような趣がある。サロネン指揮の演奏会が新鮮で評判としても、それとヴィーナーフィルハーモニカーための指揮とは全く違う。ロスフィルならばそれでもよいのかもしれないが、その方ではソニーグループがジョルダンを売り出そうとしている。国立劇場とフィルハーモニカーは直接関係が無いが、あれだけ立派な指揮をされるとジョルダンはコンサート指揮など恥ずかしくて逃げるに違いない。

どう考えてもゲヴァントハウスとよりはこちらの方が遥かに可能性が高く、相性が間違いないとしたら、ゲヴァントハウスは二年で辞めるのではなかろうか。ジョルダンが劇場でも成功する可能性はかなり低く、こちらも名物の支配人諸共の下ろし運動が起こるかもしれない。但し不可思議なのはザルツブルクの会場がそれほど湧いていなくて、披露したものは通向きなのかもしれぬ。まだ若いのだから、劇場で苦労するのも良いかもしれない。



参照:
「死ななきゃ治らない」 2018-07-08 | 歴史・時事


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# by pfaelzerwein | 2018-08-06 23:51 | 生活 | Trackback

サチって仕舞う音響

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流石にこの二日ほどは暑くなった。それでも時折吹く風が涼しい。夜中は窓開け放たれると布団が気持ち良い。前日に走れなかったのでゆっくりと峠を往復してきた。徐々に摂氏22度へと上がって行くとやはりつらく汗だくとなった。車の燃料のボードコムピューターが0から上がらないので焦っていた。前日の晩には3l残っていることになっていたので、それが一挙に利かしてしまうことは無いだろうが、少なくとも燃料計測の重しのところにはなかたっとみられる。そのまま結局スタンドの前を通って自宅まで帰って車庫入れしたが、週明けに本当に動くだろうか?最悪の場合はまた前回のように暑いところをポリタンを持ってスタンド往復だ。水曜日までの我慢だ。木曜日に最後のサマーカットにして、そして涼しくなる。

クリーヴランドからの放送を夜中に録音しておいた。結局途中で目が醒めているのだが、途中から入力を落とすほどには覚醒していない。なので強音では完全にサチって仕舞ったが、とんでもないダイナミックレンジで収録されているようだ。そもそも歌手を高みにおいて、最小音から完全に鳴らせ切れない会場一杯の強音までだから、可成りマイナスに伸びている録音で、そのようなマイクロフォン設置なのだろう。通常にスピーカーで鳴らす限りはそれほど歪感は感じない。こちらの録音上の不備よりもこの管弦楽団の特徴とその会場の問題が良く分かった。それが丁度この楽団の限界にも通じる。音資料にはなりそうだ。

具体的には指揮者のメストが語っていたように、アメリカの楽団の特徴として棒が振り落とされた瞬間に音が出てしまうので、同じ拍で声を出そうとしても息を貯めるまでの一瞬遅れる。だから欧州の座付き楽団は音がなかなか出ないようになっていることで、この「トリスタン」二幕でも高台から歌うシュテムメらの声の指揮は、昨年の「子狐」のルクセムブルク公演の時のように合わせたのだろう。基本は声の方が棒を早めに見て合わせていたと記憶する。あの曲は難しい。

それで、そして夕刻のザルツブルクからの「魔笛」から、決して悪くは無かったラトル指揮のDVD化されているバーデンバーデンでの最初のそれを思い出したのだが、そもそも最後の「パルシファル」でも全く舞台の上を見上げずに振っていた事が話題になったのを思い出した。歌手も直後のインタヴューでなにも指示が無いから勝手にやらして貰っている旨を語って、直ぐにネットではその部分がカットされていた。

あのペトレンコでさえ「ジークフリート」では歌手に対して逐一と指揮していたのは其れこそマーキングしてある要所要所だけで、「三部作」との大違いに驚いたのだが、ラトルは顔さえ殆ど上げなかった。それでも「魔笛」となるとザルツブルクでのヴィーンのなんとなく合わせる妙技とは違うので少なくとも管弦楽団は見事に弾き切っていて、歌手の問題も殆ど無かったと記憶する。そして「パルシファル」でも最終的に破綻は無かった。

次に日本に滞在する機会があったら是非そこの管弦楽を聞いてみたいと思っている。「東京・春の祭典」のヴィデオが出ているようなので少し見てみた。都饗は昔黛の番組に出ていたかどうか知らないが殆ど聴いたことが無い楽団だ。N饗でもどこでも似ていると思うがやはり日本のそれらしい音が響いている。初めは会場や録音の特徴かなと思ったが、やはり独自の響きがある。最近は中声部のヴィオラ陣がとても気になるのだが ― なにもヴィオラ弾きの恋人がいる訳ではない ―、そこの弾き方次第で管弦楽がどのような和声を響かしているかがよく分る。MeTooデュトワとN饗のフランクフルト公演でその辺りが欠落していると指摘した時には、第二ヴァイオリンとヴィオラを同じぐらいにしか捉えていなかったが、今は後者の具体的な問題として認識する。しかしこれはなにも日本の楽士さんをバカにしているのではなく、先日もミュンヘンの座付きの課題であったり、ベルリンのフィルハーモニカーのそこがフィラデルフィアやクリーヴランドに比べるまでも無く、ゲヴァントハウスやコンセルトヘボウと最も異なるところだと考えている。そこにも留意して第七交響曲イ長調も勉強しようと思う。

なんだかんだ文句をつけながら女流指揮者が振った演奏会を最後まで流してしまった。モーツァルトのト短調交響曲はよく弾けていて、シュトッツガルトのSDRでも中々こうは弾けないだろう。なるほど訳の分からない東欧の楽団などを興業させても東京では入らない筈だ。そして日本人の几帳面さがリズムや謡いまわしなどによく表れていて、それが良くも悪くもある特徴となっていて、私はバッハの楽団で世界的な新鈴木メソッドとそれを呼んでいる。やはりこの四半世紀で日本の音楽市場事情は変わっていることは間違いなさそうで、歌曲の会にしてもある種のプログラムでは欧州ではなかなか成立しないような充実があるかもしれない。さて、日本滞在の節は、何処の会場で何を聴こうか。



参照:
最も暑い週末を迎える 2018-08-05 | アウトドーア・環境
情報量の大小を吟味 2018-07-11 | 文化一般


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# by pfaelzerwein | 2018-08-05 23:42 | | Trackback

最も暑い週末を迎える

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朝一番で一汗掻こうと思っていた。体調が優れないので断念した。用意をして出かけて走らないことは珍しいが、右の胸に圧迫感があったので止めた。左ではなく、それほどのことではないと思ったが、木曜日にも走っており、日曜日にも走るので無理をしなかった。そもそも早朝走るのは不健康であり、それだけで循環器系への負担は大きく、寝方が悪かったにしても圧迫感があるところで走るほどのバカではない。なるほど走れば一汗掻いて暑い日を容易に乗り越えられるが週末の一日ぐらいどうでもよい。

ラディオでは河川の船輸送が特別料金になると話していた。理由は晴天続きの夏で大きな河川も水位が下がっていて、ラインでも二メートルを切っているとあった。つまり普段は満載にするのを三分の一の貨物量にして、喫水値を下げなければ航行不能となるからだ。すると一度に運べる貨物が三回に別れて、当然のことながら交通量も増えて危険性も増し、コストも嵩む。だから予め特別料金が設定されているらしい。

夕方閉店前の八百屋からの帰り道、車の外気温計が37.5度を指していた。その数字は見たことがある印象だが、摂氏38度を見ることはあるだろうか?暑い時間帯に車を動かさない限り無理かもしれない。兎に角、乾燥しているのが特徴で、なるほど暑いのだが、帰って来ても汗を掻いていなかった。シャワーを浴びる予定にしていたが、結局しぶしぶと浴びただけで、暑い2003年や2015年の夏のように水風呂に入るのは寒くて無理だ。これで木曜日まで耐えて床屋に行って、その次の週は最低気温が15度以下になるので一挙に秋支度となる。葡萄が日焼けしない限る凄いリースリングが出来ると思う。

ネットに昨年バイエルンの国立歌劇場東京公演に同行したフライ記者がノイエズルヒャーに書いた記事があった。興味深いのは、私が扱っているようにキリル・ペトレンコとヤニック・ネゼセガンを比べていることだ。勿論カーネギーホールでの書き込みにあったように、到底比較の対象でないとのことで、ネザセガンを一緒に出すなという声はあがろう。しかし現在活躍中の指揮者を見渡すと、そもそも取り上げる必要のあるのはネゼセガンぐらいしかいないのだ。この記者が私の呟きからヒントを得たかどうかは分からないが、まだ完売していないワンの弾くべルリナーフィルハーモニカーとネゼセガン指揮のロッテルダム管弦楽団の販促効果としてはこれ以上のものは無いであろう。

但し残念なのは私がBLOGで扱っているように、それならばネゼセガンの音楽のどこが良くてどこが悪いかには一切言及していない。コンサートが始まる前から書いても仕方がないのだろう。両者のキャラクターの比較で、ペトレンコをファントムとしてネゼセガンを交流者としていて、前者の表現はどうかとも思うが、そこをメディア人として若干修正して欲しいとしているので、意見としては致し方が無い。ネゼセガンが逆のコースを歩んで、コンサートからオペラへと進んでいて、欧州での活動も縮小する方向で動いていて、ロッテルダムで一緒に育った楽団とのお別れを悲しんでいるとあった。

先週録音した楽劇「トリスタン」一幕をBGMに流している。高みで歌わすのは気の毒だが、こうして歌うとシュテムメの歌詞も明白で、声の質がニルソンの方が子供っぽいだけで、その芸術的な仕上がりは素晴らしい。クリーヴランドの管弦楽がとっぴおしも無い音を出して、驚かせるが、ミュンヘンでのそれを準備する時のいい音素材となりそうだ。カムペのイゾルデもヴィデオがあるので、とても助かる。しかし思い起こすのは先ず「マイスタージンガー」における引用で、そこも9月までに詳しく見ておきたい。何か双子のような作品群にも見えてきた。

それにしてもヴェルサーメストがクリーヴランドをこうも易々と小気味よいノリで振ってしまえることも驚きでしかない。ヴェルサーメストが適当な楽団で素晴らしい仕上げをしてくることは知っているが、ペトレンコやネゼセガンが汗を掻いてとても苦労してリズムを刻ませているところを軽々とこの楽団は為している。上の記事にもあるように双方とも「室内楽的」にが共通しているとなるが、そもそも現在の大オーケストラで室内楽的に鳴らずに、厳格に音楽の合っていない粥のようなそれは美学的に認められない ― 何か日本の呟きを読むとどうも彼の国では鳴らし方が違うようだ。その点からも「細いピンセル」の楽団を手中にしたヴェルサーメストの幸運の程が知れる。



参照:
記録的な高気温になる予感 2015-08-08 | アウトドーア・環境
彼方の高みは? 2006-07-21 | アウトドーア・環境



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# by pfaelzerwein | 2018-08-04 23:20 | アウトドーア・環境 | Trackback

指揮者の手解き次第

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暗くなっても暑かった。バルコンで横になっていた。すると結構気持ち良いのだが、屋根裏部屋のベットに行くまでには少し時間を置いた。一日で一番気持ち良い時間だ。引き続き火星の輝きが激しい。あそこまで光ると写真を撮りたくなる。しかし三脚が無いのでまともな天体写真は撮れない。小さくてもしっかりした三脚があればと探してみたい。

仕事となるとご苦労様と思う。あの暑いバイロイトで良いものも悪いものも見聞きして記事にしなければいけないからだ。クーラーの効いたホテルに居るのかどうか知らないが、あまり愉快な仕事ではないだろう。ドミンゴの指揮の報告が載っている。問題を、丁寧に書いていて、記者に言わせるとこうなる。

通常の劇場と違う蓋付きのピットであるから、指揮のその打ちからのその距離感は大きく、とても危ういのにそれに責任を持つというドミンゴの勇気に言及する。つまり「指揮者は歌手に任せてはいけなく、引率しなければいけない。さもなくば、どんどんゆっくりになってしまう」とそのメカニズムを説明する。

このメカニズムは簡単なようで意外にそれほど直感的に理解出来ないかもしれない。つまり、普通の音楽愛好家はどうしても客席側での音響を考えるから、そこに届く前に起こっていることがなかなか把握出来ない。肝心なのは楽器と声が合うことでしかないが、例えば歌手が楽器の音を待っていて発声したのでは遅れるという事になる。

今回の生放送中に「シュテファン・グールドが息が続かなくて死んでしまう」というような指摘があったが、まさしく奈落の音を待っていて声を出すと、その次は今度は指揮者がそれに合わせて、それがまた遅れてとなると減速のループに入る。それがまさにあそこで起こっていた。あれはあれでプロのそれも超一流の歌手と管弦楽団での超面白実験だった。

これが少しでも分かるのは「三部作」でのペトレンコの指揮を舞台と客席の間で観ていたからだ。なにも加速域だけでなくて、ゆっくりしたところでも特別に歌手に指揮をするところがあって、本当に少しのずれを振り別けるのは「春の祭典」の複拍子どころではないのではと感じた。語学やピアノなんかと同じで子供の時かどんなに遅くとも20歳代の前半までに身に着けていないとどうしようもない技能なのだろう。

ドミンゴのそれほどブーを受けた指揮者は今までいないようだが、なるほど今まで登場した大植までを含めた指揮者は本当のプロの指揮者で蓋付きで合わせれるかどうかは時間の問題でしかないのだろう。初代音楽監督でも反復練習してマスターするものであるから、基礎のある指揮者では克服可能なのだろう。逆にあれだけ時間差があればキュウは出しやすいのかもしれない。楽譜にマークを付けておけばよい。クナッパーツブッシュなどという指揮者はその辺りを上手く逆利用していたのか、兎に角「パルシファル」などになるとアダム・フィッシャーあたりでも引き摺ったと批判されているので、容易な楽譜と困難な楽譜があるのは確かだ。

そのコツをご丁寧にネルソンズに手取り足取り教えようとしたのが初代音楽監督だが、今回は「クリスティアンはヴァークナーの権威だから」とまで言わせた大歌手ドミンゴに懇切丁寧になぜ解決策を授けられなかったのだろうか。またまた不信感を感じる。大恥をかかせるために大歌手を招聘したのかと言われても仕方がない。性悪な連中のことを考えるとそこに疑心暗鬼が募るばかりだ。

さて前日のガッティ解任騒動に対して、その反論がなされている。「アメリカの話しは古い話し」でとして逃げれたが、今回のコンセルトヘボー楽員の反旗は決定的だった。そしてガッティ側は法廷闘争も辞さずと、このままネガティヴキャムペーンが続くならと牽制した。コンセルトヘボーはそれなりの証言が得られたのだろうから、負けることは無いとしているのだろうが、その他のベルリンのフィルハーモニカーを含む客演する管弦楽団、特に客演に多く登場するべルリンの対応が注目される。コンセルトヘボーから事実関係への情報提供を求めて、もし告訴されても勝てる準備をしなければいけないのだろう。牽制の効果は少なくとも代替の発表を遅らせるかもしれない。どうみてもアメリカでの件は時効のような事例で、コンセルトヘボーの皆を驚かせた早期の明確な処置は、「舌をねじ込んだキスや身体を弄る」などがアムステルダムでも明らかに最近まで為されていたとしか思えない事象が確認されたという事だろう。

もう一つ興味深いのは、8月2日正午の広報時点で、月末からのツアープログラムの代替指揮者が定まっていなかった気配があることだ。つまり3日正午時点ではまだ代替指揮者の発表がなされていない。通常ならば契約解消前にその後の影響がどうなるかを検討して発表する筈だが、間髪を入れずに訂正が無いとはどういうことか?組織としてシェフの裁定権がどのようになっているかなど定まっていて、首を切るまでは少なくともアーティスト選定に動けなかったのかもしれない。要するにクーデターなどと同じように首を残しておくと横槍が入る可能性があったとなる。すると余計にツアーまで一月を切った契約解消は時間的な制約もあり、可成りばたばたと後先無しに動いた可能性も捨てきれない。もしかしてまだスキャンダラスな事実が明るみになるという事なのだろうか?



参照:
満期ご奉公御免まで 2018-08-03 | 雑感
鋭い視線を浴びせる 2018-07-16 | 女


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# by pfaelzerwein | 2018-08-03 23:32 | 雑感 | Trackback

満期ご奉公御免まで

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スピード違反の写真付き聴取が届いた ― 眠気を堪えるために鼻を押さえている。予想した通り違反だ。誤差を時速4㎞差し引いて、100㎞制限を121㎞出したことになる。違反金70ユーロで、持ち点8から減点1である。これは二年半後に消えるが ― 以前は二年で消えた ―、一年以内に繰り返すと常習犯扱いとなる。先ず一年間は更に安全運転だ。来年新車に乗り換えると、最初の二年ぐらいは安全運転となる。これは悪くは無い。

今回自身自覚したのは、以前ならば酒気帯びや飲酒運転での過ちが予想されたが、居眠り運転が課題となった。罰金額70ユーロは一泊の費用とあまり変わらないので、それだけなら問題は無かったが、減点が痛い。20㎞超過以内ならば35ユーロのみで済んだ。そもそもアウトバーンで100㎞制限というのが異常で、大抵は80㎞制限での撮影が多い。モーバイルのカメラで日曜日の午前1時42分だ。合流してくる車の影も無い下り坂だ。卑怯なやり方で腹立たしい。

それでも事故を起こして車を壊し、罰金も取られ、大怪我するよりは安くついた。自身ミュンヘンからの帰りは危ないと思うことが少なくなかった。今後はこの違反金額を予算に入れて宿泊を考える。怪我の功名としなければ、何時かは大事故を起こしていた可能性が少なくなかった。居眠り運転の怖いのは、飲酒運転ならば興奮していて過剰反応するが、居眠りはブレーキ痕無しの衝突で死亡事故の起こる可能性が少なくない。やはりどこかで反省しておくべきだった。

通常ならばプッチーニ作「三部作」の短めの上演で軽く見た。なによりもロージェの価値が分らなかったのでそこまで集中する必要があるのも知らなかった。それでも19時に始まることも大きな要素だった。幾ら短くても終演が遅くなると、一番眠たい時間に走行しなければいけないからだ。

そこで、写真をとられたことから二回目の「ジークフリート」には宿を手配したので、ある意味惨事を逃れられた可能性が強い。潜在的に危険性は十分に感じていたからで、とても良い切っ掛けになった。逆に今回のことがなければ、宿を取らずに往復した可能性もある。今考えると更に厳しい復路となっていたと思う。やはり外から何らかの力が働かないと自身ではなかなか改められない。事故を起こさなかっただけ幸いだ。ミュンヘン詣は少なくともまだ三年は続くのだ ― つまり、その時には晴れて満期ご奉公御免となっている筈だ。その間に減点が無く、幾つかの定宿に安く泊まればそれでよい。しかし先日泊まった宿のおばさんが、「私、減点三点よ、それでも生きていけるからね」と言っていたが、一体何をしたんだ。

アムステルダムのコンセルトヘボー管弦楽団のシェフの首が飛んだ。MeTooの被害者ともいえるが、まだ二年も務めていないのに自身の管弦楽団で複数の女性団員にチョッカイを出していたのが決め手になったようだ。イタリア人だから女性に声を掛けるのは当然かもしれないが、それをパワーハラスメントと見做された時点で終りである。複数でなく、一人ならばなんとかなったかもしれないが、同じ楽団で複数となると牽制なども働いてこれは駄目だろう。

指揮者とオペラ歌手などは日常茶飯事の付き合いだと思うが、それもその立場に拠るかもしれない。この直ぐ騒がれるご時世に凝りもせずに今も遣っていたのだろうか、それとも二年半前のことだろうか?それによってもこちらの見方は変わるかもしれないが、そもそもこの指揮者をあまり知らない。しかし様々な要素からこの人の指揮する演奏会等には興味を持たないでいた。

そして今回のことから、ベルリンでもバーデンバーデンでもコンセルトヘボー管弦楽団以外の客演もキャンセルされる筈だ。私の注目点はバーデンバーデンでの「オテロ」公演である。一体誰がそこに入るか?そもそもその公演はリカルド・ムーティ指揮でプロジェクト開始されたようだが、早々マエストロは断りを入れた。理由は「十分な準備が出来ない」というものだった。だからその公演に挟まれるように二度だけ「死者のためのレクイエム」を指揮する。シカゴ饗で振ってから、全く異なるフィルハーモニカーでバーデンバーデンだけで振る。ベルリンでは振らない。つまりその時期にバーデンバーデンに滞在する。稽古は10日ほど前からだ。それでは足りないと言ったのだろう。

興味深いのは、キリル・ペトレンコも同時期にバーデンバーデンに滞在する。ほとんど同じ期間滞在する。万が一、ペトレンコがそこに入る可能性は日程的にはあり得る。重なるのはベルリンでのその後のコンツェルタントとイタリアでの第九の練習だ。これをキャセルしなくてもベルリンでの日程を変える可能性は無いだろうか。まあ、ペトレンコのためには殆ど価値は無いかもしれない。この二人以外で一体誰が三週間ほど時間を開けれるだろうか?誰だったら行くだろう?

日程とか度外視して好き勝手にその指揮を知っている指揮者名を思いつくまま挙げてみる。

バレンボイムは飛んで来れるか?ネゼセガンならば可成り期待される。シャイ―も忙しいだろう。穴で、ヤロウスキーにも任せられないだろう。ガッティの代わりに、上の二人以外で、それ以上に期待させるのはこの三人ぐらいだろうか。

そもそも指揮者だけでなく演出のロバート・ウィルソンには感心したことが無いので全く興味を持たなかったのだが、興味津々になってきた。前日に予感した通りになった。兎に角、ガッティはこれで少しは有名になったかもしれないが、当分は干される。



参照:
写真を撮り撮られする 2018-07-15 | 文化一般
語る価値のあるもの 2018-08-02 | 女


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# by pfaelzerwein | 2018-08-03 01:29 | 雑感 | Trackback

語る価値のあるもの

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ドミンゴ指揮の「ヴァルキューレ」については語る価値が無い。それでも休憩時間のアニャ・カムペの話しは面白かった。面白いのは彼女が完全にゲラ症状を示していたからではない ― 暑さのためか、緊張と緩和で完全に交感神経が逝かれてしまっていたのかは分らないが、その谷間でそのようになる傾向のある人のようだ。役者なんてそうした空気抜きが付いていないとやれない仕事なのだろう。しかし笑い上戸の酔っぱらいでないので、話の内容は情報的だった。一つは、ドミンゴによって相手役のジークリンデとしてメト登場の機会を与えられたことで、キャリアのブレークスルーとなったこと、そしてその恩返しで今回もお手伝いをしたことが語られた。その前の他の歌手の話しにもあったが、リハーサルでもボロボロになっていたようで、何とか本番では破綻を生じないという援護体制だったのだろう。

だから、一緒に歌う歌手仲間との舞台上でのあんうんの呼吸の話しも中心となっていた。それでも有名なプロ野球選手の言葉ではないが「ベンチがアホやから野球できへん」ならず「指揮者があれでは舞台が崩壊する」のを避けるための協調作業にも限界がある。それでも管弦楽ですら如何に指揮者無しでは合わせられないかが良く分かる放送だった。更にあの特殊な蓋付きのピットと舞台の関係を考えるまでも無く、先週ミュンヘンで目撃した指揮者の役割は途轍もなく大きい。だからその指揮棒に合わせるしか大事故を避ける方法は無い。それはただ単に職人的な現場の技術の問題だと無視などできないのが音楽劇場の現実である。

もう一つ、ミュンヘンのオペルンフェストシュピーレでの反響の話題を振られていたが、まさしくそのことが語られた。その賞賛に対して、実際には至る所に傷があったのだが、それは平素とは異なり、練習を重ねるのが難しいというこのフェストシュピーレの特徴だと明言していた。これも興味深い。ネットでの「ヴァルキューレ」への反響を見ても一月の出来とは明らかに違ったことは分かっていたが、それ程傷があったとは思わなかった。

それにも関係するもう一人のヴォータンのルンデゥグレンがコッホのそれとの差異を語っていた。つまり二人の歌手としてのキャラクターの相違であり、声質がヘルデンか、リリックか、という事になる。確かに彼の言葉を待つまでも無くヴォータンはこの人の方が良かったのだろう、一方でコッホのさすらい人はハマり役だと今回再確認した。

オペルンフェストシュピーレが火曜日で終了した。最後の様子が報じられているが、その興行成績と共に素晴らしい。「パルシファル」で華やかに開催を飾り最後を締めた。その様子が公式ヴィデオで流れている。ピットから楽員一人一人が花を投げ込む様子だ。まるで夏休みを前にするセメスター終了の趣で、練習時間の制約のある過密スケデュールの中でよくやったなという感じがする。以前からペトレンコの棒の下では楽員が何とか意志に適うような演奏をしたいという気持ちになると語っていたが、終りが見えてくるようになって、それとは変わって得られるものを出来るだけ得たいというような貪欲な気持ちが各々の楽員に見えるようになってきた。それは技術的なものだけではなく、ムジツィーレンの喜びのような音楽的能力のある人がプロの音楽家を目指す根源的な欲求に近いものだろう。それを引き継ぐとすれば、次期音楽監督がとても通常の能力の持ち主では勤まらない所以だ。

この夏初めて蒸し暑い夜中を越した。バルコンで裸で寝転んでいる方が気持ちよさそうだったが、流石にそれでは風邪をひくので布団で寝たが布団を掛けると少し汗ばんだ。それでも暑い夏と比べると過ごしやすく、ここ数日だけだろう。来週になるとまたカラッとして放射冷却で夜が冷える。湿度が高いと言ってもシャワーの上の温度計で28度、40%程度だから知れている。それでも早く雷雨がやってきて欲しい。

コンセルトヘボーからのお知らせに2011年にブーレーズが振ったマーラーの七番があった。残念ながらMP4でAACの128kBtなので音響は期待できない。監督のガッティーのMeToo問題が出たところであり、さて収まるのだろうか?ガッティーに何かあると来年のバーデンバーデンの「オテロ」指揮が変わる。変わるとなると俄然興味が出て来る。



参照:
就寝不可能な昂り 2018-07-26 | 女



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# by pfaelzerwein | 2018-08-01 23:06 | | Trackback

干ばつの毎日の驚愕

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「ドンファン」のバーデンバーデンでの演奏を聴いた。サイモン・ラトル時代のフィルハーモニカーの演奏の特徴が良く表れていて、聴かせるようにはなっているが、ネゼサガン指揮のフィラデルフィアと比較すると指揮も荒く、演奏もその通りでしかない。フィラデルフィアも楽譜を見ながらだと、ここはそこはと解決しなければいけないところが次々と出て来る。所謂キリル・ペトレンコの眼鏡を通した楽譜の読み方をするとチェックポイントが沢山出て来る。

それでも最後のところで木管がハーモニーを重ねるところの響きは驚愕以外のなにものでもない。管弦楽を称してオルガンの響きとか比喩的に評することは多々あるが ― 先日のローエングリンの響きを称してアマルガムと称するのと違うのか? ―、ここでのように本当にオルガンの響きを聞いたことは無い、今まで世界中の数多くの管弦楽団を聞いてきたがこんなのは初めてだ。一体どのようにして音程を合わしているのだろう。

クリーヴランドからの「トリスタン」放送後、タイマー録音でシカゴからのそれを録音したが、残念ながら時差を一時間読み違えていて3時始まりを2時として二時間後に終えたので、バーデンバーデンで聞いた「展覧会の絵」を録り損ねた。それでもドヴォルジャークなどがあって演奏程度はよく分かった。正しく評価するとベルリンのフィルハーモニー以下でも以上の交響楽団ではない。つまり今や頂点とは大分離れている。来年日本でヴェルディのレクイエムを演奏するようだが、バーデンバーデンでのフィルハーモニカーを指揮するよりもいい演奏するとは全く限らない。寧ろいつもの最高品質のエンターティメントの域を出ないことは分かっている。なにかこの二つの交響団が結構似て来ていて、今の状況から抜けるには指揮者の指導しかない。ムーティーには求めようが無いもので、ペトレンコにしかない。

ドイツは干ばつと言われている。その被害が農作物に出ていて、朝のニュースも農林大臣のクロックナー女史が先ずはEUを待たずに連邦共和国内での農業補償を八月末までに出すと声明した。三分の二減ほどの不作が予想されていて、未だ嘗てなさそうである。少なくとも室内で過ごしている限りはとても気持ち良い夏で、夜中の冷え込みが気持ち良い、しかしここ二週間ほどは窓を開けないと眠れない。そして冷えて来るのか昼間に補給した二リットル以上の排水が必要になる。それでも布団の中で汗を掻くよりは気持ち良く眠れる。

干ばつの被害は農業だけでなく、原子力発電所にも出ていて、ご近所のフィリップスブルクの最後の一機もラインの水温が上昇して冷却水の温度が上がり、一割方の操業制限がなされるとあった。どのように調整するのか知らないが、制御棒を一部に下ろすという事なのだろうか。そんなに器用なことが出来たのだろうか。その他の稼働中の原子力発電所にも操業規制が掛かったという。



参照:
行きたくない火星が光る 2018-07-29 | 生活


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# by pfaelzerwein | 2018-07-31 23:21 | | Trackback

索引 2018年7月

エルドアンが打つ楔 2018-07-31 | 歴史・時事
居眠り防止をどうするか 2018-07-30 | 生活
行きたくない火星が光る 2018-07-29 | 生活
就寝不可能な昂り 2018-07-26 | 女
流石の配券状況 2018-07-23 | 雑感  
激しい朝焼けの週末 2018-07-22 | 生活
其々の祭りの季節 2018-07-21 | 生活
再びあの座席の幸福 2018-07-20 | 生活
画像の質も生と比べると 2018-07-19 | 雑感
五十歳での主夫見習い 2018-07-18 | 雑感
鋭い視線を浴びせる 2018-07-16 | 女
写真を撮り撮られする 2018-07-15 | 文化一般
予想される一時間遅れ 2018-07-14 | 生活
涼しくて快適な七月 2018-07-13 | アウトドーア・環境
予想を裏切って呉れる 2018-07-12 | 文化一般
情報量の大小を吟味 2018-07-11 | 文化一般
興奮醒めぬ中継映像 2018-07-10 | 文化一般
見所をストリーミング 2018-07-09 | 音
「死ななきゃ治らない」 2018-07-08 | 歴史・時事 TB0,COM4
今夜は半徹夜仕事か 2018-07-07 | 生活
血となるワインの不思議 2018-07-06 | 文化一般
毎日、一期一会 2018-07-05 | 生活
考慮する戦略的推進策 2018-07-04 | ワールドカップ06・10・14
アマルガムの響きの中 2018-07-03 | 音
聖杯で強化一発、寸止め 2018-07-02 | マスメディア批評
LadyBird、天道虫の歌 2018-07-01 | 女

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# by pfaelzerwein | 2018-07-31 10:34 | INDEX | Trackback

エルドアンが打つ楔

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ホヴァーリングのヘリが喧しい。この辺りでのヘリは緊急搬送しかないのだが、普通はホヴァーリングでは無いので皆が窓からのぞいた。日曜の晩であり意味が皆目解らなかった。結局二日続けて合計二時間ほど同じような場所で留まっていた。そちらの方を見ると我々の城がナイトアップされて浮かぶが、今時写真撮影のためにヘリを飛ばさない。高度からすると通常のドローでは無理という事なのだろうか。今時GPS測定もあり本当に理由が分らなかった。

ドイツナショナルチームを引退したオヅュールのことが話題になった。新聞にも記事が出ていたので、少しだけ触れておこう。なぜ少しなのかはフランクフルトアルゲマイネと考えが同じだからだ。オヅュールは自身の分からないままに徹底的に政治利用されて、その姿勢を良しとするトルコ系ドイツ人は皆エルドアンの手下だろう。エルドアンらの戦略は、現在世界中に蔓延しているポピュリズムの典型的な手法で、如何にも皆が「本音を言えばその通りだ」と思わせるような現象を突く。つまり連邦共和国内で「トルコ系ドイツ人が二流市民であり続ける」事象に疑問を投げかけるという手法である。しかし彼のようなポピュリズム手法でなく、多岐多様に亘って様々な試みがなされている訳で、そうした実情を知らない単純なトルコ系人や外国人に訴えかける手法である。

そもそも今回のこのナショナルティームの代表的な選手がこうした発言をすることで、やはり様々な試みはされても如何に簡単に解決策が無いかを示しているに過ぎない。新聞が心配するのはこうしたやり場の無い現状を嘆くばかりか、「やはり外国人労働者の移民は駄目だ」と思わせかねないような議論に発展することである。実際にAfDは野党第一党の支持がある。議論をすれば民主的で、それがいつも必ずしも最も優れた解決法では無いという事ではないか。エルドガンの戦略は、このことを議論することで連邦国民の中に深い断裂を作り、そこに楔を打ち込むことにあるとされる。



参照:
世相を反映する歴史的事実 2016-08-01 | 歴史・時事
反面教師にみる立ち位置 2008-02-13 | 歴史・時事



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# by pfaelzerwein | 2018-07-30 23:43 | 歴史・時事 | Trackback

居眠り防止をどうするか

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まだ涼しいうちに峠を攻めた。それでの気温摂氏20度だった。何時かなと思って時計を見ると五時台で一時間違った。時計が狂っていた。気になったが、お勉強する音楽が暑苦しくないかなどと走りながら考えていたが、便意を催すようになると駐車場に着いた。やはり狂っていて、GPSコンタクトしても分単位以上のところは合わない。手動でも設定できないようだ。車のディスプレーはここ彼処薄くなって使いものにはならなかったが、いよいよナヴィのシステムも駄目になると車の時計自体が駄目になる。

塗装のさびなど徐々に老朽化が目立って来て、電気系統が不備だったのだが、ここまで来ると新車選定へと舵を切らなければいけない。車検も今回が間違いなく最後となる。もし気に入った車が見つかって、発注しても半年ぐらいは納車に掛かるだろうか。半年ぐらいは我慢できるだろうか?先ず選定するのに時間が掛かりそうだ。試乗もしなければいけないとなると時間が無いので結構厳しい。しかし三台目までほど車を買ったりするのがドキドキしなくなった。本当に必要な移動手段でしかなく、殆ど憧れが無くなった。精々、興味あるのは車周辺のWiFiオフィースシステム化とノイズキャンセリングオーディオシステム、半自動運転ブレーキシステムぐらいだろうか。あとは居眠り防止をどうするかぐらいだ。足回りでは空気ばね、4WD、ハイブリッド、購入最後のV型オットーとなるだろうか。これだけでも今乗っている車よりは五割方高価になりそうだ。しかしそれで充分である。先日劇場の前でベントレーがうろうろしていたが、確かにジャグゥワー12気筒などに比べて遥かに乗り心地はよいのかもしれないが、やはり自分で運転すれば疲れる。出来るだけ疲れない車がいい。夜間透視システムもいいかもしれない。

入手したクロームキャストオーディオをインストールした。やはり完璧な再生が可能になったと思ったら、同じような音飛び症状が出てきた。暑いのに仕方がない、原因調査に乗り出した。そしてルーターを交換してから顕著になった様な様子があったので、信じたくはないがAndroidアプリケーションのWiFiAnalayzerというのでWiFiの場所による信号強度を測定した。そして危惧した通り以前のルーターの方が強度が強かった。認めたくなかった問題で、これがあるから高速化になかなか踏み切れなかったのだ。勿論これは冬の籠り部屋になるととりわけ重要な問題となる。

そこで先ずクロームキャストのある場所で信号強度を上げる工夫をした。最初にルーターの付け替えである。これは奨励されたと取り付け方をしていなかったので、模範的に付け直す。場所が無いので古いルーターも取り付け直す。すると、目論見通りに新しいルーターの信号の方が強くなったもしくは変わらなくなった。これで試すとなるほど音飛びが無くなった。可成り悪い条件で使っていたらしく、安定すると音質も向上した。

なるほどこれで無線化に懐疑するPCオーディオ使用者が多いのが分かった。しかし無線マウスと同じで無線化になれるともはや有線には返れない。特にVideoで音飛びが発生するのは送信量が圧倒的に多いからなのだろう。しかし動画となると余計に音飛びが許せるようになる。

ベルリンからデジタルコンサートホールの新プログラムが届いていた。中身を見るとキリル・ペトレンコ指揮の三回の中継以外には、ヤルヴィ指揮のブルックナーとロート指揮のコンサートぐらいしか興味が持てなかった。つまり二回目のペトレンコ指揮コンサートは自身がライヴで映る位だからライヴでは観れない。つまり精々二回しか必要ではない。一回は今回ついていた無料券で一週間、もう一回は一週間券を買えば事足りるかもしれない。つまり今シーズンも年間券を購入する必要はなさそうだ。

英国からプロムスの中継があったので少し聞いてみた。ギリシャ人のカラヤン二世の指揮でアテルナ合奏団の演奏でベートーヴェンの運命交響楽の三楽章から四楽章のところを聞いた。あまりにもその奇妙さに構えていると、低弦とファゴットでアクセントをつけていても、それ以上に下手さ稚拙さが苦になった。今年日本デビューをするようだがこのような日本の聴衆が煩いようなプログラムだと、謀った様なプログラムでは成功は無いかもしれない。ソニーが後ろにいるのでサクラなどを総動員するのだろうが、ぽしゃるかもしれない。販売戦略として味噌くそ市場で成層圏まで打ち上げて後は軌道修正しながらと考えているのだろうが、そこまで届かずに落ちてくる可能性が強いかもしれない。プロムス市場のためにしっかり練習は積んできていても、それに飛びついてくる少数を拾うには関心層を擁する市場そのものが小さ過ぎる。予想以上に旬は短いと思った。



参照:
行きたくない火星が光る 2018-07-29 | 生活
GeliebtGehasst 2018-01-24 | マスメディア批評


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# by pfaelzerwein | 2018-07-29 23:59 | 生活 | Trackback

行きたくない火星が光る

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クロームキャストオーディオを注文した。ここ数週間、キャスティングの音飛びが頻繁になった。暑い時にイライラするのでしっかり調査はしていないが、先ず同じものを試すことにした。手軽に高品質の音を飛ばせて最高96kHzまでのPCMを光ファイバ―で出せるので、エアーチェック用にはこれで充分だ。それどころかこれを使い出して必要な音資料をネットから落とすようになると、BGMとしては当然のことながらこれが無いとお勉強も儘ならないようになってしまった。

音飛びも少々のことならば楽譜を見ていれば補えるのでそれほど気にならなかったのだが継続的に飛ぶとなると精神衛生上よくなくなった。使い始めは飛ばないので原因は過熱されてくるとどうも駄目な感じで、PCに問題が無ければ、そこの問題しかない。嫌なのは録音していてもヘッドフォンでモニターでもしない限り何処で音飛びしているか確認の方法が無いことだ。兎に角、暑苦しい時には鬱陶しくて嫌だ。

原因調査以前に発注したのは、そもそも二つ目が欲しかったのと、三年経過して未だ新製品が出ていない限り購入しておこうと思ったからである。同じ機能を持った製品もあるようだが、先ずは手軽で安く使えるのが良い。製造中止になる前に確保しておきたかった。違うシステムの構築は新しいノートブックを購入した時に考えればよい。そもそもネットストリーミングの限界があるので、そこに金を掛ける必要などは無い。但し期待していたような値崩れはしていなくて比較的高値安定していて、前回購入した時よりも高くなっている。送料込みで40ユーロである。仕方がないが、使い勝手は分かっているので二つ目は助かる。夜中以外は常時電源を入れているので経年変化も早いから三年で寿命が来ても仕方がない。音飛びが簡単に解消されればそれだけで満足だ。壊れているであろう一つ目も音が出るのでアナログ出力させてDACを通さずにAUX入力に繋げれば映画などの音声には全く差支えない。問題は電源が自動的にオンオフしないことである。

ザルツブルクからのライヴ中継を少し聞いた。「魔笛」をヴィーナーフィルハーモニカーが弾いていたが、相変わらず誤魔化し方が見事で、ヴィーン訛りの音楽と呼ばれるあのノリはオペラ劇場の様々な歌に合わせやすく誤魔化しが効きやすいためのノリではないかと思うようになった。どう考えてもベートーヴェンの音楽などとそれは合わない気がしてきている。その点、評判の良いバイロイトの「ローエングリン」の音楽のようにちゃんちきオペラのようなノリにならないので、なんとなく高品質に聞こえる。

眠くなって、寝巻に着替えて、バルコンの座椅子で涼もうとしたら、話題の月食が見えた。聞いていなかった火星の輝きが凄かったので写真を撮った。まあ、あそこに住もうと思うのは分からないでもないが、どう見ても我々の文化の範疇で感じるような新世界ではないなと思う。そこまでリスクを冒して飛んで行きたいとはちっとも思わない。

新聞文化欄の一面に大きくバレンボイムウィークについての記事があった。ブエノスアイレスで指揮することは知っていたが、アニャ・カムペが前半でイゾルテで歌っていて、帰って来てから日曜日のミュンヘンの「ヴァルキューレ」、そして火曜日の出合いだった。仕事を絞っている歌手とは知っていても、重なる時は重なるものだ。興味深いのは、バレンボイムがそこでフルトヴェングラー指揮のマタイ受難曲を聞いて、その時に鍵盤を弾いていたのがミヒャエル・ギーレンだとある。ギーレンとフルトヴェングラーの繋がりを初めて知った。

更に興味深いのは、シュターツカペレとコンサートも開いて、ブラームスの交響曲を演奏したそうだ。そのプローベで、dolceとexpressivoの相違を説明した。前者はとても簡単なことで、和声の変化を分らすための色彩の変化であり、バレンボイムにとっては調性音楽の主音からの距離感が重要になるという事でもあると、FAZのヤン・ブラッハマンは書く。

さて今週末位からルツェルンの準備を始めよう。フィラデルフィア管弦楽団の演奏の衝撃もあったので先ずは「ドンファン」と白昼夢になりそうなフランツ・シュミット交響曲4番ぐらいだろうか。前者は音資料としてはラトル指揮のバーデンバーデンライヴと二つが主で、その他は直前になって比較試聴してみよう。シュミットの曲はピアノ譜しかないが4月のベルリンでの演奏が二種あってヴィデオまであるので管弦楽は書き加えて行くようにしていくと面白いかもしれない。

日曜日にはクリーヴランドからの「トリスタン」一幕の春に演奏された録音放送もあるので、これは聞きたい。シカゴからは、「展覧会の絵」以外にヒンデミットとシューマンで昨年のバーデンバーデンに似たようなプログラムである。録音するかどうか。



参照:
一皮剥けるキャストオーディオ 2016-10-21 | テクニック
flacをクロームキャスト 2016-10-18 | テクニック


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# by pfaelzerwein | 2018-07-28 23:34 | 生活 | Trackback

「ドンファン」の新録音資料

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パリからのフィラデルフィア管弦楽団の中継録音を聞いた。BGMで流しただけだが、予想以上に価値があった。その演奏会は欧州イスラエルツアーの三日目で、ルクセムブルクで聞いたプログラムとは一曲が「ドンファン」に差し替えられている。そして放送ではグラモーが弾いたブラームスが除外されている。これはグラモー事務所の方針なのだろう。だからギーレン指揮以外の演奏はヴィデオなどもネットに存在しないようだ。仕方がないが、それでCD等を買うということも無い。その演奏は記憶にだけ留めておこう。

シューマンの演奏も私が聞いたものよりも会場のアコースティックが明晰で、恐らく本拠地のそれよりも、それどころかエルブフィルハーモニー中継とも異なった。この録音を聴けば、この管弦楽団がシカゴのそれよりも機能的な事が分るのではなかろうか、クリーヴランドよりも管との混合があり、そのパレットは遥かに広い。私自身も今までの放送からどうしてもパートの分離性という事ではこのアンセムブルの特徴から限界があるかなとも思っていた。しかしこのアンサムブルの基本精度から何でも出来ることが分る。それにしてもなんという管と弦の合わせ方だろうか。今までこれに近い印象はショルティー指揮のシカゴ交響楽団しかなかった。

最も関心があったのは、三月にバーデンバーデンでベルリンのフィルハーモニカーの演奏で聞いて、そして来月にはルツェルンで聞くリヒャルト・シュトラウス作曲「ドンファン」の演奏だった。そして聞いてしまってしまったと思った。たとえキリル・ペトレンコが指導しても短期間にこの精度のアンサムブルがフィルハーモニカーには期待出来ない。そしてそこから配合していくときの音色の微妙さとしなやかさは嘗て無かったような管弦楽となっているようだ。

たとえネゼセガンがシュトラウス的な指揮が出来ていないとしても、このような演奏をされると、現在フォンカラヤン指揮のそれを貶すのはいとも容易いが、文句の付けようがない。嘗てムラヴィンスキー指揮の演奏に文句が付けられなかったのと変わらないが、全くそのキャラクターが異なる。ユージン・オーマンディ指揮のそれを無視出来てもやはりこれは無視出来ない。

どこかに本拠地の録音があると思って探した。同じツアー準備の演奏会で、その時の前半は「不安の時代」だった。その録音を流してみてはっきりした。ホールのアコースティックが大分違うので、特徴の弦管のミクスチュア―以上に低弦の影響で倍音成分が聞き取り難い。先日のローエングリン初日のためのバイロイト初代監督の話しを思い出すが、蓋付きのピットでの混ざり合わせと楽譜に基づいたアンサムブルのやり方はまた別な問題だろう。今回の「ローエングリン」は、他の演目と違って、その指揮はとても評価されているが、エルザを歌ったアニャ・ハルテロスの話しが面白かった。つまりいつも違ったようにしか演奏しないので合さないといけないというのだ。勿論この初代監督が同じテムポで振る基礎技術が無いとは思えないが音楽を作る時にどうしてもアゴーギクに頼らざるを得ないのだろう。

勿論ここで触れている管弦楽団の世界は全く違う世界の話題で比較のしようがないのだが、会場の音響で弾きにくい弾きやすいもあり、それがどのように聞こえるかはまた違う話しだ。少なくともこのパリのホールのフランスの放送局の収録は明晰そのもので、これを聴けば間違いない。それにしても演奏の端々が修正されているようで、まさかペトレンコのような細部を詰めてはいないと思うが、楽譜を広げて聴き直してみなければいけないと思った。回数重ねればよくなることは確かにしても、もし演奏旅行中に修正するような指揮をしているようならば本人も成長する可能性が強くて、仕事さえ絞るようになれば、その活動から耳が離させなくなる。今回の放送はオンデマンドでも聞けるようだ。



参照:
外国人を叱る統合政策 2018-05-22 | 文化一般
MP4映像よりWAV録音 2018-04-03 | 文化一般


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# by pfaelzerwein | 2018-07-27 23:38 | | Trackback

入念な指揮指導の大成果

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ペトレンコ監督下のミュンヘンでの最後の楽劇「ジークフリート」について語ろう。結果からすると二月の課題は悉く解決されていた。少なくとも管弦楽においては遣り尽した。それどころか大きな問題となっていた最終シーンでのフォイルの雑音が、素材がエステル系かに代えられていて、殆ど邪魔にならなくなった。以前は材質の音だけでなく反射の影響も大きかった。あれだけの大きさの軽い素材となると可成りの予算を使ったに違いない。その価値は充分にあった。だからフィナーレにも違和感が無くなり、普通に楽しめるようになったと思う。比重が増して波は出来ていなかったがそんなことはどちらでもよい。ケントナガノはそれ以上に大きな音を出していたのだろう。

先ずは聴きながらメモを取っていた三幕のメモを解析しながら最初から見て行くと、一場のエルダとさすらい人のディアローグではヴィオラがこれまたDolceで演奏するところがある。Bで例のザックスが父性を歌うように「勇敢な若者」と来て、「恐れを知らないからだ」とさすらい人のモノローグの中である。どうも課題だったようで、上手くヴィオラが絡んでいた。確かここでOKサインが出ていたように思うが、金管にもドルチェが付いているので高みから識別し難い。兎に角ここは2015年のバイロイトではその前の小節のディミヌエンドからpになっているのにも拘らずヴァイオリンが出て仕舞っている。2015年は2014年と違って演奏が粗かったので特に三幕は評判が悪かったが、実際に録音を確かめるとその調子の演奏程度であった。

キリル・ペトレンコの演奏実践の特徴は、こうした殆ど学術的と呼べるような細やかな譜読みとその演奏実践能力から、初めて創作の意図を明らかにするという事でしかない。その能力が特に表れていたのが二場である。ジークフリートとさすらい人の変わりばんこのディアローグであるが、一幕の超絶ほどには目立たないのだが、指揮を見ていたらそのテムピの切り替えの見事さにあっけにとられた。楽匠は細かく設定しているのだが、一体どこの誰がここまで完璧に指揮をしただろうか?歴史的にも今まで居なかったと思う。バイロイトの時と比較するまでも無く、この変化のさせ方が見事になっているのは手兵の管弦楽だからに違いない。ここだけでも成果なのだが、Dのブルックナーの交響曲のように響くseligeOedeとなる三場でも木管のアンサムブルにOKサインが出された。中声部のヴィオラと同じように、聞こえるか聞こえないような音量を保ちながら、音楽の核を支える。木管の場合は特にそのまま音色に係ることだ。そして管弦楽全体がスタッカートを刻む。

二幕における演奏は、ホルン主席のヨハネス・デングラーが不調だった様でもあり二月における演奏水準には至らなかったかもしれない ― 三幕でそちらをもっと音を出してみろと鼓舞していたのが分かった、演奏者のリハビリまでを遣ってしまうのか、この音楽監督は。そもそも「ヴァルキューレ」も「神々の黄昏」ツィクルスAで可成りの程度で完成していたのだが、この「ジークフリート」だけは音楽監督の意思からするとまだまだの気持ちが強かった中でも、二幕は既に域に達していた。

それでも手元のメモに従って幾つかの点だけは触れておかねばならぬ。一場ではさすらい人とアルベリヒとのデイアローグとなるのだが、勿論一幕におけるミ-メとの問答ほどではないが、ここでも二人のセリフの尻を噛ませる部分などで、その変化を見事に付けていた。二場になるとファーフナーの死へと向かい、ここでもピチカートから三連符となる巨人の動機の対旋律が低弦で奏される一方ヴィオラに受け継がれたりするのだが、大抵はティムパニ―に消されて誰も気が付かない。やはりここでもヴィオラ陣がモノを言う。三場のミーメとアルベリヒの争いはシークフリートとミーメの対話に繋がるが、その中でもミーメの歌う「Wilkommen」の後のヴィオラのパッセージとクラリネットは見事で、前回も印象に残ったアンドレアス・シャーブラスは更に吹き込んでいるようにも感じた。その他、オーボエのジョルジュ・グヴァノゼダッチ、ファゴットのホルガー・シンコェーテそしてバスクラリネットのマルティナ・ベックシュテッケマンなど座付き楽団以上の腕の冴えがあった。皆に共通しているのはブラームスの交響曲などの時とは違って最後の締めまでをしっかりと吹けていて、有り得るのはペトレンコの棒がより丁寧になっているとしか考えられなかった。それとは別に、巨人の動機に関与するピチッカートをアクセント強く弾かせていて吃驚した。その根拠は巨人の動機なのだろうが、2014年の名演は比較的そうなのだが、可成り乱れた2015年の方は全くしっかり弾かれていない。最後の年はよほどの練習妨害活動があったとしか思えない ― ペトレンコは、本当は下りるところだが、皆の為に我慢すると語っていた。

秀逸な木管器奏者群や向上心の強いヴィオラ陣について触れたが、その出来が結集して皆が終演を待たずに大喝采する出来となったのが一幕であった。この幕の音楽の特殊性については既に書いたが、明らかにその想定の上を行く演奏だった。一場における殆ど室内楽的なアンサムブルに続いて、二場でさすらい人のコッホが歌い出すと更に空気が変わった。やはりそのベルカントの声が高く尚且つ柔らかく響くことで、ミーメの歌との対照が際立った。二月には非常に良かったミーメ役のヴォルフガンク・アプリンガーシュネーハッケの歌は不調だったから余計だ。その柔らかさはまさしく指揮の技術によっても形成されていた。二場における鍛冶場でのそのハムマーを下ろす重力加減がそのまま指揮の「叩き」と「抜き」に顕著で、「指揮とはこうするものだ」と謂わんばかりで、技術的にも超一流の指揮であるのはそれだけでも明らかなのだ。しかしその技術の卓越だけで終わらずに、鋭い叩きと素早い自由自在の変化、まさに私がルツェルンで楽しみにしている「舞踏の権化」の彼の指揮であり、あれを実体験すると超一流の技術を超えた天才の仕業でしかないと納得した筈だ。それが異様な一幕後の大喝采として表れた。

私などは前方からそれを見ていたものだから息が止まりそうになった。百年に一度の卓越した指揮者であるとそれを目撃したならば多くの人が納得すると思う。拍の変化で指揮台で後ろ飛びまでしてしまうのは、効率云々よりもそれほどの大きな断層を「一振り」の中に組み込むにはあれしかないのだろう。それに適うような演奏を座付き管弦楽団が遣らかしたことも驚愕であり、観客同様に二幕では少し息を抜いたのは仕方がない。まさしくそれが楽匠の書いた楽譜である。しかし、印象としては、より拍を深く取っているのか、バイロイトでの演奏などよりも余裕があって、表現の幅が明らかに広がっていた。恐らくテムピとしては変わらないのだろうが、それだけ管弦楽が弾き込んで来ていたという事ではなかろうか。この辺りの課題の作り方や合意形成や目標の置き方が凄いと思う。勿論それは私が期待していたことそのものにほかならなかったのではあるが。それでも終幕最後の小節が終わって拍手が始まると同時に若いコンツェルトマイスターに業務連絡をしていて、その内容は冷めないうちの「今後の留意点」だったかもしれない。なんと恐ろしい人だ。

もう少し細かいところは楽譜を見返してみなければ確認して詳細として語れない。そして個人的にはルツェルンでの二つのプログラムの方へと意識が向いている。それでも今回とても勉強になったのはヴァークナーの楽劇における指揮というもので、大分プチーニにおけるそれとは指示の出し方が異なっていて驚いた。勿論正確な拍子を打つのだが、プッチーニに置けるように歌手と管弦楽の二段構えは流石に阿修羅ではないので無理なようで、必要なキューを小まめに歌手におくる以外は管弦楽を細かく指揮していた。その必要がある編成であり、音楽であると同時に、歌手の声を押さえるところは極限られていて ― ミーメにだけであった ―、科白の中でその拍節が守られれば、管弦楽に合ってくるという事でしかなさそうだ。そもそも歌手がどこの音に合わせて歌っているのかさえも不明なところも多々あった ― ピアノ譜と合わせてみないと分からないか。大管弦楽のオペラの難しさであろうが、その分歌手に任されることも多そうだ。

タイトルロールのフィンケの声は、先日の韓国人ほどではないが、こちらが管弦楽のソロを聞き取ろうとしても声が大き過ぎて被ってしまって喧しかった。逆にそれ程舞台で何が聞こえるかというのは楽劇の特殊な技術的な話題であろう。同じロージェの隣に座ったのはオーストラリアからの人で「ヴァルキューレ」では王のロージュの一列目に居たらしい。彼は演出云々で不満のようで、もう一組のミュンヘン近郊の夫婦も音の時差と視界の制限を苦情していた。それほどあのロージュは特殊で、もう少し安くしてもらうと嬉しいが、私はその金額以上に素晴らしい体験をした。全く見ていなくてもしっかり聞いているのでブリュンヒルデのシュテムメも二月よりも良いと思った。コッホのさすらい人については既に書いたが、間違いなくヴォータンよりも当たり役だ。ペトレンコの指示は恐らくピアノ稽古からのその協調作業がそのまま表れる出し方で、歌手によって構い方が異なるのは当然なのかもしれない。



参照:
鋭い視線を浴びせる 2018-07-16 | 女


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# by pfaelzerwein | 2018-07-27 02:22 | | Trackback

就寝不可能な昂り

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ミュンヘン近郊の氷河湖地域から帰ってきた。九月の宿のこともあるので、敢えて遠回りのメミンゲン経由で帰ってきた。つまりアルゴイ経由という事だ。渋滞を避けて上手く行った心算が最後の最後で、丁度先日スピード違反で撮影された区間で大事故が起こって閉鎖されていた。二十分ほど前のことだったろうか?救急車も聞かなかったがヘリコプターが着陸していた。一キロほどに三十分近く掛かって、遠回りして帰ってきた。バイロイト音楽祭の「ロ-エングリン」の本中継に間に合った。

泊まった宿は民宿のようなとこで、何一つ外に案内が出ていなかった。おばさんが一人でやっていて、掃除も自分でしているので、靴を脱がされた。他所の家に伺うようなものだった。帰りが遅くなって、ベットに入ったのは一時過ぎだった。夜食のところに四人組が遣って来て、顔を見上げるとアニヤ・カムペと目が合って、彼女も驚いたような顔をしていた。反対側のロージェにはいなかったが、何処にいたのだろうか? ー 彼女に面が割れていることは無いが、流石にペトレンコ本人には熱心な人と認識されてきているかも知れない、今回も杉良の流し目ではないが二度も上目遣いされたが、その心理を「アンタも好きね」と読んだ。日曜日に仕事は終わっていることは知っていたので、一寸意外で驚いた。その驚きが彼女にも波及したのだろう。二人の男性の一人は入って来て後姿がヴォルフガンク・コッホだったので確認できた。その奥さんらしきもずっとこちらに顔を向けていた。もう一人の男性は比較的細身で、コッホの作業着とは違いしっかり着ていたので誰か分からなかった。最初は北欧の二人のどちらかとも思ったが比較的優男で、Rがバイエルン方言のようにも聞こえたが、確認できなかった。但しワインのテースティングもコッホよりも慣れているようで、赤ワインのコルクも取り替えさせていた。

しかしコッホだけがしっかり食べていたので、やはり歌手ではないのかもしれない。但しマネージャーでもなくカムペの新しい恋人でもなさそうだった。結局カムペは白ワインに留まるとしてお代わりを飲んでいた。二人とも映像やオフィシャルで知っているの通りの雰囲気で、カムペはドイツ女性としては十分にフェミニンで、コッホもあの通りの朴訥な感じで、仕事に満足した感じでとてもリラックスした感じで楽しそうに食事をしてそれほど声を張り上げずに話していた。二人とも通常のドイツ人に比べると、やはり言葉静かに話すタイプで、決して悪い感じはしない。

その様子を見ながらへレスのお代わりをしていたら遅くなってしまったのだ。一寸飲み過ぎで、車の運転は初めてのところなので、何事も無く戻れてよかった。勿論宿に帰っても興奮状態で充分に眠れなかった。だから帰路は夜中と同じように眠くて辛かった。特に渋滞では停まってブレーキを踏みながら何回も居眠りをしていた。



参照:
再びマイスタージンガー 2018-06-22 | 生活



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# by pfaelzerwein | 2018-07-26 02:38 | | Trackback

ジークフリートへの音色

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最も安く車の燃料を満タンにした。50リットルで68,45ユーロは決して悪くは無い。前回先に入れた時の方が少し高かった。これで一泊しても往復は問題が無い。宿賃は払ったので、朝食代を現金で渡すぐらいか。現金が必要なのは劇場内のメムバー表と喫茶だけだ。ピクニックの内容は考えていない。帰路が要らないから寧ろ果物などを主にしようか。

10時前に出れば14時には宿に着く。宿から劇場まで30㎞37分、15時過ぎに駐車場に入れるとすると厳しく、無駄な時間は無い。やはりピクニックの準備が要る。なにを持って行こうか?それならば時間に余裕が生じる。朝食をゆっくり取りたいので、また宿を探すのに時間が掛かるだろうから、これしかない。気温も高そうで、冷房の効いている車から直ぐに劇場入りしたい。

さて「ジークフリート」三幕についても触れておこう。と言っても拍手もそこそこに急いで帰って来たのだからまともなメモは無い。但し、二幕の最後においてもpをしっかりと演奏しているのでも分かるように、三幕のフィナーレも舞台の雑音に消されて爆発的な愛の歓喜とはならない。なぜ態々言及する必要があるかと言うと、バイロイトの所謂蓋付きの演奏実践の録音を聞くとその強烈な爆発は蓋無しのミュンヘンでは採らないからだ。これを先に知っておく必要があるのは、私のように最終日の「神々の黄昏」に出掛けない者の心掛けかもしれない。如何にも「ごついのはこれからじゃ」と新聞評にもあったようにドラマテュルギー的にもそのように演奏される。通常の劇場で演奏する場合の限界であるかもしれない。もう一度一幕に戻ってはみたいが、この三幕のフィナーレの演奏実践は将来バーデンバーデン劇場ではどうなるだろうかと言う問いかけは残る。

しかし何よりも今回とてもよく分かったのは、「ジークフリート」の二幕におけるナイーヴなまでの母性へのイメージと三幕のデアヴァンダラーとジークフリートの掛け合いに楽匠の父性への印象がそのまま楽譜化されていることだ。三幕になると更にここそこに「マイスタージンガー」のそれを聞き取れるのだが、これほど直截な表現があったとは気が付かなかった。音楽的発展の断層をこの楽劇内に認識するのは常識だが、その技術的な問題ではなく、「ワルキューレ」娘との惜別とここでの表現の差異は、美学的には近代的意思表現の相違となるのだろうか。恐らく久しぶりにコッホの歌で聴いたので、丁度ザックスのその舞台と重ね合ってしまった。そして二月には北欧の歌手が歌っていたので全くこの効果は生じなかった。楽匠の息子の名はジークフリートだったなと思いだした。

コッホのように柔らかくこれを歌う歌手は他に居ないのではなかろうか。正直2014年のヴォータンには違和感の方が強かったのだが、デアヴァンダラーのこの掛け合いまで来ると、しっくりいったのだった。これを聴けるだけでも今回の訪問は歌手に関しては価値があると思う。まあ、管弦楽がどこまで根つめて演奏するかに掛かっている。とても楽しみで、まだまだミュンヘンまでの走行中にタブレットの楽譜を確認しないといけないことが多々ありそうだ。


写真:二幕二場のドルチェなホルン「im Wald hier daheim?」、今回も吹いて貰わないと困るヨハネス・デングラーがアバド時代に過渡期のフィルハーモニカーで吹いていたことは知らなかった。助っ人だったようで試傭期間ではなかったようだが、リヒャルト・シュトラウス家の伝統のこともあり、公務員待遇の劇場のポスト以上に魅力的だったとは思われない。



参照:
流石の配券状況 2018-07-23 | 雑感
ごついのはこれからじゃ 2018-02-06 | 文化一般


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# by pfaelzerwein | 2018-07-24 14:40 | | Trackback

パン屋開いて、床屋閉まる

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パン屋が夏休み明けとなった。床屋が夏休みに入った。先週から気になっていたが、あと二週間我慢することになる。秋のことも考えて時期を考えていたのだが、判断が難しかった。19日に24日のミュンヘン行きが急遽入ったので、金曜日の髪結いがならなかった。九月のことを考えれば八月九日にサマーカットでいいのだが、この先最高に暑い時期の二週間の快適度が不安だ。火曜日にシャツを着ればあと二週間はTシャツで通せるので、運動をしない限り、襟首があまり気にならない。さてどうなるか?

土曜日のワイン地所の上縁をジョギングした。なんとのろのろとした動きだった事か。これでパン屋休み中の二週間に二回は一時間前後のハードな走り、一回の軽い走りが出来たのでまあまあだろうか。運動不足は否めないがその間ミュンヘンにも出かけたので、時間もあまりなかった。早速パン屋の裏の短いコースを走った。久しぶりに窓を開けて就寝したので、夜中に目が醒めて寝坊をしたが、森の中の気温は摂氏17.5度で苦しまずに済んだ。

夜中に目が醒めた時にはキャスティキングの声がタブレットからしていた。触ってみると熱くなっている。タブレットでこのようになるのは初めてだ。どうもキャスティングと光度の高いピクチャーヴューワーを同時に開いていて、布団に包まれていたのがいけなかったようだ。CPUが可成り過熱したと思うが、暴走もしておらず、アプリケーションを閉じて、使ったまま冷えるのも比較的早かったので、ダメージは最低限に留められたと願いたい。

「ジークフリート」二幕の二月三日公演のメモを見るとヨハネス・デングラーのホルンが明記してあった。何処が巧かったとかいうよりも、一幕を背後で吹いていて戻って来ていたからだろう。それでも三場の小鳥の歌に続いてのホルンの独奏は聞かせ所には違いない。しかし一場のところに書いてあるので、森のアルベリヒの背後で所謂「騎行」の動機が1,3で奏されるのでそこかも知れない。この幕でのコントラチューバが有名だが、バイロイトの2015年の録音でもそのホルン演奏はさしてよくない。デングラーのそれは重い音で鳴らすので良かったのだろう。どうしてもこの場面ではトロンボーンによる呪いが強調されるのだが、次に出て来るヴァンダラーとの絡みではとても重要で、特に今回はベルカントのコッホが歌うとなると、このホルンの響きが活きる。

更にメモには、二場でのミーメとジークフリートの対照と、一転チェロが六拍子のEで柔らかい音を奏でていたようで、恐らく森の囁きの音楽とそれに続く四拍子のGの所謂愛の旋律の動機へと今度は分割されたチェロが美しいアンサムブルを繰り広がられたことだろう。ここは恐らく楽匠の書いた最も柔らかな音楽だと思うが、その母性へのイメージのようなものがダイレクトに表現されている。またそこでE管のホルンが「小鳥の動機」を奏するのが憎い。

三場になるとこれまたオーボエ、クラリネット、ホルンに留意しているが、様々な動機が組み合わされるのは、一幕一場と同じなのだがここでは室内楽的な書法となっていて、大交響楽のスケルツォから緩除楽章への繋がりが、アルベリヒとミーメの争いから「指輪」の動機が出て「ラインの乙女」からそして「小鳥の歌」へと繋がる冒頭の場面の展開の速さとその筆使いは「指輪」の中でも最も音楽的に自由闊達だ。一幕一場のあの固さがここではオペラ芸術の中でぐっと解れている。

キリル・ペトレンコの棒も「ヴァルキューレ」での苦心の跡とは違ってとても自由に流れる。日曜日の出来の反応を見ると、やはり管弦楽が苦労しているようだが、諸般の事情から仕方が無かったのかもしれない。既に「音楽的解決」は一月に示されていたのであり、ペトレンコのミュンヘンへの置き土産でしかない。その点「ジークフリート」はその演奏実践に関してはバイロイト公演からして初めから定評のあったものであり、またとても室内楽的な難しさもあり座付き管弦楽団に要求されるものは過剰である。そして二月にもまだまだ十分な演奏は出来ていなかった。少なくとも今回も二月の陣容が揃っていないことにはより良い結果は得られないだろう。ピットを覗き込めば大体の出来は予想可能だ。まあ、じっくりと腕前を拝見するとしよう。

歌手ではやはりコッホへの言及は無かったようだが、繰り返すが、カウフマンのヴァークナーとコッホが上手に歌うことで初めてキリル・ペトレンコのヴァークナー演奏実践の基本コンセプトが実現される。個人的にも2014年になぜあんな軽いヴォータンを歌う必要があるのか理解不可能だったが、もうこれは否定しようがない基本コンセプトであり、もしこの二人のヴァークナー歌唱に不満があるならば、ペトレンコのヴァークナーなど聴かない方が幸せだろう。これは先ごろの「三部作」で「ベルカント」を確認した者ならば皆同意する筈だ。あれを評価できないとヴァークナーも評価できないかもしれない。



参照:
流石の配券状況 2018-07-23 | 雑感
激しい朝焼けの週末 2018-07-22 | 生活


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# by pfaelzerwein | 2018-07-23 23:52 | 生活 | Trackback

流石の配券状況

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予定外であった楽劇「ジークフリート」訪問の準備をする。冬場にお勉強した筈なのに、一幕だけでも手が追えないほどとんでもなく音符の数が多い。三場はまだ流れるだけだからよいのだが、一場、二場で発狂しそうになる。こんなものたとえ和声的な流れを枠組みにして見て行っても、一つ一つの音符を確認するだけでも目が疲れるだけだ。例えばクラリネット等に現われる回転音などは特徴的としてもその他の可成りの入り組み方は器楽曲並みで、なるほど七番交響曲を想起したのはリズムだけではなかった。鍛冶場のシーンは明らかにブルックナーがその後に交響曲で使ったのだろうが、あの音響は鍛冶場とは似ても似つかぬ蒸気機関工場のサイクル音で、彼のシェローの演出には当然で驚かないが、寧ろ楽匠が鍛冶屋とするところがとても捻った表現だ。クリーゲンブルクの演出は人海合戦だったが、明らかにポストモダーンの外し方だったように記憶している。

残された時間で一体どれだけ私の頭に入るのだろうか?この幕だけでも管弦楽団にとってはとんでもない課題だ。よくも楽匠がこんな楽譜を書いたとも思うが、だから専門の交響楽団が組織されてきたのもよく分かる。フェスティヴァル中の凌ぎの仕事では到底無理だから、トップメムバーを揃えて来ているのだろうか?

秋の記念公演楽劇「マイスタージンガー」の売券の様子を見た。最初から殆ど残っていたようだ。つまり、前予約発売分が出ただけでその他の定期や友の会以外は殆ど自由販売された様子だ。だから一晩あたり千枚ほどのチケットが発売されたようだ。私は少し遅れて入ったのでウェイティングナムバーは千を超えていた。それでも比較的早く入場したので残席を見たら、やはり私が望んだような席は殆ど無かった。多くの人が既に観戦していて、その経験からそれなりの希望を以って購入したと思う。

その証拠に広報部長の呟きには、前夜の「ラインの黄金」終演後から並び始めた人も数人写っていて、土曜日の朝には雨の中を数十人が並んでいた。如何に自身の予算の中からいい席を得た以下の希望が強かったのではなかろうか。既に三回目の上演は高価な上二クラスと立ち見のような席しか残っていない。やはり事情通の買い方が目に付く。私も予算の上限を設けなかったのはそこが大きく、前回と比較できる程度の席は要らなかったのだ。要するに観たい聴きたいの具体的な狙いがあるのだ。皆も大体同じような感じがする。その意味から、あのタッパの高い舞台はあまり近くでは広角に観れなくてちょっと辛い。それでも出来るだけ近接で舞台を観たいという希望は多かったと思う。私の場合は向こうの裁量でその願いが叶う様な配券をして貰った。配券する人の経験から来るだろう席の選び方は、こちらの購入経歴を鑑みて、流石としか言いようがない。



参照:
ごついのはこれからじゃ 2018-02-06 | 文化一般
再びマイスタージンガー 2018-06-22 | 生活
再びあの座席の幸福 2018-07-20 | 生活


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# by pfaelzerwein | 2018-07-23 03:56 | 雑感 | Trackback

激しい朝焼けの週末

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朝焼けが激しかった。真夏の谷間が定期的にやってくる。今年の天候の特徴だ。パラパラと来てその合間にワイン地所の上辺を走った。週末は領収書類の整理と「パルシファル」録音と「ジークフリート」準備だけだ。ラディオ放送をノートブックで録音するのだが、今回はドイツの放送協会網「夏のフェスティヴァル特集」統一プログラムなので、どの局を選択するかだ。既にラインガウでユリア・レジェネヴァが歌う中継番組を放送しているのを比較してみると、差が明らかだった。同じ局のHPでも選択可能なところは注意が必要だ。録音などのために、簡便にIフォンなどのためにMP3などが提供されているものは音質は悪い。最も高品質の音はライヴで聞く機能でそれを上手に録音する必要がある。その中でも局によって差があるようだ。今回の録音は生を留守録したものに電気的なノイズが入っていたからだ。全部で九局もあるので全てを試すことは面倒なのでどうしても慣れた信頼おける局を選ぶことになる。

「ジークフリート」の準備は、先ずは三幕三つのpdfをタブレットにダウンロードした。更にペトレンコ指揮の録音があるバイロイト公演から2015年分をダウンロードしておいた。これもピットの蓋が有る無しで大変異なるのだが他に参考になる音源が無い以上仕方がない。そこでやはり2月3日のリンクツィクルスAでのメモを再び開いて整理してみるのが一番早道だと思った。しかし可成りの量の書き込みがあって一度判読して公開してある内容以上に楽譜を洗いながら細かなところを思い出すかどうかである。

記憶というものは不思議なもので、意外に全く関係ない旅行の行程などから感覚を呼び起こして、そのまま記憶の蔓を引き寄せることが可能だ。それを走りながら試みていた。書いたものを読み直してみると、「ヴァルキューレ」の帰路にはホワイトアウトになって、「ジークフリート」公演前のバゼリッツ展訪問を断念したが、帰路カールツルーヘで雪に降られた、「神々の黄昏」で一泊した。

今回はあのロージェという事でその目的に適った準備をしようと思う。管弦楽の書法をもう一度洗っておかないと、見所がハッキリしないかもしれない。要するに多過ぎるのだ。どこまであの時の演奏を思い起こすか?印象に残っているのは最後の演出のフォイルの雑音だ。結構イライラさせられたからだ。今回はそれで終わりとなると余計嫌な気持ちになるから、覚悟しておこう。それでも観客の反応は「ヴァルキューレ」よりも大きかったのだ。今回はどうなるだろう。記録を読んではっきりしたのは、「ジークフリート」の日帰り往復はリスクが高いという事で宿を手配しておいてよかった。「三部作」でも集中度が違うと疲れたが、それとは比べようが無いほど疲れる筈だ。真剣なコンサートを4つ続けて聞くようなものだ。



参照:
「舞台祝祭劇」の疲れ 2018-02-04 | 生活
ジークフリートの鞴 2018-02-05 | 音
ごついのはこれからじゃ 2018-02-06 | 文化一般


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# by pfaelzerwein | 2018-07-21 23:11 | 生活 | Trackback

其々の祭りの季節

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夕刻になってからも気温は上昇した。21時になってようやく冷えてきた。30度超えていたが、比較的乾燥していてTシャツを脱ぎ捨てることも無かった。それ程快適だ。だから夕食も毎週決まっている牛肉のロール巻とジャガイモをオーヴンで調理した。それでも全く暑く感じないのが嬉しい。

ワインは久しぶりに2015年産を開けた。瓶詰め二年で瓶熟成が始まったところのレープホルツ醸造所「雑食砂岩」である。三本以上あったので先ずは一本目である。開けたてはまだまだがっしりしていて、あの暑い夏をしっかりと記録している。二日目以降も楽しみだ。

ここのリースリングとしては骨格が良過ぎるぐらいなので、飲み頃を考える。寝かす用には間違いない年度であるが、武骨な感じで終わってしまうワインも少なくは無いだろう。如何に繊細さが開いてくるように醸造されているかだ。

ミュンヘンのオペラフェストシュピーレ「ヴァルキューレ」の残券取得を早くも断念した。そもそも前夜祭の「ラインの黄金」でさえ出なかったので、スターテノールカウフマンの登場で誰もこの機会を捨てる人は居ないと思ったが、日曜日の10時まで試してみるつもりでいた。しかし火曜日の「ジークフリート」と二回通うには片方は列車移動しかないと思った。それで調べてみると直前に購入したのでは往復で115ユーロに駐車料金が必要なのが分った。欲しい券の価格が213ユーロでそれだけで引っ越し日本公演並みになってしまう。今回は違反通告がまだ来ていないので、安全を期して車の日は一泊する予定なのだが、火曜日を列車移動にすると水曜日の午前様で75ユーロほどで収まる。しかしその場合土曜日中に予約している50ユーロの部屋をキャンセルしないといけない。

そもそも冬の寒いところを並んでも購入しなかったのは、まさかカウフマンの「パルシファル」の出来が想定以上とは思いもしなかったからで、あれを経験するとカムペとカウフマンのそれは一聴に値すると考えるようになった。そして二月はキリル・ペトレンコにとっては鬼門だった「ヴァルキューレ」を見届けるのが「指輪」訪問の狙いだったのだ。先週まではあのロージェを体験していなかったので、そこから少し目的が変わった。するとカウフマンのジークムントにどこまで価値を見出すかという事になる。コッホのデアヴァンダラーよりは価値があるかもしれないが、コッホのヴォータンを足してもどこまで万難を排してとなるとあまり自信が無くなった。

そこで改めて二月の実況中継を流してみると記憶通りとんでもなくドライに管弦楽を鳴らしていて、ショルティどころではないのだ。あれだけ徹底させる意志には驚愕で、如何にその演奏実践に苦心したかが知れる。それが緩むことは今回も絶対無い筈だが音響的には室温も高いので若干ソフトかもしれない。まあ、私のような人間には「ジークフリート」再訪で充分か。あのキャスティングは勿体無い。

実はもう一つの可能性として、日曜日から火曜日まで滞在する方法もあったが、月曜日に高い山にでも上がるとこれはこれで疲れてしまって、火曜日には帰れなくなってしまう。夏の暑い時には山に登るしかないので、これもどうも欲張り過ぎて、本末転倒になりかねなかった。

そのような事情で火曜日の宿を予約しておいた。市内から20分ほどの小さな湖の町で、50ユーロで大変評判が良かった。土曜日までにキャンセルすれば返金してくれるが、遅れると全額取られる。行掛けに立ち寄れるので無駄が無い。市内で一杯引っ掛けてから戻れるかどうかの道路事情も確認しなければいけない。深夜町に戻ると殆ど何もないと思うからだ。寧ろそれよりもお土産を断念しないと無理かもしれない。冷蔵庫が使えるかどうかチェクイン時に確認しよう。朝食7ユーロも結局払うだろうか。

ミュンヘンのホテルを探して、冬に宿泊した39ユーロの部屋が260ユーロに高騰していたのはオクトバーフェスト期間だと理解した。尋常ではない需要過剰なのだろう。現在は平日は69ユーロで泊まれるようだが、既に塞がっていた。序にその高速沿いを見るとフェスト期間にも63ユーロで宿泊可能な宿が見つかった。空港より北の55ユーロを予約していたが、こちらに乗り換えた。実際に使うかどうかは分からないが、計画に重要だ。

先日ロージェで一緒になった夫婦が話していた。何処から来たという話しになって、九月の末はいつもワイン街道のバートデュルクハイムに行くということだった。オクトバーフェスト難民なのだと分かった。我々が逃げるのと同じように大都市ミュンヘンでも逃げたくなるのだろう。九月末のマイスタージンガーは大丈夫だろうか心配になってきた。



参照:
山場を越えた安堵感 2018-02-13 | 雑感


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# by pfaelzerwein | 2018-07-21 00:00 | 生活 | Trackback