ベルリンの笛吹き男

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フィラデルフィアからの放送を聞いた。期待していたが残念ながらその指揮者のファンには嫌なことを書くしかない。前半は古い自作のフィラデルフィア初演だったので、カール・サンドバークの詩に基づいて作曲されて、それに続いて演奏されており、楽曲としてはその時代や場所を考えるとそれほど悪くはないものと感じた。要するにこのティルソン・トーマスという人は、作曲家や指揮者であるよりも文化人であるのだと分かった。

それは休憩後の悲愴交響曲の展開部に入るまでにはっきりとした。なによりも指揮者として拍をしっかりと刻むことが出来ないようだった。要するに指揮者として明らかに二流で、なるほど欧州では殆どお座敷が掛からない理由が分かった。それでも世界の頂点にある楽団が出す展開部の音に楽譜を捲りながら耳を傾けた。やはり盆暗指揮者だとどんな管弦楽団が演奏しても駄目だと分かった。結局個別のバス―ン奏者ダニエル・マツカワなどの一節が注目されるだけだった。逆にまだまだとは思っていながらも、ペトレンコ指揮のフィルハーモニカーの響きを思い出して戦慄した。

特に指揮の世界ではここ二十年ほどの若手の趨勢は著しいものがあって、私などは指揮の技術などにはそれほど関心が無かったのだが、もはや業界ではその域に達していない指揮者は相手にされない。その意味からも現在日本の管弦楽団を指揮している人物ではパーヴォ・ヤルヴィぐらいしかその域に達している指揮者はいないのであろう。個人的にはあまり評価していないが、日曜日に放送された「ドイツェレクイエム」も評判が良かったようで、チューリッヒのトーンハレでの就任などいよいよ一流領域でのポストに就いて来ていて注目されている。ベルリナーフィルハーモニカーとの演奏旅行も当然なのかもしれない。次の日本公演はこの指揮者が帯同か?

ベルリナーフィルハーモニカーでのプログラミングで様々な記事が出ていて、自分自身4月13日のヴィデオもまだ落としていないので、プロコフィエフ以外の「演奏会評」は書けていないが、ドイツ放送ラディオでの注釈がなかなか面白かった。それは「キリル・ペトレンコがハ長調に拘っている」というプログラミングへのコメントで、フィルハーモニーでペトレンコ指揮で演奏された多くの曲がこの調性の響きで書かれている。それをしてペトレンコの音楽的な趣向だというのだが、その結論はあまりに短絡的だ。私などはこの天才指揮者の音楽を理解するために彼の考えそうなことをいつも想像しているのだが、するとそれは「教育的な配慮」となる。

まさか十分な教育を受けた楽士さんたちに変化記号の無い楽譜でおさらいして貰おうという訳ではないだろうが、彼がそのスクリャビンを指揮する際にインタヴューで語っていたことを思い出す。当時ペトレンコは同曲でシュターツカペレドレスデンなどを客演して回っていたので、「フィルハーモニカーでどのように響くか楽しみだ」と語っていた。つまり楽団固有の響きと楽曲の関係に興味を持っているのだ。そこからすればハ長調で以ってフィルハーモニカーの独自の響きへの認識と練磨への暗示になっているとしか考えられない。正しくピエール・ブレーズがこの楽団の最大の特徴で強みだとしたことに相当していて、どの方向に楽団が向かうべきかを示唆している。

この推測は当たらずとも遠からずだと思うが、音楽ジャーナリズム挙って「一体キリル・ペトレンコは我々を何処に導いていくのだ」とまるで「ハーメルンの笛吹」のように不安がっているのだが、ジャーナリズムの仕事として一つ一つの現象を丁寧に客観的に整理して提示して行くことしかないのである。それは一夜の演奏会においても一曲の演奏にしても全く同じことでしかない。ジャーナリストはジャーナリズムに徹するべきだという事を改めて明記しておきたい。



参照:
解像度が高まると 2018-04-14 | 音
ナインのはそこやで~ 2018-04-10 | 文化一般


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# by pfaelzerwein | 2018-04-23 23:07 | マスメディア批評 | Trackback

舗装の凄まじい衝撃

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約束があったのでダイデスハイムまで走った。この時期は例年ならば家にいないが、今年は時間が無くてアルプス行も計画不可なので、精々走るぐらいで運動能力をキープするぐらいだ。だから折角普段は走らないルートなので、山登りのコースに入って高度を上げて降りて行くようなコース取りをした。理由は運動量だけでなくて朝から強そうな陽射しと、ワイン地所の舗装道路で膝を痛めるのがいやだったからだ。それに荷物を背負っているのでそんなに早くは走れない。それでもよくあの急坂を登った。まあ、トレイルランニングとなると水など最低の装備は持参しなければいけないので、なかなかなれないと厳しいなと思った。高度が低いから可能だが高高度になると厳しいだろうなと思った。

結局土地勘があっても林道などを走っているうちに方向感も失って、若干遠回りして約束の時刻に間に合わないような状況になってきた。一時間もあればと思ったが一時間半ほど走っていた。その割に距離が全く出ずに軽く超える筈の10㎞に至っていなかった。林道だけならば下りでもスピードが出るのだが、フラフラでリュックサックを背負て登山道を駆け下りてもスピードが出せなかった。街に出て舗装道になると更に辛く、後ろから若いお兄さんが倍ぐらいのスピードで追い抜いて行った。汗だくだ。そして約束の日程を一日間違っていたと気づいて、10分の遅れではなくて24時間10分も遅れていたことに気が付いた。

何とか涼まして貰って帰宅したが、帰りは計画の様に山には入らずに最短距離をワイン地所を通って戻ってきた。嘗てはその間を重い靴を履いて一杯引っ掛けて帰って来たりしていた。十年ほど前のことで、それがトレーニングだと思っていたころだ。流石にその距離感も走行時間も当時とは違って簡単に歩けたが、足が疲れたのは舗装道路のお陰だった。なるほど舗装道路は天候に拠らず歩き易いのだが、足への衝撃は甚大だ。車で移動するようになると足腰が弱るとか言われるが、舗装道路を歩く方が体への負担が大きく、非舗装道路の歩行と車の移動を心掛けた方が健康的であると信じるようになっている。勿論靴によって衝撃を軽減することは可能だろうが、どんな靴を履いていても舗装道路の衝撃は凄まじいと思う。

昨晩も三時間ほどしか眠れなかった。これだけ運動すればぐっすりと眠れるだろうか。腰が張っているのが気分が悪いが、気管支の炎症は更に改善されてきた。夕刻には再びフォラデルフィアからのコンサート中継を聞いてみようかと思う。クリーヴランドからのマーラーの交響曲9番もヴィーンでの6番もよかった。オーケストラも世界の頂点に至るとよほど指揮者が盆暗でない限り素晴らしい音楽を奏でる。フィラデルフィアは嘗てバーンスタインのアシスタントをしていたティルソン・トーマスが指揮者のようだが、どれほどの演奏をするのだろうか?楽しみである。



参照:
無花果の木陰の冷麦酒 2006-07-09 | 料理



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# by pfaelzerwein | 2018-04-23 04:10 | アウトドーア・環境 | Trackback

隠れ練習、お前もか?

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キリル・ペトレンコの年末年始のスケデュールが出てきた。連邦共和国ユールオーケストラとのツアーのようである。ミュンヘンでのオテロ上演が12月21日までだから、年末年始に練習に入るに違いない。全くこの楽団との関係は気が付かなかったのだが、2009年の同じ時期にオネガーの「パシフィック」、タンの「ペーパーコンツェルト」、ストラヴィンスキーの1910年版「火の鳥」で、ツェレ、エッセン、シュヴァインフルト、ヴィーン、ベルリンと回っている。

今回のプログラムは、バーンスタインの「ウエストサイドストーリー」、ウィリアム・クラフトのティムパニ―コンツェルト、ストラヴィンスキーの「春の祭典」となっている。本人のコンサートプログラムの拡充も兼ねているのだろうが、イスラエルからストラヴィンスキーが続いていて、とても期待されるストラヴィンスキーである。

メディアではなにも分からない記者が、先日のベルリンでのプログラムを称してフルトヴェングラーへの回帰と語っていたが、ペトレンコの脳裏にフルトヴェングラーなどが浮かぶ筈がない。今まで最も意識していたのはカラヤンとアバドぐらいだろう。クラシックモダーンの充実は当然であり、取り上げる曲取り上げる曲が決定的な演奏実践になって行くとは思われるが、そのこと自体は話題になることではない。

今回のベルリンでのプログラムに関しては、SWRが今後のバーデンバーデンでの祝祭に関連して、上手な売り方への提案をしていたが、反対にどうも新監督就任を気持ちよく思っていない一派からはこうした満席にならない状況への非難めいた発言が出ている。実際にルツェルンでの同プログラムも大変苦戦しているのは事実でベルリナーフィルハーモニカーのコンサートがルツェルンで売れ残っているのを知らない。せめてアボにはこちらの方を乗せるぐらいにすればよかったのではないかと思った。しかしその通向きプログラムだけに原因があるとは言えないのは、大名曲でありながらあまりにも鳴らないシェーンベルクの協奏曲のプログラムもあまり動きは無い。一方ランランの方は舞台から遠くの席残り数十席となっているが、これもそれほどペトレンコのバーデンバーデンデビューの時とそれほど変わらないので、希望者が復活祭の二回目の演奏会に集中してしまった帰来がある。よって、シェーンベルクの方はいづれ可成り話題になってくると思われるので、寧ろランランの計画されているキャンセルで、最後の最後まで動きがありそうだ。

これに関連して興味深いのはBBCのプロムスが今後ザルツブルク、ルツェルンの後に入ってくるようで、再来年には隔年のブカレストのエネスコ祭りが入ってくるとすれば、もう一件ぐらい欧州のどこかのフェスティヴァルが組み込まれそうな気がする。勿論ワンの弾く方のプログラムの売れ行きは悪いだろうが、これもツアーが動くうちに変わってくるかもしれない。ペトレンコのコンサートプログラムは、演奏家だけでなくて、ジャーナリストや聴衆が試されているようなところもあって、なるほどSWRが言う様に教育を考えていかなければいけないのだが、それこそ音楽ジャーナリズムの使命で仕事だと思う。キリル・ペトレンコ指揮バイエリシェスシュターツオーケステルの申し出を無名の指揮者として断ったBBCのようだが、流石にフィルハーモニカーの申し出は断れなかったようだ ― 如何にBBCの担当の連中が業界の人でないかが分る。一晩ぐらい売り切れなくても文句も言えなかった事情も分かる。要するにツェッチマン女史は二回セットでしか売らなかったのだ。そこに指揮者のコンセプトも見え隠れしないか。ツアーの最後で演奏の質は上がるだろうがあの会場や聴衆ではあまり期待出来そうにもないのも現実だ。

ランランがルツェルンでのカムバックを楽しみにしているとのテュイートをしているのを見かけた。その真意は分からないが、本当にカムバックするとなると、その先のペトレンコとの協演まで組み込まれていることになり、彼のキャンセルは腕の負傷よりも他の原因という事になる。所謂隠れトレーニングという可能性も否定できない。まともにランランのピアノを聞いたことは無いので確信は持てないが、技術的に修正することでまともに音楽が出来るようになる可能性はあったのだろうか?もしそういうことがあればペトレンコとの共演も実現することになる。ワン自体も見る限り以前よりも苦労しているにも拘わらず批判が高まってきていることを考えるとなかなか容易ではないのだが、もしランランがとても器用な人であるならば技術的にも音楽を手を入れることは可能なのではなかろうか?



参照:
ランランは引退するか? 2017-10-19 | 雑感
演奏会発券当日の様子 2018-03-07 | 雑感
先の準備を整える 2018-03-16 | 生活
2019年復活祭の座席確保 2018-03-21 | 文化一般


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# by pfaelzerwein | 2018-04-21 22:42 | 文化一般 | Trackback

オペラ劇場ってところ

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これを書こうとしたら、二回目上演の朝の新聞に一週間前の初日の評が出ていたのに気が付いた。今まで出す紙面が無かったのだろう。マンハイムの音楽劇場はどんなゲストの楽団が入ってもその程度は変わらなかった。つまりドイツの二流どころのその音楽的な演奏程度が良く示されていた。二流というのはその給与体系から両シュターツカペレやミュンヘンの超Aのその次のAクラス給与に含まれる。つまりBクラスもある。歴とした二流である。ドイツに移住した節には「オペラ劇場があるところに住みたかった ― 日本には存在しなかった」というような事をマンハイムの語学学校で例文にしたことがあるが、上のクラスとの差は分からなかった。そしてマンハイム程度では音楽の分かる耳効きには耐えられないことが直ぐに分かった。そしてザルツブルクなどのスーパーオパーを経て、ミュンヘンで本当のスーパーオパーに慣れ親しんだ耳で四半世紀ぶりにマンハイムに戻ると余計に耐えられなかった。ゲストの古楽楽団がシュツッツガルトから訪れているのにも拘らずである。

出掛ける前には、フランクフルトの我々のバッハコンサートで様々な欧州のトップクラスの古楽楽団を招いたことから、四半世紀前の録音などからすれば遥かに優れた演奏が奏される期待をしていた。その希望は昨年末に訪れたロココ劇場でもそれほど裏切られなかった。しかし今回は弦の音調も合せずに前半を通してしまう野蛮さには我慢がならなかった。そのような指導者であるからリズムもしっかりとれないのが示すように、舞台への指揮も全く出来ていなかった。要するに音楽的準備が出来ていない。勿論イタリア語の叙唱であるからドイツ人には難しいのだろう。だから余計にパッサカリアの出し方だけは見事でルネ・ヤコブスやアーノンクールでもなせなかったような明晰に驚いた。基本的には恐らくナポリ版で精々四声の扱いで、デュプレの曲などを交えてモンティヴェルディ指導とは関係なく本当に挿入曲を入れたセンスは決して悪くは無かった。

我々音楽愛好家には下手な演奏に我慢できない。勿論音楽は技術だけではないのだがアンサムブルとなると最低のことが出来ていないと話しにならない。我々がオペラ上演には何も期待せずに、態々出かけないのは、それを聞いていられないからである。しかし、ミュンヘンで経験したことは指導者がしっかりしていて超一流の歌手を集めればある程度の上演が可能になることであり、どうしてもそれをオペラ上演の基準とすると更にその差異に我慢ならなくなる。出来る人は十二分の練習の上に更に舞台への指揮まで細かくするのを思うと、如何に方や天才コンサート指揮者とはいいながら、通常のオペラ業界で棒を振っている人の職業は全く異なるのを知らされる。

ガイダンスの席で一緒にベルリンの国会に行った知り合いの夫婦に出合ったが、SWRの記事を読んでいた。私もそれで出かけた訳だが、これであの連中ならばシュツッツガルトに就任するカラヤン二世君を絶賛しかねないのも合点が行く。要するに文化波とはいってもそこで書いている一部は全く音楽のドレミも分かっていない連中なのだとハッキリした。音楽的にあれで満足すると書いたらもはや音楽について一言も書く必要が無い。

そして私が今回ロージェを独り占めして30ユーロであったが、ミュンヘンでのそれとの価値の差は大きい。私の場合はミュンヘンへの往復で80ユーロ駐車料金最低14ユーロにプログラム代が掛かるので、マンハイムへの全て合わせて15ユーロほどとは大分違う。それでもやはりマンハイムには芝居訪問だけにしたいと思った。ミュンヘンに住んでいるのとマンハイムではこれだけの違いがある。それだけ聴衆の質も違う。その点も今回確認したかったことで、バーデンバーデンでのその評価の資料にしたかったのだ。

それでも新聞にあるようにその公演自体は音楽的な価値を差し引くと音楽劇場としての価値はやはりダルムシュタットやハイデルベルクよりは上だった。流石に名門シラー劇場の素地がある。そのヴェネツィアの水を張った舞台は音響的な悪影響が多大で二幕だけは水が無く落ち着いていた。要するに音楽劇場の演出としては非常に不味かったが、芝居の舞台としては決して悪くは無かった。そしてポッペア役のニコラ・ヒレブラントはザルツブルクやミュンヘンでも歌っているように最後をピアニッシシモで歌い熟していて技術的にもまだ先のある人であることが際立った ― 愛の二重唱を歌いながら子供をムシコロの様に二人で絞殺した情景の後で。その他バリトンのバルト―ス・ウルバノヴィッツや、ご当地で人気のマレーべル・サンディなど何人かはある程度の水準の人が居たが、なるほど嘗てのマルクス・アイへなどがミュンヘンに行くと声が無いと批判されるのが分かるような陣営だった。あの程度の会場であの声ならば到底ミュンヘンでは難しいという人が殆どだった。合唱団の声のトレーニングもやはりミュンヘンのそれとの差は明らかだった。

さてもう一つの興味であったのは二十年ほど前に新装なったオペラ劇場である。購入したのは上から四番目のクラスだったが、視界も写真の様に良く、一部上手が切れるぐらいだった。テロップも見やすく、近代的な劇場としても悪い方ではない。なによりも1156席よりもコムパクトな感じで小劇場と同じコンセプトで平土間が傾斜付けられていて悪くはない。音響はこの大きさならばともう一つ上を望みたいが、少なくともマンハイムのあの座付き管弦楽団には以前の劇場よりも明晰さが増したので悪くは無かっただろう。建築素材などは安物の公団住宅や二等客車のようでマンハイムらしく安物臭い。それでもあそこであの「パルシファル」がやられるのかと思うとうんざりするのも正直なところである。よほどしっかりした指揮をして貰わないとどうしようもないのは変わりない。ある意味、視界も音響も、倍もあるバーデンバーデンの劇場のそれは可成り奇跡的な成功例であることを改めて確認した。



参照:
「ポッペアの戴冠」再会 2018-04-15 | マスメディア批評
偉大なるマルクス様像 2018-04-16 | 文化一般
ツルツルピカピカに 2018-04-17 | 文化一般


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# by pfaelzerwein | 2018-04-20 17:09 | 文化一般

ポッペアに追い込まれ

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何時もの様に追い込まれた。「ポッペアの戴冠」の準備はまだまだだ。最後の最後に版の選択など細かな具体的な事項に目が行くかどうかわからない。それでもどのような取捨選択がされて、現時点でのモンテヴェルディ解釈の一端を垣間見てみたいと思う。ルネ・ヤコブスの録音もシュヴェツィンゲンのロココ劇場での公演も20世紀を否世紀末を代表する演奏実践なのは違わないが、それならばそれから四半世紀経った今、それがどのように発展解消されているのか?

例えば二幕のマドリガル風の音楽構成は正直音楽劇場のドラマ的発展が無い限り少なくとも我々の耳には退屈でしかない音楽となっている。その理由は、特にルネッサンスの対位法の音楽に慣れた耳にはあまりにも単純に収まり過ぎていて、マドリガールと特定しないでも復古的なルッソーのその和声の重力に辟易するのとよく似ている。それらが北ドイツに移植されるとシュッツなどの嘆き節へとそして中部ドイツのバッハ家族へ流れていくことになる。蛇足乍らそこに20世紀の大衆音楽となったカラヤン指揮の管弦楽などの和声の響きと同じく、あまりにも当然過ぎるように収斂してしまう単純さへの嫌悪に近いものを感じる。

ルネ・ヤコブスの表現自体は、当然のことながらその和声的な重力感を伴った繊細へと表現の方向を定めてはいるのだが、如何せん基本となるマドリガール自体がそのように書かれている限り、そうした冗長さは避けがたいかもしれない。上のような理由からモンテヴェルディの今日的な意味合いをマドリガールに見出すのは難しいのだが、オペラにおけるやはりその劇場表現媒体の基礎としての関心は変わらない。なんといっても久しぶりの生公演に接してみないと語れないことは沢山ある。

あとどれほどの時間があるかは分らないが、学術的な検討や解釈によって導きされるその残された楽譜や台本からの解釈の余地はそれなりにあるようで、どうしてもその一貫した演奏解釈の肝心な所だけは準備しておかないと皆目解らないと思う。

それでもCDのノートにもあるように、残された楽譜の読み方は重要で、ヤコブスが叙唱におけるリズムの訂正などについて触れている点が重要だ。つまり氏の経験からモンテヴェルディがテクストから逸脱する記譜をすることは殆ど無くて、二カ所のドラマ的な肝心な部分を除いて、この「ポッペア」でおかしい点は間違いなく他の人によって記譜されていて、その他の人によっておかしなオブリガートなども付けられている箇所は訂正したとある。

これは歴史的な演奏実践の場合に良くなる点であるが、少なくとも何らかの楽譜が残っていて、その楽譜がいい加減なものとすればそもそも歴史的な価値などは無い。あるのは装飾とか、現実の楽器やその機会に合わせた時代考証などであって、最初の物はそもそも歴史的に継承されているものでもありあまり問題は無く、寧ろ叙唱などの自由度の重要性が器楽的な通奏低音のそれに勝ることは当然のことである。勿論、ヤコブスの書く様に、カストラートが現在はいないという事の方が音楽劇場表現には頭の痛いことであることは言うまでもないだろう。

朝一っ走りした。短い坂上がりコースだったが、最初から普段の感じに近づいた。息使いも普通になってきた。少なくとも前回とは大違いだ。まだまだ早くは走れないが、掻く汗が気持ち良いものになってきた。これで劇場でおかしなことにならなければ嬉しい。



参照:
ツルツルピカピカに 2018-04-17 | 文化一般
偉大なるマルクス様像 2018-04-16 | 文化一般


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# by pfaelzerwein | 2018-04-19 22:23 | | Trackback

隠されている問題

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比較的早い時間に走った。折り返し点で汗を掻いた。陽射しが充分だ。まだまだ本調子ではないのだが、前夜も煮豚のスープにニンニクとショウガをおろして、コラーゲンラーメンとしたので満腹度以上に効果があった。気管支の炎症も治まって来ていて、木曜日でのオペラ公演中の鼻水と咳は何とか抑えられるかもしれない。しかし、のど飴だけは忘れてはならない。

そのような塩梅で「ポッペアの戴冠」を水曜日中に最後まで通しておかなければいけない。天気が良く摂氏27度ほどまで上がりそうで、Tシャツの生活が始まった。まだ風が冷たいので半ズボンは必要が無いが、気持ちの良い季節になった。そのお陰で窓を開け放って仕事することになる。すると流石に市の役所前に住んでいるので町が騒がしい。週末にも反対側のシャンペン工場でお祭り騒ぎの喧しい音楽が流れていた。あれは音楽というよりもただのリズムボックスの野蛮なものでしかない。今回ノイズキャンセリングのイヤーフォーンを購入する心算なので、自宅でもワイン祭りの時にどれぐらい効果があるのかと旅行時以外の使用の可能性に気が付いた。あのリズムボックスと喧噪がどれぐらいキャンセルされるのだろう。キャンセルされて圧迫感があると生活にならないので適当に音楽を聞けるぐらいの感じが良い。高等な耳栓替わりである。

ネットで様々な音楽に関する話題が飛び交っている。エルブフィルハーモニーでのカーネギー公演への壮行演奏会のクリップが上がった。最初に上がった時には二時間もしないうちに消去された。どこが問題だったのかは調べると分かった。見出しのテロップの演奏会の期日が23日のところが24日と間違っていたのだった。その映像の鮮烈さと座付き管弦楽団らしくない分析的な響きが聞ける貴重なヴィデオである。会場が違い、管弦楽団の並び方も違い、楽員がお互いに目が効くので、全く違う指揮捌きと演奏が出来たと話題の演奏会であった。なるほどこの鳴り方は今までこの座付き管弦楽団が経験したことが無いアンサムブルとなったことが分かる響きである。一体地元のハムブルクの管弦楽団はどんな響きを奏でているのだろう?

日本の音楽評論家と名乗る教授がお話しにならない音楽会の感想を書いている。益々日本人の教養や学術的な程度が落ちてきているのを感じさせる。吉田秀和の文化勲章でさえ可成りスキャンダルなものだと思うが、まだ彼の場合は自身はただの物書きだと自己弁護していたので救いようがあったが、少なくとも学問をする者が非科学的な思考でなぐり書きをしているのが日本の文化で芸術の程度である。

しかし、フランスでもドイツでも音楽芸術特にオペラ上演に関してはあまりその程度は変わらない。フランス人でヴァンダラーと名乗る人の書いたもので分るのだが、特に注目したのは「バーデンバーデンの聴衆」について触れた部分だ。その聴衆の質で容易にザルツブルクと比較されているが、なるほど夏や復活祭の音楽祭とバーデンバーデンの都市圏の地元民とは大分違う。

しかしここにもう一つの問題が隠されていて、それは日本からの聴衆が経験したことと共通していて初日以降のこのフランス人の経験した聖金曜日と最終の復活の日曜の上演などは初日の地元の人たちは殆ど居らず、もしいるとすればバーデンバーデン周辺で地元の無関心層に捌いたようなティケットを安く購入した人が多かったと思われる。それは初日でも第一幕が終わってからザイテンバルコンのみならず正面のバルコンからも人が沢山消えた現象が物語っていた。経済的には成り立っているようだが、有効入場者数には幾らかの偽りがある感じさえするのである。

La question des productions de Baden-Baden se pose à plusieurs niveaux, aussi bien artistiques qu’économiques et sociologiques. Le public du Festival de Baden-Baden est moins habitué que celui de Salzbourg aux productions un peu décoiffantes.

もう一つの問題として、今シーズンで勇退するメーリッヒ・ツェブホイザー支配人の責任について触れているが、これはある意味正しいのだが、つまらない演出に金を掛けるぐらいならば適当にした方が良いだろうという言い訳も成り立つ。大問題はその芸術的コンセプトを描くことの出来るような人物ではなくて、なにはともあれ破産した劇場を今後の可能性を期待出来るほどまでに経済的に立て直した功労を語るべき人物である。

Enfin au niveau artistique, l’énormité du théâtre et du plateau déterminent des choix, mais le directeur artistique, Andreas Mölich-Zebhauser qui n’a jamais été trop intéressé par la question scénique. Baden-Baden est un Festival d ‘ « events » où les mises en scènes trop problématiques ou idéologiques ne semblent pas trop bienvenues.

その他のアコースティックやラトルのオペラ指揮に関しては態々触れるまでもないことだが、結局ヴァークナーの音楽劇場作品に関してはそもそも音楽劇場効果を期待していく人間の方に落ち度がある。本当にその効果を信じている人が居るのが不思議でたまらないのである。セリフ芝居を音楽劇場と比較すれば一目瞭然であるが、どうしてこうもヴァークナー愛好家はなんとも非理知的なのだろうと感じるだけだ。要するに音楽だけでなくて劇場空間もよく理解出来ていない人たちなのだ。



参照:
ツルツルピカピカに 2018-04-17 | 文化一般
「ポッペアの戴冠」再会 2018-04-15 | マスメディア批評



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# by pfaelzerwein | 2018-04-18 21:04 | BLOG研究

華為製品を買い物籠に

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プライムシートという無料でデジタルコンサートホールを聞けるサーヴィスを試してみた。デジタルコンサートホールの音響面を担っている日本の企業体であるから日本国内限定無料なのだろう。我々音楽ファンにとっては動画はどちらでもよいことの方が多く、ハイレゾリューションで無料で聞ければあとはトレイラーだけを見ていればもう要らない。試してみるとやはり重かった。少なくとも現在の私のスピードでは少しだけ音を聞けたぐらいであとは流れなかった。今回は断念するしかないが、八月のベートーヴェンプロはこれで聞いてみたい。

そのためにこちらの環境を整えるべく、昨年二月から懸案となっていたグラスファイバー回線へと移行する手続きを取った。机周りだけでも三種類の電話回線と少なくとも五つの電話番号があるので、これを整理するのも目的だったが、その支払元など様々で複雑だったのだ。どうも一つの番号は廃止にしないことには、回線数を減らすことは難しいようで、先ずは新しい契約についてくる新たな二つの番号が増えて、全部で七つの番号になる。最初半年は割引価格なので、それが切れるまでにもう一つの回線を解約すれば事実上月々の全支払額は殆ど増えない。

なによりもインターネット回線が二つになることで偶に起こる「音信不通状態」を避けることが可能になるだろう。そしてなんといっても毎秒27.9MBit以上のダウンロード、2.7MBit以上のアップロードが保証されるために、現時点での大抵のネットでのコンテントは問題なく落とせる筈だ。今回は間に合わなかったが、今まで遅れたのには最初の導入時期のよりよいお得なオファーを躊躇させた原因は他にもあったからだ。なによりもそれ用に準備されているルーターの評判が悪く、飛びにくいという事だった。

グラスファイバー化を果たしても現在使っているデジタル回線は維持するためにルーター二機がWiFiを飛ばすことになって猶更その性能や安定性が問われた。しかし評判は散々だったので、そのモデルが一掃されるのを待っていたのである。独テレコムのやることであるから、その予定数を導入時期のお徳用パックで捌いてしまわない限り、それに代わる機種に力を入れない。漸く、通常にルーターと一緒に注文して、月々賃貸料払っても新モデルが主力になってきたことを確認した。要するに少々安くても旧モデルは御免だったのだ。そして今回新モデルの賃貸料金が5ユーロ弱になっていて、アマゾンで購入すれば115ユーロなので二年も掛からずに償却可能となる。つまり買いだった。これで決心した。

これで上の速さならばデジタルコンサートホールもその他の生中継映像も少なくともこちらの速度でその質に制限が掛かる事は無くなる。室内のWiFiに関しては従来通りで使えるが、NASは新しい方がDLNAとも上手く使える可能性が高い。するとどうしても従来のルーターで構成しているWLANの方はサブのシステムになってくる可能性が高い。そこまで新システムがよいならば万々歳だ。そしてなんていうことは無い、メーカーは華為なのだ。流石に信頼おける独テレコムの選択だ。

最後までの問題はFAX専用にしている番号が移せないようなので、FAX番号が変わることになることだ。平素からその番号を使っているのは必要のない宣伝目的の業者なので全く問題は無く、もはや仕事でFAXを使う人は殆ど居なくなっている。少なくとも電子メール化している。個人的に最大の問題はその番号を印字してある名刺と便箋がまだまだあることで、便箋の方は印字で変更してしまえばよいが、名刺の方は少なくとも線で消さないと不親切かもしれない。大抵の人は電子メールか電話をする筈だが。携帯電話の番号もいれていないのでこれも手書きで加えることはしばしばあるのだ。勿論契約を解消する前にもう一度だけ番号移転も相談してみたいとは思っている。



参照:
Accept 華為 or 羽佳!?  2018-02-23 | 雑感
I love „Made in China“2018-04-08 | 生活


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# by pfaelzerwein | 2018-04-17 22:48 | テクニック

ツルツルピカピカに

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久しぶりに煮豚を取ってきた。前回は謝肉祭時期であるから二月程ぶりだろうか。とってもそのようなものを食する元気は無かったが、ここに来て全快への道を歩んでいる。それでもまだ口がおかしく、ざらざらしたりするので一週間投与した抗生物質の副作用が出ているのかもしれない。

久しぶりに峠を攻めてやはり疲れが残った。特にどうのこうのというわけではないが、インフルエンザの影響がぶり返したような微熱感などが残った。決して悪くはなっていないのだが、まだまだ元気がない。そこで煮豚を食することにしたのである。なんといってもコラーゲン満載で、これだけで口の中のざらざら感や肌乾き感などが一掃される筈だ。東洋医学的な効果をそれほど信頼しないが、この煮豚の効果だけは普段から実感しているので間違いない。これで精がついて全身がツルツルピカピカになってくれると嬉しい。

「ポッペア」のお勉強は奥が深い。ザルツブルクでのプログラムを見つけた。演出はユルゲン・フリムとあった。あまり記憶にはないが比較的分かり易い舞台だったと記憶する。1990年代初めのプログラムを見ていると全く覚えていないコンサートやオペラが次々と出て来る。如何に記憶に無いか、如何に意味の無い催しだったが、それも記憶に無い。しかしざっと見ると、今のような念入りの準備どころか、自身の好みとか目的がハッキリしておらず、ただ有名で定評のあるような出し物と演奏家の催し物に通っているようで、逆に特殊な目的を定めて出かけたものは記憶に深く残っている。要するにミーハーまでは行かなくても、一種のクラオタ的な思考がどこかにあったのかもしれない。勿論プログラムを見ると微かに思い出すものも少なくはないが、全く思い出さないものもあってがっくりする。あの当時はその上に開演前にアルコールを飲んだり、休憩時に飲んだりしていたものだから全く残らない。時間と金の無駄だったと反省する。要するに、「俺はあれに行っていたということを自慢する程度のバカな行為」をしていたという事になる。浪費以外の何物でもない。

残念ながら当時のザルツブルクのプログラムは、マルティン・ヴァルサーの手記が載っている位でそれ以外はあまり資料的価値が無い。歌手もマックネールとかぺトラ・ラングとかクルト・モルとかが歌っているが、プロフィールも載っていないのでその当時のそれも分からない。変なプログラムだ。

それに引き換えアルモニアミュンディのCDのブクレットは情報満載だ。なんといってもルネ・ヤコブスによる楽譜の読み方の論文がとても興味深い。それによると二種類の手書きの譜の系統があって、ヴェネツィアでの上演、ナポリでの上演に纏わるもので、二通りに別れるらしい。いずれにしてもそこでの器楽的な音楽はシムフォニアとリトネッリに限られて、通奏低音を伴った音楽によるドラマであることには変わりない様だ。そして、そこで演奏させる器楽曲はモンテヴェルディの指導の下で各人に作曲された器楽曲となるから、先日のSWRでの当時の常套として様々な器楽曲がという事がこれに当たるようだ。

ブックレットにおいてもその著作権の捜査は音楽学者に委ねるとしているので、まあ「様々な曲が挿入されたという言い方」は、何も適当に取捨選択して挿入するという事ではないという事だろう。そして当時はまだ座付き管弦楽団という楽団が存在しなかったとなれば、当然今回のマンハイムでの公演の様に二本づつの楽器編成が正しいとなる。ヤコブスは中声部に当たるヴィオラを書き加えているようだが、マンハイムでも同じような様子だ。

そしてヤコブスに言わせると「当時の劇場は500人規模だったことを考慮すれば、現在の劇場は大き過ぎる」となるが、マンハイムは1156席あるらしい。ロココ劇場の二倍である。但し古い劇場とは違って響きはよいかもしれない。奈落の深さなど色々と考慮する点はありそうだ。



参照:
コラーゲンをたっぷり摂取 2016-04-13 | ワイン
「ポッペアの戴冠」再会 2018-04-15 | マスメディア批評


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# by pfaelzerwein | 2018-04-16 23:15 | 文化一般 | Trackback

偉大なるマルクス様像

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トリアーのマルクス像が設置された。贈答主の中共政府と一悶着あったが、ローマ遺跡のポルタニグラとマルクスの生誕家の近くに設置された。最大の争点は中共政府が提案したその像の大きさだった。今回設置されて5月5日の200歳のお誕生日にお披露目を待つのは、― 恐らく待つのは政治家諸先生と送り主の中共の大使達のご臨席だろうか ―、なんと4.40mの高さで2.3Tの重さの像である。つまりトリアー市で反対された巨大像は6m以上の計画だった。如何にもシナ人の考えそうなことである。

兎に角、シナ人の旅行目的地となったトリアーであり、その観光収入を考えると少なくとも中共の申し入れは断る術はない ― 姉妹都市のヴァイマールなどはシナ人などに来て欲しくないとまで言っている。それでもシナの感覚に合わせる訳にもいかぬ。三十年前ならばマルクス像自体に反対の意思が強かったとSPDの政治家が語っている。まあそれでも、十分な大きさで、中共も容認可能なプレゼンスは確保されたのだろう。それでも式典までに壊されてはいけないので昼夜監視体制が引かれて、五千ユーロから一万ユーロの費用が掛かっていることから、それだけでも雇用が増えたともいえる。先ずは正式のお披露目まではコートを着せられているようだが、先ずはお顔だけは捲って写真撮影と相成ったようである。式典はその割礼から始まるようだ。

久しぶりの峠攻めだ。日曜日にパン屋が開くようになったので、土曜には休んで日曜日に備えた。感想だけを目指した。前回は熱を出すその聖土曜日だったと思う。往復出来た。投薬を止めて初めての朝の鼻の調子も喉の調子もまずまずだった。それどころか前夜のステーキの消化も良さそうで、走って来てすっきりした。これで頭痛も消えて、気管支炎の炎症も収まれば完治である。インフルエンザは怖い。

早速、「ポッペアの戴冠」一幕10景までを流した。DLした楽譜ではアレグロとなっているところが、ルネ・ヤコブス指揮では悉く無視されていて、それより遅いテムポの快適さの中に散りばめられている。なるほど手書きの古い楽譜を見ると、そのような感じでよいのかとも思うが、解釈には違いない。この辺りは注目で、今回のマンハイムでは舞台も当時のヴェネツィアバロックの考証をもとに制作していて、音楽も当時のバロックオペラ風に様々な器楽曲が挿入されているらしい。ある意味、ヤコブスの仕事は楽譜から繊細さを抽出して再現したものであるが、個人的にはバロック表現として若干の違和感も持ち続けていたので吟味したいところである。このオペラの父のような作曲家のマドリガーレとオペラの関係がそこにあるのかなとも思う。

それにしてもこうした一次資料に近いようなものが簡単に居ながらにしてDL可能となり、嘗てならば指導者か研究家ぐらいしかが目を通さなかったようなものに目に触れることが可能となっている。とても良い時代であると思うとともに、聴衆の目や耳が肥えて来るのは当然で、それに匹敵するようには音楽ジャーナリズムが追いついていないことを嘆くしかないのであろう。様々な専門分野において、ジャーナリズムがプロフェッショナルからアマチュア―へとその質と量とも変わってきて来ることは当然のことなのである



参照:
多重国籍の奨めと被選挙権 2017-03-15 | 歴史・時事
自宅よりも快適な車内 2005-02-14 | 歴史・時事


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# by pfaelzerwein | 2018-04-15 21:00 | 文化一般 | Trackback

「ポッペアの戴冠」再会

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ナチョナルテアターのティケットを買った。12日のベルリンでのコンサート評を読んでいて、SWRのサイトにマンハイムの初日の評が載っていたからだ。二十年ほど前に新装なった大劇場に初めて入ることになる。小劇場は芝居でお馴染みだが、あのマンハイムのごたごたは御免だったから機会が無かった。しかし今回はバロックアンサムブルが入っていて劇場の座付き管弦楽とは関係が無い。これだけで先ずはいい機会だ。そして「ポッペア」の演出も中々よさそうである。このモンテヴェルディの名作を最後に聞いたのはアーノンクール指揮のコンツェルトュスムジクスだから、これまた20年ほど前のことだ。歌手も悪くないようで、音楽的には可成り質が高そうだ。そもそもドイツ語圏でもヴァークナー協会の発祥の地での屈指の名門なだけあって今でも歌手の登竜門である劇場であることには変わりないだろう。

その横にマンハイム名物の聖金曜日の「パルシファル」上演の維持活動が報じられているが、一寸流れる音楽が莫迦らしい。あのような1950年代の演出を残して、程度の低い音楽でうっとりするような人に音楽もヴァークナーも分る筈がない。本末転倒である。ミュンヘンでも「ばらの騎士」維持の署名活動が始まっているようだが、ああした古い演出を有り難がって残していったい何をと思うのだが、芸術とはまた異なるところでの大衆の動きがあって、如何にもオペラ劇場世界が非芸術的な世界であるかが示されているようなものだ。だから私はそんな退屈なオペラなんかには興味がない。時間の無駄である。

しかしこうなると、一週間のうちにあの長いオペラに目を通しておかなければいけない。楽譜に目を通すのが初めての曲どころか、モンテヴェルディのオペラでは初めてだ。体調が充分でもないのに間に合うだろうか?席はバルコン席を試してみるので、ピットの中は見えるだろうから、通奏低音部もよく分かる筈だ。さてその価格の30ユーロは安いのか高いのか、試してみなければ分からない。ラインネッカー地区ではこの手のバロックオペラはシュヴェツィンゲン庭園内のロコロテアターと決まっているが、今回は近代的な劇場である。同地でのルネ・ヤコブス指揮の公演は今でもレフェレンスであることは変わりないが、その録音を今回通して聞いてみる心算だ。

12日のベルリンでの演奏会評が面白い。そもそもSWRが態々ベルリンのフィルハーモニーまで行って報じること自体が、ミュンヘンのBRが報じないのと対照的で面白い。要するにこれからお迎えする所と、去る者を追わずのミュンヘンとの違いだろう。だから「三日間のどれも売り切れていない演奏会は、あまりにも知られていない曲でのプログラムに原因がある」として、「こうした巧妙で実験的なプログラムに聴衆を獲得しようと思えば、ペトレンコがコミュニケーションで何かを示さなければならないだろう」としていることは、そのもの復活祭で芸術的なコンセプトを高めれば問題となることであり、予め皆で試行錯誤しているという事でしかない。これは我々の問題でもあり、芸術活動の核心で、上のような焼き直しの演出をやるような無批判の悪趣味なオペラ劇場やその聴衆層とは正反対の態度である。

ピアノを受け持ったワンに対する風当たりはどの評を見ても強く、そもそもその名人性をアムランなどと比較するべくもなく、一体何を彼女から期待しているのだろうと不思議に思う。新聞によればまさしく映画館での放映はそのハイカットの衣装のお陰でありというような下らないことを今更書いている大衆紙があるぐらいで、そもそもの市場の相違と、如何にそれをアップグレードして繋いでいくことが難しいかという事である。その意味ではありえないと思われるランランのカムバックで、ペトレンコと共演するというような考えられないことが実現するとなると更にそうした市場への挑戦となり、ただでは済まないことになる。一体誰が背後で画策しているのかは分らないが、話題性だけでは終わらない。

ワンに関しては自己弁護どころか「指揮者も私の早いテムポに慣れて来たわ」というような突っ張った言動のようなものがあったが、正直彼女がとても苦労してやっていることとその言動が全く一致していないので ― 彼女の投資の回収ばかりを考えた目の回るような公演回数では本格的にピアニズムのステップアップしてくることも困難であろうが ―、新聞が「(そうした彼女の考え方は)明らかに失敗であり、ワンはペトレンコの良いパートナーではない」とか、真面な所ではSWRが「ユジャ・ワンはペトレンコの繊細に対応する術がない」というのもあまりにも当然過ぎて態々示すことでもない ― 明らかに彼女の利点に注目する方に価値がある。少なくとも彼女にはランランが学べないことを学ぶ素養がある。新聞にホルンのクーパーと同時期にカーティスで学んでいたと書いてあった。寧ろ管弦楽の出来ていないことを指摘することで浮かび上がることの方が大きい。



参照:
Vielversprechende Eintracht, Christian Schruff / Online-Fassung: Jennifer (SWR2)
解像度が高まると 2018-04-14 | 音
再考察ルツェルンの宿 2018-04-09 | 雑感





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# by pfaelzerwein | 2018-04-14 22:41 | マスメディア批評 | Trackback

「ポッペアの戴冠」再会

d0127795_22393796.jpg
ナチョナルテアターのティケットを買った。12日のベルリンでのコンサート評を読んでいて、SWRのサイトにマンハイムの初日の評が載っていたからだ。二十年ほど前に新装なった大劇場に初めて入ることになる。小劇場は芝居でお馴染みだが、あのマンハイムのごたごたは御免だったから機会が無かった。しかし今回はバロックアンサムブルが入っていて劇場の座付き管弦楽とは関係が無い。これだけで先ずはいい機会だ。そして「ポッペア」の演出も中々よさそうである。このモンテヴェルディ―の名作を最後に聞いたのはアーノンクール指揮のコンツェルトュスムジークだから、これまた20年ほど前のことだ。歌手も悪くないようで、音楽的には可成り質が高そうだ。そもそもドイツ語圏でもヴァークナー協会の発祥の地での屈指の名門なだけあって今でも歌手の登竜門である劇場であることには変わりないだろう。

その横にマンハイム名物の聖金曜日の「パルシファル」上演の維持活動が報じられているが、一寸流れる音楽が莫迦らしい。あのような1950年代の演出を残して、程度の低い音楽でうっとりするような人に音楽もヴァークナーも分る筈がない。本末転倒である。ミュンヘンでも「ばらの騎士」維持の署名活動が始まっているようだが、ああした古い演出を有り難がって残していったい何をと思うのだが、芸術とはまた異なるところでの大衆の動きがあって、如何にもオペラ劇場世界が非芸術的な世界であるかが示されているようなものだ。だから私はそんな退屈なオペラなんかには興味がない。時間の無駄である。

しかしこうなると、一週間のうちにあの長いオペラに目を通しておかなければいけない。楽譜に目を通しのは初めての曲どころか、モンテヴェルディのオペラでは初めてだ。体調が充分でもないのに間に合うだろうか?席はバルコン席を試してみるので、ピットの中は見えるだろうから、通奏低音部もよく分かる筈だ。さてその価格の30ユーロは安いのか高いのか、試してみなければ分からない。ラインネッカー地区ではこの手のバロックはシュヴェツィンゲン庭園内のロコロテアターと決まっているが、今回は近代的な劇場である。同地でのルネ・ヤコブス指揮の公演は今でもレフェレンスであることは変わりないが、その録音を今回通して聞いてみる心算だ。

12日のベルリンでの演奏会評が面白い。そもそもSWRが態々ベルリンのフィルハーモニーまで行って報じること自体が、ミュンヘンのBRが報じないのと対照的で面白い。要するにこれからお迎えする所と、去る者を追わずのミュンヘンとの違いだろう。だから「三日間のどれも売り切れていない演奏会は、あまりにも知られていない曲でのプログラムに原因があるとして、こうした巧妙で実験的なプログラムに聴衆を獲得しようと思えば、ペトレンコがコミュニケーションで何かを示さなければならないだろう」としていることは、そのもの復活祭で芸術的なコンセプトを高めれば問題となることであり、予め皆で試行錯誤しているという事でしかない。これは我々の問題でもあり、芸術活動の核心で、上のような焼き直しの演出を遣るような無批判の悪趣味なオペラ劇場やその聴衆層とは正反対の態度である。

ピアノを受け持ったワンに対する風当たりはどの評を見ても強く、そもそもその名人性をアムランなどと比較しているのが間違いであり、一体何を彼女から期待しているのだろうと不思議に思う。新聞によればまさしく映画館での放映はその切れた衣装のお陰でありというような下らないことを今更書居ている大衆紙があるぐらいで、そもそもの市場の相違と、如何にそれを繋いでいくことが難しいかという事である。その意味ではありえないと思われるランランのカムバックで、ペトレンコと共演するというような考えられないことが実現するとなると更にそうした市場への挑戦となり、ただでは済まないことになる。一体誰が背後で画策しているのかは分らないが、話題性だけでは終わらない。

ワンに関しては自己弁護どころか「指揮者も私の早いテムポに慣れて来たわ」というような突っ張った言動のようなものがあったが、正直彼女がとても苦労してやっていることとその言動が全く一致していないので ― 彼女の投資の回収ばかりを考えた目の回るような公演回数では本格的にピアニズムのステップアップしてくることも困難であろうが ―、新聞が「(そうした彼女の考え方は)明らかに失敗であり、ワンはペトレンコの良いパートナーではない」とか、真面な所ではSWRが「ユジャ・ワンはペトレンコの繊細に対応する術がない」というのもあまりにも当然過ぎて態々示すことでもない ― 明らかに彼女の利点に注目する方に価値がある。少なくとも彼女にはランランが学べないことを学ぶ素養がある。新聞にホルンのクーパーと同時期にカーティスで学んでいたと書いてあった。寧ろ管弦楽の出来ていないことを指摘することで浮かび上がることの方が大きい。



参照:
Vielversprechende Eintracht, Christian Schruff / Online-Fassung: Jennifer (SWR2)
解像度が高まると 2018-04-14 | 音
再考察ルツェルンの宿 2018-04-09 | 雑感





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# by pfaelzerwein | 2018-04-14 22:41 | マスメディア批評 | Trackback

解像度が高まると

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ベルリンからの中継を聞いた。流石にフィルハーモニカーはイスラエルフィルとは違う。分かり易い喩え方をすれば解像度が、1k,P1080に対して780ぐらいの差だろうか。たとえイスラエルでキリル・ペトレンコと練習して何回も本番に上がっても、フィルハーモニカーが初日で見せるような解像度では演奏出来ない。これが一流と二流の明らかな差だ。

今回も鉄のカーテンを引いて徹底的な練習をしたらしい。ワンがピアノを受け持ったプロコフィエフの協奏曲三番では各パートを別途にゆっくりと弾かせてその音を確認させたと想像する。解像度が上がれば上がるほどピントが合っていないところがハッキリしてくる。この曲も一曲目の「ラ・ぺリ」も三曲目のフランツ・シュミットの交響曲もまるでフィルハーモニカーの課題曲の様になってしまった。これらの練習をすれば何が出来ていて何が出来ていないかが明らかになるからだ。

その意味からはプロコフィエフでの弦は特に高弦を主に健闘していて、その程度に管楽器が合わせてくることの難しさを感じさせた。傷は仕方ないとしても、十分に音が出ていないようで、この辺りはどうしても合衆国の超一流楽団のややもすると「アニメーション化」するぎりぎりのところで鳴らすものとの差が明白だ。だからといって個々の楽器がそれほど深い音を出すわけではなく、要するにその程度までアンサムブルの精緻さを上げようとするとそれだけ歌い込めてないという事だろう。合わせるのに余裕が無い。

恐らく管楽器に関してはサイモン・ラトル時代に適当に遣らせたツケがこうして回ってきた感があり、キリル・ペトレンコ時代に変化が期待される面だろうか。金曜日土曜日と二回、そしてザルツブルクとまだ練習する時間はあるので、ルツェルンではその成果を聞かせて欲しいところである。昨年の様に初日で大事故を起こすようなことが無くなっただけでも準備してきているという事だろうか。

管弦楽団以上に顕著にその解像度の相違が出ているのはワンのピアノで、満足行くように弾き切ることが益々難しくなってきているのが分るような演奏で、アンコールを弾かなかったのも頷ける。

ラディオ放送では、前日に収録したクラリネット奏者で楽団長のバーダー氏へのインタヴューが流れていたが、ペトレンコの指揮者としての特徴は氏自身がコーミッシェオパーでソリスツをしていた時からコンサート指揮者であったとするのは必ずしも後付けではないだろう。つまり、指揮者のオーガナイズ能力はオペラ劇場で全体を制御しきるのはとても難しいが、それを経験としてやってきたという事で、それによって歌手にとっても歌い易い指揮者となったのだとしていた。要するにスーパーオパー指揮者でその辺りのオペラ指揮者とは素性が違うのは当然だろう。

まだまだオペラ指揮者云々というのはご愛敬であるが、それ以上に興味深かったのはデジタルコンサートホールのあり方に関する言及である。これはなるほど新しいメディア形態であるが、あくまでも記録以上のものではないとする見解をフィルハーモニカーから改めて聞けたのはとても良かった。それ以上でも以下でもないという事だ。

投薬を止めたいと思ったが、最後の晩は思いがけずもう一つ冴えなかった。喉の感じも鼻もそれどころか頭痛も少しあってまるで微熱でもあるように感じた。それでも森を一っ走りすると気分は上向いたが、油断はならない。ぶり返すとなると今度は医者に行かないと手に負えなくなる。



参照:
再考察ルツェルンの宿 2018-04-09 | 雑感
面白くて、目が虜 2018-04-13 | 文化一般


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# by pfaelzerwein | 2018-04-13 19:06 | | Trackback

面白くて、目が虜

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サラダ水切り器が壊れた。2014年8月に25ユーロ出したものなので決して安くは無かった。この手の製品は三通りの水切りの駆動方法がある。一つは指で蓋のレヴァーを回して回転させるカム方式、もう一つはモーターの始動の様に紐で引っ張る方法、そして上から押さえてというのを試してみたのだった。これの弱点である上から押さえるのでそこのプラスティックへの加重に堪えられなくなって割れた。更に機構もバネ式なのでその部分への黒カビなども避けがたかった。使った結果は期待したほどではなかった。三年以上使えれば文句は言えまい。そして今度はレヴァー式に戻った。最も安価な商品があるのだが、その倍を投資した。理由は評判が良く、蓋を左右で押さえて固定するという方式を試してみたかったからだ。紐式は最も回転速度が出るが、紐も切れやすく、意地になって回してしまう傾向があるので決して野菜には有り難くないのである。そしてレヴァー式の強みは回転方向を容易に変化させられることだ。

中華製という事であまり出てはいないようだが、材質はFDAやお食事マークが入っているので合格しているのだろう。メーカーは長春成績電気という会社でINTEYと称する商標の商品だ。デザインや色合いの評判はよく、安全性が確保されているとすれば、あとは使い勝手だろう。先ずはそこのゴム輪がはがれたが、これは接着していない証拠で、カビの生え方などが問題になるかもしれない。シリコンスプレーを掛けておこう。

同時に発注したべルント・アロイス・ツィムマーマンの本が届いた。冊子の感じはソフトカヴァーで分厚く、34ユーロ相当の美術展のカタログに近い。パラパラと捲っていてもどんどんと情報が出て来る。書物としては親父さんのコラージュのフォームは取れなかったようだが、より自由でポップな感じで素晴らしい。兎に角溢れる個人的手記や写真の数々が、作曲家を身近に感じさせて、この作曲家に何らかの思いを抱く者は、それは同時代の三島由紀夫世代への郷愁であっても、ヨゼフ・ボイスの時代を感じるとしても、この新刊書は見逃せないと思う。勿論研究者には喉から手が出るほどの資料集となっている。まるで机の上のべルント・アロイス・ツィムマーマン博物館の様である。

それ以上にぺらぺらと捲っていると止まらない。例えば索引に若杉弘の文字が浮かぶと、なぜかなと思ってそこを見ると、彼が日本で「ディ・ゾルダーテン」を初演した時の記録として出ている。勿論のことキリル・ペトレンコも同じように出ている。興味深いのは、この度インタヴューした証言者の中にギュンター・ヴァントの息子さんが出ていることだろう。

またぱっと開けると、そこには手書きの手紙原稿の文が載っていて、マルシュナーがヴァイオリンを受け持つとか、ヴェ―ベルンのカンタータ二番とOpus9の楽譜を送ってくれとか、ついつい目が奪われてしまうことが満載な内容になっている。安くない書籍だと思ったが、既にそれ以上の価値を感じて来ている。目が虜になってしまう。

ベルリンのフィルハーモニーからの中継が楽しみだ。ワンとペトレンコはリハーサルするまでも無く合わせれる筈だが、フィルハーモニカ―がどこまで細かく絡んでこれるのか。ラトルの遺産として管楽器などの合わせ方はお決まりなのだが、その受け渡しや歌い込みの徹底など、キリル・ペトレンコが初日でどこまで絞ってきているかが聴き所だ。そして何よりもフランツ・シュミットの交響曲四番、ルネッサンスになる演奏となるだろうか。



参照:
全力を以ってあたる 2018-04-07 | 文化一般
サラダの水切りのように 2014-09-07 | 生活


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# by pfaelzerwein | 2018-04-12 19:27 | 文化一般 | Trackback

ブラインド聞き比べ

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バーデンバーデンでの復活祭の一連として収録された番組を聞いた。ラトル指揮第七交響曲イ長調演奏の前日の同地での公開番組だ。四人の音楽評論家が四つの録音を持ち寄ってブラインドで聞いて演奏実践に迫るという番組である。この手の評判の高い私の友人が出ているスイスの番組との違いは、演奏実践の相違について分析していくよりも、対抗馬を落として行って最終的に二つを勝負させるというところが大きく違う。つまり客観的な相違を洗う出していくというようなところまで至らない。

今回の番組もだから演奏実践の核というか、演奏家がどのように楽譜を読みどのように音化しているの実態には全く触れない。やはり評論家の質にもよるがアカデミックなアナリーゼを抜けきれない。それでも今回は自身の管弦楽団を持ってベートーヴェンアカデミーを率いているルーヴァンの教授指揮者も一人だったのだが、この人の批評がアカデミックな和声システムの色付けとそこから急に演奏を称して表面的で心が籠もっていないというようなまるで日本人評論家が謂うようなことに飛躍する。

一人目のスイス人が持ってきた録音がヴァイル指揮1811楽団の演奏を称して、音を正しく出すことに終始していると聞こえるらしい。私からすると下手な演奏なのだが、この教授が持ち寄ったアーノンクール指揮欧州管の評判は悪く、最初から落ちた。理由は各声部の方向性が揃っていなくててんでばらばらだったからだ。しかしそれを言い出すとそもそもアーノンクールの指揮者としての限界を定めることでしかなく、そもそもイ長調交響曲と何ら関係が無い話なのである。

二人目が持ってきたのはお気に入りではなく、伝統的演奏実践の例としての提示らしかったが、一楽章主部のヴィヴァーチェでのテムポの動きで皆おかしいと思う。決して伝統的な均整の取れた古典派像ではないだろう。これは細部が弾きこまれていないので仕方ないとされながらも最後まで一つ目と並んで残った。二楽章でもシューベルトのさまよい人や葬送行進曲風が上手に出たからである。教授がここで態々強調するのが二拍目のスラー効果であり、一体この人に習うアカデミーって思ってしまう。要するに二流の音楽学者の二流の指揮者でしかないだろう。二流のアカデミズムに二流の芸術趣味が宿っている。

そこで司会のロッテ・ターラー女史が出してきた録音が面白かった。明らかにフルトヴェングラーの歌い方を真似ているのだ。皆がppの抑え方の難しさについて語るそれで、結局二つ目と比べて本物臭くないので落とされたが、答えはアバド指揮ベルリンのフィルハーモニカーの演奏だった。勿論ラトルはそこまで弾かすことは無かったがということになったが、1990年代当時のあの楽団の状態を表す録音だった。アバドの弟子とされる教授は、この演奏はアーノンクールの指揮だと推測した ― アバドの弟子にはどうも真面な耳を持っているような人が居ないようだ。 

最終的には四楽章フィナーレでのメトロノーム72よりも遥かに速い一枚目が落とされて、二枚目のクレムペラー指揮のモノラル盤が残った。稔りの無い放送だった。キリル・ペトレンコ指揮イ長調交響曲がフルトヴェングラー指揮の価値を超えることなどは期待しないが、上の話しでは触れられていない、楽聖のその筆運びを体感したいのだ。つまり、音楽のアーティキュレーションなどを幾らアカデミックに触れても、その創作の湧き上がるリズムを刻んでというあの感じは演奏家が本当に新鮮な気持ちでムジチィーレンをしていくところでないと伝わらないものなのである。なるほど上の教授が正確に音化しようとする努力だけが耳につくというのは正しいのだが、それはしっかりとアインステュディールングをしてこそ演奏者から湧き上がってくるものなので、教授の言うような「心から出でで心へ帰らんとする」ことはとても技術的なことであることを語らなければ話しにならない。

二拍で区切ろうと四拍を一緒に歌ってその大きなフレージングの流れで和声的に辻褄を合わせようが、その回答は決して伝統的な演奏実践に解があるのではなくて、あくまでも考証的な楽譜への傾倒にしかない筈ではなかろうかと、改めて思い起こさせる放送だった。



参照:
そろそろ詰めよう 2018-03-27 | 雑感
次はシェーンベルク 2018-03-28 | 文化一般
演奏会発券当日の様子 2018-03-07 | 雑感


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# by pfaelzerwein | 2018-04-11 21:22 | マスメディア批評 | Trackback

激しく咳き込む

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Tシャツとシューツで走った。今年初めてである。ゼーゼーは治らないが、前日よりは明らかに好転している。就寝前に解熱剤を服用したのは変わりなかった。それでもヴィールスは徐々に出て行っている。こうなれば少々の粗治療の可能性がある。沢沿いの往復を完走したので、自信が付いた。スピードは出なくてもこれで発熱さえしなければ、完治は近い。

それでも薄い坂をあがって駐車場に戻るころには嫌な汗を掻いていた。鼻からで出来るだけ放出したつもりだが、まだ全身から嫌なものが出て来る。肉屋で朝食を買っている間も濡れたからだが気持ち悪かった。急いで抗生物質を投与しておく。

昨晩はサラダに続いてスパゲティーを食そうと思っていたが、サラダを残っていたパンと食してヴァイツェンビーアを引っ掛けただけで満足してしまった。朝の走りも距離も短く運動量も少なかったから当然なのかもしれない。それでもまだまだ食欲旺盛とまでは至っていないのでその体調のほどが窺がわれる。

冬タイヤを履いたままだ。サーヴィスのために電話すると5月第二週にしかアポイントメントが取れない。そこでタイヤ交換だけ先にしてもらう。それでも来来週だ。寝ている間に支度が遅れた。電話が辛い。思わず声を張ると咳づいて大変なことになった。



参照:
ナインのはそこやで~ 2018-04-10 | 文化一般
I love „Made in China“ 2018-04-08 | 生活


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# by pfaelzerwein | 2018-04-10 23:14 | 生活 | Trackback

ナインのはそこやで~

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月亭可朝の訃報が入ってきた。ムシの知らせがあった。週末辺りに大袈裟太郎の台北からの中継で名前が出てきたからだ。嘉門達夫に纏わるもので誤って彼の元弟子とか話していたので、鶴光のとまでは訂正する必要も無かった。兎に角、その当時のこの小米朝や小米(後の故桂枝雀)など米朝の筆頭弟子は仁鶴と並んで当時の大阪ラディオの花形だった。関東の談志と並んで鬼才の人物だったと思う。

フィラデルフィアからの生中継を聞いた。現地で日曜13時からの放送がこちらでは19時からだった。先ず送信出力がバカでかくて、どれほどのサーヴァーを用意しているのだろうかと思った。動画ストリーミングほどの容量があるのだろう。初めてだったので、本当に生中継されるのか不安だったが、素晴らしいストリーミングだった。

その有名なサウンドは、ユージン・オーマンディー時代の如何にもアメリカ的に大らかに鳴るそれで、その看板には偽りはなく、ムーティ指揮やザワリッシュ指揮の録音などでもとても立派な音響で鳴っているが、生での実力やその音楽性に関しては未知だった。現常任のナゼ・セガンの指揮は更にこの管弦楽団の可能性を感じさせた。立派に鳴るだけでなく、そのアンサムブルとソリスツの名人芸などが余裕を以って響いた。

ショスタコーヴィッチのソリスツには、日系や日本の姓名などが呼び上げられていたが、その人達は本当に音楽のエリートの人に違いないと思った。こんなに豊かに余裕を以って鳴る交響楽団は他に存在しない。楽器をとても上手に鳴らすだけでなく、楽器も驚くほどよく鳴る。弦から管、パーカッション、ピアノまでが一斉に鳴っても、団子に鳴るどころか、パワーが入れば入るほど音程が揃って分離感が冴えて来る ― ショルティ指揮シカゴの様に音が痩せない。要するに室内楽的に合わせて楽器間の受け渡すと同時にシームレスに合せて来る。

こんなに楽器が鳴る管弦楽団は欧州にはないが ― 奏法の流派や楽器の選択の要素は少なくないとしても ―、昨年聞いたクリーヴランドのそれとは正反対である。敢えて言えばキリル・ペトレンコ指揮のベルリンのフィルハーモニカーの目標ではないかもしれないが、フィラデルフィアのようにたっぷりと余裕を以って鳴らすことも、クリーヴランドのように精緻に鳴らすことも不可能であり、それは昨年の「悲愴」の第一楽章の展開部のあの鳴りの先に課題とするサウンドがあるのだが、この両楽団やシカゴのそれの程度までソリスツも合奏も水準が上がらないことにはお話しにならないと思う。要するに世代交代完了するまでの時間が必要となる。

久しぶりに森の中を走った。走ったと言っても登りは歩いた。胸がぜーぜーすることには変わりなく、就寝前に解熱剤を飲んでいる位だから無理は出来ない。それでも坂を上がると何ともなかったので、徐々に駆け足を初めて、最後には通常に近いスピードまで出ていたようだ。それでも登りには左足の脹脛はパンパンになり、一週間も使わないとこうなるのかとも思った。抗生物質も止めれないが、これで代謝作用も盛んにウィルスが抜けて呉れればよいなと思う。


写真:
ショスタコーヴィッチ七番「レニングラード」のフィナーレ、全強奏になればなるほど各パートの粒が立ってくる。



参照:
現状認識と今後の展開 2018-03-26 | マスメディア批評


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# by pfaelzerwein | 2018-04-09 20:47 | 文化一般 | Trackback

再考察ルツェルンの宿

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二月前にルツェルンの宿を取った。新たに八月の計画を練っていると、二泊しなくても一泊でも十分だと思った。そこで調べてみると、二泊よりも若干安い部屋代で一泊可能な良いホテルが見つかった。予約しておいた。一泊90ユーロ超えであるから決して安くはない。それでも市街地から数キロ圏内のハーロウの高台にある。市内よりもよいのは駐車場が無料なことと景色が良く、静かなことだろう。

朝食を付けると14ユーロほど高くなるが、初日のベートーヴェンの七番の後、アンコールがあってもまだまだ遅くないので、市内で食事をしてから若しくは時間によってはホテルに帰宅後にゆっくり食事をしてからベットに入れる。そしてチェックアウトを11時にするまでゆっくり就寝可能だ。空調も付いているようだから朝寝には困らない。

つまり郊外で二泊するよりも、高価なスイスの食事を二回に限る方が明らかにスイスに落とす金を節約可能となる。スイスは脱脂綿の様にどのような金でも吸い取るような伝統的システムになっているので、滞在期間を短くするのが一番安全だ。上手く行けば、二日目のフランツ・シュミット交響曲4番の後でアンコールがあっても、翌午前一時までに帰宅可能だろう。スピード違反さえ気をつければいいのだ。

来週木曜日と金曜日に放映される同プログラムのお勉強をするつもりだが、中々体調がそれを許さない。まだまだ胸がぜーぜーして落ち着かなく、気力も充実しない。微熱傾向も変わらない。土曜日に皆がTシャツでバーベキューをしたりビキニで陽を浴びていても私は室内で毛のセーターを着て膝から下に寒気を感じていた。特に夕方になると疲れと共に微熱も感じて、食事こそしっかり食べたがまだまだ弱い。結局就寝前に再び解熱剤を服用した。中々投薬を止めれない。

金曜日は欧州中での映画館でフィルハーモニーからの演奏会が中継される。試しに最も近所の映画館の入場料金を調べてみた。8ユーロほどである。自宅で見るためには9ユーロ以上いるのでそれよりは安いが、車で行かなければいけなかったり駐車料金を考えると合わない。平素から映画館に通っている人にはいいのだろう。そのためか、送られてきた絵葉書にはワンのパンツから出ている足が写っている。こういうのはとても販促力があるのは当然だ。その反面、ルツェルンのコンサートの券は今でも余っている。まだまだラトルなどに比較すると知名度が低いという事なのだろう。それでも音楽祭初日のランランのコンサートはまだ完売していない。いわばランランがカムバックするかどうかは分からないでも購入する熱烈なファン層というのは数が限られるのだろう。一方来年のバーデンバーデンのランラン公演の平土間は一席を除いて完売している。

日曜日の晩はフォラデルフィアからの中継を聞いてみる心算だ。指揮はナゼ・サガンで、その才能も限界も分って仕舞ったのだが、それでもライヴァルのクリーヴランドやシカゴと比較してどれぐらい違うのか確かめてみたいのだ。ムーティ―指揮よりもよくなる可能性はあるのだろうか?



参照:
ワイン蔵の温度変化 2018-03-01 | ワイン
演奏会発券当日の様子 2018-03-07 | 雑感


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# by pfaelzerwein | 2018-04-08 21:57 | 雑感 | Trackback

I love „Made in China“

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投薬の影響で粘膜が乾いてきたようだ。鼻の中が洟噛み過ぎで真っ赤になり、喉がくっ付くようになってきた。食事も可能となったので、そろそろソフトランディングと行きたい。抗生物質はまだ中止できないが、解熱剤は止めよう。就寝、起床も通常通りとなったので、買い物に出かけた。大丈夫かと思ったが大買い物を熟せた。週末に完治となればよい。のど飴を忘れずに購入してきた。これがどうしても必要だった。果物も欠かせない。

郵便桶に分らないものが届いていた。どう見てもシナからの直送品のようで、二三日前に充電池が届いたのに、間違いで直送とベルギーからの両方が届いたものと思った。こちらの責任ではないのだが、一つは綺麗に置いておこうと思った。そして封筒を開ける。ドイツの通関の証明も貼ってあるので正真正銘の直送品である。そして開けて分かった。一月前にアマゾンで発注したHDMIケーブルのカップリングのアダプターだった。この間に籠り部屋から出てしまったので、どのような目的で、幾ついるのかも忘れて仕舞っている。そして色々とみているうちに分かった。

細い固定したHDMIケーブルの先にモーバイルのラズベリーなどを接続する目的で発注したのだと分かった。事の始まりは、BENQのモニターには二つのHDMI端子が用意されている機種が少なく、HDMI端子と従来のDVI-D端子の双方を有効利用するためには各々のモニターのデジタル出力をHDMI端子にするアダプターが必要になることで、そこからラズベリーを繋ぐなりPCを繋ぐなりしないといけない、つまりもう一つのHDMI出力にはPC若しくはその代わりにグーグルキャストが接続されからだ。要するに固定されたケーブルにはこのアダプターを使うしかないことがある。三つ発注したのは価格がほとんど変わらないので三つで1.61ユーロつまり一つ54セントだから発注したのだ。54セントならば人に上げても喜ばれるので損はないと思った。

シナでは、今回のトラムプのGAT違反に関して、巷で囁かれているようだ。つまり、現在の対中経済戦争は、嘗ての対日の合衆国の政策と同じで、シナの経済的な脅威に対する合衆国の政策であることには変わらないという事らしい。シナの潜在的な市場規模などは日本などとは比較にならないが、それでも今でも日本がある種の産業部門では先端を走っていることが報道されているらしい。要するに、合衆国は超一流の座から徐々に落ちてきているという事だろうか。



参照:
勝負にならないもの 2018-03-10 | ワイン
Accept 華為 or 羽佳!?  2018-02-23 | 雑感


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# by pfaelzerwein | 2018-04-07 23:38 | 生活 | Trackback

全力を以ってあたる

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投薬の効果があって、通常通りの起床となった。腰の痛みもとれた。通じもあり、朝食も僅か乍らの食欲が出てきた。前日は、抹茶と蜂蜜を入れて吉野本葛で葛湯を作ったが餅と湯の中間のようになった。水で薄めればよかったのだが、その固さ加減よりも味覚が無いので少々持て余した。夕刻にはヌードルスープを十分に食した。熱が下がっているうちに栄養を補給したかったからだ。胃腸を痛める危惧はあったが大丈夫だった。

仕事をしていると病気のことなどは直ぐに忘れて仕舞ったが、走りに行っていないことや洟を盛んに噛んで、戸外は晴天なのに寒気を感じているうちに薬が切れたらと思いだした。忘れる所だった。抗生物質を自身の書いた処方箋通りに飲んで、更に鎮静剤も半量に減らして服用する。再び発熱するのが怖い。

夜中は熟睡もしたが、喉の痛みがその分睡眠を阻害する要因になった。相変わらずベットに入ると寒気が酷く、まるでベットの周りが氷結しているような感じはこの二週間ほど変わらない。今まで一度も感じたことが無いので、屋根裏部屋の不思議である。陽射しが変わることも、暖房のあり方も変わっていない筈だが、今年は比較的早くから暖房を切るようにした影響はあるかもしれない。

寝込み始めるころに平山美智子の訃報が出ていた。初めはその文字から誰のことか分からなかった。音でしか聞いたことが無かったからだ。シェルシの曲を演奏するのにコンタクトを取っていた者から、その名を聞いていた。どこかにCDがあるかと探したが見つからない。作曲家ジャツィント・シェルシは、1988年に亡くなっている。

更に若い世代で生誕100周年の作曲家で、先月20日にそれが祝われたのが、20世紀ドイツの作曲家で一際人気の高いべルント・アロイス・ツィムマーマンである。18歳の時に父親を亡くした娘さんベティーナが中心になって書かれた書籍が出版された。未発表の書き物や写真など豊富な資料と個人の身辺者への詳しい取材に基づいた1970年に自死した作曲家が、研究家ライナー・ペータ―スのコメントを加えて描き出されているらしい。

改めて新聞評にも大書きされているのが、WDRの仕事とそのコラージュ創作への流れ、ダルムシュタットでのブーレーズやシュトックハウゼン、ノーノらとの距離感、そして晩年の苦悩として、ギュンター・ヴァントや先任者ヴォルフガンク・サヴァッリッシュらケルンの座長の反発、特に前者によってミヒャエル・ギーレンによるギュルツェニッヒ楽団での上演まで妨害されて、生を使い果たすことなどである。この本を読むと、もはやヴァントなどは許せない芸術を解さぬ破廉恥な楽師長でしかないとなるに違いない。あのブーブーと吹かすブルックナーを思い浮かべるとそのものこの書籍の表題で、作曲家が得意とした楽想記号ConTuttaForzaつまり全力を以ってを思い浮かべてしまうのが、何とも皮肉である。研究者や演奏家、愛好家には欠かせない書籍のようだ。一冊注文してみたい。

因みに私はあの楽長親仁のLPこそ保持しているが拍手も送ったことが無いだけでも幸いである。そのツィマーマンの生誕百年祭は、ドルトムントでもメッツマッハ―指揮のSWR放送交響楽団の演奏で催される。秋からバーデン・バーデン祝祭劇場に移るスタムパ支配人の最後の仕事のようである。一昨年亡くなったピエール・ブーレーズの百周年も数年後である。それまでにブーレーズハウスも整って、生誕90年以上に大掛かりな祭典がバーデンバーデンで期待される。



参照:
Eine singuläre Erscheinung der Neuen Musik, JOSEF OEHRLEIN, FAZ vom 20.3.2018
ストリーミングの昨日今日明日 2017-08-20 | 文化一般


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# by pfaelzerwein | 2018-04-06 21:10 | 文化一般

夕刻が恐ろしい

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なんとか約束は熟せたが、後が怖い。昨晩初めて服用した解熱剤効果は直ぐに表れた。30分ぐらいか。だから比較的落ち着いて明け方まで眠れた。それでも微熱は引かず感覚から見て38度を少し下がったぐらいだと思う。それでも前日からすると2度ほど楽で、漸くパジャマを脱いで服に着かえれた。重病人がシャツのボタンが絞めれなかったとか、その弱り方の判断基準になっているようだが、シャツもボタンもカウスを締めてあるので被るだけで、一から着るとなると大分の時間を要したかもしれない。そのような調子であるから、抗生物質の服用を始めた。解熱剤は二錠服用したが、抗生物質は最後まで止めれないので一錠にした。

一日ぶりにトイレに行ってシャワーも浴びて動いたので夕刻が恐ろしい。酷くなって来たら直ぐに鎮静剤と抗生物質を投与する心算だ。まだまだ運転出来るような状況には遠い。先ずは熱が引いてくれないと話しにならない。

前日口にしたものは、のど飴以外には蜂蜜入りのヨーグルト、固めのスペイン産イチゴの残り、インド産の葡萄だけで、水気も嗽の塩水以外には冷水、ホットハニーレモン果汁入りが全てだった。兎に角食欲どころではない。なによりも腰が痛くなって嘆かわしい。重病人の床擦れとかいうのもあるが、一日中寝ているのも大変である。

熱が少し下がったおかげで比較的真っ直ぐ歩けるようになった。下手に体力に自信があるものだから対処が遅れ気味になっているので、先手に回らなければいけない思う。そうこうしているうちに寒気を感じるようになったので、予定より早く薬を投与しよう。

寝込んでいる時に、ヤホ女史からまたハートが飛んで来ていた。先年の「三部作」初日の録音のヴィーンからの放送の案内をしたものだ ― 態々並居る歌手の中からエルモネーラ・ヤホ共演を強調した案内だった。もう少し早く反応があるかなと思っていたが、再放送となると多くの音楽家がそうであるように自身の古い写真を見たくないような気持で敢えて無視をしたのかと思っていた。それはそれでとても理解出来るのだが、どうもネットに入る機会は多くとも初日とか放送のある時とそれ以外の時では索引の仕方を変えているのだと理解した。それにしてもこのような関係が続くとなると、来年の「蝶々夫人」に出掛けなければいけないような気持になってくる。それともキャンセルの高額券を買うか。



参照:
手先が震えて駄目 2018-04-05 | 生活
蝶々さんのMorningCall 2018-02-26 | 女


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# by pfaelzerwein | 2018-04-05 21:46 | 生活 | Trackback

手先が震えて駄目

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完全に高熱にやられた。体温は計っていないが、39度はあったと思う。少し楽になっても37.5度ぐらいか。それも夕食後に我慢出来ずにベットに入って12時間ほどはかなり苦しかった。朝は心臓の下が痛んで、とことんヴィールスにやられた感がある。水曜日の予定をキャンセルして、ベットで眠りを貪った。あれだけ苦しいと熟睡は出来ておらず、水気を適当に摂っている割にはあまり排泄もしない。このまま快方に向かわず昨夜並みの状況が予想されたならば適当な解熱剤などを服用する心算である。

今回の症状は寝る前に寒かったのが数日続きながらも森で走ることも可能だったのであまり自覚症状が無かった。自身の体力を過信するような感じになってしまったかもしれない。ここ数年は無かったことであるから判断が付きかねた。発熱以上に足元がふらつくなどなぜか神経系に来ている感じで、少し質が違う。

火曜日にシナから直送の蓄電池が届いた。予定より大分早く入っていたので驚いた。差出人を見るとシナではなくてベルギーになっている。これは更に驚きだ。やはり後ろにはシナコネクションがあるようだ。兎に角無事届いた。その梱包とかもプロフェッショナルで小袋にしっかり入っている。

オリジナルと比較すると小振りで、特に電子回路部分が小さくなっている。過放電やら過充電に十分に対応できているのかどうかは分からないが、少なくとも大きさだけは合格である。高熱があると時間が取れても手先が震えて何もできない。



参照:
知らなかったなどとは 2018-03-23 | 雑感
こてを使う腕を振るう 2018-03-17 | テクニック


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# by pfaelzerwein | 2018-04-05 01:30 | 生活 | Trackback

待望される復活明け

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休み明けの復活とはならなかった。復活祭月曜は昼寝もして休養も貪ったのだが、まだ駄目だ。ベットは寒くはなくなったので、熱は下がったのかもしれない。もう少し安静にするようにしよう。

SWR2のラディオ放送はよかった。3月25日のコンサートは、SWR2の録音でARTEが放映して、デジタルコンサートでのアーカイヴされるので可成り手間を掛けていた。空間マイクロフォンも3ペアーをミックスしていたが、その価値の十分に出ている収録となっている。繰り返すようだが、バーデンバーデン祝祭劇場は、その主旨から新設のコンサートホールのような分離性は求められなかったのだろうが、以前に比べると明晰さが増したと思う。一年前の二つのコンサートと比較しても若しくはシカゴ、ヴィーン、ゲヴァントハウス楽団の演奏会と比較しても今年の演奏は明晰さが増した。会場の材質などの経年変化は一年では変わらないが、なぜかこの20年近くで上手く枯れてきた感じがする。舞台や反響板や椅子などは経年変化するのかもしれない。昨年の二回のコンサートは立錐の余地のない入りだったので、その分今年の方がよく鳴ったのかもしれない。

いずれにしても、前任後任の両者による音響に関しての肯定的な発言などの影響もあるかもしれないが、この祝祭劇場の音響に関しての関心は高まって、今回の収録も手が込んだものになっていたかもしれない。例えばラヴェルの「シェーラザード」の声と管弦楽の混ざり合いを聞くと、生においても秀逸だったが、フィルハーモニーからの録音では聞いたことが無い質のもので、これは個人的にはベルリオーズの「ファウストの業罰」以来の音響体験だった。恐らくフィルハーモニーでは声も楽器も分離勝ちになって、逆にここほど粒立ちよく響かないのかもしれない。恐らく来年の中継はシェーンベルクの協奏曲の日になるだろう。

その祝祭劇場を活かしての2020年以降の計画をベルリンの支配人ツェッチマンが練っている。大物のオペラ演目と管弦楽演奏会は決まっているのだろうが、その他の室内楽などは未定のようだ。だからインタヴューに答えて、他の会場や企画などの可能性を練っていて、ペトレンコ就任の最初の2020年から新機軸で行くかどうかを考慮しているようだ。ペトレンコが祝祭劇場以外で振ることは一寸考えられないが、本体のプログラムとの組み合わせの可能性を指すのだろうか。現行は、もう一つの小さなオペラを市劇場で上演して、カラヤンアカデミーの関連でのコンサート以外は教会やカジノでの室内楽が主だった。ホールは、ベネツェットやハンスロスバウトなど管弦楽団会場もあり、室内楽や野外には事欠かない。更にブーレーズハウスが整えば新たな可能性が生じる。やはり新任のステムパ支配人を待たなければいけない。そもそもザルツブルクを後にしたのも、自主運営の手間とその陰で音楽祭幹部の不正などがあったから、バーデンバーデンへの移動は成功したとサイモン・ラトルが語った通りで、芸術的にも成功させるにはバーデンバーデン側の対応が欠かせない。

ザルツブルクとの比較が改めて吟味されることになり、バーデンバーデンの優位性は事欠かないのだが、まだまだ十分に活かされておらず、音楽大学にしても声楽に関してはカールツルーヘも近辺にあり、もう少し聴衆の若返りも可能かとも思われる。ラトルの言う様に「聴衆の多彩さ」は繰り返す必要もないのだが、常連さんが抜けたところでの上演の雰囲気がどうも違うらしい。ペトレンコ指揮になれば私の様に全部通う人も増えるとは思うが、やはりどうしても最初はミュンヘンから押し寄せるぐらいでないとオペラ通聴衆の核が形成されない。現代音楽の聴衆が少なくないことも忘れてはいけない。



参照:
舞台神聖劇の恍惚 2018-03-25 | 音


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# by pfaelzerwein | 2018-04-03 21:38 | 文化一般

MP4映像よりWAV録音

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ベットの中で目がぐりぐりした。熱が出たようだ。昼間は普通どころか運動も可能なのに、夜間になると道理でベットが寒かった。暖房を完全に落としているので、足元が涼しくてもあまり分からない。熱が出たのは何年ぶりだろう。

フランスのクルテュアボックスの動画を観た。ウンターデンリンデンでの3月18日の公演のものをベルエアーが編集したものだ。フランス国内限定である。この版は最初の内にはアップされていなくて、休憩付きの生中継の6時間ほどの動画が提供されていただけだ。そこから4時間19分に編集されたものに差し替えられている。こうなると欲が出て、一幕のみをならず全曲を観たい。テルカコフの演出が話題になっていたので最後まで観たかった。演奏の方はラディオ中継の2月11日の初日のものがあったが、そもそもダニエル・バレンボイムの「トリスタン」に変わりは無く、歌手がどのように歌っているか、シュターツカペレがどの程度の演奏をするかにしか興味が無かった。そこでこの動画があると、演出も確認可能となる。

キリル・ペトレンコ指揮「トリスタン」の関してはその予定が発表されていないが、比較対照になる上演の一つがこのベルリンの物には違いないだろう。なるほどバレンボイムの譜読みは可成り粗く ― と言うよりは音化に限界があるということだろう、音楽作りもふにゃふにゃで物足りなさも否めないのだが、その「トリスタン」の指揮に関しては経験も定評もある。

そろそろ4月12日のラディオ生中継のあるペトレンコ指揮ベルリナーフィルハーモニカーの演奏するプログラムをお勉強しなければいけない。今回の二回の中継とルツェルンでの五回目の本番で聞けるので少なくとも三回同一プログラムが聞ける。驚いたことにデュカの「ラぺリ」の楽譜が落とせた。更にプロコフィエフも問題なかったが、フランツ・シュミットの交響曲4番はピアノ譜しかなかった。

先週25日のガランチャが歌うバーデンバーデンでのコンサートが再びARTEで放送されて、ネットに上がっている。早速落とすと ― 75Min,1.35GB,1280x720,AAC155kb ―、驚いたことに「ドンファン」がオープニングで使われているだけでプログラムからカットされて、全く異なるカメラカットで編集された映像となっている。ラディオ録音中継が楽しみだ。映像があっても態々ラディオ放送を楽しみにしているというのは、ネットが使えないお年寄りとかに限られて、この映像を観た人の中に私以外にいるだろうか?生中継を観た人の中にはいるかもしれないが。

座付き管弦楽団のニューヨークデビュー公演の裏方さんの話しが載っていたので、それをリツイートで紹介した。その裏方さんは、インスツィペントと呼ばれる業務で、所謂劇場の舞台進行係りつまり幕引きさんだ。そのインタヴューを読んでいて、そのナディーン・ゴェッペルトはNHKホールの袖でも仕事をしたようだが、あの「ヴァルキューレ一幕」での歌手の出入りはてっきりドラマテューグか誰かが書いたものをその指示で動くものと思っていたのが誤りと分かった。勿論オペラ劇場の演出が関わるものはそうした配慮があるのだろうが、こうしたコンサート形式のオペラの場合は現場の判断で決定するらしい。だからミュンヘンで準備をする一方、現地のカーネギーホールで音出しの時間の合間に指揮者ペトレンコと考慮して決定したという。まあ、誰も演出はしていないのだから当然と言えば当然なのだが、会場と舞台などが映ったモニターを前にして、ピアノ譜を前にタイミングを計るらしい。つまり、歌手が舞台袖に来るためのキューも出すらしい。また舞台の反対側には助手が付くようだ。それどころかミュンヘンでは始まりのベルまでこの人が押すというからその裁定権が凄い。と言うことは、NHKホールでの歌手の出入りの足音の響きなども演出というよりも現場の判断でそのような結果になったということらしい。オペラの場合のカーテンコールの送り出しなどの判断はまた別の人がやるのかどうかは分からないが、そうした現場の人材とか人力とかをミュンヘンの劇場に通うようになって初めて知った。私立のバーデンバーデンの祝祭劇場ではそこまでの人材を揃えるのはとても困難だ。



参照:
バーデンバーデンの調印 2018-03-29 | 文化一般

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# by pfaelzerwein | 2018-04-02 18:02 | 文化一般 | Trackback

似た様な感覚の人々

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聖土曜日は、聖金曜日と復活祭の間の狭間となって、買い物客も少なくない。それでもスキーを車に積み込んで来週の休暇に出かける者や火曜日から休み明けの者やら様々だ。しかしどちらかと言うと天気が良かったので森の中を散歩したりする者も少なくなかった。

私は復活祭中の食事もあるので肉屋にも出向いたが、その足で赤ワインも物色した。2015年産が気になったからである。先日もブルゴーニュを購入したが印象としては20ユーロ以下のピノノワールではもしかするとドイツのシュペートブルグンダーの方が品質価格共に優位な年度ではないかと思ったからである。2015年産シュペートブルグンダーが十年に一度ぐらいのシュペートブルグンダーの当たり年であることは分かっているのだが、そこはブルゴーニュとの比較でしか客観的な判断は下せない。

それをフォルストに取りに行った。2015年産の有る無しを問うと正式発売はしていないが瓶詰めは済んでいるということだった。譲って貰うことになったが、生憎旦那も風邪で寝込んでいるのでてんてこ舞で探してきた。その一本はエティケット不良だった。それ以外は梯子段で取れないということで、こちらは試飲には全く関係ない。こちらからしたらまだ2014年産が出ているところで譲って貰うだけで満足だ。なんとアルコールが14%にもなっているので、あの暑い夏とは言ってもその辺りは醸造所によってその差が出て来るところではないかと思う。ボーヌ辺りでもこのアルコール度になると繊細からは遠いだろうと思う。まあ、試してみよう。

お陰でうっすら汗を掻いた薄着でいたものだから風邪を引き込んでしまった。一年ぶりぐらいだろうか。二三日前から就寝時に寒気があったのでおかしく、喉の具合も悪かったので祝祭劇場でうつったのかもしれない。就寝前に塩水で嗽したので少しは良くなった。今回のインフルエンザの特徴のようだ。

「三部作」の録音放送は、予想以上に音質もよかった。日本からの放送と同じマスターに違いないが、音域はあまり広くない感じであるが、なによりも生放送の時の音量レヴェルが修正されていて、落ち着いて三部作全部を聴き通せる。臨場感が少ない分安心して聴ける。三部分を別けて放送したので資料として使うにはとても助かる。

座付き管弦楽団ニューヨークデビューについてボストンのジャーナルが書いた批評を見て、更にその記事にコメントしているのを見て驚いた。そのアレックスと称する人は「ペトレンコ指揮の特徴を正しい言葉で書いていて驚いているが、彼は音楽的な天才である。」とそこまでは良いが、「まるで同じレヴェルかの様に三人の指揮者に加えるのは全く公平では無い、」と書き続け、ここまで読むと私自身が書いた覚えはないがと不思議な気持ちになって、「これはペトレンコの信じられない才能と音楽性を過小評価していると感じるからだ。」と綴る。そして「実際に会場に訪れていたナゼサガンがこの良い経験を生かして呉れればと願っている。」とまで書いてあるので吹き出してしまった ― まあ、ナゼサガンのリズム取りは、ラトルと同じで簡単に修正可能なものではないだろうが。同じような人間がどこにでもいるなと思うのと、この人はミュンヘンからニューヨークまで追いかけて行ったのだろうか、どの人かなとも思った。



参照:
蛇足を画策したのは誰 2018-02-21 | マスメディア批評
舞台神聖劇の恍惚 2018-03-25 | 音


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# by pfaelzerwein | 2018-04-01 19:54 | | Trackback

オペラ座の怪人は何処

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三国放送局3Satがバーデンバーデンの「パルシファル」を報じている。ゲネラルプローベの映像にインタヴューを挟んでいる。ディーター・ドルンの話しも興味深い。あの演出の肝心なところを語っていて、あの単純明白で作品に忠実なそして音楽に語らしている音楽劇場は現インテンダントが最後に妥協した到達点かも知れない。つまり現インテンダントは、音楽劇場には組しない、とても保守的な趣味の人物で、それが商業的に成功したとは思うのだが、キリル・ペトレンコ体制では否応なくスーパーオパーとなって、そもそもオペラとは離れたところに行くために、ある意味辞めて貰わなければいけない人だったのだ。今後とも新インテンダント体制で財政面で助言をするというから、彼の市場の見通しが大きな判断点になると思う。そのためにもペトレンコの指揮のあるところには全く異なる市場があるということを確かなものにしていかなければいけない。それがランラン以上のものになるかどうかは分からないが、少なくともバイロイトの市場を切り崩すことにはなると思う。

そこでラトル卿お話しが興味深い。先日のバイロイトとの関係についての質問をより時間を掛けて答えていて、更にそこから様々なことが想起される。「バイロイトとは距離を保つ」ということで、あそこには楽匠に纏わる魔物が住んでいるからということらしい。何度そこで仕事をしようと思って出かけても酷いことが起きるのだという。「笑われるかもしれないが、どうもそこには永遠に癒されない傷があると感じる」と語っている。勿論「パルシファル」とも掛けてあるのだが、このように表現するラトルのコミュニケーション力には改めて感服した。父親が英語の先生だったと言ってもこれは天性のものだろう。超一流コンサート指揮者にしておくのは惜しいぐらいだ。この話しを聞くと、バイロイトの伏魔殿の祝祭劇場の怪人とはと考えてしまう。

今晩はヴィーンから昨年制作のプッチーニ「三部作」の初日の録音中継がある。同時にザルツブルクの「トスカ」の録画も流されるらしいが、その宣伝の仕方を見ると誰も観る人がい居ないのかもしれない。昨年の「ヴァルキューレ」は話題になったので私自身もダウンロードしたが、今年はその価値は無いだろう。ヴィーンからのストリーミングは音質があまり冴えないので一月の日本からのそれほどではないかもしれないが、どうも録音が上手く行っていないところなどをもう一度試してみよう。

ミュンヘンの座付き管弦楽団デビュー公演のニューヨークでの評判はすこぶる良い。ニューヨークタイムズの批評記事は流石に上手に書いている。言うなれば、私の比較対照と同じようにその背後にはクライバー指揮の「ばらの騎士」やそれともメトのレヴァイン指揮などがあるのかもしれないが、明らかに客観的な価値評価をしていて、日本の私小説風のルポルタージュやドイツのローカルのそれなどとはやはり違っている。我々その出来を大凡知っている者にはどれぐらい上手く行ったのか行かなかったのかも含めて、音を聞かないでも会場の状況が良く分かる音楽ジャ-ナリズムとなっている。冒頭の楽譜の指示を守り楽譜を忠実に音化することでの効果についても触れていて、歌手の上出来以上に楽員と指揮者の信頼関係を感じたとまであり、中々専門的な書き手だと分かった。「この公演の勝因は、ペトレンコが優しくもクールさを持った控え目に磨かれた美しいパッセージで、一方において複雑なコメディーを描き切ったことだ」としている。私は昨年その演奏実践を評して「苦み」と表現したが、これを「グラフィックパッション」としていて、しかしながら眩暈感覚やユーモアそして肝心な繊細に欠かないと評している。

そして水曜日の公演についても触れているが、私もチャイコフスキーのマンフレッド交響曲をBGMにしている。明らかにブレゲンツ音楽祭にヴィーナーシムフォニカーと客演した時の演奏とは遥かに精緻で明確な演奏だ。詳しくは楽譜を落として、暇な時にでもじっくり聞いていたいが、クラリネットやら木管群が完全にユダヤ音楽を奏でるのは今まで気が付かなかった。手元にはアロノヴィッチのLPがあるのだが、どのように鳴っているのだろうか。更に驚いたのは、アンコールに「マクベス夫人」の二幕の間奏曲をハイテムポで振っていることだ。恐らくアンコールピースとしてそうしたというよりもこのテムポの方が正しいのだろう。ミュンヘンの上演の時はそこで踊るなどの見せ場を使ったので、舞台に合わせて三割近くテムポを落としていたのだろう。改めてその映像を観ると中々出来た舞台であったことを再確認する。



参照:
連邦共和国民の誇り 2018-03-30 | 文化一般
舞台神聖劇の恍惚 2018-03-25 | 音
苦みの余韻の芸術 2017-02-11 | 音


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# by pfaelzerwein | 2018-04-01 00:21 | マスメディア批評 | Trackback

索引 2018年3月

連邦共和国民の誇り 2018-03-30 | 文化一般
バーデンバーデンの調印 2018-03-29 | 文化一般
次はシェーンベルク 2018-03-28 | 文化一般
そろそろ詰めよう 2018-03-27 | 雑感
現状認識と今後の展開 2018-03-26 | マスメディア批評 TB0,COM2
舞台神聖劇の恍惚 2018-03-25 | 音
主役は一体誰なのか 2018-03-24 | 歴史・時事
知らなかったなどとは 2018-03-23 | 雑感
普段使わないアカウント 2018-03-22 | 生活
2019年復活祭の座席確保 2018-03-21 | 文化一般
「彼女のためなら…」 2018-03-20 | 雑感
音楽監督と至福の生物 2018-03-19 | 音
看護婦さん向き靴下 2018-03-18 | 生活
こてを使う腕を振るう 2018-03-17 | テクニック
先の準備を整える 2018-03-16 | 生活
パンツ脱ぎ棄てお気楽 2018-03-15 | テクニック
ANDROIDでMIDIを使う 2018-03-14 | テクニック
初物スカンポケーキ 2018-03-13 | 暦
We're going to Baden-Baden 2018-03-11 | 文化一般
勝負にならないもの 2018-03-10 | ワイン
裏蓋を開けて凝視する 2018-03-09 | テクニック
音楽劇場のあれこれ 2018-03-08 | 女
演奏会発券当日の様子 2018-03-07 | 雑感
残り少ない冬時間 2018-03-06 | 暦
白船をしっかり見極める 2018-03-05 | 文化一般
解きほぐす冷えたもの 2018-03-04 | 生活
神聖劇の理想的な舞台 2018-03-03 | 音
響く深い陰影を観る 2018-03-02 | 雑感
ワイン蔵の温度変化 2018-03-01 | ワイン

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# by pfaelzerwein | 2018-03-31 22:14 | INDEX | Trackback

連邦共和国民の誇り

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カーネギーホールからの放送を録音した。現在はオンデマンドで出ているようだが残念ながらMP3で125kbpsしか出ていないので話しにならない ― そもそも前もって使い物にならないと書いたのは先日ヴィーナーフィルハーモニカーのそれを聞いて知っていたからだ。しかしMP3の方がいい音質だと思う人も居れば、やはりライヴは違うという意見もあった。勿論オリジナルの生中継の程度でしか、ストリーミングとそのオンデマンドの優劣をはかれない。そのストリーミングの情報量にも差があり、そもそも生の収録が上手く行っているかどうかもあるからだ。クリーヴランドの管弦楽団の放送は生の方がバランスが悪く、オンデマンドのMP3の223kbps出ているので、なかなか優劣が付け難い。

実際に比較試聴してみるとMP3の方が聞きやすいというのは理解出来た。なぜならば先ず生放送では前半は可成り音量を下げていて、十分なダイナミックレンジを使えていなかったので、バランスが悪かった。そして会場のマイクロフォンも恐らくセンターで録っているようであまり高音が伸びない反面、低音が可成り分厚く響いた。夜中だから分らなかったがハイレゾ録音を再生すると確認できる。また二曲目の後の静まりでも可成り道路の騒音が鳴り響いていたので、低音成分が溜まりやすい音響なのだろう。つまりMP3の方はそうした音を完全にそり落としている。一番分かり易いのはソロを弾いているユリア・フィッシャーの高音弦の弓の当たりや管弦楽団の音色を聞き分けることで、直ぐに優劣がはっきりする。MP3の方の音色は全て艶消しされている。因みに装置の事故の傷は容易に切り取られている。

MP3の問題については何度も書いているが、奇しくも繰り返すことになった。その最大の問題は一聴それが綺麗に響くような錯覚を齎すことで、そこでそり落とされたものが音楽表現であるとしてもよいような状況が存在しているからである。なるほど今回の例でもストリーミングの響きは音量以外にも音域バランスも悪く、必ずしも快さとは相容れないとなると比較する必要が生ずる。またMP3を試聴すると気が付くのだが、ストリーミングではダイナミックスレンジが充分ではなかったので気が付かなかったが、ソロと管弦楽との音量の差が甚だしかったことに気が付く ― 要するにソロ楽器へのサポートが効いていないということだ。

さてその生録音を聞くと、一曲目のドッペルコンツェルトはハムブルクでも書かれていたように名演で、ソロの二人も息があっていて素晴らしいが、なによりもユリア・フィッシャーの音楽性とブラームスが良くあっていて、更に以前エルガーで共演した時よりも遥かにペトレンコ指揮も寄り添うようになっている。相変わらずペトレンコの方は厳しい弾かせ方を徹底していて、ソロでギドン・クレメルなどが遣っていたような管弦楽団演奏になっている。交響曲4番の演奏を聞いて分っているのだが、フルトヴェングラー指揮やベーム指揮の演奏実践があまりにゆるゆるに思える。今回のこうしたブラームス演奏をドイツ風と呼ばなければ、他にドイツ風の響きや音楽などあり得ないだろう。この時点で、キリル・ペトレンコ指揮ベルリナーフィルハーモニカーのブラームス演奏がどれほど厳しい響きになるかは明白だ。インタヴューでも誇りという言葉が聞かれたが、こうした演奏をする使節を合衆国に送り出す連邦共和国民は首相以下皆それを誇りに思う。

必要もないのになぜかザルツブルクでの演奏会批評が新聞に載っていた。演奏会評は珍しい。それによると良かったのはブラームス交響曲二番だけで、それは皆恐れていた指揮者と楽団のルーティンであるよりもより自由闊達に振る舞った演奏だったということだ。書き手の批評程度は日本人の手によるものかと思うぐらい主観的な報告になっている。要するに音楽がどのようにどうやって奏でられているかなどはあまり関係無く、ただ全身に音響を浴びているだけの書き手である。それでも他のマーラーやメンデルスゾーンやシューマンには大変ご不満のようで、それでもまだオロスコ・エストラーダ指揮ぐらいならまだティーレマンの方がマシだったということのようである。まあ、奏する方も奏する方だが書く方も書く方で、二流の演奏会には二流の聞き手しか馳せ参じないということだろうか。莫迦らしい、紙面の無駄だ。



参照:
バーデンバーデンの調印 2018-03-29 | 文化一般
現状認識と今後の展開 2018-03-26 | マスメディア批評


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# by pfaelzerwein | 2018-03-30 21:03 | 文化一般

バーデンバーデンの調印

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ニューヨークから広報の人が書いていた。カーネギーホールからの生放送時間がこちらで夜中になるからだ。まるで月着陸の時のような感じである。兎に角眠い。生を録音するにしてもタイマーをセットしておけば録音可能なのだが、知らない局でもあり、あまり確実ではない。オンデマンドは音質的に使い物にならない。但し映像の場合は生での受信状況があるので、現在UPされているSWR2のラディオ局の映像の様に大きなものがダウンロード出来るときは価値がある。これは例外でARTEの方では大きなものがDL出来ない。MP4であるからデジタルコンサートよりは良くはないのだが、映像はこれで充分だ。音声は月曜日20時からのSWR2でしっかり録音したい。その前には土曜日にオーストリア放送協会で、「三部作」の初日の録音が流される。「外套」の録音に傷があったので、「修道女アンジェリカ」の熱演も併せて、もう一度聞き直したい。

指揮のキリル・ペトレンコにとってはニューヨークは慣れたものだろうが、座付き管弦楽団としてはデビューになるので私たち常連も少しは緊張する。ある意味、ミュンヘンの座付き管弦楽団が出来ることも出来ないことも分かっているのだが、エルプフィルハーモニーなどでの評を読むと期待が高まる。放送のある初日はブラームスとチャイコフスキーであるから、特に後者はブレゲンツ音楽祭でのヴィーナーシムフォニカーとの放送録音も存在して、大凡は想像がつくのだが、そこはそれで楽しみなのだ。

バーデンバーデンでは、祝祭劇場とフィルハーモニカーの間で先五年間の契約が調印されたようだ。実際には2022年までのことを考えて既に計画を進めているのだろうが、大きな費用の必要な舞台などを発注するとなると契約書が無いと動けない。着々と準備が進んでいるようでとても喜ばしい。調印後の記念写真の表紙を見るとバーデンバーデンの祝祭劇場のロゴが真ん中に入っているので、復活祭祝祭期間中のフィルハーモニカーのバーデンバーデンでの活動を義務付けた契約なのだろう。その他は出演料と費用などの条件やプロジェクトの提案や決定過程を定めているのだろう。

朝知らせを見て、ミュンヘンの劇場のオンライン一般販売に入ってみた。現時点で入手可能な公演などを確認したかったからだ。先ずはウェイティングの番号は240台だった。何時もと同じくこの番号では順番が回るまでに20分以上掛かるので先ずはおいしいキャンセルものは入らない。それでもプッチーニ「三部作」は少し残っていた。これは二回あるので最初のに行ってもいいかなと思ったら一回目はあまり残りが無かった ― 流石に皆よく知っている。そもそも下のクラスの座席は並んだ時に半分で買えたのだ。その時はもう一度などとは全く考えてもいなかった。「パルシファル」は二度行ってもよいかと思うが、これはもしかするとラストミニッツで高額席が出て来るかも知れない。「リング」の方は四枚買うとなると、精々二回ぐらいしか行かないので厳しい。

バーデン・バーデンでの「パルシファル」初日について覚書を付け加えておく。祝祭劇場の音響が大きな話題となったのは、一部の批評が書くように「そのバイロイトの劇場のための書法」が演奏されたことにもあるが、嘗てケント・ナガノの演奏でそれを口にした者などいなかった。当日にメルケル首相も来ていたのだが、それ以上の話題になるようなものではなかった。サイモン・ラトルは今回色々工夫していたと思う。先ず私の上手のザイテンバルコンからは金管楽器は一つも確認できなかった。右端手前のチューバぐらいだろうか。可成りうまく隠していたと思う。それ以外では正面のオーボエのケリーやクラリネットのオッテンザマ―は当然のこと、デュフォーのフルートでさえ際立つのはそのように書かれている上昇音型の時ぐらいで、それ以外は常時見事にミックスされていた。当日のコンサートマスターは樫本氏でこれもとても重要な仕事をしたと思う。ベルリンで再び演奏されて中継されるのでもう少しこ音響に関してはもう一度吟味してみたい。

全体の印象として、ブーレース指揮のバイロイトの響きを聞いたのは平土間の24列目であったが、その時は可成りチェロや中声のヴィオラなどの原色的な響きと同時に低音などの籠もり感が記憶にある。それに比較すると当然ながら分離感のある響きなのだが、音質自体は遥かに暗くミキシングされた柔らかな響きだった。明らかな管弦楽団の技術の差が明らかになった演奏で、あの手の響きを醸し出すときのサイモン・ラトルが最も素晴らしいと再認識する。それだけダイナミックスの差があるものだから無理なく響きの恍惚へと、アマルガウへと無理なく弧を描いていたのである。

どちらでもよいのだがザルツブルク復活祭での「トスカ」への批評も読んだ。もはや誰も期待しておらず、あの高額の席も売れていないようで当然だろう。兎に角、折角のプッチーニの響きをテムポを落としてどやどやとやるものだから、来年の「マイスタージンガー」を待つしかないとされている。夏のヴァークナー祝祭が始まる前に誰も居ない劇場に一人はいるらしい。初代音楽監督というよりもこれじゃまるでファントムデアオーパーではないかと、思わず笑ってしまうのである。



参照:
舞台神聖劇の恍惚 2018-03-25 | 音
現状認識と今後の展開 2018-03-26 | マスメディア批評


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# by pfaelzerwein | 2018-03-29 21:16 | 文化一般 | Trackback

次はシェーンベルク

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今年のバーデン・バーデン訪問は一先ず終わった。復活祭祝祭も復活祭月曜日まで続き、その後も幾つかの祝祭週間がある。祝祭劇場の存続を支えたのは夏季のペテルスブルクの歌劇場とゲルギーエフのプロデュースだったが、その意味合いも変わってきている。それに代わって、ナゼサガンのオペラが入ったり、聖霊降臨祭や秋のフェスティヴァルなどに力を入れているようだ。昨年はヴィーナーフィルハーモニカーもゲヴァントハウスにも出かけたが、今年は幾ら安くても時間が無いので行く予定はない。そのままならば次の曲はペトレンコ指揮のシェーンベルクのヴァイオリン協奏曲である。座席からの写真も撮ってきたので、色々と準備出来ると思う。

ベートーヴェンの交響曲七番は、前々日の「ペトローシュカ」と同じくサイモン・ラトルの特徴が良くも悪くも出ていた。上手く行けば行くほど都合が悪いのだ。勿論その時点で満足する聴衆も少なくなく、実際にスタンディングオヴェーションまで隣と前後で起きたぐらいだ。隣の人も前半のザイテンバルコンの二列目から中央二階正面バルコンの五列目に移ってきた人で、シュトュツガルトから来ていた。あまりクラシックは詳しくないということだったが、アバド指揮のフィルハーモニカーが来ていたとか、大学でのソコロフのリサイタルを聞いたと語っていた。要するにそうした聴衆層には受けるのだろう。しかし、上手く演奏すればするほど感動とは遠くなる。楽聖の音楽からは益々遠くなるのだ。そこが肝心で、勿論私がルツェルンで期待するキリル・ペトレンコ指揮の演奏実践とは程遠い。その差異が分からない人は、シュトュツガルトのカラヤン二世のギリシャ人指揮の演奏にも同じように喝采するに違いない。E-Musikが芸術である限りは厳しい審査眼と上質の趣味が求められる。

サイモン・ラトル指揮の音楽は決して趣味も悪くないが、演奏実践としては必ずしも成功しているとは限らない。特にこうしたリズムの精査や実践が求められる時に完成度が増せば増すほど本質から離れるということで、前々任者のへルベルト・フォン・カラヤンの芸術と全く同じだ。だからなにもラトル指揮の問題は経験不足によるオペラ上演だけではなくて同じようにコンサートでもその限界を示すことになる。それは私自身が初めてこの組み合わせをフィルハーモニーで聞いたショスタコーヴィッチの交響曲八番でも全く同じだった。この欠点を初期に指摘していたのは柴田南雄だったと思う。当時は具体性に関してはよく理解出来なかったが、今はハッキリと分るようになった。敢えて抽象的に表現すると「如何に音楽を作るか」の本質に纏わる音楽性の問題で、これは柴田氏も指摘していたように「(生涯)変わる訳ではない」と、当時はファン心理として信じたくないことだった。

今でもバーミンガムでの指揮の方を評価する人も居て、なぜベルリンでそこまで評価されなかったかという問題と、実は本質的な問題であって、今回その結論を自分なりに下せたと思う。要するに指揮者と管弦楽団との相性ではなく、プログラミングの問題やらで同じ曲をロンドンの交響楽団で演奏しても結果は同じである。完成度が低いだけだろう。それだけにプログラムを選ぶ必要もあり、上のような演奏で喝采する人はロンドンでも同じよう喝采するだろう。

個人的には、そのことを見極められたことと、現時点でベルリンのフィルハーモニカーがどのようなサウンドを響かせるかを確認したことで大満足だった。まだまだフィルハーモニカーはやることがあるのも事実であり、ラトル体制ではいつも管楽器の名手たちが指揮者から祝福されるようにある意味自由度が高い反面、その指揮が歌い込みを許さない融通の利かないテムポを刻み続ける。その中で弦楽器も十分なイントネーションを付け乍ら合わせる力がついていないようだ。明らかに合衆国のトップとの差があり、個性のある古の楽団のような癖もない。だから音楽的に益々薄くなって行く。

そのような訳でサクラも入っていたようだが、バーンスタインの交響曲「不安の時代」は思いがけないほど湧いた。理由は、過不足無い表現がそこにあり、何も作曲家自身の指揮のそれを必ずしも皆が求めないからであり、このような曲であるならばどこの一流交響楽団を振っても同じような質で聞かせるだろう。アンコールに応えて、ジメルマンがマイクを握って作曲家のことを語りハッピーバースデーを弾いた。このピアニストも日本在住かと思ったら思いがけなく流ちょうなドイツ語をしゃべって驚いた。きっとドイツに住んでいた時期が長いのだろう。

日曜日の生放送のヴィデオが綺麗に落とせた。MP4で2.56G、1280x720で音声はAACで155しか出ていないので、映像は悪くはないが、音声はラディオでの録音放送を待たなければいけない。バーデンバーデンへの車中のラディオで、フィルハーモニカーの第二ヴァイオリンの人が毎年同じところに民宿している話しが紹介されていた。アマデウス・ホイトリングというカラヤン時代からのヴェテランである。宛がわれるホテルには全く不満が無いが、大家さんとの繋がりや、家族を呼び寄せての黒い森の散策などの静かさでの居心地を語っていた。劇場から五分ぐらいのところらしいが坂を上がったりで健康に良くて、ザルツブルクに比べるとそれほど商業的ではない風土にも言及していた。

今回の「パルシファル」でそのバイロイトの祝祭劇場と比較される祝祭劇場の音響が語られ、そして今回久しぶりに座った天井桟敷の音響を確認して、以前から思っているよりも遥かにこの祝祭劇場の音響は優れていると感じた。私の二階ザイテンバルコンのお決まりの席も決して悪くは無く、来年のために予約した一階のバルコン席も視覚音響共に可成り良い筈だ。空調の雑音は年々増えてきたが、会場の音響はなぜか良くなった感じがする。理由は分からない。

要するに、ドイツ最大のオペラ劇場であり、音響もコンサートよりもオペラに合わせて作られた近代的な大規模劇場であることを考えれば、ここがあと二年後から音楽劇場のメッカになっても決して不思議ではないと考えるようになった。同時にベルリンのフィルハーモニカーとの繋がりが、街ぐるみや地域ぐるみで更に進化していけば、その芸術的な出来上がりにも大きく影響してくると思う。もしかするといずれヴァークナー博士が何かをここで行うこともあるかもしれない。



参照:
そろそろ詰めよう 2018-03-27 | 雑感
現状認識と今後の展開 2018-03-26 | マスメディア批評
舞台神聖劇の恍惚 2018-03-25 | 音

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# by pfaelzerwein | 2018-03-28 23:09 | 文化一般 | Trackback

そろそろ詰めよう

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金正恩が北京を訪問したようだと聞いて驚いた。今や世界の両大国を天秤に掛ける大外交を行う大指導者になってしまった。恐らく正式に訪問が発表されることはないのだろう。つまり、北朝鮮は中共とは新たな同盟関係を結ぶ必然などない。つまり共同の声明を出すことはないだろう。なによりも合衆国大統領と対等に会見することが肝心で、中共の子分になる必要もない。何時でも北京をミサイルの標的にすることが出来るのも基本外交姿勢である。

先日のアルミと鉄鋼の合衆国の関税は、EUや韓国などの所謂同盟国は除外されたと新聞に書いてあった。日本は今更安い特殊な?鉄鋼を合衆国に売っているのだろうか?いずれにしても安倍内閣はその外交政策だけでも総辞職は免れないだろう。即政権を譲らない限り北朝鮮との対話に乗り遅れることは間違いない。出来の悪い小者は責任を取って直ぐ去るべきだ。

二日続けてのバーデンバーデン往復は疲れた。毎日通ったこともあるのだが、五時間の舞台神聖劇の疲れはやはり違う。そこに一時間の時差が加わるものだから、英国へと飛行機で通っているようなものだ。週末に走れなかったので、峠を攻めた。パンツが脱げたので良かった。なによりも座る時間が長く食事の時刻も変わっていて調子が悪かったのだが、走ってスッキリした。直したGPS時計も曇らず快調で嬉しい。

今年のバーデンバーデンは残すところもう一日で、バーンスタインの「不安の時代」と七番イ長調である。後者の演奏歴史をYOUTUBEで聞いて、まともに楽譜通りに演奏しているのはやはりフルトヴェングラーがベルリンのフィルハーモニカーを振ったものしか見つからなかった。トスカニーニ指揮NBCもおかしな歌い込みや追い込みが掛かっていて不自然極まりない。期待したクレムペラー指揮もLPを持っているのだが、正しい譜読みをしていない。手元の楽譜は音楽之友社版なのだが、これが間違っていて「フルトヴェングラー版」かと思うほどだ。勿論メトロノームの数字は無視しているが、テムポ設定とそのリズムの自然さに感服するしかない。

戦時中の録音を先日聞いていたが、1953年のティタニアパラストでの実況があって、一楽章などは一寸枯れ過ぎているかなと思ったのだが、三楽章などはどうしてどうして立派なもので、寧ろ全体の構成が取れていて、楽譜の読み込みという点では戦後の方が出来が良い。そして放送録音らしきが最近のデジタル技術で、それを更にオーヴァーサムプリングで再生すると、全く以って生中継されている位の感じで聞ける。昨今のマルティマイクロフォンの録音とこうしたモノ録音との差は実況放送では殆ど差がないために、つまり残響成分を楽しめる限り全く違和感なく再生可能となっているのだ。つまり、他の実況録音どころか制作録音でもフルトヴェングラーの実況録音と太刀打ち出来るものは見つからない ― なるほど新たに録音する必要なんて無い筈だ。一番失望したのは老境に入って評判の良いハイティンクの指揮で、何処をどのように読んであのような演奏が出来るのか皆目わからなかった。一度生で聞いてみたいと思っていたが、あのような古典を聞かされるようでは無駄でしかない。要するに他の演奏は楽譜を読み込めていないかそれとも演奏が稚拙で話しにならないのである。ラトル指揮の録画は小さなセクエンツがあったが、基本的にはそれほど悪くはない。但しそれが実際にどのように鳴るかは聞いてみて批評しよう。

日曜日の演奏会については改めて録音録画などを見聞きしてから纏めたいが、再びシマンスキー氏のガイダンスでとても良いことを聞いた。彼はポーランド人であるが、やはりロシア文化も我々よりは分かっていて、その音楽構造を良く知っている。つまり「ペトローシュカ」のロシア民謡についての言及である。

先ず一つは、小さなフレーズの永遠の繰り返し可能なのがロシア民謡であり、そしてもう一つは拍子が同じ強さでとられることなどである。後者はここでも鐘の鳴るようとして何回も扱っていることであるが、ロシア人が手拍子を打つと同じ強さで拍がとられると具体的な言及はとても参考になった。勿論キリル・ペトレンコが弱拍でしっかりと音楽を刻めるのはまさにこれなのだが、彼の場合にはそれがおかしなアクセントとならないのはやはり完全に意識されているからなのだろう。ロシア人のドイツ語としてもかなり癖のない方である、またユダヤ人のドイツ語の要素もそれほどない ― もしかするとお母さんはその姓からしてもそのようなドイツ語が出来るのかもしれない。前者の繰り返しを認識することでストラヴィンスキーのバレー音楽が必ずしも単に繰り返されていないと理解出来る。



参照:
舞台神聖劇の恍惚 2018-03-25 | 音


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# by pfaelzerwein | 2018-03-27 18:28 | 雑感 | Trackback