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新たな社会規範とは処罰の規範

兄ゲオルク・ラッツィンガーが再び話題となっている。既に触れていて再び取りあげるつもりはなかったのだが、カトリック教会における児童虐待の話題である。

今更敢えて付け加えることもないが、氏がレーゲンスブルク教会の楽師長を勤めていた時の虐待への謝罪が話題となっており、数年前にそこのドームシュパッツェの修道施設で氏が理事長を務めていた協会の人のお話を聞いたりしたことを思いだした。

事件が起こったとされる、この世界的に有名な少年合唱団においては、少なくともラッチンガー氏が在任中はペドフィリアに相当する性的な虐待はなかったようだが、厳しい体罰は公然のことであったようだ。

もちろん、アデナウワー時代には一般社会で児童への体罰は認知されていて、教育現場においても取捨選択されていた事は周知の事実である。この件に関しては、その当時の教育を受けた者の見識もここで何度か紹介している。

つまり、1968年を境に大きく社会は変って行ったことにも留意すべきである。現代においては、ペドフィリアと呼ばれる特に市場価値を持つような行為は児童虐待として厳しく制裁を受けるようになっている。同じように動物に対する虐待も厳しく処罰されるのは当然なのである。

そうした時代変化とはどういうことなのかは別にして、北ドイツ出身の児童がレーゲンスブルクの寄宿学校でバイエルン方言を喋られないばかりにお仕置きされる状況こそが躾とか社会規範とか伝統とか呼ばれるものの実体であることにも留意すべきである。

昔が良かったと思う者は必ずこうした訳の判らないものへの郷愁を持っているだけに過ぎないのである。しかしだからといって、そうした社会規範を捨てて新たになにかを創造しろと言ってもその伝統と思しきもの以上に立派な規範がある訳ではないのである。



参照:
権威とはなんでもありの権力か 2010-02-25 | 女
疑似体験のセーラー服 2005-06-12 | 歴史・時事
純潔に熱く燃えるピュイス 2009-02-08 | マスメディア批評
by pfaelzerwein | 2010-03-12 05:05 | 歴史・時事 | Trackback
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