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復古調の嘆き節の野暮ったさ

注文したCDが両方とも在庫になっている。遅くとも水曜日までには手元に届くだろう。

その前に聖週間に纏わる既に購入したまだゆっくり聞いていない録音を 鳴らしている。一つは、数年前に記念年を終えたバッハの手本であったブクステーデ作の受難曲「我らがイエスの御体」BuxWV75で七部構成のカンタータ集である。一つは、スペインのヴィクトリア作曲「聖週間の聖務日課」から四声のレスポンソリウム「あまねく暗くなりて」六曲である。

ブクステーデの方にはその先輩に当たるハインリッヒ・シュッツ作曲「イエス、処女マリアの息子」がコンパレーションされているが、双方ともクレヴォーの聖ベルナールの詞を用いている事から分かるように、新教の楽曲の中に旧教のミスティックな雰囲気を活かした ― ルター派の中にテンペル騎士団をみる ― 復古的な作品群である。

それとは全く異なってハプスブルク家の砦スペインから現れた作曲家が宗教改革の波の中でイタリアに学び保守的であろうとするばかりに余計に意識的な作風となっているのが四声のその曲で、洗足木曜日の夜曲、なんと聖金曜日のそれから聖土曜日のそれへと続いている。つまり1585年作曲とあるが、1962年の公会議までは六本の蝋燭を祭壇に立て、更に十五本の蝋燭が一本づつ消されていく題名の通り前日の夕暮れの行事として催されたからである。

ヴェクトルの向きが異なる一世紀ほどのエポックの相違がある全く異なる楽曲であるかと思い気や、意外に歩み寄った形になっていて面白い。要するに、相方とも聖週間の文化的な枠組みの中で創作されているに違いなく、一種の嘆き節が共通している。それは意識しているものが似通っているからに違いない。

CDが到着するのを待って、再びバッハの受難曲を見て行くのだが、その芸術がこうした新教の流れからも飛躍して、それがある意味旧教的な普遍性へと達する意味合いがここに明確なように思われる。

先日から少し話題となっていたミュンヘンの交響楽団のティーレマンの後任にロリン・マゼールが就任すると報道されている。題して最も高価な指揮者と呼ばれている。一晩あたりのギャラが昔から高かったのは想像出来るが、病身のクラウディオ・アバドよりも遥かに高いのだろう。それでも先日のヴィーナーフィルハーモニカーを指揮した「春の祭典」とブルックナーの三番の交響曲のプログラムの芸術的評価は思わしくなかった。特に前者の作られた野蛮では、現在においてあまり効果をもたないということだろう。後者もヴァーグナー的な響きとなるとあまり受け入れられる素地は無いかも知れない。そうした事をミュンヘンの野暮ったい交響楽団でやっても前前任者のジェームス・レヴァイン以上に成功するとは限らないだろう。



参照:
実感出来る資本主義の味 2008-07-14 | 文学・思想
自転車操業中の聖週間のお慰み 2010-03-29 | 料理
先月に続いて送料無料の販促 2010-02-13 | 生活
by pfaelzerwein | 2010-03-30 05:03 | 文化一般 | Trackback
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