人気ブログランキング | 話題のタグを見る

尺八に通じるとてもながい道程

尺八に通じるとてもながい道程_d0127795_04911.jpg
尺八の横山勝也が亡くなったと聞いた。今日のマチネーの音楽会でのことだ。お弟子さんでもああるオーストラリアのフランクリン博士と神戸出身の藤田さんが競演した。

明日葬儀が開かれるということで演奏された追悼曲「山野」よりもやはり横山勝也作曲「手向け」と呼ばれる曲の演奏の方がやり易かった様だ。やはり前者はかなりの芸の高さがないと聞かせられないようであり ― それにああいう文字通り脈々と尾根筋が重なる山脈など東北ならあるのだろうか? ―、後者の方が指示がしっかり吹ければなんとかなるようであった。

その間に演奏された平井康三郎の「さくら」変奏曲は、なんであんな不味い運びになるのか全く理解出来なかった。とても中途半端でとんでもないものであった。あれならばドビュシーが使う桜の音階の方が遥かに日本的である。名前を漢字で調べて見るとなるほど少なくとも名前だけは良く知っている著名な作曲家で、案の定紫綬褒章まで獲得している。あのような形であのメロディーを使っても仕方ないと思うのだが、それが通った時代があったかと言えば、さりとて氏が作曲した童謡もあまり知られていないようだ。校歌を数多く作曲しているというから、なるほどと思わせる。

さて横山さんの演奏は、何度か生で聞いている筈だがが、何処で何を聞いたかは全く覚えていない。少なくとも直ぐには思い出せ無い。武満徹の曲としてもノーヴェンバーステップのような曲ではない筈である。武満徹も映画音楽をやっていた頃は尺八の鋭い音を活かせていたのだろうが、あの独特の擦れたような音を十分に芸術音楽化している曲をあまり知らない。

そのせいか、尺八の音が二十世紀末の方になるに従ってあまり使われなくなったような気がしているのだがどうだろう。今これを書きながら入野一朗の尺八と琴のためのエア-チェックを流している。やはり尺八をフルートのように音階を吹かせたりしても音の出方が荒っぽすぎてどうしようもない。

また、石井真木作曲の琴と尺八の「ひゃくちゃくま」とか言う曲を聞いているが、これはなるほど全く違う使い方をして、伝統的な奏法も活かされているようだが、それが新たな音楽的な語法を生じさせているとは思わない。

ヨーロッパにも尺八名人と呼ばれる人は何人もいる。しかし、その演奏などがどれほど受けいられているかはなんとも言えない。本当の名人であれば古典的な伝統曲でも、またあらたな擦れた音響をとしても高い芸術性を示す筈であるが、やはりこれも一種の「尺八に通じる長い道程」でしかないのであろう。



参照:
世界のさくらが一斉に散るとき 2010-02-08 | 音
ワインところで日本週間開催式 2010-04-12 | 生活
洗練された一連の動きの環境 2010-04-19 | 女
by pfaelzerwein | 2010-04-26 00:04 | Trackback
<< 多文化主義受容への視座の確立 ドイツはやっぱりアラカルト >>