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異文化の非日常をかける少女

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茶会の総括をしたいが、仕掛け人としては批評記事が出揃う前には纏める訳には行かぬ。そこで外回りをもう一度回想すると、茶会の追っかけ少女達の存在は欠かせないだろう。ミドルティーンの普通の女の子達で友達同士で百キロ以上離れたところまでやって来ていた。ポップス歌手やスポーツ選手の追っかけと全く変らない。出待ち入り待ちだけでなく中にまで入ってしまう熱心さには驚いた。

もちろん通常のそれでないから黄色い声をあげたりはしないのだが、茶人かたにも遠慮がちにご挨拶しなければ気が済まないようなのである。追っかけは、それ以上の年齢層にもいないことはないが ― 少なくともオートグラムを貰いに行くのは年寄りでも同じである  ―、一種の思春期症候群の一つでもあるのだろう。そしてその心理を素人なりに考えてみると、それは親や家庭環境から逸脱した新しい世界への興味でもあり自らの家庭環境の世界と異なれば異なるほど彼ら彼女らを魅了する対象であるに違いない。要するに未知であるのは自らにとってだけではなく自らを育んだ環境にとって未知であると言うことだろう。

まさにそこに仕掛け人としての狙いがあるわけであるが、大人に取っては最終的には知的関心を満たして呉れればそれで良いのである。というか大人にとっては知的な理解が介在せずには、全く異なったものに遭遇して全身全霊で理解することなのは出来ないのである。同じように日本人が芸術的な西洋音楽を理解するときも、そういう差異はあるのではないか?それが五感を働かしての体験でなければならないのは、またやはり十代のしなやかで感受性豊かな受動態でなければならないのは、例えばグスタフ・マーラーの長大な交響曲などは理解するには一神教のそれもヘブライズムのそれを受け入れるには、あまりにも知的なアプローチではなかなかその全体像の把握に至らないのと同じような現象である。反対にそうした知的な文化や歴史などへの理解の援助がなければ、ある一度ばかりの珍しい経験となるだけであって、それ以上には異文化体験や芸術的な本質への理解に至らないのも同じである。

話題は変るが、所謂ホームシックの病体についての新刊本の紹介が新聞に載っている。ホームシックが最初に問題となり死の病として名文化されたのは1688年のヨハン・ホーファーの書物とされる。田舎を離れた女中が自らの子供をを殺めたり放火をしたりとするその病に至る現象を指す。それはもともと傭兵に出たスイス人の病気だったようで、それが二世紀ほど経ってノスタルジーと結びついて文学や音楽、造形芸術として好まれる題材となったのは承知のことであり、その病人の代表としてスピーリスのハイジが挙げられている。

ホームシックの土台にあるその帰るべき所は何処にあるかというと、上述したその環境にあるのではないだろうか?つまり、まだ環境としてしか与えられていない世界観を自らのそれとする過程において、他の環境への全身全霊での遭遇や対応が可能となるのであって、男性は女性に比較して、青年は少女に比較してそうした未知のものを受け入れられる可能性が絶望的に小さくなってしまうのは断わるまでも無いことであろう。

特に上の少女達のように漫画によって異文化への興味を膨らますという行為自体が、かなりその読者の日常生活における一種の狭間のようなある種の深遠の淵が底知れず開いているような非日常のブラックゾーンとの交感であるに違いない。それは対象とするものの本質とは全く関係無い次元での体験であるかも知れないが、芸術への理解力とか想像力は所詮そうしたものであることも認識しておく必要があるだろう。
by pfaelzerwein | 2010-05-07 00:30 | | Trackback
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