人気ブログランキング | 話題のタグを見る

同じ穴の狢が議論をすると

死刑場が公開されたようだ。その報道陣への公開は今週の火曜日にFAZで報じられていた。保坂代議士の記者会見模様を中心にその記事は構成されていて、その下にある中共での死刑制度改正案と同時に扱っている。

先進工業国のただ二つの死刑制度をもつ民主的な国としてアメリカ合衆国と日本が挙げられている。その基本的な報道姿勢は、反死刑制度であることは明らかであり、議論を呼び起こそうとした千葉前法相の執行命令までを非難している。更に今回の公開によって死刑制度への議論が高まり、死刑廃止へと動くことに関しては懐疑的な意見を書いている。

しかし、その社会的背景や問題点にまでは全く踏み込まれていない。この女性記者の記事は大抵このようなものなので、それ以上期待するのが間違いだろう。日本を訪れる海外からの要人が日本の死刑制度を人道的な立場から批判しようとしてもなかなか出来ない事情ゆえか、あまりにも容易にこうした批判記事に纏めるのは感心しない。

その社会背景として、日本人の教養と教育問題があるが、それは元鳩山法相が傍証しているようであり、特に複雑な問題ではない。要するに死刑囚となる犯罪人も死刑執行を求める被害者側も同じ社会背景を持った同じような考え方の同じ穴の狢であるということである。その記事が伝えるように状況次第によっては死刑執行の停止から終身刑へと「減刑」する制度や臨機応変な対応が出来るように改良していく必要はあるだろう。

八割近い死刑制度存続を求める世論がある限りは段階的に死刑判決を削減していくしかないのだろうが、オバマ大統領の意見のように何らかの形で極刑の可能性をおいておく必要はあるだろう。それでも抑止力どころか自殺志望の凶悪犯を推奨するような強迫観念に訴えかける死刑の執行は直ぐにでも裁判の過程で死刑判決を避けるべきである。同時に疑わしきは罰せずの基本と、死刑判決の場合は素早い執行が組み合わされるのが良心的である。

一方中共は、国際的な人道的批判を牽制するためか、死刑判決への条件を厳しくして、経済犯罪犯罪などには適用しないとか、七十歳以上には適用しないとか、まるで共産党の高級役人の破廉恥犯に死刑判決が下りないような条件付けを試みている。死刑制度を含む厳罰が如何に国の権力の行使に他ならないことをそこに余りあるほど示している。



参照:
Nach zehn Minuten Hängen wird der Todfestgestellt, Petra Klonko, FAZ vom 24.08.10
by pfaelzerwein | 2010-08-27 21:24 | 文化一般 | Trackback
<< 棒にあたり牡丹餅が落ちてくる Das Beste oder ... >>