「北枕もしくは四十九日」を聞く

フランカ・ポテンテの朗読CDを今日受け取った。早速、十のショートストーリーズのお題目に目を通した。先ずは目に付いたのが先日ベットの周りを片付けながら頭に浮かんだ言葉「北枕」である。なぜそうした言葉が浮かぶようになったかと言うとまさに彼女の書籍の一節「千の米一粒一粒に宿る」のところに新鮮な驚きを覚えてからである。

「北枕」も風水と考えると中国のそれはまさに北枕を奨めているのであり、インドのそれではなるほどあまり良くないのだろう。いづれにしても迷信と言うかジンクスと言うか一種の巷の信仰であったり諺であったり、知らないうちに文化化しているもので、同一文化圏に住んでいる者ならば分からない人は居ない。

さて、上の物語は銀行の頭取を祖父に持つような「立派な家庭」の娘が交換留学でロスに一年間過すことになる話で、その間のちょっと上等なホームスティーの雰囲気やボーイフレンドなどとの日本の厳しい家庭の社会から解放されたティーンエイジャーの生活観や、太平洋の距離感をジャンボ飛行機の高層の旅で簡潔に過不足なく、そしてあまりにも肌理細やかな叙情で示している。こうした簡素な朗読(記述)を聞くだけで、おかしな音楽が耳元で鳴るような「ノルウェーの森」などよりも遥かに繊細で上質な世界であると誰もが納得する筈である。決して少なくない者が、こうした上質な質感の文化を共有出来ると疑って止まない。

味をしめて三枚目のCD最終トラックから一枚目のCDの冒頭「神風」へと移る。するとシュライバーと称する水産学者と東京の下町の扇子屋の四十六歳の未婚の娘店主との触れ合いがこれまた決め細やかなタッチで描かれていて、まさに扇子に一筆書きで細やかに描かれる日本画のようである。ミュンヘンからの外人学者の見せる機微に富んだ態度は、そのものこの作者が日本で見た機微であり、こうした描きようからこれまたとても「高品質な文化のありよう」を表しているかのようであり、昨今では珍しい高貴な文化を描いた高貴な文学である。

しかし、決してそれが経済的に裕福であったり、特別な社会に宿っているのではないと言うことで、それを例えば下町のお店屋さんの庶民的な営みや環境の中に観察すると言うことは、同時に一種の人情落語に通じるような小話として描かれていることでも分かるだろう。要するに文化と呼ばれる本質的なものがそこに抽出されていると言っても過言ではない。

例えば、「北枕もしくは四十九日」における乱気流を乗り越えて成田に到着して、祖父の告別式の喪服で迎えに来る母親に会う前にトイレに駆け込み、目前の鏡にまさに数ヶ月前に日本を旅立ったときの服装で「日本の少女」が写っているのを発見してはっとする情景などはとても素晴らしく、やはりハリウッド映画であるよりはフランスの青春映画の一コマを観ているようで、読者までをはっとさせる ― まるで「トルコ女性」がイスタンブールの飛行場のトイレでドイツに飛ぶ前に頭巾を被るような光景だ。

もちろんのこと、日本が舞台となっている限りは、人情話のような湿気った趣とナイーヴでメランコリックな侘び寂の世界がそこにないわけではないが、これだけ突き放して殆どエッセイに近いようなザッハリッヒでありながら肌理細かな表現の日本文学を私は知らない。そしてこのCDの作者の決して娘ではないドイツ女性らしい太い声ではあっても硬質の磨き抜かれたそれが殆ど清涼感を与えてくれるほどの快さはなんとも魅力的である。



参照:
Franka Potente „Zehn“ – Kitamakura oder 49 Tage, Götterwinde, 3CDs (Osterwold)
ラーメン屋の掘り炬燵での風情 2010-08-17 | 文化一般
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by pfaelzerwein | 2010-09-12 00:43 | 文学・思想 | Trackback
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