パイプを燻らすパイオニアー

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アルピニズムの歴史に係わる文献に目を通している。はじめて目にしたのが、日本のアルピニズムのパイオニアー槙有恒のガイドを勤め密接に係わったグリンデルヴァルの山案内人でありベルンの議員を勤めたザムエル・ブラヴァントの「槙有恒の想い出」と題した追悼文である。

槙氏の1989年の訃報を受けて直ぐに認められた文章であり、恐らくそれ自体が日本のアルピニズムにおける重要な資料であるに違いない。1919年秋の最初の出会いから綴られていて、高級ホテル「アトラー」の用命を受けて日本人のドイツ語の先生を承る所から始まっている。あの高地にある山村において山の案内を出来る手ごろな若者は多く居たに違いないが、英語を話す外国人にドイツ語を教えられる手ごろな若者は多くはなかっただろう。

それは氏の経歴を読むと、四歳でヴェッターホルンの頂上で落雷に打たれて死亡した山案内人の子供として育ち、小学校の教師としての職業から政治家を経て、国鉄の総裁までを務めていることでも分かる。このブラヴァント姓は同地では頻繁にある名前と見えて、嘗て氏が生存中に滞在した私の定宿の家庭も同じ名前であった。

さてそうした山村の事情は別にして、槙氏がそこで明峰アイガーでの初登攀を成功裡に導くまでに僅か二年しかたっておらず、その土地の事情を知り知己を得ることで成果を挙げているのは、初期の英国人を代表とするような初登攀の状況とよく似通っている。特に興味を引いたのは同じルートは既に下降路としては使われていたようだが、初登攀はならずにいて、結局槙氏らによって九月に初登攀されるのであるが、その夏にはドイツのプファン、ホロショヴスキーの試みが挫折していることである ― その事情は本文にその夏の遅い雪などの悪い気象条件として十二分に記載されている。

前者はハンス・プファンで、後者はアルフレート・ホロショヴスキーのことのようで、ヴィーンに生まれた第一級の登山家で北壁の単独行などマッターホルンの北壁の初登攀八年前にヘルンリの肩までを試登している。アイガーの東山稜の手強さのようなものがそこに表れている。余談ながら、この登山家はリュックサックやアイスピッケルやアイゼンケースなどの制作者としても活躍したとある。また、山岳画家グスタフ・ヤーン同行者としても紹介されている。

同じように槙氏が、紹介した同地の名匠のことが本文に触れてあって、嘗て日本で登山を行った者であれば知らない者はいないリュックサックの代名詞アウグスト・キスリング、ピッケルのアルフレート・ベーント、クリスチャン・シェンクなどは全て1920年の訪問時に注文して槙がブラヴァントに送らしたものなのである。

当然の事ながら、物質的な繋がりだけでなくて、松方三郎を代表とする田口兄弟、浦松ら、また忘れてはならない裕仁の弟秩父宮殿下が槙の伝を使って続々とアルプス入りする。

槙氏の人柄について、ブラヴァント氏自らの45のサイズの靴を必要とするキリンと呼ばれる長身に対して、今の日本人よりも遥かに小さい羊と自称する36のサイズの靴を履いていたというから大分小柄である。現在の日本人女性よりも小さな靴である。また、禁煙していたブラヴァント氏に自分のパイプのタバコを用意させるついでに再び始めさせるのは現在では殆ど考えられない光景である。そのブラヴァント氏はグリンデルヴァルトで2001年に百三歳で亡くなっている。


写真:現在の底張替えをしたクレッターシュー。戦後になって表れたピレリー社ゴムのヴィブラムXSV底のものからボーレルのFS-Quattroに替えた。



参照:
情報巡廻で歴史化不覚 2008-10-27 | アウトドーア・環境
環境、ただそこにエゴがあるだけ 2010-01-23 | マスメディア批評
腰にぶら下げる山靴の重さ 2009-07-19 | アウトドーア・環境
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by pfaelzerwein | 2010-10-05 01:06 | アウトドーア・環境 | Trackback
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