スポック副船長が楽を奏でると

金曜日の音楽界のことを未だに書いていない。特に難しいことを書こうとは思わないのだが、色々と忙しく、少し余韻にも浸っていたかったのである。しかし何時までおいて措いても、熟成の山も表れそうに無いので、少しだけ触れておく。

お目当ては引退したピアニストアルフレード・ブレンデルが音楽的なパトロンとなっているアジア系の少年ピアニストであり、ブレンデルは彼に惚れ込んでいるのを最近の新聞のインタヴューで読んでいたからである。ブレンデルの紹介でフランクフルトの我々の会でのデビューとなった。

正直な所、大変憎たらしい若者であった。師匠の好みと言うよりも惚れ込んでしまうのも理解できた。ヴァルター・レヴィンと若い音楽家との関係は直接に立ち会ったこともあるが、それとこのピアニストは後進の指導と言うことで自らの現在の活動を比較している。要するの正しい道を歩むように影から支えてやると言うようなパトロン根性なのである。

なるほどこのキット・アームストロングの指は遥かに師匠のそれを超えているだけでなく、まさに物理的に理に適っているのである。バッハのニ長調BWV1055とト短調1058で示したそれは、そのカフェーの楽団のために付け刃で納入したイタリアのコンチェルトの先駆者たちを参考にしたトッティとソロの掛け合いだけでなく、まるで通奏低音を補強するような左手の響かせ方には非凡以上の音楽性を示した。そのビロードのような肌理細やかなタッチで楽器を鳴らす中華人ぐらいは幾らでもいるが、それらと一線を隔していたのはまさにこの和声感覚であり、それに見合ったリズムと、レトリックである。殆ど、生では聴いたことのないグレン・グールドを髣髴させた。残念ながらドイツのマルティン・シュタットフェルトではこうはいかない。

更に唸らせたのがこの十代の彼に当会より委託作曲された曲の初演である。「クラリネットと管弦楽のトッカータ曲」の依頼を木管楽器のディアローグから始めて、その構造を多声でも和声でもなく全くシェーンベルクやノーノをあってこその曲想としているのには、アイブスの独自性やヴァレーズの発想のようなコロンブスの卵的な仕事振りである。器楽演奏家や高名な指揮者が遣るお座敷芸とは全く異なり、上のバッハの解釈を作曲面で演奏行為以上に語るものであり、演奏以上に芸術的な意味合いを提議していた。この日本にもシャイーとゲヴァントハウス管弦楽団で既に公演していると言うが、この若者が今後も主に商業的な興行で活きていくとは考えられない。なるほど、これならば完全に現在の非西洋から西洋音楽への視線を向けた現代の作曲となっている、そういう創作行為なのである。まさにそこにあるのは、殆ど楽器や機会の枠を超えた音楽表現のあり方であり、スタートレックのスポック副船長などが演奏する音楽そのものであろう。

正直、こうした足がかりや視線に気がつくと、我々が如何に西洋の凝り固まった世界観の中にいるのかを突きつけられているようだ。まさにそこにあるのは、一部の新世界人が試みたのとはまた異なる、物理現象を司る一種の宇宙の摂理のようなものである。それがとても、若々しい瑞々しさに溢れているのである。
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by pfaelzerwein | 2010-11-09 04:37 | | Trackback
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