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市民を無視する政治社会背景

菅下ろしが原発推進勢力によってなされていると言われているが、本当だろうか?実際はもう少し複雑に違いない。菅首相は、決して脱原発ではなく、親原発であることを表明している。

問題は東電解体であろう。それをなんとしても阻止しようとする勢力は、東電の後押しでかなり大きな勢力となっているに違いない。その一部は連合の支援を受けた民主党勢力であることも確かである。また同時に東電を救済することが、他の地域寡占型の電力事業と日立・東芝・三菱の原子力事業を守ることとなるならば、通常の国民の声ではとうてい歯が立たない。まさにここに二大政党制どころか大連立と呼ばれる市民の声を無視する政治的な背景があるのだ。

だから議会制民主主義を堅持して遵法的な政治活動とするための柱が必要である。その一方、日本の有権者が今切実に感じているような政治・環境不信・健康不安を払拭して同時にアナーキーな無党派層をも取り込むのが緑の運動の基本理念の基底にある。

緑の党がドイツ連邦共和国の国民政党となり、経済の牽引車であるバーデン・ヴュルテムベルクを統治するにに至るのは長い道程と紆余曲折があったが、連邦政府に参与して脱原発の決定を下したころから同時に脱イデオロギー化が進行して広範な支持層を獲得するに至ったのだった。

ドイツ緑の党のHPにはその歴史の一頁として、三十年前を振り返り、次のように述べられている。

原子力発電、軍拡、森の死滅、差別そして監視 ― その他を問題を含むこれらは、七十年代の後半では既成政党からは無視され続けた。そこでこのニッシュを埋めるべく緑の党が政界進出する。自然環境団体、平和・反核運動、第三世界、婦人運動から集結する。これは1980年に正式な党の要綱となる。

先日の「福島の子供を守る会」の活動やその雰囲気などは、既成の政治活動や行政機構には任せて置けないとの危機感から生じたほとんど自然発生的な運動と見受けられて、体制を維持する側のそうした行政機関と市民の立場や運動が如何に異なるかを明白に示していたに違いない。

行政側が、原発事故や被害を過小に見せかけようとするのはある意味当然であって、たとえ菅首相がもともと市民運動家であったとしても、「優秀な首相」である限りはそこには何一つ期待できるものではないことを有権者は認識した筈である。政治家前原などはそれとは比較にならないほど、トップダウンの采配の出来るエリート教育を受けており、市民運動認識のボトムアップの声とは甚だかけ離れるだろう。

戦後社会党が密かに合衆国の支援を受けてガス抜きとして活躍したといわれるフランス共和国や五十年体制で猿芝居を続けた日本の政界とは、東西に分断されていた西ドイツを比較するのは難しい。しかし、アナーキーなグループの運動においても、たとえばここでもコメントなどで嘗て交流のあったアタック日本とドイツのそれのHPとを見比べて驚かない者はいないであろう。

attac日本の代表Yoko AkimotoはドイツのHPでその第一報を伝えているのだが、日本のそれを見ると福島などまるで無かったかのようで薄気味悪い。おそらく内部での路線問題も関わっていると思われるが、政府や東電に対して今アタックをかけられないアナーキーな組織など存在意味すらない ― そもそも新自由主義などは既に過去の遺物であり、むしろ東電を解体して自由市場を拡大することがこうしたアナーキーな運動の方向である筈なのだ。やはり彼らは共産主義政党とのセクト化を演じさせようとする合衆国の回し者かもしれない。さらに温暖化問題がそこに見出しとして見つかるとなると、反グローバリズムと反新自由主義を掲げながら実はどのような機能を日本で果たしているかに疑惑が湧く。

東電前や高円寺やその他で何度かの反原発デモンストレーションが伝えられているが、それらからも自然発生的な雰囲気と同時に、連帯と後方支援などが貧弱であるためかその規模が拡大しないのが確認されている。

より若い世代のドイツ市民と話していて気がついたのは、ああしたアタックやグリーンピースなどの実力行使の活動家がプルトニウム満載の再生核燃料の移動を妨害している行動のその趣旨を十分に理解していなかったことである。威力妨害などの触法行為のその是非はともかく、その行為にはそれなりの意味があることに気がついていなかったのだ。

緑の運動それ自体は非常にシムプルものであるけれども、その運動の明確化や科学的な根拠などの明白化は非常に専門的な作業が必要とされる。緑の党の創立メンバーやブレーンに、68年闘争の左派グループの残党でもあったのだろうが、哲学者が科学者が名を連ねていたのはそのような理由で当然であったろう。その中で左派イデオロギーグループの多くは、コソヴォ参戦の党決定で離脱したのは当然であった。

先日も触れたがジャーナリズムにおける質の問題もこうした政治構造と極似しているからこそ、既成ジャーナリズムは同じように既得権を護る第四の権力などととんでもないことを言い出すのである。たとえば反原発については小出助教のような学徒や院生のような立場の者に、編集者が書く場所を与えない限り、到底「権力を監視する朝日新聞」などと嘯くことは出来ない筈である。能力の無い記者などを囲い込むからこそ、金が必要になり、東電などのスポンサーに頭が上がらなくなり、インデペンデントなどとは名乗れなくなるのである。



参照:
I'm asking you to believe 2008-11-09 | マスメディア批評
胃が痛むほどに追詰める 2007-06-09 | 女
制限域の自由な境界線 2007-06-08 | 暦
石頭野郎にぶつけろ! 2007-06-07 | 生活
活き活き、力強く、先鋭に 2007-06-06 | 雑感
by pfaelzerwein | 2011-06-05 17:53 | マスメディア批評 | Trackback
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