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原発零でも電気零ではない

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先日車中のラジオで面白いことがニュースとなっていた。連邦共和国市民の確か5%が電気を使っていなくて、その割合は増加していると言うのだ。なにもドイツ人がケチで電気代の高騰で電気の使用を諦めたり、熱狂的な自然保護者や宗教的な清貧を好んで電気を使わなくなったのではないらしい。価格が高騰したので支払能力を超えて電気の供給を止められる戸が高齢者や失業者の中心に増えているのが原因らしい。特にベルリンで多いようだ。

日本も原発ゼロの日を迎えたのだろう。今後は電気を出来るだけ使わない生活を考えるべきで、嘗ての石油危機の一時期に比べるとまだまだ節電は足りないだろう。あの破廉恥でみっともない広告塔を一斉に消すことで、街は暗くなり、ドイツのように高速道路をはじめ国道を暗闇とすることでヘッドライトの光で時速250KM超えで安全に走行が出来るようになるのである。先ずは道路を真っ暗に出来るように近隣を暗闇にする必要がある。

高速道路で多数の死者が出たと言うが、運転手やバス会社を一斉にマスメディが叩くのは、行政がまともな道路を作っていないから事故が起きることを隠しているに過ぎない。あんなに恐ろしい道路を日本中に張り巡らしておきながら世界に多数の車を販売しているようなトヨタが存在しているのが不思議でたまらない。日本人は井戸の中の蛙であるから、高級官僚に都合よくあしらわれているのはマスメディアも同様である。

ルツェルン音楽祭のチケットが届いた。欧州で購入したコンサートの最高額のチケットである。オペラは一度だけ公演間近になって購入したザルツブルクのフェルゼンライトシューレのS席がある。正しくこうした価値は需要と供給の関係で市場価値なのだが、生活必要品でないので需要がなければ市場が成立しない。こうしたものを浮ついた消費とするならば、「明るいナショナル」の不必要な夜の照明もライフスタイルにのみ準拠するものである。なるほど松下幸之助の目指した明るい家庭はあの当時の貧しい日本社会での豊かさの証明であったに違いないのだが、豊かな今日の社会における電気消費はその延長の成金の貧乏根性でしかないのである。

本当の豊かさは、少しでも発展途上国などにその光を譲って、必要最小限のエネルギー消費を目指すライフスタイルにあるのではないだろうか?なるほど不夜城の如くの夜の社会で出生率も落ちて、益々高齢化社会へ進み、経済成長は下火となってエネルギー消費も落ちていく。要するに不夜城の如くの社会は永くは続かないのである。その不可逆の自然の流れを止めることも戻すことは出来ないのであるから、新たな社会構造の中で豊かな生活とライフスタイルを確立していくことこそが工業先進国社会が取り組むべき勤めであり課題なのである。

そして、日本の大企業はその国内市場の巨大性ゆえに世界でも大きな会社として発達したのだから、株主への責任と同時に日本国内への還元をもって会社終了まで歩むべきなのである。それが日本の大企業の使命であり終わりを告げるまでの歴史であるべきなのだ。それぐらいのことを経団連は方針として打ち出すべきなのである。経営も経済も文化なのである。


追記:車中のラジオの16時のSWRニュースでは、本日の東京でのデモの様子と政府への抗議行動について原発零への第一報として伝えていた。



参照:
犯罪行為のオール電化 2012-02-10 | 生活
排出零の節約ライフスタイル 2012-02-04 | アウトドーア・環境
漸く歩みだした廃炉への道 2011-09-03 | アウトドーア・環境
もっと温度が高い筈だが 2011-08-02 | 雑感
ベルリン、原子力の創世と終焉 2011-07-07 | 歴史・時事
再生可能な環境税の導入 2011-06-11 | アウトドーア・環境
首都圏に退避勧告が出た時 2011-03-24 | マスメディア批評
節約の結果としての公共料金 2011-02-13 | 生活
無成長経済は可能か? 2008-11-11 | マスメディア批評
by pfaelzerwein | 2012-05-05 19:42 | アウトドーア・環境 | Trackback
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