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労働に対する適正な報酬

ドイツのプロの重量挙げ選手キミコ・イシザカの弾いた「ゴルトベルク変奏曲」がネットで話題となっているようだ。ベルリンのテルデックスタディオでベーゼンドルファーの協力でプロフェッショナルに録音されたものがキックスターターズのクロウドでオープンソースとして提供されているからだ。営業用にも何に使っても全く問題ないという。

勿論乗用車一台分の通常の費用をかけて制作されたものであるから、YOUTUBEで紹介されているようなアマチュアーのそれではないが、イシザカはグレン・グールドではないのは当然で、強い打鍵とあまりに直裁的な些か暴力的なものであるようで、プロフィールが語るように普通のピアニストでないことを証明しているという。

この事象は、先日来から話題となっている海賊党の主張やとりわけその著作権法への懐疑に密接に関わっている。具体的には、本来の著作権とパフォーマンスなどによる隣接権の話となる。当然のことながら録音制作などで稼げる演奏家などは世界に数えるほどしかいないのであり、多くの巷の演奏家の例えば廉価レーべル「ナクソス」などの制作に無料で寄与する無報酬録音制作でも自らの演奏活動を世間に広く知らしめたいという欲求に叶うなのである。

その一方で、この記事やそのネット公開へのカンパのありようが示すように、「芸術家」の自己宣伝の目的には全く寄与することの出来ない「技能者」としての職人的な制作の裏方が存在して時間当たりの報酬を得ることでしかそうしたプロフェッショナルなプロジェクトが成立しない経済の掟を示している。その経済の掟の中での労働を、只の金儲けで芸術に寄与しないとするのは、そもそもの創作への保障を意味する著作権の根本理念において矛盾しているのは当然なのである。

演奏家によって無料で演奏される楽曲が、著作権の生きている比較的新しい楽曲の場合は、自動的に著作権が徴収されるのは当然なのだが、バッハなどにはそうした権利はもはや存在しない。そこで再現芸術家の演奏家が隣接権を主張するのだが、そしてそれも放棄された場合、制作されたものならばそこに新たな隣接権が発生する。

要するに著作権と呼ばれるものは、過去の名曲の上演やそうした名曲を披露する場所では一切発生しないのであるから、興行として大きな経済的な効果があるときは必ずエンターティメントとして扱うのが当然であり、芸術活動とは一切関係ないとすることも出来る。



参照:
Was ist dieser Bach wert?, Jonathan Schaake, FAZ vom 1.6.2012
The Open Goldberg Variations, by Kimiko Ishizaka
アドルノ先生とすべき議論 2012-05-12 | マスメディア批評
海賊党が問題提議したもの 2012-04-22 | 文化一般
by pfaelzerwein | 2012-06-03 00:36 | 文化一般 | Trackback
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