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メルヘンから思春期を超えて

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承前)メルヘンオペラとは、ロマンティックの思春期オペラよりも、それ以前の形であるということにもなる。母性や父権を表象する夜の女王やザラストロに代表される姿や権威の裏側にはモノスタトスやパパゲーノの姿が表裏一体となっていることを成長とともに知っていくことが大人になるということなのである。

作曲家モーツァルトのそれが如何なものであったかは資料を調べないでも皆容易に想像がつくが、モーツァルトが天才であったのは、そうしたありとあらゆる経験を通して人々の細かな機微を創作と出来たことに違いない。

サイモン・ラトル卿がインタヴューに答えて、否定的な意味でのルーティンとなっていない交響楽団を指導することの意義を漏らしていたが、その作曲の一部始終に光を当てることは劇場付の管弦楽団では出来ないことは明らかだ。一点を挙げれば、オペラの歌の好い加減さをうまく隠すと言うものが座付のそれの伝統になっていて、そうした演奏方法がそのもの上手な超一流の歌劇団のそれなのだ。

今までにはコンセルトヘボーや英国の交響楽団ぐらいでしかこうした形式でのオペラを聞いたことはないが、少人数の古典的なものは古楽器のそれしか知らなかった。なるほど、ベルリンのそれも古楽器奏法のそれを活かして、軽やかで和声土台過多とはならない透明な音響を達成していたが、その機能性は全く異なり現代の行きついたそれであったことは断るまでもない。

指揮者ハーノンクールのそれも研究しているようだが、序曲からして全く次元の異なる精妙で明晰な楽の音が奏でられたこと違いなく、その一部始終に目が行き渡っているのである。それゆえに幾つか挟まれたカデンツャの類だけでなく、とても印象的なフェルマータや終止、テンポやダイナミックが必然的で、必ずそこにはリズム的な内声や動きがまさしく作曲家の鼓動のように終始一貫して流れているである。

この指揮者が若い時から目指していたその音楽表現には詳しい方だが、指揮の技術が上達したのではないかと思わせるほど手に取るようにその意思が伝達されていたのには驚いた。いつかのジルフェスターコンツェルトでのハイドンの交響曲のそれを彷彿されるほどの名演であり、歌手陣は正確に合わせるために歌うことで精一杯と言う感じをさせるのは、前記したように伝統的なオペラ上演ではないからである。もはや、ヴンダーリッヒもフィッシャーディースカウもヘルマンプライも必要なく、こうしたものに芸術性を与えるのは全く別なものなのである。

和声の陰陽が細やかにつけられて、どのような場面においても鳴り響く背景とはならずに、ロココのオペラで馴染みのある極限の感情表現が奈落を彩るとき、作曲家のその創作意図が文脈をもって修辞法として明白になる。それゆえに、指揮者がここは是非作曲家に質問してみたいと言うとても興味ある音楽の動きが見つかるのだ。なるほどそれは、オペラセリアでもオペラブッファでも無かった新しい表現としての萌芽であったかも知れず、決して枯れた作風ではないことは確かであろう。

蛇足すれば、バッハの演奏実践においてその後の伝統的な演奏法から遡る形での批判的な演奏ではなくてそこへと連なるバロックの技法の流れを研究すればよいのとは異なり、同じような経過をたどったセリアやブッファでは生じない疑問や難しさがこの歌芝居には付き纏うとする指揮者の意見は正しい。それでも創作時点から遡って考えることで初めて創作意図や意思が理解できることに他ならない。

だからグライボーンの音楽祭でハイティンクがロンドンのフィルハーモニカ―を振った魔笛を最高のものとするのは、今回の演奏でも想像できるところで、なるほどこの歌芝居の音楽の質や音響はカール・ベーム指揮録音のレファレンス盤においても実現していなかったことが明白である。なるほどこのように鳴らすのだと聞かされるともはや何一つ文句のつけようがない。

そうした音響から齎されるのが、機微に富んだモノローグ的な殆ど深層心理の感情であり、だからこそ我々の心を揺さぶる。しかしこの作曲家が、ブゾーニなどとは異なって、深層心理などと言う概念を持っていたわけではないので、彼のトラウマやその他の深い感情がこうした創作に吹き出しているにすぎないのだろう。

開かれたままの問いかけに答えるならば、こうした小市民の倫理やモラルそして躾や社会規範などで、大人として成長する過程で上手に整理されて仕舞い込まれてしまっている心理が、深層心理療法かテストのような芸術表現に触れて、一挙に噴き出す感情こそがその涙の源泉であったのだ。もちろんそこには人様々な抑圧された感情があるわけだが、本能的な死の恐怖とか生れ出たときの泣き叫びのような根源的な感情が基本になっているからこそ、そうした心理がしばしば宗教やらその他の文化的な文脈で理解されるのは致し方のないことなのである。

敢えてもう一度繰り返してみよう。なぜ作曲家モーツァルトは天才と呼ばれるのか。それは、金を出す貴族に合わせてロココやギャラントな作風をある程度自らの音楽語法で器用に作って見せたからではない。なるほど、その器用さの背景には、貴族の憂さ晴らしやその他の需要への職人的な勘や経験が積み重ねられていって、その背後にある心理へと通じるようになっていたことに他ならないからだろう。それが新しい市民層に向けての創作となると、異なった形で発揮された訳だが、特定の個人に対するのとは異なりより一般性をもって抽象的な形となって果実したからだろう。

ここまで書き殴ったからには、もう一つ風呂敷を広げると、現代の芸術文化において、そうした小市民的な感覚を超えて、時代の思潮をしっかりと捉えていない限り、そうした表現には至らないことは明らかであって、如何に本当の創作活動と言うものがとてつもない意味を持つことが分かるであろう。序に触れれば、ラトル卿の今回の精華は、そのもの彼自身が若いころから示していたセンシビリティーと言うような芸術家としての強い個性の表れで、本人の語る通り、もはやその齢になってまだ表現できない言い訳などはあり得ないとなる。(続く



参照:
「魔笛」初日の解読の鍵 2013-03-25 | 文化一般
ラトルが語るその辞任の真意 2013-03-16 | 文化一般
by pfaelzerwein | 2013-03-25 23:01 | | Trackback
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