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嘗てのモダンなクラシック

先日車中のラディオでザルツブルクからの報告を聞いた。やはりなくてはならないモーツァルトのオペラでの大失敗の報告だった。エッシェンバッハの振ったコシファンテュッテが、その演出、音楽ともに大不評であったというものだ ― 新聞を見ると強調があっても十分に劇にあった音楽づくりが出来ていなかったようだ。その触りを聞いたが、それほど酷くは無いが、なるほどテムポも遅く引きずるような運びは皆が期待するロココのそれではなくて、クレムペラー指揮のようななにかがないと評判が悪いのは当然だろう。中々実践するのがとても難しいオペラだと思う。レコーディングされている幾つかの名演に比較できるようなものはなかなか遭遇できないだろう。ありえるとすれば古楽楽団のものかもしれないが、そうなると会場の大きさも問題になりそうである。

兎に角、モーツァルトのオペラやヴァークナーがどうであろうともそれほど芸術的な話ではない。そもそもザルツブルクのそれに観光や商業的な意味以上の芸術的な香りを嗅ぐのは益々難しくなってきている。そのような中でこの夏の頂点は、八十六歳のミヒャエル・ギーレンが振るマーラーの六番であったとする記事を読んだ。大きな写真は楽員や関係者が祝祭劇場前でプラカードを掲げて、合弁と解消に危機感を訴えかける様子である。

SWRバーデンバーデン・フライブルクのこの状況に対して、ザルツブルクの音楽祭は団結を示して、マーラーツィクルスを催すことになっているようで、老体は鞭を打ってこれに参与することになっているようだ。まるで、バーデン・バーデン音楽祭やバーデン・ヴュルデンベルク州にあてつけのようにザルツブルクが動いているのはとても面白い。しかし、この記事ではそうした皮相的な意味ではなくて、今回の芸術的な成果が必ず新たな管弦楽団編成への大きな影響を及ぼすであろうとする点である。

ギーレン指揮のそれが芸術的に頂点にあったかどうかは議論の余地があるが ― それにもう十年ほど前からその統制力に衰えが散見されていた ―、戦後六十年の歴史はシュツッツガルトのそれとは全く意味が異なるのは当然で、そのアンサムブルの個性は、ドイツの放送交響楽団の中で抜き出ている。なるほど技術的な技量に関しては、世界のトップと比較すると見劣りするかもしれないが、放送交響楽団の中では決して悪くは無いであろう。シュツッツガルトのそれはなくてもあってもどちらでもよいので、合弁はとても惜しい。



参照:
Vorschein künftiger Katastrophen, Gerhard Rohde, FAZ vom 24.8.2013
土壌の文化性の問題 2012-12-26 | 文化一般
朽ちる第一報を耳にする 2012-09-29 | 文化一般
ゆく河の流れは絶えずして 2005-08-01 | 音
無知蒙昧の大鉈の前に 2012-02-23 | マスメディア批評
by pfaelzerwein | 2013-08-25 17:34 | 文化一般 | Trackback
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