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体育会系枠組みの娯楽

クリスティァン・テツラフのバッハソロ全曲を聞いた。意欲的なプログラムはレコーディングプロジェクトと関わっているようだが、イザーイではなくバッハのそれを聞くことになった。我々の会では、ユリア・フィッシャーが少しずつ全曲を演奏していて、それがベーシックとなっている。どうしても聴衆もそれと比較することになるので、大分気の毒な感じであった。

自身にとっては、二時間半以上前にワイン街道を出たのにも拘らず、霧雨の視界の悪さと高速道路の多発した事故や渋滞といつもより一時間早い時間のフランクフルト市内の通勤ラッシュで、平常の倍以上の時間が掛かった。そのお蔭でチィクルスの第一番ト短調ソナタは聞き逃した。小ホールの少なくない人が第一部は立ったまま聞いていた。

先ずその印象は惨憺たるものであった。つまり、ロ短調パルティータ、イ短調ソナタである。そのアーティキュレーションに合理性が感じられないのである。そうするとどうしても重要なフレージングの意味合いが不明確になる。本人もインタヴューで最初の短調は演奏だけでなく理解が難しいと吐露しているように、面白さを表現していない。そうなるとどうしても先に聞いた古楽的な奏法を参考にしたフィッシャー教授の柔軟であり、しなやかに描き出すその叙述法に敵わないのである。勿論そのように演奏するようになって初めてその音楽の豊かさが感じられるようになったことは21世紀のバロック音楽に興味のある我々が漸く辿り着いた次元でもあるのだ。

そうした音楽文化的な意味合いからすればこうした20世紀型のバッハ実践が、知的な意味合いを持つことは不可能であり、たとえそれが上海生まれのヴァイオリニストであろうが、ザムビア生まれであろうが、ハムブルク生まれであろうが変わらない。その証拠にバッハに親しんでいる会員のご老体の口からは「まるでジプシーの様だ」という、屈辱に満ちた皮肉が漏れるのである。成程言葉は悪いが、それは間違いでも無かろう。こうした演奏においてドイツ語のアーティキュレーションも確認できなければなにも彼が弾く意味も無く、会員が期待するものを一切満たさないのである。

しかしである、演奏家自身が分かりやすいという後半のニ短調のパツティータの斎藤編曲でも有名なシャコンヌになって、聴衆は認知し出すのである。こうした演奏家によってはそうした文化的な枠組みではなく、奇しくも斎藤メソードや斎藤記念のような体育会系の枠組みで、つまり芸術表現に必要な技の一つとしてのそれの意味を改めて思い知らされることになるのである。大ホールで一流の演奏家がそれを行っても汗としてそれを聴衆はそれを感じることは出来ないが、こうして小ホールにおいて演奏されることで体験することが出来るのである。

個人的には、もはや重音奏法や見極めた握りをみて、スポーツクライミングにおける心身の調和と同じような技しか感じない訳であるが、そこから生じてくる音楽と言うものがあることも否定できないのであった。つまり、古楽的な奏法を入れてということで、だらっとした下がりぱなしの音程も緩やかで緩急屈伸するフレージングの山も肯定的に受け入れられるのだが、ここではそれは決して許されない。大管弦楽団と協奏曲を毎週のように世界中で演奏するこうしたヴァイオリニストにとっては、僅かなだら下がりも許されないのである。彼らは、少しでも上に乗るだけの音を保つことでそうした舞台に立ち続けているのである、そうした厳しいビジネス世界で生きていることも確かであろう。それを思うと、この演奏家がどれだけの強い意志を以て全曲演奏と言う行為に出ているかが分かるのである。それはそれで感動させるものがあるのは事実である ― 本人の弁によると大分力を抜いてアドレナリン分泌も少なく対処できるようになったと言うが。

なるほど彼にはグリュミオーやミルシュタインのような輝きも無ければ、シゲティやシェリングやまたはクレメルのような厳しさも芸もないが、「誰がこれだけのことが出来る」というかのように、ハ長調のソナタや最後のホ長調のパルティータへとベストを示すことで、それはそれなりに曲の精神を感じさせるのである。この曲順によっての全曲演奏でしか示せない世界であろう。

チェロの全曲演奏のようなロストロポーヴィッチが示したような世界でもないが、それはそれなりに魅せてくれたのは確かである。と同時に、イザーイの演奏などにも興味もあったが、こうした彼が表現するそれを聞いてみたいとは一切思わなかった。我々にとってそうした音楽を鑑賞する時間など無いのも事実であり、演奏家自身が言うようにCDなどでは伝わらない臨場感であり、ますますこうした演奏家の録音や映像などに価値が無いのを実証しているのである。その反面、世界の音楽市場と言う中ではプロモーションとしてそうしたメディアが重要な素材となっているのである。嘗て日本などでも、録音の通り演奏している舞台の外来音楽家を確認する作業が繰り返された訳であるが、そこで確認されたものとここで指す体育会系の枠組みとは全く同じことを指す訳で、全く文化的な枠組みとは関係ないことを指しているのであった。要するにエンターティメントとは対象が音楽であろうが映像表現であろうがスポーツであろうが全く変わりない作業であり、それなりの対価を設定する商業構造の中に含有されているのである。



参照:
女手で披露する音楽文化 2013-05-18 | 女
若手女教授の老人へのマカーブル 2010-03-19 | 音
by pfaelzerwein | 2013-11-10 02:34 | 文化一般 | Trackback
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