処方箋無し避妊と啓蒙

金曜日のアルテオパーへの途上ラディオで現在話題の話がいくつかあった。一つはミュンヘンの絵画であるが、これは改めるとして、避妊薬の処方箋無し販売の賛否を巡っての話題である。なかなか秀逸なのはSWR2社内の若い女性二人に賛否を挙げさせていることであった。当事者に近い人の意見をやらせでは無く、局内で済ませるという発想が良かった。このような話題はティーンエイジャーのそれから聞き取る以外は女性がスーパーに勤めていようが放送局に勤めていようがその意見にはそれほど差異が無いからである。

先ずは賛成の意見は、特に十代のまだ子育てには未熟でありながらセックスへと突き進んだ少女たちの立場を代弁することで、たとえば週末に性行動があったとしてコンドームが破裂してしまった時の状況をして、二十数時間以内の服用が必要な状況を挙げていた。その時に親に相談して、叱責を受けて医者に駆け込むというような状況を考えると、処方箋無しで入手できることの利点を述べていた。

次に反対意見として、同じように幼い性行動の場合に先ずは性病などの疾病から守るという保険を考えるべきで、堕胎と同じくとても危険なことだとする意見である。更に避妊薬自体の副作用の啓蒙活動が十分でなく、特に生理も不安定なこうした十代が避妊法として使うことが便利になるようなことはすべきではないとする意見であった。

恐らく薬剤師無しのネット販売などの議論とも共通した面があると思われるが、薬の販売や利用が利便性や経済性で扱われることには問題がある。なるほど処方箋や副作用に関しては薬局の薬剤師や正規の使用説明書以上に貴重な正しい情報もネットに転がってはいるが、その正否を判断するには基本的な知識や十分な教養などが要求されるので、誤用や事故を防ぐことは出来ないであろう。そのような面からも明らかに処方箋無し販売には問題があり過ぎる。

以前から観てみたいと思っていた文化庁後援の映画「パッチギ」をネットで拾った。第一話と第二話の双方を観たが、評判やトレイラーの割には良くなかった。時代背景もあるのだろうが矢張りマルキズムな視線がそこに感じられる典型的な日本映画で、そこに朝鮮民族の怨念の文化が重ねれれているので、とても程度の悪い娯楽作品になっていた。

何よりも異文化接触のハイライトへの盛り上があれだけ安っぽくフォ-ルクルシンガーズの曲に収束する作りは三流であった。あれならば流行したそれらの曲の価値を下げても上げることのない迷惑な使用だったに違いない。それらが韓国ドラマなど顔負けのじとじとした感覚で描かれるだけで嫌悪感を持つものも少なくないのではなかろうか。その湿度の差こそあれ、たけしの暴力映画と変わらぬ暴力性も受け入れられるものではなく、まさしく劇中の毛思想の「力には力の解決」がそこに描かれているだけである。未だにこうした映画が日本で制作されて興行的にも成功しているというのが日本の現状に違いない。日本文化の低落ぶりは、アジア主義の間違った政治社会の動向と並行していて、コツコツと積み上げた近代性から脱近代への流れの中でかなり文化程度が落ちているのを目の当りにするのである。

先にダウンロードしたラモーのオペラ「ゾロアステル」も全然よくなかった。ドロッティンゴームでのルッセーらフランスグループの制作のようだが、作品自体が期待するものではないことを感じさせた。

なによりもフリーメーソン的な勧善懲悪の話がそれだけの舞台演出と音楽で演じられると、正直退屈してしまった。そこには色々な背景があるのだが、そもそも作曲家ラモーの音楽にも責任があるに違いないのである。これならば冗長と言われるリュリのそれの方が遥かに高尚で今日的な意味合いが強いとなる。上の演目においても、もはや高尚な貴族のお遊びとしての古典への回帰であるよりも、啓蒙主義思想における啓蒙となると、どうしても次元が低くなってしまうのは仕方がないのである。それが機能和声の明確化として描かれると、こうした単純な世界となってしまうのだ。次はそのリュリのオペラを観て感想を述べてみよう。



参照:
TOB期間を引き続き延長 2006-06-04 | 生活
映像の賢い使い方 2013-11-10 | マスメディア批評
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by pfaelzerwein | 2013-11-11 06:36 | 歴史・時事 | Trackback
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