二十世紀前半の音楽効果

承前)二つのヴォツェックの成果を見るためにはもう少し二つをじっくり見る必要がある。多くの場面は共通しているが、幾つかの場面は取捨選択が異なっている。今回の演出では、グルリットのそれは時代背景をそのまま19世紀のビーダーマイヤー時代にしていて、市民的教養以前のそれを眺める形になっているのだ。そこで例えばヴァツェックが凶器となるナイフをユダヤ人から購入する場面が具象的に描かれていて、ナチの時代にも潜在意識と持たれていたであろう黒いマントを着た気持ちの悪い人物像として登場させるのである。恐らくユダヤ系で無い作曲家であったなら敢えて登場させることは無かった場面であり、今回の演出はそれをしっかりと舞台映像化している ― リヒャルト・シュトラウスの「サロメ」のユダヤ人の描き方も似ていて、血の混じっているドイツ人からの見え方と言ったらよいだろうか。

その他、浮気の場面も具象化しており、その音楽と共に性行場面も舞台化されるのだが、それが余計に舞台の枠の中での出来事として、要するに市民の娯楽の中での出来事として描かれることで、20世紀後半のTV文化に近いものが狙われている。つまり「お行儀のよい、決して公共良俗を乱さない舞台」なのである。実際のこの作曲家は、このオペラ化の後にエミール・ゾラの「ナナ」、レンツの「軍人」をオペラ化しているというから興味深い。

そうしてベルクのそれに目を移すと、如何に劇場空間の中で、ヴォツェックと軍曹、医者、妻マリーとのディローグにおいて、主観客観が入れ替わり、聴衆にもその入れ替わりがなされるかが分かるのである。その時点で作曲技法的にもはやロマン派楽劇でも新古典主義でもないマーラーを延長する空間の音化が実現しているのである。ここでは所謂表現主義と呼ばれるややもすると劇場効果の中で、舞台と客席の間に幕が引かれるような悪影響は、今回の演出を経験すると全くその音楽の問題ではなかったことを実感するのである。そのベルクの音楽の効果と魅力は飛びぬけていて、本来は圧倒されるものであるゆえに、なかなかその音楽の細部までを舞台化することが困難となっているのである。

ペーター・シュタインの演出に比較して、ジョン・デューのそれが優れているのは、可成り細かな具象化を実現すると同時に、大きな劇場空間を存分に使いながら視覚に止まらない遠近法を大変見事に使っていることであった ― マーラーの交響曲の遠近法を思い浮かべよ。

前者では、第二場の葦を集める風景での狂気の示唆が素晴らしく、それが自然な夕景の情景に包まれていく場面は殆ど高度な映画か、まるで現実の場面に居合わせるような情景を醸し出す。光の使い方だけでなく ― 決してドロドロとした血糊の色などは慎重に避けられていて、水彩画的な色合いなのだ ―、動かせ方や演技指導が通常のオペラを超えているのである。また壁一面に標本の入ったビーカーを並べた博士の研究室の場面での二人の扱いは見事で、ただの人格の入れ替わり以上に博士の狂気へと導かれる流れは秀逸以上のものであった。その他にも有名な咳払いの場面の音楽との呼応などもとても丁寧に演出されている。つまりそこでは音楽の方も決して無理をすることなく劇場的な演奏を的確にしていくことで演出効果が裏打ちされるようになっている。

後者では、酒場の場面での奥行きを一杯に使った場面での、前場面と後場面の軍隊を狭く押し込んだ細い光の列の中で、バーに横一列に並べた軍人の陰湿な苛めシーンとの対照が断然素晴らしく、まさしく音楽を裏づけするのである。もはやここまで来るとそのスペクトルムはとても心理的な描写となるので、示唆的な場面転換では得られない内向的な効果を生じさせている。そして、入水後のインヴェンションの場面転換での、上から吊るされるシャッターのような幾層にもわたる駆動部分が、先ほど同じように幾つにもラインに分けられた舞台床のうねりの中で沈んでいったヴォツェックの姿を再び浮き上がらせる、まるでビーカーのもしくは水槽の中で浮き沈む死体のように漂う光景がある。これほどコムピューターで制御された立派な舞台を見たことが無い。明らかに流行りの映像のそれよりもハイテクである。支配人自らが監督で演出をするからこそこれだけの予算や手間が掛けられるのだろう。

この辺りで難しいことを考えるよりも、作曲家が創作する場合に場面ごとにもしくは場面構成として何を意図して音楽的な思索に至ったかを想像すれば、その創作の少なくとも端緒に触れることが可能となる。マリーの子守の場面、浮気の場面、聖書の場面、死の場面までを追えば、如何にこの二人の作曲家が全く異なっていたかが分かるのである。グルリットが飽く迄も即物的な若しくは自然主義的な身振りでリブレットに曲をつけると同時に、危うくお涙頂戴の大衆演劇となるところを冷徹に踏みとどまることで、同じようにユダヤ人の場面も殆ど冷笑を交えて描き出す。同様な例は、博士につけた甲高い歌であり、もはや自嘲的な色がそこに添えられる。作曲家本人が晩年日本で行った復帰の試みのその心理が、その人間性がここに良く表れているようにしか思われないのである。

ベルクが、なぜにこの同じリブレットにああした音楽的な工夫を凝らしたかはここで明らかになる。その創作のありたけの表現力を解放させるためには、それだけの音楽的なアイデアが欠かせない。今回の演出に引っ張られる形で、上のヴォツェックと博士とのパッサカリアのシーンもテムポを落としていたことで、その内容と表現力が増していた。歌手陣は問題もあまりなかったかわりに目ぼしい精華も無かったのだが、全体のテムポとダイナミックスが舞台ととても調和していたので大きな効果を上げていたのだ。演出家と指揮者が協力することがどれほど重要かが示されていた。

舞台上の楽団も十分な効果をあげていて、音楽的な劇場空間として大成功していたことも書き加えるべきだろう。ダルムシュタットの劇場がジョン・デュー時代と呼ばれるのは間違いなさそうである。指揮者のマルティン・ルーカス・マイスターの指揮もメリハリが効いていて、座付楽団からなかなか意欲的な音楽を引き出す実力と指導力は大したものである。

アルバン・ベルクの創作が、シェーンベルクらの新ヴィーン学派の影響を超えて大うな影響を持ち続けたのは、その劇場的な効果であったに違いない。なるほど、その音楽の表現力が所謂表現主義的な表出力があるということだけではない劇場空間を形成するに足るものであったことが今回初めて体験できたのである。その舞台上や奈落の下での表現力が圧倒的であってこそ初めてそれが実現されると感じていたものが、今回のように決して悪くは無くても比較的凡庸な演奏実践でも表現できることを確認した。エーリッヒ・クライバーが百二十時間も掛けて初演に駆け付けたというが、現在の演奏家は比較的問題なくそれが出来るようになっているだけでなく、反面聴衆の方も聞き慣れてしまって、その音楽が孕む緊張や解放の爆発力などが中々体験できなくなってきている。

最初に書いたことを終わりに繰り返すことにもなるのだが、グルリットの音楽との対比によって初めて浮かび上がるのは、ベルクの音楽が持つ表現力として、その交響的な効果ではなく、実はその書法であると言うことだろう。交響的な効果が奈落から引き出されるようでは、シュトラウスの楽劇が都合の良い娯楽としてしか意味を持たなくなったのと同じ意味合いでしかなくなってしまう。グルリットの凡庸であるがゆえに対位法やその踏みとどまる調性とは対極にあるベルクの効果的な調性の使用などが、その最上級の織物のように密にそれでも豪壮に紡がれる時に、その効果が威力を発するのである。それは座付き管弦楽団の日常の演奏実践でこそその差異が明白となるようなとても実践的な書法が取られていて、最近の演奏実践での効果の消失は正しくそのような交響的な演奏実践にあったことを思い知らされるのである。ある意味、新ヴィーン学派の本質を示しているような音楽実践とその書法の効果の体験でもあったのだ。(終わり)



参照:
Zwei Mordsmusiken für Georg Büchner, Gerhard Rohde, FAZ vom 29.10.2013
凡庸なグルリットの音楽 2013-11-26 | 文化一般
現実認識のための破壊力 2013-11-25 | 音
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by pfaelzerwein | 2013-11-27 21:12 | | Trackback
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