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印象に残る追悼文の数々

クラウディオ・アバド逝去への追悼文章が沢山載っている。追悼記事自体も既に紹介した速報とは別に改めて書かれている。そのビューニック女史の記事内容はあまり面白くなく、それどころかライヴの良さを語っているのだが、その主旨は分からない。あれほどもさもさしていて、会場にアピールすることの無い指揮ぶりは視覚的に一般聴衆を魅了するものではなく、その演奏の自由度の選定もチェリビダッケのようなものではなく、あくまでも音楽的な技量を要求されるものであったと、ルツェルンでザビーネ・マイヤーのソロなどを聞いて良く分かった。

寧ろプローべなどでの徹底して聴き合う姿勢とプレッシャーの掛け方は嘗てのジョージ・セルなどのものと似ていて、あくまでも民主的な職業的な姿勢で行われたものという相違があるだけのものである。それほどやらなければプロフェッショナルでも至らない次元があるということだ。

それらを含めて、ルツェルンでの体験を考えると、上手く行かないことも珍しくはなく、それがライヴの臨場感ということになるようだが、資金さえ掛ければとても完成度の高い制作録音がなされたことも事実であった。そのような数々の録音を鳴らしていると、飽く迄も想像力を湧き立たせるような仕事やレパートリーしかしてこなかった可成りストイックな面も浮き彫りになる。

「シモン・ボッカネグラ」などのプロダクションはストレーラの演出と共に金字塔的なものであることは間違いないが、その録音自体も決して侮れない。また、「春の祭典」の和声感覚の鋭さは、チェリビダッケが同じ交響楽団を叱咤激励してやらせていたもの以上にシャープであり、完成度の次元が異なる。

さて、追悼文で特に印象の残ったのが、ベルリンの後任者であるサイモン・ラトルのそれである。要約するにはあまりに惜しいので全文を翻訳する。

引用始め

私たちは、一人の偉大な音楽家、偉大な人を失った。既に十年も前以上に、我々は話したものである、クラウディオ・アバドは病気を生き延びることが出来るのだろうかと、そしてその病気が彼を奪ったのだ。その代り、彼は、そして我々は類稀な彼の芸術のあらゆる側面を集約したような(人生の)秋を享受することが出来たのである。数年前に彼は私に言った、「サイモン、病気はね、とても恐ろしいものだったが、その結果は決して悪いことだけではなかったのだよ。なんていうか、まるで自分を聞くというのかな、胃が無くなった分まるで体の中に耳が出来たようなんだよ。上手く言えないが、なんかすばらしい肌触りなんだよね。そして、音楽が僕を救ってくれたのは間違いないんだよ。」。クラウディオ・アバドは時代を超えて偉大な指揮者だった。彼の晩年の演奏実践はこの世のものを超えていた、そしてそれを体験できて、皆とても幸せだと認知した。私には個人的に、いつも彼は太っ腹で愛らしかった。それは私の指揮生活の最初からで、その心からのユーモアあふれるお付き合いは、終最後の金曜日まで続けられた。彼は、深く私の心に、そして思い出に生き続けるだろう。

引用終わり

心の籠った追悼文で、こうしたところにラトルの人柄が表れている。そして、肌触り感覚はまさしくアバドの音楽に今一層感じる、音楽の力なのだ。ユルゲン・フリム、ミヒャエル・ヘフリガー、ヴォルフガンク・リームに並んで、ダニエルバレンボイムのそれも載っている。そこで興味深かったのは、彼がアバドに出会った1950年初めにはザルツブルクでグルダのもとでピアノを習っていたというのである。このことを全く知らなかった。後年ヴィーナー・フィルハーモニカ―を指揮してのフリードリッヒ・グルダとの共演は子弟共演だったのだ。



参照:
ドグマに至らない賢明さ 2014-01-21 | 文化一般
第八交響曲をキャンセル 2012-05-09 | 文化一般
by pfaelzerwein | 2014-01-24 01:10 | 雑感 | Trackback
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