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気がつかないステレオの面倒

文化欄に面白い記事が載っている。モノラルの薦めである。前編集長が亡くなって、その質の低下なども心配されているフランクフルターアルゲマイネ新聞である。そこでは、「サージェントペッパーの録音をモノで聞いたことがないものはこれを知らないののと同じだ」との名言を取っ掛かりとして話をつないでいる。ミラノスカラ座のロージェのよい席になればなるほど、モノラルに近くなるが、生の体験は家庭でのそれと違って集中できるということだ。

通勤のカーオーディオと家庭でのそれとの相違も明らかで、当然のことながらステレオサウンドは二つの耳があるからこそ自然な音響なのだが、仕事の合間やPCでそれを一こまとして映し出したりするときの音響としてはモノラルなのだという。それは包まれるような音響空間が生じない方がマルチタスクにはやり易いとなる。

音楽におけるモノラル再生の利点は、ステレオやマルチマイクロフォンのそれでは位相を合わせるのに技術と経験がものをいい、自然な音響を作るのはとても大変なのに対して、そのような問題点がないことである。とても素晴らしいモノラル再生が存在することは間違いない。

ローマの歌劇場の解雇問題が話題となっているようだが、首都であることは別にして、そうした人件費を持ちこたえるだけの音楽劇場は欧米ではほとんどなくなってきている。もっとも公費が使われている連邦共和国においてもベルリンでの統合などは進んでおり、経済的に豊かな筈の大都市でもローマ方式の持ち回りやアウトソージングは当然のことである。そもそも大管弦楽演奏会などにおいても客席は年金生活者が殆どで現役の人や若者の顔は殆ど見かけない。要するに将来性は皆無ということである。

先日、ラディオ番組に指揮者のクリストフ・ドナーニがゲストで出ていた。ハムブルクでのリーバーマン監督時代の成功についても語っていた。面白いと思ったのは、この作曲家と指揮者が知り合ったのは指揮者がたくさん作曲をしていた時代ということで、そこまで本格的に作曲をしていたとは知らなかった。もちろん祖父などの家柄から考えればまったく不思議ではないのだが、自作自演演奏会など聞いたことがなかったからである。また、モーツァルト解釈としてフリッツ・ブッシュのそれを紹介していてこれまた興味深かった。名指揮者となるのもある年齢まで絶え間なく活躍してきて、経歴や経験を重ねることがそれに当っていて、比較的若死にしてもっと偉くなったであろうカイルベルトやケルテスやフリィチャイやカンテッリなどの名前が挙がっていた。初めてその肉声をじっくり聞いたが思ったよりも老けていた。

スーパーへの道すがら、大阪の釜ヶ崎のカフェーに纏わる身近なドキュメンタリー番組が流れていた。そこで雑用をすることになっている男性の肉声や、詩や芝居を通じてこうした人たちにその場所を提供している女性の詩人のことが扱われていた。欧州ではそうした活動は必ずしも珍しくはないのかもしれないが、日本においてボランティアーとかそうした枠組みとは異なるところでの活動としてとても興味深い。そもそもそうした人々を緊急信号が発せられるまで放っておくような社会の方がおかしいのかもしれない。
スーパーの駐車場に車を停めて周りを見渡すと、如何にも浮浪者のようなオヤジが軒の下で寒そうにパンか何かを齧っていた。上の大阪のオヤジは京都で学生時代に放蕩を繰り返して、ギャムブルで崩壊したようだったが、ああしたオヤジにもそのようなヒストリーがあるのだろう。買い物を済ませてレジで並んでいると、丁度交代の時刻で客を待たせながら、レジの交代をしていた。「客の足がなくなるまで待て」といいたいが、レジのログインが上手くいかずに「畜生と」罵るおばさんに、のんきオヤジのような人が「機械はなかなか思うようにいかない」と口裏を合わせていた。そしてその前の客が忘れていったカードを見つけて後を追いかけたが見つからずに戻ってきた。こちらに一言誤りを入れていたのは、私が面倒な表情をしたからに違いない。



参照:
Stereo und Multitasking kommen uns nicht mehr ins Haus, FAZ vom 1.10.2014
一時間38円の贅沢三枚 2014-04-27 | テクニック
極東の世襲政治の様相 2006-12-13 | マスメディア批評
強い意思と「努力」あるのみ 2012-03-12 | 文化一般
by pfaelzerwein | 2014-10-07 21:25 | | Trackback
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