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「神々の黄昏」再生

「神々の黄昏」のLPを流している。八月のバイロイト体験前に準備として、色々と聞いていたが、その時点でもこの楽劇の特殊性と、大人の立派な音楽を奏でるフルトヴェングラー指揮の音楽の紙芝居的な面に気がついていた。今回改めてその放送録音を聞いてみて、この指揮者がこの楽劇を十分に咀嚼し切れていない面に気がついた。

調べてみると、晩年にマンハイムの国民歌劇場のために「指輪」の演出を試みているが、その劇場と初めてバーデンバーデンで1917年に公演するころには、この楽劇の問題点を語っているのである。それは、「ヴァークナーの誇張されたロマンティック」として四部作として批評されていて、アンティヴァークナーの子供のときからの筋金入りのものであることを再確認したのだった。

こうしたこの指揮者の姿勢を見れば、晩年にはヴァークナーの楽劇等で成功も収めるのだが、一部の最高傑作群においても指揮者の理解の濃淡が少なからずあり、「指輪」に関しては特に晩年まで時を待たなければいけなかったことが分かる。当然のことながら、現在の聴衆がこの第三夜に関しては音楽的な成果として周知しているのとは裏腹に、この指揮者にとっては扱い難い音楽であったようだ。

立派なドイツの音楽的な解釈と実践が、この楽匠のそれもある意味集大成的なこの楽劇において上手くいかなかったのは、その音楽的な構造に起因しているのは言うまでも無い。ある年齢に達さないと理解できなかったものとしての言い訳がそこにあるようだが、「神々の黄昏」の展開とその音楽に注目するとフルトヴェングラー式の「有機的な音楽的構造」よりもプリングスハイムの言によれば「あまりにも突発に動機が飛び移る」ハッチャケた進行が味噌になっているので、どうしてもその理解に限度があったことが推測される。

私自身、長年のヴァークナーとの繋がりにおいても、バイロイトでこれを体験することで初めてその音楽的な意味合いと構造が理解できたぐらいであるから、ベートヴェンのソナタ構造を最も有機的な音楽と信奉する音楽家においては可也劇場的であまりにも大衆的な作品であり過ぎたに違いないのである。

ここで、改めて当時のヴァグネリアンであり名指揮者クナーッパーツブッシュが録音する筈であった、カルショー制作のショルティー指揮ヴィーナーフィルハーモニカーの名盤を聞いてみる。この対極にあるような演奏実践と録音で誇張を伴って鳴り響くところこそが、実は楽匠の真意であったと悟るのである。初期中期のロマンティックなオペラでの誇張は、マイスタージンガーの明朗さやトリスタンにおける進行を以って、全く異なる劇場効果がここでは目的とされている。

フルトヴェングラーがイタリアの上演で「ドイツ語も分からないのに」と評する言葉の問題もコンサート形式で演奏を好んでしたことも、1936年に一度バイロイト祝祭劇場での経験していた筈のその音響バランスの真意に関連していることだったのだ。杮落とし時にもあまり評判の良くなかった音響もそしてその音楽的効果も実はこうした「神々の黄昏」における創作の真意として理解されるのである。

これらをして、このカルショー制作の録音の価値とギャグの連続となったカストルフ演出の百年の記念上演の価値を再確認するのである。初演138年後になってリヴァイヴァルするような劇場作品とはどうしたことか、それは偶然であるとは容易に言えないのではないか。

なかなか興味が収まらないので序にドレスデンで録音されたCDを皿に乗せた。ブリュンヒルでが弱いといわれている録音でもあるが制作録音であるから正確に余裕をもって歌っている。指揮者ヤノヴスキーの演奏解釈が超一流ところとは比較できないといわれるのであるが、何も意味あり気なアーティクレーションや有機的な流れに留意しても困難な「神々の黄昏」においてはダイナミックに丁寧に鳴らしていることからショルティー指揮のそれのように比較的成功しているのではないだろうか。オーソドックスな録音なので劇場的な感覚は狙われていないが、ドレスデンの座付き管弦楽団精妙な表現も聞ける。但し、テムポなどは全体の流れの中で設定されているようで、あるときはせかせかしたりと本来の効果が生じていない部分も少なくないようだ。なによりも言葉が聞き取れて、まるで室内オペラのようで面白い。



参照:
ヴァークナー熱狂の典型的な例 2014-07-26 | 音
阿呆のギャグを深読みする阿呆 2014-08-04 | 音
エリートによる高等な学校 2014-11-03 | 文化一般
by pfaelzerwein | 2014-11-06 21:00 | | Trackback
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