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無用な台詞へのその視線

先日購入したヴェーデキントの「地霊」と「パンドラの箱」を読み始めている。ベルク作曲の「ルル」のヴォーカルスコアの勉強と並行しての作業である。原作自体が二つの作品名があって、オペラ化に当たって適当にアイデア流用したような印象を持っていた。しかしこうして作曲家が当時原作に創作力を刺激されたのと同じように原作を読んでみて、明らかに思い違いしていたことに気がついた。

なるほど原作自体が数年の間を挟んで、各々全四幕と全三幕の戯曲として1900年前後に創作されていて、後にルルとして統一化されている。そのような原作の創作過程から、原作から作曲家がイマジネーションを強くして音楽化されていると誤解しやすいのだが、とても丁寧に描かれている戯曲であって、作曲家は入念に台詞を割愛しているに過ぎない。こうして読書してみると、必ずしも台本にかあけているところを感じるわけではないのだが、作曲者の創作過程に少しでも近づくには決して欠かせない作業であると認識を新たにする。

オペラの一幕に相当するのは、「地霊」の第四幕三場までである。面白いと思ったのは、画家が印象主義をして、「現代芸術が嘗ての大芸術に引けをとらないで済むことだ」と語らしていることである。1900年前の芸術的な状況を思うと同時に、所謂表現主義的な創作時期とされるようなその現場での視座を示している。これに作曲家が三十年後には全く視座から視線を投げかけていたことを感じさせる「無用な台詞」である。



参照:
燃え尽きそうな味わい 2015-05-02 | 文化一般
腑分けの変態的な喜び 2015-04-22 | 音
by pfaelzerwein | 2015-05-21 18:26 | 文学・思想 | Trackback
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