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予定調和的表象への観照

承前)楽劇「神々の黄昏」三幕で最も印象に残ったのはラインの乙女たちの情景である。こうしてラディオ放送を音だけで楽しんでいても、この演出でのメルセデスのカブリオーレのトランクに遺体を投げ込む情景と、ここの音楽の親和性を強く感じる。要するにこの音楽は、前夜祭冒頭の情景からノルンのトリオの情景を通して一貫させるための重要な機軸となっていて ― ブルックナーの交響曲四楽章の構造のそれを指摘する論文などはあるようだが、それ以上に骨組みとなっているのは、その背景のまさしく夜明けの単純な音形からドミソの音形が根源から原始へと、当時影響の強かったショウペンハウエル等の思想そのものである。

敢えて書こう、ペトレンコ指揮の「指輪」は「その意味深な楽劇の深みを伝えていない」というような軽率な評論がそれを職業とする物書きから漏れていたことを、なぜならばそれは本質的な問題だから。この楽劇の創作と、祝祭劇場のアイデアは多くの部分重複しているのだろう。そしてその思潮的な背景に少しでも思いを巡らすと、どこが「深み」なのか、創作意図とその芸術の表現方法、その実践か見えてくる。

この三重唱の連結、そこに生かされるジークフリートへの共感や視線、苦味をふんだんに含んだこの黄昏とペシミズムに縁をもつその世界観への視座がそこに広がる。そのような視座を築くことで、劇場空間は世界へと広がっていくのである。楽匠が狙っていたのはそうした聴衆の「表象への観照」を如何に導くかであり、そのような劇構成となっていることを、その音楽を通じて認識する。

例えば、ここではジークフリートの葬送などがそのややせかせかしたテムポで物足りないと感じる人もいるかもしれないが ― 実際には生での印象は可也優れた劇場的な大きな流れを醸し出していたのを思い出す ―、その後のグルトルートの歌から、ブリュンヒルデが登場して、全てが火の海へと包まれるカタストロフへの音楽運びの絶妙な筆裁きは、今回の演奏を実感しないとなかなか分からないのである。

そこではテムポ運びとダイナミックスが絶妙なアゴーギクに伴われた音楽実践となっている訳だが、そのテムポ設定は楽譜に書かれていても楽匠が意図したような効果を上げている例をほとんど知らない。どうしても聴衆も演奏者も、予めクライマックスのカタストロフを考えてしまうのだが、そうした予感をそもそも音楽自体に仕掛けとして巧妙にはめ込んである訳だから、そのテムポ設定とはまさしくそれの効果を正しく実践することである ― つまり聴衆が共感することで表象がはじめて観照へと繋がるのである。それがこの三幕の創作の設計図であり、次から次へと繰り出される知己の動機こそがそこへと収斂するようになっている。そもそもこの辺りになると固い椅子に十五時間も座り続けた聴衆の方も、四日間の大詰めに近過去を振り返るような独特な舞台との一体感つまり劇場空間から外へと視線が向かうような、通常とは逆方向の現実世界のヴェクトルを共有することになる。

つまり、聴衆にとっても、それは殆どデジャヴというか、むしろその筋を知る知らぬとは関係なく、予定調和的進行している時が存在していることになる。当然のことながら、今までの多くの実況録音や制作録音で、そのクライマックスの作りに少々もたもたした印象を覚えることが多かったが、それはそうした心理的な効果が音楽的に十分に表現されていなかったことに他ならない。それは、どの動機が印象的に響いたとか、上手に謳われたとかいった単純なものではなくて、数重なる音楽上のパラメーター数次の組み合わせである。恐らくこれで、FAZのおばさんの「ペトレンコの秘義」へ疑惑への回答となっていると思うが、それは言うまでも無くこのクライマックスを体験すれば十分な筈だ。

この指揮者についても、歌手陣についても付け加え、近々また改めて言及しないといけないようなので、今はそれには触れない。しかし、この五時間、CD四枚分の録音をここまで繰り返し再生して、その度に新たな発見をするようなことは無かった。ポルタメント奏法へと繋がる歴史的な演奏法など改めてその弦奏法への造詣も聞き取れた。寄せ集めの楽団でよくもここまでと思わせるその質にも脱帽である。(終わり)



参照:
ヴァークナー熱狂の典型的な例 2014-07-26 | 音
「神々の黄昏」再生 2014-11-07 | 音
by pfaelzerwein | 2015-09-29 17:50 | | Trackback
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