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まるで鉛のような鈍腕さ

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どうも起床しても体が重い。鉛のように重いという表現を思い出して、ネットを見ると、うつ病の奔りだと書いてある、そして何か思い辺りが無いかと。それは無いことは無いかもしれないが、なにも今に始まったことではない筈だ。そしてこの秋は今までに無い早さで冬にまっしぐらである。通常は「死の月」11月のような気配が既に訪れていて、この先どうなるのかと不安になるぐらいだ。

なるほど肩を中心に上腕や、背中から腰、下腹から太ももへとそこらじゅうが張っていて気持ち悪く、更に午前中は頭がふらふらして、偏頭痛まである。このようなことも珍しいが、低血圧症状というか、足元が定まらない。天気がよければ走るのだが、その回数も天候とともに少なくなる。流石に走ると頭に血が上って汗を掻いて調子が良くなるが、午後になると結局は戻ってしまうのだ。そして翌朝の目覚めは相変わらず悪い。

ミュンヘン訪問のためのオペラ「ナクソス島のアリアドネ」を調べている。作曲過程などその幾つかの版の相違なども興味深いが、どうしてもその時代背景などにも思いが巡る。二十世紀最初の十年ほどのことだからである。

そして最近気がついたのはこの作曲家の作品への著作権が切れていることで、安く上演できるようになってきていることだ。ブージーアンドホークス出版社が日本でのこのオペラの上演で集金しようとしたようだが、それが敗訴して為せなかった事件は知らなかった。

ザルツブルクの音楽祭などは、常掛の劇場のような一括精算が出来ないために、費用が掛かり過ぎるのだった。そうした状況が変って来て、楽譜なども容易にDL出来るようになったのを確認したのはつい先ごろだった。一昨年の記念年では、そうした事情もあってか、各地で演奏、上演されることが多かったリヒャルト・シュトラウスの作品であった。

今回のパリでの公演は人気の歌手ヨーナス・ホフマンの出演になっているが - 因みにパリではキリル・ペトレンコはベルリンフィルハーモニーの新指揮者と態々書き添えられている。しかしミュンヘンでは再演だったので、あまり話題になっていなかったのかティケットも残っていたのだが、流石に公演が迫ると楽譜鑑賞席まで売れ切れた。

ミュンヘンではこのオペラは重要なレパートリーだろうから、過去にも作曲家を含めて多くの名演奏が行われていたのだろう。それでも過去の録音やVIDEOなどを見ると実際に確りと音化されている例は少ないようである。プロローグにもオペラにもなかなか手強い場面があるようで、音楽的に十分に再現されている例を知らない。

リヒャルト・シュトラウス作曲の手の込んだ詰まった織物のような、そして一つの長いフレーズの中で確かな拍子を与えないと、どうしても冗長で杜撰な印象しか与えない。なるほど、演奏家が口走るように、指揮の打拍の視覚的な正確さとキメが、このような場合の正確な演奏に繋がる意味が良く理解できる。シュトラウスの交響詩だけでなくオペラでも、それが正確なアンサムブルでは無く本来の音楽的な意味を語っていたとは正直これまでは気がつかなかった。アインザッツやアウフタクトを正確に打拍するだけでは駄目なのは考えてみれば当然なのだが、それが音楽的な演奏実践と認識させるような指揮者がいなかっただけなのである。



参照:
ミュンヘンからのお便り 2015-10-07 | 生活
竹取物語の近代的な読解 2014-12-31 | 文化一般
Ariadne auf Naxos Böhm Janowitz
by pfaelzerwein | 2015-10-11 00:01 | | Trackback
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