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アクセスをインタープリート

最近の記事でアクセス数が多かったのはブーレーズの追悼記事であった。指揮者としては馴染みがあって、誰でもその名前は知っていてもその生涯の業績を一望出来ている人が少ない。パリからの文化番組などを見ていると、インテリ面したゲストたちは皆、いついつのどの曲が良かったとか話すのだが、ドイツでシュトックハウゼンのこれこれとかいう人は不思議に思われるが、ブーレーズの場合はある程度トレンドになっていたことが窺える。ある意味では1968年の市民革命の流れもあるのだろうが、日本で同じように武満とかいうのはあまり聞いたことが無い。武満がそもそも商業主義の中にいたからだろう。

日曜日にレジデンスを目指してミュンヘン市内で車を走らせていた時である。お好みコンサートと称するバイエルン放送クラシックの番組で、ヘラクレスザールからの2007年の中継録音が流れていた。シューベルトの鱒を放送管弦楽団の面々とランランが弾くというものだった。恐らく企画自体は、このピアニストに室内楽で少しでも音楽を教えていやろうとするものだったのだろう。しかし、流れてくる楽章からは到底学習不能としか思えない弾きぶりだったが、それ以上にとても不器用だと思った。鱒の動きの感じが出なくてそれがトムでもジェリーでもどちらでもよいのだが、室内楽のピアノとしてどうしようもないタッチで弾いていた。

どこかで習っている筈だけど、一度あのようなピアノを売りしてしまうと、まともなピアノの弾き方が出来なくなるらしい。あの程度で音楽学校の卒業免許がもらえるならば、マンハイムの学校にも韓国人やらなにやらあの程度のピアノを弾くもの幾らでもいる。なんら疑問を持たずに「あそこまでチンドン屋をやれる知性」というものが備わる人がなかなかいないから、彼の業界での存在理由であり、そうした商業主義の恐ろしさはどんなイデオロギーよりも恐ろしいと思う。

ハムブルクでフクシマを舞台にした細川のオペラの新聞評などを見た。ケント・ナガノがインタヴューにも答えていたが、何らかの芸術的メッセージをそこから読み取ることは出来なかった。なるほど細川の音楽の日本的な素材などは最近の特徴であるが、正直我々はそこから何をどのように受け止めてよいか分かり難い。19世紀には移民をしていて、それでも僅かに三・四世だとか、不思議なナガノ家であるが、本当は外から見た日本の音楽をしっかりとインタープリートして貰わないと困るのである。もしそれが正確に出来ないとしたらそのような曲を紹介する価値すら疑わしくなってしまう。ケント・ナガノがなぜミュンヘンで成功しなかったかはそこにあって、その音楽ほどに知的な雄弁さが全く感じられないのである。

色々と調べていると、キリル・ペトレンコによって代われれたのはケント・ナガノだけでなく、最後のヴィーンでの小澤のチャイコフスキーもペトレンコが振っている。想像するに、小澤やナガノの演奏の完成度以上に精密な演奏が出来て、更にそこに芸術的な価値が加わるということで、必ずしも偶然の人選ではないということだろう。



参照:
ピエール・ブレーズ追悼記事 2016-01-08 | 文化一般
「南極」、非日常のその知覚 2016-02-03 | 音
きっとアームストロング 2016-01-15 | 音
不可逆な無常の劇空間 2016-01-18 | 文化一般
by pfaelzerwein | 2016-02-08 00:00 | 文化一般 | Trackback
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