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思わず感動するお勉強

楽劇「ニュルンベルクのマイスタージンガー」の勉強を先週あたりから始めた。一通り、三四回に分けて先日入手した四枚組CDを、一幕から三幕まで通した。ダウンロードしたこれまた初見の楽譜を前にこの作品を最後まで流して、思わず感動してしまった。なにも録音されている音源がそれほど感動させるものなどでは決してなく、寧ろ感動させないように演奏録音したかに聞こえるものだ。この世代のドイツ系の指揮者の典型かもしれないが、非ナチを貫く芸術を目指したかのように、上手くツボを外したものである。

指揮者ヴォルフガンク・サヴァリッシュといえばフィッシャーデースカウを代表とする大歌手の伴奏を務めたピアニストでもあり、ミュンヘンに君臨した監督であるが、不思議なことに制作録音にあたっても、十分に統一的なアーティキュレーションなどを、ミュンヘンのアンサムブルの歌手と打ち合わせていないかのようでさえある。助手にもそこまで徹底させていなかったのだろう。しかしながら各々の歌手がそれだけ高い芸術歌唱を繰り広げている訳ではないので、勿論音楽的には大分物足りない。

こうした音楽監督の在り方もその時代性なのかもしれないが、本人の個性だったのかもしれない。考えようによってはあの当時はまだまだミュンヘンなどではバイエルン方言で音楽をやれる土壌といったものがあって、現在のように外国人の歌手や演奏家などを一から指導して統一しなくても何とかなったのかもしれない ― そうした事情はヴィーナー方言でも同じであり時代は変わっていっているのだろう。

今回は録音などの逐一の聞き比べは出来そうにもない。理由は、この制作録音からだけでも数々音楽的な聞きどころが浮かび上がってきたことで、その一つ一つを洗い直していくだけで手一杯になりそうだからである。予想を超えて遥かに手応えがありそうで、フゲットだとかそうした音楽構造的な作曲技法を超えての対位法的な書法などもこの創作の匠となっていて、まさにこの曲をして楽匠ヴァークナーをみる想いである。

楽譜を眺めているだけで、初日が迫っている今回の上演で予想される音響が鳴り響く。なによりも目立つのはヴォルフガンク・コッホの歌うザックスであろうが、なぜこのように楽匠がザックスを描いたのかは追々見ていかなければいけないが、今回のベルカント唱法の親方役のために出てきた歌手のように思えるほどに楽しみだ。嘗ての当たり役は一体誰だったのだろう?そこにヴァルター役のヨーネス・カウフマンの声が重なるかと思うとオペラ的にも匹敵するようなものは少ないほどの魅力である。なによりも感動させるのは、思いの外錯綜した楽譜を過不足なく鳴らすことが待たれていて、漸くまたここでキリル・ペトレンコ指揮で多くのことが実現しそうだからである。まさしく音楽的な感動は楽譜の中に存在していて、中々音響として実現されていなかったに過ぎないのである。

それ故にこの楽劇が、上塗りされ、あちこちに滲みや汚れがつけられて、芸術や匠とは遠く離れた近代のマスの中でナチズムに都合よく利用されたのであろう。如何にこの楽劇をまともに上演することが音楽的に難しいかである。色々な誤魔化しやまやかしのような演出や上演などが戦後も長く続いたが、漸く今回この楽劇の全貌が、丁度名画が蘇生されるような感じで、輝かしくドイツの匠として蘇りそうである。音楽的にお勉強していくと、もはや中継ラディオを聞かないでも、上演を立見しないでも十分に満足してしまいそうになる。ここまでの妄想になると我ながら可成りの重症患者のように想う。



参照:
まだまだインドーアライフ 2016-03-31 | 生活
My Star Singerの経済的効果 2016-03-12 | 雑感
by pfaelzerwein | 2016-04-28 17:24 | | Trackback
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