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ベルカントで歌うこと

どうして難しかった、「マイスタージンガー」の一幕の構造を把握するのは。通常の指示動機の関係だけでなく対位法にも関係するため、その手練手管まで覗きこまないとなかなか把握できない。それでも叙唱や経過節などはどっちつかずで楽匠の創作意思までは見通せないところも残る。

有名な前奏曲からしてそれほど単純ではないと改めて感じた。どこからどこまでが対位法的な意図で以て準備されているかまでは、対位法というものを勉強した者でないとなかなか予想がつかないかもしれない ― フィナーレにもブルックナーの影響が感じられる。なるほど名曲に相応しく、同時にこの楽劇を充分過ぎるほどに前奏している。マイスタージンガーの動機、行進、芸術、ヴァルターの情熱、苦悩、愛の動機、徒弟の踊り、これだけの動機付けがなされていて、その動機の原型から当然のごとく組み合わされることになる。

幕初めのコラールのパロディーから、ユンカーのヴァルターの熱情、苦しい情熱と前奏曲から上手に続けられる形になっている。それに続く徒弟ダフィトの動機がまたマイスタージンガーの動機に続くことになり、そしてヴァルターへと戻される。そして第二場に入ると、規則尽くめの歌としてフランスバロックオペラもしくは古典的べルカント歌唱のパロディーとなると、一般的に言われているようなベックメッサーことハンスリック一派への反撃というよりも、もっと大きな美学的視点でのパロディーになっている。言葉を代えるならばまだまだここまでは充分なプレゼンスはないもののザックス親方がそのものベルカント唱法を土台として登場することも理に適っているのである。

それが記録係の動機となり最後には花環の動機となって第三場へと進むと組合の動機と呼ばれるこれまた特徴的な動機が繰り返され、それにヨハネ祭の動機が組み合わされると、この幕がどのような結末を迎えるかが見えてくるのである。実際に、ヴァルターの動機、ベックメッサーの動機、靴屋の動機、友情の動機と多層的に組み合わされることが充分に見通せて来るようになれば、続く二幕、三幕へと大きな道筋が引かれることになる。前奏曲、一幕とたっぷり時間を掛けてお勉強しなければいけない理由がそこにある訳で、これであと十日ぐらいのうちに何とか最後まで辿り着けるだろうか。

蛇足になるが、やはりフルトヴェングラー指揮の1943年バイロイトでの実況録音を比較対象とした。驚くべきことにあの状況でもなかなかの演奏を管弦楽がやっていて、なによりもフルトヴェングラーの指揮がとても音楽を解り易く正確にしている。再三の繰り返しになるが、なぜか戦後は何もかもが変わってしまった。当時は各々の歌手のまるで台詞芝居をしているかのようなアーティキュレーションの素晴らしさを披露していて、統一とか何とかを言う前に、舞台に本当に生きているかのような親方たちなので、指揮者が云々言うまでもなかったのだ。そして、それを指揮する音楽は決してアウフタクトから次のアウフタクトへ流してしまうような方法ではなくて、四分の四拍子などだけに限らずしっかりと拍を刻んでアーティキュレーションしている。問題は、なにもフォン・カラヤンの責任ではなくて、参考資料のサヴァリッシュ指揮にしてもそれは同じであり、敢えて言えば今でも人気のアンドリス・ネルソンスなどにもみられる傾向かもしれない ― 商業的なプログラミングの市場でこうした傾向が時代遅れ的に残存しているのに注目してもよいかもしれない。奇しくも、ヴィースバーデンでの「ディ・ゾルダーテン」の新制作の新聞批評で、その曲の初演を不可能として断ったのが、略同世代の指揮者ギュンター・ヴァントとヴォルフガンク・サヴァリッシュだったとあった。なるほどと思い、ここでも複雑系の処理が出来ていないのは致し方ないのかもしれない。超一流との差異と言えば元も子もないかも知れない。(続く




参照:
思わず感動するお勉強 2016-04-29 | 音
芸術的な感興を受ける時 2016-03-15 | 音
ペトレンコ指揮に音をあげる 2016-04-04 | 音
by pfaelzerwein | 2016-05-05 19:15 | | Trackback
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