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社会的情念の暴力と公共

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新演出の楽劇「ニュルンベルクのマイスタージンガー」の第四回目公演に出かけた。初日のラディオ中継との比較と舞台演出の感想を纏めておこう。もう一度体験する機会があるのではないかと思わせる可能性のある新制作だと感じた。ミュンヘンでの初演からの12回の歴史の中で、そのエポックメーキングな譜読みだけでなく、今回のものが完成作品となる可能性はなくはないからだ。

ブーイングは、初日同様にその夜も生じていたが、それは終幕のどんでん返しのようなベックメッサーの自害にある訳で、ある種の衝撃とその意味するところの理解によっては成功作となるのである。私自身その悲劇の落ちは聞いていたが、最後の最後の幕が下りる前の急展開で、それだけ喜劇の中の悲劇には効果はあった。

音楽的にも今回は、三幕が特に上手く運んでいて、第四場においてエーファがザックスをその朝に訪ねるところから、ヴァルターの歌、そして有名な五重唱までがクライマックスとなる。特にエーファを若いヴァルターに追いやる場面の激しさは、その後にパロディーとして鳴らされるマルケ王の嘆き以上に激しいのだ。まさにここでIntimの親密な世界から公共や自主へと世界が広がっていくところなのである。

それはハンス・ザックスに投影される楽匠自身の解決であり、それは芸術信条を歌いあげる最後の演説へと、その社会を通して羽ばたいていくのがこの幕であり、その芸術だった。同時に苦労をして付け加えた演説の場へと、ハンスリックが初演当時から批判しているような音楽的な単純さこそが暴力そのものであるともいえよう。

このインティームから暴力への激しさは、二幕において夜の町の騒動の暴力として動機化されて音楽化されているものであり、今回の演出では二幕の幕尻の暗転直前のベックメッサーに振り上げられたこん棒で十分に表れていたものであり、当然の帰着としての最終幕の落ちだった。その暴力のありどころこそが、この楽劇にあるとするならば、それは楽匠が扱っていた「音楽の大衆性と芸術的な精華」の美学的関心は、そのもの20世紀へと引き継がれる「社会的暴力機構」のカノッティー的なまたはマックス・ヴェーバー的な社会学的考察ともなる。今回の制作で音楽的な必然性はここにあるのと同時に、流石に天才指揮者の譜読みと指揮と感心するところである。

因みに戦後の西側体制を音楽的に虚飾して体現したフォン・カラヤン指揮演奏では三幕のそこは完全に灰汁抜きされていて、クナッパーツブッシュ指揮のそれに遠く及ばない。そうした大雑把の対極にある戦時中のフルトヴェングラー指揮は、室内楽的な繊細との対比で、そこのフォルティシモへの爆発は優れているのだが、その後の運びがいつもの痙攣状のアチェレランドのフルトヴェングラー節になってしまっていて興醒めしてしまう。

そして最終情景でハンス・ザックスが芸術について演説するときの背景にまるで記録ニュース映画を想起させるような抽象的な映像が映し出されて、舞台の照明は丁度舞台全体に、その白黒フィルムのノイズをちりばめたように「ミラーボール照明」のフィルターを掛けることで、間接的ながらも20世紀の社会学を抽象映像化していた。これは決してナチズムを具体的に扱ったものでもなく、そうした社会と人を一般化、相対化した表現である。

音楽的な裏付けとして、事例を幾つも挙げることは出来るかもしれない。有名な前奏曲から音楽監督のキリル・ペトレンコは脱パトス化を果たしたと評価されているが、実際にあの残響の豊かな劇場で聞くとマイクを通したものとは異なって、早いテムポも丁度良い印象で決して早くは感じさせない。なぜ、MP3程度の実況放送は決してライヴの感覚を伝えないかの音響技術的な好例である。それゆえかどうか初日よりもずいぶんと早く終演を迎えている。一幕では回数を重ねるにつれて更に明白になってくるに違いない。

歌手は、問題だったエーファを歌ったサラ・ヤクヴィアックも批判された歌詞の明瞭性に神経を注いでいたようで、技術的な問題もあるのだろうが、大分よくなっていた。既に述べた三幕の核心部では立派な歌唱を披露していて初日とは大分違っていた。ベックメッサーを歌ったマルクス・アイへも上出来で芝居を含めて評判も大変良かった。ポーグナーやパン屋のコートナーなども十分すぎる出来であったが、なによりもヨーナス・カウフマンはその名声だけの歌唱は披露していたに違いない。しかし予想に反してミュンヘンの劇場ではそれほどバカ受けするようなことはなく、断然ハンス・ザックスを歌うヴォルフガンク・コッホへの喝采が圧倒的だった。歌唱的にもバイロイトのヴォータンで見せたように力配分などは繰り返すうちに更に良くなると思うが、十二分な存在感があり、オペラファンは満足したであろう。

放送で感動した二幕のザックスは、反対に抑え気味の歌唱であった。実は行きがけの車の中で二幕と三幕をサヴァリッシュ指揮の録音で聞いていたのだが、その二幕などはやはり可成りロマンティックな要素が強くベルント・ヴァイクルの歌声だけでなくて、管弦楽が表情に富んだ音楽をやっていた。それに比較すると、なるほどバイエルン放送局で二幕の後半の舞台が成功していたとあったが、ベックメッサーを作業用リフトに乗せてセレナードを歌わせて、その後の暴力的な騒動へとフィナーレを築く構造は、音楽的にも情感的に計算されたものであることが分かる。

つまり、美学的にみて、そうした情動的な効果こそがポピュリズムであり、高度な芸術がそれによって初めて広い層の人々を動員する働きかけになるという社会学的な構造へとも投影されるところなのである。今回の新演出のプログラムにおいても前記したの三幕の有名なエーファから導かれる五重唱において、各々のソリストが社会の各層つまり音楽的には対位法ともなる層へと進展するように創作されていると書かれている。同様に、ヴァルターが歌う優勝の歌へと導かれるザックスの工房での歌には憧憬やファンタジーはあっても現実性に欠けていた歌が、楽匠の最も示したかった自由な創意によってそれを確保できたとしていることは、まさしくこの楽劇の本質に繋がる繰り返される主題だったのである。

この楽劇は、近代の課題を扱っていることは確かでありながら、同時にそうした課題を台本にも音楽にも有していたのは今回の舞台と演奏によって再確認されたことになる。20世紀の後半には、ナチズムのこの作品の政治利用からの脱却しか、この作品が生き残る可能性が無かったのであるが、ナチズム自体をこの創作の背後にある近代化の一諸相と見做す時に今回のような演出が示したものは必ずしも間違ってはおらず、まさしく自己崩壊のその社会システムを体現したのがベックメサーでしかないともいえる。

音楽実践でまた面白く聞いたのは、ポリフォニーのホモゲニ―な響きであり、ペトレンコの「指輪」指揮から予想されたような声部の分離の良さよりも、この創作の基礎にあるベートーヴェンの交響曲の編成と変わらない管弦楽団の織りなす響きが丁寧に鳴らされていて、この曲の楽譜がトリスタンやジークフリート以降の作品とも以前とも異なっていることを実感させたことである。同時にそれは通俗性へとの足場となっていることから、劇場の奈落で可能な響きとしては新鮮であり、そうした通俗性と表裏にある退屈な響きの対極にあるものだった。



参照:
「マイスタージンガー」の稽古 2016-05-17 | 音
耳を疑い、目を見張る 2015-05-27 | 音
生放送ものの高解析度ぶり 2016-05-23 | 音
by pfaelzerwein | 2016-05-31 18:46 | | Trackback
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