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目を瞑って眠りこける

舞台神聖祝祭劇「パルシファル」の新制作生中継を聞いた。ひとことで言うと、2004年制作の「パルシファル」が再び脚光を浴びる新制作だったとなる。それは個人的な思いだけでなくて、上演後に皆が口にしたことでもある。ラディオ生中継で舞台は分からないが、音楽は楽譜を捲りながら流した。ノートブックのラディオよりも悪い音響だったが、お蔭で演奏自体はよく分かった。様々なところに少なくともペータース版の楽譜に書いていない指示がなされていて、しばしば異なる音が流れていた。あとで聞くとヴィオリンだけでも300か所以上異なったことをしていたようだ。全ての指示は指揮者ヘンシェンが持ち込んだ書き込みにあるらしい。その土台になっているのはエゴン・フォス博士の校訂のようだ。今回の上演での管弦楽における聞きどころは此処であった。

同時に、話題になっている舞台と共に、如何にオペラ指揮者と呼ばれる人々もしくはスター指揮者と呼ばれない二流指揮者が振る、普通のオペラ公演と超一流指揮者が制作に係わるスーパーオペラ公演の差が激しいかを、これほど如実に聞かせてくれた演奏も珍しい。

なるほど楽譜の違いは部分的にボーイングどころではなくて、スラーもスタッカートもスフォルツァンドもフォルテピアノも楽譜に同じものが弾き分けられていて、半音も違った音が鳴るところがあるというのは音としてて如実に表れていたのだが、如何せん、こうした楽譜への拘りと、その音楽の構造的な脈略の提示とは、また異なるものなのである。要するに指揮者が充分に楽譜を読み込めていないということでもある。木を見て森を見ずである。

なるほどこの指揮者の良いところは、初代音楽監督のようにアウフタクトからアウフタクトへと引っ張ってドイツ風を演出する如何にもドイツオペラ劇場風の月並みな読みとは異なって、しっかりと弱拍も音価を充分にとって読み込んでいるのだが、如何せん技術的な拍打ちが悪いのかどうか拍子が暈けてしまうのである。拍子感が重要なのは、丁度物理現象と同じで水が上から流れるようにもしくは水車が回るようなポテンシャルエネルギーが無いと流れとして成立しないからである ― 先日日本の女流ピアニストの休止が日本的間だと書いてあったが、休止を含めて拍子感の中で動かないと自然な音楽の流れにはならないのである。

だからFAZのおばさんが終了後に溢すように「退屈で仕方がない」というのは事実で、PCの前で眠くて仕方が無かった。クールな音楽はそれで構わないのだが、パルシファルを歌ったフォークとが逆説的に語るように、「速度の問題ではなくて、ゆったりとしたテムポ感でも緊張感は築ける」というのとは正反対に、幾らテムポをあげても弛緩しっぱなしではどうしようもない。キリル・ペトレンコがやるように、アウフタクトを殊更強調しないで、しっかりと歌いこむのはとても難しいということである。

序ながら、番組中のインタヴューで初代監督ティーレマンが今回の一連の騒動について釈明していたが、予想通り祝祭劇場や奈落の音響やその点に関して助言するのが当然としていた。それだけでなく本来の指揮者であったアンドリウス・ネルソンスは反論出来るような指揮者でないことは、今回の一連の状況から明らかで、パルシファルの楽譜を読み取るだけの実力は有していないということになる。なるほど色彩的に管弦楽団を鳴らすことは期待されたが、楽譜から音楽を引き出すだけの能力に欠けるのだろう。こうした種の才能豊かな指揮者は数多いがその中の筆頭格のようである。要するに才能溢れる指揮者であっても才能ある音楽家ではないということである。勿論プログラムビルデュングからしても一流の芸術家でもありえない。

おばさんが、あの時は全然違ってシャープだったというように、その2004年のブーレーズ指揮のMP3を鳴らすとその記憶が甦る。なにもヴィオラやチェロだけでなく、とても密な音響が強い緊張感を以て響いている。あれだけ落ち着かないテムポでも音符をしっかりと読み込んでいるのだが、今回は部分部分を鳴らして繋いでいるような、一拍づつ録音して繋いだ様な演奏だった。その一拍も、垂直方向にも充分コントロールされていないので、密な音響にもならない。これはアンサムブルの問題だけではないだろう。

思い起こせば、2006年以降は指揮者ブーレーズは降りて、アダム・フィッシャーが振って、確か「音楽を引きづって」いたと不評だったが、ダイナミックに「指輪」を手際よく鳴らして成功しているこうしたオペラ指揮者にとってもパルシファルの音楽はとても難しそうである。久しぶりにマンハイムでのヴァークナーのパルシファル上演などの退屈な感覚を思い起こした。それでも指揮者のヘンヒャンに関しては学術的な成果を少なくとも音にして、そして限られた練習の中で上演にかぎつけたとしての実力は評価する向きが多い。要するに玄人向きである。

舞台に関しては早速全幕のVIDEOが提供されていて、観覧できる。残念ながら故シュリンゲンジーフの演出が再評価されるだけ、この演出が安物でこのような場所でやられるべきものではないというのが評価であり、一々見通す気も起きない。要するにシュリンゲンジーフが示した一神教を超える全宗教的な高まりを示すにはあまりにも稚拙でキッチュでしかないということのようだ。なるほどパルシファルを歌ったフォークトやクンドリーの歌い手などは上的だったが、それでも目を瞑って聞く価値のある上演だとなると、如何に酷い舞台かが想像される。私などはネット配信を聞いていたのでせめて舞台があれば眠くならないかと考えていたが、これはどうしたことか。改めて2004年のより高品質のライヴ録音を探してみたくなった。因みに八月のカストルフ演出ヤノフスキー指揮の公演のティケットがまだ余っているようだ。



参照:
ちぐはぐな夏の雰囲気 2016-07-14 | 雑感
デューラーの兎とボイスの兎 2004-12-03 | 文化一般
伝統という古着と素材の肌触り 2004-12-03 | 文化一般
by pfaelzerwein | 2016-07-26 18:39 | | Trackback
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