インタヴュー、時間の無駄六

経済欄にブレーメンの室内管弦楽団の記事が出ていた。世界的に有名な楽団であり、上手いというのは知っているのだが、生で聞いたことはない。指揮者がハーディングとネルヴィの息子という事で分かるように、恐らくそのプログラムや企画が視野に入らないからだろう。共同有限会社として活動していて、連邦共和国の管弦楽団が平均で17%しか自給していないのに、自給率70%の六百五十万ユーロに達しているという経済優等生として紹介されている。給与も所謂Aランクで年四万ユーロぐらいから六万九千ユーロを楽員に支払っている。

また違う記事では、所謂クラシック音楽の聴衆は増えているというのがあった。詳しくは読まなかったが、コンサートホールが幾つも新設されるぐらいだからある意味事実なのだろう。その中身が問われることが無ければ、嘗ての一部の都市層よりも広がりを見せている可能性はある。その証拠に私などが全く関心を持たない、絶対行かないようなコンサートなどが沢山催されているのを見ても分かるのである ― 同時にこの楽団のように世界中にどさまわりもしている。市場がそこにもあるという事だろう。その一方この二年間で四分の一に当たる管弦楽団が倒産もしくは解散して残りは131団体になったという。それでも多いのか少ないのか、どうかは分からない。一回で七時間も練習で合わせることが出来るという上の管弦楽団が上手に弾くことは充分に予測できる。但しよく聞き込んでいる人になると、楽譜を見ればとまでは言わないが、少なくとも録音などを聞けばライヴでどのような音が鳴っているかを想像できる楽団の演奏会などは視野に入らないという事になる。

その意味からも、今年のバイロイトでの楽劇「トリスタンとイゾルデ」の批評を読んでも、昨年も中継もされて、そしてその音楽運びも分かっているのに態々それについて可成り否定的に批判しているのも不可解である。そもそも昨年のアゴーギクなどが部分的にたとえ上手くいっていたとしても、音楽的に合理性がないものはあざとく繰り返されるうちに、あらとしか響かなくなるのは、「ノイズ」の混ざるライヴ録音を繰り返し聞いていられないのと同じような現象なのである。要するに意味のない表現やドライヴは音楽演奏の否定的な意味しかないという事なのである。

さて、いよいよキリル・ペトレンコの「インタヴュー、時間の無駄」の最終回へと行こう。このほかにも各々のプロジェクトに答えた短いインタヴューなどは存在するが、こうしたプロフィールの全体像を形成するようなインタヴューは他には見当たらない。今後も場面に対応した限られたものしか行われないであろう。


承前あなたの年代の指揮者なら、定まったポジションがあれば喜ばしいと思うのではないでしょうか。それが、これで完全なフリーになろうという。リスクではありませんか?

本当のリスク、つまり、なんら要求を充分に満たせないという危険です。それに対しての特効薬はないのです。あなたが言うようなリスクではないですが。幾らかのオファーがあり、仕事量を減らし休息するだけは経済的に許されます。指揮者にはこれも必要なのです。ひっきりなしに仕事をしている訳にはいきません。私たちは感情的に創造的にも仕事をしているからです。作曲家が望んだものを創造的に再創造して、一つ一つと片付けていくようなものではなくて、作曲家を人格的にも精神的にも全身全霊で代弁するとは、ただ単に楽譜を音化するだけではいけないのです。これは、それだけのものを犠牲にするということです。先ず僕はここで休息を取る必要があります。きっといずれまた役職に就くでしょう。自分自身は未だ嘗てフリーランサーであったことがないので、どのようなものか試してみないと何とも言えません。もしかすると直ぐに、「ああやれやれ、もう役職なんて」と言うのか、「ああ、直ぐに役職をお願い」と言うのか。

音楽以外では、一体何をされてますのでしょうか、それとも一日中楽譜に首ったけですか?

残念ながら、そうなんですよ。仕事ですから。二十四時間業務です。グリゴリー・ソコロフは、「たとえピアノに向き合っていなくても二十四時間練習しているだろう」と話しています。

本当ですか?


しかし彼は一種の天才でもある訳です。ロンドンで聞きましたが、本当に吃驚しました。残念ながらここではまだそれだけの価値は評価されていません。

二月のリサイタルを聞かれたのですか?

聞けませんでしたが、感心してます。彼から学ぶことは多いです。聞き入るだけです。質問にですが、例えば「(レハールの)微笑みの国」のような制作の真っ只中にいると、なにも他には出来ません。帰宅すると、疲労困憊して少し横になって、天気が良ければ散歩に出かけてってことになります。

しかし本は読まれる?


そういうことはないです。気分転換が必要な人は多いですが、僕の場合仕事に縛られていて、どちらかと言えば単主題的な人間です。時間があれば、もう一度楽譜にあたってみたり、問題のある個所を研究します。それ自体が本当に意味あるかどうかは別にしてです。自身、そうしたものです。

コーミッシュェオパーを辞めてから、どこで聞くことが出来るのでしょうか?


まず最初にヴィーンのアンデアヴィーンで、またしばしば国立劇場で、ニューヨークではいつものように、ロンドンのコヴェントガーデンで、またミュンヘンやフランクフルトでとなります。

此処ベルリンで、チャイコフスキーの「スペードの女王」を聞きたかったのですが。

ああ、いいですね。本当にいいですね、あれは、チャイコフスキーで最も好きがオペラですよ。激しい作品で、真の心理表象ですね。酷いですよ、本当に酷い。

時々、恐ろしく思いますか?

ええ、深淵が開くとこでの認知、酷いですね、人生で直面する以上のそれをどのように芸術的に示すことが出来るのかを自問自答します。どこからそのものを見出せるのか?難しいですね、でもやらなきゃならない。

次にやりたい作品は?チャイコフスキーの第六交響曲?


それはないですよ、本当に今?


ええ。


この曲はそろそろ一度やりたいとは思っているのです。一番恐れている曲でして、想像できない。

あなたの言うように、作曲家を全身全霊で代弁するとなると、死への誘惑と自身の存在を掛けないといけませんよね。

そして経験からの反映というようなものがまた必要になります。それにも拘らず交響曲として、先ずは「良いときも、悪いときも」のTVドラマシリーズとしてではなく、この曲を理解してということです。本当に恐れおののき、先送りしている作品ですが、一度は経験しないと、そして近々やりたいですね。(終わり)


ここまで悲愴交響曲について語られると、来年の演奏を期待せずにはいれなくなるのだ、たとえその可能性が一面においての可能性だとしてもである。そして、その前には前哨戦の様に九月に第五交響曲が演奏される。それも四番でないことの意味までを考えてしまうのだ。謂わば音楽を特に名曲をよく聞いていて、耳にタコが出来た症状に近い人にとっても、久しぶりにその生の音に触れてみないと分からないと思わせる芸術家が漸く出てきたということであり、その意味からもコンサートが、音楽劇場と肩を並べて、再び文化的イヴェントとなる好機となっている。



参照:
ハリボ風「独逸の響き」 2015-07-27 | 文化一般
インタヴュー、時間の無駄四 2016-08-03 | 音
インタヴュー、時間の無駄三 2016-07-30 | 文化一般
インタヴュー、時間の無駄二 2016-07-24 | 歴史・時事
インタヴュー、時間の無駄一 2016-07-20 | 文化一般
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by pfaelzerwein | 2016-08-12 22:25 | 文化一般 | Trackback
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