夜更かしの夏の日々

夏休みの宿題に夜更かししている。半泣き状態である。なによりもリゲティ作曲の「ロンターノ」に予想以上に梃子摺っている。なによりも時代の作風が楽曲分析を難しくしている。音の使い方にしても、物理の確立法的な方法でしか中々その群や雲を計測できない。それでも表面的には、単純な対位法的な容易さがあるのがまた話をややこしくしているのかもしれない。カノンといっても発展のしようがないものであり、その代り多声部の強弱や奏法やメリスマ風に伸ばされることで、複雑な音響空間を形作っている。

なるほど構成的には、三部構成で、ユニゾンの多声カノンに、クラスターの雲が続く形が基本形となっている。そのカノンを分析すると一定音高の出没頻度の増減がみられるが、これが戦中戦後の12音楽法的な禁欲的な作曲技法との最も異なる点としても良いのだろう。同時にそうした多声な音がどのように重ねられてどのように響くかが肝心だ。そもそも協和音体系自体がこの音響的な重ね合わせの統一化された組織であることからすれば ― 物理化学的な極性を扱うのにも似ているかもしれない。

第一部で気がついたのは、そのカノンの終わりからクラスター部へと移り変わるところで、まさしく欠けた音が存在してそれを潜在的に意識させるのかもしれない。そこでこれまたトューバなど低声部でDesなどと明白に出て来ると、思わず遠く彼方に「ラインの黄金」の原始の前奏曲をそこに聞いてしまう。これがパロディーではなく、まさしく表題通りに四次元的な距離感を持って浮かび上がるのが、恐らくこの創作の本質だろう。

論文によると、バルトークの影響などと書いてもあるが、具体的にはまだ分からない。それでもあの時期のあの状況でこうした創作をしていたのだ。この作曲家は個人的にあまり好きではなかったが ― 同席した節も皆の様にアウトグラムを貰う気などしなかったのだが、こうして作品を備に見ていくと、その創作意図と技法に歴史的な土壌を感じることが出来て美学的にとても感心した。

こうした作品は生演奏で、楽譜を読める指揮者の指導で、演奏するのを体験しないと全貌は明らかにならない。今回手元にある音源資料は、ヴィーンモデルンとベルリンでの、其々クラウディオ・アバド指揮とジョナサン・ノットの指揮であるが、双方ともライヴ録音のお粗末なもので、もう一つ詳細不詳のものがYouTubeにあった。アバドのものは、なんでまたこんな座付管弦楽団に何を教えようとしたのか分からないが、こうした録音を恥だとは思わなかったのだろうか。ノット指揮の方は、忠実にダイナミックスを辿ると同時にまるでアルバン・ベルクの楽譜かのように徹底してその声部が強調されることになっている。楽譜の冒頭にもあるように、指揮者は的確にリズムを与えるだけで、決して強調表現しようとしてはいけないとあるが、こうした声部の強調はある意味諸刃の剣だろう。

これで火曜日から土曜日まで一滴もアルコールを口にしていない。完全に病気だと思う。それも重症である。時々アルコールを抜くと体調が良くなるとか、頭が冴えるとか聞くが、今回明らかに抜けているのにも拘わらず全く体調も冴えなく、寧ろ暑さが心臓に来ている。そして、夜更けまで楽譜や論文などを見ていても眠気を我慢するのが大変である。全然効果が無い。アルコールを夕飯時に飲まないと、就寝までは勉強が出来る。それでも昔の深夜放送族ではないが、長く覚醒して起きているだけで必ずしも勉強が進んではいないのである。それどころか、一寸慣れないことに首を突っ込むと集中しようとすればするほど眠くて仕方が無くなるのである。やはりお勉強は午前中に限る。



参照:
ボンで「ロンターノ」1967 2016-04-24 | 雑感
必然的帰着からの予想 2016-07-16 | 雑感
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by pfaelzerwein | 2016-08-27 21:32 | 生活 | Trackback
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