今こそ睡魔と戦う時

お勉強をしていると直ぐに眠くなる。特にモニターで中途半端な大きさのスコアなどを見ていると、直ぐに意識が失せてしまうのだ。集中力がついたなどと格好の良いことを語っても、身体も適当に疲れていると、中学生が机に向かうのと何ら変わらない。要するに直ぐに酸欠状態になってしまっているのである。身体を動かさないと血の巡りが悪くなると言って身体を動かすと今度は疲れる。空腹を感じたと言って暖かいものでも腹に入れればもう駄目だ。まあ、同じようなことをしながらマルティン・ルター博士も悪魔と戦っていた訳で、所詮そのようなものではなかろうか。

バルトークの協奏曲は若書きとしてもどうして紛れもない天才作曲家の創作だと分かる。後年のような構造的な独自性はなくとも紛れもない音の選択をしていて、お蔭でヴァイオリンと管弦楽の織りなす音響もとても魅力的になっている。特に第一部のアンダンテにおけるヴァイオリンへの管弦楽のまるで影のような絡みは、その曲が気のない男からの献呈としたら到底受け入れられないものだっただろう。あれ程の絡みつきは珍しい。決して粘着的なものではないのだが、痒いところに手の届く様なまるで分身かのように管弦楽が付き纏うのである。

そして第二部のまるでリヒャルト・シュトラウスの交響詩のような嘲笑ありで、バルトークも後年には全く異なったパロディー的な手法で表現しているものなのだが、この作曲の経過などからしてあまりに直截的なので、その表現がとてもそこの作曲家への理解を助けてくれそうだ。なるほど今回のヨーロッパツアーで一回だけベルリンで家庭交響曲と組み合わせれていることも明白であり、その一部の対位法的な絡みもまさしくリゲティの「ロンターノ」のそのものだ。要するにプログラミングビルディングからして立派な演奏会になっている。

それではチャイコフスキーの交響曲五番は?今回はどうしても指揮者ムラヴィンスキーが語っていたようなロシアの古典音楽としてのチァイコフスキーを考えてしまうのだが、すると気になるのがやはりテムポ設定と拍である。12拍子だけでなくて6拍子、四分の二拍子などこれらの組み合わせがどうしても気になり、ストラヴィンスキーとまではいかないでもその構造的な扱いが注目される。その意味からはこの交響曲は分かりやすいのかもしれない。具体的な実証は生演奏を聴いてからとなるのだろうが、そうなると今度はまたバルトークが気になって来るのである。

手元にあるバルトークの音資料ではブーレーズ指揮で分かりやすい音響となっているのだが、クレメルのヴァイオリンに影のように寄り添うということも無く、同時につけられているダイナミックスで何かを調整しているということも無いいつものこの作曲家の指揮であった。シカゴ交響楽団のそれに比べて座付の管弦楽団が何か違うことを聞かせるとすれば、まさしく寄り添う形の管弦楽なのだろうか?徐々に想像が膨らんできた。



参照:
夜更かしの夏の日々 2016-08-28 | 生活
インタヴュー、時間の無駄四 2016-08-03 | 音
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by pfaelzerwein | 2016-09-11 17:12 | | Trackback
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