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ドイツ的に耳をそばたてる

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承前)金曜日の文化欄に大きくヨーロッパツアーの記事が出ていた。新聞を開けなかったので気がつかなかった。本欄第一面の見出しには、ベルリナーフィルハーモニカ―の面々がベルリンでの公演に押し寄せて、次期の監督の音楽に耳をそばだてて、「選択は正しかったのか?」とまた馬鹿なスキャンダル紙並の安物の第一面索引の小見出しを付けている ― そもそもフランクフルターアルゲマイネ新聞の文化欄一面にコンサート風景の写真と記事が載るのは珍しい。勿論書いているのは音楽の分からないいつものおばさんである。そのおばさんは今回は追っかけを命じられたのか、全曲目を二三度聞いて、二度ほどリハーサルにも入れて貰って報告している。だからいくつかの情報は興味深い。

例えばパリ公演に際して、前夜のボンでのチャイコフスキーをキリル・ペトレンコは「ゼアーグット」と褒め称えて、更に開演直前まで服の着替え時間がないほどに同曲の細部を磨き上げたという。リゲティ作曲「ロンターノ」に関して、おばさんは演奏会場ごとに、ルクセンブルクの明晰なアコースティック、完璧なベルリンに比較して、ベートーヴェンハレでの柔らかな響きとしているのは正しいだろう。あれ程柔らかなトーンのリゲティ作品を実際に聞いたことがない。

老舗ズルヒャーツァイテュングでのルツェルン公演評は、書いた人は知らないが、ブロムシュテット指揮のゲヴァントハウス管弦楽団公演との比較で書いている。それによるとシュトラウスでの満足度が十二分ではなかったようで、その後のあったであろう「マイスタージンガー」のアンコールについても触れられていないので、実際の様子は分からない。一方、おばさんはベルリンでのアンコールについて書くことでそこを上手く逃げている。要するに音楽会全体の構成などに言及している評論家が居ない。お粗末なことである。

ボンでの「ルスランとリュドミラ」序曲のアンコールも決して口をつぶっておくべきものではないだろう。チャイコフスキーとこの曲で、嘗てのレニングラードフィルハーモニー交響楽団の生演奏やその録音などを思い起こす人はある年代以上の人には少なくない筈だ。なぜならばそれらは圧倒的な体験であって、チャイコフスキーの交響曲断ちなどを余儀なくされたからである ― 今週新聞にはアンドリス・ネルソンスが語るショスタコーヴィッチのインタヴュー記事が載っていて、ソヴィエトに生きていた人たちにとってはある程度の若い年齢層までが同じような感覚を持っているようなのが分かった。

勿論今回アンコールで聞かれたグリンカもヴァークナーも、嘗てのムラヴィンスキーの大ソヴィエトのそれでもなく、フルトヴァングラーのパトスでもないのは断るまでもない。快適なテムポでそれどころか滑稽味を添えた指揮ぶりと音楽は全く次元の違うアンコール演奏であり、この天才指揮者を以て我々は二十世紀のそれらを一挙に乗り越えたことを実感する。おばさんが書くように「管弦楽団も、指揮者が限界を踏み超えるのに、一緒についていく」という表現は正しい ― 具体的にはこの春に演奏されたメンデルスゾーンのスコットランド交響曲で、ヴィーンの座付管弦楽団が出来なかったことを、ミュンヘンのそれが出来ていることなどである。そしてスイス人はこれらをして非常にドイツ的と評した。

またまた音楽的な本質的な話にまで言及できなかったのでもう一つ付け加えておこう。今回私にとっては一曲だけ全く聞けなかったのは異なるプログラムの二曲目に演奏されたシュトラウスの「最後の四つの歌」で、歌手のディアナ・ダムロウの評判が頗る良い。本人もVIDEOで語り、指揮者も芸術上のパートナーと称しているように、今までなかったような色彩とその深みに達していると評されている。どこかの演奏が放送録音で聞けないのだろうか。この点では演奏されるフランクフルト公演の35ユーロが高価と買えなかったのを後悔している。(続く



参照:
今こそ睡魔と戦う時 2016-09-12 | 音
倭人を名乗るのは替え玉か 2016-07-04 | 歴史・時事
by pfaelzerwein | 2016-09-17 18:38 | | Trackback
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