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価値ある管弦楽演奏会

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承前)バイエルン放送協会がベルリンのコンサートに取材を出している。やはりその開演一時間前の会場リハーサルに帯同している。その家庭交響曲の音合わせで、「ここはもう少し早く!、昨日は皆幾分眠ってしまっていた。」と指摘されると、それに抗議して最前列のビオラ奏者が「ハッキリ言って、皆ではなく、ビオラという事でしょう。」とまるで船を漕ぐようにして、ユーモアたっぷりに、快活に声を上げた。まるで、修学旅行中の生徒と引率の先生のようであると報じる。その冗談にご満悦に、「それは実は全く正しいんだ、そこは寝入らなければいけないのだが、もう一寸あとなんだよね。」とキリル・ペトレンコが続ける。まさに、最後までこうして限りなく合わせている箇所は、「シュトラウス家の子供をベットに寝かし、もう少し仕事をして、妻パウリーナとの水入らずの時間となる。」そのところであった。

指揮者は冊子にコメントして「…家庭交響曲を勉強した後で、『影の無い女』に関して沢山のことが明らかになって来た。それどころか、この作品にはその後のオペラの多くが準備されている。それ以外にもここに『サロメ』も『ばらの騎士』も聞こえます。」と語っている。

更に放送はプログラミングについても触れている。ここが最も味噌なのだ。但し明白には触れていない。バルトークに関しても指揮者はコメントを書いていて、そこでは第二協奏曲との差異として、「民族的な要素やその他の独自の作風よりも、ここでは後期ロマン風の音楽がなされている」ことに触れている。それは一面は正しく、一面ではあまり適切ではないかもしれない。実際に響く音楽をみればやはりその鳴り方は異なるのであり、紛れもないその音程が使われているという事でしかない。鳴るか鳴らないかは創作そのものである。

家庭交響曲が、ルツェルンでの批評にもあるように、最後期のリヒャルト・シュトラウスの密な書法とは異なっているのは当然なのだが、その相違こそがそのプログラムの視点であっただろう。要するに少なくとも二百年ほどの西洋音楽の歴史を同じ舞台で披露しようとすれば、それらをしっかりと一つ一つの楽曲毎に一小節毎に一拍毎に丁寧に読み解いていくしか方法はないのである。その中であり得るべきプログラム構成が完成するという事になる。その意味からもリゲティ作曲「ロンターノ」とバルトーク、そしてチャイコフスキーのコントラストは際立っていた。同様にベルリンのようにアンコールのマイスタージンガー序曲に大満足して、「流石オペラ指揮者」と書くような低級な評もあるというのだ。要は、管弦楽演奏会の一夜で、音楽劇場でのそれよりも抽象的な形で、如何に主に音響的に文化的・芸術的なブレーンストリーミングが可能となるかどうかなのである。ベルリンの聴衆は幸いに若い人が多く、定年後の爺婆とは異なって、こうした音楽体験をライフスタイルとして消化していく環境があるに違いない。まさしく、管弦楽演奏会の価値はそこにある。

如何に我々20世紀後半を生きた人間がこうした管弦楽演奏の歴史の中で特殊な時代を生きていたかが良く分かる筈だ、そうしたプログラムであり、書かれるようにベルリンのフィルハーモニカーがどのような方向に進むべきかを確認した音楽会だったのだろう。エンターティメントでしか無くなった管弦楽団演奏会が再び芸術的な意味を取り戻すための重要なステップである。

この度、フィルハーモニカ―のアーカイブを60曲近く流して、再確認するのは現監督のサイモン・ラトルの文化的な貢献であり、指揮者フルトヴェングラー以降の音楽監督として歴史的な成果を残していることである。次期監督キリル・ペトレンコが更にその地平線を超えてくれる期待は充分に高まったに違いない。

舞台裏ではフィルハーモニカ―によってビールが振る舞われたという。次期監督の指揮で演奏したことのない楽員も少なくなく、彼ら彼女らも結果として一票を投じた訳で、この演奏会にどうしても詰め掛けなければいけなかった理由でもあったようだ。そして我々にとっても今回のミュンヘンの座付管弦楽団の欧州ツアーの反響を成果を身を以て感じることになった。(終わり)



参照:
文化の「博物館化」 2004-11-13 | 文化一般
小さな新帝王誕生の可能性 2015-06-23 | 音
by pfaelzerwein | 2016-09-19 21:59 | | Trackback
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