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過去を学ばなければいけない

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年の瀬も近づいてくると今年のベスト何とかというのも見かける。今年は個人的にはオペラ年だった。モルティエー監督時代のザルツブルクでも三演目も価値ある新制作を立て続きに経験することはなかった。「サウス・ポール」、「マイスタージンガー」と「マクベス夫人」とどれも記憶に残るものだった。条件が整えば再訪してみたい前二作だが、最後の一つはどうであろうか?

承前)実演体験後初めて初日の新聞評などを再読する。オペラ評論家女史の文章だがなぜか多くを音楽や管弦楽団や指揮者について費やしている。不思議に感じた。特に興味深かったのは新校訂された楽譜についてであって、それによると過度なドラマ化を避けた初演版を校訂したものとある。アンチテーゼとしてヤンソンス指揮演奏などを思い浮かべたのだろうか?それ故か、「他の指揮者がするように、一寸した手の動きでアクセントをつけてフォーカスさせて、個性を出していた」としながらも、「音楽が内包する真実を、音楽的な今日から過去のそして未来への論理性で、明らかにしていた」とその音楽性を絶賛している。当日のプログラムには楽譜については明記されていない様だが来年にかけての一連の上演で同じ貸し譜が廻るのだろう。

その演出面での良さについては既に触れたのだが、中々後を引く音楽劇場となっていたことは確かであり、あの雲の形にしても雷雲だったのかそれともとかなどと北国特有の高い霧などを思い浮かべると切りがない。それでも新聞は、「あまりにも正確に夢の如く音楽と合わせる登場人物や群衆の動かし方の熟練ぶり」に触れて、そこでも、「ペトレンコ指揮の正確な音楽によって登場人物の矛盾した性格が集合的に表出された」と、結局音楽的な成果を寄与させている。まるで私がいつも女史の論評を批判していることに答えたかのような書きぶりである。

当然のことながら、ここでその内容に触れるならば、プログラムにあるようにゴーリキのいう「学ばなければいけない、国やその過去を、現在を将来を学ばなければいけない」とするように、音楽創造の内容もそこにある。こうして、この作品を体験すると少なくともこの交響作曲家の第一番から四番の交響曲を避けて通れなくなる。特に出世作第一番の才気と第四番の音楽語法を見ていくと、同時にアルバン・ベルクが「ヴォツェック」と原作「ヴォイツェック」の表題を読み違えた原因を作った自然派フランツォーゼと作曲家の接触など、その創作裏事情の興味深いことが分かって来る。

創作に関する作曲家の手記を読むと分かるように、警察官の場面を原作に書き加えており、そうした社会的な風刺とグロテスクなどを上手にバランスを取ろうとした意識がそこからも窺い知れるのである。

その1920年代30年代のソヴィエトの事情はそこに生きていない限り追体験しようと思っても複雑でどうしようもないのだが、それは1960年70年代のドイツ社会民主主義共和国においても同じことである。そして今、そうした人達が連邦共和国大統領、首相、そして最高齢の演出家としてミュンヘンで喝采を浴びているという事情もここ連邦共和国に生きていない限り分かり難いと思う。

その意味からすると、二十世紀は遠くなると思う反面、我々が生きてきた時代がこうして音楽劇場作品としてその真実像を反照することで、益々あの冷戦時期には我々は一体何を考えて何を見た心算になって生きていたのだろうと三省するしかないのである。彼らから見ると我々は、この舞台のように企業家の工場の片隅のバラックの中で、管理され抑圧された生活を送って来たということでしかないのであろう。(続く



参照:
意志に支配される形態 2006-01-05 | 音
初日の放送で何を聞くか 2016-11-28 | 文化一般
by pfaelzerwein | 2016-12-17 00:15 | 文化一般 | Trackback
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