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春の躁がやって来た

春がそこまでやって来ている。春一番である。色々と準備をしなければいけない。先ずはロシア音楽勉強をチヤイコフスキーの悲愴交響曲で一旦終えることになる。まだその復活祭まで四旬節の期間があるが、これもあれよあれよという間に日が経ってしまうだろう。この曲も最後に生で聞いたのはレニングラードフィルハーモニーをムラヴィンスキーが指揮した時だった。今回のお勉強で深く楽曲に迫れるだろうか。少なくとも第五番をキリル・ペトレンコ指揮で体験したので、それを参考にすれば予め第六番も楽譜の読み方が大分わかる筈だ。

バーデンバーデンでの発券状況に不思議に感じた。何と最初の二三ヵ月殆んど出てしまったキリル・ペトレンコ指揮の演奏会よりも出だしが悪かった翌日曜日のサイモン・ラトルの方が殆んど売り切れている。状況からすると他のオファーと組合されて買券されたようで、業者が纏めて購入したのだろう。やはり、多くの大衆にとっては今でもサイモン・ラトルの方が知名度が高いから当然の市場の構造なのかもしれない。やはり、バーデンバーデンは、ミュンヘンともベルリンとも違うのは当然だろう。

そのミュンヘンの歌劇場の2017/18のプログラムの先情報が出ていた。先ずは関心のあるキリル・ペトレンコ指揮の新演出は二つで、その他は「ニーベルンゲンの指輪」再演ということだ。集客力があるので経済的な意味も大きいのだろうが、そこまで再演するとなるとライヴ録音でも残すのかもしれない。クリーゲンブルクの演出はケント・ナガノ音楽監督時の新演出だったが、再演でこれだけ集客力があればとても効率が良い。2018年7月のオペラ祭りに合わせて来るのだろう。カーネーギーホールの為の「ばらの騎士」も三回ほどあるに違いない。

興味津々の二つの新演出は状況からするとヴァークナーはないだろう。リヒャルト・シュトラウスは伝統を立て直して継承するという意味で、まだ一つ二つはあるのかもしれない。過去のミュンヘンでの演奏実績を見ると音楽監督就任以前からロシアオペラもボリス、オネーギン、ピケダーメなどやっている。チャイコフスキーやムソルグスキーを就任中に新制作する可能性も強いがさてどうだろう。「モーゼとアロン」は是非取り上げて欲しいが、その他にも20世紀の古典が存在する。いずれヴェルディなどイタリアものも一つぐらいは加わるのだろうか。古典ではハイドンなどは指揮のテクニックからしても興味深い。

ヴィーンでの「ばらの騎士」のヴィデオ映像を観た。カルロス・クライバー指揮で日本でも公演したものと同じであろう。予想通り、ミュンヘンでのそれよりも価値が低かった。なによりもヴィーンそのままで上演されているのでパロディーの在り方が全く時制的な視座の相違だけになってしまっていて、そこで奏され歌われるヨーデルもヴァルツャーもなんら意味を持たなくなってしまっている。なるほど日本の聴衆がその夢のような響きに陶酔したのも分かるそのもの観光地の歌芝居のような次元になり下がっている。まるでオーヴァ―アマルガウの四年に一度の受難劇と変わらない。そこで思い出すのが日本では録音やヴィデオで得た複製品の情報のそのままを芸術の本質と認識して、その通りの本物を目の辺りにして満足するという芸術需要の特徴がここでも当てはまる。観光情報のそのままを現地で確認してその他の現実への感覚を遮断して満足するというあれであり、芸術における感性とは一切関係が無い。それにしても天才指揮者カルロス・クライバーはどう見ても躁鬱の病に侵されていたとしか思えない映像で、流石に日本公演の後は躁の自身の非芸術的な行いを考えるとより鬱に落ち込んで仕舞ったのがよく分かる記録である。



参照:
苦みの余韻の芸術 2017-02-11 | 音
ペトレンコの「フクシマ禍」 2015-12-21 | 音
by pfaelzerwein | 2017-02-22 19:21 | | Trackback
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