次はシェーンベルク

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今年のバーデン・バーデン訪問は一先ず終わった。復活祭祝祭も復活祭月曜日まで続き、その後も幾つかの祝祭週間がある。祝祭劇場の存続を支えたのは夏季のペテルスブルクの歌劇場とゲルギーエフのプロデュースだったが、その意味合いも変わってきている。それに代わって、ナゼサガンのオペラが入ったり、聖霊降臨祭や秋のフェスティヴァルなどに力を入れているようだ。昨年はヴィーナーフィルハーモニカーもゲヴァントハウスにも出かけたが、今年は幾ら安くても時間が無いので行く予定はない。そのままならば次の曲はペトレンコ指揮のシェーンベルクのヴァイオリン協奏曲である。座席からの写真も撮ってきたので、色々と準備出来ると思う。

ベートーヴェンの交響曲七番は、前々日の「ペトローシュカ」と同じくサイモン・ラトルの特徴が良くも悪くも出ていた。上手く行けば行くほど都合が悪いのだ。勿論その時点で満足する聴衆も少なくなく、実際にスタンディングオヴェーションまで隣と前後で起きたぐらいだ。隣の人も前半のザイテンバルコンの二列目から中央二階正面バルコンの五列目に移ってきた人で、シュトュツガルトから来ていた。あまりクラシックは詳しくないということだったが、アバド指揮のフィルハーモニカーが来ていたとか、大学でのソコロフのリサイタルを聞いたと語っていた。要するにそうした聴衆層には受けるのだろう。しかし、上手く演奏すればするほど感動とは遠くなる。楽聖の音楽からは益々遠くなるのだ。そこが肝心で、勿論私がルツェルンで期待するキリル・ペトレンコ指揮の演奏実践とは程遠い。その差異が分からない人は、シュトュツガルトのカラヤン二世のギリシャ人指揮の演奏にも同じように喝采するに違いない。E-Musikが芸術である限りは厳しい審査眼と上質の趣味が求められる。

サイモン・ラトル指揮の音楽は決して趣味も悪くないが、演奏実践としては必ずしも成功しているとは限らない。特にこうしたリズムの精査や実践が求められる時に完成度が増せば増すほど本質から離れるということで、前々任者のへルベルト・フォン・カラヤンの芸術と全く同じだ。だからなにもラトル指揮の問題は経験不足によるオペラ上演だけではなくて同じようにコンサートでもその限界を示すことになる。それは私自身が初めてこの組み合わせをフィルハーモニーで聞いたショスタコーヴィッチの交響曲八番でも全く同じだった。この欠点を初期に指摘していたのは柴田南雄だったと思う。当時は具体性に関してはよく理解出来なかったが、今はハッキリと分るようになった。敢えて抽象的に表現すると「如何に音楽を作るか」の本質に纏わる音楽性の問題で、これは柴田氏も指摘していたように「(生涯)変わる訳ではない」と、当時はファン心理として信じたくないことだった。

今でもバーミンガムでの指揮の方を評価する人も居て、なぜベルリンでそこまで評価されなかったかという問題と、実は本質的な問題であって、今回その結論を自分なりに下せたと思う。要するに指揮者と管弦楽団との相性ではなく、プログラミングの問題やらで同じ曲をロンドンの交響楽団で演奏しても結果は同じである。完成度が低いだけだろう。それだけにプログラムを選ぶ必要もあり、上のような演奏で喝采する人はロンドンでも同じよう喝采するだろう。

個人的には、そのことを見極められたことと、現時点でベルリンのフィルハーモニカーがどのようなサウンドを響かせるかを確認したことで大満足だった。まだまだフィルハーモニカーはやることがあるのも事実であり、ラトル体制ではいつも管楽器の名手たちが指揮者から祝福されるようにある意味自由度が高い反面、その指揮が歌い込みを許さない融通の利かないテムポを刻み続ける。その中で弦楽器も十分なイントネーションを付け乍ら合わせる力がついていないようだ。明らかに合衆国のトップとの差があり、個性のある古の楽団のような癖もない。だから音楽的に益々薄くなって行く。

そのような訳でサクラも入っていたようだが、バーンスタインの交響曲「不安の時代」は思いがけないほど湧いた。理由は、過不足無い表現がそこにあり、何も作曲家自身の指揮のそれを必ずしも皆が求めないからであり、このような曲であるならばどこの一流交響楽団を振っても同じような質で聞かせるだろう。アンコールに応えて、ジメルマンがマイクを握って作曲家のことを語りハッピーバースデーを弾いた。このピアニストも日本在住かと思ったら思いがけなく流ちょうなドイツ語をしゃべって驚いた。きっとドイツに住んでいた時期が長いのだろう。

日曜日の生放送のヴィデオが綺麗に落とせた。MP4で2.56G、1280x720で音声はAACで155しか出ていないので、映像は悪くはないが、音声はラディオでの録音放送を待たなければいけない。バーデンバーデンへの車中のラディオで、フィルハーモニカーの第二ヴァイオリンの人が毎年同じところに民宿している話しが紹介されていた。アマデウス・ホイトリングというカラヤン時代からのヴェテランである。宛がわれるホテルには全く不満が無いが、大家さんとの繋がりや、家族を呼び寄せての黒い森の散策などの静かさでの居心地を語っていた。劇場から五分ぐらいのところらしいが坂を上がったりで健康に良くて、ザルツブルクに比べるとそれほど商業的ではない風土にも言及していた。

今回の「パルシファル」でそのバイロイトの祝祭劇場と比較される祝祭劇場の音響が語られ、そして今回久しぶりに座った天井桟敷の音響を確認して、以前から思っているよりも遥かにこの祝祭劇場の音響は優れていると感じた。私の二階ザイテンバルコンのお決まりの席も決して悪くは無く、来年のために予約した一階のバルコン席も視覚音響共に可成り良い筈だ。空調の雑音は年々増えてきたが、会場の音響はなぜか良くなった感じがする。理由は分からない。

要するに、ドイツ最大のオペラ劇場であり、音響もコンサートよりもオペラに合わせて作られた近代的な大規模劇場であることを考えれば、ここがあと二年後から音楽劇場のメッカになっても決して不思議ではないと考えるようになった。同時にベルリンのフィルハーモニカーとの繋がりが、街ぐるみや地域ぐるみで更に進化していけば、その芸術的な出来上がりにも大きく影響してくると思う。もしかするといずれヴァークナー博士が何かをここで行うこともあるかもしれない。



参照:
そろそろ詰めよう 2018-03-27 | 雑感
現状認識と今後の展開 2018-03-26 | マスメディア批評
舞台神聖劇の恍惚 2018-03-25 | 音

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by pfaelzerwein | 2018-03-28 23:09 | 文化一般 | Trackback
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