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プロテスタント的批判

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エルプフィルハーモニーからの生中継がならなくて残念だった。準備万端整えていたのだが、技術的障害とは想定外だった。そのために一時間の時差を置いてあった筈だ。ラディオ番組の放送時刻もあったのかもしれないが、一時間あればどのような方法でも可能だった筈だ。今時音声データーの精々3GBほどの転送に技術的問題など考えてもいなかった。録音側はNDRが受け持っていたのだろうから、そこに問題があったとは思えない。やはりストリーミングするサーヴァー間の問題なのか。ARD内ならばいつでも使えるサーヴァーがある筈だが、外部なのでそれは使えないからだろう。

録音するだけならば後日の追加放送で構わないが ― NDRの放送日は7月29日である、次の予定のヴィーンも6月1日で同じプログラムだけなので、先ずはエルプフィルハーモニーでの初めてのフィラデルフィアサウンドを聞いてみたかった。こんなことならばもう一つのグレモーのピアノのプログラムの方を流して欲しかった。

一方ミュンヘンではキリル・ペトレンコ指揮でマーラーの交響曲七番が演奏されていた。この二日目を終えてロンドンデビューである。南ドイツ新聞は、プラハ初演でのプローベを語る弟子の指揮者オットー・クレムペラー伝を引用して、シェーンベルクがマーラーに「あなたは私にとってある種クラシッカーだと思っていましたが、どうでしょう、お手本ですよ。」と首を垂れた事に言及している。これを読めば今回の演奏がどのようなものであるかが良く分かる。

先日亡くなった作曲家ディーター・シュネーベルの訃報記事に目を通した。ベルリンを代表する作曲家とはなっていないから、まだ誰が居るのだろうと思ったら、なるほどまだ生きている老人をそこに数える訳にはいかないのだろう。ベルリンにだけでなく、ミュンヘンはおろかプファルツにもと書いてあって、一体どこで誰に教えていたのかなと思った。マインツか?オルテナウのラー出身だとも知らなかったが、プロテスタンティズムの懐疑が心情と書かれている。そもそものその神学における、そしてピューリタン的な偶像廃止への懐疑が、当初はアドルノの影響を受けて「シェーンベルク」で学位を取ったもののダルムシュタットでのセリアルとは距離を置かせるとなる。

キーワードとしてブレンドヴェルクと、建築のファサードの装飾を挙げて、そのオーラを放出する表面とその創作を指す。そこから同時にポストモダーンの形へと流れ込まないのは当然であり、ヴァルター・ベンヤミンの言葉を使って、「目標は、将来へと再び否定されるところのものとなる」とあくまでもプロテスタント的な批判がなされる。ここでその音楽に深入りする前に ― もし夏休みの時間が取れたなら楽譜が手元にあるので、改めて楽曲アナリーゼをしてみたいとは思うが、その演奏の録音を今流して、その成果を再確認している ―、ここでもう一つのキーワードである学究的若しくは逐語的への批判を一考する。

ミュンヘンでマーラーの交響曲七番演奏へのとてもよい批評から、恐らくマーラー解釈のスタンダードになって行くだろうとされる丁寧な動機の扱いの積み重ねだと思われる。その基本にはキリル・ペトレンコの楽譜そして第一次資料への拘りがあり、否定される余地がないものなのだが、この辺りでそうした姿勢にも批判的な視点をも確保していきたいと思っている。述べている通り、もはや歴史的評価の定まったペトレンコの芸術を称賛していても始まらない、面白くもないからだ。可能ならば批判が止揚されるような批判こそを願いたい。その端緒として、その「逐語的な楽譜解釈における批判精神の欠如」が挙げられるのではなかろうか。演奏実践の解像度を上げていくことでしか到達可能でない領域に入ってから、そして初めてその批判領域に入っていくのだろう。

ラトル指揮の最後のツアーへのコンサートの様子が報じられていて、ブルックナーのフーガではラトルが執拗に弦を煽るのに対して、管が付いていけなかったりと通常ではありえないぐらいに最後の数メートルへのひと押し状況になっているらしい。昨年の春の祭典での力のぶつかり合いが引き合いに出されているが、復活祭でのルーティンなマーラー交響曲などを見ると、想定外の力の入り方のようだ。そこで16年前の最初の頃には、「古楽奏法を教えてやった」と語り、管弦楽団を「ビックフット」と笑っていたのだが、ここに来てまるで指揮者が偉大か管弦楽かを示すかのような競演になっていて、若者のための普及などの貢献を通して、彼自身が最後には管弦楽に合わせて「ビッグフッド」になっていると書いている。そしていづれにしても管弦楽は新たなものを求めていて、キリル・ペトレンコ指名への決断こそが、「学究的」な管弦楽育成であるとしている。まさしくその「学究的な」ことこそが ― 「サーカスの猛獣使い」とこれが同義語になるのが「日本の学界」のようだが ―、今後の展開で建設的な批判の焦点になるのだろう。そこで話しの発端へと戻ると、その二つ目のキーワードこそが、「プロテスタント的な言語的定着」であり、その中で一つ一つ正確に熟していくというシュネーベルの仕事ぶりが述べられている。まさしく、余談ながら日本の学問において、たとえそこに漢字的な定着があったにせよ、Akribischと逐語的が結びつかないところであろう。

奇しくもベルリンのフィルハーモニカーの管楽陣と弦楽陣間のアンサムブルの傷に言及しているが、次期体制へと変化していくところが示唆されていて興味深い。フィラデルフィアサウンドなどを照査すると、そうした管弦楽団の原点のアンサムブルの形態や様式などにどうしても関心が向かうのであり、なにもそれは合うとか合わないの問題では全く無しに演奏様式を超えて、レパートリーや管弦楽団の存在意義についての考察となる。



参照:
尊重したい双方向情報 2018-05-29 | 文化一般
「ヤルヴィは一つの現象」 2018-05-13 | 文化一般
運命の影に輝くブリキの兵隊 2017-04-11 | 文化一般


by pfaelzerwein | 2018-05-30 23:03 | 文化一般 | Trackback
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