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鋭い視線を浴びせる

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先ず断っておかないといけない。今回のプッチーニ「三部作」公演は初日シリーズとは違って木管などはエキストラが殆どで、それも昔この楽団で吹いていた奏者ばかりだった。例えばオーボエは辞めたらしい山賊兄さんで如何にも座付きらしいあまり繊細でない分厚そうなリードを吹き、クラリネットには「ティートスの寛容」でバセットホルンを吹いていた人が入っていた。要するにフェスティヴァルの陣容である。そして女性陣の弦ではなくお兄さんのコンサートマスターとアルメニア人など、あの女性だけの陣容を惜しんだ。それでも中々弾いていて感心した。

キリル・ペトレンコは、その晩も一幕の前にひっそりとピットに入って、ヴィオラと話しをしながら、右手首を振っていた。首だけでなくて手首も疲れる仕事なのだなと改めて思った。いつものように譜面台の楽譜の横にハンカチを縦に二つ折りにして置いてハンカチ王子の準備をしていた ― その後の写真を見ると山賊お兄さんの視線に睨まれていた。指揮者の背後のサイドにあるミニキューブみたいなのはヴェンチレーターのようで結構パウゼに強さを調整していた。

先ずは、一部「外套」で一番問題だったジョルジェッタを歌うヴェストブロックだが大分考慮して来ていた。ピアノで歌えないので、ジークフリートのヴィーンケのようにもう一度ボイストレーニングから遣り直す必要があるが、少なくともバカ声は大分無くなっていた。これならばヤルヴィと共演してももう少し上手く行ったはずだ。なによりもリズム的なパッセージもしっくりして来て、如何にもオランダ女らしいフガフガの口元を大分締めて歌っていた。すると母音も明確に出て来て、小さな声でも深くからの母音と一緒に音が伸びて来る。既にトレーニングを受けているのかもしれない。その証拠にヤホに負けないほど強くペトレンコを強く抱きかかえていたのにその気持ちが良く表れていたと思う。だから余計に今度はリーのバカ声を必死で押さえる指揮者の指示がしきりに出されるのだが、この韓国人には三つのフォルテと二つのピアノの間には何もないらしい。芸術的に程度が低い。どうでもよいが最後に挨拶で両手を頭の上で掲げるのはあれは韓国の儒教のそれなのだろうか、そうしたところにも如何にも朝鮮人の執念深い拘りを感じる。

そのような訳で、コッホとのデュオは見違えるように素晴らしく、押さえた声で高度な音楽的表現に至っていた。脇役で評判の良かったマーンケへの指示の細やかさも、管弦楽の鳴らし方で強調されたリズム打ちが無くなって、そのリズムの行間が更にドラマを語るようになって来ていた。しかし何といってもコッホの最高音でのベルカントの響きは、その管弦楽の筆致に揃って ― 最高音域でのその様々な工夫はプッチーニのベルカントへの一つの回答だと思う ―、まさしくベルカントの、オペラ芸術の頂点がここにあることを示す箇所だった。

二部「修道女アンジェリカ」のヤホのアンジェリカでの歌唱は期待通りで、残念ながら殆ど舞台を見ていなかった分余計にその声の音程など楽譜が手に取るように分かった。またペトレンコの指揮は大分更に進化していたと感じた。テムピがより遅く感じたが、実際にはホリが深くなったからだと思う。若しくは音符の一つ一つがより正確に精妙に演奏されて歌われることで印象は大分変わった。

私が経験した初演シリーズ二日目のようにヤホの声が出ていなかった時とは違って、無理して間奏を強奏することも無く、必要な点描的なサポートをしていた ー 座付き楽団の見事さよ。だからこれ見よがしのppp弱音とかの強調が無かったのは一部ともよく似ている。私などはこういう技術的な聴き方をしていたのでヤホの芸がどこまで泣かせたのかは分らなかったが、最後に錚々たるメンツの中で一人だけ圧倒的な大向こうの支持を受けていたのに効果が証明されていた。中継映像にもあったようにその時「本当?」という表情をしていたが、今度はその真意が良く分かった。

それは指揮から目を離さずに声の出方を聞いていたからだ。その要求が高いのは歌手陣が真剣に指揮を見ているのでも分かっていたが、あそこまで振り別けているとは思わなかった。だからレパートリーを十八番とするような歌手とのリハーサルが辛酸を極めるのは、卒倒してしまったらしいマルリス・ペーターセンの話でも分かっていたが、ヤホの歌がもはや初日の新派からギリシャ悲劇へと変わるかのような、音楽的に磨きに磨かれたものになっていたことと、それと同時に観客がより以上に喝采を浴びせることで、本人には分らないぐらいの完成度を確認したからだと思う。それもキリル・ペトレンコとの共演があってこそで、指揮者パパーノとのそれで満足していたならば全くこの境地には至らなかったと今度は気が付いたと思う。序ながら、初日シリーズで圧倒的な歌声で最も喝采受けたシュスターは調子が今一つだったのかそれとも芸術的配慮から押さえられていたのかそれほどまでには目立たなかった。そのせいかヤホの祝福への視線が役の悪おばさんのように鋭かった。

三部「ジャンニ・スキッキ」でもヴィオラが重要な働きをするところが出て来る。始まる前にヴィオラのトップと指揮者がなにやら話をしていたが、熱心なのは奏者の方で課題を持っているように見えた。実際に一部での箇所もヴィオラがもう少しアンサムブルで中核に入ると、こうした書法の場合は繋がりが良くなり、ゲヴァントハウスのような若しくはシュターツカペレのように音色が磨かれるのだろう。確かにここでハッキリするのはスキッキが出て来る前から、ヴァイオリンが高音部へと移るのにつれて中声部が支えるところが出て来る。特に若い二人の最初のデュオなどは典型的で、例えば放映された日の演奏と比較すると顕著だ ― 当日はリヌッチョの代役が袖から歌う事となって難しい状況だったのだが、またそれとは異なるだろう。今回はそこが見事に決まって、最後のデュオへと繋がった。放映の日は気の毒にお相手のロレッタを歌ったローザ・フィオーラが割を食ったが、やはりこの歌手は天下を取る人だとこの日も感じた。高音での管弦楽との輝かしいDesへの階段はここだけで称賛に価した。勿論のこと主役のマエストーリの声の至芸は指揮者も握りこぶしを回して楽しむかのように「やってくれ」の指示が出ていた。最後の大団円での風格も素晴らしく欠かせない大役だった。

しかし今回の公演は、初日シリーズ二回目で彼が胴を取ったのとは違って、本当のベルカント、声の芸術まるでギリシャ彫刻のようにそれが彫塑されることで、歌っている肉体からその歌声が飛翔して、その通りそうした声の存在こそが天恵であるのだが、まさしく天使の歌声とされるような託宣であることを実感させる芸術の極致の表現であった。それに比べれば如何にヴァークナーの世界がつまらなく ― 無神論者なら当然なのかもしれないが -、まさにそこでのベルカントの必要性を更に裏打ちすることとなっていた。そしてこれ以上のプッチーニ上演には当分出合わないことも確かだ。
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参照:
写真を撮り撮られする 2018-07-15 | 文化一般



by pfaelzerwein | 2018-07-16 06:53 | | Trackback
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