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ヘーゲル的対立と止揚

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そろそろ月末のことと年末のことを考える。月末のミュンヘンはオクトバーフェストの影響で泊まりが大変だが、もう一ついい宿を見つけた。価格は割引されても一泊76ユーロを超えていて安くは無い。そして市内から40㎞ほど離れているために40分ほどは時間をみとかなければいけない。それでももう一つの候補のアウグスブルクよりは片道20㎞ほど短いので往復の燃料費だけで宿代の差額26ユーロは簡単に賄える。更にキッチンがついているので、ミュンヘンで夕食を購入して来てもいい。折角だからビールも飲みたいとか、ダルマイールでディナーとかも考えないではないが、オクトーバーフェストのごった返した時は出来るだけ遠ざかる方が安全かもしれない。キャンセル無料の時期はまだまだあるが、これもそろそろ決めて行く。

日曜日は15時から記念公演「マイスタージンガー」で、前日土曜日は特別劇場公開に申し込んでいる。二時間ほどの案内であるが、特別な歴史的なところを見せてくれるらしい。土曜日に早くから出かけるか、日曜日の午前中をどうするかはまだ決めかねている。いづれにしても日曜日は20時30分頃には引けるので、帰宅しても午前様とはならない。これはとても安全だ。

年末は、11月の都合がつかないので漸く「オテロ」に申し込んだ。三回のチャンスしかないから当たるかどうかは分からない。但し今回はヨナス・カウフマンの為か高価だ。あまり高価になるとオパルンフェストと変わらなくなるが、先ずは新制作を体験するのが目的だから舞台が観れて普通に聴ければよいのだ。新制作で立ち見は構わないが、全く舞台が観れないのは困る。「オテロ」に二回出向くことは無いと思うので余計に適当な席が欲しい。

先日のインタヴューであったように、キリル・ペトレンコは演出によって音楽を合わせていると明言している。これは一部の玄人筋で而もそれほど劇場に通っていない向きにも驚きを以って聞かれたと思う。なぜならば彼のメトロノームなどの原典尊重を知っているからだが、最早将来のペトレンコ芸術論の項目になると思うのだが、彼のマーキングを解析してその実演を凝視している者には分かる。そこにマーキングされている赤と黄色の意味は、やはり音楽的に厳守しなければいけないところと、舞台進行によって合わせれる部分があるという事で、そもそも経験豊かな作曲家ならばそうした経過句を上手く使っているはずだ。インタヴューでは、全体の印象からその劇構成の重要点、また詩の韻などの置き方への留意で、変わるという事だ。実際に、ペトレンコの古典などの演奏を聞くと、そうした柔軟性があることもその楽譜と時代考証などから傍証されているようだ。一番典型的な例はベートーヴェンに措けるソナタ主題間のヘーゲル的な対立と止揚の扱いとなる。勿論、そこに重点を置いたフルトヴェングラーにおける強調と解析とまではならない。全く以って本人の主要レパートリーではないからだ。

サイモン・ラトルがなぜベルリンを辞める必要があったのか、アクセスが相次いだので、もう一度アップデートした形で纏めておこう。その一つは指揮者としての職人的な技量にあった。これは団員がインタヴューで述べたように、「指揮者の欠点」であった。同時にもう一つフィルハーモニカーの土壌ではラトルがやりたいような企画にも限界があり、それ以上にそれに合わせた楽団改革などは不可能だった。これは同じ団員が示唆した楽団の欠陥だったろう。その点に限ってはペトレンコ体制でも変わらないが、本来の伝統であるドイツ的なサウンドを構築することでの改革が可能になった。要するに作曲家アーノルト・シェーンベルクが指したような「ドイツ音楽の優位性」がべルリナーフィルハーモニカーで再獲得される可能性が出てきた。これが今回の一連のツアーで示された。それに類する言及がツアーでの各地からの上質の批評だった。

余談だが、日本のネットを見ているとフォンカラヤンがドイツ音楽の継承者のようなことが書いてあって、椅子から転げ落ちそうになる。一体日本のドヤツがそのようなデマを流したのかは知らないが、恐らくティーレマンの販促にカラヤンを継いでドイツ正統派などと囃したのだろう。先年亡くなったドイツ最高の音楽評論家とされたヨアヒム・カイザーの1994年12月10日の南ドイツ新聞から引用しよう。先週我が家の斜向かいで演奏会を開いたユステュス・フランツと並べて、カラヤン、べルリナーフィルハーモニカーをエンターテイメントを超える妄想者として扱っている。自己実現から遂に、さもなくば特別に専門的なジャルゴンに寄り添うことも出来なければなにも分かりもしない人々に作品や思想を仲介して人生の質を向上させる人間性に溢れ、事に即した仲介者の良きエンターテイェントから、赤道のように見えない境を超えてしまって、軽薄なドサ周りの成功を繰り広げる連中としている。

なるほど南ドイツ新聞は、彼が昔いたエリート層向けのフランクフルターとは違って高学歴化のキャリアーを上がる読者層とする左翼新聞ではあるが、連邦共和国の大日刊紙には違いない。だからザルツブルクへ集う人のある部分は必ずこの新聞の読者である。これが今でも通用するドイツの最重要な視点であるが、カイザーの友人と称する故吉田秀和はこれに相当することなど一言も提携紙朝日新聞に書いていない。それはなぜか、全ては銭の為だからだったのだろう。

そしてカイザー教授は読者に向けて書く。「人気のあるよきエンターティナーと止まりの無いポピュリストたるセクト野郎をどのように見分けるのか?もしネットで簡単に分かるようだったら、評論家とか、専門家とか、編集者とか、美学教授とか、識者なんて要らんよ」。

ジャーナリズムさえ未熟な日本に向けて、こんなことを言っても仕方が無いのかもしれない。



参照:
ホールの長短を聞き取る 2018-09-10 | マスメディア批評
初心に帰る爽快さ 2018-09-09 | 文化一般


by pfaelzerwein | 2018-09-10 22:56 | 文化一般 | Trackback
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