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解klassisch gegen rechts

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土曜日のカウンターコンサートが生中継されることになった。それも地元のMDRでなくSWRからである。そして見出しにはクラシック対ライトとなっている。この意味は説明の必要がある。恐らくこれについて言及することは、今回の一連の事象を日本語で書いたものの中では一番本質に結びついたものになると確信している。それはこの恐らくバーデンバーデンの支局が作成した企画がそこに迫っているからだ。

先ず、我々、自身右翼と思うような人は「見出しに戸惑う」。どうして対象とされるのが極右でなくて右翼なのか。クラシック音楽が反右翼であるのか。これはケムニッツからバッハの活躍したケーテンへとその動きが広がったことで言うのではない。勿論こうして話題に挙げられる。しかし、それは本質ではなく、一連の連邦共和国での現象つまり野党第一党AfDによって裏打ちされている西部劇紛いの状況を説明する重要な視点を示唆したとても高水準なジャーナリスティックなタイトルである。

現実にコンサートを中継することになったのは近々のことでありジャーナリズム的な判断がそこに存在する。地元のMDRが恐らく放送車を出しながら中継できない意味を強調することにもなる。そしてこのタイトルで、連邦共和国で否ドイツ語放送で最もリベラルな文化放送波が「左翼のスタッフに牛耳られていて、右というだけで敵にされるのか」と思うリスナーは殆ど居ないとする信頼関係がそこに存在する。要するにハイブローな教養豊かなリスナーを想定している。

先ず言葉通りに、形容詞でクラシックとなるとまさに啓蒙思想から導かれる我々の教養やその価値観でしかない。それが右に対するのだ。つまり、それは従来の左右のイデオロギー対決ではないことを示している。それならばとその対象を一顧する。そこで見えてくるのは、例えば元民主党だったトラムプ大統領であったり、その支持層、そしてAfDとその主張や支持層である。高学歴化の中で基礎教養が無く、こうしたタイトルの意味するところを捉える知的能力も無い大衆である。それらを総称した所謂ポピュリズムがここで謂わんとする右となることをこの見出しは契機する。要するに保守とか、嘗ての社会主義に対する右ではないのだ。

何を隠そう、何回か述べているが私自身もPEGIDAに付和雷同して参加しようかと思ったぐらいだが、その扇動者が指揮者のティーレマンとか以前から思想的に問題のある人物であったり、直ぐにカウンター行動が報じられるにあたって、留まるに至った。要するに当然の事を何ら縛られることも無く本音を声を出して主張するというポピュリズムに陥るのは容易いという自省の念がある。

これで、その実態を明白にしたと同時に、土曜日に宗教者でもあるブロムシュテットの発言を待ちたいと思う。恐らくそれ以前に色々とノイズが飛んでくると思っているので、そこにも注目したい。このイヴェントはなるほど限られた芸術音楽畠の催し物でしかないかもしれない。しかし、「クラシック」という、PEGIDAこそが主張しているかに見える「キリスト教的な近代主義」のその根幹を問う催し物であり、注目するに値する。そして膨大な紙面数を費やしてエリート向け新聞フランクフルターアルゲマイネがAfDの危険性を教養のある人たちに問うてきたことが、このイヴェントでそれ以上に力強く訴えかける力があるかもしれない。ステーツメントにあったように、音楽の情感的な力をもう一度信じてみようではないか。ブロムシュテット爺のプログラミングの意を解く糸口が見えて来ないか?



参照:
「軍隊は殺人者」の罪 2018-09-12 | 歴史・時事
平和、寛容への合同演奏 2018-09-11 | 歴史・時事


by pfaelzerwein | 2018-09-13 23:16 | マスメディア批評 | Trackback
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