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論理逸脱にドラマあり

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ひょんなことで急に楽劇「マイスタージンガー」を聞くことになった。九月の記念公演で堪能したのだが、最終稿とはならなかった。ハンスザックスの急遽の交代もフォークトの体調も両方とも制限があったからだ。それでも自分の書いたものを読み返すと思い出すことも多い。だから本当はほかの演奏を聴くのは厄介なので、三幕だけを訪れる。出来れば楽譜を復習しておきたい。理由は正しく批判するためである。どうも中途半端に悪くはなさそうなので気になるからだ。

しかし、こうして思い出していくと2016年からペトレンコの指揮は厳しいものなのだが、そこまで管弦楽団も徹底出来ていなくて、歌手もそれに乗っているので、九月のもしくは最後の「指輪」公演のような厳しさが前面に出るものではなかった。どうしてもやり足りないとメローな方向へと傾き、音楽劇としてもう一つ上の芸術的な価値を引き出せないところがあるものだ。特に放映されたものは歌手の見た目さえ隠しておくとヴァルターの声も美声であり、余計に甘い方へと突き進んでいる。

三幕二場のベックメッサーが登場する三場へ入る前の経過部分においても今はとても厳しい音楽になっていたと記憶する。要するに「愛されてから憎まれて」への転換がある箇所で実際に長い経過となっていて、見事な筆捌きだと思うが、この辺りだけでもしっかりと示してくれる演奏の素晴らしいことに言葉がない。

三場における加速減速する常動風の動機もまさしくコムパクトに演奏されることで初めて独襖系の音楽の響きの核となるところである。要するに叙唱のそれから歌へと変容、ああいうところをしっかり振れない指揮者は、ベルカントで歌えないイタリアオペラを振る指揮者と同じである。それによってはじめて息の長い歌も歌えるのだ。

それにしても四場へと五重唱への流れの書き込みの素晴らしいこと、こうした楽譜を前にしてやっつけ仕事でやってしまう指揮者などがいるのだろうか?暗譜などと見せびらかしている者は芸術を冒涜しているのではないかとさえ思う。情報量の問題でもあり、ベートーヴェンのような論理性ではなく、豊富な限りないニュアンスが書き込まれている限りは、そのようなものが全て音化つまり暗譜されていると思うのは横暴でしかない。つまり音符の数が多いことがその情報量とは必ずしもならないということになる。まさに論理から逸脱するところにしかドラマは生じないとなるか。何かこのようなことをしていると来年のフェスティヴァル公演にも手が出そうになる。

そろそろ今週末辺りから「オテロ」のお勉強の始まりだ。前回聞いたのはドミンゴが歌いカルロス・クライバーが振るというものだったから、そろそろ時効である。カウフマンがドミンゴにとって代わる筈はないが、あれだけの楽譜からそれ以上にものを引き出してくれるペトレンコ指揮の下で期待出来るだろうか。



参照:


by pfaelzerwein | 2018-11-10 23:44 | | Trackback
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